とっぷりと日が沈んだ夜の寝室。天蓋に囲まれた大きな寝台の上で、銀髪の男が横たわっている。月明かりに清められた心地よい空気の中、静まりかえったこの部屋に、ひたりひたりと近づく三つの足音。

「皇帝陛下、(いち)のお妃さまが参られました」

 扉の向こうからの呼びかけに、男が顔を上げ重い身体を引きずるように起きあがると、扉が開き女官ふたりを従えた細身の女が入室した。
 途端に、ムッとする不快な空気が流れ込む。
 女が纏う甘ったるい花のような香りに、男は眉間に皺を寄せた。
 女官が下がると一の妃と呼ばれた女は、冷たい床に跪く。薄い夜着を身につけて艶やかな黒い髪を背中に流し、ほんのりと薄化粧を施している。口元にうっすらと浮かぶ笑みは慎み深く控えめで、この国で理想とされる女人そのものである。
 しかし、男の心は動かなかった。

「……下がりなさい」

 それだけ告げて、顔を背ける。
 女が美しい顔をわずかに歪めて、か細い声を出した。

「皇帝陛下、お情けを……」

 控えめで切実な響きを帯びた彼女の呼びかけに、男は憐憫の念を抱く。だが、決断は変わらない。

「私に夜伽は必要ない」

「……陛下。体調が思わしくないのではございませんか? 翡翠の手の使い手として、診察をさせてくださいませ」

 女は男を気遣うが、男は首を縦には振らなかった。

「今宵は必要ない。……下がりなさい」

 国の最高権力者からの命令に、女は唇を噛むが素直に従った。
 蓮模様の豪華な木彫りの扉が静かに閉まると、澱んだ空気が少しましになる。
 男はホッと息を吐いた。
 毎夜、入れ替わり訪れる妃たちに罪はないが、心底煩わしい時間だった。どのように美しい娘が来ようとも、心は微塵も動かされない。男が彼女たちに触れることはない。
 女が纏う不快な空気に当てられて、こめかみがズキズキと痛み男が顔を歪めた時、また外から声がかかる。

「陛下、夜分遅く失礼いたします。よろしいですかな」

「ああ」

 応えると、入室したのは宰相の黄福(オウフー)(ルー)だった。

「皇帝陛下……劉弦(りゅうげん)さま、我が娘に不足がございますかな。お気に召さないところがございましたら改めさせます」

 丁寧な言葉の中に、責めるような響きが滲む。稀代の美人と名高い自らの娘、しかも翡翠の手の使い手であり、一の妃である彼女を下がらせた劉弦への不満を隠そうともしていない。

華夢(ファマァン)妃には不足ない。今の私に妃は必要ないというだけだ」

 うんざりとして劉弦は言う。もう何度も繰り返した言葉だった。
 黄福律が平伏した。

「皇帝陛下、これも国の繁栄のためにございます。人間の女子(おなご)では、龍神さまであられます陛下のお相手として不足があるのは重々承知しております。しかし皆、部族長の娘にござりますれば、決まりごとの上では陛下の妃となる資格のある娘たちにございます。……どうかお情けを」

「決まりごとか……にしては妃がひとり足りないではないか? 決まりごとでは、人は私に百人の妃を差し出すことになっている。昨夜ここへ来た女は九十九の妃だったというのに、今宵は一の妃がここへ来た。百の妃はいかがした?」

 劉弦の指摘に、黄福律は一瞬苦々しい表情になる。が、すぐに口を開いた。

「仰る通りにございますが、百の妃は忌まわしき緑族(りょくぞく)の娘にございます。陛下の後宮に入れるには差し障りが……」

「私は百の妃を所望する」

 劉弦が彼の言葉を遮ると、黄福律がギリッと奥歯を噛み締めた。

「探し出して連れてこい」

「……御意にございます。ですが、それまでは後宮の慣例通り一の妃からひとりずつ毎夜この部屋へ来させます。むろん、陛下がお気に召された娘がいれば寝所へ呼ぶこともできますゆえ、いつでもお申し付けくださいませ」

「無駄なことだ。この百日の間に気に入った娘はいなかった」

 ため息をつきにべもなく言うと、黄福律は気色ばんだ。

「なれど陛下……! お世継ぎの誕生は国の安定に必要不可欠にございます。龍神さまであられます陛下の血を引くお世継ぎでなくては、この水凱国を治めることはできませぬゆえ……。できることなれば『宿命の妃』との間に、お世継ぎが誕生することを、国中の民が望んでおります」

 そう言って黄福律は、ちらりと扉に視線を送る。
 先程、劉弦が下がらせた彼の娘、華夢がまだ扉の外に控えているのだろう。彼女は劉弦の一の妃であり、龍神を癒すことができる翡翠の手の使い手で、劉弦の宿命の妃と言われている。宿命の妃との間に世継ぎができれば、その子は国に繁栄をもたらす。
 その言い伝えが真かどうかはともかくとして、目の前の男の望みが民の幸福でないことは確かだった。彼はただ、自分の娘を皇后に立て、自らの地位を盤石にすることのみを望んでいる。本当は後宮の慣例などは無視して毎夜彼女をここへ侍らせたいくらいだろう。
 狡猾な視線で自分を見る黄福律から目を逸らし一喝する。

「もうよい、下がれ」

 彼は一瞬顔を歪めたものの素直に下がっていった。
 深い息を吐いて劉弦は目頭を押さえる。
 目を閉じると浮かぶのは自らが治める水凱国の広大な国土だ。だが、霞んでよく見えなかった。ここのところこのようなことが続いている。かつては国の守護神龍神として、国土の隅々まで目を配っていられたが、今は甚大な被害をもたらしそうな水害や間伐をどうにか回避するのがせいぜいだ。
 劉弦がため息をついて目を開くと赤い目をした細身の男が姿を現した。側近であり龍神に仕える白蛇のあやかし白菊(しらぎく)だ。

「劉弦さま」

「なんだ?」

「あのたぬき親父に百の妃を探す気などありませんよ。自分の娘を皇后にすることしか頭にないのですから」

 この宮廷内で、唯一信頼しているしもべからの進言に、劉弦は無言で頷いた。

「そして百の妃に会わねば、あなたさまは天界へは戻れません。これが水凱国三千年の歴史の中の天界と地上決まりごと。初代皇帝陛下が地上に降りられたのは、水害に苦しむ人間たちを助けたいと願う部族長たちの純粋な思いに応えたかったからでございましょう。百人の妃につられたわけではないでしょうが、今はその約定があなたさまを縛りつける」

 白菊の言葉に劉弦は暗澹たる思いになる。

「純粋な思いか……。もはや人はその心を失った。今の部族長たちは自らの富を蓄えることしか興味がない」

 国ができて三千年あまり。皇帝は劉弦で四代目である。
 はじめは嵐が止んだことに感謝して、助け合い国を発展させてきた人間たちは、富を得て次第に欲深く狡猾になっていった。持つ者と持たざる者との差は広がった。それとともに、劉弦の国土を見渡す目は濁り、頭の痛みはひどくなった。人の放つ汚い心と欲深さが劉弦を弱らせる。

「劉弦さま、このまま地上にて人とともに過ごしては、あなたさまは、いずれ邪神になられてしまいます。翡翠の手を持つ華夢妃の治療も効かないのですから」

 もとより、神は地上にいるべきではないのだ。
 翡翠の手を持つ妃が龍神を守ると約束した部族長の娘は、その言葉の通り初代皇帝を癒した。宿命の妃と呼ばれ皇帝に愛されたその妃の末裔が黄一族であり、黄華夢は翡翠の手の持ち主であると、黄福律は言うが……。

「翡翠の手か……もはや人はその力もなくしてしまったのだろう。宿命の妃など存在せぬ」

 劉弦は呟いた。
 あるいははじめからそのようなものはなかったか。

 ……いずれにせよ、もうあまり時間がない。

 雲を動かす力を持つ龍神が邪神に成り果てる……その先にどのような悲劇が待っているかは誰にもわからないことだった。
 そうなる前に一刻も早く劉弦は天界へ戻らねばならない。
 だが、百の妃に会えなくてそれができないでいる。
 自分の娘を差し出すと申し出た百人の部族長と初代皇帝との約束は、代替わりをしても有効だ。すなわち、すべての部族長の娘に劉弦は会う必要がある。その上で、どの娘も妃にしないと決めた時、天界へゆくことができるのだ。

「緑族の娘か……。白菊、お前が行け。緑族の娘を連れてこい。私は娘に会って天界へ戻る」

 劉弦が命じると、白菊が頭を下げる。

「御意にございます」

 そして薄暗い部屋から跡形もなく消えた。