それから、ただ平凡に時が過ぎていった。

 2月。分厚い雲が空を覆って今にも雪が降りそうな日の事だった。俺はいつも通りに、へらへらと友達に合わせて笑顔を張り付けていた。ことが起きたのは、昼休みの終盤。



「いやー、寒いな。トイレにも暖房付かねぇかな」

「そう言ってる割には、茜、今日機嫌よくね?」

「あ、わかる?」

「英単語すごいよな、俺なんて5割もいかなかった」

「それだけじゃないんだな、今日のいいこと」



 英単語の小テストで1位を取った俺は、酷く機嫌がよかった。だから、油断した。いつもだったら、絶対にそんなへまはしなかったというのに。



「修理に出してるカメラが返ってくるんだ」



 口に出した瞬間、まずった、と思った。案の定、目の前の友達は、目をぱちくりさせて俺のことを見つめていた。



「茜、写真撮るの?」

「……あ、いや、」



 口ごもった俺の頭を小さな囁きが過った。これは、チャンスかもしれないぞ、と。ここで打ち明けてしまえば、もしかしたら、また「好きなものを好きだと言っていた自分」に戻ることができるかもしれないぞ、と。



「……俺、」



 脳裏上の声に背を押された俺は、身体中の勇気を必死でかき集めた。そうして、口から言葉を押し出そうとした、刹那。



「カメラとか古くね? だっていまスマホがあればカメラなんていらないもんな」



 ドクン、と心臓が大きく脈を打った。

 ぶわ、と全身の血液が沸騰して、目頭が熱くなって、鼻の奥がツンと痛む。


「だよ、な」

「何でそれがいいことなの?」

「はは、父さんにおつかい頼まれて、ついでに小遣いもらったからさ」



 頼む、震えるな、俺の声。そう思いながらも、一言発するごとに俺の胸はすりつぶされていく。
 痛くて、痛くて、堪らなく痛い。



「えーずるい、おごれよ!」

「……嫌だね」



 誰が、お前らなんかに。



 へまをしたのは自分の所為であって、彼らの所為ではない。

 だけど、心底、疎ましかった。好きなことを否定してきた相手を笑って許せるほど、俺はその時、大人ではなかった。
 そして、否定されて泣きたくなるほどに傷ついたのもまた、俺が大人じゃないからだった。

 午後の授業をどうやって受けたのか、もう憶えていない。終業のチャイムとともにバッグをつかんで教室から逃げ出した。帰りのHRが終了するまで待つことなどできなかった。

 誰とも、口を利きたくなかった。幸いだれも追いかけてなど来なかった。当たり前だ、俺達は教室内で男子高校生を取り繕う為だけに一緒に居るのだから。

 抜け殻みたいになった俺は、修理されたカメラを受け取って、代金を払い、スクールバッグの奥底に隠す様に仕舞い込んだ。ここは俺の最寄駅、知り合いなどそんなに多くはいないというのに。




「ただいま」



 この時間に家に家族がいるはずもなかった。両親は共働きだったし、兄は大学院生で研究室にこもりっ放しだった。家族の時間なんてものは、とっくの昔に無くなっていた。

 ダイニングテーブルに置いてある菓子パンに目もくれずに、俺は自室に向かう。ベッドに向かってカバンを投げ下ろし、制服を脱ぎ捨てて漸く、唇から溜息が転がり落ちた。ずる、としゃがみ込む。



「古いって、さ」



 誰ともなしに、呟いた。部屋の冷たい空気に紛れて、その音は溶けて消えた。

 ジッとカバンのファスナーを開いて修理されたばかりのカメラを取り出す。黒光りする重たい無機物が、俺の手のひらの中にすっぽりと納まる。



「俺は、写真が、好きだ」



 胸が、痛い。誰にも認められなくて構わないと思っていたけれど、やっぱり、否定されるとこんなにもつらい。

 また、唇から溜息が落ちる。この遣る瀬無い感情を、どう処理したらいいのか、俺は知らなかった。

 カメラをベッドにおいて、俺はカバンから財布を取り出した。財布の中には、家の近くから出る船のチケットが入っている。その紙切れに記されているのは、今日の日付と17時という時刻。カメラの修理が終わる日に合わせて、写真を撮りに行こうと以前から準備していたものだった。

 少しだけ迷って、俺は赤いダウンを手に取った。そのまま腕を通す。財布と携帯をポケットに突っ込んで、カメラを右手で持ち上げる。



「このまま行かないってのも、金の無駄になるし」



 誰もいないのに言い訳をして、俺は外に踏み出した。



 船着き場に付くころには、辺りは薄暗くて、雪がちらちらと舞い落ちていた。

 チケットを差し出して、ハンコを押してもらう。タラップを上がって船の甲板から、淀んだ海を見つめた。こんな寒い日だからか、船には人影がほとんどなかった。コンディションはあまり良くなく、まぁ、雨よりはましなのかな、というくらいだった。

 兎に角、寒い。手がかじかんでカメラを取り落としてしまいそうだった。それならそれで、この趣味を終わらせる理由になるかもしれないな、と思った。修理したばかりだというのに、首からかけるべきストラップを無視して、両手でカメラを支えていた。

 ボーっという音がして、ゆっくりと船が動き始めた。俺のほかには、黒いトレンチコートを着込んでいる人が一人だけ乗っているのが目の端に映った。

 雪の粒が大きくなってきて、東京湾に沈んでいく。
 淀んだ空を遮るレインボーブリッジ、淀んだ海、灰色の雪。灰白色をしている癖に、何がレインボーブリッジだ。

 そう思いながらも、この景色に目を奪われていた。この景色はまるで、俺の心の中みたいだと思った。彩度を失った、俺の世界。

 だから俺は、ネックストラップを首から掛け、ゆっくりとカメラを構える。レンズ越しの俺の世界を切り取るように、シャッターを切った。



“            ”



 カメラのシャッター音が二つ、この灰色の世界に響いた。俺と同じ世界を見ている人がいるのか。そう思って、シャッターの音がした方を振り向いた。



「——……」



 驚きで、言葉が出なかった。火花が散ったような感覚。こんなにも寒いというのに、身体がカッと熱を持つ。全身に、血が巡る。

 俺の視線に気がついたのか、黒いトレンチコートの人影は白いカメラのレンズから目を離して俺を見据えた。

 その緑青色の瞳が、大きく見開かれる。





 お互いの手に在るカメラが、
 俺——菅野茜と、お前——片桐翡翠を、結んだ瞬間だった。