翌日、教室に入るとヤスが肩に手を回してくることはなかった。しかしなぜかヤスは俺の机に我が物顔で座っており、方杖をついて物憂いげに窓の外を見つめていた。

「おはよう灯一郎……」

「おはようじゃない。この席は俺の席だ」

「いいじゃないか……。風に当たって……外を眺めたい気分なんだ……」

 まぁ昨日のことは確かに同情の余地はある。そしてその一因に俺は少しだけ絡んでいる。元凶はヤスの節操の無さなのは間違いないのだが、それでも強引に席を奪うのはさすがに気が引けた。

「……朝だけだぞ。授業が始まったら席は返してもらうからな」

 俺はそうヤスに言い聞かせると、廊下側にあるヤスの席に移動をする。とりあえずここで授業が始まるまでは時間を潰すしかない。

「ヤス君、また振られたの?」

 前の席に座っている、普段はあまり話さないクラスメイトの女子がこちらを向いて話しかけてくる。

「まぁ見ての通りだな。今回は少しレアケースだけど……」

「……何それ。何だかあそこまで振られてるのを見ると可哀想になっちゃう」

 彼女は小さく笑いながらそう言うと体を前に向き直す。クラスメイトの誰もがこの結果をわかってはいたが、可哀想という感情を持ってくれるだけ彼女が優しい心の持ち主だということがわかった。

 始業の直前、ヤスは亡霊のような力ない足取りで自身の席に戻ってきた。これでようやく自分の席に戻れる。

 俺はヤスの机の上に置いたリュックを手に取ると、自分の席に戻ろうとした。

「灯一郎……、今日は釣りに行くのか?」

 そんな俺をヤスは虚ろな目で呼び止める。

「行くつもりだけど……どうしたんだ?」

「俺も行っていいか……?」

 今日もセツはやって来るだろう。セツとヤスを合わすのはどうなのだろうと考えた。ただヤスは消沈状態だし、セツに俺や果帆以外にも友達ができるに越したことはない。

「別にいいけど……、何で来るんだ?」

 ただ、そもそもの疑問をヤスにぶつけた。ヤスが自分から釣りに行きたいと言うことは珍しい。コイツは釣りをしないはずだ。

 ヤスはそんな俺の疑問を小馬鹿にするように微かに息を吐くと、先ほどまで見ていた窓の方向に再び体を向けた。


「海が……見たいんだ……」


 
 終業のチャイムと共に俺とヤスは自転車で港に向かう。休み時間や駐輪場に行く際など、ヤスは教室を出る度に辺りをキョロキョロと注意深く見回していた。きっと石井彩菜や伊藤香織がいないのを確かめているのだろう。それだけあの誓約書の果たす効力の大きさが身に沁みる。俺もヤスと約束をする際には誓約書を作った方がいいかもしれない。

 俺とヤスはおっちゃんの店の横に自転車を停めて店に入る。いつものように入店を知らせるメロディが鳴ると、おっちゃんが居住スペースから出てきた。

「いらっしゃーい。あれ? 今日は友達も一緒かい? 確か前にも来てくれたね」

 ヤスは時々冷やかしに釣りに来る程度なのでおっちゃんの店に入ることは少ない。そんな少ない来店回数なのにおっちゃんはヤスの顔を覚えていた。このような気配りが小さな店で長く営業を続ける秘訣なのだろう。

「うん。ただ釣りはしなくていいらしい。海が見たいんだとさ」

「確かにそれもいいね。高校生、そんな気分になる時もあるさ」

 おっちゃんがヤスの方に目配せをすると、ヤスはニヒルな性格ぶりながら会釈を返す。いつまでそのキャラやっているんだ。無理があるぞ。

「今日はどうするの?」

「うーんどうしようかな。まぁちょい投げでいいかな」

「はいよ。じゃあいつものね」

 いつもの釣具、そしてイソメを三百円分買うとヤスと一緒に堤防に向かう。今日は空全体に厚い雲がかかっており、夜からは雨が降る予報だった。

 堤防では俺一人でせっせと釣りの準備をした。俺が準備をする間もヤスは手伝おうともせず、ただひたすら立ってぼんやりと海を眺めていた。どうせ何か話しかけたとしても自分に酔ったポエミーなセリフを吐いてくるだけだろう。

 俺はそんなヤスを無視して、もとい、そっとしておいて釣りを始める。

 そろそろシロギスもシーズンも終わり、カレイあたりが釣れ始めてもいい。

 イソメを取り替えながら数回キャストを繰り返す。その時グッと竿が引き込まれるアタリがあった。根魚っぽいアタリだ。いつもより引きも強い。リールのハンドルを素早く回し、仕掛けを回収する。

 魚影が見えてきた。

 やっぱりだ。

 針には良型のカサゴがかかっていた。俺は仕掛けを手元まで持ってくると、カサゴの口をつかんで素早く針を外す。大きな頭と大きな口。見た目は特撮物の怪獣のように見えるが、そこが愛くるしくて好きな魚だ。もちろん食べても美味しい。

「お、良いタイミングだ。その魚は何?」

 しゃがみ込んでカサゴの口から針を外している時、横から声をかけられた。顔を見なくてもセツだとわかる細く透明感のある声。俺はカサゴを手に持つと水汲みバケツの中に入れてから声の方を向く。そこにはやはり、いつもと同じ格好のセツが手を体の後ろに組んで立っていた。

「昨日はありがとね」

 セツは体を傾けながら微笑み話しかけてくる。その表情に胸の奥が僅かに熱くなるのを感じた。

「こちらこそ。これはカサゴ。かわいいよな」

 俺は水汲みバケツの隅っこでじっとしているカサゴを見て言った。セツは俺の目線を追うように膝に手をついて水汲みバケツを覗き込む。てっきりすぐに「かわいい!」と声を上げると思ったがセツの反応は俺の予想と反しているものだった。

「かわいい……かなぁ? なんだか怪獣みたいだけど」

 セツは眉をひそめながら俺を見る。

「それがいいんじゃないか」

「やっぱりトウ君、男の子だからそういうのが好きなんだね」

 セツは流し目をしながらクスリと笑った。その目とセツに『男の子』と年下扱いされたことが少し恥ずかしかった。

 まぁ実際、俺はセツの年下なんだけど。

「ところであの子はお友達?」

 セツは少し離れた位置で海を眺めているヤスを指差した。どうやらヤスは海を眺めるのに無我夢中で俺の釣果もセツの存在にも気付いていないようだ。海を眺めるというのはそういうことではないと思うのだが……。

「そう。俺の友達のヤス。失恋中で海を眺めたいんだってさ」

「あらま。それは大変。でも青春だねぇ」

「どうする? 紹介するか? 無視してもいいぞ。そっちの方がおすすめだ」

「相変わらずトウ君はドライだねぇ……。まぁ一応、せっかくなんだし紹介してよ」

 俺は持っている竿を地面に置くと「ヤス!」と叫ぶ。ヤスはゆっくりとこちらを向き、俺の隣にいるセツを確かに視認した。その瞬間、今まで虚空を見つめていたヤスの目に光が宿ったのを見てしまった。ヤスはなぜかポケットに手を入れながらこちらに近づいてくる。その歩き方はスローだがまるでランウェイを歩くモデルのように神々しく、自信に満ち溢れていた。

 まさか。さすがに違うだろ。

「そちらは?」

 ヤスは俺にいつもより低い声で訊く。俺はこの時点で既に諦めた。

「あー、こちらはセツ。小川雪さん。最近こっちに引っ越してきたらしい。なんやかんやあってここで仲良くなったんだ」

「ヤス君って言うんだね。さっきトウ君に聞いたよ。なんか失恋中らしいけどよろしくね」

 セツは笑顔でヤスに話しかける。そんな愛想良くしなくていいぞ。むしろするな。面倒ごとに巻き込まれる。

「セツ……さん……」

 ヤスが絞り出すようにセツの名前を呼ぶ。その様子は人類と初めて交流をする宇宙人のようだ。

 やめろ。早まったことはするなよ。絶対だぞ。絶対にやめろ。

「えっと……何かな……?」

「俺! 池田泰明って言います! 一目惚れしました! 俺と付き合ってくださーい!」

「えっ。やだよ」


 ヤスの連敗が二十に伸びた。


 
「灯一郎! なんだよお前! ずりぃじゃねぇかよ! 一人寂しくロンリーぼっちアローンで釣りをしてると思ったらさ! え? 言葉が重複し過ぎてるって? うるせぇ! お前にはそれぐらいがお似合いだ! こんなかわいい子と知り合っててさ! セツさん! めちゃくちゃかわいいじゃねぇかよ! こんなオシャレな制服の高校生こんな田舎にいねぇよ! え? 実は二個上だって? もっといいじゃねぇえかよ! ちょっとだけお姉さんって一番いいじゃねぇかよ! 高校を卒業してるのに制服を着てくれるのって最高じゃねぇか! どうせ二人でイチャイチャしながら釣りでもしてたんだろ! え? ただ釣りをしてただけだって? 嘘だね! 俺は信じないね! それでどうせ俺が振られたことだって笑い物にしてたんだろ! ちくしょうめ! え? そんなことない? 勝手にかわいい女の子と仲良くなっていたヤツの言うことなんて信じられるか! このイカ野郎が! え? 本当ですか? ……セツさんが言うんだったら……あの……先ほどは失礼しました……友達からならいいでしょうか……? ほ、本当ですか……? やった……! やったぁ……!!」

 ヤスは歓喜の雄叫びを上げる。セツはそんなヤスの様子を苦笑いで見つめていた。言わんこっちゃない。俺は最適解を提示したからな。

「改めましてセツさん。灯一郎の親友の池田泰明です! よろしくお願いします! さっきみたいに気軽にヤスって呼んじゃってください!」

「あ……うん。お友達としてよろしくね」

 セツはしっかりと友達ということを強調して返す。そして、ヤス。前々から思っていたがお前は俺の親友でも何でもないぞ。勝手なことを言うな。ヤスはそんな俺とセツの意志などお構いなしに、有頂天と言った様子でセツと会話を続けた。

「あの……セツさん……セツさんはなんでヘルメット被ってるの?」

 その会話の中でヤスはセツに不思議そうに問いかけた。さすがにヤスもセツのヘルメットには疑問を持ったのだろう。このような質問を何も考えずにできるのはヤスの良いところでもあり悪いところでもある。

「あ……。いつでも頭を守るためかな……」

 セツはまた前と同じような理由を伝えるがやはりこの答えが納得できない。果帆にはうまく誤魔化せたけどヤスにはどうだろうか? 

「さ、さすがだ……安全性とファッションを兼ね揃えている……」

 ダメだった。

「じゃあその手袋も……?」

「あ、うん……。危ないから……」

「さすがだ……」

 まぁヤスはアホだから仕方がない。むしろ変に怪しむよりもセツのこの説明で納得できるのなら好都合だ。ただいくら気にしないとは言ってもやはりこの不自然な格好について、いつか納得できる説明を俺は聞きたかった。

 それに、昨日の夕飯前の謎の呪文についても……。

 その後もヤスはセツにあれやこれやと質問をしたが、東京での生活のことや、趣味のことなどありきたりな質問ばかりだった。東京は人が多くて苦手、趣味はイラストなど、セツは当たり障りのない回答をし、ヤスを納得させる。

 唯一気になったのがヤスの「どうしてこんな田舎に?」という質問だったが、それもセツは「親の都合で」という一言で片付けていた。その度にヤスは大袈裟な相槌を打つが、俺からしたらセツについて新しく知れたことは何もなかった。

 俺はそんな二人の会話を横目にしながら釣りを続ける。小さなツンツンというアタリがあった後、竿が引き込まれる。俺は仕掛けを回収すると、小ぶりのシロギスが釣れた。

「あ、この魚は前にも釣ってたやつだね」

 セツは俺がシロギスを釣り上げると、俺の元に駆け寄ってくる。ヤスはその場から動かず手鏡で髪の毛のセットをしていた。俺はこの隙に小声でセツに確認する。

「ヤスは迷惑になってないか? もし嫌だったら今後ここには来させないから言ってくれ」

「……ヤス君素直で面白い子だよ。最初はびっくりしたけど。だから全然大丈夫」

「それならいいんだが……」

「あ、でもさすがに毎日は困るかなぁ」

「そりゃそうだ。毎日あんなのに絡まれたら疲れてしょうがない……」

「それもあるかもだけど……、ヤス君がいるとトウ君とゆっくり話せないしね」

 思わず顔を伏せる。気の利いた言葉は何も返せなかった。

「じゃあ、私そろそろ帰るね」

 腕時計を見ると時刻は十七時を示していた。いつものセツが帰る時間だった。

「ヤス君じゃあね。私帰るね」

「えーセツさん帰っちゃうの? もっといればいいのに!」

「いつもこの時間に帰るから……」

「そうなんだ……。そういえばセツさんって最近引っ越してきたって言ってたけど、やっぱりあのでかいお屋敷が家なんでしょ? すごいよなぁ!」

 ヤスはなぜかセツが空き家になっていた屋敷に住んでいると決めつけるように言った。しかしそれは以前セツ自身が否定をしていたはずだが。

「え? いや違うよ……! 私が住んでいるのはその近くで……」

 やはりそうだ。セツは以前と同じように屋敷に住んでいることを否定する。

「嘘ぉ? 俺の親父、消防団長でここら辺よく見回りして空き家とか把握してるけど、お屋敷以外に新しく引っ越してきた人がいるなんて言ってないと思うけどなぁ……あ、そう言えばあのお屋敷、暗幕がいつもかかってるらしいけど何で?」

「知らないよ……! 住んでないもの……!」

「そうなのかぁ。あれぇ? おかしいなぁ? うーん俺の勘違いかなぁ」

「そうだよ……きっと……」

 ヤスの問いかけにセツは困惑したように答える。さすがにヤス、いきなり人のプライバシーを詮索し過ぎだ。田舎者の悪い癖だと言っただだろう。

「ヤス、それぐらいにしろ。セツだって困っているだろう」

「えーそうかなぁ? あ、そうだ。今度灯一郎とセツさん家に遊びに行ってもいい? その方がもっとゆっくりお話しができると思うけどーー」

「絶対ダメ!」

 セツがこれまでにない大声を出すと、咄嗟に後悔をしたように視線を下げた。こんなセツを見たことはない。その瞬間、俺達の間には重苦しい空気が漂う。

「あ……、ごめん。俺馴れ馴れし過ぎたね……」

 ヤスはバツが悪そうにセツに謝る。

「うぅん……。こちらこそごめんね。とにかく家は違うから……。今日は帰るね」

 セツはそう言うと視線を下げたまま体を反転させ、早歩きで帰っていった。

「ヤスさぁ……」

 セツの姿が見えなくなった後、俺は呆れ声でヤスに一言だけ声をかける。そしてリールのハンドルを素早く回転させ仕掛けをとっとと回収した。とても続けて釣りをする気分ではなかった。

「ごめん……」

 ヤスは心底申し訳なさそうな顔でこちらを見てくる。

 海の向こうでは黒いもやのような雨雲が広がっていた。風向きからしてもすぐにこっちに来るだろう。雨は予報より早くなりそうだ。


 
「なぁ昨日親父に確認したんだけどさ、やっぱりセツさんの家ってあのお屋敷だと思うんだよね。他に引っ越して来た人なんて全然いないよ」

 翌日、始業前の教室でヤスは自分の席に座っている俺に話しかけてきた。クラスメイトはいつも通りグループごとで雑談に花を咲かす。そんな和気藹々とした空気の中、俺とヤスだけが教室から隔離をされたように深刻な表情を浮かべていた。

 ヤスが昨日セツを怒らせてしまったことはもう仕方ない。ヤスもそのことについては十分に反省しているようで、昨日もあの後も俺にしきりに謝罪をしてきた。だからそれはもういい。ただ俺はと言うと、あの後からずっとセツの身辺に不穏な空気を感じられずにはいられなかった。

 俺は以前母さんが言っていたことを思い出していた。いつも暗幕が張られている不気味な屋敷。家を知られることに拒否感を示すセツ、不恰好なヘルメット、皮の手袋、飯の前の呪文、全てが無関係のようにはとても思えなかった。

「しかもあの屋敷、昨日も言ったけど人が住んでるはずなのにいつも暗幕がかかってるって噂になってるじゃん。全然住んでる人の情報もないし……。俺、セツさんのことが心配だよ……何かやばいことに巻き込まれたりしてないよな?」

 ヤスは不安感が拭えない様子で話す。これは俺もヤスと同感だった。何事もなければ別にいい。笑い話で済むのなら万々歳だ。

 しかし、もしセツが何か事件に巻き込まれていたら……。

 そのことを想像するだけで背筋に悪寒が走った。

「そりゃ俺だって心配だ。セツの家が本当にあの屋敷なら尚更な。ただそうは言ってもどうしようもないだろう?」

 俺はヤスに強めの口調で言う。セツのことを思えば思うほど胸の中では猜疑心(さいぎしん)が風船のように膨らみ俺を苛立たせる。

「だからさ、俺に考えがあるんだけどさ」

 ヤスは俺に近づくと、耳元で小声で話す。

「今日もきっとセツさんは来てくれるだろ? そしたら帰りに後をつけてせめて家だけは調べないか?」

「ヤス! お前それ本気で言ってるのか?」

 俺は間髪入れずにヤスに訊き返した。

「本気さ。それで家がお屋敷じゃなかったら俺達の思い過ごしでよかったで終わりじゃないか。まぁ実際、俺の親父だってここら辺の全ての家を把握しているわけじゃないから思い過ごしの可能性だってあるし。それでもしセツさんがやっぱりあのお屋敷に住んでいた場合、しっかり理由を訊いた方がセツさんのためにもなるんじゃないか? セツさんが言いたくても言えない事情とかもあるかもだし……」

 俺は思わず机に頬杖をつき窓の方に顔を向ける。頬杖をつく手の人差し指が無意識に動き、こめかみをトントンと叩いた。

 窓の外では昨日の夜から早朝まで降っていた雨は止んでおり、今は雲の間からも陽射しが降り注いでいる。これならばいつも通り、いつもの時間にセツとは港で会うことになるだろう。

 尾行に関しては珍しくヤスの言う通りかもしれない。

 セツが既に何かの事件に巻き込まれている場合、もしかしたら俺達が独断で動くことが良い方向に転ぶ可能性がある。

 しかし、もしそうでなかったら……?

 俺達はセツをただやみくもに傷つけてしまうことも十分に考えられる。一体どうするのがいいのだろうか……? 俺は嘆息に苛立ちを乗せて吐く。

「……絶対に見つからないようにするぞ」

 俺はヤスを睨みつけると、ヤスは真顔でコクコクと連続して頷いた。

「あと、もしセツの家があの屋敷じゃなかったら尾行のことは俺達の間で絶対に秘密だ。墓場まで持っていく。例え出来心でも口外したら、ヤス、俺はお前の記憶が無くなるまでぶん殴る。わかったな?」

「わかってるさ。その時は俺を殴り殺してもらっていい」

 ヤスが珍しく真顔の表情を崩さないで冗談めいたことを言う。一応ヤスなりにも思うところがあるのだろう。これなら秘密が漏れることはないはずだ。

 始業を知らせるチャイムが鳴る。胸騒ぎに思考を奪われていたせいか、日直の号令にワンテンポ遅れてから気付いた。

 ……これでいいんだよな? セツ。

 俺は朝のホームルームに聞く耳を持たず、心内でセツに問いかけていた。


 
 放課後、俺は一人で港の堤防で釣りをしていた。海は今朝までの雨の影響か通常よりは濁っているが問題はない。いつも通りのちょい投げ釣りをするのだが、今日は釣果には何も期待をしていなかった。むしろ釣れない方が好都合だ。

 しかし得てしてこういう時に限って調子がいいと言うのは古今東西のあるあるなのかもしれない。

 仕掛けを投入するたびに魚がかかり、既にシロギス三匹、カサゴ二匹、メゴチ一匹を俺は釣り上げていたが、全て海にリリースをした。今日はこの後にやることがある。

「おいっすー」

 後ろからセツに声をかけられる。セツの声を聞いた瞬間に心拍数が跳ね上がるのを感じた。振り返ると、そこにはいつも通りのセツが立っていた。

「おっす。セツ、昨日は悪かった。ヤスも謝ってたよ。だからヤスを許してやってくれないか」

「……うぅん。こちらこそごめんね。全然怒ってないよ。それでそのヤス君は?」

 セツはあっけらかんとした様子で答える。

「今日は先生の呼び出しをくらっていてな。またそのうち直接謝りにくるはずだ」

 一つ、セツに嘘をついた。この時点で胸に針先でチクリと刺されたような痛みが走る。

「そうなのかー。それは大変。今日ヤス君に会ったら何て言おうかと身構えて来ちゃったよ。だからヤス君には悪いけどちょっと安心した。ヤス君には全然気にしてないからまた遊びに来てねって伝えといてね」

「あぁ、わかったよ。伝えとく」

「今日も全然釣れてないの?」セツは空の水汲みバケツを見ながら俺に訊く。

「今日も、じゃない。今日は、だ。……釣れてるけどリリースしてる」

「リリースって?」

「釣った魚を海に逃がすこと」

「なるほど。でもどうして? せっかく釣れたのにもったいない」

「イカが家に余りまくっててな。俺まで魚は正直いらないんだ。だから今日はアタリを楽しむだけ」

 二つ目の嘘をついた。

「そっかそっか。じゃあ今日釣られる魚は命拾いだね。でもいいなぁイカ。また本当によかったらでいいからご馳走させてもらいたいなぁ。あ、そういえばこの前もらったイカの塩辛、パスタにして食べてみたよ! あれ美味しいねぇ! ご飯にも合うけど、個人的にはパスタの方が好みかなぁ。トウ君はどっち派?」

 セツは俺の嘘を全く疑うことなく楽しげに話しかけてくる。いっそ嘘を見破って失望された方が楽かもしれない。

「うーん、俺は飯派かな。あと、塩辛はトーストに乗せても意外とうまいぞ」

「トースト!? ホントに? 全然味のイメージが湧かないなぁ」

「でも明太フランスって美味しいだろ。あんな感じさ」

「あ、そういえばそうだ。納得。ありがとう。今度やってみよー。あ、そういえば今日は果帆ちゃんは来るかな?」

 セツは額に手を添えながら堤防の手前の方を見つめた。

「果帆は今日はピアノ教室だから多分来ないかな。悪いな。もともと暇だったり、習い事がない日に時々ここに来るぐらいだったしな。でもセツが会いたがってると伝えたら多分喜んで来るからまた言っておくよ」

「うん。お願いね。そう言えば果帆ちゃんピアノ習ってるってこの前二人で話した時言ってたなー。かわいいなー」

 それからも俺とセツは途切れることなくたわいもない話をした。その間も魚はかかり続け、その度に俺はリリースを繰り返す。リリースの際に堤防から海面に落ちていく魚は俺を嘲笑っているよう見えた。

『おいおい、本当にいいのかよ?』
『それって裏切りじゃないのかよ?』

 うるさい。食っちまうぞ。

「じゃあそろそろ私帰るね。また明日ね」

 セツは腕時計を見ると、俺に言う。

「あぁ。また明日な。そうだセツ。明日は何が釣りたいとかあるか?」

 俺はまるで贖罪のような気持ちでセツに訊いた。イルカを釣りたい。そんな無理難題を俺に投げかけて欲しかった。ただこれも悔悛(かいしゅん)にセツを利用しているようですぐに自己嫌悪に襲われた。

「うーん、私は釣り全然詳しくないからなぁ……。でもたまには大物狙いなんかもいいかもね。トウ君の好みじゃないかもだけど」

「……大物狙いか。わかった。イルカでも釣れるやつを考えとくか」

 セツは俺の冗談に相好を崩す。

「何それ。でもお願いね」

 そして「じゃあね」と一言別れの言葉を残しセツは帰っていった。

 俺はそんなセツが帰る様子をじっと見つめた。

 ザザーザザーという波の音がいつもと違ってラジオから流れるノイズのように聞こえる。

 昨日の雨が波の音にまで影響をしているのだろうか。

 大好きな波の音がこんな風に聞こえるのは初めてだった。

 俺はセツが堤防を出た辺りで携帯電話をポケットから取り出すと、すぐさま電話をかける。


『ヤスか? セツはそっちに行ったぞ』



 
 放課後、俺とヤスは別行動をすることにした。俺とヤスが一緒にいてもセツの後を追いにくいという結論になったからだ。そのため、俺はいつも通り堤防で釣りをしていて、セツを待ち構える。そしてセツが帰っていくのを確認したら港の外で待機をしているヤスに連絡をして尾行をするという算段だ。

『了解。あ、見えた。セツさんヘルメットしてるからわかりやすいな』

 携帯電話の受話口からヤスの声が聞こえてくる。きっとヤスは港の外の人目につかないところで待機をしているのだろう。

『あ、北の交差点の方向に行くぞ。展望台に続く交差点だ』

『わかった。とりあえず追いつくから通話そのままでヤスはセツ追ってくれ』

『了解。電話代かかるから急いだ方がいいよ』

『わかってるよ』

 俺は通学用のリュックだけを背負うと釣具を堤防に置いたままヤスの元に走る。どうせ平日のこの時間帯に堤防に来る釣り人はいない。そしてこんなあからさまに置いてある釣具を盗むヤツもいないだろう。堤防から港の出入り口を抜け北の交差点に急いで向かう。

「あ、セツさん交差点を右に曲がって進んでる。やっぱりあのお屋敷の方だよ」

 受話口では再びヤスの声が聞こえる。どうやらうまく見つからずに尾行をしているようだ。尾行と言っても港から徒歩圏内にセツの家はあるはずだ。大した距離ではない。

 港から続く緩い坂道を走って登り交差点に出る。この交差点を真っ直ぐ、さらに坂道を登った先がセツと一緒に行った展望台だ。

 あの夜のことを思い出す。

 あの時の景色とセツの笑顔はきっと一生忘れないだろう。

「北の交差点に出た。そのまま右に進む」

「OK。その先の店の看板の影にいる」

 交差点を右に進むと商店の看板の影に隠れているヤスと合流した。ヤスは制服のワイシャツを脱いでいて上はTシャツ姿だった。

「おい灯一郎、お前何制服のまんま来てるんだ。これじゃ目立っちゃうだろ。ワイシャツを脱げ!」

 悔しいがヤスの言う通りだった。

 ヤスならまだしも俺がいつもの制服姿で尾行をしていたら遠目でもセツは気付くかもしれない。

 俺はその場でワイシャツを脱いでリュックにしまい、ヤスと同じくTシャツ姿になった。商店のガラス戸の前にある看板の影に隠れてこそこそとしている高校生を、店内から店主らしきお婆さんが訝しげに見ていた。

「ほらあそこにセツさんがいる」

 ヤスが指差す先にはのんびりと歩くセツの後ろ姿が見えた。大体百メートル先ぐらいか。確かにヘルメットをしているおかげで見失うことはなさそうだ。セツがこちらに気付いてる気配もない。

「じゃあそのまま距離をとりながら追っていこう。二人で適当に会話をしている感じで」

 俺はヤスの指示に合わせ、ヤスと話をしながらセツと一定の距離を取りながら歩いていく。しかし、ヤスと話をしようともセツの動きに注目をしていて頭が回らない。尾行の真似事なんて中学生の頃にヤスと伊藤さんの後を追ったぐらいだ。尾行中の適当な会話というのがこんなにも難しいことを初めて知ったし、知りたくもなかった。

 一方ヤスは無言の俺を察してか、どうでもいい雑学を話しながらうまく尾行をする。アンデスメロンはどうしてアンデスメロンというのか、ポン酢のポンの意味とは、タバスコを初めて日本に輸入した人など、きっと女子の気を引くために仕入れた雑学なのだろう。その話し方は至って自然なものであり、尾行に関しては俺よりよほどヤスの方がうまかった。

 コイツは既にストーカーまがいのことをやっていないだろうな……。

 セツはしばらく歩道を真っ直ぐ進んでいくと、ある地点で小路に入った。セツの姿が見えなくなったことで俺達は駆け足で一気に距離を詰める。

「あの道の奥がお屋敷だぞ。やっぱりセツさんは……」

 ヤスが不安そうな声で言う。

「まだわからないだろ。行くぞ」

 俺はヤスの声を制すとセツが進んだ小路の前に止まる。そして体は隠した状態で、首だけを小路の中に入れてセツを探す。そこにはちょうどキョロキョロと辺りを見回しながら大きな門扉を開けて屋敷の中に入っていくセツの姿が見えた。

 俺は慌てて首を戻し、体を完全に小路から隠す。

「どうだった?」

「セツが屋敷の中に入って行くのが見えた」

「やっぱり……」

 当たりたくない予想が当たってしまった。セツは嘘をついていた。セツの家はやはり空き家になっていた屋敷だった。

「セツが屋敷に入るところは確認できたけどもう少ししたら屋敷の前に行ってみよう。外からでも何かわかることがあるかもしれない」

 ヤスは大きく首を縦に振る。何ができるかはわからない。それでも少しでもセツの真実に近づいておきたかった。

 五分ほど小路の前で待機をした後、ヤスと共に小路の奥に進んだ。

 セツが開けていた門扉はやはりどう見ても屋敷の前のものだった。門扉から玄関までは二十メートルほど離れており、石畳が敷き詰められている。その左右は洋風の庭園らしき敷地が広がっているが、手入れがされていないため雑草が生え散らかっていた。そして屋敷の西洋風の窓には噂通り暗幕が張られており、中の様子を確認することは全くできない。その異様な雰囲気は、無人の空き家よりも人が住んでいると知った方がより一層不気味に感じられた。

「灯一郎……やっぱり噂通りだ……ここにセツさんが住んでるって信じられないよ」

「俺だってそう思うよ。ただここの門扉からセツが入っていくのを見たんだ。間違いない」

 セツが頑なに自分の家を知られることを避けた理由はこれで間違いないだろう。俺がセツの立場でもこの家を知られるの避けたいと思う。

「灯一郎……で、どうするよ……?」

 ヤスはまるでトイレを我慢する子供のように内股になりながら訊いてくる。インターホンを押して『セツを出せ!』とでも映画さながら強行突破するか? 

 いやそんなことできるはずがない。

 やはりここは一旦引いてセツに事実確認をする方が良いだろう。その時は尾行をしたことを謝らなくてはならない。全力で謝って、全力でセツの力になりたいということを伝えなくては。

 その結果、わかってもらえないのなら……。俺の選択が間違っていただけだ。

 その時、ブルルとウシガエルの鳴き声のような低いエンジン音を鳴らして宅配業者のトラックが屋敷の前に停車した。位置の高いトラックのドアが開くと、軽快にトラックの運転手である若い男の配達員が降りてきて手際良く台車に大荷物を積んでいく。そしてそのままガラガラと音を立てて台車を押しながら進むと、門扉についているインターホンを押そうとした。

「あ、ちょっと待ってください!」

 俺は思わず配達員に声をかけた。

「はい?」

 配達員はめんどくさそうな表情をしながら反応する。

「あ、あの! この家の人ってどんな人か知っていますか?」

「あ、君達ここの家のご近所さん?」

「え? あ、はい。そうです……」

 思わず配達員の言葉に乗っかった。その方が都合が良さそうな予感がした。

「いやー、そうだよねぇ。気になるよねぇ。ちょっと怪しいというか不気味というかさ」

 俺のことを近所の住人だと認識をすると、配達員はなぜか目を細めながらうんうんと首肯する。どうやら俺は何も言っていないが共感をされているらしい。

「僕も最初怪しいって思ったもん。配達もやたら多いし。まぁ今でもちょっと怪しいと思うけど。だってさ、ここの最初の配達の時、僕なんて言われたと思う? その時は午前中に荷物を届けようと思ってインターホンを押したんだ。そしたらインターホン越しにさ、『今は祈りの時間だから邪魔しないで! 夕方に来て!』ってすげぇどやされたのよ。それだったら時間指定してくれよって思ったね。なんか変わった宗教でもやってんのかねぇ。だからうちの社内ではここの家の荷物は全部この時間。この時間だったら普通に対応してくれるんだ。見た目は割と綺麗めで美人なおばさんなのにねぇ」

 随分とおしゃべりな配達員だ。客の内情をここまでペラペラ喋っていいのかとそれはそれで不安になるものの、貴重な情報を知ることができた。

 まず、配達員が言っているおばさんというのは十中八九セツの母親のことだろう。そして母親が言っていた「祈り」という言葉。それはきっとセツが食事前に縋るように唱えていた呪文に関係しているはずだ。

 怪しい宗教……、配達員の言葉が頭の中をぐるぐると回る。

「すいませんお仕事中に。ありがとうございました」俺は配達員に深々と頭を下げた。

「いいよいいよ。むしろ僕もね、話したくてウズウズしてたんだ。さー仕事頑張るぞ」

 配達員はそういうと、インターホンを押す。インターホンからはノイズ混じりの声で『どうぞ』という一声だけが聞こえた。音質の悪い声だったのでそれがセツかセツの母親なのかはわからなかった。

「灯一郎……セツさん……ヤバイんじゃね……?」

 さすがのヤスでもセツが今どういう環境に置かれているかは理解できたようだ。配達員が門扉を開けて敷地内に向かうと、心許なげな様子で俺に話しかけてきた。

「とにかく明日だ。明日セツに訊いてみよう」

 俺達は合図をすることなく踵を返すと、無言のまま来た道を戻った。

 ヤスとは適当な場所で別れた。俺は堤防に放置されている釣具を回収してからおっちゃんの店に向かった。その足は重く、まるで鉄板が何重にも入った靴を履いているように感じた。

「今日は釣れたかい?」

 釣具を返すとおっちゃんが笑顔で話しかけてきたので「釣れなかった」とだけ答えた。リリースをしていた理由まで話すのは面倒だった。そのまま帰ろうとしたが、その時セツに言われた言葉を思い出した。

 そうだ。明日は大物狙いだ。その準備をしなくては。

「おっちゃん、泳がせって明日いけるかな?」

「泳がせ? 佐伯君にしては珍しいね。でも全然いけると思うよ。うまく行けばシーバス、ヒラメあたりが狙えるはず!」

 おっちゃんは目を輝かせながら言った。のんびりとした小物狙いの俺とは違って、当たればデカい大物狙い好きのおっちゃんからしたら得意分野の話だ。テンションが上がるのも無理はない。

「そっか。じゃあやってみようかな……。ありがとう」

 おっちゃんに別れを告げると、自転車に乗って家に帰った。以前までこの時間はまだ夕暮れ前だったが、今日は既に空と空に広がるうろこ雲は夕焼けに赤く染まっていた。

「トウ君おかえりー」

 家に着くと居間から果帆が駆け寄ってきた。既にピアノ教室は終えているようだ。果帆は俺の釣果がないと知ると、残念がりながら居間に戻っていった。

 実は今日は大漁だったんだ! そんなことは言えなかった。

 自室で部屋着に着替えたら俺も居間に向かった。そこでいつものように夕飯前に父さんからバトンタッチをして果帆と一緒に過ごした。ただ果帆は一緒に遊ぼうとは言わずに以前にセツから描いてもらったタヌえもんのイラストを見ながら一生懸命模写をしていた。

「やっぱりうまく描けないなー」

 果帆は自分の描いたタヌえもんとセツが描いたタヌえもんを見比べて言った。確かにセツと比べたら当然上手とは言えないが、それでも見本を見ながら模写をするだけでいつも自由気ままに描いているイラストよりは数倍も上手だった。

「そう言えばセツがまた果帆と遊びたいって言ってたぞ」

 俺は色鉛筆を持ちながらうーんうーんと声を上げて悩んでいる果帆に声をかけた。

「え、ホント! 果帆もまたセッちゃんと遊びたい! 明日港行っていい?」

「……明日はセツが来ないって言ってたから無理かな」

「えーじゃあまた今度にする……明日はミンちゃんと遊ぼー」

 明日は果帆には来て欲しくなかった。来たらきっと今日のことは何も話せないだろう。

 今日だけで俺は何回嘘をついたんだ。また自分が嫌になってきた。


 セツはこんな俺を、許してくれるのだろうか……? 
 
 

 翌日、俺とヤスは学校終わりに堤防でセツを待っていた。俺はセツを待つ間、黙々と釣りの準備をする。ヤスはそんな俺の様子を見て肩をすくめた。

「ったく。こんな時でも釣りかよ。全く信じられないね」

「こんな時だからだろ。いつもやってることをやらないのは気持ち悪い。そして時間が長く感じるのも嫌だろう」

「そりゃそうだけど……」

 ヤスは呆れ顔と不安な顔が混ざった顔で俺を見返す。

「しかも今日は竿を二本準備しなくちゃいけないから時間がかかるんだ」

 俺は久しぶりに使うシーバスロッドに泳がせ釣りの仕掛けを組む。本来の用途とは違うが剛性の強いシーバスロッドなら泳がせ釣りにも流用は十分可能だ。初めての仕掛けなのでおっちゃんのメモを見ながらの作業だったが、おっちゃんのメモがわかりやすいので簡単に仕掛けを組むことができた。ヤスはそれを手伝うことなく、ただひたすら俺の作業を眺めていた。

「おい、来たぞ」

 ヤスが堤防の手前側を見ながら言った。心臓が和太鼓のように大きく脈打つ。今日は来なくていい、そんなことさえ思っていた。

「ヤッホー。あ、ヤス君……。一昨日はごめんね……」

 セツはいつものようにやって来ると、まずヤスに謝罪をした。原因はヤスにあるのに、まずセツから謝るところがなんともセツらしい。俺だったらヤスが謝るまで自分からは絶対に謝らないだろう。

「あ、いや……うん。こちらこそごめん」

 ヤスはセツの言葉を受けてから謝る。ヤスから謝るのが筋だとは思うが、当人同士で解決をしているのならこちらから言うことはない。ただやはりヤスはセツに対して一昨日に比べて明らかに他人行儀になっていた。きっとそれは怒らせてしまったことよりは昨日の件を受けてだろう。

「あれ、今日は竿が二本あるね。なんだかいつもと違う感じ」

 セツはちょうど仕掛けを組み終わり、堤防に置かれた二本の竿を見ながら言った。

「今日は大物狙いだからな。セツにも手伝ってもらうぞ」

「あ、そうだそうだ。覚えてくれてたんだね。ありがとー。私に出来ることなら手伝うよ」

 セツは握った拳を胸の前に上げる。ただその拳と腕は白く細いので、申し訳ないがあまり頼り甲斐がありそうには見えなかった。

 そんなやり取りをしている横で、ヤスが俺の方をチラチラと見てくる。わかってるよ。お前が言えよってことだろ。俺だって長引かせる気はない。

 以前、セツから教えてもらったように腹から深く呼吸を行なった。いつもより肺が大きく膨らんだような気がして、体に取り込まれる酸素の量も多く感じた。

「まずセツ、俺達でセツに謝らなくちゃいけないことがある」

「ん? なになに? 昨日私を尾行してたこと?」

 瞠目した。体に取り込まれた酸素がまるで冷却ガスだったと錯覚するほど一瞬にして体が冷えた。指先はピキピキと凍りついたように動かない。

 ドクッドクッドクッドクッ。

 心臓は胸郭を突き破りそうなほど大きく強く脈を打ち、血液を体中に送って少しでも体温を上げようとする。俺の頭蓋骨の中ではそんな心臓の音が無限に反響を繰り返し、鼓膜のすぐ横でハウリングを今にも起こしそうだった。

「気付いていたのか……?」

「そりゃ気づくよ! あんな見通しの良い田舎の道でずっとつけられてるんだもん。誰だって気がつくと思うよ」

「……ごめん……」

 深々とセツに頭を下げて謝ることしかできなかった。上体が地面と水平になるまで折って謝っても足りる気などしない。それでもやるべきことはそれしか思いつかなかった。

「あ、これは元は俺が言い出したことなんだ……セツさん! ごめん!」

 ヤスはそんな俺の様子を見て慌てて横に並び頭を下げた。

「うぅん、いいんだ。もともと家が違うって嘘をついたのは私だし。それにいつまでも嘘をついてられるとは思ってなかったし」

「じゃあセツの家ってやっぱり……」

 上体を起こしセツに訊く。意味のない問いかけなのに最後まで抗いたかったのかもしれない。

「うん。あそこのお屋敷だよ。暗幕だらけのね」

 セツは伸ばした左手の肘を右手で掴み、観念をしたように伏し目がちに答えた。やめてくれ……。俺達が悪いのにどうしてそんな目をするんだ……。

「ねぇ……あの暗幕って一体何なの……?」

 ヤスはおずおずとした様子でセツに質問をした。

「あれはえーっと、エンデハホルム様のご加護を得るためなんだよ」

 突然現れた謎の単語に理解が追いつかなかった。エンデ……なんだって? まるで意味がわからない。

「セツ……何を言ってるんだ?」

「えーっとエンデハホルム様ってのは世界を救った神様なの。はるか昔、紀元前でのお話。世界は氷で覆われていて生物は皆飢餓に苦しんでいました。そこに現れたエンデハホルム様の聖なる炎によって世界中の氷を全て溶かし、生物は無事に生きることができました。その後どこからともなく現れたキリストさんに信仰の主役を奪われちゃうんだけど、私達はキリスト以前から世界を救ってくれたエンデハホルム様を信仰しましょうってのがエンデハホルムの祝祭。それでね、エンデハホルム様って恥ずかしがり屋さんだから太陽の光が苦手なんだって。だからエンデハホルムの祝祭の教徒になると家に太陽の光を入れちゃダメなの。だから暗幕を張ってるの。太陽の光があると家の住人にご加護がなくなるから。でもうちなんてまだまだだよ。エンデハホルムの祝祭の熱心な教徒になると、窓がない家とか地下室だらけの家を建てる人もいるんだって。エンデハホルムの祝祭、お母さんが大きな病気をしちゃってから、お母さんがハマり始めたんだ。最初は怪しいと思ったけどところがどっこい! お母さんの体調が良くなったの! だから私も一緒になって信じてる。実際信じてみると意外といいもんだよ。なんだか私も体調が良くなってハッピーになった気がする」

 一気に捲し立てるセツにヤスは体をジリジリと後退させ(おのの)いている。

「そのヘルメットと皮の手袋もそうなのか?」

「うん。外には悪い気がたくさん漂ってるからね。それでその悪い気に若い女性は狙われやすいんだって。悪い気はつむじと手の平から体に取り込まれるの。だからエンデハホルム様の力が入ったヘルメットと皮の手袋で身を守るんだ。まぁこれは教徒なら必ずというわけではなくて身に付けておくと良いお守りみたいなものなんだけどね。でもびっくりするぐらい値段が高いんだよこれ。お母さん、私以上にエンデハホルムの祝祭にどっぷりで心配性だから、外に行く時にはこれを着けていけってうるさいんだ」

「飯の前のお祈りもか?」

「あ、気付いてたんだ。お祈りに夢中でそっちには気付かなかったよ。うん。ご飯の前にはエンデハホルム様に感謝のお祈りをするんだ。お祈りなしでも食べられるかなぁと思ったけどなんだが不安になっちゃって。目の前でいきなりお祈りも引かれるだろうし、トイレでお祈りするのも良くないから廊下でお祈りしてたんだ。お行儀が悪いことしちゃってごめんね!」

 セツはそれだけ言うと今度は手を体の後ろに組み莞爾として笑う。

「どうかな? 疑問に思ってたことは解決できた? お二人さんも信仰はどうですか? 悪くないと思うよ」

 十秒ほどの無音の間が流れた。

「あ、あ、俺用事思い出しちゃった! ごめんねセツさん! あ、信仰はお気持ちだけで結構なんで! じゃあね!」

 ヤスはそう言うとこちらを向くセツの横を抜け、顔を伏せながら走っていった。

「あーあ、ヤス君逃げちゃった」

 セツは上半身だけを後方に向け、走り去っていくヤスの様子を見て呟いた。

 堤防に俺とセツだけが取り残される。今まで引っかかっていたセツの謎が少し解けたからか、波の音は鮮明に聞こえた。

「セツ」

 俺はセツに呼びかける。

「何?」

 セツはいつもより低い声でこちらを向いて返事をする。その目はどこか悟ったような目をしており、氷のように冷たい目だった。

「釣りでもしようぜ。今日は大物狙いがいいって言ったよな」



「え? え? え?」

 何を言っているかわからないと言った様子でセツはうろたえる。そんなセツの様子を無視してまずはセツにサビキ竿を渡す。

 既に準備はバッチリだ。

 買っておいた解凍アミエビの封を開ける。

 そして割り箸でアミエビを摘み海に落とすと、すぐにどこかから小魚の群れがやってきた。これなら大丈夫だ。

「まずはこの前と同じサビキ釣りだ。餌は俺が詰めるからセツは魚を釣ってくれ」

「え? え? あ、はい……」

 俺は割り箸でサビキ釣りのカゴ仕掛けにアミエビを詰める。

「はい。じゃあセツさんよろしくお願いしまーす」

 俺が合図を出すと、セツは竿を持ち上げそのまま仕掛けを海に落とした。多少まだぎこちなさが残っているが、セツはサビキ釣りは経験済みだ。動きとしては問題なく、すぐに三匹ほどの小魚が簡単に釣れた。今日は小鰯が回ってきているようだ。

「は、はい! 釣れました!」

 セツはもうヤケクソといった様子で声を上げ、ゆっくりと竿を堤防に置いた。

「サンキュー。じゃあ一匹もらうぞ」

 俺は針にかかった小鰯を外すと、今度はシーバスロッドの泳がせ釣り仕掛けの針に小鰯をつける。そしてちょい投げ釣りの要領で仕掛けを軽くキャストをして仕掛けが海底に着いたのを確認すると、シーバスロッドを堤防に置きリールから排出される糸の張力を限界まで弱く設定した。

「あの……これって?」

「泳がせ釣り。釣った魚を餌にして大物を狙うわらしべ長者みたいな釣りだよ」

 俺はサビキ竿の針についている残りの小鰯は外して水汲みバケツに入れる。

「へー。そんな釣りがあるんだ。何が釣れるの?」

「さぁな。ヒラメかシーバスか、エイかサメか。何が釣れるかはわからん」

「イルカは?」

「もしかしたら釣れるかもな」

 泳がせ釣りは準備をしたら後は待つしかない。生き餌も釣ってキープできたことだし、俺とセツは手を止めひたすら獲物がかかるのを待つ。セツとの間に沈黙が流れる。俺は堤防に尻を着くと、両手を後方につきながらあぐらをかいて座る。

「ねぇ」

 セツが沈黙を破る。俺は横に立っているセツを見上げる。

「ん? どうした? 飽きたか? だからいつもの小物釣りの方がいいだろ?」

「トウ君はどっちにしろそんなに釣れないじゃない」

「そりゃそうだ。一本取られた」

「そうじゃなくて……。怖くないの?」

「何が?」

「私が。私、ヤバい宗教信じてるヤバい女だよ! 普通ヤス君みたいに逃げるでしょ! トウ君は怖くないの……?」

 セツの声が段々と大きくなる。その声は何か切迫感を孕んでいるような声だった。

「怖くないよ。セツはセツだ」

「でも……」

「まぁ本気で勧誘をしてくるならちょっと怖いかもしれないがセツはそんなことないだろ。勧誘してるならとっくに勧誘をしてる。それに家を隠したり、お祈りを俺達の前でやらなかったり、ヤバい宗教って自分で言ってる時点でヤバくはないよ。あとキリスト教のイルカの考え方も素敵って言ってたしな。お母さんのために一応信じてるけど、ちゃんとそんな自分を客観視できてる。そんな感じだ。それだったら俺は俺と過ごしたセツを信じたい。それだけだよ」

 セツは俯き何も言わない。ただ拳を握ってそこに立っているだけだった。

「ただセツ。助けてほしかったら言ってくれ。俺にできることは必ずする」

 そうなんだ。正義のヒーローでもサイキックな能力を持っているわけでもない俺ができることはこれしかないんだ。

「……ありがとうトウ君。なんかすごくトウ君らしいよ。うん。私は大丈夫だよ。私は私の意思で宗教を信じてるだけ。何かあったらトウ君に助けてもらうね」

 セツは顔を上げて微笑む。その表情は俺が知ってるいつものセツだった。

 その時、堤防に置いたシーバスロッドがガタガタと動いた。それと同時にシーバスロッドのリールからジジジジーと音を立て糸が排出されていく。俺は慌てて立ち上がるとシーバスロッドを置いたままリールの糸の張力を通常のレベルまで戻した。これで糸が排出されることはない。竿先が上下にクンックンッと揺れる。明らかに何かが餌に食いついている。

 クンックンッ。

 また揺れる。そっとシーバスロッドを手に取る。視線は竿先から逸らさない。

 クンッーー

 そして次に竿先が揺れた瞬間、俺は一気に竿先を持ち上げた。その瞬間、手にはとんでもない重量感を感じると共に竿先が深い深い曲線を描きながら大きくしなる。

 何だこれは! こんなアタリは初めてだ! 

「え、え、え、何これ? かかったの?」

 セツはわたわたと一緒になって慌てている。ただ正直セツがどうこうできるレベルではない。俺はシーバスロッドの柄を腹に当てると、竿先を獲物の動きに合わせ動かし力をいなしていく。

「かかった! かなりの大物!」

「わ、すごい! トウ君頑張って!」

 セツの声援を受けながら俺は少しずつリールのハンドルを回し獲物を近づけようとする。ただそれでもまだ見ぬ獲物の抵抗は凄まじく、まともにハンドルを回すことができない。しかしいなすのも限界がある。長期戦になっても引き上げられる保証はない。こうなったら力づくでの短時間勝負だ。腕に力を入れて一気にリールのハンドルを無理やり回す。

 しかし、これが良くなかった。

 リールのハンドルを力尽くで回すと先ほどまで感じていた重量感は瞬く間に消えて無くなってしまった。そして竿は直線に戻っており、糸ふけが海面にゆらゆらと揺れている。仕掛けが切られ、獲物には逃げられてしまったようだ。そのことはセツにもわかったのだろう。俺に言われるまでもなくセツはいつの間にか応援を止めていた。

「ごめん。逃がした」

 俺はセツに一応結果報告をする。人生一の大きさの当たりだった。さすがにショックが大きい。そんなしょげている俺をセツは笑い、切れた糸を見ながら言う。

「……今の絶対イルカだったよ」


 
「あーセッちゃんがいるー!」

 大物だっただろう獲物を逃し意気消沈をしーーまさに諺通りだーー、そのまま帰ろうかと思っていた時、堤防の手前から果帆の声がした。果帆はセツを見つけると今にも走り出しそうだったが、そこを我慢をして足元を見ながら歩いてくる。

「わー果帆ちゃん! 来てくれたんだー嬉しい!」

「セッちゃんだー! トウ君! セッちゃんがいないってどうして嘘ついたの!」

 果帆がただでさえ膨らんでいる頬をさらに膨らませて怒る。セツは果帆の言葉の意味がわからず困惑した様子だったので、すかさず俺はセツに耳打ちをした。

「ごめん。今日の話的に果帆がいると話しづらいかなぁと思って、セツは今日来ないって言っちゃった」

「あ、なるほどね」

 セツは納得した様子で小さく笑う。

「果帆こそ今日はミンちゃんと遊ぶんじゃなかったのか?」

「ミンちゃんと遊んでたけど、ミンちゃん途中で熱が出ちゃって帰ったんだ。だからトウ君とこに来たの」

 なるほど。最近は涼しい日も増えてきた。季節の変わり目でミンちゃんも体調を崩してしまったのだろう。こうなると果帆も心配になってくる。果帆は季節の変わり目になると大抵体調を崩す。

「果帆ちゃん、トウ君を怒らないであげて。私も用事があったんだけど、たまたま早く終わったから今来たんだよ」

 セツは果帆に優しい嘘をついた。俺とは違う、優しい嘘。

「え? ホント! じゃあセッちゃんは果帆と一緒だね!」

 果帆は先ほどまで怒っていたのが嘘のようにすぐさま上機嫌で小躍りを踊る。俺はセツと目を合わせ唇の動きだけで「ありがとう」と伝えた。

「じゃあ今日は大物逃がしてやる気がなくなったので帰るとするか」

 俺は釣具と残ったアミエビを片付けると、水汲みバケツに入っていた二匹の小鰯をビニール袋に入れて持ち帰る準備をする。

「えー嘘ー! トウ君が大物ー? ぜったい嘘だー!」

「ホント! なぁセツ」

「うん、トウ君大物釣れそうだったんだけど逃がしちゃった。私あれはイルカだったと思うんだ」

「えーすごい! トウ君大物かかったんだー! うん! じゃあきっとイルカさんだよ!」

 果帆はセツが言うとあっさりと信じた。しかもイルカということまで。どうやら兄の威厳というものは果帆の中には皆無らしい。もう少し厳しく躾をした方いいのかもしれない。

「ねぇセッちゃんは明日は来る?」

 港の出入り口に向かう途中、果帆はセツに訊いた。いつの間にセツと果帆は手を繋いでいた。

「あーごめん。果帆ちゃん、明日は私用事があって来られないんだ」

 セツが一度果帆の手を離すと、顔の前で両手を合わし申し訳なさそうに謝る。

「そうなのか。珍しいな」

 セツが港に来るようになって三週間ほどが経つ。その間休みと雨の日を除いてはセツは毎日堤防に来ていたので来ないというのは初めてだった。

「いや……。ちょっとした用事でね。多分月曜日はまた来れると思うよ」

「じゃあ果帆月曜日にまた来るね! ねぇねぇ! そしたらまた晩御飯ウチで食べる?」

 果帆は再びセツの手を握る。その行為はセツを逃しはしないという果帆なりの決意の表れなのかもしれない。

「えっ……。いいのかなぁ。できたらまたお邪魔したいけど……」

「大丈夫だと思うぞ。母さんもセツのこと気に入ってたし。前もってわかっている方が母さんも助かるだろう。聞いておくよ」

「うぅ……かたじけない……」

 セツは目を瞑りながら俺にお辞儀をした。ただ一度ウチでの食事を経験をしているからか、以前よりもあっさりと行きたいという意思をセツが示してきたのは嬉しかった。

「わーいわーいセッちゃんがまた来るまた来るー! セッちゃんまたお絵描きしようね! あ、あとね……」

 果帆はセツのスカートの裾をちょんちょんと引っ張ると、何かを言いたげな表情でセツを見上げた。セツはそれに気付くと膝を折りしゃがみこむ。

「なになに……そう言えばそうだったね。わぁ楽しみ!」

 果帆からの耳打ちを聞いたセツは途端に顔が明るくなる。どうやら相変わらず男厳禁の女子だけの秘密事らしい。

 港の出入り口でセツとは別れた。セツの家はもうわかっている。それでもセツは俺と果帆を見送り、俺達が見えなくなるまではそこを動こうとはしなかった。

 これはもう染みついていることなのかもしれない。

 結果としてセツの家の秘密やヘルメット、皮の手袋の謎はわかった。それらはセツの母親が病気を機に宗教に傾倒したことが原因らしいが、それでもセツは母親のことを悪く言うことはない。そして宗教も自分の意思で信じていると言った。それなら俺はセツを信じることしかできない。

 ただ、何かあったらセツは俺に助けを求めてくれるはずだ。


 なぜならセツがそう言っていたのだから。