玉座の間から短い廊下で繋がった部屋が、劉弦が執務室として使っている空間だ。特殊な結界が張ってあり、劉弦以外は白菊しか入れない。雲が渦巻く天井の下、なにもない空間に椅子がひとつ置いてある。
扉を閉めると同時に、白菊が姿を現した。
「劉弦さま、いったいどうされたんです? 昨夜、なにがあったんですか?」
開口一番問いかける。
劉弦は答えなかった。答えられなかったのだ。昨夜起きたことの説明をうまくできる自信がない。
「まさか、あの娘に手をつけたのではないでしょうね? もしそうであれば、天界へ戻ることはできなくなりますよ」
咎めるように白菊は言う。
「もう時間がないというのに、このままではあなたさまは邪神に……」
「それは大丈夫だ。私は邪神にはならない」
気色ばむ白菊の言葉を遮って、劉弦は言い切った。
今朝目覚めた時から、視界の曇りは晴れ、心は澄み渡っている。昨夜までの自分とは違うと明確に言い切れた。今すぐに邪神に成り果てることがないのは確かだった。
「頭痛も消えた、目もよく見える」
とりあえず、白菊の懸念を取り払うためそう言うと、彼は切れ長の目を見開いた。
「それは……」
「もうよい、下がれ。少しひとりで考えたい」
それが今の自分には必要だった。自分の体調はすなわち国の状態。状況がよくなったようにも思えるが、それがいったいなぜなのか、はっきりわからなければ手放しでは喜べない。
「……御意」
白菊が消えると、劉弦は目を閉じる。意識を雲の上までもってくると、やはり国の隅々まで綺麗に見渡せた。
目を開き、劉弦はこの現象の原因に思いを馳せる。心あたりは、百の妃緑翠鈴と一夜を共にしたことだった。
――昨夜は不可解なことの連続だった。
そもそもはじめからしておかしかったのだ。
寝室にて、妃を待つあの時間。
後宮と寝所を繋ぐ渡り廊下を、ひたりひたりと近づいてくるあの足音は、普段なら憂うつでうっとおしく感じるはずなのだ。それなのに昨夜に限っては妙に心地よく耳に響いた。
足音の主が一歩一歩近づいてくるたびに、空気が澄んでゆくような心地がしたのもいつもとまったく逆の感覚だ。
そして現れた娘は質素ななりをしていた。およそ皇帝の寝所に召されたたとは思えない格好のその娘に、劉弦の視線は吸い寄せられ逸らすことができなかった。
彼女の纏う清廉で塵ひとつ浮いていない澄んだ泉のような空気……。
――あのような人間ははじめてだ。
いつも劉弦は、入室した妃を近寄らせることはせず、そのまま下がらせる。それなのに昨夜は強く惹きつけられるような奇妙な衝動に襲われて、立ち上がり自分から歩み寄ってしまったのだ。
そして指先がほんの少し触れただけで、彼女が宿命の妃だと確信した。
はじめからこうなることが決まっていたのだという思いを胸に、彼女を腕に抱き上げた。すぐ近くから見る彼女の柔らかそうな唇にまるで誘われているような心地がして、迷わずそこへ口づけた。
そして目覚めたら、この状況……。
首の後ろに手をあてて、劉弦は朝の翠鈴を思い出した。
『赤い光を消していました』
劉弦を悩ませていた頭痛が消えたのは、彼女が言ったことと無関係ではないだろう。
彼女が宿命の妃ならば、翡翠の手の使い手だからだ。
劉弦は目を閉じて、深呼吸する。
そもそも、龍の姿で眠っているところを見られてしまったこと自体あり得ない。
神は本来の姿を人に見せるものではないからだ。よほど気を許した相手、信頼できる者にしか、龍に戻った姿を見せたことはなかったというのに……。
「緑翠鈴、か」
天井の雲を見上げて劉弦は呟いた。
扉を閉めると同時に、白菊が姿を現した。
「劉弦さま、いったいどうされたんです? 昨夜、なにがあったんですか?」
開口一番問いかける。
劉弦は答えなかった。答えられなかったのだ。昨夜起きたことの説明をうまくできる自信がない。
「まさか、あの娘に手をつけたのではないでしょうね? もしそうであれば、天界へ戻ることはできなくなりますよ」
咎めるように白菊は言う。
「もう時間がないというのに、このままではあなたさまは邪神に……」
「それは大丈夫だ。私は邪神にはならない」
気色ばむ白菊の言葉を遮って、劉弦は言い切った。
今朝目覚めた時から、視界の曇りは晴れ、心は澄み渡っている。昨夜までの自分とは違うと明確に言い切れた。今すぐに邪神に成り果てることがないのは確かだった。
「頭痛も消えた、目もよく見える」
とりあえず、白菊の懸念を取り払うためそう言うと、彼は切れ長の目を見開いた。
「それは……」
「もうよい、下がれ。少しひとりで考えたい」
それが今の自分には必要だった。自分の体調はすなわち国の状態。状況がよくなったようにも思えるが、それがいったいなぜなのか、はっきりわからなければ手放しでは喜べない。
「……御意」
白菊が消えると、劉弦は目を閉じる。意識を雲の上までもってくると、やはり国の隅々まで綺麗に見渡せた。
目を開き、劉弦はこの現象の原因に思いを馳せる。心あたりは、百の妃緑翠鈴と一夜を共にしたことだった。
――昨夜は不可解なことの連続だった。
そもそもはじめからしておかしかったのだ。
寝室にて、妃を待つあの時間。
後宮と寝所を繋ぐ渡り廊下を、ひたりひたりと近づいてくるあの足音は、普段なら憂うつでうっとおしく感じるはずなのだ。それなのに昨夜に限っては妙に心地よく耳に響いた。
足音の主が一歩一歩近づいてくるたびに、空気が澄んでゆくような心地がしたのもいつもとまったく逆の感覚だ。
そして現れた娘は質素ななりをしていた。およそ皇帝の寝所に召されたたとは思えない格好のその娘に、劉弦の視線は吸い寄せられ逸らすことができなかった。
彼女の纏う清廉で塵ひとつ浮いていない澄んだ泉のような空気……。
――あのような人間ははじめてだ。
いつも劉弦は、入室した妃を近寄らせることはせず、そのまま下がらせる。それなのに昨夜は強く惹きつけられるような奇妙な衝動に襲われて、立ち上がり自分から歩み寄ってしまったのだ。
そして指先がほんの少し触れただけで、彼女が宿命の妃だと確信した。
はじめからこうなることが決まっていたのだという思いを胸に、彼女を腕に抱き上げた。すぐ近くから見る彼女の柔らかそうな唇にまるで誘われているような心地がして、迷わずそこへ口づけた。
そして目覚めたら、この状況……。
首の後ろに手をあてて、劉弦は朝の翠鈴を思い出した。
『赤い光を消していました』
劉弦を悩ませていた頭痛が消えたのは、彼女が言ったことと無関係ではないだろう。
彼女が宿命の妃ならば、翡翠の手の使い手だからだ。
劉弦は目を閉じて、深呼吸する。
そもそも、龍の姿で眠っているところを見られてしまったこと自体あり得ない。
神は本来の姿を人に見せるものではないからだ。よほど気を許した相手、信頼できる者にしか、龍に戻った姿を見せたことはなかったというのに……。
「緑翠鈴、か」
天井の雲を見上げて劉弦は呟いた。