母の膝にいるような心地のいい感覚に、翠鈴はゆっくりと目を開く。見慣れない天井が目に飛び込んでくる。不思議に思って瞬きを繰り返していると頭を大きな手が撫でた。
「目覚めたか、気分はどうだ?」
ハッとして目を開くと、漆黒の瞳をした男性が覗き込んでいる。彼の膝を枕にしているのだと気がついて、慌てて翠鈴は起きあがろうとする。それを彼は止めた。
「急に起き上がらない方がよい。倒れたのはつい半刻ほど前だ」
そして背中に腕を回してゆっくりと身体を起こすのを助けてくれる。湯呑みを翠鈴に持たせた。
「水を飲め」
とりあえず翠鈴は言われた通りにする。ごくごく飲むと冷たい水は、カラカラに渇いている身体に染み渡るようで美味しかった。一方で、目の前の男性が皇帝だということに気がつき、翠鈴の頭が混乱する。状況がよく飲み込めなかった。
「ここは……?」
「私の寝所だ」
翠鈴は記憶を辿る。確かに壁や窓、天井や床などは昨夜過ごした彼の寝所と同じように思えた。でも趣は昨夜と随分と違っている。部屋を照らす灯籠がいくつも下がり、火鉢が部屋の四隅と寝台の両脇に置いてある。寝台の布もふかふかで部屋全体が暖かく居心地いい。
さらに記憶を辿り、翠鈴は儀式の途中で記憶が途切れていることに思いあたる。
「私、儀式の途中で……?」
「そうだ、気を失った。だからここへ連れてきた」
「気を失って……? も、申し訳ありません……!」
翠鈴は真っ青になった。
梓萌からは大切な儀式だから決して粗相のないようにと繰り返し忠告されていた。途中で倒れてしまうなんて、大失態だ。
「いや、気を張っていたのだろうから仕方がない。儀式自体はあれで終わりだったのだから問題はない」
皇帝が言う。意外なほど優しい言葉と声音だった。
「今夜は、このままここで休め。後宮にもそう伝えてある」
「ここで、このまま……?」
ここで休めという言葉に、昨夜の出来事を思い出して、翠鈴の頬が熱くなる。
皇帝が咳払いをした。
「……今夜はなにもせぬ。ゆっくりと眠るだけだ」
「わ、わかりました……」
その彼を見つめていた翠鈴はあることに気がついた。
彼の首筋にまたあの赤い光ができている。うっすらと朝ほどは濃くないけれど……。
「頭痛がしますか?」
思わず翠鈴は問いかけた。この状況で、と自分でも思う。けれど職業病か、不調な人を見ると尋ねずにはいられないのだ。
「失礼します」
朝にしたように赤い光に手をかざすとそれだけで光は消えてなくなった。やはりどうしてか、彼の赤い光だけはかざすだけで消すことができるのだ。
それにしても朝、すべての光を消したはずなのに。うっすらとではあるものの夕方にはまたできているなんて……。
「慢性化していますね、お医者さまから薬湯は処方していただいて……」
言いかける翠鈴の手首を彼が握った。
「きゃっ!」
そのまま鋭い視線を翠鈴の手に走らせる。
「あの……」
そして、翠鈴に視線を戻して口を開いた。
「やはり」
「え?」
「この手こそが、翡翠の手。そなたが、私の宿命の妃だ」
言い切る彼に翠鈴は目を見開く。昨夜も彼はそのようなことを言っていたと思い出す。
「わ、私はただの村娘です……。診療所を開いてはおりましたが、そのような尊い者ではございません。ましてや、宿命の妃などでは……」
首を振り、早口で説明をする。
第一彼にはすでに華夢という宿命の妃がいる。宿命の妃が何人もいるなんて聞いたことがない。
「いや、この手がどうやっても治らなかった私の頭痛を一瞬で消した。目の曇りを取ったのだ。朝も同じことをしたのだろう」
「そうですが……。それは祖父から教わった指圧の技術があるからではないでしょうか。特別なものではないはずです」
「いや、特別だ。そなたが宿命の妃だということは間違いない。だからこそ、一度の寵愛で子ができたのだろう」
『子ができた』という言葉に、翠鈴は一気に現実に引き戻される。懐妊の儀での出来事を頭に浮かんだ。
自分がなに者なのかはさておき、皇帝の子を宿したことには間違いないようだ。ならば生まれ育った懐かしい故郷へはもう帰れない。
宮廷内のすべての者が見守る中で、懐妊は判明した。誤魔化すことはできないだろう。
ここから三日三晩歩いたところにある故郷の村。粗末だけれど生まれ育った懐かしい場所をもう目にすることはできないのだ。
視界がじわりと滲み、あっという間に涙が頬を伝う。
ここへ来てから遭遇した理不尽な扱いも、投げかけられたひどい言葉も、すべていずれは村へ帰れると思っていたからこそ耐えられたのだ。まさか生涯ここで暮らすなど想像してもいなかった。
見知らぬ場所へ連れてこられて、張り詰めていた糸がぷちんと切れてしまったように涙が止まらなかった。
「……いかがした?」
皇帝が眉を寄せて問いかける。
半ばやけになって翠鈴は胸の中にある思いを口にした。
「し、白菊さまは……陛下に会うだけでいいとおっしゃいました。ひと目お会いしたあとは、む、村へ帰ってよいと……。わ、私はそのつもりだったのです。それなのに……」
翠鈴の言葉を皇帝は黙って聞いている。皇帝相手にこんなことを言うなんて許されないとわかっている。でもどうしても止めることができなかった。
例えばこれで不敬罪に問われたとしてもかまわない。故郷に帰れないなら、ここで人生が終わるとしてもそれでいいという気持ちだった。
「そもそもこんなところへ来たくなかったのに……! む、無理やり連れてこられて、こんなにひどいことってないわ。私、村に帰りたい。帰りたいよう……」
とうとう翠鈴は大きな声で泣き出してしまう。寂しい気持ちと涙が溢れて止まらなかった。
しゃくりあげて、震える翠鈴の肩を皇帝がやや戸惑うように包み込み、広い胸に引き寄せた。
温かい胸に、顔を埋めて翠鈴は泣き続ける。
大きな手が慰めるように優しく背中を撫で続けていた。
「目覚めたか、気分はどうだ?」
ハッとして目を開くと、漆黒の瞳をした男性が覗き込んでいる。彼の膝を枕にしているのだと気がついて、慌てて翠鈴は起きあがろうとする。それを彼は止めた。
「急に起き上がらない方がよい。倒れたのはつい半刻ほど前だ」
そして背中に腕を回してゆっくりと身体を起こすのを助けてくれる。湯呑みを翠鈴に持たせた。
「水を飲め」
とりあえず翠鈴は言われた通りにする。ごくごく飲むと冷たい水は、カラカラに渇いている身体に染み渡るようで美味しかった。一方で、目の前の男性が皇帝だということに気がつき、翠鈴の頭が混乱する。状況がよく飲み込めなかった。
「ここは……?」
「私の寝所だ」
翠鈴は記憶を辿る。確かに壁や窓、天井や床などは昨夜過ごした彼の寝所と同じように思えた。でも趣は昨夜と随分と違っている。部屋を照らす灯籠がいくつも下がり、火鉢が部屋の四隅と寝台の両脇に置いてある。寝台の布もふかふかで部屋全体が暖かく居心地いい。
さらに記憶を辿り、翠鈴は儀式の途中で記憶が途切れていることに思いあたる。
「私、儀式の途中で……?」
「そうだ、気を失った。だからここへ連れてきた」
「気を失って……? も、申し訳ありません……!」
翠鈴は真っ青になった。
梓萌からは大切な儀式だから決して粗相のないようにと繰り返し忠告されていた。途中で倒れてしまうなんて、大失態だ。
「いや、気を張っていたのだろうから仕方がない。儀式自体はあれで終わりだったのだから問題はない」
皇帝が言う。意外なほど優しい言葉と声音だった。
「今夜は、このままここで休め。後宮にもそう伝えてある」
「ここで、このまま……?」
ここで休めという言葉に、昨夜の出来事を思い出して、翠鈴の頬が熱くなる。
皇帝が咳払いをした。
「……今夜はなにもせぬ。ゆっくりと眠るだけだ」
「わ、わかりました……」
その彼を見つめていた翠鈴はあることに気がついた。
彼の首筋にまたあの赤い光ができている。うっすらと朝ほどは濃くないけれど……。
「頭痛がしますか?」
思わず翠鈴は問いかけた。この状況で、と自分でも思う。けれど職業病か、不調な人を見ると尋ねずにはいられないのだ。
「失礼します」
朝にしたように赤い光に手をかざすとそれだけで光は消えてなくなった。やはりどうしてか、彼の赤い光だけはかざすだけで消すことができるのだ。
それにしても朝、すべての光を消したはずなのに。うっすらとではあるものの夕方にはまたできているなんて……。
「慢性化していますね、お医者さまから薬湯は処方していただいて……」
言いかける翠鈴の手首を彼が握った。
「きゃっ!」
そのまま鋭い視線を翠鈴の手に走らせる。
「あの……」
そして、翠鈴に視線を戻して口を開いた。
「やはり」
「え?」
「この手こそが、翡翠の手。そなたが、私の宿命の妃だ」
言い切る彼に翠鈴は目を見開く。昨夜も彼はそのようなことを言っていたと思い出す。
「わ、私はただの村娘です……。診療所を開いてはおりましたが、そのような尊い者ではございません。ましてや、宿命の妃などでは……」
首を振り、早口で説明をする。
第一彼にはすでに華夢という宿命の妃がいる。宿命の妃が何人もいるなんて聞いたことがない。
「いや、この手がどうやっても治らなかった私の頭痛を一瞬で消した。目の曇りを取ったのだ。朝も同じことをしたのだろう」
「そうですが……。それは祖父から教わった指圧の技術があるからではないでしょうか。特別なものではないはずです」
「いや、特別だ。そなたが宿命の妃だということは間違いない。だからこそ、一度の寵愛で子ができたのだろう」
『子ができた』という言葉に、翠鈴は一気に現実に引き戻される。懐妊の儀での出来事を頭に浮かんだ。
自分がなに者なのかはさておき、皇帝の子を宿したことには間違いないようだ。ならば生まれ育った懐かしい故郷へはもう帰れない。
宮廷内のすべての者が見守る中で、懐妊は判明した。誤魔化すことはできないだろう。
ここから三日三晩歩いたところにある故郷の村。粗末だけれど生まれ育った懐かしい場所をもう目にすることはできないのだ。
視界がじわりと滲み、あっという間に涙が頬を伝う。
ここへ来てから遭遇した理不尽な扱いも、投げかけられたひどい言葉も、すべていずれは村へ帰れると思っていたからこそ耐えられたのだ。まさか生涯ここで暮らすなど想像してもいなかった。
見知らぬ場所へ連れてこられて、張り詰めていた糸がぷちんと切れてしまったように涙が止まらなかった。
「……いかがした?」
皇帝が眉を寄せて問いかける。
半ばやけになって翠鈴は胸の中にある思いを口にした。
「し、白菊さまは……陛下に会うだけでいいとおっしゃいました。ひと目お会いしたあとは、む、村へ帰ってよいと……。わ、私はそのつもりだったのです。それなのに……」
翠鈴の言葉を皇帝は黙って聞いている。皇帝相手にこんなことを言うなんて許されないとわかっている。でもどうしても止めることができなかった。
例えばこれで不敬罪に問われたとしてもかまわない。故郷に帰れないなら、ここで人生が終わるとしてもそれでいいという気持ちだった。
「そもそもこんなところへ来たくなかったのに……! む、無理やり連れてこられて、こんなにひどいことってないわ。私、村に帰りたい。帰りたいよう……」
とうとう翠鈴は大きな声で泣き出してしまう。寂しい気持ちと涙が溢れて止まらなかった。
しゃくりあげて、震える翠鈴の肩を皇帝がやや戸惑うように包み込み、広い胸に引き寄せた。
温かい胸に、顔を埋めて翠鈴は泣き続ける。
大きな手が慰めるように優しく背中を撫で続けていた。