「ここのところ、体調がよろしいようですね」

 宮廷内の外廊下を玉座の間に向かって歩いていた劉弦は、白菊に声をかけられて足を止めた。

「あの娘とお過ごしになられているからでしょう。眉唾物だと思っておりました宿命の妃が、本当に存在するとは驚きです」

 劉弦は無言で頷いた。翠鈴と夜を過ごすようになってから十日あまりが経った。
 これまでの不調は嘘のように消え去った。今まで手をつけられず家臣に任せきりになっていた執務を精力的にこなしている。
 寝所へ帰る時間は遅くなり、翠鈴が寝た後だが、それでも彼女がそばにいるだけで信じられないくらいに調子がいい。

「天界へは行かず、この国を末長く治めることを、決意されたということですね?」

 白菊が確認するように問いかる。
 劉弦が口を開きかけた時。
 視線の先に広がる広大な庭の向こうから、きゃあきゃあと楽しそうな声が近づいてくる。後宮にいるはずの妃たちだ。
 翠鈴が願い出て実現した毎日の散歩をしているのだろう。
 彼女たちは、まだ劉弦の存在には気づいておらず、野の花を摘んだり、ひらひら舞う蝶を追いかけたり。中には追いかけ合いをしている者もいる。その中に翠鈴もいる。隣の妃と話をしながらゆっくりとした足取りで歩いている。
 皇帝がいることを、知らせようとする従者を制し、劉弦は目を細めて彼女たちを眺める。
 妃の集まりなど、以前の自分なら目を背けていた。が、今は心穏やかだった。

「皇帝陛下?」

 誰かが呟き、皆が一斉にこちらを見る。
 慌てて跪こうとするのを、劉弦は止めた。

「よい、そのまま散歩を続けよ」

 彼女たちにとっては一日に二回だけの自由な時間なのだ。堅苦しい思いをさせたくはない。
 すると彼女たちは、驚いたように顔を見合わせ、戸惑いながらも頷いた。
 劉弦が立ち去ろうとすると、ひとりの妃が、意を決したように近づいてきた。

「陛下、お伝えしたきことがございます」

 唐突な彼女の行動に、劉弦のそばに控えている従者が警戒した。劉弦も一瞬身構えた。翠鈴が懐妊する前は寵愛を争って彼女たちはあの手この手で劉弦に近づこうとした。だが、自分を見つめるその妃の目は澄んでいる。

「よい」

 劉弦は従者を制し、彼女に続きを促した。

「申してみよ」

「ありがとうございます! あの……昨年、陛下は、北斗地方の干ばつを防いでくださいました。そのお礼を申し上げたかったのです。おかげで民は飢えずにすみ、また田畑を耕すことができております。陛下にお会いできたらどうしてもこれをお伝えしたいと思っておりましたのに、いつかの夜は緊張して言いそびれてしまって……」

 するとそれを耳にした他の妃たちも集まってきた。

「私の故郷の一昨年の水害もあと少しのところで水の流れを変えて下さいました。ありがとうございます」

「陛下のご加護で故郷の民は平穏に暮らせております」

 争うように感謝の言葉を口にする。
 彼女たちの目を見つめながら、劉弦は胸が晴れ渡るような心地がしていた。これが、本来の人の姿なのだ。
 人間は、邪な心を持つのも確かだが、他者を思う純粋な心も併せ持つものなのだ。そして初代皇帝は、この心に応えるために地上に降りた。その彼の気持ちを今本当の意味で理解する。
 後宮からカーンカーンと鐘が鳴る。昼食の合図だ。

「皆さま、そろそろ参りましょう。陛下、時間ですので失礼いたします」

 付き添いの女官が言い、劉弦が頷くと、彼女たちは頭を下げて歩いていく。

「もうこんな時間なの、あっという間だったわね」

「早く帰らないと、梓萌に叱られるわ」

「ふふふ、皆で叱られれば怖くないわよ」

「あーお腹空いた」

 くすくす笑いながら、去っていく。
 振り返る翠鈴と目が合った。
 本当に不思議な娘だと劉弦は思う。彼女は、劉弦だけでなく他の人の心まで綺麗にするようだ。

 ——彼女がそばにいれば、この国を末長く治めることができるだろう。しかも自分はそれを強く望んでいるのだ。

 人の心に惹かれて人と在ることを決断した初代皇帝の思いが手に取るようにわかるのだから。
 去っていった妃たちの向こう側、青い空のもとに広がる五宝塞の町を見つめて劉弦は口を開いた。

「白菊、私は天界へは行かない。この国を守り、末長く治めることにする」

 言い切ると、白菊がやれやれというようにため息をついた。

「やはりあの娘……いや、これからは翠鈴妃さまと呼ぶべきでしょう。翠鈴妃さまは、ただものではありませんでしたね」

 ただものでははいという言葉に劉弦は問いかける。

「……白菊、そなたは翡翠の手の使い手だとはじめから気がついていたのか? なぜ言わなかった?」

「あるいはと思っていただけです。あの娘、故郷の村では診療所を営んでおりまして、後宮へ入ってからも病になる寸前だった女官の世話をしておりました。妃たちの散歩の件も向かいの部屋の妃が青い顔をしていたのを見かねてのことのようですよ。自分も囚われの身同然だというのに人の不調ばかり気になるのは、翡翠の手を持つ者の性(さが)でしょう」

 ——翡翠の手を持つ者の性。

 本当にそれだけだろうか、と劉弦は訝しむ。診療所も女官の件もはじめて聞く翠鈴の話だが、妙にしっくりくると感じている。そして彼女のそういった部分に、劉弦の中のなにかが強く引きつけられるのを感じている。彼女を思い浮かべるだけで胸のあたりが温かくなるのだ。

「まぁ、翡翠の手の使い手は、龍神の宿命の妃といいますから、あなたさまには必要な娘だったということでしょう。こうなるのは決まっていたということです」

 確かにその通りだ。
 劉弦にとって彼女が必要不可欠なのは間違いない。昼間、どのように淀んだ空気の中、執務をこなしても寝所にて彼女のそばにいれば本来の自分を取り戻すことができる。彼女に出会ってからは、この繰り返しにより国を滞りなく治めることができている。

 ——だがそれだけではない。

 例えば彼女が、翡翠の手の持ち主でなかったとても、劉弦は彼女をそばに置き、あの目を見つめていたいと強く思う。

 ——この気持ちは……。

 人と龍神である自分の間に本来は存在するはずのない、生まれるはずのない感情だ。だが確かに今、自分の心を支配している。

「彼女がこの地に存在する限り、私は地上に留まり、国を治めることにする。白菊、私の目が届かない場所にいる間は翠鈴を守るよう」

「御意にございます。……後宮の妃たちの部屋替えの件ですが、どうやら貴妃の父親たちがぐずぐずと理由をつけて引き延ばしているようです。十日あまりが経った今もまだ、完了しておりません。急がせましょう」

「ああ、頼む」

 頷いて劉弦は歩き出した。