知らない場所へ行く夢を見た。
そこは綺麗な色の雲の上で、身体が驚くほど軽いのだ。翠鈴は男性と手を繋いで雲の上をゆっくりと歩いている。
相手が誰かはわからない。顔が見えるようで見えないからだ。けれど心の底から安心できる相手だというのは間違いない。
やがてふたりは、雲の泉から七色の水が湧き出る泉へと辿り着く。
男性が大丈夫というかのように頷いて、泉に視線を送る。柔らかな微笑みに導かれるようにして泉へ足を踏み入れると、翠鈴は七色の光に包まれた。
瞼の向こうに光を感じて、翠鈴の意識は現へと引き戻される。ゆっくりと目を開くと温かいなにかに包まれていた。
ぼんやりと目に映る、生まれ育った自分の家でも後宮に与えられた部屋でもない光景に、ハッとして目を開き思わず声をあげそうになってしまう。
窓から差し込む朝日の中で、自分がくっついて寝ていた"あるもの"に驚いたからである。
天蓋付きの寝台から、はみ出るような形で翠鈴を包んでいたもの、それは銀色に輝く龍だった。とぐろを巻くように翠鈴を包んでいる。
言葉もなく翠鈴はその美しい龍を見つめた。黄金色の長い髭と光の加減によっては虹色にも思える鱗。目は閉じていてゆっくりと呼吸している。眠っているのだ。見た目は固そうに思えるのに、翠鈴が触れている部分は意外なほど柔らかい。
とそこまで考えて、翠鈴はまた声をあげそうになってしまう。自分がなにも身につけていないことに気がついたからだ。
慌ててかけ布を引き寄せて裸の身体に巻き付ける。寝台のそばの床に丸まって落ちている自分の作務衣を直視することができなかった。昨夜ここで起こったことを思い出して頭から茹で上がるような心地になった。
眠る銀色の龍は間違いなく皇帝だ。昨夜は人の姿だったが、彼は龍神なのだからこれが本来の姿なのだ。
それにしても、どうしてこんなことになってしまったのだろう?
翠鈴が寵愛を受けることはないと白菊は言い切った。そもそもほかの妃だって誰ひとり、寵愛を受けていないという話だったのに。
この部屋で一夜を過ごしてしまうなんて……。
医療を施す者の心得として、男女のことは知識としては知っていた。でも経験はまったくなく、それどころか今後経験する予定もないと思っていたのに。はじめて顔を会わせた男性と、すぐに深い仲になってしまったことが信じられなかった。
もちろん相手は皇帝なのだから、たとえ嫌だと思っても断ることはできなかった。翠鈴がなにより不思議なのは、術にでもかかったように、彼に触れられることを少しも嫌だと思わなかったことだ。
それどころか……。
銀色の龍は、相変わらず穏やかな寝息を立てている。長い銀色のまつ毛が差し込む朝日に反射してキラキラと輝いていた。
その身体に、ところどころに赤く光る箇所がある。耳の後ろ、首、背中……。人でいうとちょうど、ツボがあるあたりだ。
首を傾げて、翠鈴はその光に手をかざす。どうしてか、そうするのが正しいことのように思えたからだ。かざしたその手が温かくなり、同時に赤い光がすっと消えた。
他の箇所へも手をかざしてみる。本当にどうしてかわからないけれど、そうするべきだと思ったからだ。
そうして翠鈴が最後のひとつを消した時――。
「なにをしている」
声とともに風がびゅっと吹いて翠鈴を包む。窓がガタガタと大きな音を立てた。目を閉じて開いた時には龍は消え、代わりに皇帝に腕を掴まれていた。鋭い視線で彼は翠鈴を見ている。
翠鈴はなにも答えられなかった。
「あの……」
なにをしていたか自分でもよくわからなかったからだ。ただ、なにかに導かれるように手をかざしていただけで……。
鋭い視線に、恐る恐る口を開く。
「赤い光を消していました」
「光?」
「陛下のお身体のあちこちに……」
それ以上は説明できずに口を閉じる。
皇帝が「身体の?」と呟いて眉を寄せた。そしてハッとしたように首の後ろに手を当てて、訝しむように目を細めた。
「……そなた、名は?」
「緑翠鈴と申します」
「翠鈴……」
皇帝が繰り返した時。
「皇帝陛下! 陛下! 騒がしいですが、いかがされました?」
扉の向こうから、呼びかける声がする。さっきの風が窓枠を揺らしたことを不審に思って駆けつけたのだろう。
翠鈴はハッとして、身体に巻き付けた布の胸元を握りしめた。声の主が男だからだ。なにも着ていないのに入ってこられるのは嫌だった。
彼らが扉を開ける前に服を着たい。でも皇帝の目の前で身体に巻き付けた布を解き、作務衣を着る勇気もない。
そんな翠鈴をちらりと見て、皇帝が扉に向かって口を開いた。
「大事ない。百の妃を下がらせる。女官のみ入室するように」
「御意にございます」
翠鈴がホッとした時、ゆっくりと扉が開いて、女官が数名部屋へ入ってくる。その中に梓萌もいた。素肌に布を巻いただけの翠鈴を見て、一瞬信じられないという表情になるが、皇帝の手前、なにも言わなかった。
「翠鈴妃さま、こちらへ」
寝台のそばまで来て、翠鈴に手を差し出した。混乱しながらも翠鈴はその手を取った。とにかく早くこの状況から逃れたい。
寝台を下りると、皇帝が梓萌に向かって口を開いた。
「湯浴みをさせて、身体を慰るように」
その言葉に、翠鈴の頬が熱くなる。翠鈴のことを思っての慈悲深い言葉だ。が、否が応でも昨夜のことを連想させられてしまい、耳を塞ぎたくなる。
梓萌も瞬きをして一瞬固まったが、すぐに頭を下げた。
「かしこまりました。翠鈴妃さま、参りましょう。段差がありますから、お気をつけくださいませ」
昨夜までとはまったく違う、へりくだった態度だった。そのことが翠鈴を余計に混乱させる。
大変なことになってしまった、という考えが頭の中をぐるぐる回るのを感じながら、翠鈴は部屋を後にした。
そこは綺麗な色の雲の上で、身体が驚くほど軽いのだ。翠鈴は男性と手を繋いで雲の上をゆっくりと歩いている。
相手が誰かはわからない。顔が見えるようで見えないからだ。けれど心の底から安心できる相手だというのは間違いない。
やがてふたりは、雲の泉から七色の水が湧き出る泉へと辿り着く。
男性が大丈夫というかのように頷いて、泉に視線を送る。柔らかな微笑みに導かれるようにして泉へ足を踏み入れると、翠鈴は七色の光に包まれた。
瞼の向こうに光を感じて、翠鈴の意識は現へと引き戻される。ゆっくりと目を開くと温かいなにかに包まれていた。
ぼんやりと目に映る、生まれ育った自分の家でも後宮に与えられた部屋でもない光景に、ハッとして目を開き思わず声をあげそうになってしまう。
窓から差し込む朝日の中で、自分がくっついて寝ていた"あるもの"に驚いたからである。
天蓋付きの寝台から、はみ出るような形で翠鈴を包んでいたもの、それは銀色に輝く龍だった。とぐろを巻くように翠鈴を包んでいる。
言葉もなく翠鈴はその美しい龍を見つめた。黄金色の長い髭と光の加減によっては虹色にも思える鱗。目は閉じていてゆっくりと呼吸している。眠っているのだ。見た目は固そうに思えるのに、翠鈴が触れている部分は意外なほど柔らかい。
とそこまで考えて、翠鈴はまた声をあげそうになってしまう。自分がなにも身につけていないことに気がついたからだ。
慌ててかけ布を引き寄せて裸の身体に巻き付ける。寝台のそばの床に丸まって落ちている自分の作務衣を直視することができなかった。昨夜ここで起こったことを思い出して頭から茹で上がるような心地になった。
眠る銀色の龍は間違いなく皇帝だ。昨夜は人の姿だったが、彼は龍神なのだからこれが本来の姿なのだ。
それにしても、どうしてこんなことになってしまったのだろう?
翠鈴が寵愛を受けることはないと白菊は言い切った。そもそもほかの妃だって誰ひとり、寵愛を受けていないという話だったのに。
この部屋で一夜を過ごしてしまうなんて……。
医療を施す者の心得として、男女のことは知識としては知っていた。でも経験はまったくなく、それどころか今後経験する予定もないと思っていたのに。はじめて顔を会わせた男性と、すぐに深い仲になってしまったことが信じられなかった。
もちろん相手は皇帝なのだから、たとえ嫌だと思っても断ることはできなかった。翠鈴がなにより不思議なのは、術にでもかかったように、彼に触れられることを少しも嫌だと思わなかったことだ。
それどころか……。
銀色の龍は、相変わらず穏やかな寝息を立てている。長い銀色のまつ毛が差し込む朝日に反射してキラキラと輝いていた。
その身体に、ところどころに赤く光る箇所がある。耳の後ろ、首、背中……。人でいうとちょうど、ツボがあるあたりだ。
首を傾げて、翠鈴はその光に手をかざす。どうしてか、そうするのが正しいことのように思えたからだ。かざしたその手が温かくなり、同時に赤い光がすっと消えた。
他の箇所へも手をかざしてみる。本当にどうしてかわからないけれど、そうするべきだと思ったからだ。
そうして翠鈴が最後のひとつを消した時――。
「なにをしている」
声とともに風がびゅっと吹いて翠鈴を包む。窓がガタガタと大きな音を立てた。目を閉じて開いた時には龍は消え、代わりに皇帝に腕を掴まれていた。鋭い視線で彼は翠鈴を見ている。
翠鈴はなにも答えられなかった。
「あの……」
なにをしていたか自分でもよくわからなかったからだ。ただ、なにかに導かれるように手をかざしていただけで……。
鋭い視線に、恐る恐る口を開く。
「赤い光を消していました」
「光?」
「陛下のお身体のあちこちに……」
それ以上は説明できずに口を閉じる。
皇帝が「身体の?」と呟いて眉を寄せた。そしてハッとしたように首の後ろに手を当てて、訝しむように目を細めた。
「……そなた、名は?」
「緑翠鈴と申します」
「翠鈴……」
皇帝が繰り返した時。
「皇帝陛下! 陛下! 騒がしいですが、いかがされました?」
扉の向こうから、呼びかける声がする。さっきの風が窓枠を揺らしたことを不審に思って駆けつけたのだろう。
翠鈴はハッとして、身体に巻き付けた布の胸元を握りしめた。声の主が男だからだ。なにも着ていないのに入ってこられるのは嫌だった。
彼らが扉を開ける前に服を着たい。でも皇帝の目の前で身体に巻き付けた布を解き、作務衣を着る勇気もない。
そんな翠鈴をちらりと見て、皇帝が扉に向かって口を開いた。
「大事ない。百の妃を下がらせる。女官のみ入室するように」
「御意にございます」
翠鈴がホッとした時、ゆっくりと扉が開いて、女官が数名部屋へ入ってくる。その中に梓萌もいた。素肌に布を巻いただけの翠鈴を見て、一瞬信じられないという表情になるが、皇帝の手前、なにも言わなかった。
「翠鈴妃さま、こちらへ」
寝台のそばまで来て、翠鈴に手を差し出した。混乱しながらも翠鈴はその手を取った。とにかく早くこの状況から逃れたい。
寝台を下りると、皇帝が梓萌に向かって口を開いた。
「湯浴みをさせて、身体を慰るように」
その言葉に、翠鈴の頬が熱くなる。翠鈴のことを思っての慈悲深い言葉だ。が、否が応でも昨夜のことを連想させられてしまい、耳を塞ぎたくなる。
梓萌も瞬きをして一瞬固まったが、すぐに頭を下げた。
「かしこまりました。翠鈴妃さま、参りましょう。段差がありますから、お気をつけくださいませ」
昨夜までとはまったく違う、へりくだった態度だった。そのことが翠鈴を余計に混乱させる。
大変なことになってしまった、という考えが頭の中をぐるぐる回るのを感じながら、翠鈴は部屋を後にした。