週明けの月曜日。セツがウチに来るという予定は朝のうち白紙に戻された。

 果帆が風邪を引いたのだ。

 朝から気だるそうな果帆の体温を測ってみると三十七度八分。当然学校も休みだ。鼻水をズルズルと啜りながら果帆は「大丈夫だから学校に行きたい。セッちゃんとも遊びたい。ウチに来て欲しい」と泣きながら言っていたが、その願いは当然母さんに却下された。

 俺は放課後、一人で堤防に向かった。今日はベタ凪。風もなく波も立たない海面は海というよりスケートリンクに近かった。

「俺には荷が重すぎる。あとは灯一郎に任せた」

 ヤスはあれから俺にそうとだけ言って、セツへの恋心も興味も失ってしまったようだ。少し薄情過ぎるような気がしたがむしろこれが普通の反応なのかもしれない。俺だってヤスが新興宗教にハマって、誰これ構わず勧誘をしていたらすぐに縁を切る。俺がセツをまだ信じられるのは、きっとセツが熱心に勧誘活動まではしない教徒なのと、今までのセツとの思い出があるからなのだろう。

 ダメだ。今日は絶対に釣れない。

 釣りをしているとそう感じる日がある。海に魚がいる気配がないというか、全く生体の気配がない日だ。それがまさに今日だ。

 普段ならそういう日の場合はすぐに撤収をしてしまうのだが、今日はきっとセツが来るはずだ。俺は仕掛けを回収した竿を堤防に置くと、静か過ぎる海を眺めてセツを待つことにした。

 なんとなく空を見上げる。海鳥が二羽空を飛び回っている。俺は空に適当にゴールラインを引くと、二羽のうちのそれまた適当に決めた一羽を応援する。

 行け! お前が先にゴールしろ!

 しかし、海鳥は俺のそんな声援を無視して、ゴールライン寸前でくるりと旋回をし、空を悠々自適に飛び回っていた。

「やっほやっほ。今日は釣りはしないのかい?」

 セツがいつの間に横に立っており話しかけてきた。セツの方を見る。セツはいつもの服装に加えて、今日は薄ピンク色のライトパーカーをファスナーを外して羽織っていた。それだけでも着こなしがさらに都会的でオシャレに見えた。

「今日はなんだか釣れる気がしないんだ」

「そんな日もあるんだ。でも釣れない釣りが好きなんじゃないの?」

「釣れる期待感がある釣れない釣りと釣れる期待感がない釣れない釣りでは全然違う。前者は好きだが、後者は嫌いだ」

「うーん、なんだか早口言葉みたいで難しいなぁ」

 セツが小さな声で笑う。しかしその声はいつも以上にか細く、触っただけで壊れてしまうガラス細工のようだった。なんだか雰囲気もどことなく暗い。

「セツ、何かあったのか? 嫌なら答えなくていい」

 俺はセツの様子に疑問に思い、予防線を張った上で訊いてみた。

 セツは俯いて言葉を濁していたが、早々に観念をしたのか訥々(とつとつ)と話し始めた。

「……うん。えっとね……、金曜日、お母さんと病院に行ってたんだ。でも結構結果が悪くなっててさ。だからお母さん、もっとエンデハホルム様に御執心になっちゃっててさ……私、これからここにもあまり来れなくなるかもしれない……」

「……そうか」

「あれ、そういえば果帆ちゃんは?」

 セツはわざとらしく辺りを見回しながら言う。

「果帆は風邪を引いて、家で寝込んでる。元々季節の変わり目で体調を崩しやすいのと、多分ミンちゃんから移されたんだろう。だから今日はウチは無理だ。ごめん」

「そっか……、果帆ちゃんお大事にね。今日は結構楽しみにしてたんだけどな。またの機会だね」

 セツは落胆をするというよりは、どこか冷めてて達観しているように見えた。やはりいつものセツとは違う。

「なぁセツ。お母さんの体調が優れないというのは確かに心配だ。ただセツは大丈夫なのか? お母さんの信仰は本当にそれでいいのか? 助けて欲しかったら言ってくれ……」

 俺はセツに懇願するように言う。これではまるで俺がセツに助けを求めているようだ。だがセツは何も答えない。何も答えずにただ俯いて海を眺めている。

 その時、堤防から百メートルほど先の海面に何やら黒い三角の物体が浮かんでいるのが見えた。その三角の物体は浮いたり沈んだりを繰り返しながら周囲を動き回っている。目を凝らす。一瞬何かのゴミかと思ったがどうやら違う。再度目を凝らしてしっかりと黒い三角の物体を視認する。

 ……間違いない、アレは背びれだ。

 俺は思わずセツの肩を掴んで言う。

「おいセツ! 背びれが見えるぞ! イルカかサメかはわからないけど! セツが前に堤防でイルカを見てみたいって言ってたじゃないか! 運がいいなぁセツ! ……セツ?」

 セツの肩を軽くゆする。しかし、セツは海の向こうで泳ぐ背びれを一点に見つめ反応をしない。目からは涙が一滴ポツリと落ちていて、頬に涙が伝った跡が残る。

 その姿はまるで、絶望の淵で本物の神様を見つけた戦火の少女のようだった。

 セツが操り人形のように前に前に歩を進める。視線は背びれから動かない。

「おい、セツ? 危ないぞ!」

 セツは俺の声など全く聞こえていないように前に進むとーー躊躇なくそのまま海に落ちた。

 ボジャン! 

 落水する大きな音がすると同時に海面からはイルカの潮吹きのような水飛沫が上がる。

「セツ! セツ! 大丈夫か?」

 かろうじてセツは頭を海面から出し浮いているが返事はない。

 一体どうしちまったんだ!

 俺は先ほどまで見えていた背びれを確認しようとするが見当たらない。

 もしあれがサメだったら……。

 頭の中で状況を整理しようとするもそんなことを考えている時間はなかった。俺はワイシャツを脱ぎ、ズボンに入れていた携帯電話だけを堤防に置くと、そのまま海に飛び込んだ。

 ボジャン! 

 セツが落ちた時と同様の音がしたが、セツよりも水飛沫は大きい。海水に濡れたTシャツと制服のズボンが一気に重くなる。落水と同時に腰巻式のライフジャケットが一気に膨らみ、俺の体を浮かす。水に反応するセンサーが付いているから堤防から落ちて気を失っても大丈夫、安全のために付けておいた方がいいと言っていたおっちゃんの言葉を思い出す。

 ありがとう、おっちゃん。本当に着けておいてよかった。

 俺はライフジャケットによる浮力を感じながらセツの腕をがっしりと掴む。そして何とかセツの体を支えながらそのまま立ち泳ぎで進み、堤防手前のスロープから陸地に上がった。

「カッ……ゲホッ……」

 陸地に上がった瞬間、手と膝を地面に付き、海水を吐く。セツを抱えて泳いだ疲れと、サメに襲われるかもしれなかった恐怖心からか手も膝も今になってガタガタと震え始めた。

「バカ野郎! セツ! 何やってるんだ! いきなり海に落ちるなんて! 俺がいなかったら死んでたかもしれないぞ! しかもあの背びれはイルカかサメかもわからない! サメだったら襲われることだってある!」

 俺は思わず感情のままに荒げた声をセツにぶつける。セツは隣で全身ずぶ濡れのまま女の子座りでへたりこんでおり、視線は呆然といった様子で宙に浮いていた。海に落ちたら危ない、死ぬかもしれないなんて果帆でもわかっていることだ。しかもセツは不注意でというよりは自分から海に落ちたに間違いない。そんなヤツにこれだけでは足りないぐらいだ。

「絶対、アレはイルカだよ……。この前の釣りもそう……、イルカが迎えに来てくれたんだ……来てくれたんだよ……」

 セツはガタガタと歯を鳴らし、声を震わせながら言う。

「もうやだよ……こんな世界もう嫌だよ……怖いよ……何で私だけ……」

 セツが絞り出した言葉を、俺はセツを見つめてただ聞くことしかできなかった。



「セツ、とりあえず今日は一緒に帰ろう。セツは家で休んだ方がいい」

 放心して座り続けているセツに俺は言った。

 セツを置いて俺は一度堤防に戻ると、リュックと携帯電話、そして脱いだワイシャツを回収する。濡れたTシャツの上からリュックを背負うと、余計に生地が体に張り付いて気持ち悪かった。

 そしてすぐさま元の場所に戻ると、俺はセツの手を取りセツを立ち上がらせた。そしてできるだけ正面を見ないようにしながらセツに自分のワイシャツを渡した。

「せめてこれだけでも羽織っておけ」

 セツは濡れたパーカーの上からさらに俺のワイシャツを言われた通り羽織る。なんとも奇妙な格好だが、今はこれしか着させられる物がない。俺はヘルメットにも負けていないようなアンバランスな格好となってしまったセツの手を取りながら、セツの家に向かった。

 幸いセツの家に向かう途中、数台の車とすれ違っただけで通行人とすれ違うことはなかった。白昼堂々びしょ濡れの制服のまま歩いていれば、どんなに呑気な人でも怪しむに決まっている。説明をすればわかってもらえるとは思うが、セツをそんな好奇の目に晒すこと自体が嫌だった。

 セツの家に着く。俺とセツはそれまでの道中、一言も言葉を発することはなかった。ただ二人で手を繋ぎ、セツの家に向かって歩いていた。時刻はまだ十七時を過ぎたばかりで空は明るい。しかしその明るさに相反して、理由を知っているとは言えセツの家から前に感じた不気味さを拭うことはできなかった。

「家まで来てほしい……。お母さんに説明してほしい……」

 門扉を開ける前にセツは小声で言った。確かに娘が外に出ていきなりずぶ濡れで帰ってきたら親としては驚くに決まっている。それならば俺がついていってしっかり説明をした方がいいし、今日の出来事に関しても話しておくべきだ。

「わかった……いいよ」

 セツは門扉を開けると俺を玄関まで通す。セツの母親には何から話せばいいのだろう。セツは悪く言ってないとはいえ、やはりこの状況を作り出している張本人と会うのには緊張感を覚えた。

 セツは庭の隅に置いてある植木鉢の底から鍵を取り出してくると、重厚感のある玄関ドアの鍵穴に挿し玄関ドアを開ける。

 母親がいるのならインターホンを押すなり、ドアを叩けばいいのに立て付けの悪いのか軋む音がする玄関ドアを開くと、セツは「どうぞ」と一言言って俺を屋敷の中に招き入れる。

 屋敷の玄関は大きなホールとなっており、中央には高級感溢れる螺旋階段が設置されていた。ホールからでも至る場所にドアがあることが確認でき、それだけで部屋数も多いこともわかる。家というよりは洋風のペンションに近く、ここに二人暮らしは確かに広すぎる。

「えっと……セツ? お母さんはどうしたんだ?」

 俺はセツの方を向いて訊く。早くセツの母親に事情を説明しておきたい。しかし、セツは首を横に降ると、ヘルメットを外し俺の胸に飛び込み抱きついてきた。

「おい! セツどうしたんだ? 何やってるんだ!」

「お母さんはいないよ。お母さん、この前からカンシュプールの鐘に祈りを捧げに行くようになっちゃった。カンシュプールの鐘は陽が沈む時に鳴る人類の導きの鐘の音。だから日の入りが見られる場所でしばらくお祈りをするんだって。私もこれからこれに行かなくちゃならなそう。今日はトウ君家でご馳走になるかもって思ったから無理言って休ませてもらったんだ」

 俺の胸に顔を(うず)めながらセツは言う。俺はそんなセツを抱きしめればいいのか迷っていた。

「だからお母さん、しばらく帰ってこないよ」

「セツ……何を言ってるんだ……?」

 セツの両肩を掴みセツの体を引き離す。セツの表情は血液が通っていないように冷たく、ただ虚な目で俺のことを見つめていた。

「トウ君、エッチしようよ。トウ君がしたいこと、私何でもやってあげるよ。助けてくれるんでしょ? できることは必ずしてくれるんでしょ?」

 下唇を噛み締めしかできなかった。こんなのはセツじゃない。俺が好きだったセツじゃない。

「バカ言うな……! 俺は帰る……!」

 俺はセツの肩から手を離すと、セツの方は見ずに玄関ドアに手をかける。

「トウ君、大好きだよ……。助けてよ……」

 そして背後から聞こえるセツの消え入りそうな声を無視して、その場から立ち去った。


 
 家に帰ると、ベッドの上で無心のままに天井を眺めていた。なんとなく天井のシミの数を数えていたが十まで数えていたところでキッパリやめた。無駄な時間だったからだ。時計の針は二十二時を指している。宿題は既に終わらせたが寝るにはまだ早い。というより寝れる気がしない。いろいろなことがあり過ぎて疲れが溜まっているはずなのに、なぜか俺の目はまるで凝縮されたカフェインが入っているブラックコーヒーをがぶ飲みしたように冴え渡っていた。

 あれからおっちゃんには驚かれ、母さんにはこっぴどく叱られた。そりゃ、海に落ちた客の接客マニュアルなんてないし、母さんも息子がびしょ濡れの制服姿で帰ってくるとは思っていないから仕方がないだろう。帰りの自転車ではあまり人が通らないルートを厳選したので幸い誰にも見つからなかった。さすがにびしょびしょの制服姿でいるのを学校の誰かに見られて噂されるのは恥ずかしい。

 しかしセツは一体どうしてしまったのだろうか。

 今日のセツ、今までのセツを思い返す。セツはイルカが好きと言っていたけど、まさか海に飛び込むほどではないだろう。イルカを見るたびに海に飛び込むほど好きならばイルカの飼育員が天職だ。それに迎えが来たと言っていた。そして、もうこんな世界は嫌だ。

 ……意味がわからない。

 さらに宗教に執心していくセツの母親、抱きついて来た時の冷淡な表情のセツ、いきなりの告白。セツの格好やお祈りは母親がハマった宗教によるものだとわかった。しかしそうだとわかったら、さらにわけのわからないことが押し寄せて来て、もうセツについて何もわからなくなった。

 考えても考えてもセツのことがわからない。いっそのこと、あの時のセツはセツに似たそっくりさん、またはドッペルゲンガーだったと言われた方が合点が行くレベルだ。

 真相が知りたい。セツのことが知りたい。あの時の助けての意味が知りたい。俺はあの時のセツの言葉の全てを受け入れて、セツとヤってしまった方が良かったのではないかと思い始めていた。

 ……そんな経験はないけども。

 その時、外から救急車のサイレンの音が聞こえてきた。ベッドからすぐに起き上がる。嫌な予感がした。救急車のサイレンの音は次第に近づいてくるのと同時に音程が高くなる。カーテンを開けて窓の外を見下ろす。

 ちょうど救急車が俺の家の前を通り過ぎて行くところだった。

 救急車の向かう方向にはセツの家がある。

 もちろんたまたま同じ方向に救急車が向かっているだけの可能性だってある。むしろそうであって欲しい。ただ俺はこの嫌な予感を無視することはできなかった。

 急いで階段を降りると、母さんに「ちょっと出かける」と一言だけかけて自転車に乗り、ペダルに足を乗せてセツの家に全速力で向かった。

 常にペダルを立ち漕ぎで回し続けたのですぐに息が切れて肺が痛くなってきた。

 下り坂の隙を見てお腹での呼吸を意識する。

 肺にたくさんの空気が入り込む。肺の痛みはまだあるが、さっきよりはマシになった。

 自転車は平坦な道に出る。また立ち漕ぎで脚に一杯の力を入れてペダルを回す。

 頼む、違っていてくれ。ただの勘違いであってくれ。

 俺はペダルを漕ぎながらひたすら神様に祈っていた。

 
 神様だったら誰でもよかった。
 


 神様なんているはずがない。そう思った。

 セツの家の前に救急車が停まっていた。救急車の前には数人の野次馬が集まり、門扉の奥を好き勝手に覗いている。もしかしたら野次馬達は救急車の出動の内容よりも、謎が多いこの家の住人について気になっているのかもしれない。

 俺は自転車から降りると野次馬の隙間から門扉の奥の玄関ドアに目を凝らす。玄関ドアからはちょうど担架の上で横になっているセツが運ばれてきた。その瞬間、心臓をねじ切るような痛みが走った。そして救急隊の後に続いて母親らしき女が「セツ! セツ!」と懸命に担架で運ばれているセツに声をかけていた。

 担架を持った救急隊が門扉を通り、救急車にセツを担架ごと搬送をする。その際に俺からはセツの表情が一瞬見えたが、セツの表情は眠っているようにしか見えなかった。セツが搬送をされた後に、救急隊と共にセツの母親であろう女が救急車に乗り込む。暗がりの中で見えたその顔は、配達員が言っていたように十分に美人で通じる顔立ちをしていた。こんな人が謎の宗教に執心するというのも世の中の不条理を感じさせずにはいられなかった。

「どいてくださーい。救急車両が通りまーす」

 救急隊の声が響く。そしてセツを乗せた救急車は再びサイレンを鳴らしながら走り去っていった。

 救急車を見送った後は再び自転車を走らせて帰った。その間、俺は虚無感に襲われ続けていた。

 何が助けて欲しかったら言ってくれだ! 何が俺にできることは必ずするだ!

 俺はセツの助けてを無視した。いつもと違うセツの様子に勝手に怯えて逃げ出したんだ。

 俺はただその場で調子の良いことだけ言う嘘つきの卑怯者だ……

 空には夏の大三角が浮かんでいた。セツと一緒に見た星の光。しかし星の光はいつの間にぐるぐると飴細工のように夜と混ざり合い、溶けて消えていった。俺は光が消えた夜道を、自転車のライトだけを頼りに進むしかなかった。

 家に着いた。何もする気にはなれなかった。今日はもう寝よう。寝るしかない。セツは救急車に運ばれてしまった。行方もわからない。もう堤防にも来ないかもしれない。また一人での釣りに戻る。

 一人での釣り、今までどうやっていたっけ……。

 つい最近のことが遥か昔のことのように感じた。重い脚を無理やり前に進め自分の部屋に戻ろうとした。その時、隣の部屋からパジャマ姿の果帆が出てきた。

 トイレだろうか?

 おでこには冷却シートを貼っており、まだ熱のためかぼんやりとした表情をしている。

「あ、トウ君。もう寝るの……?」

 果帆は気怠げな様子のまま俺に訊いてきた。

「あぁお兄ちゃんはもう寝るよ。果帆もまだ風邪治ってないだろ。トイレ行ったらしっかり寝なきゃダメだぞ」

 俺は果帆の元に近寄り、果帆の頭を立ったまま軽く撫でた。

「うん……。ねぇトウ君。今日セッちゃん、怒ってなかった? 果帆セッちゃんとの約束また破っちゃったよ……」

 果帆は弱々しく、今にも泣き出しそうに声を出す。

「ん? セツは怒ってなかったよ。ちょっと残念そうだったけど」

「あのね、トウ君。果帆ね、セッちゃんと約束してたんだ。前に二人でお話した時、果帆、ピアノ習ってることセッちゃんに教えたんだ。そしたらセッちゃん、ピアノ聴きたいって言ってくれたの。だからウチに来た時聴かせてあげるって約束した。だけどこの前セッちゃんがウチに来た時、果帆、お絵描きに夢中だったのと、すぐ寝ちゃったから、セッちゃんにピアノ聴かせてあげられなかった……。だから今日こそはピアノ聴かせてあげるって約束したのに、破っちゃったよ……」

 どうやら先週の耳打ちはこのことを言っていたのか。果帆はヒクヒクと鼻を鳴らし涙を目に浮かべ始めた。よほどセツにピアノを聴いてもらいたかったのだろう。

 俺は今度は膝を曲げると果帆と目線を合わせ、再び果帆の頭を撫でた。

「大丈夫。セツはまた来てくれるからその時になったらピアノを聴いてもらおうな。セツはまた用事でしばらくいないけど、お兄ちゃんに任せとけ。果帆がピアノ聴かせてあげたいってことセツに伝えておくから。だから果帆はまず風邪を治そうな」

「……うん。トウ君、ありがとう」

 そう言うと果帆は夢現(ゆめうつつ)の状態で歩きながらトイレに入っていった。

 果帆は寝ぼけたまま話していたのだろうか? それとも約束を破ったという罪悪感を打ち消すために話しに来たのだろうか? 

 そんなことはわからなかった。

 
 ただセツ。俺はお前を必ず見つけ出す。俺のかわいい妹のピアノ演奏、絶対に聴いてもらうからな。
 
 

 翌日の学校、午後の授業をサボることにした。昼休みにヤスに体調が悪いから早退をするとだけ伝えると、早々に学校を出発する。

 救急車で運ばれたのなら、セツはどこかしらの病院に入院をしているはずだ。

 なんとかして午後の面会時間の間にセツが入院をしている病院を探し出す。そしてなんとかしてセツに話の真相を全部聞く。そしてなんとかなったら最後に「果帆との約束破るんじゃねーぞ。待ってるぞ」と言って帰る。

 どうだ、これが学年トップの学力を誇る男の計画だ。

 親に心配をかけないためにも帰りが遅くなるわけにはいかない。しかしそうなるとやはり圧倒的に時間が足りない。まず第一にセツが入院をしている病院がわからないのだ。最近はプライバシーの観点から電話では入院患者の情報を教えてはくれない。聞くなら直接訪問をする必要がある。昨日の夜にこの町近辺の病院でセツが救急搬送がされそうな病院をいくつかピックアップしたみたが、これらを全て回るのにはかなりの時間がかかる。

 どうにかして何か手がかりはないだろうか?

 そんなことを昨日から考えていたがそんなものはなかった。なにせセツは携帯電話を持っていないのだ。セツとの連絡手段がなければセツの母親との連絡手段もない。

 それなのにセツの居場所なんてどうやって知ることができる? 

 自転車で最寄りのローカル線の駅に着く。地元の学生と自然が好きな物好きな観光客が使うぐらいの寂れた無人駅だ。平日の昼過ぎということで俺以外に周りに人もいなかった。とりあえずまず始めに近辺で一番大きな病院に行ってみることに決めていた。

 完全に確率の問題だ。入院患者が多いならばそれだけセツがいる可能性が高い。それだけだ。そしてそれなら電車の方が早い。

 古めかしい券売機で切符を買って電車を待つ間、俺はセツとの記憶を思い返していた。数あるセツとの記憶の中でも煌々と存しているのがセツがウチに来た日のことだった。

 本当はウチに来てイカを食べてみたかったはずなのに遠慮深くて、なかなか素直に来ようとはしなかったな。俺と果帆が誘って、親に許可をもらってやっとセツが来たんだっけ。そしてウチで飯を食った後に夜景を一緒に見た。

 そこで思い出した。……連絡手段があるかもしれない。

 むしろどうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだ!

 急いでポケットの中の携帯電話を取り出す。そして発信履歴を確認する。

 あの時、セツは母親に許可をもらうために俺の携帯電話で母親に電話をかけていた。

 それだったらもしかして……! いや必ずあるはずだ……! ……やっぱりだ。

 発信履歴には、あの日の日付に見ず知らずの電話番号が残されていた。

 この電話番号はセツの母親のもので間違いないはずだ。その場ですぐに電話をかける。電子音の呼び出し音が鳴る。

「頼む……! 出てくれ……!」

 都合良くまた誰でもいい神様に祈った。俺、というより大半の日本人の信仰心なんて結局はこんなもんなんだ。

 ガチャ。

 電話が繋がる。

『もしもし。小川ですが』

 受話口から女の声がする。小川とも名乗っているし、受話口の向こうにいるのはセツの母親で間違いないだろう。

『もしもし、小川雪さんのお母さんで間違いないでしょうか? 僕は佐伯灯一郎と言います。セツの友達です』

『……やっぱり佐伯君でしたか……。前かかってきたことのある電話番号だったからそうだと思いました』

 その声は母性にあふれる優しい声だった。そしてセツの母親はどうやら俺のことを認識しているらしい。しかしこの声、以前どこかで聞いたことがあるような気がする。

『セツが昨日救急車に運ばれるのを見ました。今からセツに会いたいんです。話がしたいんです。入院している病院を教えてもらえないでしょうか?』

 俺はそんな引っ掛かりを余所に勢いに任せてセツの母親に言う。なんとかして病院の情報を聞き出さなくてはならなかった。

『……佐伯君が来たところで意味はあるのでしょうか?』

 しかし今度は先ほどとは対照的に、冷たく皮肉めいた言葉で俺は質問を質問で返された。体が途端に熱くなる。

 元はと言えば誰のせいで! 誰のせいでセツはここまで苦しんでいるんだ!

 こちらから電話を切ってやろうかという衝動に駆られたが、寸前のところで我慢し冷静になる。

『……わかりません。ただ……』

『ただ?』

『あなたよりは意味があると思います』

 自分で思ってた以上に冷静にはなれていなかったようだ。気付いたら俺は仕返しと言わんばかりにセツの母親に対して皮肉を返していた。

 電話を通して暫しの無言の間が流れる。しまったやってしまったか。将来の夢は決まっていないがこれでネゴシエーターの選択肢は無くなった。

 その時、受話口の向こうでは小さな笑い声が聞こえたような気がした。

『……山岡病院の三一〇号室です』

 俺は送話口から悟られないようにそっと息を吐きながら胸を撫で下ろした。

『……ありがとうございます。五十分ほどで着くと思います』

 それだけ言い残すと俺は電話を切った。山岡病院は俺がピックアップした病院の中でも中規模で可能性が低いと踏んでいた病院だ。事前に確認が取れなくてはなかなか辿り着けなかっただろう。しかもそこは駅からも離れているので電車だと行きづらい。多少遠いが自転車で行った方が早いだろう。

 俺は未使用の切符を駅のゴミ箱に捨てると駅を飛び出て再び自転車に乗る。そして競輪選手のような前傾姿勢を取ると、山岡病院に向けてひたすらペダルを回し続けた。
 


 山岡病院へは目算より早く到着した。信号待ちが少なかったのと下り坂が多かったということで移動距離の割には疲労も少なかった。ここ最近自転車移動で体を酷使することが多かったため、体力がついたというのもあるかもしれない。

 山岡病院は複数の診療科を持つ中規模の総合病院だ。外観こそ少し古い印象を受けるが、病院内に入ると清潔感のある白を基調としたロビーになっており、そこには多くの会計待ちの患者で賑わっていた。診療科ごとに入院のフロアも決まっているようだが、セツがいる三一〇号室はどうやら精神科のフロアとなっているらしい。

 嫌な予感がした。

 総合受付で面会申し込みを済ませると、面会許可証と書かれたネームホルダーを受け取り、それを首からかけた。

 エレベーターに乗り三階に着くと、そこは一般的な入院病棟と何も変わらない印象を受けた。むしろそれよりも開けた印象さえあり、ナースステーションの前のホールでは、卓球やテーブルゲームなどに興じている入院患者がいた。精神科と聞くと鍵付きの扉や鉄格子、そしてどこからともなく奇声が聞こえるなどをイメージしていたことは否定できない。俺はそんな自分を恥じながらナースステーションの前に置かれた名簿に名前を書き、三一〇号室に向かった。

 三一〇号室はすぐに見つかった。ネームプレートには『小川雪』と書かれているのでここで間違いない。

 この先にセツがいる。そのセツは一体どちらのセツなんだろう。

 引き戸に手をかけると、指先に力を入れて扉を開いた。

「失礼します」

 俺は小さく声をかけて病室内に入る。三一〇号室は個室の病室となっていた。病室の中央には白いシーツがかけられたベッドが置かれており、そこには少し気の抜けた表情でセツがスヤスヤと眠っていた。

 良かった、また会えた。

 再会を喜ぶ感情が一瞬俺の胸を占拠したがそれを噛み締める余裕はなかった。俺はセツにただ会いに来たわけじゃない。真相を聞くためにここに来たんだ。

 ベッドの奥ではセツの母親が椅子に座ってセツを見つめていた。セツの母親は俺の来訪に気付いているはずだが、俺に視線を向けることもなければ挨拶もしようとしない。ただずっとセツを見つめ続けていた。その表情は疲れているようには見えるが、娘を思う母親の表情そのものだった。

 そして俺は電話での引っ掛かり同様、セツの母親とどこかで会ったような気がしてならなかった。

 セツの母親の背後では白いカーテンがゆらゆらと靡いていた。換気のためか窓が開けられているのだろう。その揺れるカーテンから覗く窓の奥には転落防止のため鉄格子が付けられており、それを見て俺はここが精神科の病棟であることを思い出した。

「あなたが佐伯君ですね。セツから話は聞いていました。それにしても随分とひどい言い草ですね」

 セツの母親はセツを見つめたまま自嘲気味に俺に話しかけてくる。やはりこの声はどこかで聞いたことがある。電話越しの際にも思ったが間違いない。

 記憶を懸命に思い返す。

 目の前にいるセツの母親と既に会ったことはないだろうか……。

 その時、唐突におっちゃんの柔和な笑顔が思い浮かんだ。

「あ、おっちゃんの店にいた人……」

 思い出した。

 目の前にいるセツの母親は、おっちゃんの店で氷を注文しようとしていた女だ。セツの母親から感じた美人だけどどこか疲れているような印象は、俺がおっちゃんの店にいた女に受けた印象と同じだった。

「おっちゃんの店?」

 ようやくこちらにセツの母親は視線を向けると、わけがわからないといった様子で訊き返してくる。

「あ、釣具屋です。釣具屋おざわ。以前、おざわで氷を買いに来ていませんでしたか……?」

「……あぁあの時の。そういえば男の子のお客さんが来ましたね。あの男の子が佐伯君だったんですね……」

 セツの母親はどうやら思い出したようだ。意外なところで俺はこの人と既に遭遇していたらしい。

 ただ、だからと言って関係ない。俺はセツの母親に話しかける。

「セツはどうして救急車で運ばれたんですか?」

 セツの母親の眉毛がピクッと動いたような気がした。昨日のセツの様子はおかしかったが体調が悪いようには見えなかった。それならどうして救急車で運ばれたのか事実確認をしたかった。

 まぁほとんど予想はついているが。

「……セツは自殺を図りました」

「やっぱり……」

 予想は当たっていた。

「以前から処方されていた精神安定剤、睡眠薬、痛み止め……家にある薬という薬を大量に服用したようです。私がたまたまセツの部屋に入って倒れているのを発見したからよかったものの、もう少し遅かったら危険な状態でした」

「どうしてセツはそんな薬を……?」

「……? セツには必要な薬です」

 セツの母親の言っている意味がわからなかった。なぜセツにそんな薬が必要なんだ? 必要なのは目の前にいる大病を患ったらしいセツの母親じゃないのか?

 ただ今はそれよりもセツの容態の方が気になる。

「じゃあセツは今……」

「大丈夫です。容態は安定しています。命に別状はありません。もうじき目を覚ますと思います」

 セツの母親は冷静に、そしてまるで他人事のように状況を話す。その口調にいささかの冷淡さを感じてしまうが、急死に一生を乗り越えた状況を話す場合には、人はこのような口調になってしまうのかもしれない。

「生きていくのが不安で不安で辛かったのでしょう。その不安が溜まりに溜まって、ついに溢れてしまった。可哀想に……」

 セツの母親は寝ているセツの頬を指先で撫でる。

 俺はセツの母親の言葉とその仕草を見た瞬間、腸が煮えくり返り、血液が沸騰するような怒りを感じた。

「……可哀想? 可哀想って何だよ! 元はと言えば全部の原因はあんただろうが! そりゃ大きな病気をしたってのは気の毒だけど! あんたが怪しい宗教にハマってそれをセツに押し付けたのが原因だろうが!」

 俺はここが病室だということを忘れてセツの母親に向かって吠えた。
 
「セツが私が病気だと言ったんですか?」

 セツの母親は眉をひそめながら俺に訊く。

 どういうことだ? 何なんだその反応は? 

「あぁ言っていた! あんたが大きな病気になってエンデハ何とかにハマったって! そして最近また体調が悪化してさらに御執心だと言っていたよ!」

「……そうですが。道理で何か話が噛み合わないと思いました……」

「どういうことだよ! 何が言いたいんだよ!」

 俺は鼻息を荒くしながらセツの母親に言う。話の道筋が読めなかった。

 セツの母親は目を瞑り、病室の天井を見上げながら息を吐く。

「病気を患っているのは私ではありません。セツの方です。今から全てを話します」


 
「病気なのはセツ……?」

 不謹慎過ぎる冗談でも聞いているようだった。しかし、セツの母親の表情は本気そのものだった。病室内には沈黙が流れる。その沈黙に言葉を乗せるようセツの母親は語り始めた。

「……セツの父親はセツが六歳の頃に交通事故で他界しました。彼が横断歩道を歩いていた時に猛スピードで車が突っ込んだのです。飲酒運転でした。彼は何一つ悪くないのにある日突然理不尽に命を奪われました。遺体の顔はぐしゃぐしゃだったそうです。私は彼の身元確認さえすることはできませんでした。世界で一番にセツを愛し、その次に私を愛してくれた人でした。彼が死んだ日のことは未だに昨日のことのように思い出します。朝まで当たり前のようにそこにいた最愛の人が突然いなくなってしまう。喪失してしまう。そのような経験は言ってしまえば地獄です。私はセツを抱きながら一晩中泣いていました。セツも泣いていました。あのような夜はもう、味わいたくはありません」

 六歳といえば果帆と同い年であり、果帆は未だに家族にべったりだ。それなのに大好きな家族の誰かが突然いなくなってしまう。その現実を突きつけられた時、果帆がそれを受け入れられるとは思えなかった。

「父親は心配性の人でした。なので自分に万が一のことがあったとしても家族が不自由はないように保険金はしっかり残してくれていました。そのほか所有していたマンション、慰謝料等もあり、幸い私達は路頭に迷うことはありませんでした。それでもやはり家族にポッカリと空いた穴というのはそう簡単には埋まるものではありません。彼のことを思い出しては泣き、前を向き、思い出しては泣き、前を向き、そんな毎日をしばらくは繰り返しました。その中で見つけた私の使命、人生の目標はセツを守り抜くこと。あの人のためにもセツを育て上げること。ただそれだけを目標にがむしゃらに生きました」

「セツは本当にかわいくて、素直に成長をしてくれました。父親が亡くなった心の痛みも時間が徐々に解決をしてくれました。セツは第一志望の高校に入学をすることができました。制服が気に入っているようで、休みの日にも制服を着てよく出かけていましたね。これからの明るい未来を生きていくセツを見ることができる毎日。あの時が一番幸せだった……」

「そんな幸せな毎日は突然呆気なく終わりを告げました。三年前、セツが高校一年の夏です。セツが頻発する頭痛、めまい、振戦などといった症状に悩まされるようになりました。ただ最初は体の成長に伴う一過性のものだと思っていました。そのうち勝手に治ると高を括っていました。しかし、一向に症状が治りません。ある日、私はセツを連れて病院に行きました。セツは終始不安な様子でした。なので私はセツに『大丈夫』と声をかけ続けました。そして診断の結果が出ました。脳腫瘍でした」

 言葉が何も出てこなかった。医者じゃなくたって、医療ドラマに興味がなくたって脳腫瘍ぐらい聞いたことがある。セツの母親は簡単に言葉に出すが、俺にはその「脳腫瘍」という実体を持たない言葉一つがまるで鉄球のように重く感じられ、口に出すのも(はばか)られた。俺でさえこうなのに、最愛の娘が脳腫瘍という事実を受け入れてすんなりと話せるようになるまでに、この人はどれくらいの辛い月日を過ごしたのだろうか。

「脳腫瘍と言っても色々な種類があります。完治をして今も元気に生きている人はたくさんいます。ですがセツが罹患していたのは脳腫瘍の中でも五年生存率は五〇パーセント以下のものでした。佐伯君、あなたは五年以内に二分の一の確率以上で死ぬと言われたらどうでしょうか?」

 セツの母親の問いかけに何も答えることができなかった。舌が口の上蓋にピッタリとくっつき動かすことができなかった。

「……ただそれでもセツは前向きでした。笑いながら完治を目指しました。抗がん剤治療に放射線治療、手術を繰り返しました。すぐに体はボロボロになりました。走るのが好きだった子が少し歩くだけで息が切らすようになり、その度に看護師に背中をさすられていました。しかし治療を続けても、セツが快方に向かうことはありませんでした。セツの笑顔は次第に無くなっていきました。入院生活が続き、高校の出席日数が足りず留年をしました。その状態が二年続きました。セツは高校に通える見込みがなくなり中退をすることになりました」

 俺はセツはてっきり高校を卒業しているものだと思っていた。セツが二歳年上だと知った時の状況を思い出す。確かにセツは二月で十九歳になるとは言っていたが、高校を卒業したとは一言も言っていない。だからセツは大好きな制服をまだ着ていたのか……。失われた青春を少しでも取り戻すために。

「高校に行けるようになるというのはセツの大きな目標でした。しかしそれが叶わなくなった時、セツは弱音を吐くようになりました。『もう嫌だ』『もう治療をしたくない』『私はきっとこのまま死ぬ』。そんなことばかり言って塞ぎ込むようになりました。私はセツを励まし続けました。しかしこれがよくなかったのかもしれません。セツはさらに塞ぎ込むようになり死んだ目をして私を見るようになりました。私は初めて娘が怖いと思ってしまいました。そしてそう思ってしまった私を私は殺したくなりました。私もセツも限界を迎えそうになっていたその時、当時の主治医からの提案で緩和ケア科に移っても良いかもしれないというお話を受けました」

「緩和ケア……というのは一体何なのでしょうか?」

 俺はピッタリとくっついた上唇と下唇を無理やり剥がし、質問を口にする。全く初めて聞いた言葉だったからだ。

「確かにあまり一般的な診療科ではないかもしれませんね。緩和ケアはより良い生き方に主眼をおいた医療です。患者のQOLを尊重し、完治よりも痛みの緩和と精神のケアを行う診療科です。QOLはわかりますか?」

「わかります」

 病院での診療科というと全て完治の治療を目指しているものだと思っていた。そんな診療科の中でも患者のより良い生き方、Quality Of Lifeに寄り添った診療科。医療の中でも特異な存在とも言える緩和ケア科の存在を俺は初めて知った。

「セツとも相談をすると、セツは喜んで緩和ケア科に移りました。先ほど言ったように緩和ケアでは患者のQOLを最優先します。なので体に負担がかかる治療は行われません。それらに解放されたセツは目に見えたように回復をし、明るさも取り戻すようになりました。退院も許可されて、通院によるフォローに切り替わりました。佐伯君、これは喜ばしいことでしょうか?」

「……セツが喜んでいるのならそれが一番いいのではないでしょうか?」

 俺は質問に対して素早く答える。それが当然のことだと思えたからだ。

「確かにそうだと思います。ただ緩和ケアというのは逆に言えば迫り来る死を受け入れるということです。緩和ケアを続けている限りセツが完治することはあり得ません。夫を亡くし、最愛の娘も亡くしてしまったら私はそんな現実に耐えられるのだろうか。でもセツは緩和ケアによって前向きに残りの人生を生きようとしている。私はジレンマに陥りました。その時に出会ったのがエンデハホルムの祝祭です」

「きっかけは買い物をしていた時に見かけたポスターです。『幸福』『自由』『救済』私には欲しい言葉が並んでいるポスターに私は目を奪われてしまいました。そして導かれるようにポスターに書かれていたセミナーに参加してみました。セミナーではエンデハホルムの生い立ち、そして奇跡について教祖が声高に語っていました。私は時間を忘れて聞き入りました。そしてセミナー終わりには幹部の方と話す機会があり、私は今自分の身に起きていることを全て語りました。幹部の方は私の話を涙を流しながら聞き、一緒に救いを求めて奇跡を起こしましょうと手を差し出してきました。私は気づいたらその手を握り返しており、エンデハホルムの祝祭の教徒になっていました」

「私はセミナーに熱心に通うようになりました。セミナーに参加して教祖の説法を聞いている時だけが希望を信じることができました。ただ毎日のように外出する私をセツは疑問に思ったのでしょう。何をしているのかとしつこく聞いてきました。私はセツをセミナーに連れていきました。私はセツが喜んでくれると心から思っていました。ただセツは途中で帰ろうとしました。お母さんあんなの信じちゃダメだよと私に言いました。ただ私はセツに泣きながら話しました。あなたを失うのが怖い。あなたまでいなくなったら私はどうしたらいいかわからない。セツは私のそんな様子を見ると、幹部の方に自分も入信すると伝えていました」

「私とセツで今度は礼拝に参加するようになりました。セミナーとは別の礼拝専用の窓のない施設に通いました。エンデハホルムは氷の世界から生物を救った神様です。なので礼拝にも氷を使います。希望の船と呼ばれる箱の中に氷を大量に入れてエンデハホルムの教典を読み上げます。氷を使い回すことはできません。私とセツはこの礼拝に毎日のように参加をしました。そして食事の前にも祈りの言葉を捧げるようになりました」

「この頃に不思議とセツの病気の進行が止まるということがありました。私はそのことをエンデハホルムの祝祭のおかげだと信じて疑いませんでした。もしかしたらこのままエンデハホルムの力でセツは完治するのではないかと思いました。その結果、私はさらにセツに信仰を強要するようになりました。セツは何も言わずにそれを受け入れました」

「ただ結局はその後もセツの病気の進行は進みました。進行が止まっていたのはただ小康状態になっただけでしょう。そして二ヶ月前、脳腫瘍は別の脳の部位に転移をしていました。その部位に転移をしたら予後は良くありません。私は信じられるものは全て信じました。エンデハホルムの祝祭にセツが悪い気に当てられている可能性があると聞きました。私はセツにエンデハホルムの祝祭に勧められたヘルメットと皮の手袋を着けさせました。携帯電話の電波が頭に悪い影響を与えると聞きました。セツから携帯電話を取り上げました。自然の空気が体に良い、波の音が体に良い、温泉が治療に効果があると聞きました。私はそれらの条件が揃っている土地に引っ越すことを決めました。きっとこの時、自分の命をセツに移すことができるとでも聞いたら私は喜んで自ら命を絶っていたでしょう」

 セツはこんな田舎に引っ越してきた理由に『親の都合』と言っていた。こんな『親の都合』なんてありかよ……。

「あの屋敷は条件が揃っていました。自然も近い。海も近い。家に温泉が引いてある。十分な広さですので礼拝も自宅ですることができます。緩和ケア科の主治医に引っ越すことを伝えると私は主治医に叱責を受けました。『娘さんのことを考えているのか?』『それは本当に娘さんが望んだことなのか?』と。ただセツの病気を治すことができない医者は私には無力に思えました。主治医は最後まで反対をしましたが自宅療養の続行、三週間に一度しかるべく医療機関で経過観察、そして何かあったらすぐに病院に行くことを条件に折れました。主治医は悔しそうに涙を浮かべていました。セツに引っ越すことを伝えると、喜びも悲しみもせずに『わかった』とだけ言っていました。こちらに来てからセツと一緒に礼拝の毎日です。私はエンデハホルムの加護を得るため、そして礼拝をするために家の窓全てに暗幕をかけました。そしてエンデハホルムの祝祭から買った希望の船を一つの部屋に置いてそこを礼拝室にしました。ただ肝心な氷の準備を忘れていました。私は運転免許を持っていません。日常生活に関してはバスや配達でなんとかなりました。たださすがに大量の氷を持って移動することはできません」

「だから釣具屋で……」

「そうです。釣りには詳しくありませんが、魚には氷を使うイメージがありました。なので家の近くの釣具屋で氷の配達をしているか聞きにいきました。それがあの時です。結果として氷の卸を紹介してもらえて助かりました」

「自然の空気を吸って波の音を聞かせるためにセツには散歩に行かせるようにもしました。その時にもヘルメットと皮の手袋を必ず着けさせました。セツは外に行く時は制服を着ました。制服がセツにとっての拠り所だったのかもしれません。ただセツが散歩に行くようになって変化が見られるようになりました。友達ができた。セツは私に嬉しそうに言いました」

「セツは佐伯君、あなたのことを楽しそうに話してくれました。妹の果帆さんのことも。夕飯をご馳走になるというのはびっくりしました。今までそんなことはありませんでしたから。ただ夜にはまた夜の礼拝があります。私は最初許可をしませんでした。ただそれでもセツは折れませんでした。『ご飯の前にお祈りはするから』『礼拝にも間に合わせるから』『お願いだから行かせてください』。セツがあそこまで言うのは初めてでした。私は渋々許可をしました。セツはとても楽しい時間が過ごせたのだと思います。ただセツは礼拝の時間に遅れました。私は初めてセツに手を上げました」

「セツは泣きながら私に謝りました。何度も何度も謝りました。『ごめんなさい』『ごめんなさい』『トウ君は私の最期の友達』『私からトウ君を奪わないで』。佐伯君がセツにとって特別な存在なことがわかりました。だからきっと、セツは佐伯君には病気のことを伏せていたのでしょう。私は泣きながらセツを抱きしめました。それはセツの父親を死んだ日の夜のようでした」

「先週の金曜日、この近辺で一番大きな病院で経過観察をセツと一緒に受けに行きました。この土地に来て、セツと一緒に毎日できることをしました。私はきっとセツの容態は良くなっていると信じていました。結果は最悪でした。新しくできた方の脳腫瘍がさらに大きくなり、これ以上は何もできないと言われました。私は絶望をしました。その場で倒れてもおかしくなかったと思います。立ってられたのはセツがいる手前だったからでしょう。しかしセツは私とは反対に冷静でした。『余命はどのくらいでしょうか?』セツは他人事のように余命を聞いていました。医者は言い淀み、言葉を濁していました。しかしセツがはっきりと教えて欲しいと言いました。医者はセツに余命を宣告しました。三ヶ月。持って半年とのことでした」

 目の前が真っ暗になった。目の前でスヤスヤと寝ているセツがほんの数ヶ月後に死ぬ? 

「医者は元いた東京での病院の入院治療を勧めましたがセツはそれを拒みました。『最期はここに残りたい』と言いました。セツは残された時間を最低限の通院での緩和ケアと在宅で過ごすことになりました。この病院に緩和ケア科があったのは幸いでした。家に帰ってからもセツはいつも通りでした。むしろいつもよりも明るいくらいでした。私はセツがまた怖くなりました。夜は一睡もすることができませんでした。そして目の前にいるセツとセツを待ち構えている未来から逃げるようにさらにエンデハホルムの祝祭に縋りました。翌日にはセツと一緒にカンシュプールの鐘の音を聞くために沈んでいく太陽に向かってひたすら祈りました。そして帰ったらセツと共に夜の礼拝もしました。ただ月曜日はお願いだからお祈りは休ませて欲しいとセツに言われました。私は最初は許可しませんでしたが、あまりにも辛そうなセツの表情を見て折れました。月曜日は私一人でお祈りに向かいました」

「……昨日、セツはいつも通りなんかではありませんでした。堤防でイルカを見ると海に飛び込みました。そしてこの世界が嫌だと言いました」

 セツの母親は俺の方を驚くように見ると、すぐに眠っているセツに視線を戻した。

「……そうですが。だから家に帰ったらセツの制服が洗濯されていたのですね。佐伯君が助けてくれたのでしょうか?」

「はい……。僕も海に飛び込んでセツを引き上げました。ただその後のセツの助けを僕は無視しました……セツが自殺を図ったのも僕が……」

「いえいえ、セツの命を救ってくれてありがとうございます。セツは私に見せない弱さも佐伯君には見せられたのでしょう。さすがあれだけのことを言うだけがあります。私の前ではいつも通りの姿を振る舞っていましたがやはり限界が来ていたのでしょう。溜め込んでいた不安が突然溢れてしまい、その夜にセツは自殺を図りました。こちらの病院に運ばれましたが、薬の服用の自殺未遂ということで精神科に入院をすることになりました。でもきっとすぐに退院はできるでしょう。なのでその後は自宅でセツと過ごしながら緩和ケアを受けようと思います」

「これがセツについての全てです。わかって頂けたでしょうか?」

 黙ってセツの母親の言葉に頷くしかできなかった。セツのついての謎が全て解けた。しかし、その謎を解いたところで何もならない。全ての謎はセツの死に帰結する。

「セツが自殺を図った時、私は自分の過ちにようやく気が付きました。私はセツを信じてあげられなくてセツを苦しめてしまった……。一番辛くて助けが欲しかったのはセツなのに……」

 セツの母親を言葉を詰まらすと、鼻をすすり静かに涙を流した。

「私は正しい縋り方がわからなかった……」

 その時、セツがむにゃむにゃと口を動かし目を覚ました。そしてゆっくりと上半身を起こす。

「あ、お母さん……ここは……?」

 セツは寝ぼけているのか俺の存在には気付いていないようだ。ぼんやりとした口調で母親に訊く。

「病院よ……セツ……ごめんね……ごめんね……」

 セツの母親は涙声のまま答える。

「お母さん……何で謝るの……? ごめんね……私、ちょっとだけ怖くなっちゃったんだ……。でももう大丈夫……。お母さんを一人にさせないから……。お父さんが死んじゃった時みたいにはさせないから……またお祈り頑張ろうね……」

 セツの母親は、セツの声を聞くと下唇を噛み顔を歪ませる。そしてそのまま立ち上がるとセツのそばに寄り、セツを強く強く抱きしめた。

「もういいの……。セツ、もういいのよ……」


 セツは安心し切ったように母の胸の中で再び眠りについた。


 
 セツが堤防にやってきたのは一週間後だった。

 俺は制服のワイシャツの上からウインドブレーカーを羽織りながら釣りをしていた。十月になり学校には学ランで通うようになった。ただ学ランのまま釣りをするのは動きにくい。なのでこの時期は釣り用にウインドブレーカーを持ってきて、ワイシャツの上からそれを羽織るようにしている。

「久しぶりだね」

 ちょい投げ釣りをしている俺の後ろからセツが声をかけてくる。

 振り返るとそこにはヘルメットも被っていない、皮の手袋もつけていない、制服も着ていないセツが立っていた。セツはベージュのタータンチェック模様のロングスカートと、カジュアルな黄色いニットセーターを着ており、女子大生の秋ファッションといった装いでセツによく似合っていた。

「今日はいつもの格好じゃないんだな」

 全部をひっくるめて俺はセツに言った。

「うん。あれはもうやめたんだ」

 セツはスッキリとした口調で返す。俺はセツを背にして再び海の方を向く。

「セツのお母さんから全部聞いたよ」

「うん。お母さんからトウ君が来ていたこと、全部話してくれたこと、後で聞いたよ。私全然気付いてなかった。いやはや恥ずかし恥ずかし……」

 リールのハンドルを巻いて仕掛けを回収する。魚は何も付いていない。

「果帆がセツにピアノを聴かせる約束破ったこと気にしてたぞ」

「えぇ……そんないいのに……」

 俺は針にイソメを付け替えると仕掛けを海面に向かってキャストをした。仕掛けが海に落ちて波紋が広がった。

「ウチに来てしっかり果帆のピアノ聴いてあげろよ」

「えっ? いいの……?」

「俺のかわいい妹の約束を破るんじゃない」

「承知しやした。……ありがとうね」

 今度はゆっくりとリールのハンドルを回す。何かをしていないと落ち着かなかった。

「セツ」

「ん? 何?」

「好きだぞ」

「……釣りしながら告白?」

「びしょ濡れのまま告白よりはマシだろう」

「うぅ……あれは忘れて……」

 セツとの間に沈黙が流れる。沈黙を埋める波の音だけが耳をくすぐる。

「でも私、すぐに死んじゃうと思うよ」

「知ってる。でもそんなこと知るか」

「……その言い方すごくトウ君っぽいよ」

 後ろから肩にトンというか弱い力が加わるのを感じた。顔だけ後ろに向けて、その力の正体を探る。セツが後ろから肩に額を当てもたれかかっていた。

そしてそのまま俺の腰に手を回すと、体の正面で軽く手を組む。

背中にセツの体が密着する。

柔らかな体と微かな体温を背中から感じた。


「私もトウ君のこと、好き。大好き」


 
 残された時間、俺はセツとできるだけ一緒に過ごすようにした。一緒に釣りをし、雨の日にはセツの家に遊びに行った。セツの家の暗幕は取り払われており、セツの母親は俺を暖かく迎えてくれた。

 セツはウチにも遊びに来た。セツの希望で果帆にはセツの体のことは言わなかった。果帆は張り切ってセツにピアノを聴かせた。果帆はピアノを弾き終わると発表会のようにセツに向かってお辞儀をした。セツはそんな果帆に大きな拍手をした。その後セツは果帆と一緒にお絵描きをして遊んだ。セツは果帆に将来の夢を聞いた。果帆はピアニストかイラストレーターかで悩んでいると言った。セツは笑って果帆ちゃんだったら何にでもなれるよと言った。

 母さんには俺からセツの体のことを話した。母さんは泣きながら話を聞き、私に何かできることはないかと言った。セツが来た日の夕飯は四人じゃ食べ切れないほどの量のイカと自家栽培の野菜を使った料理だった。セツはみんなと一緒にいただきますと声を合わせ、美味しそうにそれを食べていた。帰り際、母さんは遠慮するセツにありったけのイカの塩辛を持たせた。

 休日にはセツと一緒に水族館に行った。イルカがいる水族館。俺とセツはそこでイルカショーを見た。セツは子供のようにはしゃいでいた。帰りには売店でお揃いのイルカの人形が付いたボールペンを買った。水族館の帰り道、人気のない場所で俺はセツにキスをした。俺にとって初めてのキスだった。唇を離すとセツは恥ずかしそうに俯いた。そしてその後に、もう一回、と小さな声でせがんだ。

 一ヶ月後、セツは体がうまく動かなくなり車椅子に乗るようになった。俺は学校が終わるとセツの家に行き、セツの車椅子を押して散歩をするようになった。ある日、セツが堤防に行きたいと言った。俺は車椅子を押して港に向かった。港は段差が多く車椅子では進めなかったので俺はセツをおんぶして堤防まで歩いた。

 セツは重いでしょ? としきりに謝っていた。

 セツの体は驚くほど軽かった。

 二ヶ月後、セツはベッドの上から動けなくなった。訪問診療や痛み止めを飲み、痛みを無理やり紛らわす日々が続いた。それでも辛い時にはタクシーで病院に行き緩和ケアを受けた。それでもセツは俺の前では笑顔を見せた。

 十二月十三日、セツはあっさりと死んだ。

 
 余命宣告よりも長く生きる、そんな些細な願いさえ、神様は許してくれなかった。
 


 葬儀は親族のみで行われた。ただセツの母親のご好意で俺と果帆はセツの葬儀に参加をすることができた。出棺前の最後の対面。セツは眠っているようにしか見えなかった。棺の中には水族館に行った際に買ったボールペンに付いていたイルカの人形が入れられていた。これだけなら入れられるそうだからとセツの母親が微笑みながら言った。俺は棺の中のセツの頬にそっと指先で触れた後に、一輪の菊の花を棺の中に入れた。不思議と気持ちは冷静だった。果帆は未だにセツが死んだことがよくわかっていないようだった。果帆は棺の中にセツのイラストを見本に描いたタヌえもんのイラストに手紙を添えて入れた。棺の蓋が閉められた。

 火葬場に運ばれる棺を見て、果帆は堪えきれずに大声で泣いた。

 葬儀が終わり俺と果帆は帰ることにした。火葬場までついて行くのはさすがに憚られた。俺はセツの母親の元に近づき先に帰ることを伝えた。セツの母親は俺に何度もお礼を言った後、俺に封筒を渡してきた。

 セツからの手紙だそうだ。

 俺はセツの母親に深く頭を下げて、両手でその封筒を受け取った。

 家に帰って俺は自分の部屋で封筒を開いた。そこには一通の手紙が入っており、セツらしいと感じる丸みを帯びているが丁寧な文字が書かれていた。


 
 トウ君へ
 
 トウ君がこれを読んでいる頃には私はきっと死んじゃっているでしょう。
 
 手紙はちょっと恥ずかしいけど、死んじゃっているので関係はないよね。
 
 トウ君に初めて会った日のことはしっかりと覚えています。
 
 なんとなく寄った港。その堤防の奥に一人寂しく釣りをしている人がいるではありませんか。
 
 しかもちょっとイケメン。私はついつい話しかけてみてしまいました。
 
 でも話しかけてたらいきなり虫を持って追いかけられました。
 
 なんだコイツ! って思ったよ。
 
 でもトウ君と仲良くなるにつれてトウ君と過ごした日々は私にとってかけがえのない日々になりました。
 
 私はすぐにトウ君のことが好きになりました。
 
 トウ君が私のことを好きになってくれたことは奇跡だと思っています。
 
 だからやっぱり神様っているのかな。私は信じてみようと思います。
 
 果帆ちゃんにもトウ君のおばさんにも、一応ヤス君にも。みんなに会えてよかったです。
 
 トウ君との思い出、トウ君が見せてくれた景色、全部全部が私の宝物です。
 
 いつかいつかのまたいつか、トウ君がこっちに来た時にはトウ君がどんな人生を歩んだのか教えてね。

 トウ君、ありがとう。さようなら。
  
 トウ君、大好きだよ。会いたいよ。
 
                                   雪
 

                             
 手紙を持つ手が小刻みに震えた。手紙にポタポタと涙が落ちてきたので慌てて手紙を封筒にしまった。それでも涙が止まらなかった。
 
 セツ……、俺もセツに会いたいよ……。
 


 翌日、俺は学校に着くと朝一番に職員室に向かった。丁寧に扉を開けると「失礼します」と言いながら一礼する。十二月の職員室は師走と言われるだけあっていつもよりどこか忙しそうだった。

「山田先生」

 デスクに座っている山田に声をかけた。別に担任なわけだから急ぐ必要はない。教室で待っていても勝手に山田は来る。ただ俺は自分から行きたかった。

 これは自分で決めたことだからだ。

「おうどうした佐伯? 何かあったのか?」

 山田は書類作業をしていた手を止めこちらを見る。

 俺は腹式呼吸で一つ大きな息を吐いてから、山田の目を見て言った。


「俺、医学部目指します。医者になりたいんです」