私が誘拐されてから月日は流れ、窓の外を覗けば桜の木が満開になっている。
 季節は春を迎え、私が人権を獲得してからちょうど一年。
 
「短かったような長かったような……初めてばかりの一年だった」

 私は自室の窓から外を眺めて呟く。
 本当に何から何まで初めてのことばかりだった。

 知識として、データとしては知っていた。
 人間の考え方や社会のルール、自然の景色や歴史。
 だけどそれらは所詮データでしかなかった。
 実際に外に出れば人間の感情の複雑さに驚くし、社会の情勢は思っていたものと違っていた。自然の色や匂いすらまやかしだった。

 私は部屋を出てリビングに向かう。
 時間は午前十時。
 今日は三人で出かける約束をしている。

「おはよ」
「おはようアリサ!」

 朱里は朝食の菓子パンを頬張りながらフライパンでパンケーキを焼いている。
 今日は朝からパンケーキが食べられる。
 ちょっと特別な記念日だ。

「蒼汰は?」
「まだ寝てるんじゃない?」

 朱里はそう言ってパンケーキを皿にのせ、シロップを大量にぶっかける。
 私はルイボスティーをグラスに注ぎ、パンケーキの横に置く。

「ちょっと起こしてくる」
「分かった。私はパンケーキつまみ食いしとくね?」
「ちょっとだけだよ?」

 作ってもらった手前、文句は言えない。
 私は朱里が全部食べきる前に蒼汰を起こすため、廊下に戻る。
 スタスタと早足で蒼汰の部屋に突入する。
 ノックもせずにドアを開け放つと、蒼汰は安らかな顔をして眠っていた。
 仰向けで姿勢よく眠っている彼の表情は、本当に穏やかな顔をしていた。

 思わぬ形で彼の復讐が叶って以降、まるで憑き物が落ちたように穏やかな表情で眠ることが多くなったと思う。
 
 彼を起こそうとも思ったが、ふとベッド脇に置いてあるキャンバスが目に入った。
 キャンバスには綺麗に彩られた街並みが描かれている。
 描いたのは当然私。
 これを描き上げた時、蒼汰が異様に気に入り部屋に持ちかえってしまった。
 
「蒼汰! 早く起きて!」

 私はそこそこ声を張ったが、蒼汰はピクリともしない。
 呑気に唇をさらして寝続けている。
 
 私は朱里がリビングにいると確認して、蒼汰の唇に自分の唇をそっと重ねる。
 おはようのキスなんて、自分がするとは思わなかった。
 キスをしたのは良いが、唐突に恥ずかしくなってきて私は急いで部屋を出た。

「あれ? 起きなかったの?」
「一応起こしたんだけどね」

 私はそう言って誤魔化し、席に座ってパンケーキを口に放り込む。
 うん。美味しい!
 過度な甘さが口いっぱいに広がり、それをルイボスティーで流し込む。
 やっぱり私の好物はアリサのまま変わらない。

 そんなこんなしていると、ドアがガチャリと音を立てて開けられ、眠そうな蒼汰がやって来た。

「おはよう……あ、アリサ」
「な、なに?」
「朝からありがとう」
「ど、どういたしまして」

 ややカタゴトな私の態度を見て、私が朝っぱらから何をしたのか悟ったらしい朱里が、ニヤニヤと蒼汰と私を交互に見てクスクスと笑い出す。

「朝からお熱いことで」

 朱里はそう言い残し、出かける支度をすると言って自室に籠ってしまった。

 私と蒼汰はお互いに苦笑いを浮かべ、席に着く。
 彼は朝はあまり食べないため、朱里と同じく菓子パンを食べ始める。
 
「そういえばアリサ」
「なに?」
「あの絵も持って行っていい?」
「良いわけないでしょ!」

 蒼汰が指さす先にあるのは、キャンバスだ。
 あれも当然私が描いたもの。
 描かれているのはクリスマスの日の私たち。

 前に描いた時とは違い、ちゃんと私も写っている。
 あれは家族の証。
 リビングに置いておかないと意味がない。

 蒼汰はやや残念そうに笑い、立ち上がる。

「そろそろ行く?」
「着替えるからちょっと待っててよ」

 女の子は出かけるまでに時間がかかるというのを彼は学習しない。
 こんな美女二人と暮らしているのにも関わらず、いまだに分かってくれない。
 彼はそういうところには無頓着なタイプだ。
 だけど私はそんなところも気に入ってしまっている。
 本当に、好きという感情は恐ろしいな思うと同時に、素晴らしいとも思えてしまう。
 好きという感情があれば、たとえ欠点でも愛おしく感じてしまうのだから。

「お待たせ!」

 私の今日の服装は、ベージュのニットセーターに茶色いフレアスカート。
 あの日と同じ格好。
 私が人権を得た日に初めて袖を通した服だ。

「朱里も行くよ」
「はいはい!」

 朱里は勢いよく部屋から飛び出してくる。
 蒼汰は黙って頷き、私たちを車に乗せて走りだす。
 行き先は知っている。
 時間も、ここから車でニ〇分程度で到着する。

 目に映るのは灰色の街並み。
 これだけは一年前と違う。
 だけど私は知っている。
 色は見る人の気持ち次第なのだと、人々の活気次第なのだと。
 蒼汰の行っている活動が、やがてこの国に活気を取り戻してくれると信じてる。

「着いたな」

 蒼汰は駐車場に車を止めてエンジンを切る。
 
「随分高いね」
「そうかな? 家と同じくらいじゃない?」

 私は朱里の感想に返事をする。
 まるで一年前の私と蒼汰のようなやり取りに、一人ほくそ笑む。
 朱里はまだ来たことなかったもんね。
 
 私たちはエレベーターに乗り込み、十五階を押した。
 十五階に到着した私は、小走りで共用通路に出て外を見る。
 やっぱり同じ景色、唯一違う点は色が無いことぐらい。
 でもそんなのはどうでもいいことだ。
 私は深く息を吸い込み、振り向く。

 そこには玄関がある。
 私が十年間過ごした部屋。
 ある意味実家のような場所だ。
 私は蒼汰から鍵を受け取り、鍵穴に通して捻る。

「ただいま!」

 私は一年ぶりに部屋に入る。
 中はやや埃臭かったが、部屋の配置や小物の転がっている場所は一年前と変わらない。
 ここで私は生まれたようなもの。
 意識の始まりはこの部屋のベッドの上だ。

「ねえ蒼汰、朱里」
「なに?」

 私は勢いよく二人を強く抱きしめる。

「ちょっとアリサ?」

 困惑する二人を尻目に笑顔を浮かべる。
 本当に心からの笑顔。
 自分でもどれだけ笑えているか分からない。

「これからもずっと一緒にいようね!」

 私はいま一番の願いを叫んだのだ。





                 作り物な私と灰色のキャンバス 完