部屋へ戻ると、梓萌が言った通り朝食が準備されていた。
「翠鈴さま、おかえりなさいませ!」
部屋の中にいた蘭蘭が誇らしげに笑顔を見せた。
「あれ……? なんだか随分豪勢ね」
机の上にところせましと並べられた皿と茶碗の数々に、翠鈴が首を傾げると、背後で梓萌が口を開いた。
「寵愛をお受けになられた翌朝の朝食は、お妃さまの位に関係なく十品と決められております」
「そうなの」
本当になにもかもが寵愛ありきなのだと、呆れてしまうくらいだった。
「では、翠鈴妃さま。私はこれで」
頭を下げて梓萌が下がる。
翠鈴は朝食を見てため息をついた。
「こんなのとても食べきれないわ。蘭蘭あなた朝食は? まだなら一緒に食べましょう。……ふたりでも多いくらいだけど」
そう言って蘭蘭を見ると、彼女の目にみるみる涙が溜まっていく。ついには溢れてぼろぼろと泣き出した。
「翠鈴さまぁ」
「ど、どうしたの? 蘭蘭。私がいない間になにかあった? また嫌がらせされたのね?」
翠鈴が尋ねると、彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「違いますう。これは嬉し涙ですう。ご寵愛をお受けになられたこと、おめでとうございます」
そう言って、腕で顔を覆い、おいおいと泣いている。
「翠鈴さまは、どのお妃さまよりも心があたたかい方です。皇帝陛下は龍神さまですから、それがおわかりになったんです。私……私、う、嬉しいです」
「あ、ありがとう……」
戸惑いながら翠鈴は答える。正直言って、寵愛を受けたことが自分にとって喜ばしいことなのかどうなのかはわからなかったが、彼女の気持ちは素直に嬉しかった。
「とりあえず、食べてしまいましょう。冷めないうちに」
翠鈴がそう言うと蘭蘭は鼻を啜りながら素直に向いの席に座る。妃である翠鈴と一緒に食事を取ることに、抵抗はなくなったようだ。
その蘭蘭の首の後ろと手首に赤い光があることに気がついて翠鈴は手を止めた。首の後ろはちょうど、目の疲れや寝不足のつぼがあるあたりだ。
「翠鈴さまのお好きな肉入り饅頭は、ふたつ用意してもらいました。さすがに今日はなにも言われませんでしたよ。青菜もお召し上がりくださいね、お肌の調子がよくなります。私は胡麻団子をいただいてもいいですか?」
「蘭蘭、あなたその光はなに? 首と左の手首にも」
赤い光を見つめたまま翠鈴は尋ねる。
蘭蘭が首を傾げた。
「光……でございますか? 手首に? なにもありませんが」
蘭蘭が手首を見て首を傾げた。とぼけているようには思えない。蘭蘭には見えていないのだろうか?
翠鈴はジッと光を見つめる。赤い光は色も大きさも、さっき皇帝の身体にあったのと同じもののように思えた。
しかもその場所は……。
「あなたもしかして昨夜寝ていないの?」
――なんとなく、本当になんとなくなのだが、赤い光が彼女の不調をおしえてくれているような気がして、翠鈴は尋ねてみる。机の上の皿を並べ替えていた蘭蘭が、手を止めた。
「え? ……はい。翠鈴さまが戻ってこられると思っていましたから、起きてお待ちしておりました」
「起きて待ってたって……誰も知らせにこなかったの?」
「ええ、ですがどのみち寝られなかったと思いますよ。戻ってこられないということはご寵愛をお受けになられたということですから、ドキドキして……」
翠鈴は立ち上がり、蘭蘭の首の光に手をかざす。皇帝の時はそれだけで光は消えたが、今は変わらず光ったままだった。
「ちょっと触るわよ」
そう断り首の裏に触れる。こりこりとした感触を指に感じた。そこを丁寧に刺激する。
「あ〜、翠鈴さま。気持ちいいです〜! あ……急に眠気が。寝てしまいそう……」
「食事を終えたら、少し寝た方がいいわ」
指で刺激するたびに、少しずつ光が薄まっていく。やはりこの光は人の不調を表すのだと翠鈴は確信する。
「蘭蘭、左の手首を痛めたのね」
もうひとつの光について指摘すると、蘭蘭はぎくりとした。
「ええ……まぁ、ちょっとぶつけてしまいまして」
気まずそうに言う。おそらく翠鈴がいない間に他の女官に嫌がらせでもされたのだろう。
「でも大したことないですよ。こうしていればそのうち治りますから」
そう言って手をぶんぶんと振るのを翠鈴は慌てて止める。
「ダメ、動かさないで!」
とりあえず、箸を添木代わりにあて布でぐるぐると巻いた。
「痛みがなくなるまではこのままよ。取ってはダメ、わかった?」
「わかりました。それにしても翠鈴さまには痛いところや悪いところが、すぐにわかるんですね。すごい目をお持ちです。まるで術みたい」
蘭蘭が感心したように言う。
彼女は例え話で言ったのだが、その通りだった。どうやら翠鈴は身体の悪いところが見えるようになったらしい。以前も、身体に触れればだいたいのことはわかったけれど、見ただけでわかるというのが驚きだ。
心あたりがあるとすれば、昨夜の出来事だろう。
きっと相手が神さまだったから。
この変化は、いわゆるご利益のようなもの……?
「……りんさま。翠鈴さま?」
考え込む翠鈴を蘭蘭が不思議そうに見ている。
「あ、ごめんなさい。食べようか」
そう言って、自分の椅子に座り箸を取ると、蘭蘭も食べだした。
「翠鈴さま、このお菜もお食べください。身体が温まってよいと食堂で言われまた」
「じゃあ、蘭蘭も食べなくちゃ」
「半分にしましょうか」
――その時。
シュッとなにかを擦ったような音がして、突然、白菊が姿を現した。
「きゃあ!」
翠鈴は思わず声をあげる。
蘭蘭は「ひぇ!」と言って、慌てて箸を置いた。そのまま真っ青になっている。妃と一緒に食事を取っているところを誰かに見られたら叱られるからである。
「し、白菊さま……! ああ、驚いた」
「食事中でしたか」
「は、はい。……蘭蘭、大丈夫よ。白菊さまは、人間同士のことにご興味はないの」
震えている蘭蘭を庇うために翠鈴は言う。
蘭蘭を咎めないでほしいという目で彼を見ると、白菊が「ええ、まぁ」と答えた。
蘭蘭はホッと息を吐く。
白菊が翠鈴に視線を戻した。
「私はあなたに話があって来たのです」
村へ帰る話だ。
「蘭蘭、ちょっと外で待っていてくれる? 大切なお話なの」
「かしこまりました」
素直に部屋を出て行く蘭蘭に、翠鈴の胸が罪悪感でいっぱいになった。せっかく親しくなれたのに、もうすぐお別れなのだ。いじめられるかもしれない場所に置いていかざるを得ない彼女が不憫だった。
扉が閉まったのを確認して翠鈴は口を開いた。
「白菊さま、お願いがあります」
白菊が眉を上げた。
「さっきの女官のことです。彼女、ここでひどくいじめられていたみたいなんです。たくさん働かされていてろくに食事も取れていないようでした。病になる一歩手前だったんです。私が帰ったあとも不当な扱いを受けないように目配りしてくださいませんでしょうか?」
当初、白菊から言われていた、ここでの役割を終えた今、気がかりはそれだけだ。
「病に……健康そうに見えましたが」
「しっかり食べさせて休ませたら元気になりました。でもまた同じような扱いを受けたら元に戻ってしまいます」
「食べさせて休ませた……」
蘭蘭が座っていた椅子を見て、白菊が呟いた。
「はい。ですから……」
「なるほど。ですがあなたはまずご自分のことを心配するべきです」
白菊の言葉に、翠鈴は首を傾げた。
「私のこと?」
「ええ、昨夜の話を聞かせてください。皇帝陛下の寝所でなにがあったのか」
「なっ……! なにがって……!」
ズバリ核心を突くような白菊からの問いかけに、翠鈴は真っ赤になってしまう。あやかしに気遣いを求めるのは無理な話なのかもしれないが、それにしても女人相手に不躾な質問だ。
それなのに白菊は平然として続きを促した。
「陛下に聞いても、だんまりで埒があかないのです。大切なことだというのに。だから仕方なく、あなたに聞きにきたというわけです。単刀直入に聞きます。昨夜あなたは陛下の寵愛を受けたのですか?」
赤い目でジッと見つめられては嘘をつくことはできない。
翠鈴は真っ赤になったまま頷いた。
「……受けました」
「なんてことだ……」
白菊が手で顔を覆い深いため息をついた。
「し、仕方がなかったんです……! 私にお断りすることはできませんし」
断りたいという気持ちは微塵もなかったがとりあえずそう言い訳をする。同時に昨夜の出来事が頭に浮かび、身体が熱くなった。
有無を言わせず寝台の上で組み敷かれたはずなのに、翠鈴に触れる彼の手は驚くほど優しかった。熱い吐息が身体中を辿る感覚に今まで感じたことのない胸の高鳴りを覚えたのだ。はじめて異性と身体を重ねる時は、苦痛も伴うものと聞いていたが、そのようなことは微塵もなく、ただ満たされた一夜だった……。
うつむく翠鈴に、白菊がため息をついた。
「ですがこれであなたは村へ帰れなくなりました」
「え? ど……どうしてですか?」
「あたりまえでしょう? 皇帝の寵愛を一度でも受けた妃は、生涯後宮の中で暮らす決まりです」
「そんな……!」
白菊の口から出た無情な言葉に、翠鈴は絶句する。
一方で白菊は翠鈴に背を向けて腕を組み、ぶつぶつと言い出した。
「それにしても陛下はいったいなにを考えているのか。私がなんのためにこの娘を連れてきたと……」
「約束が違うじゃありませんか!」
彼の背中に翠鈴が訴えると、白菊が振り返った。
「約束? 妙なことを言いますね。私が村へ帰すと言ったのは寵愛を受けないことが前提の話です。裏を返せば、寵愛を受ければ帰すことはできないのはあたりまえでしょう」
「そんな……」
「それに、いったいなにが不満なのです? 寵愛を受けた妃は後宮での待遇は格段によくなります。村での暮らしとは比べものにならないくらい贅沢ができますよ」
そう言って彼は、机に並ぶたくさんのお菜に視線を送った。
確かにここにいれば食べるのに困ることはないのだろう。その日暮らしだった村の生活とは比べものにならない。でもそれを翠鈴は望んでいないのだ。
「贅沢なんて興味ない。私は村に帰りたかっただけなのに……」
呟いて寝台に座り込む。
あまりの出来事に頭がついていかなかった。茫然とする翠鈴を見下ろして、白菊がため息をついた。
「贅沢なんて興味ない……人間のくせに、妙なことを言いますね。いずれにせよ、あなたには今日の夕刻『懐妊定めの儀』を受けていただきます。その先の話はその後です」
耳慣れない言葉に、やや放心状態の翠鈴はゆっくりと顔を上げた。
「懐妊定めの儀?」
「そうです。寵愛を受けた妃は次の日の夕刻に受ける決まりになっています。皇帝陛下のお子を宿していないかを確認するために」
「お子を?」
ぼんやりと聞き返す翠鈴に、白菊が呆れたような声を出した。
「そうですよ。まさか、どうやって子ができるか知らないわけじゃないでしょう? やることをやったら子はできます」
「そっ……! それはそうですが。そんなに早くわからないでしょう?」
確か村の産婆は、赤子ができたかどうかは三月にならないと確かなことは言えないと言っていた。翠鈴が皇帝と一夜を共にしたのは昨夜のことなのだ。わかるはずがない。
白菊が鼻で笑った。
「相手は龍神さまにございます。人相手とはわけが違う。次の日の夕刻には子ができたかできていないか判明いたします。それを定めるのが懐妊定めの儀です。宮廷内のすべての家臣と後宮のすべての妃が証人となるため、皆が見守る中で行われます」
翠鈴はぶるりと身を震わせた。今さらながら大変なことになってしまったと気がついたからだ。
昨夜のことを、ご利益を受けたくらいに思っていた自分はなんて迂闊なんだろう。皇帝と一夜を共にするということは国の一大事なのだ。
「……とはいえ、陛下のお子ができる可能性は極めて低いと思われます。たいていはひとりの龍神につきひとりの子ができるだけです。これはほかの人間には知られていないことですが」
翠鈴はホッと息を吐いた。
「そうですか……。よかった」
白菊がうっすらと笑った。
「本当に変な娘だ。皇帝の子を産めばあなたは皇后になれるかもしれないのですよ。権力を思うままに操りたいとは思わないのですか?」
「そんなこと、私は望んでおりません」
翠鈴が望んでいるのは静かな暮らし、村に帰り元の生活に戻ることだけだ。
白菊がやれやれというように肩をすくめた。
「……まぁ、そういうことなら、子ができていなければ、秘密裏に帰すよう取り計らってみましょうか。陛下のお許しが出ればの話ですが」
「お願いします!」
勢い込んで翠鈴は言う。
一夜を共にしたとはいえ、皇帝にとって自分は百人いる妃のうちのひとりなのだ。帰さないなどとは言わないだろう。子ができている可能性も低いというならば希望の光が見えてきた。
「では、懐妊定めの儀を終えたらまた詳細をお知らせします」
そう言ってシュッと音を立てて、白菊は消えた。
翠鈴は蘭蘭を呼ぶために扉を開ける。蘭蘭は少し不安そうに部屋の前に立っていた。開いた扉にホッと息を吐いて部屋の中に入ってくる。
廊下に、数人の妃たちが集まってひそひそと囁き合っていた。
「いったいどうやって、陛下をたぶらかしたのかしら」
「緑族の娘だもの、私たちにわからないような卑しいやり方じゃない?」
「どう考えても華夢さまの方がお美しいのに」
その言葉を聞きながら翠鈴は改めて決意する。
こんなところに一生閉じ込められてはたまらない。懐妊の義を終えたら皇帝の許しをもらって、なんとしても村に帰らなければ。
「翠鈴さま、おかえりなさいませ!」
部屋の中にいた蘭蘭が誇らしげに笑顔を見せた。
「あれ……? なんだか随分豪勢ね」
机の上にところせましと並べられた皿と茶碗の数々に、翠鈴が首を傾げると、背後で梓萌が口を開いた。
「寵愛をお受けになられた翌朝の朝食は、お妃さまの位に関係なく十品と決められております」
「そうなの」
本当になにもかもが寵愛ありきなのだと、呆れてしまうくらいだった。
「では、翠鈴妃さま。私はこれで」
頭を下げて梓萌が下がる。
翠鈴は朝食を見てため息をついた。
「こんなのとても食べきれないわ。蘭蘭あなた朝食は? まだなら一緒に食べましょう。……ふたりでも多いくらいだけど」
そう言って蘭蘭を見ると、彼女の目にみるみる涙が溜まっていく。ついには溢れてぼろぼろと泣き出した。
「翠鈴さまぁ」
「ど、どうしたの? 蘭蘭。私がいない間になにかあった? また嫌がらせされたのね?」
翠鈴が尋ねると、彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「違いますう。これは嬉し涙ですう。ご寵愛をお受けになられたこと、おめでとうございます」
そう言って、腕で顔を覆い、おいおいと泣いている。
「翠鈴さまは、どのお妃さまよりも心があたたかい方です。皇帝陛下は龍神さまですから、それがおわかりになったんです。私……私、う、嬉しいです」
「あ、ありがとう……」
戸惑いながら翠鈴は答える。正直言って、寵愛を受けたことが自分にとって喜ばしいことなのかどうなのかはわからなかったが、彼女の気持ちは素直に嬉しかった。
「とりあえず、食べてしまいましょう。冷めないうちに」
翠鈴がそう言うと蘭蘭は鼻を啜りながら素直に向いの席に座る。妃である翠鈴と一緒に食事を取ることに、抵抗はなくなったようだ。
その蘭蘭の首の後ろと手首に赤い光があることに気がついて翠鈴は手を止めた。首の後ろはちょうど、目の疲れや寝不足のつぼがあるあたりだ。
「翠鈴さまのお好きな肉入り饅頭は、ふたつ用意してもらいました。さすがに今日はなにも言われませんでしたよ。青菜もお召し上がりくださいね、お肌の調子がよくなります。私は胡麻団子をいただいてもいいですか?」
「蘭蘭、あなたその光はなに? 首と左の手首にも」
赤い光を見つめたまま翠鈴は尋ねる。
蘭蘭が首を傾げた。
「光……でございますか? 手首に? なにもありませんが」
蘭蘭が手首を見て首を傾げた。とぼけているようには思えない。蘭蘭には見えていないのだろうか?
翠鈴はジッと光を見つめる。赤い光は色も大きさも、さっき皇帝の身体にあったのと同じもののように思えた。
しかもその場所は……。
「あなたもしかして昨夜寝ていないの?」
――なんとなく、本当になんとなくなのだが、赤い光が彼女の不調をおしえてくれているような気がして、翠鈴は尋ねてみる。机の上の皿を並べ替えていた蘭蘭が、手を止めた。
「え? ……はい。翠鈴さまが戻ってこられると思っていましたから、起きてお待ちしておりました」
「起きて待ってたって……誰も知らせにこなかったの?」
「ええ、ですがどのみち寝られなかったと思いますよ。戻ってこられないということはご寵愛をお受けになられたということですから、ドキドキして……」
翠鈴は立ち上がり、蘭蘭の首の光に手をかざす。皇帝の時はそれだけで光は消えたが、今は変わらず光ったままだった。
「ちょっと触るわよ」
そう断り首の裏に触れる。こりこりとした感触を指に感じた。そこを丁寧に刺激する。
「あ〜、翠鈴さま。気持ちいいです〜! あ……急に眠気が。寝てしまいそう……」
「食事を終えたら、少し寝た方がいいわ」
指で刺激するたびに、少しずつ光が薄まっていく。やはりこの光は人の不調を表すのだと翠鈴は確信する。
「蘭蘭、左の手首を痛めたのね」
もうひとつの光について指摘すると、蘭蘭はぎくりとした。
「ええ……まぁ、ちょっとぶつけてしまいまして」
気まずそうに言う。おそらく翠鈴がいない間に他の女官に嫌がらせでもされたのだろう。
「でも大したことないですよ。こうしていればそのうち治りますから」
そう言って手をぶんぶんと振るのを翠鈴は慌てて止める。
「ダメ、動かさないで!」
とりあえず、箸を添木代わりにあて布でぐるぐると巻いた。
「痛みがなくなるまではこのままよ。取ってはダメ、わかった?」
「わかりました。それにしても翠鈴さまには痛いところや悪いところが、すぐにわかるんですね。すごい目をお持ちです。まるで術みたい」
蘭蘭が感心したように言う。
彼女は例え話で言ったのだが、その通りだった。どうやら翠鈴は身体の悪いところが見えるようになったらしい。以前も、身体に触れればだいたいのことはわかったけれど、見ただけでわかるというのが驚きだ。
心あたりがあるとすれば、昨夜の出来事だろう。
きっと相手が神さまだったから。
この変化は、いわゆるご利益のようなもの……?
「……りんさま。翠鈴さま?」
考え込む翠鈴を蘭蘭が不思議そうに見ている。
「あ、ごめんなさい。食べようか」
そう言って、自分の椅子に座り箸を取ると、蘭蘭も食べだした。
「翠鈴さま、このお菜もお食べください。身体が温まってよいと食堂で言われまた」
「じゃあ、蘭蘭も食べなくちゃ」
「半分にしましょうか」
――その時。
シュッとなにかを擦ったような音がして、突然、白菊が姿を現した。
「きゃあ!」
翠鈴は思わず声をあげる。
蘭蘭は「ひぇ!」と言って、慌てて箸を置いた。そのまま真っ青になっている。妃と一緒に食事を取っているところを誰かに見られたら叱られるからである。
「し、白菊さま……! ああ、驚いた」
「食事中でしたか」
「は、はい。……蘭蘭、大丈夫よ。白菊さまは、人間同士のことにご興味はないの」
震えている蘭蘭を庇うために翠鈴は言う。
蘭蘭を咎めないでほしいという目で彼を見ると、白菊が「ええ、まぁ」と答えた。
蘭蘭はホッと息を吐く。
白菊が翠鈴に視線を戻した。
「私はあなたに話があって来たのです」
村へ帰る話だ。
「蘭蘭、ちょっと外で待っていてくれる? 大切なお話なの」
「かしこまりました」
素直に部屋を出て行く蘭蘭に、翠鈴の胸が罪悪感でいっぱいになった。せっかく親しくなれたのに、もうすぐお別れなのだ。いじめられるかもしれない場所に置いていかざるを得ない彼女が不憫だった。
扉が閉まったのを確認して翠鈴は口を開いた。
「白菊さま、お願いがあります」
白菊が眉を上げた。
「さっきの女官のことです。彼女、ここでひどくいじめられていたみたいなんです。たくさん働かされていてろくに食事も取れていないようでした。病になる一歩手前だったんです。私が帰ったあとも不当な扱いを受けないように目配りしてくださいませんでしょうか?」
当初、白菊から言われていた、ここでの役割を終えた今、気がかりはそれだけだ。
「病に……健康そうに見えましたが」
「しっかり食べさせて休ませたら元気になりました。でもまた同じような扱いを受けたら元に戻ってしまいます」
「食べさせて休ませた……」
蘭蘭が座っていた椅子を見て、白菊が呟いた。
「はい。ですから……」
「なるほど。ですがあなたはまずご自分のことを心配するべきです」
白菊の言葉に、翠鈴は首を傾げた。
「私のこと?」
「ええ、昨夜の話を聞かせてください。皇帝陛下の寝所でなにがあったのか」
「なっ……! なにがって……!」
ズバリ核心を突くような白菊からの問いかけに、翠鈴は真っ赤になってしまう。あやかしに気遣いを求めるのは無理な話なのかもしれないが、それにしても女人相手に不躾な質問だ。
それなのに白菊は平然として続きを促した。
「陛下に聞いても、だんまりで埒があかないのです。大切なことだというのに。だから仕方なく、あなたに聞きにきたというわけです。単刀直入に聞きます。昨夜あなたは陛下の寵愛を受けたのですか?」
赤い目でジッと見つめられては嘘をつくことはできない。
翠鈴は真っ赤になったまま頷いた。
「……受けました」
「なんてことだ……」
白菊が手で顔を覆い深いため息をついた。
「し、仕方がなかったんです……! 私にお断りすることはできませんし」
断りたいという気持ちは微塵もなかったがとりあえずそう言い訳をする。同時に昨夜の出来事が頭に浮かび、身体が熱くなった。
有無を言わせず寝台の上で組み敷かれたはずなのに、翠鈴に触れる彼の手は驚くほど優しかった。熱い吐息が身体中を辿る感覚に今まで感じたことのない胸の高鳴りを覚えたのだ。はじめて異性と身体を重ねる時は、苦痛も伴うものと聞いていたが、そのようなことは微塵もなく、ただ満たされた一夜だった……。
うつむく翠鈴に、白菊がため息をついた。
「ですがこれであなたは村へ帰れなくなりました」
「え? ど……どうしてですか?」
「あたりまえでしょう? 皇帝の寵愛を一度でも受けた妃は、生涯後宮の中で暮らす決まりです」
「そんな……!」
白菊の口から出た無情な言葉に、翠鈴は絶句する。
一方で白菊は翠鈴に背を向けて腕を組み、ぶつぶつと言い出した。
「それにしても陛下はいったいなにを考えているのか。私がなんのためにこの娘を連れてきたと……」
「約束が違うじゃありませんか!」
彼の背中に翠鈴が訴えると、白菊が振り返った。
「約束? 妙なことを言いますね。私が村へ帰すと言ったのは寵愛を受けないことが前提の話です。裏を返せば、寵愛を受ければ帰すことはできないのはあたりまえでしょう」
「そんな……」
「それに、いったいなにが不満なのです? 寵愛を受けた妃は後宮での待遇は格段によくなります。村での暮らしとは比べものにならないくらい贅沢ができますよ」
そう言って彼は、机に並ぶたくさんのお菜に視線を送った。
確かにここにいれば食べるのに困ることはないのだろう。その日暮らしだった村の生活とは比べものにならない。でもそれを翠鈴は望んでいないのだ。
「贅沢なんて興味ない。私は村に帰りたかっただけなのに……」
呟いて寝台に座り込む。
あまりの出来事に頭がついていかなかった。茫然とする翠鈴を見下ろして、白菊がため息をついた。
「贅沢なんて興味ない……人間のくせに、妙なことを言いますね。いずれにせよ、あなたには今日の夕刻『懐妊定めの儀』を受けていただきます。その先の話はその後です」
耳慣れない言葉に、やや放心状態の翠鈴はゆっくりと顔を上げた。
「懐妊定めの儀?」
「そうです。寵愛を受けた妃は次の日の夕刻に受ける決まりになっています。皇帝陛下のお子を宿していないかを確認するために」
「お子を?」
ぼんやりと聞き返す翠鈴に、白菊が呆れたような声を出した。
「そうですよ。まさか、どうやって子ができるか知らないわけじゃないでしょう? やることをやったら子はできます」
「そっ……! それはそうですが。そんなに早くわからないでしょう?」
確か村の産婆は、赤子ができたかどうかは三月にならないと確かなことは言えないと言っていた。翠鈴が皇帝と一夜を共にしたのは昨夜のことなのだ。わかるはずがない。
白菊が鼻で笑った。
「相手は龍神さまにございます。人相手とはわけが違う。次の日の夕刻には子ができたかできていないか判明いたします。それを定めるのが懐妊定めの儀です。宮廷内のすべての家臣と後宮のすべての妃が証人となるため、皆が見守る中で行われます」
翠鈴はぶるりと身を震わせた。今さらながら大変なことになってしまったと気がついたからだ。
昨夜のことを、ご利益を受けたくらいに思っていた自分はなんて迂闊なんだろう。皇帝と一夜を共にするということは国の一大事なのだ。
「……とはいえ、陛下のお子ができる可能性は極めて低いと思われます。たいていはひとりの龍神につきひとりの子ができるだけです。これはほかの人間には知られていないことですが」
翠鈴はホッと息を吐いた。
「そうですか……。よかった」
白菊がうっすらと笑った。
「本当に変な娘だ。皇帝の子を産めばあなたは皇后になれるかもしれないのですよ。権力を思うままに操りたいとは思わないのですか?」
「そんなこと、私は望んでおりません」
翠鈴が望んでいるのは静かな暮らし、村に帰り元の生活に戻ることだけだ。
白菊がやれやれというように肩をすくめた。
「……まぁ、そういうことなら、子ができていなければ、秘密裏に帰すよう取り計らってみましょうか。陛下のお許しが出ればの話ですが」
「お願いします!」
勢い込んで翠鈴は言う。
一夜を共にしたとはいえ、皇帝にとって自分は百人いる妃のうちのひとりなのだ。帰さないなどとは言わないだろう。子ができている可能性も低いというならば希望の光が見えてきた。
「では、懐妊定めの儀を終えたらまた詳細をお知らせします」
そう言ってシュッと音を立てて、白菊は消えた。
翠鈴は蘭蘭を呼ぶために扉を開ける。蘭蘭は少し不安そうに部屋の前に立っていた。開いた扉にホッと息を吐いて部屋の中に入ってくる。
廊下に、数人の妃たちが集まってひそひそと囁き合っていた。
「いったいどうやって、陛下をたぶらかしたのかしら」
「緑族の娘だもの、私たちにわからないような卑しいやり方じゃない?」
「どう考えても華夢さまの方がお美しいのに」
その言葉を聞きながら翠鈴は改めて決意する。
こんなところに一生閉じ込められてはたまらない。懐妊の義を終えたら皇帝の許しをもらって、なんとしても村に帰らなければ。