「やっぱり……セツさんは亡くなられたんですね……」

 長野さんは悔しそうに顔を伏せながら言った。

「それが先生が医者を目指した理由、緩和ケアに進んだ理由ですか?」

 長野さんは話の後半からはほとんどお酒には手をつけていなかった。反対に僕はお酒をよく飲みながら話した。最後に頼んだ熱燗二合のうち一・五合は僕が飲んだだろう。

「うん。医者になったのは命を救いたかったからなんだけど、緩和ケアに進むかは最後まで悩んだけどね。でも結局は緩和ケアに進んだ。セツの病気だって完治をするのがベストだった。セツが死んでしまった以上、僕にとってそれはバッドエンドだ。病気の全てが根治可能、それが理想の医療だと思う。だけど実際そんなことは無理だ。セツの病気も今の技術でも延命が精一杯だと思う。だったら僕はセツみたいな人を救いたい。表面上は明るく振る舞っていても死ぬのが怖くて怖くてしょうがない、体と心が痛くてたまらない人はたくさんいるんだ。そして家族を含めて正しい縋り方を導いてあげたいんだ。これも一つの命の救い方だし医者の使命だと信じている」

 長野さんは口を半分開いて聞いていた。僕は普段語らない医者の信条を声高々に語ってしまい急に恥ずかしくなってきた。だいぶ酔いも回っているようだ。

「それに緩和ケア科には尊敬できて、この人から学びたいと思える医者もいるからね」

「……まさかあの加藤先生ですか?」

 長野さんは口を閉じると半信半疑といった様子で訊いてきた。その様子を見るのは何だか手品が成功したような気分で気持ちが良かった。

「まさかあのとは失礼な。そう加藤先生。さっきの話で出たセツが東京で通院していた病院は、実は僕達が今働いている栄大附属病院なんだよ」

「え?」

「そして緩和ケア科の主治医だったのは若き日の加藤先生さ。加藤先生は普段はあんまり喋らないし熊みたいにのんびりしてるけど、誰よりも患者のことを考えてる。そして患者のことを考えてその家族に叱ることができる素晴らしい医者さ。僕は研修もここだったけど、緩和ケア科を回る際に指導医が加藤先生だった。それで話を聞いているうちに、ちょっとした話の流れで加藤先生がセツの主治医だったことを知ったんだ。すごい偶然だよね。加藤先生、当時で十年近く前のことなのに、セツのことしっかり憶えてたよ。僕がセツと過ごした日々のことを話したらすごく嬉しそうに笑ってた。そして僕に『最期に小川さんのそばにいてくれてありがとう』と言ってくれたんだ。その時、僕はこの人の元で緩和ケアを学びたいって思ったんだ」

「すごい……。そんなことってあるんですね……」

 長野さんは未だ信じられないといった様子で、目を見開いたまま僕に言った。

「そういえば先生が昨日休んだ理由ってもしかして……」

「うん。昨日、十二月十三日はセツの命日だから地元に帰っていたんだ。セツのお母さんはセツと最後に過ごした場所で生活をしたいってことで今も伊豆に残ってる。だからお墓参りとセツの家の仏壇でお線香を上げさせてもらうのが毎年の恒例になっているんだ。妹と一緒にね。セツのお母さんはもちろん今は変な宗教にはハマっていないし、明るく前向きに生活をしているよ。僕の母親とも仲良くなってて、おばさま方達で旅行によく行ってるよ」

 十二月十三日はせっかく地元に帰るので他にも人と会うようにしている。

 おっちゃんの店に顔を出すと、おっちゃんは相変わらず元気に釣り三昧の生活をしていた。おっちゃんは実は僕が店に通っている頃からインターネットでの中古釣具の売買を行っており、僕の心配が霞むほど店の経営状態は健全良好と知ったのは数年前だ。むしろ本業はそっちで店舗は本当に趣味でやっているに過ぎない。言葉には裏がなく全ておっちゃんの言った通りだった。夏にはおっちゃん主催の毎年恒例の高校OBによる船釣りコンペも開催される。僕はおっちゃんに早々と参加の意思を伝えておいた。

 ヤスは忙しい仕事の調節をして僕に会う時間を作ってくれた。セツのことは多少気にかけてくれているようで、僕がセツの墓参りに行ってきたことを伝えると「そうか」と言って空に向かって合掌をした。その後にはヤスの家にもお邪魔し産まれたばかりの三人目の子供を見させてもらった。ヤスよりは奥さんに似ていてかわいい顔をしており、小さな親指をしゃぶりながら寝ていた。

 果帆はグラフィックデザイナーとしてゲーム会社に就職をした。今度発売される新作のゲームではキャラクターデザインを担当したらしく、その苦労を言葉とは裏腹に楽しそうに語ってくれた。そして今でもセツが描いてくれた女の子とタヌえもんのイラストはデスクの目立つ位置に飾ってあるらしい。

 いつの間にか店内には僕と長野さんだけになっていた。閉店時間も近い。大将と女将さんは僕達が帰るのを待っているはずだろう。

「これで僕からの話は終わり。じゃあ帰ろうか。良いお店を知れたよ。ありがとう」

 鞄から財布を取り出して会計の準備をする。ただ長野さんは俯いたまま席を動こうとしない。まさか僕が会計を終えるまで動かないつもりなのだろうか。

 ……まぁ良いお店も知れたし、話も聞いてもらえたからそれはそれでいいけど。

 その時、店内に突然「うわああああああん!!」という長野さんの大きな声が響いた。見ると長野さんが両手で目を拭いながら、おもちゃを買ってもらえなかった子供のように泣きじゃくっていた。

「え? え? どうしたの長野さん? 奢ればいいの? 奢ったらいいの?」

 僕は慌てて長野さんに話しかける。初手で「今日は奢るよ」という一言が無かったのがそんなにショックだったのだろうか?

 厨房の奥にいる大将と女将さんも気になっている様子でこちらを見てくる。

「違いますよおおおお! 先生バカなんじゃないですかあああ? セツさんがあああセツさんがあああ」

 どうやら長野さんはセツのことで泣いているらしい。さりげなく罵倒をされた気がするがそんなことは別にいい。

「セツさんがあああ! セツさんがあああ! あまりにも可哀想でええええ! しかも先生との純愛にも感動しぢゃってえええ! 私こういうの弱くてええええ! うわあああああん!!」

「お、落ち着いて長野さん……!」

「落ぢづいでられないですううう! セツさあああん! セツさあああん! わだじ、セツさんの分まで頑張りますううううう!!」

 泣きじゃくる長野さんを見て僕は笑うしかなかった。今日だけで彼女の意外な一面をたくさん知ることができた。人は見かけによらない。誰だって隠された心の裏がある。セツだってそうだ。セツには生糸のように繊細で不安に押し潰されたそうな心の裏が隠されていた。僕はそんな心の裏を救ってあげたい。そんな心の裏に気付いてあげたい。ただ今日の長野さんを見る限り、僕はまだまだ力不足だ。

 セツ、もうしばらく待っててよ。

 いつか君に会う時、僕は僕の歩んだ人生を誇って話せるようになりたいんだ。だから僕はこれからも緩和ケア医として、救いを求める人達のために生き続けるよ。