後宮にて、妃たちの部屋替えが言い渡されたのは、朝、宮廷にて劉弦に会った日の午後のことだった。
すべての妃が中庭へ集められて、新しい部屋割りを言い渡される。翠鈴は、華夢の向かいの二の妃の部屋へ引っ越し、後はひとつずつずれるようにという話だった。その内容に貴妃の妃たちは騒然となった。
「華夢さまの向かいのお部屋に、緑族の娘が入るなんて!」
「懐妊したとはいえ、田舎育ち丸出しのあの娘が?」
「ねえ、本当に疑問だわ。いったい陛下はあの娘のなにが気に入ったのかしら? 今だってろくに着飾りもしないで変な服着てるのに」
一方で、貴人の妃たちと芽衣は、やや寂しそうに翠鈴を見ている。
「翠鈴妃は、皇帝陛下の一番のご寵姫さまなんだもの。当然だわ。でも部屋が遠くになってしまうのが少し寂しい。もう一緒にご飯を食べることはできなくなるかしら……」
芽衣の問いかけに、翠鈴は首を横に振った。
「これまで通り遊びに来て。……でも私、本当は引っ越しなんてしたくない」
せっかく慣れた部屋から移るのは嫌だった。思わず本音が口から出てしまう。
芽衣が首を横に振った。
「それはダメよ翠鈴、陛下は翠鈴にそばにいてそのお気持ちにお応えしなくては。それに、あのお部屋を私に譲ってよ。翠鈴のお部屋から見える景色が私大好きなんだもの。毎日見られるようになるなんて嬉しいわ」
翠鈴のためにわざと明るく言ってくれてるのだ。
それを聞いた他の妃たちも堰を切ったように口を開いた。
「散歩には参加されますわよね?」
「まだお料理をご馳走させていただいていないわ」
翠鈴は彼女たちに向かって約束する。
「もちろん、散歩は参加します。それからお料理も楽しみにしています」
一方で貴妃たちは、眉を寄せて嫌そうしている。数人が、中庭の中心にある長椅子に座り事態を見守っている華夢のところへ行ってヒソヒソとなにやら耳打ちをした。
華夢が頷いて、艶のある桜色の唇を開いた。
「陛下のご寵愛を受けられた翠鈴妃さまがお部屋を移られるのは当然です。なれどこのあたりに、貴人の方々が気安く来られるのは差し障りがありますわ。お控えくださいませ。翠鈴妃さまはご寵姫さまなのですから、お付き合いになる相手をお選びになるべきです」
華夢の言葉に、貴妃たちが当然だというように頷いて、貴人たちは残念そうな表情になる。この後宮で華夢の言うことは絶対だ。
それに翠鈴は反論した。
「妃同士のお部屋の行き来は自由なはずです」
余計な揉め事は避けたいが、黙っていられない。せっかくできた彼女たちとのよい関係をここで断ち切るなんて嫌だった。
今回の部屋替えでも、華夢は一の妃の部屋のまま。ということは、華夢が皇后候補であることには変わりない。後宮で彼女の意向に逆らうことは危険だとわかっている。指輪で手を刺された時のことが頭を掠めるが、口は止まらなかった。
「私は、どなたと一緒にいるかは、自分で決めます」
いくら彼女が皇后候補でも誰と一緒にいるかまで口出しされる筋合いはない。
華夢が首を傾げて立ち上がった。
その場が、緊迫した空気になる。皆黙り込み息を呑んで、見つめ合う翠鈴と華夢を見ている。
「後宮の秩序を守るのも妃の役目ですわ、翠鈴妃さま。陛下のご寵愛が深くともそれは変わりません。好き勝手はよろしくなくてよ」
もっともらしく華夢は言う。貴妃たちが、そうだというように頷いた。
言葉だけをなぞればそうだろう。寵愛の如何に関わらず決まりは守るべきだ。でも寵愛を受けたからといって貴人と仲良くできないというのは納得できなかった。彼女は、翠鈴と皆を引き離し、翠鈴を孤立させようとしているのだろうか。
「私は決まりに背くつもりはありません。でも妃同士、交流することのなにが問題なのですか? 私は私の好きな方とお付き合いいたします。それについて、お咎めがあるというならば、部屋替えは結構です!」
華夢を睨んでそう言うと、彼女は目を細めて、再び唇を開きかける。
その時。
「それはならん」
中庭によく通る低い声が響く。
渡り廊下へ続く赤い扉の前に、劉弦が立っていた。純金の糸で刺繍が施された黒い衣装を身につけている。正装姿ということは、執務からそのまま来たのだろう。
その場にいる者は皆、目を剥いて息を呑んだ。
彼が後宮へ来るのがはじめてのことだからだ。後宮が開かれてから翠鈴が来るまで一貫して妃を拒み続けてきた彼は、後宮という場を遠ざけていた。
「部屋替えは私の指示だ」
言いながら、黒い石の床の上を靴音を鳴らして中庭の中央へやって来る。皆が跪く中、翠鈴のすぐそばに立ち腰に腕を回した。
「なるべくそなたをそばに置きたいのだ。わがままは許さぬ」
そして耳に唇を寄せて翠鈴にだけ聞こえるように囁いた。
「部屋替えが発表されたら、このようなことになるのは予想していた。はじめからいるつもりであったが執務が立て込み遅くなった。すまない」
「劉弦さま、そんな……」
「部屋替えは受け入れてくれ。今後無事に世継ぎが生まれるまで、翠鈴を狙う者がいないともかぎらない。なるべく目の届くところへいてほしい」
つまりは世継ぎを宿した翠鈴になにもないように、目の届くところへおいて置きたいということだ。
皆の手前、寵愛が深くそばに置きたいからということにしておけば自然だ。
「……わかりました」
胸がちくりと痛むのを感じながら、翠鈴は頷いた。
彼は翠鈴自身に愛情を感じているわけではなく、世継ぎを宿した翠鈴の身体が大切なのだ。そんなことはあたりまえで考えるまでもないことなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう?
劉弦がまた皆に聞こえる声を出した。
「妃同士、揉め事もなく仲良くしてくれていることを私は嬉しく思う。ここにいる者は皆、誰と親しくしようが問題はない」
そして貴人たちがいるあたりに視線を送り付け加えた。
「部屋替えにより、困ることがあれば女官長に言うように、すぐに対処させる。それから窓の布幕を開けることを禁じられているそうだな。日の光は人にとってなくてはならないもの。その決まりは今この時をもって解く。自由に開けてよい」
彼は以前、翠鈴が散歩の話を願い出た時に、これからは後宮のことにも心を配ると言っていた。その言葉を実行に移しているのだ。
貴人の妃たちが互いに顔を見合わせて微笑んだ。
一方で、翠鈴と貴人の妃たちの交流を容認した劉弦に、貴妃たちが悔しそうに唇を噛む。
華夢だけが、そんな様子は微塵も見せずに優雅に微笑んだ。
「ありがとうございます、陛下。後宮のことにも心を砕いてくださること、とても嬉しく思います。本日は顔色もよろしいようで安心いたしました。ですが念のため、診察いたしましょう。よろしければ私の部屋へ」
後半は翡翠の手の使い手としての言葉だった。
「いや、その必要はない」
劉弦は断るが、彼女は引き下がらない。
「なれど、陛下に万が一のことがありましたら、皆不安になります。国のためと思い御身を大事に……」
そう言われて、劉弦はふたりのやり取りを見守る妃たちを見回す。劉弦の健康は国中の民の関心ごとだった。
彼は仕方がないというように、ため息をついて頷いた。
「……わかった。皆解散するように」
言い残して、一の妃の部屋へ向かって歩いていく。華夢が後に続いた。
貴妃たちが、ヒソヒソと話しだした。
「お似合いね。やっぱり陛下の隣は華夢妃さまでなくちゃ」
「陛下の体調は、華夢妃さまのお力で整っているのよ。夜の相手しかできないどこかの妃とは大違い」
翠鈴の胸がまたちくりと痛んだ。
なぜか、劉弦が彼女と並んでいるのを見たくなかった。今この時を同じ部屋でふたりで過ごしているのだと思うだけで、胸の中が灰色の雲でいっぱいになるようだ。
ここにいるのは皆彼の妃。
今夜、別の誰かが彼の寝所に召されても全然おかしくないのだ。
そんなことわかっていたはずなのに。
——どうしてこんな気持ちになるの?
静かに閉まる一の妃の部屋の扉を見つめながら、翠鈴は胸のもやもやの正体を探していた。
すべての妃が中庭へ集められて、新しい部屋割りを言い渡される。翠鈴は、華夢の向かいの二の妃の部屋へ引っ越し、後はひとつずつずれるようにという話だった。その内容に貴妃の妃たちは騒然となった。
「華夢さまの向かいのお部屋に、緑族の娘が入るなんて!」
「懐妊したとはいえ、田舎育ち丸出しのあの娘が?」
「ねえ、本当に疑問だわ。いったい陛下はあの娘のなにが気に入ったのかしら? 今だってろくに着飾りもしないで変な服着てるのに」
一方で、貴人の妃たちと芽衣は、やや寂しそうに翠鈴を見ている。
「翠鈴妃は、皇帝陛下の一番のご寵姫さまなんだもの。当然だわ。でも部屋が遠くになってしまうのが少し寂しい。もう一緒にご飯を食べることはできなくなるかしら……」
芽衣の問いかけに、翠鈴は首を横に振った。
「これまで通り遊びに来て。……でも私、本当は引っ越しなんてしたくない」
せっかく慣れた部屋から移るのは嫌だった。思わず本音が口から出てしまう。
芽衣が首を横に振った。
「それはダメよ翠鈴、陛下は翠鈴にそばにいてそのお気持ちにお応えしなくては。それに、あのお部屋を私に譲ってよ。翠鈴のお部屋から見える景色が私大好きなんだもの。毎日見られるようになるなんて嬉しいわ」
翠鈴のためにわざと明るく言ってくれてるのだ。
それを聞いた他の妃たちも堰を切ったように口を開いた。
「散歩には参加されますわよね?」
「まだお料理をご馳走させていただいていないわ」
翠鈴は彼女たちに向かって約束する。
「もちろん、散歩は参加します。それからお料理も楽しみにしています」
一方で貴妃たちは、眉を寄せて嫌そうしている。数人が、中庭の中心にある長椅子に座り事態を見守っている華夢のところへ行ってヒソヒソとなにやら耳打ちをした。
華夢が頷いて、艶のある桜色の唇を開いた。
「陛下のご寵愛を受けられた翠鈴妃さまがお部屋を移られるのは当然です。なれどこのあたりに、貴人の方々が気安く来られるのは差し障りがありますわ。お控えくださいませ。翠鈴妃さまはご寵姫さまなのですから、お付き合いになる相手をお選びになるべきです」
華夢の言葉に、貴妃たちが当然だというように頷いて、貴人たちは残念そうな表情になる。この後宮で華夢の言うことは絶対だ。
それに翠鈴は反論した。
「妃同士のお部屋の行き来は自由なはずです」
余計な揉め事は避けたいが、黙っていられない。せっかくできた彼女たちとのよい関係をここで断ち切るなんて嫌だった。
今回の部屋替えでも、華夢は一の妃の部屋のまま。ということは、華夢が皇后候補であることには変わりない。後宮で彼女の意向に逆らうことは危険だとわかっている。指輪で手を刺された時のことが頭を掠めるが、口は止まらなかった。
「私は、どなたと一緒にいるかは、自分で決めます」
いくら彼女が皇后候補でも誰と一緒にいるかまで口出しされる筋合いはない。
華夢が首を傾げて立ち上がった。
その場が、緊迫した空気になる。皆黙り込み息を呑んで、見つめ合う翠鈴と華夢を見ている。
「後宮の秩序を守るのも妃の役目ですわ、翠鈴妃さま。陛下のご寵愛が深くともそれは変わりません。好き勝手はよろしくなくてよ」
もっともらしく華夢は言う。貴妃たちが、そうだというように頷いた。
言葉だけをなぞればそうだろう。寵愛の如何に関わらず決まりは守るべきだ。でも寵愛を受けたからといって貴人と仲良くできないというのは納得できなかった。彼女は、翠鈴と皆を引き離し、翠鈴を孤立させようとしているのだろうか。
「私は決まりに背くつもりはありません。でも妃同士、交流することのなにが問題なのですか? 私は私の好きな方とお付き合いいたします。それについて、お咎めがあるというならば、部屋替えは結構です!」
華夢を睨んでそう言うと、彼女は目を細めて、再び唇を開きかける。
その時。
「それはならん」
中庭によく通る低い声が響く。
渡り廊下へ続く赤い扉の前に、劉弦が立っていた。純金の糸で刺繍が施された黒い衣装を身につけている。正装姿ということは、執務からそのまま来たのだろう。
その場にいる者は皆、目を剥いて息を呑んだ。
彼が後宮へ来るのがはじめてのことだからだ。後宮が開かれてから翠鈴が来るまで一貫して妃を拒み続けてきた彼は、後宮という場を遠ざけていた。
「部屋替えは私の指示だ」
言いながら、黒い石の床の上を靴音を鳴らして中庭の中央へやって来る。皆が跪く中、翠鈴のすぐそばに立ち腰に腕を回した。
「なるべくそなたをそばに置きたいのだ。わがままは許さぬ」
そして耳に唇を寄せて翠鈴にだけ聞こえるように囁いた。
「部屋替えが発表されたら、このようなことになるのは予想していた。はじめからいるつもりであったが執務が立て込み遅くなった。すまない」
「劉弦さま、そんな……」
「部屋替えは受け入れてくれ。今後無事に世継ぎが生まれるまで、翠鈴を狙う者がいないともかぎらない。なるべく目の届くところへいてほしい」
つまりは世継ぎを宿した翠鈴になにもないように、目の届くところへおいて置きたいということだ。
皆の手前、寵愛が深くそばに置きたいからということにしておけば自然だ。
「……わかりました」
胸がちくりと痛むのを感じながら、翠鈴は頷いた。
彼は翠鈴自身に愛情を感じているわけではなく、世継ぎを宿した翠鈴の身体が大切なのだ。そんなことはあたりまえで考えるまでもないことなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう?
劉弦がまた皆に聞こえる声を出した。
「妃同士、揉め事もなく仲良くしてくれていることを私は嬉しく思う。ここにいる者は皆、誰と親しくしようが問題はない」
そして貴人たちがいるあたりに視線を送り付け加えた。
「部屋替えにより、困ることがあれば女官長に言うように、すぐに対処させる。それから窓の布幕を開けることを禁じられているそうだな。日の光は人にとってなくてはならないもの。その決まりは今この時をもって解く。自由に開けてよい」
彼は以前、翠鈴が散歩の話を願い出た時に、これからは後宮のことにも心を配ると言っていた。その言葉を実行に移しているのだ。
貴人の妃たちが互いに顔を見合わせて微笑んだ。
一方で、翠鈴と貴人の妃たちの交流を容認した劉弦に、貴妃たちが悔しそうに唇を噛む。
華夢だけが、そんな様子は微塵も見せずに優雅に微笑んだ。
「ありがとうございます、陛下。後宮のことにも心を砕いてくださること、とても嬉しく思います。本日は顔色もよろしいようで安心いたしました。ですが念のため、診察いたしましょう。よろしければ私の部屋へ」
後半は翡翠の手の使い手としての言葉だった。
「いや、その必要はない」
劉弦は断るが、彼女は引き下がらない。
「なれど、陛下に万が一のことがありましたら、皆不安になります。国のためと思い御身を大事に……」
そう言われて、劉弦はふたりのやり取りを見守る妃たちを見回す。劉弦の健康は国中の民の関心ごとだった。
彼は仕方がないというように、ため息をついて頷いた。
「……わかった。皆解散するように」
言い残して、一の妃の部屋へ向かって歩いていく。華夢が後に続いた。
貴妃たちが、ヒソヒソと話しだした。
「お似合いね。やっぱり陛下の隣は華夢妃さまでなくちゃ」
「陛下の体調は、華夢妃さまのお力で整っているのよ。夜の相手しかできないどこかの妃とは大違い」
翠鈴の胸がまたちくりと痛んだ。
なぜか、劉弦が彼女と並んでいるのを見たくなかった。今この時を同じ部屋でふたりで過ごしているのだと思うだけで、胸の中が灰色の雲でいっぱいになるようだ。
ここにいるのは皆彼の妃。
今夜、別の誰かが彼の寝所に召されても全然おかしくないのだ。
そんなことわかっていたはずなのに。
——どうしてこんな気持ちになるの?
静かに閉まる一の妃の部屋の扉を見つめながら、翠鈴は胸のもやもやの正体を探していた。