西の殿まで続く長い廊下を歩いていると、どこからともなく白菊が姿を現した。

「劉弦さま」

 劉弦は付き添いの従者に合図をして彼らと距離を取る。歩きながら白菊の報告を聞く。

「あの娘は、なにごともなく後宮へ戻りました」

「体調は、大丈夫そうか?」

 昨夜泣きながら眠りについた翠鈴は、朝は随分顔色がよかった。だが、倒れたのは昨日のことなのだ。ましてや身重で慣れない生活とくれば、いつまた体調を崩してもおかしくはない。
 劉弦の言葉に白菊が意外そうに聞き返した。

「気になりますか?」

「……昨夜は、故郷に帰りたいとひどく泣いていた。白菊、お前彼女に私に会ったら故郷へ帰してやると約束したそうだな。無理やり連れてこられたとも言っていた」

「はい。劉弦さまは百の妃を連れてこいとだけおっしゃいました。どのような手段を使うか指示はありませんでしたので。用が済めば帰れると言っておけば、おとなしく言うことを聞くだろうと思ったのです。実際、当初の予定どおりにことが進めばそうしてやるつもりでしたけど」

 悪びれることなくそう言って、彼は上目遣いに劉弦を見る。
 劉弦は目を逸らした。言うまでもなく予定通りにいかなかったのは、劉弦が翠鈴に手を出したからだ。昨夜の彼女の涙は、自分のせいなのだと思うと胸が痛んだ。

「……黄福律の動向に注意しろ。翠鈴になにかしないとも限らん」

「あの男の今までの行動から考えると、子が生まれる前に消そうとするでしょうね。ですが、劉弦さまにとってはかえって都合がいいのでは?」

「どういうことだ?」

 思わず足を止めて問いかける。
 白菊の赤い目が非情な光を放った。

「たとえ一時の気の迷いだとしても、人が差し出す妃に手を出してしまったあなたさまは、当初の目的のように天界へは行けなくなりました。この国を治める義務に縛られたまま。……寵愛を与えた妃が生きているうちは」

 白菊の言いたいことを理解して劉弦は黙り込む。
 天界へ帰るためには、翠鈴を亡き者にすればよいということだ。人に興味のない彼らしい言葉だが、劉弦は受け入れることはできなかった。昨夜腕の中で泣いていた翠鈴の震える細い肩が脳裏に浮かんだ。

「なんでしたら、黄福律がことを起こすのを待たずとも、私が……」

「いや、それは必要はない。私は犠牲を望まない」

 きっぱりと言うと彼は目を細めた。

「それはあの娘が、お世継ぎを宿したからにございますか?」

 黙り込む劉弦に、白菊は畳み掛ける。

「この国を末長く治める覚悟をされたということにございますか? 劉弦さま」

 その質問にも答えられなかった。

「……緑翠鈴に危害が加わらないようにせよ」

 それだけ言ってまた歩き出すと、頭を下げて白菊は消えた。