長旅でくたくたに疲れていた翠鈴だが、贅沢な夕食とちゃんとした寝台でぐっすり眠ったことで、朝には元気を取り戻した。
そして起きてからまず取り掛かったのは部屋の掃除である。翠鈴に与えられた部屋は、立派だけれどとにかく埃っぽい。数日でも過ごすなら、なるべく綺麗なところで気持ちよく過ごしたかった。
さいわいにして、掃除道具はすでにたくさん部屋の中にある。まずは窓を覆ってあった黒い幕を取り払い、朝日を部屋の中に取り込む。窓や窓枠、机と椅子を雑巾で拭いていると梓萌に指示されたと思しき女官たちが、物置の物を移動させるためにやってきた。朝早くから掃除をしている翠鈴に驚いている。
「ちょうどよかった。寝台の布を取り替えたいから、洗濯が済んだ物をいただけないかしら?」
翠鈴の頼みに目を丸くして頷いた。彼女たちの向こうでは、目を覚ました妃たちが、部屋を覗き込みまたヒソヒソと話をしている。朝から掃除を始めた翠鈴に驚いているようだ。
部屋の物の運び出しを終えて床もピカピカになり、寝台の布も替えてひと息ついた時、若い女官がやってきた。
「す、翠鈴妃さま、ちょ、朝食を、お、お持ちいたしました……」
聞き取るのがようやくというほど、細い声だ。手にしている食事を載せた盆がカタカタと揺れている。なにもそんなに、というほど怯えているのが可哀想になるほどだ。
「ありがとう」
答えると、彼女は恐る恐るといった様子で部屋の中へ入ってきて机の上に盆を置く。今日はちゃんと妃用の食事なのだろう。汁物と白い飯の他に青菜の炒め物や果物など三品ほどの皿が並んでいる。
「朝食は三品なのね」
覗き込み、翠鈴は呟いた。さすがは後宮、朝から豪華だ。汁物と飯の他に、三品もおかずが付くなんて。祭りの時に村の皆で食べるご馳走のようだった。
朝からたくさん働いた翠鈴のお腹がぐーっと鳴った時、女官がしゃがみ込み床に額をつけた。
「申し訳ございませんっ!」
突然の出来事に、翠鈴はお腹に手を当てたまま固まった。震える女官の肩を見つめながら口を開いた。
「とりあえず、そんなところにぺったんこになってないで、ちゃんと椅子に座ってちょうだい」
声をかけると彼女は驚いたように顔を上げる。翠鈴よりも二、三歳若くどこか幼さの残る素朴な娘だった。
怯える彼女を椅子に座らせ、翠鈴は事情を聞くことにする。涙を浮かべてつっかえながら答える彼女からようやく聞き出せたのは、持ってきた朝食の品数が他の妃よりも少ないということだ。
後宮では妃の位によって食事の品数が決まっているのだという。
皇后と皇貴妃は十品、貴妃が七品、貴人は五品という具合だ。翠鈴は貴人だから本当なら五品持ってこなくてはならなかった。でも今ここにある食事は三品で、そのことについて謝っていたというわけだ。
彼女は詳細を語らなかったが、細くて青い顔をしたこの女官がそうせざるをえなかった事情は、なんとなく想像がついた。
前日の女官と妃たちの反応から、ここでは翠鈴が招かざる客であるのは明らかだ。進んで世話をしたいと思う女官など皆無だろう。
おそらくこの痩せ細った女官は皆に嫌な仕事を押し付けられたのだ。しかも嫌がらせのように、品数が足りない食事を持っていくように言われたところから考えると、この女官が、他の女官たちからいい扱いを受けていないこと予想がついた。
かわいそうに、と翠鈴は同情する。まだ若い彼女が気の毒だった。
身を屈めて、うつむく彼女に視線を合わせた。
「あなた、名前は?」
「……蘭蘭です」
「蘭蘭、私が昨日ここへ来たのは、予定外のことだったんでしょう? なにもなくてもおかしくないのに、三品も持ってきてくれるなんて、ありがたいわ」
そう声をかけると、彼女は驚いたように翠鈴を見る。目にみるみる涙が溜まってあっという間に溢れ出した。
涙を拭く手に、長い棒で打ったようなあざを見つけて翠鈴の胸は痛んだ。彼女に罰を与えたのは妃たちだろうか? なんてひどい仕打ちだろう。
昨夜ここで饅頭を食べた時は、後宮(ここ)も悪くないと思ったけれど、今は真逆の意見だった。なんて恐ろしい場所なのだ。
さらに気にかかるのは、彼女の顔色だった。真っ青で体調がよくないのは明らかだ。目の下のくまも気になった。
蘭蘭が落ち着いたのを見計らって、翠鈴は彼女の手を取った。
「ちょっと診せてね」
「あ、あの……?」
戸惑う彼女の指先は氷のように冷たい。翠鈴の頭が瞬時に切り替わった。
「蘭蘭、舌を出して」
「え……?」
「こうやって。べー」
「? べー」
素早く視線を走らせて、まずはホッと息を吐く。
「悪い病があるわけではなさそうね。寝不足と栄養失調かしら。その寝台にうつ伏せに寝てくれる?」
翠鈴が指示すると、蘭蘭はギョッと目を剥いた。
「そ、そういうわけには……」
「大丈夫、さっき敷布を替えたところだから」
「そ、そうではなくてお妃さまの寝台に私が乗るわけにはいきません。女官長さまに知られたら叱られてしまいます」
ぶんぶんと首を振っている。
「さっき物は運び終えたから、もう誰も来ないわよ。誰も私の世話をしたくないから、蘭蘭が来たんでしょ」
「で、でも……」
「早くしないと、蘭蘭が妃に従わないっていいつけようかしら?」
かわいそうだと思いながらも、脅かすように言うと、彼女はビクッとして慌てて翠鈴の言う通りにする。痩せた細い背中に翠鈴は手をあてた。
やはり、取り立てて悪そうな箇所はない。睡眠不足と疲労、栄養が行き届いていないというところだろう。
「あまり寝られていないわね、食事もちゃんと食べていないでしょう」
腕を枕にした蘭蘭が、くぐもった声を出した。
「私はほかの人よりものろまですから、なにをするにも他の人よりもたくさん時間がかかります。寝る暇も食べる暇もありません」
その言葉に、翠鈴の胸が痛んだ。
自分のことをはじめからそんな風に言うことはないだろうから、きっと誰かに言われたのだろう。
「……今日の朝ごはんは食べたの?」
「まだです」
とりあえず、背中から手を離すと彼女は起き上がる。寝台に座ったままの彼女の前に、翠鈴は自分の朝食が載った机を引き寄せた。
「じゃあ、今から食べなさい。普段からあまり食べられていないなら、お腹に優しいものがいいわね。飯に汁をかけてあげようか? 果物は好き?」
またもや、蘭蘭がギョッとした。
「そ、そんな……! お妃さま用の食事に私が手をつけるわけにはいきません。見つかったら叱られます。女官には女官用の食事が用意されていますから」
「だけど、それじゃあなたは、ちゃんと食べられないでしょ」
「でもこれは翠鈴妃さまの分ですのに」
「私はこの肉入り饅頭で十分よ。私、この饅頭大好きなの。さっき蘭蘭は、三品しか持ってこられなかったって言ったけど、その中に饅頭があるなら上出来よ」
そう言って翠鈴は、饅頭にかぶりつく。彼女が気後れしないように先に食べてしまうことにする。もぐもぐする翠鈴を、蘭蘭は唖然として見ている。
「ほら、私はもうお腹いっぱい。これ以上は食べられないから、蘭蘭が食べないなら、これは食堂に返すことになるけど……」
そう言うと蘭蘭は、ごくりと喉を鳴らした。箸を彼女に持たせると、翠鈴を伺うように見る。翠鈴がにっこり笑って頷くと、思い切ったように飯を口に入れる。あとは夢中で食べ出した。
その姿に、翠鈴はホッとする。とにかく食べれられれば、顔色はよくなるはずだ。
あっという間に食べ終えた彼女を、翠鈴は寝台に寝かせる。
「本当は食べてすぐに横になるのはあまりよくないんだけど、とにかく疲れを取るのが先だわ。今日は一日寝ていなさい」
「そ、そういうわけにはいきません。女官はお妃さまより先に寝てはいけない決まりです」
「蘭蘭、あなた病になる一歩手前よ。病人に妃も女官もないでしょう。大丈夫、蘭蘭には私が難しい仕事を頼んだせいで一日部屋から出られないってことにしておくから。とにかく目をつぶりなさい」
翠鈴はそう言って蘭蘭に布団をかける。それでも蘭蘭は「でも……」と言うが、冷たい足を揉んでやると気持ちよさそうにうとうととして、やがて寝息を立てだした。
蘭蘭は、一日中こんこんと眠り続けた。夕方、目を覚ました時は少し熱が出ていてぼんやりとしていた。翠鈴が自分の食事についてきた粥を食べさせると、また眠りについた。
そして目を覚ましたのは次の日の朝だった。翠鈴が食堂で朝食をもらって帰ってくると、起き上がりキョロキョロと部屋の中を見回している。
「起きたのね、気分はどう?」
翠鈴の姿を見てようやく昨日のことを思い出したようだった。
「あ……! 翠鈴妃さま……! 私、も、申し訳ありません……!」
慌てて寝台から出ようとするのを止めて、そのまま診察をする。
「うん、熱もないし顔色もいいわね。まずは水を飲んで。食欲はある? 蘭蘭が食べられるように、果物を少し多めにもらってきたの」
言いながら、病み上がりでも食べやすいように汁物の中に飯を入れて蘭蘭に差し出すと、恐る恐る受け取った。
昨日から今までのやり取りの中で、翠鈴がすることになにを言っても無駄だとわかったようだ。彼女に箸を渡して、翠鈴は饅頭にかぶりついた。
「ここはあまり好きじゃないけど、この饅頭だけは絶品ね。毎食、食べても飽きないわ」
もぐもぐしながらそう言うと、蘭蘭が箸を持ったまま瞬きをして、震える声を出した。
「私、ここへ来てこんなに優しくしてもらったのははじめてです……」
そのまましくしくと泣いている。
その姿に翠鈴の胸は痛んだ。七江だって豊かではなかったから、彼女くらいの年齢の者は働かなくては生きていけなかった。でも寝るひまもなくろくに食べさせてもらえていないのに、働かされているような子はいなかった。
「……蘭蘭は、どうしてここで働いてるの?」
尋ねると鼻をすすって答えた。
「家は貧しいわけではないですが、弟と妹がたくさんいるんです。だから父と母を助けたくて、採用試験を受けました。お給金もいいし運がよかったなって思います。だけど本当はそんな目的でここへ来てはいけなかったんです」
蘭蘭はまるで恥じるように言う。
翠鈴には意味がわからなかった。家族の生活を支えるために働いている、それのなにがダメなのだ。
「ほかの女官の方は、行儀見習いのためにお勤めしているんです。後宮女官をしていた経歴があれば、いい縁談が来るとかで……。私みたいに金子目当てでお役目につくのは卑しい考えだと言われました」
その言葉に翠鈴は眉を寄せる。女官仲間から彼女が不当な扱いを受けていた理由はわかったものの、まったく納得いかなかった。
「私、間違っていたんです。おまけにやることも遅くて……」
「あなたは間違っていないわ、蘭蘭」
なおも自分を卑下する言葉を口にしようとする蘭蘭を、思わず翠鈴は遮った。お腹の中でふつふつと怒りが込み上げるのを感じていた。
「食べていくために働くことのいったいなにが卑しいのかしら? ましてや自分だけでなく家族のためでもあるんだもの。あなたは立派よ、蘭蘭。なにも恥じることはないわ」
彼女の肩をガシッと掴み、翠鈴は言い切った。
「それが卑しいことなら、この国は皆卑しい人だらけになるじゃない!」
蘭蘭が驚いたように目を見開いた。
「そんな風に言ってもらえたのははじめてです……」
そしてまたハラハラと涙を落としはじめた。
「とにかく食べて。元気にならなきゃ、働けないわ」
細い身体を震わせて泣く蘭蘭に、翠鈴は言う。彼女がこくんと頷いた時。
「翠鈴妃さま、翠鈴妃さま」
コンコンと扉がノックされる。蘭蘭がぎくりと肩を震わせた。
「翠鈴妃さま?」
声からしてどうやら梓萌のようだった。
「蘭蘭、ちょっと床を拭いてるふりをしてくれない? あなたは、ずっとここで床掃除をやらされていることになってるの」
小さな声で言うと蘭蘭が頷いて言う通りにする。それを確認して、翠鈴は扉を開けた。
「はい」
扉の先に立っていたのは、予想通り梓萌だった。
「翠鈴妃さま、お呼びしたらすぐに答えてくださいませ。それがここの決まりです」
開口一番小言を言う。
「申し訳ありませんでした」
翠鈴が謝ると、本題に入った。
「今宵、皇帝陛下のお召しがございます。夕刻に、湯殿にご案内しますので、湯に浸かっていただき、失礼のないようきちんと身なりを整えてくださるようお願いいたします」
そして眉を寄せて翠鈴の頭のてっぺんから足まで、視線を走らせる。翠鈴が汚いと言わんばかりだ。
確かに、昨夜はきちんと身体を拭いたが、そもそも長旅でドロドロだった。皇帝に会えるような状態でないのは確かだ。湯を使わせてもらえるのはありがたい。
「白菊さまよりお召し物は準備するとのお言葉がありましたから、夕刻までには届くでしょう」
「わかりました」
答えると、梓萌は床掃除をしている蘭蘭に視線を送った。
「皇帝陛下のお召しまでの段取りは蘭蘭が知っています。それでは」
そう言ってさっさと帰っていった。
扉を閉めて、翠鈴はドキドキする。白菊には皇帝とは会うだけでいいと言われたが、それでも緊張してしまうのは仕方がないことだった。
相手は国の頂点に君臨する存在で、しかも龍神だ。本当なら翠鈴など生涯にわたって会うことなどないはずの相手なのだから。
ふう、と息を吐いて振り返ると、蘭蘭が立ち上がり悔しそうに握り拳を作っていた。
「蘭蘭? どうかした?」
不思議に思って尋ねると、彼女は扉を睨んだ。
「お妃さま方が使われる湯殿は、山の温泉から湯を引いてきます。毎日湯を入れ替えて、まだ日が高いうちから、一のお妃さまから順番に数名ずつ入っていただく決まりです」
彼女が口にする湯殿に関する決まりごとに、翠鈴は頷いた。毎日新しくしていても当然ながら人が使えば湯は汚れる。位の高い妃が優先されるのが当然だ。
翠鈴は百番目だから、すべての妃が入った後に夕方に呼びに来ると梓萌は言ったのだろう。
「でも皇帝陛下のお召しがあるお妃さまは別なんです。一番最初に入る決まりになっています。皇帝陛下は龍神さまですから、新しくて綺麗な湯で身体を清めて頂かなくてはなりません」
彼女は、梓萌が決まりを守らずに、翠鈴を最後にしたことに怒っているのだ。
「蘭蘭……」
「翠鈴さまだって、お妃さまなんですから、同じようにしていただかなくてはいけないのに」
意外な彼女の反応に、翠鈴の胸は温かくなる。
一方で、梓萌の対応にはそれほど腹は立たなかった。もしかしたら彼女は白菊から事情を聞いているのかもしれない。翠鈴が今夜皇帝のもとへ行っても寵愛を受けることはないと……。
「私は百の妃。皇帝陛下のお召しがあっても、ご寵愛をお受けすることはないからかもしれないわね」
白菊との約束を話すわけにいかなくて、曖昧に言うと、蘭蘭が声を張り上げた。
「だけど、それは他のお妃さま方も同じです! 後宮が開かれてお妃さま方が集められてしばらく経ちますが、まだご寵愛をお受けになられたお妃さまはいらっしゃらないんですから!」
その言葉に、翠鈴は驚いて聞き返した。
「え? まだ誰も?」
言いながら、蘭蘭を落ち着かせるために寝台に座らせる。あまり人に聞かれない方がいいように思ったからだ。
「はい」
「だけど一のお妃さまは、確か龍神さまを癒すことができる翡翠の手をお持ちなんでしょう? 宿命の妃だって聞いたわ」
不安になって翠鈴は問いかける。
皇帝の不調は、宿命の妃が癒してくれると国中が期待している。翠鈴だってそう思って安心していたのだ。
日照りや水害がどれだけ民を苦しめるか、決して豊かではない村で育った翠鈴はよく知っている。
「華夢妃さまは、翡翠の手の使い手として、診察はされているようですが、ご寵愛は受けておられません。皇帝陛下のお召しがある夜もすぐにお部屋へ戻ってこられますから」
「そう、診察はされているのね」
蘭蘭の話に、翠鈴はまずは安心する。それならば、体調は大丈夫だろう。翡翠の手の持ち主は、どんな不調も癒すと言われているのだから。もしかしたら、ご寵愛は体調の回復を待っているのかもしれない。いずれにせよ、そのあたりは自分には関わりのない話だ。
「よくわかったわ、蘭蘭。ありがとう、湯を使う順番が最後でも、ご寵愛を受ける心配がないなら安心よ」
気持ちを切り替えて翠鈴が言うと、蘭蘭はまた目を潤ませ、ぐっと口を一文字に結び、目の前の箸を掴むと粥をガツガツと食べ始めた。
「蘭蘭……?」
突然の行動に翠鈴が首を傾げると、彼女はもぐもぐとしながら答えた。
「こうしてはいられません。翠鈴さまの今宵のお召しの準備を整えなくては!」
とっぷりと日が暮れて、灯籠の明かりが灯る長い廊下を翠鈴は梓萌に続き歩いている。廊下に並ぶ貴妃たちの部屋から、くすくすという笑い声が聞こえていた。皇帝の夜の寝所へ召されているというのに、翠鈴が普段着の作務衣を着ているからだ。
夜のお召しまでに翠鈴を美しく着飾らせると気合い十分で女官の詰め所へ行った蘭蘭は、結局、着飾るのに必要な紅も白粉も香も手に入れることはできなかった。
しょんぼりとして帰ってきた彼女に話を聞くと、他の女官たちに妨害されたのだという。どうにか手に入れられたという石鹸で翠鈴は終い湯に入った。
さっぱりとして部屋へ戻るとなんと蘭蘭が、しくしくと泣いているではないか。今夜のために白菊から届けられた衣装が泥まみれだったのだという。
おそらくは届けられる過程で誰かにわざと汚された、つまり嫌がらせを受けたのだろう。
『蘭蘭、泣かないで。大丈夫、なんとかするから』
翠鈴はそう言って彼女を慰めた。とはいえ、代わりの衣装を準備できるはずもなく、故郷から持ってきた代えの作務衣を着るしかなかったのである。
梓萌は、作務衣姿の翠鈴に、一瞬眉を寄せたもののはなにも言わなかった。
そして彼女に続き歩いている翠鈴を見て妃たちが、特に驚く様子もなく笑っていることを考えると、衣装をダメにした犯人は彼女たちの中の誰か、あるいは皆なのかもしれない。
「よくあんな成りで陛下の元へ行けるわね」
「さすが緑族、恥知らずもいいとこだわ」
聞こえてくる言葉はひどいものだが、まったく気にならなかった。
もとより寵愛など望んではいないのだ。着る物などどうでもいいから早く皇帝に会って故郷の村に帰りたい。
長い廊下を梓萌はゆっくり進む。
もっと早く歩いてくれればいいのに、と翠鈴は内心で思っていた。
もちろん早く会えたからといっても今夜中に帰ることはできないだろう。でも気持ちが逸ってしまうのはどうしようもなかった。
やがて前方に大きな龍が描かれた巨大な朱色の観音開きの扉が見えてくる。その先が後宮と皇帝の寝所を繋ぐ渡り廊下だ。扉のそばの部屋はひときわ豪華な扉を持つ一の妃の部屋だった。
扉の前に華夢が立っている。
桃色のひらひらとした衣装を身につけて薄化粧を施し、寝る前とは思えないほど美しく着飾っている。まるで彼女が皇帝の夜の寝所へ召されるかのようだった。
翠鈴たちが彼女の前まで来ると、艶々の唇を開いた。
「こんばんは、翠鈴妃さま」
梓萌が足を止めた。
「こんばんは……華夢妃さま」
戸惑いながら翠鈴は答える。声をかけられたことが意外だった。
「声をかけられたわ」
「さすがは華夢妃さま、私たちとは心構えが違うわね」
「なんと言っても皇后さまになられる方ですもの」
妃たちが囁き合う中、華夢は翠鈴のすぐそばまでやってくる。花のような甘い香りが強くなった。
一瞬、翠鈴は身構える。なにか好意的でない仕打ちを受けるのでは?と思ったからだ。でもそうではなく、彼女は口もとに笑みを浮かべて翠鈴の手を取った。
「そう固くならなくて大丈夫よ。皇帝陛下はお優しい方ですから」
その言葉に翠鈴は肩の力を抜く。彼女は翠鈴の緊張をほぐそうとしてくれているのだ。
「ありがとうございます、華夢妃さま」
答えると、華夢妃はにっこりと微笑んで、少し声を落とした。
「ここだけの話、陛下は気分がすぐれないことがおありです。妃がお伺いしても寵愛する気になれない時は下がるようにおっしゃいます。もしそうなってもあなたが罰を受けることはありませんから、安心して部屋を出てくださいね」
あらかじめ翠鈴が寵愛を受けることはないとわかっていて、その際の振る舞い方をおしえてくれているのだ。さすがは皇后候補と言われるだけのことはある。慈悲深く思慮深い助言に、翠鈴は頷いた。
同時に内心で不安になる。
彼女は、妃というだけでなく翡翠の手の使い手なのだ。その彼女の口から『気分がすぐれないことがある』という言葉が出たからだ。
皇帝の具合があまり良くないという噂は本当のようだ。皇帝は国の平穏のためになくてはならない存在だというのに、その彼が健やかでないということが心配だった。なにか自分にできることはないだろうかと翠鈴は考えを巡らせる。誰かの不調を耳にしたときのくせだった。
でもすぐに相手は人ではなく龍神なのだと思い出し、落胆する。龍神を癒やすことができるのはこの世にただひとり、翡翠の手を持つ者だけなのだ。
「では参りましょう」
梓萌がまた歩き出す。翠鈴もそれに従った。
朱色の扉の前まで来ると、ギギギと音を立てて扉は開く。翠鈴はごくりと喉を鳴らした。固くならなくてよいと華夢に言われたばかりだが、それは無理な話だった。
真っ暗な廊下を梓萌が手にしている蝋燭の光を頼りにひたりひたりとゆっくり歩く。
次第に少し不思議な感覚に陥っていく。一歩一歩皇帝に近づくたびに空気が澄んでいくような、心が清らかになっていくような心地がした。まるでこの暗い廊下の先は天界につながっていて、心の中の汚いものをすべて捨てていくようなそんな感覚だ。
永遠にも思えるような長い廊下を抜けた先に、今度は深い緑色の大きな扉が見えてくる。梓萌がその前に立ち、足を止めて振り返った。
「この先が皇帝陛下の寝所にございます」
そして声を低くした。
「よいですか? 先程の華夢妃さまのお言葉を忘れないように。皇帝陛下から下がるようにというお言葉をいただいたら、しつこく食い下がったりせずに、すぐに部屋を出るように。私は扉の外に控えておりますから」
まるでそうなると決まっているかのように彼女は言う。
翠鈴は頷いた。
「わかりました。すぐに下がります」
はっきりと答えると、梓萌は安心したように息を吐いて扉の方へ向き直り声を張り上げた。
「百の妃、緑翠鈴妃さま参られました」
静まり返った廊下に、梓萌の声が響く。
扉が、音もなくゆっくりと開いた。
梓萌が一歩下がり翠鈴を見る。ここから先はひとりで行けということだろう。
大きく息を吸い一旦心を落ち着けてから一歩を踏み出す。中へ入ると背後で扉が閉まった。
部屋の中は清廉な空気に満ちている。灯籠は中央にひとつだけのはずなのに、天蓋付きの寝台に座る存在をはっきりと見ることができた。
――寝台に座る男性は、鋭い目でこちらを見ている。銀の長い髪は冷たい輝きを放ち、漆黒の瞳は見つめているだけで吸い込まれそうな心地がする。逞しい体躯、そら恐ろしいほどに整った顔立ち、他者を寄せ付けない存在感。彼が現皇帝、劉弦帝で間違いない。
事前に梓萌から聞いていた作法ではすぐに床に膝をついてこうべを垂れ、彼の言葉を待たなくてはならない。でも翠鈴はそうすることができなかった。
どうしてか、身体が動かない。
胸の奥が熱くなって、彼とははじめて会うはずなのに、懐かしいような不思議な感情に支配される。強く心を惹きつけられるのを感じていた。
皇帝が訝しむように目を細めた。
「そなたが、百の妃か?」
低い声音で問いかけられる。夜の寝所を訪れた妃が、簡易な服を着ているのを不思議に思っているのだろう。
咎めるような冷たい視線に、震えながら突っ立ったまま口を開くことができなかった。その翠鈴をジッと見つめて皇帝がゆっくりと立ち上がる。一歩一歩こちらへやってくる。
心臓が飛び出てしまいそうだった。梓萌や華夢の口ぶりから、寝所に入ってすぐに下がるように言われるもの思い込んでいたのに、まさかそれ以外のやり取りがあるとは想像もしていなかったから、どうしていいかわからない。
互いの息遣いを感じる距離まで来て、彼はぴたりと足を止める。少し甘い高貴な香りが翠鈴の鼻を掠めた。怖くてたまらないのに、目を逸らすことができなかった。
「そなた……」
言いかけて口を閉じ、彼は眉間に皺を寄せる。その仕草に、翠鈴はハッとした。彼の体調が優れないという話を思い出す。
「陛下、お加減が……?」
思わずそう問いかけて、手を伸ばす。彼の頬に指先が触れたその刹那、どくんと鼓動が大きく跳ねて、指先が焼けるように熱くなった。
「あ……」
あまりの衝撃に目を見開き膝を折ると、崩れ落ちる身体を、皇帝が抱き止めた。そのまま至近距離で見つめ合う。すぐ近くにある彼の瞳に、翠鈴の胸の奥底にあるなにかが強く反応する。
「そなた」
彼の手が頬に触れる。また鼓動が大きな音を立てて、翠鈴は熱い息を吐いた。うねるような衝動が、身体中を駆け巡り、息苦しささえ感じるくらいだった。
頭と心、指先が痺れるような感覚にどうにかなってしまいそうだ。これ以上は耐えられない、翠鈴がそう思った時、皇帝の唇が動いた。
「そなたが、私の宿命の妃だ」
その言葉の意味を翠鈴が理解するより先に、逞しい腕に抱き上げられる。
「つっ……!」
息を呑み目を閉じて彼の首にしがみついた。
彼は翠鈴を軽々と腕に抱いたまま、寝室を横切る。目を開くと、大きな寝台に寝かされていた。天蓋を背にした皇帝が翠鈴の両脇に手をついている。
「陛下……」
皇帝の寝台の上にふたりでいる。予想もしなかった展開に、羞恥を覚えて身をよじる。
「私……」
その翠鈴の髪をなだめるように大きな手が撫でた。彼の持つ冷たい空気とは裏腹に、驚くほど優しい手つきだった。また視線を絡ませると、不思議な感情に支配される。
彼とは初対面のはずなのに、こうなることは、生まれた時から決まっていたと感じている。
「怖くはない、大丈夫だ」
顎に添えられた彼の指先が唇を辿る感覚に、翠鈴の背中が甘く痺れる。
ゆっくりと近づく彼の唇。目を閉じると同時に、熱く唇を奪われた。
知らない場所へ行く夢を見た。
そこは綺麗な色の雲の上で、身体が驚くほど軽いのだ。翠鈴は男性と手を繋いで雲の上をゆっくりと歩いている。
相手が誰かはわからない。顔が見えるようで見えないからだ。けれど心の底から安心できる相手だというのは間違いない。
やがてふたりは、雲の泉から七色の水が湧き出る泉へと辿り着く。
男性が大丈夫というかのように頷いて、泉に視線を送る。柔らかな微笑みに導かれるようにして泉へ足を踏み入れると、翠鈴は七色の光に包まれた。
瞼の向こうに光を感じて、翠鈴の意識は現へと引き戻される。ゆっくりと目を開くと温かいなにかに包まれていた。
ぼんやりと目に映る、生まれ育った自分の家でも後宮に与えられた部屋でもない光景に、ハッとして目を開き思わず声をあげそうになってしまう。
窓から差し込む朝日の中で、自分がくっついて寝ていた"あるもの"に驚いたからである。
天蓋付きの寝台から、はみ出るような形で翠鈴を包んでいたもの、それは銀色に輝く龍だった。とぐろを巻くように翠鈴を包んでいる。
言葉もなく翠鈴はその美しい龍を見つめた。黄金色の長い髭と光の加減によっては虹色にも思える鱗。目は閉じていてゆっくりと呼吸している。眠っているのだ。見た目は固そうに思えるのに、翠鈴が触れている部分は意外なほど柔らかい。
とそこまで考えて、翠鈴はまた声をあげそうになってしまう。自分がなにも身につけていないことに気がついたからだ。
慌ててかけ布を引き寄せて裸の身体に巻き付ける。寝台のそばの床に丸まって落ちている自分の作務衣を直視することができなかった。昨夜ここで起こったことを思い出して頭から茹で上がるような心地になった。
眠る銀色の龍は間違いなく皇帝だ。昨夜は人の姿だったが、彼は龍神なのだからこれが本来の姿なのだ。
それにしても、どうしてこんなことになってしまったのだろう?
翠鈴が寵愛を受けることはないと白菊は言い切った。そもそもほかの妃だって誰ひとり、寵愛を受けていないという話だったのに。
この部屋で一夜を過ごしてしまうなんて……。
医療を施す者の心得として、男女のことは知識としては知っていた。でも経験はまったくなく、それどころか今後経験する予定もないと思っていたのに。はじめて顔を会わせた男性と、すぐに深い仲になってしまったことが信じられなかった。
もちろん相手は皇帝なのだから、たとえ嫌だと思っても断ることはできなかった。翠鈴がなにより不思議なのは、術にでもかかったように、彼に触れられることを少しも嫌だと思わなかったことだ。
それどころか……。
銀色の龍は、相変わらず穏やかな寝息を立てている。長い銀色のまつ毛が差し込む朝日に反射してキラキラと輝いていた。
その身体に、ところどころに赤く光る箇所がある。耳の後ろ、首、背中……。人でいうとちょうど、ツボがあるあたりだ。
首を傾げて、翠鈴はその光に手をかざす。どうしてか、そうするのが正しいことのように思えたからだ。かざしたその手が温かくなり、同時に赤い光がすっと消えた。
他の箇所へも手をかざしてみる。本当にどうしてかわからないけれど、そうするべきだと思ったからだ。
そうして翠鈴が最後のひとつを消した時――。
「なにをしている」
声とともに風がびゅっと吹いて翠鈴を包む。窓がガタガタと大きな音を立てた。目を閉じて開いた時には龍は消え、代わりに皇帝に腕を掴まれていた。鋭い視線で彼は翠鈴を見ている。
翠鈴はなにも答えられなかった。
「あの……」
なにをしていたか自分でもよくわからなかったからだ。ただ、なにかに導かれるように手をかざしていただけで……。
鋭い視線に、恐る恐る口を開く。
「赤い光を消していました」
「光?」
「陛下のお身体のあちこちに……」
それ以上は説明できずに口を閉じる。
皇帝が「身体の?」と呟いて眉を寄せた。そしてハッとしたように首の後ろに手を当てて、訝しむように目を細めた。
「……そなた、名は?」
「緑翠鈴と申します」
「翠鈴……」
皇帝が繰り返した時。
「皇帝陛下! 陛下! 騒がしいですが、いかがされました?」
扉の向こうから、呼びかける声がする。さっきの風が窓枠を揺らしたことを不審に思って駆けつけたのだろう。
翠鈴はハッとして、身体に巻き付けた布の胸元を握りしめた。声の主が男だからだ。なにも着ていないのに入ってこられるのは嫌だった。
彼らが扉を開ける前に服を着たい。でも皇帝の目の前で身体に巻き付けた布を解き、作務衣を着る勇気もない。
そんな翠鈴をちらりと見て、皇帝が扉に向かって口を開いた。
「大事ない。百の妃を下がらせる。女官のみ入室するように」
「御意にございます」
翠鈴がホッとした時、ゆっくりと扉が開いて、女官が数名部屋へ入ってくる。その中に梓萌もいた。素肌に布を巻いただけの翠鈴を見て、一瞬信じられないという表情になるが、皇帝の手前、なにも言わなかった。
「翠鈴妃さま、こちらへ」
寝台のそばまで来て、翠鈴に手を差し出した。混乱しながらも翠鈴はその手を取った。とにかく早くこの状況から逃れたい。
寝台を下りると、皇帝が梓萌に向かって口を開いた。
「湯浴みをさせて、身体を慰るように」
その言葉に、翠鈴の頬が熱くなる。翠鈴のことを思っての慈悲深い言葉だ。が、否が応でも昨夜のことを連想させられてしまい、耳を塞ぎたくなる。
梓萌も瞬きをして一瞬固まったが、すぐに頭を下げた。
「かしこまりました。翠鈴妃さま、参りましょう。段差がありますから、お気をつけくださいませ」
昨夜までとはまったく違う、へりくだった態度だった。そのことが翠鈴を余計に混乱させる。
大変なことになってしまった、という考えが頭の中をぐるぐる回るのを感じながら、翠鈴は部屋を後にした。
紅禁城の玉座の間にて、劉弦は九十九人の家臣と対峙している。毎朝恒例の謁見である。
「皇帝陛下、おはようございます」
ずらりと並ぶ家臣の中から黄福律が歩み出る。残りの者も頭を下げた。
「昨夜は、後宮の妃に情けをくださりまして、ありがとうございました。家臣一同お礼を申し上げます」
そう言う彼の表情がどこか苦々しいように感じるのは、劉弦の思い過ごしではないはずだ。後宮が開かれてから昨夜までずっとどの妃にも手を出さなかったのに、どうしてよりによってはじめて寵愛を与えたのが百の妃なのだと思っているに違いない。
玉座に肘をついて劉弦は家臣たちを見渡した。劉弦が翠鈴を後宮へ下がらせたのが半刻ほど前、もはやすべての者に昨夜のことは伝わっているようだ。
皆、釈然としない様子だった。
「たとえどのような出自の妃でも、寵愛をくださるのは、ありがたいことにございます。どのような出自でも……なれど」
「それよりも、福律」
劉弦は彼の言葉を遮った。
「南西地方で豪雨が発生し堤が決壊した。作物に影響が出ているようだ。すぐに堤を作り直し、税は向こう二年免除だ伝えよ」
「堤が……それは」
福律が目を見開いた。天候だけでなく被害状況まで言及した劉弦に家臣たちがざわざわとした。
「皇帝陛下、国土が、お見えになるのですか?」
「お加減がよくなられたのですか?」
彼らからの問いかけに、劉弦は頷いた。
今朝起きた時よりいつもの頭痛は消えていて、目を閉じると以前のように国の隅々まではっきりと見渡せた。
「華夢妃さまの治療の効果にございますね!」
誰かが言い、それに応えるように別の誰かが声をあげる。
「さすがは黄族の姫君、翡翠の手の使い手にございます」
この現象が華夢のおかげではないことははっきりしている。彼女の診察を受けるようになってから随分と経つが、その間体調は悪くなる一方だったのだから。だが劉弦は否定はしなかった。代わりに福律をちらりと見る。その表情からはなにも読み取れなかった。
立ち上がり、宣言する。
「私は執務室にて国を見る。なにかあれば追って指示する」
そのまま玉座の間を後にした。
玉座の間から短い廊下で繋がった部屋が、劉弦が執務室として使っている空間だ。特殊な結界が張ってあり、劉弦以外は白菊しか入れない。雲が渦巻く天井の下、なにもない空間に椅子がひとつ置いてある。
扉を閉めると同時に、白菊が姿を現した。
「劉弦さま、いったいどうされたんです? 昨夜、なにがあったんですか?」
開口一番問いかける。
劉弦は答えなかった。答えられなかったのだ。昨夜起きたことの説明をうまくできる自信がない。
「まさか、あの娘に手をつけたのではないでしょうね? もしそうであれば、天界へ戻ることはできなくなりますよ」
咎めるように白菊は言う。
「もう時間がないというのに、このままではあなたさまは邪神に……」
「それは大丈夫だ。私は邪神にはならない」
気色ばむ白菊の言葉を遮って、劉弦は言い切った。
今朝目覚めた時から、視界の曇りは晴れ、心は澄み渡っている。昨夜までの自分とは違うと明確に言い切れた。今すぐに邪神に成り果てることがないのは確かだった。
「頭痛も消えた、目もよく見える」
とりあえず、白菊の懸念を取り払うためそう言うと、彼は切れ長の目を見開いた。
「それは……」
「もうよい、下がれ。少しひとりで考えたい」
それが今の自分には必要だった。自分の体調はすなわち国の状態。状況がよくなったようにも思えるが、それがいったいなぜなのか、はっきりわからなければ手放しでは喜べない。
「……御意」
白菊が消えると、劉弦は目を閉じる。意識を雲の上までもってくると、やはり国の隅々まで綺麗に見渡せた。
目を開き、劉弦はこの現象の原因に思いを馳せる。心あたりは、百の妃緑翠鈴と一夜を共にしたことだった。
――昨夜は不可解なことの連続だった。
そもそもはじめからしておかしかったのだ。
寝室にて、妃を待つあの時間。
後宮と寝所を繋ぐ渡り廊下を、ひたりひたりと近づいてくるあの足音は、普段なら憂うつでうっとおしく感じるはずなのだ。それなのに昨夜に限っては妙に心地よく耳に響いた。
足音の主が一歩一歩近づいてくるたびに、空気が澄んでゆくような心地がしたのもいつもとまったく逆の感覚だ。
そして現れた娘は質素ななりをしていた。およそ皇帝の寝所に召されたたとは思えない格好のその娘に、劉弦の視線は吸い寄せられ逸らすことができなかった。
彼女の纏う清廉で塵ひとつ浮いていない澄んだ泉のような空気……。
――あのような人間ははじめてだ。
いつも劉弦は、入室した妃を近寄らせることはせず、そのまま下がらせる。それなのに昨夜は強く惹きつけられるような奇妙な衝動に襲われて、立ち上がり自分から歩み寄ってしまったのだ。
そして指先がほんの少し触れただけで、彼女が宿命の妃だと確信した。
はじめからこうなることが決まっていたのだという思いを胸に、彼女を腕に抱き上げた。すぐ近くから見る彼女の柔らかそうな唇にまるで誘われているような心地がして、迷わずそこへ口づけた。
そして目覚めたら、この状況……。
首の後ろに手をあてて、劉弦は朝の翠鈴を思い出した。
『赤い光を消していました』
劉弦を悩ませていた頭痛が消えたのは、彼女が言ったことと無関係ではないだろう。
彼女が宿命の妃ならば、翡翠の手の使い手だからだ。
劉弦は目を閉じて、深呼吸する。
そもそも、龍の姿で眠っているところを見られてしまったこと自体あり得ない。
神は本来の姿を人に見せるものではないからだ。よほど気を許した相手、信頼できる者にしか、龍に戻った姿を見せたことはなかったというのに……。
「緑翠鈴、か」
天井の雲を見上げて劉弦は呟いた。
皇帝と一夜をともにした妃は、後宮の湯殿ではなく皇帝の宮にある湯殿で、湯浴みをする決まりだという。
「皇帝陛下の寵愛をお受けになられたお身体を、みだりに他人に見られないためにございます。このためだけに雇われた女官がお身体を洗わせていただきます」
梓萌の言葉に、翠鈴は抵抗した。誰かに身体を洗われるなど恥ずかしくて嫌だった。赤ん坊じゃないのだから、自分で洗えると何度も主張したが、結局押し切られすべて洗われることになってしまった。
頭のてっぺんから爪の先までぴかぴかになった翠鈴は、真新しい白い衣装を着せられて、後宮へと戻るため長い渡り廊下を梓萌に続き歩いている。
「朝食をお部屋にご用意してございます。お部屋までご案内いたします」
案内など不要とわかっているはずなのに、気持ち悪いほどにこやかに言う。本当に昨日とはまったく違う態度だった。
廊下の先の赤い扉まで辿り着き、扉が開く。
ちょうど朝食を終えた頃で妃たちは中庭で思い思いの時をすごしている。皇帝の寝所から戻ってきた翠鈴に、その場が静まりかえった。
今まで皇帝は、寝所へ召された妃をすぐに下がらせていたという話だから、夜のうちに後宮へ戻ってくるのが普通なのだ。それなのに朝になるまで帰ってこなかった翠鈴を、どう捉えるべきかわからないのだろう。
異様な空気の中、翠鈴は廊下を進む。
「翠鈴妃さま」
呼びかけられて、梓萌が足を止める。華夢だった。
彼女は朝日が差し込む中庭で、妃たちに囲まれて長椅子に座っていた。薄紫色の衣装を身につけて優雅に微笑んでいる様は、まるで花の上を飛ぶ蝶のように可憐だった。立ち上がり、翠鈴のところまでやってきて手を取った。
「翠鈴妃さまが、皇帝陛下にご寵愛いただいたこと、心よりお喜び申し上げます」
一点の曇りもない笑顔を見せる。
でもそこで、手のひらにちくりと痛みを感じて、翠鈴は顔を歪めた。華夢がはめている純金の指輪が鋭い針のように尖っている。反射的に手を引っ込めた。
「私はなにも……」
痛む手をもう一方の手で庇い小さな声を出す。
華夢が眉を寄せた。
「なれど翠鈴妃さま、昨夜は黙っておりましたが、あのお衣装は感心できません。なんといっても陛下の御前にお伺いするのですから。あのような衣装を準備した女官には罰をお与えくださいませね?」
女官に罰をと言う華夢に、翠鈴は首を横に振った。
「女官のせいではありません。白菊さまがお届けくださったお衣装が、私の部屋へ届くまでに泥まみれになっていたのです。だから……仕方なく」
女官とはすなわち蘭蘭のことだ。なんの落ち度もない彼女を罰するなどしたくない。
「なれば衣装をダメにした罪で、やはり女官を罰するべきだわ。それが後宮の秩序を守るということよ」
そう言い残し袖をヒラヒラさせて去っていった。
「参りましょう」
梓萌が歩きだし、翠鈴は後に続いた。
頭の中は、不安でいっぱいだった。
昨夜まで翠鈴の存在は、招かざる客ではあるものの取るに足らない存在だった。寵愛を受ける可能性はない妃だったから。
だからこそ、華夢は翠鈴に親切にしてくれた。だが予想に反して、翠鈴が寵愛を受けたことで、そうではなくなったということだ。
――尖った指輪の件は、宣戦布告なのかもしれない。
唯一親切に声をかけてくれていた華夢まで敵にまわってしまったら、ますますここでの翠鈴の立場は危ういものになる。
……だとしても、大丈夫。すぐに去るのだから。
明らかな敵意を滲ませる妃たちの視線を感じながら、翠鈴は一生懸命自分自身に言い聞かせた。
部屋へ戻ると、梓萌が言った通り朝食が準備されていた。
「翠鈴さま、おかえりなさいませ!」
部屋の中にいた蘭蘭が誇らしげに笑顔を見せた。
「あれ……? なんだか随分豪勢ね」
机の上にところせましと並べられた皿と茶碗の数々に、翠鈴が首を傾げると、背後で梓萌が口を開いた。
「寵愛をお受けになられた翌朝の朝食は、お妃さまの位に関係なく十品と決められております」
「そうなの」
本当になにもかもが寵愛ありきなのだと、呆れてしまうくらいだった。
「では、翠鈴妃さま。私はこれで」
頭を下げて梓萌が下がる。
翠鈴は朝食を見てため息をついた。
「こんなのとても食べきれないわ。蘭蘭あなた朝食は? まだなら一緒に食べましょう。……ふたりでも多いくらいだけど」
そう言って蘭蘭を見ると、彼女の目にみるみる涙が溜まっていく。ついには溢れてぼろぼろと泣き出した。
「翠鈴さまぁ」
「ど、どうしたの? 蘭蘭。私がいない間になにかあった? また嫌がらせされたのね?」
翠鈴が尋ねると、彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「違いますう。これは嬉し涙ですう。ご寵愛をお受けになられたこと、おめでとうございます」
そう言って、腕で顔を覆い、おいおいと泣いている。
「翠鈴さまは、どのお妃さまよりも心があたたかい方です。皇帝陛下は龍神さまですから、それがおわかりになったんです。私……私、う、嬉しいです」
「あ、ありがとう……」
戸惑いながら翠鈴は答える。正直言って、寵愛を受けたことが自分にとって喜ばしいことなのかどうなのかはわからなかったが、彼女の気持ちは素直に嬉しかった。
「とりあえず、食べてしまいましょう。冷めないうちに」
翠鈴がそう言うと蘭蘭は鼻を啜りながら素直に向いの席に座る。妃である翠鈴と一緒に食事を取ることに、抵抗はなくなったようだ。
その蘭蘭の首の後ろと手首に赤い光があることに気がついて翠鈴は手を止めた。首の後ろはちょうど、目の疲れや寝不足のつぼがあるあたりだ。
「翠鈴さまのお好きな肉入り饅頭は、ふたつ用意してもらいました。さすがに今日はなにも言われませんでしたよ。青菜もお召し上がりくださいね、お肌の調子がよくなります。私は胡麻団子をいただいてもいいですか?」
「蘭蘭、あなたその光はなに? 首と左の手首にも」
赤い光を見つめたまま翠鈴は尋ねる。
蘭蘭が首を傾げた。
「光……でございますか? 手首に? なにもありませんが」
蘭蘭が手首を見て首を傾げた。とぼけているようには思えない。蘭蘭には見えていないのだろうか?
翠鈴はジッと光を見つめる。赤い光は色も大きさも、さっき皇帝の身体にあったのと同じもののように思えた。
しかもその場所は……。
「あなたもしかして昨夜寝ていないの?」
――なんとなく、本当になんとなくなのだが、赤い光が彼女の不調をおしえてくれているような気がして、翠鈴は尋ねてみる。机の上の皿を並べ替えていた蘭蘭が、手を止めた。
「え? ……はい。翠鈴さまが戻ってこられると思っていましたから、起きてお待ちしておりました」
「起きて待ってたって……誰も知らせにこなかったの?」
「ええ、ですがどのみち寝られなかったと思いますよ。戻ってこられないということはご寵愛をお受けになられたということですから、ドキドキして……」
翠鈴は立ち上がり、蘭蘭の首の光に手をかざす。皇帝の時はそれだけで光は消えたが、今は変わらず光ったままだった。
「ちょっと触るわよ」
そう断り首の裏に触れる。こりこりとした感触を指に感じた。そこを丁寧に刺激する。
「あ〜、翠鈴さま。気持ちいいです〜! あ……急に眠気が。寝てしまいそう……」
「食事を終えたら、少し寝た方がいいわ」
指で刺激するたびに、少しずつ光が薄まっていく。やはりこの光は人の不調を表すのだと翠鈴は確信する。
「蘭蘭、左の手首を痛めたのね」
もうひとつの光について指摘すると、蘭蘭はぎくりとした。
「ええ……まぁ、ちょっとぶつけてしまいまして」
気まずそうに言う。おそらく翠鈴がいない間に他の女官に嫌がらせでもされたのだろう。
「でも大したことないですよ。こうしていればそのうち治りますから」
そう言って手をぶんぶんと振るのを翠鈴は慌てて止める。
「ダメ、動かさないで!」
とりあえず、箸を添木代わりにあて布でぐるぐると巻いた。
「痛みがなくなるまではこのままよ。取ってはダメ、わかった?」
「わかりました。それにしても翠鈴さまには痛いところや悪いところが、すぐにわかるんですね。すごい目をお持ちです。まるで術みたい」
蘭蘭が感心したように言う。
彼女は例え話で言ったのだが、その通りだった。どうやら翠鈴は身体の悪いところが見えるようになったらしい。以前も、身体に触れればだいたいのことはわかったけれど、見ただけでわかるというのが驚きだ。
心あたりがあるとすれば、昨夜の出来事だろう。
きっと相手が神さまだったから。
この変化は、いわゆるご利益のようなもの……?
「……りんさま。翠鈴さま?」
考え込む翠鈴を蘭蘭が不思議そうに見ている。
「あ、ごめんなさい。食べようか」
そう言って、自分の椅子に座り箸を取ると、蘭蘭も食べだした。
「翠鈴さま、このお菜もお食べください。身体が温まってよいと食堂で言われまた」
「じゃあ、蘭蘭も食べなくちゃ」
「半分にしましょうか」
――その時。
シュッとなにかを擦ったような音がして、突然、白菊が姿を現した。
「きゃあ!」
翠鈴は思わず声をあげる。
蘭蘭は「ひぇ!」と言って、慌てて箸を置いた。そのまま真っ青になっている。妃と一緒に食事を取っているところを誰かに見られたら叱られるからである。
「し、白菊さま……! ああ、驚いた」
「食事中でしたか」
「は、はい。……蘭蘭、大丈夫よ。白菊さまは、人間同士のことにご興味はないの」
震えている蘭蘭を庇うために翠鈴は言う。
蘭蘭を咎めないでほしいという目で彼を見ると、白菊が「ええ、まぁ」と答えた。
蘭蘭はホッと息を吐く。
白菊が翠鈴に視線を戻した。
「私はあなたに話があって来たのです」
村へ帰る話だ。
「蘭蘭、ちょっと外で待っていてくれる? 大切なお話なの」
「かしこまりました」
素直に部屋を出て行く蘭蘭に、翠鈴の胸が罪悪感でいっぱいになった。せっかく親しくなれたのに、もうすぐお別れなのだ。いじめられるかもしれない場所に置いていかざるを得ない彼女が不憫だった。
扉が閉まったのを確認して翠鈴は口を開いた。
「白菊さま、お願いがあります」
白菊が眉を上げた。
「さっきの女官のことです。彼女、ここでひどくいじめられていたみたいなんです。たくさん働かされていてろくに食事も取れていないようでした。病になる一歩手前だったんです。私が帰ったあとも不当な扱いを受けないように目配りしてくださいませんでしょうか?」
当初、白菊から言われていた、ここでの役割を終えた今、気がかりはそれだけだ。
「病に……健康そうに見えましたが」
「しっかり食べさせて休ませたら元気になりました。でもまた同じような扱いを受けたら元に戻ってしまいます」
「食べさせて休ませた……」
蘭蘭が座っていた椅子を見て、白菊が呟いた。
「はい。ですから……」
「なるほど。ですがあなたはまずご自分のことを心配するべきです」
白菊の言葉に、翠鈴は首を傾げた。
「私のこと?」
「ええ、昨夜の話を聞かせてください。皇帝陛下の寝所でなにがあったのか」
「なっ……! なにがって……!」
ズバリ核心を突くような白菊からの問いかけに、翠鈴は真っ赤になってしまう。あやかしに気遣いを求めるのは無理な話なのかもしれないが、それにしても女人相手に不躾な質問だ。
それなのに白菊は平然として続きを促した。
「陛下に聞いても、だんまりで埒があかないのです。大切なことだというのに。だから仕方なく、あなたに聞きにきたというわけです。単刀直入に聞きます。昨夜あなたは陛下の寵愛を受けたのですか?」
赤い目でジッと見つめられては嘘をつくことはできない。
翠鈴は真っ赤になったまま頷いた。
「……受けました」
「なんてことだ……」
白菊が手で顔を覆い深いため息をついた。
「し、仕方がなかったんです……! 私にお断りすることはできませんし」
断りたいという気持ちは微塵もなかったがとりあえずそう言い訳をする。同時に昨夜の出来事が頭に浮かび、身体が熱くなった。
有無を言わせず寝台の上で組み敷かれたはずなのに、翠鈴に触れる彼の手は驚くほど優しかった。熱い吐息が身体中を辿る感覚に今まで感じたことのない胸の高鳴りを覚えたのだ。はじめて異性と身体を重ねる時は、苦痛も伴うものと聞いていたが、そのようなことは微塵もなく、ただ満たされた一夜だった……。
うつむく翠鈴に、白菊がため息をついた。
「ですがこれであなたは村へ帰れなくなりました」
「え? ど……どうしてですか?」
「あたりまえでしょう? 皇帝の寵愛を一度でも受けた妃は、生涯後宮の中で暮らす決まりです」
「そんな……!」
白菊の口から出た無情な言葉に、翠鈴は絶句する。
一方で白菊は翠鈴に背を向けて腕を組み、ぶつぶつと言い出した。
「それにしても陛下はいったいなにを考えているのか。私がなんのためにこの娘を連れてきたと……」
「約束が違うじゃありませんか!」
彼の背中に翠鈴が訴えると、白菊が振り返った。
「約束? 妙なことを言いますね。私が村へ帰すと言ったのは寵愛を受けないことが前提の話です。裏を返せば、寵愛を受ければ帰すことはできないのはあたりまえでしょう」
「そんな……」
「それに、いったいなにが不満なのです? 寵愛を受けた妃は後宮での待遇は格段によくなります。村での暮らしとは比べものにならないくらい贅沢ができますよ」
そう言って彼は、机に並ぶたくさんのお菜に視線を送った。
確かにここにいれば食べるのに困ることはないのだろう。その日暮らしだった村の生活とは比べものにならない。でもそれを翠鈴は望んでいないのだ。
「贅沢なんて興味ない。私は村に帰りたかっただけなのに……」
呟いて寝台に座り込む。
あまりの出来事に頭がついていかなかった。茫然とする翠鈴を見下ろして、白菊がため息をついた。
「贅沢なんて興味ない……人間のくせに、妙なことを言いますね。いずれにせよ、あなたには今日の夕刻『懐妊定めの儀』を受けていただきます。その先の話はその後です」
耳慣れない言葉に、やや放心状態の翠鈴はゆっくりと顔を上げた。
「懐妊定めの儀?」
「そうです。寵愛を受けた妃は次の日の夕刻に受ける決まりになっています。皇帝陛下のお子を宿していないかを確認するために」
「お子を?」
ぼんやりと聞き返す翠鈴に、白菊が呆れたような声を出した。
「そうですよ。まさか、どうやって子ができるか知らないわけじゃないでしょう? やることをやったら子はできます」
「そっ……! それはそうですが。そんなに早くわからないでしょう?」
確か村の産婆は、赤子ができたかどうかは三月にならないと確かなことは言えないと言っていた。翠鈴が皇帝と一夜を共にしたのは昨夜のことなのだ。わかるはずがない。
白菊が鼻で笑った。
「相手は龍神さまにございます。人相手とはわけが違う。次の日の夕刻には子ができたかできていないか判明いたします。それを定めるのが懐妊定めの儀です。宮廷内のすべての家臣と後宮のすべての妃が証人となるため、皆が見守る中で行われます」
翠鈴はぶるりと身を震わせた。今さらながら大変なことになってしまったと気がついたからだ。
昨夜のことを、ご利益を受けたくらいに思っていた自分はなんて迂闊なんだろう。皇帝と一夜を共にするということは国の一大事なのだ。
「……とはいえ、陛下のお子ができる可能性は極めて低いと思われます。たいていはひとりの龍神につきひとりの子ができるだけです。これはほかの人間には知られていないことですが」
翠鈴はホッと息を吐いた。
「そうですか……。よかった」
白菊がうっすらと笑った。
「本当に変な娘だ。皇帝の子を産めばあなたは皇后になれるかもしれないのですよ。権力を思うままに操りたいとは思わないのですか?」
「そんなこと、私は望んでおりません」
翠鈴が望んでいるのは静かな暮らし、村に帰り元の生活に戻ることだけだ。
白菊がやれやれというように肩をすくめた。
「……まぁ、そういうことなら、子ができていなければ、秘密裏に帰すよう取り計らってみましょうか。陛下のお許しが出ればの話ですが」
「お願いします!」
勢い込んで翠鈴は言う。
一夜を共にしたとはいえ、皇帝にとって自分は百人いる妃のうちのひとりなのだ。帰さないなどとは言わないだろう。子ができている可能性も低いというならば希望の光が見えてきた。
「では、懐妊定めの儀を終えたらまた詳細をお知らせします」
そう言ってシュッと音を立てて、白菊は消えた。
翠鈴は蘭蘭を呼ぶために扉を開ける。蘭蘭は少し不安そうに部屋の前に立っていた。開いた扉にホッと息を吐いて部屋の中に入ってくる。
廊下に、数人の妃たちが集まってひそひそと囁き合っていた。
「いったいどうやって、陛下をたぶらかしたのかしら」
「緑族の娘だもの、私たちにわからないような卑しいやり方じゃない?」
「どう考えても華夢さまの方がお美しいのに」
その言葉を聞きながら翠鈴は改めて決意する。
こんなところに一生閉じ込められてはたまらない。懐妊の義を終えたら皇帝の許しをもらって、なんとしても村に帰らなければ。
懐妊定めの儀は、紅禁城の裏にある大寺院で行われる。
底の見えない深い谷と、小さな泉に挟まれた大寺院は、石造りの簡素な建物である。重要な儀式の時にだけ、人が入ることが許される広い境内に、夕刻、宮廷のすべての家臣と後宮の妃が集められた。
用意された椅子に座り、泉を取り囲んでいる。大寺院の中にある儀式用の玉座には、皇帝が鎮座していた。
白い衣装を身につけた翠鈴は震える足で泉の前に立っていた。緊張でどうにかなってしまいそうだった。
国の隅の長閑な村で、静かに暮らしていた田舎娘が、こんなところにいるなんて、どう考えてもあり得ない。恐ろしくてたまらなかった。
「術者が合図をしたら、泉にお入りくださいませ」
そばにいる梓萌の言葉に、無言で頷く。今は彼女ですら、そばにいてくれてよかったと思うくらいだった。
この場の一番高いところから玉座に座る皇帝が、自分をジッと見つめている。昨夜は肌を重ねてこれ以上ないくらい近くにいた相手のはずなのに、やはり遠い存在だ。
「天におわす萬の神よこの娘の……」
術者が、空に向かって祝詞を唱えはじめる。この場にいるすべての者から注目されている状況に、気が遠くなりそうだ。でもここで気を失うわけにはいかなかった。
"しっかりしろ、これが済んだら村へ帰れる"と自分自身に言い聞かせる。
やがて術者は祝詞をやめて翠鈴に視線を送る。梓萌に背中をトントンと叩かれて翠鈴は一歩踏み出した。
石畳で囲まれている泉は、翠鈴の前だけが石の階段になっている。階段は泉の中へ続いている。
ひやりとした石の感覚を感じながら、翠鈴は階段をゆっくりと下りる。膝まで水に浸かり、術者が空に向かって手を振り上げた時――。
風が吹き、水面が七色の光を放つ。その光に翠鈴は見覚えがあった。昨夜夢で見たのと同じ光だ。
「おおー!」
術者が声をあげ、見守る人たちがどよめきだす。いったいなにが起こったのかがわからなくて、翠鈴の胸は不安でいっぱいになった。
「ご、ご懐妊……緑翠鈴妃さま、ご懐妊にございます!!」
術者が声を張りあげると、その場が騒然となった。
顔を見合わせわーわーとなにかを言い合う家臣たち。妃からは悲鳴があがっている。
翠鈴は言葉もなく立ち尽くした。
悪い夢を見ているような気分だった。
だって、子ができていたらもう村へは帰れなくなってしまう。
祖父から受け継ぎ一生懸命切り盛りしていた診療所。
気のいい村人たち。
のどかで穏やかな暮らし。
帰りたいのに。
帰りたいのに……!
頭の後ろがちりちりと痺れて、きーんという耳鳴りがする。周りの音が遠ざかっていく……。
目を閉じたら故郷の村の自分の家にいるはず。そう思ったのを最後に、翠鈴の意識は真っ暗な闇に閉ざされた。