高校入試最終日。
今後の人生が決まるというプレッシャーのせいで、僕は朝から腹痛に襲われていた。下腹部に手を当てながら、ようやく息をして周りに目をやると、それが僕だけだと分かった。
満席の教室に見張りが2人。
沈黙が流れる中、皆一様に闘志を燃やしていた。

もちろん、それは僕も例外ではなかった。
目の前に置かれた冊子の注意事項を読みながらその時を待つ。
腕時計の秒針の振動が、僕を急かす。
僕は息を呑んでその時を待った。


***


夏休みを3日後に控えた日、教室に予告なく置かれた真新しい机と椅子を見て、瞬時に転校生が来たのだと分かった。

人間関係が得意ではない僕は関わることはないだろうと思っていたけど、同時に関わるとろくなことが起こらないだろうとも思っていた。

なんせ、転校時期も転校時期だったし、転校初日からクラスの人気者だったからだ。

東京からど田舎に転校してきた転校生だったから、都会生活のあれこれ聞かれるのは予想できた。

けれど、クラスの一軍に好きなタイプや遊びの予定を聞かれていたら、人間関係が苦手な僕にも転校生の立ち位置が分かってくるものだ。



***



必死に生きる蝉の声をBGMに重い扉を開けた。
まだ朝の8時だけれど太陽は力を弱めることなく、まだ夢の中に取り残されている僕をげんなりさせる。

「頑張ってきなさいよ」と朝から不機嫌な母に送り出された僕は塾まで自転車を飛ばす。

夏休みの大半を塾で過ごすことになっている僕は、夏休みを心底恨んでいる。僕が通っているのは国立大学に進学したい人が通う塾だからか、学校のような騒がしさはなく、皆がひたすら課題と向き合っている感じだ。
それだから友人はひとりもいなかったし、それが気楽でよかった。


それでも僕は夏休みが苦手だった。
それは勉強が嫌いだからで、塾にさえ通わずに済むなら夏休みがどんなに幸せだろうと思う。

そんな僕の楽しみは人生の夏休みと呼ばれる大学生活ではなく、社会人になってからのわずかな休みだった。要するに、僕は早く親の支配下から逃れたいだけなのである。



親は勉強に口うるさい。

工業高校出身の父と商業高校出身の母のもとに生まれた僕は、幼い頃から塾などの習い事を多くさせられてきた。
子供のうちは定着しやすいからとの母の教えの元、遊ぶ時間をすべて将来のために費やしてきたつもりだ。

けれど中学入試、高校入試に失敗した僕は親の失望しか得られなかったのだ。

そんなわけで社会不適合者予備軍が誕生してしまった。


住田光(すみだひかる)くんだよな?」
あともう少しで塾に着くというところで例の転校生、平井大星(ひらいたいせい)が前から歩いてきた。

ランニング中なのか、胸に”北中”と書かれたジャージを着ていて、時折額には汗が見えた。それでも爽やかさを振りまく平井を見て、思わず目を背けた。

「うん、そうだけど」

あまりにも自然に声を掛けられたから、一瞬友人にでもなったかと思ったけどそんなわけがない。僕は意図的に平井をら避けていたのだ。

「これから塾だっけ?」

言い回しがどうしても引っかかる。
まるで僕が塾に行くことを知っていたような、そんな言い方だ。

不審に思いながらも頷くと、平井は淡々と「そうか」と言った。

「毎日塾に行ってんの?」
「うん、僕の夏休みはそんなものだよ」

それを聞くと平井はふーんと言って走り去っていった。
僕が言えたことではないだろうけど、平井はよくわからない人だった。
平井が角を曲がったのを見て、僕は吸い込まれるように塾に入った。

受付には人の姿がなく、誰にも声を掛けられることなく自習室の席に着いた。
1席ずつ囲いがついている作りの机は集中できた。
たまに背後から先生が覗いてくるのは不快だけれど、めったにないので我慢する。

冷房の効いた部屋は快適さのあまりしばしば眠気に襲われる。
この状況にため息をひとつこぼして数学のテキストを開いた。


両親は僕が医者になることを望んでいるけれど、僕はめっぽう理系に弱い。
かと言って文系が得意なわけでもなく、理系よりは少しマシというくらい。
訳のわからない記号やグラフを書いては睡魔に襲われ、眠気覚ましの干し梅を口に入れた。

***

夏の醍醐味といえば、冷房の効いた部屋でタオルケットをかけて眠ることだと思う。
やっとのことで布団から身体を起こすと、素早く身支度を済ませる。
8時にアラームをかけたのだけど、そこから二度寝をしてしまったので時計は9時半を示していた。

今日は塾が研修を理由に休みになっていたから急ぐ必要はなかったけれど、家にいても勉強が捗らないので最低限の荷物を持ってカフェに向かった。

最近は勉強不可のカフェが増えて、僕の行きつけのカフェに学生が集まり始めた。
勉強禁止にならなければいいなと思いながら、カフェに入って定位置に着いた。

僕は店の1番奥にある2人掛けのテーブル席が定位置となっていた。
なんとなく視線が集まりにくそうだったので、初めて来た時から気に入っている。

「オレンジジュースをひとつお願いします」

「飽きないね。じゃあ、すぐに持ってくるわ」

このカフェを経営する50代くらいの女性は、僕のことを"毎回オレンジジュースを注文する人"として覚えているみたいだった。
値段が安いのと、カフェインが苦手な僕が飲めるのがそれぐらいしかないからだ。言ってしまえば消去法。
オレンジジュース好きと誤解されてしまっているけれど、面倒なのでその認識のままで良い。

すぐにおばさんがオレンジジュースを持ってきてくれて、僕はゴクリと半分飲んで課題に手をつけた。



高校2年が1番楽しいというのに、僕は勉強ばかりしている。それも1人で、だ。
友人がいないわけではないけれど、まだ受験モードになっていない友人を巻き込むわけにはいかないので孤独学習をしているわけだ。

カフェは客の喋り声が響いている。店内に流れるBGMがジャズで心地良かった。音楽には詳しくないけれど、集中力が上がる気がするので今度家で勉強するときに流してみようと思う。

「そういえば、(はやて)くんは最近どうなの?」

おばさんは店が空いたのをいいことに、僕の横にやってきた。多分、この機会を待っていたのだと思う。

颯というのは僕の1つ上の兄のことである。
東京の高校に通う兄は、バスケで将来を期待されている。
そういえば、母が、兄貴が代表に選ばれたと言っていたような気がした。
僕は兄と話すことはないので兄の情報には疎いけれど、リビングでよく両親が話しているのが耳に入ってくる。

「元気だと思いますよ」

適当にそう答えて、テキストに視線を落とした。

おばさんは兄貴のファンなので、こういう事はよくある。
正直、僕は兄貴のことを聞かれたくない。
けれど、感じの悪い態度をとれば僕はここにいられなくなってしまうので、当たり障りのない回答するのだ。


僕は兄貴の劣化版で、いつも弟はダメだねと言われてきた。

もしかすると、そんな自分が嫌いで変わるために勉強ばかりをしているのかもしれない。
両親が怖くても、逃げようと思えば逃げられるだろうし。

止まったシャーペンを持つ手を適当に動かしながら、オレンジジュースを飲み干した。


***


「よっ」

その日、玄関で僕の帰りを待ちかまえていた兄貴を見て、僕は俯いた。

「おい、なんかあったか?」

別に何もない。
ただ、スポーツも勉強も完璧な兄貴のことが苦手だった。それに、クラスの中心にいるような明るさを兼ね備えているので血の繋がりがないような気さえする。

兄貴はいつも通り声をかけてきたけど、僕は兄貴が家にいるのが信じられなくて何度も目を擦った。

「練習は?さぼり?」
「まさか、そんなわけないだろ。荷物を取りに来たんだよ」

兄貴はバスケの強豪校で寮生活をしている。
そのため、実家に帰ってくるのは年に数回だった。
今日は夏休みとはいえごく普通の平日だったから、兄貴が家にいるのが不思議だった。

「平井大星って奴、同級生にいるだろ」

突然何を言い出すのかと思ったら兄貴が転校生の話題を出したので世間は狭いなと思った。

それと、学年の違う兄貴が平井のことを知っていたので、転校の理由にバスケが絡んでいるのだと察した。

それを踏まえた上で、別に隠すつもりはなかったので、「あぁ」と言った。

「仲良くしてやってくれ、いい奴だから」

兄貴はそう言うと役目を終えたからか清々しい表情で自分の部屋に戻った。
僕は全く勝手だなぁと思いながらも兄貴に言い返すことなく、その背を見送った。


***


その発言から僕の人生は一変したようなものだ。


嫌なら兄貴の頼みを無視すればいいだけの話なのだけど、僕にはそれができなかった。

それは、兄貴を悲しませたくなかったからではない。なんとなく、平井に自分と似たところを見つけたような気がしたからだ。


今日、僕は塾をサボることにした。ちょうど授業はなかったし、なんとなく勉強をする気になれなかった。

とはいえ両親に知られてしまえば、もっと家に僕の居場所がなくなる事は分かっていたので、塾に行くふりをして、いつもと同じ時間に家を出た。


行き先を考えながら適当に自転車を漕いでいると、歩いて向かってくる平井の姿があった。
今日も中学のジャージらしきものを着ていた。まだ朝とはいえ半袖長ズボンの平井に、見るだけで暑苦しさを覚えた。


「今日も塾か?」

平井は僕を見つけると笑って声をかけてくる。

「今日は行くつもりないけど」

何だか申し訳ない返し方をしたと思った。
どうしてだろう、無性に腹が立つ。似たものがあるからだろうか。
とはいえ、似た者だと思いたくなかったのだけど。
なんとなく、平井と僕は住む世界が違うと思うから。

「この町には慣れたか?」
「慣れたよ」

兄貴の頼みがよぎって、その場を立ち去る前に少しだけ会話を続けてみることにした。

平井がこの町に引っ越してきて数週間。他人の事だからか僕が淡々と生きているからか、あっという間の出来事に感じられた。

「つまんないだろ、東京に比べたら」

東京に比べたらこの町には何もない。車を走らせればスーパーがあってコンビニがあって。暮らしにはそこまで不便はないけれど、遊ぶところがどこにもない。

誇れるものがあるとしたら、自然だろうか。それも僕にとっては必要のないものだけど。

「俺はこの町がちょうどいい」

都会に住んでいた人からすると、そういうものなのかとも思った。
けれど、今の僕にはそれを素直に受け止める余裕がなかった。

「お世辞だろ」
「じゃあそう思えばいいよ」

それは少し荒らしい声に聞こえた。地雷を踏んでしまったような気がした。

「なぁ、俺にこの町を案内してくれよ」
「もう十分だろ?」
「暇つぶしに付き合えよ。塾じゃないならこの時間からどこに行くつもりだ」

返す言葉の見つからなかった僕は、渋々平井に付き合うことになった。

どこを紹介しようかと悩んだ末、僕が1番行きたくなかった場所に向かうことにした。

自転車を押して歩きながら照りつける太陽を睨む。夏の象徴みたいなこの太陽も僕は嫌いだ。

「ずいぶん歩くんだな」

先を行く僕に平井が言った。
これまでざっと5分くらいだと思う。
足取りが重いのを勝手に夏のせいにして足を進めた。

「ここだけど」

そう言って高台にある公園の前で足を止めた。
公園と言ってもベンチとブランコ、バスケットゴールがあるくらい。
小学1年生くらいの男の子がひとりでシュート練習をしていた。

僕がこの場所に来たくなかった理由は、バスケットゴールがあるからだ。幼い頃、兄貴の練習をじっと眺めていた苦い記憶が蘇ってくるのも理由のひとつだと思う。

そんなことはさておき、ごく平凡な公園の中でも高台にある公園を選んだのは嫌がらせのつもりではない。

1学期の終わりに「この公園に行けば平井に会える」と女子が話すのを聞いて、平井が好きな場所なのだろうと思った。

どうせ町の紹介をしても、既に平井が知っている情報しか伝えられなかったので好都合だった。


「俺のこと知ってたんだ」
「何の話?」

この公園にいるという噂のことを指しているのではないのは、なんとなく僕にもわかった。
兄貴が平井のことを知っていた理由と、バスケと何か関係があるのだろうか。

聞きたかったけれど、僕からそういう気にはなれなかった。それは、僕にも同じような経験があるからだと思う。

「俺はこの町が好きだ」

平井はじっと一点を見つめて言う。

「東京は淡々としてた。それはそれで幸せだった。でも必要とされていない気がして苦しかった」

何となく分かる気がする。
僕が都会に憧れたときはそんなことを思った。
僕の場合、その点に憧れたようなものだけど。

「光は颯先輩の弟だよな」

突然だった。

平井が改まって向き合ったと思えば、飛んできたのは僕が聞きたくなかった言葉だ。

出た。兄貴の"弟"。
やっぱりそうだった。
クラスの人気者転校生が、僕に近づいてくるのはおかしいと思った。

「平井は僕が先輩の弟だから近づいたのか?」

「そんなわけないだろ、俺はバスケから逃げ出したんだ。そんな理由で近づいたら、俺が苦しめられるだけだろ」

確かにそれもそうだと思う。
でもそれならなおさらどうして僕に近づいたというのだろう。

僕にはクラスメイトを惹きつける魅力なんて持ち合わせていないし、一緒にいるメリットが1つもない。
疑問は深まるばかりだった。

「じゃあどうして?」
「気になったからだ。もちろん、"住田光"が」

僕が、気になった……。

ずっと兄貴と比べられては出来損ないの弟として見られてきた僕には新鮮な体験だった。

だから、信じられなかった。

それでも、平井が嘘をついているようには見えないし、僕は一旦それを受け入れて話を聞くことにした。とにかく先が聞きたかった。


「第一印象から光には似たところがあるような気がした。なんとなく悲観的というか、それでも諦められないみたいなそんな顔をしてた」

平井の発言が腑に落ちた。実際、どれだけ努力しようが、兄貴にはかなわないし、この先も比較され続けるんだろうと思っていた。
だから、悲観的と思われても仕方がない表情だったかもしれない。

諦められない顔というのはよくわからないけど、まだを見返したいと思っているとしたら納得がいく。

僕はただ"僕"を"僕"として見て欲しいだけだけど。


***


夏休みが明けても夏休み気分で満ちた教室では僕だけが浮いているような気がする。

学校終わり、塾に向いながら僕の未来を考えてみた。
それも、全部見飽きた光景だった。
社会に見捨てられる、そんな将来ばかりが僕に顔を見せてきた。

「お前、ここにいたんだ」
「なんでお前がここにいるんだよ」

数人の言い合う声に面倒だなと思いながらも視線を上げると、その中の1人は平井だった。

「実家に帰省してるだけだよ。これを逃したら、選抜の合宿で当分帰れないから」
「そうか」
「お前も気づいたほうがいいんじゃない?才能がなかったって」
「わかってるよ。だから何だよ」
「いずれ過去がばれるんだから、ひっそり生きてたほうがいいと思うよ。転校先でも人気者らしいから忠告してあげた」
「余計なお世話だよ。そんなことするなら練習すればいいのに」
「言われなくてもしてるよ」

聞いてはいけない会話を聞いたような気がした。
平井の抱えていた問題に勝手に立ち入ってしまった。

慌ててその場を離れようとしたところで、平井と目が合ってしまった。


「聞いてた?」
「ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
「いいよ。いつかは光に言おうとしてたことだから。それより、聞いてくれるか?」
「うん」

平井はゆっくりと話し始めた。
この町に戻ってくることになった理由となる出来事を。

「俺はバスケで選抜に選ばれたんだ。でも、練習のしすぎで怪我して選抜から外れた。それだけじゃなくて、バスケも続けられないって言われた」

やっぱり僕とは住む世界が違ったんだ。

咄嗟にそう思った。
むしろ兄貴と似ていて腹が立った。
せっかく平井が過去を話してくれているというのに、僕は平井と距離を置く方法を探していた。


「僕もよくわからないんだけど、このままだと日常生活もまともに送れなくなるって言われて。それでバスケを辞めることになったんだけど、俺はスポーツ推薦で進学したから居場所がなかったんだ。それで逃げるように地元に帰ってきた」

逃げるように、か。

「それを機にバスケからは完全に離れたけど、あの公園でバスケをしてる子供を見てたら小さい頃の自分を思い出した。毎朝ランニングしてたのも、復帰できるんじゃないかって思いたかったから……」

その後、「まぁ、どうせ無理なんだけどな」と笑った平井にかける言葉が見つからなかった。


僕には到底わからない悩みだけど、努力してきたことを自分で笑うのはなんだかすっきりしなかった。

「無理じゃないだろ、できることがあるだろ」

「無理だよ、無理だったんだから」

「わざわざ無理な選手に戻る必要あるのか?」

「それは……」

「平井が戻りたいのはバスケの選手だけか?バスケに関わっていたいんじゃないのか?」

「わかんないよ。自分がどうしたいかなんて」

「自分で探せよ。未練があるなら逃げんな」

僕はそう言い残して家に向かって歩き出した。
僕が言える立場ではないというのに、口が勝手に動いていた。
こんなに熱を持って誰かに接したのはいつぶりだろう。
僕にははっきりとわからないけど、平井が気になって仕方がなかった。
平井がどうなろうと僕には関係ないのに、だ。


***


あれから、塾へ行く道をわざと変えたので平井に会うことなく、夏休みを終えた。

僕は、毎日塾に通い、両親の期待に応えたつもりだ。
もう少しで夏休み上旬に受けた模試の結果が郵送されてくる。その結果次第では両親をまた失望させてしまうことになるので、それだけが気がかりだった。

しばらく平井との関わりを絶っていたら、いつの間にか平井の問題を気にしなくなった。

やっぱり僕に人間関係は向いていないのだと思う。以来、ずっと楽だった。

相変わらず平井はクラスメイトから愛されていて、今日も平井の周りには人だかりができていた。

「バスケしてたの?」
「少しだけ」
「うちのバスケ部入らない?」

提案したのはバスケ部のマネージャーらしかった。

「もうやめたから」

淡々と答えていたけれど、本当はショックだったと思う。それでもそれを表情に出そうとはせず優しく断る平井の姿に、人気の理由がわかった気がする。


***


「どうしてあなたはできないの?」

帰宅早々、母の怒声が僕を迎えた。
母の顔は茹で蛸みたいだった。
案の定母の手には模試の結果が記してある資料があった。

「全く、いつも何を勉強しているの?」

母の前では言い訳は通用しないし、そもそも言い訳をすることもなかったので、黙って聞いていた。
こういう時は口を挟むと余計面倒になることを痛いほどわかっていたからだ。

「塾代だって払ってあげてるの。全部あなたのためなのよ?」

高卒がよく言うよ、と思いながら頭を下げ続ける。

子供のためと言いながら結局世間体ばかりを気にしている母がうざったい。

大体、兄貴も出来損ないだったら僕がここまで怒られる必要はなかったことだ。
立派な兄を持ってしまったがゆえに僕は苦しめられているのだ。

「今度の模試で9割取れなかったら塾を増やすからね」

大体そんなお金はどこから出てくるのかと思う。

母はパートで、父は中小企業に勤める会社員。
兄貴がスポーツ推薦で高校に行っている分お金は浮いているのかもしれないけど、わざわざそこまでして僕を良い大学に進ませたいという神経がよくわからない。
それも母には言えないのだけど。

「わかりました」



荷物を持って自分の部屋に戻ると、真っ先にベッドに倒れ込んだ。
枕に顔をうずめて呼吸が浅くなるのを、このまま楽になれたらなんて思って続けた。

大体、僕は生まれたときから決まってたんだ。
比較され続けることが。


***


「なぁ、俺決めたわ。スポーツトレーナー目指すことにした」

自分の席に着くと、平井が僕に駆け寄ってきた。
教室で平井と話す事はなかったし、平井がそれを望んでいたと思っていたから僕は驚きを隠せず、思わず「僕?」と平井に聞き返した。

「そう、頑張って」
「なんか冷たいな」
「だって、まだ分かんないし。絶対に叶うよとか言えないし」
「良いんだよ、そんなの適当で」
「そうか?」
「うん、そんなもんなんだよ」

平井を避けていたのが嘘みたいに案外話せていた。

「平井と住田って仲良かったんだ」

クラスの一軍男子が平井と話す僕を珍しがった。
無理もない。生きる世界が違うのだから。

「友達だよな?」

そう言われて、僕は何も返せなかった。
友達を名乗っていいのか、その権利があるのか。
友達であることに自信が持てなかった。
それは多分、僕が平井を避けていたことが影響していた。

「お前が俺のこと避けてるのって、住む世界が違うと思ってるからだろ」

一軍男子が持ち場に戻って早々、図星を突かれた。
どうせ平井には明らかだったので否定しなかった。
 
「そうだよ、だからなに?」
「お前から勝手に距離を置いといてよく住む世界が違うなんて言えるよ。お前はそうやってすぐひとりになろうとする」
「だったらどうしたらいいんだよ」
「もっと人に頼れよ。別に全部話す必要はないんだ」
「できたらそうするよ」

できないから苦労してきたのに、今更人に頼れるわけがなかった。
それに、今の悩みは僕ひとりの問題だから。

「お前、兄貴と比べられてんだろ?」
「は?」
「馬鹿でも分かるわ。隠し事が下手だな」

そう言って平井が笑ったのを僕は見逃さなかった。

「別にいいだろ、これは僕の問題だし」
「そうやってすぐ距離を取ろうとする。何が『僕の問題』だよ。お前ひとりでどうにか出来るのか?」
「どうにかするしかないんだよ、ひとりで」

「いい加減にしろ」

平井がそう言った時、クラスの視線が僕に集まった。
優しい平井を怒らせた奴として。

平井も慌てて「なんでもない」と言ったけれど、やっぱり視線が気になって、僕は廊下に出た。

「ごめんって」
「もういいだろ?僕はこんな人間なんだよ」
「お前はすぐそうやって悲観する」
「だから何?平井に関係ある?」
「あるよ。大事な友達のこと、放っておけるわけがないだろ」
「誰にでも言ってんの?『大事な友達』って」
「そんなわけないだろ。お前何なんだよ」

止まらなかった、止まれなかった。
そんな僕を平井は前を走って振り返る。

「お前は自分を過小評価しすぎなんだよ。普通、そんなに人間は頑張れないよ」

そういうもんなのだろうか。
疑問に思っているところを平井は続けた。

「俺が夢を持てたのは、住田が向き合ってくれたからだ」

信じられなかった。

「俺は、お前が自信を持てるようになるまで諦めないからな」

平井はしつこく僕に声をかけた。
暑苦しくて、うざったかった。
けれど、僕のことを思ってくれているのが痛いほど伝わってきて、心を許していいのかと思い始めた。

それでもまだ兄貴のことを話す気にはなれないし、言えないと思う。
でも、平井は信じていい気がした。

多分すぐには変われない。
でも、いつかは平井みたいに生きていきたいと思うようになった。


申し訳ないけれど、僕のアオハルにはその時まで待っていてもらおう。

まだ色のない春を求めて、僕は長い道を歩き続ける。