芽衣妃の部屋は、翠鈴の向かい側である。
 洋洋、翠鈴、蘭蘭が行くと、まだ朝だというのに中は薄暗かった。窓が布幕に覆われているからだ。体調が悪いという話だから寝ているのだろうか。
 実際、芽衣妃は寝台の上にいた。でも眠ってはいなかった。洋洋の後ろにいる翠鈴を見て「ひっ!」と引きつった声を出した。

「ヤ、洋洋……! なんなの?」

「芽衣妃さま、翠鈴妃さまは故郷で診療所を開かれていたそうです。一度診ていただきましょう」

 洋洋が気まずそうに言う。
 芽衣妃は首を横に振った。

「け、結構よ……! 勝手なことをしないで! 翠鈴妃さま、お引き取りくださいませ」

 予想通りの反応だ。だがそれで引き下がるわけにはいかなかった。洋洋が言った通り、彼女は薄暗い中でもわかるほど顔色がよくない。それにこめかみのあたりがぼんやりと赤く光っていた。

「芽衣妃さま、少しの間です。怖いことはいたしません。蘭蘭、布幕を外してちょうだい」

 にっこり笑って彼女に言い。蘭蘭に指示を飛ばす。蘭蘭が頷いて言う通りにした。

「ちょ……! か、勝手に……!」

「芽衣妃さま、舌を出してくださいませ。このように、べー」

「え? ……べー」

「……あまり血行がよくないわね。月のものは順調に来ているかしら?」

 翠鈴の質問に答えたのは洋洋だ。

「それが、先月は……」

「ちょっと洋洋!」

 芽衣が洋洋を叱る。

「あなた勝手に……!」

「大切なことですよ、芽衣妃さま」

 翠鈴はわって入り彼女を止めた。

「故郷からついてきてくれた女官なんでしょう? あなたさまが小さい頃からそばにいるとか。そういう人の言うことには耳を傾ける方がいいわ」

 芽衣は言葉に詰まり翠鈴を見た。

「寝台にうつ伏せに寝てくださいませ」

 間髪入れずにそう言うと、しぶしぶといった様子で言う通りにする。
 翠鈴は背中に触れていく。目で見て人の不調がわかるようになったとはいえ、念のため指でも確かめておきたかった。

「……身体的な病はなさそうね」

 洋洋がホッと息を吐いた。

「よかったです」

「そうともいえないわ、洋洋。芽衣妃さま、身体を起こして座って手を出してくださいな」

 翠鈴は向かい合わせ座った彼女の腕を取った。

「脈がすごく弱い。顔色が悪いのはこのせいね。病ではないのに、この症状は深刻よ。食欲もなくて眠れていないのでしょう? 以前よりも苛々することが増えたりしていない? あるいはなににも興味が湧かなくなったとか……」

 腕と手のひらを指で刺激しながら翠鈴が問いかけると、彼女の目に涙が浮かんだ。
 やはり、と翠鈴は思う。
 彼女の不調の原因は身体の病ではなく心だ。だが彼女は、唇を噛みなにも言わなかった。
 こういう患者に無理に事情を聞き出すのは逆効果だと翠鈴は知っている。とりあえず簡単にできることを伝えることにする。

「このように部屋を薄暗くされているのはおすすめできません。少なくとも朝は窓の布幕を外して日の光を浴びるようにしてください。それから日中はできるだけ身体を動かすようにして。そうすれば自然と夜は眠くなります」

 翠鈴としては今すぐにでも実行できる簡単なことを助言したつもりだが、芽衣は難しい表情で首を横に振った。

「そんなことできないわ。窓の布幕を開けていたら、梓萌に叱られるもの。後宮の妃は皇帝陛下のために美しくいる義務がある、日焼けしたらどうするのかって」

「日焼けって、そんな……」

 意外な答えに翠鈴が驚いていると、洋洋がさっき開けたばかりの布幕を戻した。
 また薄暗くなった部屋で、芽衣が憂うつそうに言葉を続けた。

「それに身体を動かすのも無理だわ。妃は後宮から出てはいけない決まりだもの。代わりに中庭があるけれど、あそこは貴妃の方たちが独占していて、貴人の私たちは行くと嫌がらせをされるのよ。そもそも私たちの部屋は中庭に面していないし……」

 そう言われて翠鈴は改めて、貴人の妃たちの住環境を思い出す。長い廊下に並ぶ部屋は頑丈で、故郷の村より格段にいい。なにもしなくとも食事は出る。でも外に出られず、窓の布幕を自由に開けることも許されない。
 籠の中の鳥のようだ。このような生活を続けていたら、あちこちに不調が出てもおかしくはない。
 翠鈴はしばらく考えてから口を開いた。

「では芽衣妃さま、今から私の部屋へお越しくださいませ。私の部屋は布幕は夜以外つけておりませんから。今の時間は、日の光がさんさんと差し込んでおります。布幕を開けているのを見られても、そもそも私の部屋ですから叱られるのは私です」

 おそらく梓萌が翠鈴に布幕のことをうるさく言わなかったのは、寵愛を受けることがないみそっかすの妃だからだ。

「翠鈴妃さまのお部屋へ? でも……」

 芽衣は気が進まないようだ。

「向かいですから、素早く行けば誰にも見られませんよ。そういえば、蘭蘭、昨日は野の兎が近くまで来たって言ってたわね」

 彼女の気を引くためにそう言うと、蘭蘭が心得たとばかりに頷いた。

「珍しい鳥も来ましたよ。さっきこちらへ来る前に、朝食の残りの米粒を少しまきましたから、今ごろ食べにきてるかも」

「まぁ、兎が? ……珍しい鳥も来るの?」

 少し興味をそそられたように、芽衣が聞き返す。
 洋洋が助け船を出した。

「芽衣妃さま、故郷で兎を飼っていらしたじゃありませんか。思い出しますわね。見つからないように、少しだけ行ってみませんか? 少しなら他のお妃さま方に気づかれませんよ」

 芽衣はしばらく考えていたが、やがてこくんと頷いた。