皇帝と一夜をともにした妃は、後宮の湯殿ではなく皇帝の宮にある湯殿で、湯浴みをする決まりだという。

「皇帝陛下の寵愛をお受けになられたお身体を、みだりに他人に見られないためにございます。このためだけに雇われた女官がお身体を洗わせていただきます」

 梓萌の言葉に、翠鈴は抵抗した。誰かに身体を洗われるなど恥ずかしくて嫌だった。赤ん坊じゃないのだから、自分で洗えると何度も主張したが、結局押し切られすべて洗われることになってしまった。
 頭のてっぺんから爪の先までぴかぴかになった翠鈴は、真新しい白い衣装を着せられて、後宮へと戻るため長い渡り廊下を梓萌に続き歩いている。

「朝食をお部屋にご用意してございます。お部屋までご案内いたします」

 案内など不要とわかっているはずなのに、気持ち悪いほどにこやかに言う。本当に昨日とはまったく違う態度だった。
 廊下の先の赤い扉まで辿り着き、扉が開く。
 ちょうど朝食を終えた頃で妃たちは中庭で思い思いの時をすごしている。皇帝の寝所から戻ってきた翠鈴に、その場が静まりかえった。
 今まで皇帝は、寝所へ召された妃をすぐに下がらせていたという話だから、夜のうちに後宮へ戻ってくるのが普通なのだ。それなのに朝になるまで帰ってこなかった翠鈴を、どう捉えるべきかわからないのだろう。
 異様な空気の中、翠鈴は廊下を進む。

「翠鈴妃さま」

 呼びかけられて、梓萌が足を止める。華夢だった。
 彼女は朝日が差し込む中庭で、妃たちに囲まれて長椅子に座っていた。薄紫色の衣装を身につけて優雅に微笑んでいる様は、まるで花の上を飛ぶ蝶のように可憐だった。立ち上がり、翠鈴のところまでやってきて手を取った。

「翠鈴妃さまが、皇帝陛下にご寵愛いただいたこと、心よりお喜び申し上げます」

 一点の曇りもない笑顔を見せる。
 でもそこで、手のひらにちくりと痛みを感じて、翠鈴は顔を歪めた。華夢がはめている純金の指輪が鋭い針のように尖っている。反射的に手を引っ込めた。

「私はなにも……」

 痛む手をもう一方の手で庇い小さな声を出す。
 華夢が眉を寄せた。

「なれど翠鈴妃さま、昨夜は黙っておりましたが、あのお衣装は感心できません。なんといっても陛下の御前にお伺いするのですから。あのような衣装を準備した女官には罰をお与えくださいませね?」

 女官に罰をと言う華夢に、翠鈴は首を横に振った。

「女官のせいではありません。白菊さまがお届けくださったお衣装が、私の部屋へ届くまでに泥まみれになっていたのです。だから……仕方なく」

 女官とはすなわち蘭蘭のことだ。なんの落ち度もない彼女を罰するなどしたくない。

「なれば衣装をダメにした罪で、やはり女官を罰するべきだわ。それが後宮の秩序を守るということよ」

 そう言い残し袖をヒラヒラさせて去っていった。

「参りましょう」

 梓萌が歩きだし、翠鈴は後に続いた。
 頭の中は、不安でいっぱいだった。
 昨夜まで翠鈴の存在は、招かざる客ではあるものの取るに足らない存在だった。寵愛を受ける可能性はない妃だったから。
 だからこそ、華夢は翠鈴に親切にしてくれた。だが予想に反して、翠鈴が寵愛を受けたことで、そうではなくなったということだ。

 ――尖った指輪の件は、宣戦布告なのかもしれない。

 唯一親切に声をかけてくれていた華夢まで敵にまわってしまったら、ますますここでの翠鈴の立場は危ういものになる。

 ……だとしても、大丈夫。すぐに去るのだから。

 明らかな敵意を滲ませる妃たちの視線を感じながら、翠鈴は一生懸命自分自身に言い聞かせた。