「ただいま」

 家に帰ると同時に習慣となっている挨拶をする。セツが釣りに来るようになって二週間が過ぎていた。

 セツは俺が釣りをしているといつの間にひょっこりと顔を出し、そして十七時ごろには帰っていく。ただそれだけの時間でもセツと俺は妙に馬が合うのか以前よりずっとお互いのことを知っていたかのように仲を深めていった。

 二階の奥から拙いピアノの音が聴こえてきていたが、俺の帰宅と同時に止まる。そして二階にある果帆の部屋の扉が開く音がすると、妹の果帆が大きな足音を立てて階段を下りてきた。

「トウ君おかえりー」

 果帆は俺とは歳が離れており六歳の小学一年生だ。歳が離れていることもあり、親の代わりに俺がお世話をすることも多い。その甲斐あってかすっかりお兄ちゃん子になってしまい、俺が帰ってくるとすぐに玄関まで走って出迎えに来る。

「トウ君今日はお魚さんは?」

 果帆は首を傾げながら訊いてくる。その姿は妹という贔屓目なしに愛くるしい。

「今日はなーし」

 今日も釣果はゼロ。ただ今日は潮が悪かった。だから釣れなかったんだ。おかげで途中で途切れることなく俺とセツはダラダラと雑談に耽っていた。

「今日もでしょー! なーんだ。お魚楽しみにしてたのにー」

 そういうと栗毛のおさげをひょこひょこと弾ませながら居間に向かっていった。ピアノの練習はもう終わりらしい。俺を出迎えにきたのか、釣果を聞きにきたのか。

 きっと前者のついでに後者に間違いないはずだ。

「おかえりー! 灯一郎! あんた制服汚してない?」

 続いて姿を見せず居間の奥から母さんの声がする。きっと台所で夕飯を作っていて手が離せないのだろう。俺は「汚してないよー」といつもと変わらない適当な返事をすると、そのまま階段を上がり自室に戻って部屋着のジャージに着替え居間に戻った。

 居間の襖を開ける。そこでは父さんが寝転がりながら果帆のお絵描きの相手をしていた。

「おー灯一郎おかえり。果帆任せていいか?」

「うん。果帆、お兄ちゃんと遊ぼう」

「うん!」

 果帆はそう言うと色鉛筆と自由帳を持って居間の床でうつ伏せに寝転び、足をばたつかせながらお絵描きを始めた。正直何を描いているかはよくわからないが、どうやら流行りのアニメのキャラクターらしい。

 俺はそんな果帆に「すごいなー」とか「果帆上手だなー」とか適当に声をかける。果帆をその度に嬉しそうな顔をしながら筆を走らせた。

「トウ君も描いて!」

 果帆は笑顔で俺に色鉛筆を差し出してくる。俺は国民的アニメキャラクターの『タヌえもん』を適当に描いて果帆に見せた。見ようによっては見えなくはないが、お世辞にも上手とは言えない。しかし、そんな俺の粗末な絵でも果帆は目をキラキラと輝かせながら見ると、「トオ君、すごいー! 上手だねー!」と歓声を上げた。

 父さんはそんな俺達を横目に天気予報や新聞、ラジオをチェックしていた。父さんはこれからイカ漁だ。船長でもある父さんは漁師仲間と連絡を取り、今日の細かいスケジュールを決めていた。

 イカ漁は夜に行う。

 なので夕方から準備を始め、夕飯を食べたら父さんは家を出る。陽が完全に沈んだ頃に出港をすると、深夜までイカを獲り続け、早朝、日の出前に家族を起こさぬように静かに帰ってくる。そして午前中いっぱい寝てお昼過ぎに目を覚ます。

 イカ漁シーズンでは天候が悪い日以外はこれが文字通り毎日だ。

 イカ漁シーズンの時に働いて働いて、シーズンが終わったらまとめて休む。

 俺は小学生まで学校の先生の方が特殊な仕事で世の中の仕事はこれが当たり前だと思っていた。

 母さんは専業主婦、俺も果帆も不自由なく飯を食わさせてもらっている。イカ漁シーズンでは毎日のようにイカが食卓に並ぶのだがこれが最高に美味い。俺はそんな父さんを心から尊敬をしている。

 父さんも母さんも放任主義なのか、ただ興味がないのか、俺の進路には口を出してこない。何か訊いても「自分で決めろ」の一言で返される。きっと進路希望調査を白紙で出したことを知っても我関せずとといった対応をするだろう。

 進路については近いうちに自分で決めなくてはならない。

 ただ根底には尊敬する父さんのように生きたいという思いがある。

 だからもしこのまま自分から自信を持ってやりたいと言えることが見つからなければ、その時は父さんの後を継ごうと決めていた。イカ漁師の息子に限らず、家業がある息子ならば考え方としては極々自然な道理なのではないか。

「はい、ご飯よ」

 父さんの準備もあるからか、一般家庭よりは少し早い夕飯が並ぶ。イカのバター焼きにイカの煮物、それにご飯と味噌汁。四角いちゃぶ台に食事が並ぶと果帆は持っていた色鉛筆を放り出してちゃぶ台に向かった。

「こら! 片付けをして手を洗わなくちゃダメだぞ!」

「はーい! じゃあトオ君と一緒にする!」

 そうは言いながらも果帆が散らかしたお絵かきセットのほとんどは俺が片付けをし、その後に果帆と一緒に洗面所向かった。そして果帆がいる手前、いつもより入念に手を洗ってから食卓に着いた。

「いただきます」

 家族全員がちゃぶ台に着くと、合掌をし声を合わせる。日本人の血がそうさせるのか、宗教的な意味合いはないにしろ、やらなくてはならない挨拶なような気がした。

 イカのバター焼きを箸で掴み、口に入れる。コリコリとした食感とイカの甘み、そしてバターの風味が合わさってとても美味しかった。

「あのね! あのね! 今日学校でね! チーちゃんがね!」

 果帆は飯を食べるのか喋るのかはっきりさせないまま、今日の出来事を話し始めた。当然話にオチなどない。お友達のチーちゃんと一緒に学校で遊び、そしたらチーちゃんが転んで膝から血が出て可哀想だった。

 それだけの話だった。

 それでも俺は果帆の話に大袈裟に頷き、驚き、質問をする。そうすることで果帆はまるで噺家のように饒舌になり、脈絡のない話を繰り返した。

 そんな果帆をよそに父さんは早々に夕食を食べ終わると席を立ち、そのまま仕事の準備をし家を出た。佐伯家のいつもの光景だ。

「灯一郎、そう言えば港の近くのお屋敷に新しい人が入ったのは知ってる?」

 母さんは果帆の話が一段楽すると、味噌汁を口に運びながら俺に訊く。以前ヤスから聞いた話だった。

「知ってる。結構前にヤスから聞いた」

「そう。ヤス君元気かしら? 最近会ってないわねぇ。それで、そこに誰が入ったとか知ってる?」

「いや……知らないかな」

 唯一あった心当たりはセツだったがそれは以前否定をされた。セツではないとすると他の誰かが入ったのだろう。まぁこの狭い町だ。遅かれ早かれどういう人が入ったかというのは自然と耳に入るようになる。

「そっか。ならいいけど」

 母さんは少し残念そうに言う。なんとなくそんな母さんの様子に違和感を感じた。

「どうしたの? あの屋敷に何かあったの?」

 堪らず母さんに訊く。この引っ掛かりがあるまま飯を食べるのはなんだか嫌な気分だ。

「いや知らないならいいんだけどね。なんかあのお屋敷に入った人、結構変わってるらしいというか……。まず外に出てるのを見かけたって人もいないし、挨拶もないし……それにね」

「それに?」

「いっつもカーテンが閉まってるんだって。カーテンというよりは暗幕っていうかしら? 真っ黒なカーテン。なんだか少し不気味よね」

「ふーん……」

 あのでかい屋敷の窓に暗幕が張られているのを想像してみる。それは吸血鬼が住んでいる洋館のようで確かに少し不気味だった。

 ただ、それだけだ。

 だからと言って俺に関係があるわけはないし、害があるわけでもない。

 不気味だからという理由だけで、個人の生活空間についてあれこれ言うのは良くはない。

「ま、うちらには関係ないでしょ。根も葉もない変な噂、流さないようにね」

「そんなのわかってるわよ。ヤス君のお母さんじゃあるまいし」

「ひっでえ」

「お母さん! ご飯おかわり!」

 いつの間に食べ終わったのか、果帆がプラスチックの子供用の茶碗を母さんに差し出す。

 母さんは「はいはい」と少し呆れ気味に果帆から茶碗を受け取ると、ご飯をよそうために席を立つ。

「トオ君の釣ったお魚も食べたいなー」

 果帆は俺の方を向くと、口の周りにご飯粒をつけながら大きな口を開けて笑った。


 
「灯一郎! ありがとう! 俺もうやっちまったかもしれない!」

 俺はタイムリープをしているのかもしれない。教室に入るやいなや、先日と同様にヤスは俺に肩を回すと同じく高いテンションで話し始める。今すぐ新聞で今日の日付を確認したかった。

 ラベンダーの香りは嗅いでいないはずだが。

「昨日だけどやっと図書室に文学少女が一人でいたんだ! しばらく図書室に通ってたけど文学少女が一人でいることが無かったからな! ようやくチャンスが来たぜと思ったぜ! 俺は逸る気持ちを抑えて図書室に入った! そしたら文学少女。早速俺に気がついて会釈をしてくれたよ。きっと俺が話しかけてくれるのを今か今かと待っていたんだろうな! 結果的には良い焦らしになったかもしれん! だから俺はそれとなく文学少女がいるカウンターに近づく! そしたら文学少女、向こうから俺に話しかけてきたよ! 『こんにちは』って!」

「そりゃ図書委員なんだし挨拶ぐらいするだろ」

「いーや違う! あれは俺を待ちくたびれていたような声だった。ちょっと疲れているようにも見えたし! きっとその前からずっとソワソワして待っていたんだろうな。そしてやっと俺が来たから思わず声をかけてしまった!」

「前の授業が体育だったんじゃないか?」

「俺は応える! 『こんにちは。また会ったね」って。そしたら文学少女は俺に恐る恐る聞いてきたんだよ。『先輩って池田先輩で合ってますか?』って。いやー参ったよね。多分俺のことをあれから調べたんじゃないかな。あのイケメンの先輩誰? 同中の人いない? あの先輩の名前が知りたい! みたいな感じだったんだろうね。俺は言ってやったよ! 『正解を言う前に……君の名前を訊いていいかい?』って。あくまでも自然に。爽やかに言ってやったさ! そしたらさ、教えてくれた! 石井彩菜(いしいあやな)ちゃんだって! 文学少女にぴったりな可憐な名前だ! その後に俺も自己紹介したよ! そしたら俺が目の前にいるのに俯いて図書室のポップ作りを始めた! ここまで露骨な照れ隠しだともう期待しかしない!」

「ヤスハシアワセモンダナァ」

「向こうは俺が話しかけるのを待ってるはずだ。そこで前に灯一郎に教えてもらった舞姫だ! 俺は彩菜ちゃんに言った! 『そういえば俺の好きな日本文学の作家だけど、森鴎外さ。知ってる? もしかしたら知らないかもね。森鴎外はいいよ。その中でも知る人ぞ知る傑作なのが舞姫さ。なんて言ったって主人公が最高なんだ。俺の人生の目標であり、師匠。あんな恋愛してみたいものさ。ぜひ彩菜ちゃんも読んでみてほしい』って」

「よく言った。さすがヤスだ」

「だろ! さすが俺だ! そしたら彩菜ちゃん、ポカーンと口を開けてさ、放心状態! ごめんなぁ灯一郎! もしかしたら灯一郎のチョイスは難しすぎたのかもしれないな! でもさ、俺がそう言った後の彩菜ちゃんは何も言わないでさ、黙々と俯いて作業してたよ。最後にボソリと『借りる本があったら表紙裏のカードに名前を書いて置いておいてください。後はやっておきます』だって。照れ隠し露骨過ぎるでしょ!」

「そりゃ目も合わせられないでしょ。怖いもん」

「だよなぁ! 今目を合わせたら完全に恋に落ちちゃうもんなぁ! 初めての恋だと怖いよなぁ! 俺としてはここで一気に攻めても良かったんだけど! やっぱりガツガツし過ぎは良くない! だから昨日もそこで一旦引いた。『じゃあな、また話そうな』って!」

 ヤスは人差し指と中指だけを立てた手を額に当てると、前方にスナップさせる。

 目の前にいる長い付き合いの友人の存在が堪らなく恥ずかしくなった。両手を顔に当てて教室から出ていきたい。

「そして俺は彩菜ちゃんに帰り際次いつ図書室にいるかを聞いた! 彩菜ちゃんは俯いたまま答えない! どんだけ恥ずかしがり屋さんなんだかな! そこがかわいいよなぁ! というわけで仕方なしにさっき図書委員の下村に聞いたんだけど来週月曜だ! 俺は勝負に出るぜ! 月曜日が彩菜ちゃんの当番の日でしかも一人らしい! 代理でたまたまそこに入ってたらしいんだけどむしろ好都合だぜ! 勝負のXデーは月曜日だ。とは言ってももう決まったような勝負だがな。灯一郎悪いな! 力を借りた上俺だけ彼女できちまって」

「気にするな。勝負は決まったもんだ。だから報告はいらないぞ」

「そんなこと言うなよ〜! ハ〜ハッハッハッハ! 灯一郎には俺ののろけ話たっぷり聞かせてやるよ! 何たって俺の親友だからな! ハ〜ハッハッハッハ!」

 ヤスはそう言って高笑いをすると俺の肩の手を解き満足そうに歩いて他のクラスメイトの元に向かった。そして来週には彼女ができる、楽しみにしてろと吹聴をしながら教室を回る。

 クラスメイトは誰一人そんなヤスを否定することはせず、優しい笑顔で迎え、「おめでとう」「よかったな」と声をかけていた。



 授業も終わり、いつものように自転車に乗り港に向かう。

 ヤスは「今日はやることねぇし帰ってゲームやる!」と言って俺以上の速さで帰路に着いていた。その時間で勉強なり読書なりするだけで違うと思うのだが、ヤスはあのままでいて欲しいと思う自分も否定することはできない。なので勉強をした上でアホなヤスのままがいいというのが妥協点だろうか。

「今日はどうするかい? いつものでいい?」

 おっちゃんの店に着くと、おっちゃんが笑顔で訊いてきた。

「うん。いつもので……」

 そこまで言いかけたところで、口を閉じる。そう言えば果帆には魚が食べたいと言われた。あとはセツにもたまには違う釣りを見せるのもいい。たくさん釣れるやつだ。

「ごめん。今日はサビキをしようかな。アミエビにするよ」

「あれ? めずらしいね。佐伯君、サビキはあんまり好きじゃなかったっけ?」

「妹にさすがに魚釣ってこいって頼まれたんだ」

「それだったら確かにサビキの方がいいかもね。今日は潮も動いてるし、朝も小鯖が回ってたみたいだから多分釣れると思うよ。アミエビは冷凍? 解凍?」

「うーん、時間的には冷凍はきついかな。解凍のパックのやつでいいよ」

 俺はおっちゃんから解凍されたアミエビパックを受け取ると料金を支払い、続いて釣具一式と久しく使っていなかったサビキ竿を受け取った。

「はい。妹さんのためにもたくさん釣ってあげてね」

 今日は釣れなくていいというわけにはいかない。俺はおっちゃんに礼を言うと、店を出て港に向かった。

 ここ数日の秋晴れの中でも今日はさらに天気がよかった。入道雲は高く積み上がり、いつも以上に青空が遠く見える。そしてそんな青空を海鳥がキーキーと合図を出し合いながら泳いでいる。

 きっと海の中の魚達もこんな感じなのだろう。

 潮風は柔らかく前方から吹き、俺の前髪をかすかに揺らした。

 いつも通り水汲みバケツの準備をしてから、サビキ竿に仕掛けを組む。小さなピンク色のビニールの切れ端が添えられた針が五つほど付いた仕掛けを糸と連結させ、仕掛けの最後に底面に重りがついた小さなカゴを付ける。

 これで準備完了だ。

 続いてパックの解凍アミエビを開封する。アミエビ独特の鼻の奥を刺すような強烈な匂いが広がった。この匂いさえなければなぁと俺は思いながら、割り箸でひとつまみして海に放る。

 その瞬間、どこからともなく小魚の群れが現れて餌に群がった。

 どうやら運良くちょうど回ってきてくれたらしい。

 一人で釣りをしていてもいいのだが、サビキ釣りを一人でやるのも味気ない。俺はひとまずセツが来るのを待つことにした。

 五分も待たずセツは堤防の手前から歩いてきた。

 いつもは釣りをしているといつの間に後ろから声をかけられるので、このように出迎える形になるのは初めてだ。今日も姿は変わらない。オシャレな制服姿に黄色いヘルメット、皮の手袋。

 ただ遠くからでも確認できるという点では、安全面以外でのヘルメットの利点を発見することができた。遠くから見るとヘルメットがひょこひょことこちらに向かって進んでくるので、まるでテレビゲームに出てくる雑魚キャラのように見えた。

 セツは俺が待っていることに気が付くと、手をこれでもかと大きく振る。なんだか手を振り返すのは気恥ずかしい。俺は左手はポケットに突っこんだまま、右手を上げるに留めておいた。

 セツは堤防の半分まで進むと、あとはジョギングのようなペースの小走りでこちらに近づいてきた。

「……ハァ。おっすおっす。あれ、珍しいね。待っててくれたの?」

 それだけなのにセツは軽く息を切らしていた。

「別にそういうわけじゃない。ただ何となく先に始めてる気分じゃなかっただけだ」

「それってつまり待ってたってことなんじゃないの?」

 セツは不敵に笑う。図星だった。素直に待ってたというのが恥ずかしくて言い訳をしたら余計に恥ずかしい感じになってしまったじゃないか。

「トウ君。そういうとこあるよね」

 セツはニヤニヤと笑みを浮かべながらさらに追い打ちをかけてくる。クソッ、これなら先に釣りを始めておくべきだった。俺は口をへの字に曲げると黙って釣りの準備をする。

「ごめんごめん! でも待っててくれて嬉しかったよ。ありがと! あれ? 今日はいつもの釣りとは違うね。餌はウネウネアシミミズじゃないんだ」

 堤防に置かれたサビキ釣りの道具一式を見ながらセツは言った。

「今日はミニミニエビモドキを使った釣りだ。今日はたまにはたくさん釣れる釣りしようと思ってな」

 俺は解凍されたアミエビを割り箸で掴むと、仕掛けの最後に付けたカゴの中に詰める。

「え? これってサクラエビじゃないの? エビモドキってことはエビじゃないの?」

「違う。これはアミエビって名前だけどエビじゃない。プランクトンの仲間で小魚の餌になる」

 セツが見間違えるのも無理はない。アミエビは小さいエビのような形をしていてサクラエビにそっくりである。ただアミエビ自体に遊泳能力はなく、分類としてはプランクトンの仲間となっている。サビキ釣りの定番の餌であり、集魚効果も高く、食いつきも申し分ない。

「へー。餌にもいろいろあるんだね。まぁ私的にはウネウネアシミミズよりはアミエビ? の方がいいなぁ」

 せっかく人が親しみやすいようにミニミニエビモドキなんていう長ったらしい名前言ったのにセツはあっさりとアミエビを正式名称で呼んだ。

 どうやらウネウネアシミミズことイソメはひたすらに記憶に入れたくないだけなのだろう。

「ねぇねぇトウ君。よく聞くけどプランクトンって何なの?」

 セツはアミエビをまじまじと見つめながら俺に訊く。

「プランクトンは遊泳能力を持たない極小生物の総称。アミエビもそうだけど、ミジンコやミドリムシ、クリオネなんかもぜんぷプランクトンの仲間。ま、食物連鎖の最下層で食べられるための存在と言っても過言ではないよ」

「へー、そうなんだ。トウ君って物知りだよね。ただ食べられるための存在だと思うとなんだか可哀想に感じちゃうな……」

「まぁそういう生物のおかけで巡り巡って俺達は生きていられるわけだ」

「そうだね。ちっちゃいコイツにも感謝しないとね」

 仕掛けのカゴの中にアミエビを詰め終えると、ちょい投げ釣りで使っている竿よりも細く柔らかいサビキ竿を使い、堤防のすぐ下にそのまま仕掛けを落とす。カゴの重りによって勢いよく仕掛けは沈んでいくが、その途中でカゴの中に詰めたアミエビが海中で広がり漂う。まるで見た目はピンク色の蜃気楼のようだ。

 その瞬間、海中に漂うアミエビめがけて小魚の群れが突っ込んでくる。ガツガツと小魚は一心不乱にアミエビを食べるが、その中の一匹が針に付けられたピンクのビニールの切れ端をアミエビと間違えて、針ごと食べる。

 かかった!

 グググと竿が引っ張られる。小魚であってもサビキ竿自体が細く柔らかいので相当な引きを感じる。

「わわわ! かかってるよ! トウ君! かかってるよ!」
 
 セツは慌てた様子で俺の腕を引っ張る。

 わかってる。わかってるよ。ただまだ早い。

 一匹の魚が針にかかっているのにも関わらず、他の魚もビニールの切れ端がついた針をくわえこむ。

 グッ! ググッ!

 さらに引きが強くなり、針にかかった数匹の魚がパニックになって四方八方に逃げるので仕掛けもまるで生きているかの動き回る。

 もういいだろう。

 勢いよくリールのハンドルを回し、仕掛けを引き上げる。仕掛けに付いた五つの針のうち、四つの針に小魚がついた状態で仕掛けは回収された。

「トウ君! すごいすごい! 釣れた釣れた! しかも四匹も!」

 セツは俺の腕を掴みながら飛び跳ねる。サビキ釣り自体は非常に簡単な釣りでタイミングさえ合えば誰でも釣れる。正直なところ、簡単に釣れ過ぎてしまうので俺はあまり好きな釣りではない。

 イージーモードのゲームをクリアしても面白くない。それと同じだ。

 それでも子供のようにはしゃぐセツを見ると、ここでそんなことを言うのはあまりにも無粋だろう。

 小魚は背中に縞模様がある小鯖だった。急いで小鯖を針から外すと、水汲みバケツの中に放り入れた。小さなバケツの中で四匹の小鯖が狭そうに泳いでいた。

「すごいねぇ。釣りってたくさん釣れるんだね」

 セツは一挙に四匹もの魚が釣れる瞬間を目の当たりにして興奮気味に言う。

「いや、そりゃ釣れるだろ。釣るために釣りしてんだから」

「だってトウ君、釣れない釣りが一番好きって言うから、わざと釣ってないのかと思ったよ」

「釣れない釣りが一番好きなだけで、釣れる釣りが嫌いとは一言も言ってないじゃないか」

「それは大変失礼しました」

 セツは目を細めながら頬を緩めた。その表情はとても綺麗で、胸の奥が少し熱くなったような気がした。

「でも今日はなんで釣れる釣りにしたの?」

「妹にたくさん魚釣ってこいって言われたから」

「あ、そういえばトウ君妹さんがいるって言ってたね。何歳?」

「六歳。今小一」

「わー随分歳が離れてるんだね。かわいいだろうなぁ。会ってみたいなぁ」

 果帆は時々この港まで遊びにくる。だからここに来てればそのうち会う機会もあるだろう。果帆とセツはきっと友達になれる気がする。

 俺は割り箸でカゴの中にアミエビを詰めると、あとは仕掛けを落とす寸前の状態までにした。そして竿の持ち手をセツに向ける。

「セツ、見てるだけだとつまらないだろ。せっかくだからやってみな。この釣りは簡単だから」

 俺が言うと、セツはたぬきのように目を丸くしながら大層に身振り手振りを繰り返す。

「え? 私? いいの? 大丈夫かなぁ……」

 セツはまるで猟銃でも持つかのように慎重に竿を受け取ると、俺の指示に合わせ、皮の手袋を被った人差し指を糸にかけた状態でリールのベールを上げる。そして人差し指を離すとそのまま仕掛けはジャボンと大きな音を立てて海に落ちた。

「わ!」

 セツは驚きの声をあげると、へっぴり腰になりながら海に落ちた仕掛けを覗いた。

「大丈夫だ。後はさっきのリールのベールを戻してハンドルを軽く回して糸をピンと張った状態にするんだ。そしたら竿をゆーらゆーら上下に揺らせばいい」

「ベール……戻す……ハンドル……回す……ゆーらゆら……」

 セツは俺の言った指示を口を尖らせながら復唱し、一つ一つの動作をゆっくり行っていく。なんだか果帆に宿題を教えているような気分になってきた。

 セツが一つ一つの動作を行っている間にも、カゴからはアミエビが溢れ、海中を舞っていく。

「わーすごい。綺麗だねー」

 セツが呟いたのも束の間、小鯖の群れがどこからともなくやって来て餌に群がった。そして早速針に一匹かかると、竿は魚に引っ張られて大きくしなる。

「わ! トウ君! これ! かかってるの!? かかってるの!?」

 セツは俺に声をかけた時以上に慌てた様子で俺に訊いてくる。

「かかってるぞー。ただもうちょっと待て。もっとかかるのを待つんだ」

「そんなこと言ったって! わ! またかかった! もういいの!? トウ君! もういいの!?」

「もうちょっと待てー。もうちょっと待てー。よし! 回せ!」

 俺が合図を出すと、セツはまるでハムスターが回し車を回すように勢いよくリールのハンドルを回す。仕掛けが海面に近づいてくる。そして引き上がった仕掛けには、五つの針全部に小鯖がついていた。

「やった! やった! トウ君! パーフェクトだ! 全部に魚ついてるよ!」

 セツは両手で大事そうに竿を持ちながら、悔しさとは全く逆の感情の様子でその場で地団駄を踏んだ。そしてその際に竿を動かすものだから、重りが振られ魚のついた仕掛けが空中でゆらゆらと揺れる。

「危ねぇ! 嬉しいのはわかったから竿を動かすな!」

 俺が叫ぶとセツはだるまさんが転んだのように今度はぴたりと体を止める。針についた魚はピチピチと体をくねらせ暴れている。

「……………」

 セツはそのまま無言で俺の方をジッと見つめる。

「トウ君……魚取ってぇ……」


 
「全く魚ぐらい自分で取れよな。果帆でも自分で取れるぞ」

 俺はセツから竿を預かると、それを地面に置く。そしてしゃがんで暴れる魚を手で抑えると、口から針を外して水汲みバケツの中に魚を入れた。水汲みバケツの中では酸素が少なくなってきたのか、小鯖がパクパクと口を動かしていた。

「だってこんなピチピチなの初めてなんだもん。なんかこう生きてる! って感じがして触れないよ」

 セツはしゃがんで作業をする俺を見下ろすようにして言った。まぁイソメが気持ち悪い、魚に触れないというのは釣り初心者あるあるだ。果帆も最初は泣いて嫌がったし、半分こうなることは予想をしていた。

「妹さん、小一なのにすごいなぁ」

 セツは感心したように何度も頷く。

「そういえばセツは何歳なんだ? あとその制服は一体何なんだ? うちの高校の制服でもないし。ていうか学校は?」

 俺はセツに聞きそびれていたことを訊く。サビキ釣りに熱中をしていたらまた訊くのを忘れてしまう。

「私? 私は十八だよ。トウ君は?」

「十七。ていうかセツ……さんは高三だったんですか?」

 制服を着ていることから高校生とは思っていたがまさに年上だとは思わなかった。そして十八歳ということは高三だ。こんなところでフラフラしていていいのだろうか? 

「トウ君変なの! 別にいいよ今までみたいなタメ口で。十七ってことはトウ君は高二?」

「そうだけど」

「いいねぇ高校生。残された青春は短いぞ。思う存分楽しんでおきなさい」

 セツはまるで高校を卒業してしまったかのように言う。どういうことだ? セツだってまだ同じ高校生じゃないか。

「トウ君。私高三じゃないよ。私誕生日二月だから来年で十九歳。雪の日に産まれたって言ったでしょ?」

 セツは指でピースサインを作ると、それを目元に当ててまるで現役女子高生のようにポージングをした。

 俺はその様子を口を開けて見るしかできなかった。

 俺の予想が合っていたのが釣りに関することだけで、そこからは全てが外れていた。

 確かにセツの言う通りだ。セツは雪の日に産まれたということは南半球産まれでもない限り誕生日は冬だ。ということは現時点で十八歳なら冬に誕生日を迎えて十九歳になる。

 セツは二学年上で高校生ですらない。

「あ……やっぱり現役じゃないとこのノリはキツいかな……?」

 セツは冷静になり我に返ると、顔を赤らめるとモジモジと体を動かす。その姿はなんだか背徳感を感じさせるものがあった。

「まぁ、ギリギリセーフじゃないかな」

 見た目より幼く見えるセツは高校生と言っても問題なく通用するだろう。しかし高校を卒業してもなお制服を着るという行為を包括してギリギリセーフという判定にさせてもらった。

「セーフならギリギリでもよし!」

 セツはいつもの明るい口調でガッツポーズをした。セツにとってはアウトかセーフかの事実だけが重要らしい。

「しかしそれなら尚更なんで制服を? あと普段は何をしてるんだ?」

 俺の質問にセツはすぐには答えない。海の向こうから強い潮風が吹くと、セツはヘルメットから出ている黒髪を耳にかけた。

「……この制服は東京で通ってた高校のなんだけど気に入っててさ。せっかくだから着れるとこまでは着ようと思っただけだよ。普段はまぁ家事手伝い? いろいろあって基本的には家にいるんだ」

 セツは笑って話すがその表情の奥には悲哀のような感情がある気がした。セツは『いろいろ』については何も言わない。

 さっきまで確かにそこにいたセツの存在がスッと空気に溶けるように霞む。

 まるで俺の質問から逃げるように、拒むように、セツは自分で自分の存在を消し、水平線を超えた遥か彼方の空に助けを求めるように目を細めて見つめていた。

「そうか」

 これ以上はセツに何も訊けなかった。

 なんでヘルメットを被ってるの? なんで皮の手袋してるの? どうしてこんな田舎に来たの?

 訊きたいことはまだまだある。ただ俺が興味本位で聞いた質問でももしかしたらセツを傷つけてしまうかもしれない。壊してしまうかもしれない。

 俺のエゴでそんなことになるのは絶対に嫌だった。

 俺はセツがここに来なくなるのが嫌だった。

「セツ。もう一回やってみるか?」

 俺はカゴの中にアミエビを詰めながらセツに訊く。セツはこちらを向くと「うん!」と大きく頷いて再び釣りを始めた。


 
 その後もセツははしゃぎながらサビキ釣りを楽しんでいた。回数をこなすにつれて竿やリールの扱いにも慣れてきたようで、道具捌きも幾分かは様になってきた。しかし、相変わらず釣れた魚は触れないようで、魚の回収は俺が行う。

 まぁ無理に魚を触らせるよりも自分でやった方が早い。

 水汲みバケツの中はすぐに二十匹ほどの小鯖で溢れ、久しぶりの大漁となった。

「釣りって楽しいんだね。私は釣れる釣りの方が好きかも」

 セツは楽しそうな表情で言う。そんな表情を見て俺はホッと胸を撫で下ろす。セツが釣りを楽しんでくれているのが嬉しいのはもちろんだが、先ほどの表情が頭に引っ掛かっていたからだ。

「トウく〜ん! 釣れた〜?」

 今日はもう十分釣ったしそろそろ帰ろうかと思ったその時、堤防の手前から聞き覚えのある舌足らずの声が聞こえてきた。声がする方を向く。そこには果帆が小さな体を目一杯使い、手を大きく振りながら歩いていた。その様子はセツにそっくりだった。

「あら? もしかして妹さん?」

 セツが小さな歩幅で歩いてくる果帆を指差しながら俺に訊く。その目は答えを確信しているのか釣りをしていた時以上にキラキラと輝いている。

「そうだ。時々港まで遊びには来るけどまさか話が出た今日のタイミングで来るとは」

「いやいや! グッドタイミングだよ! わ〜かわいいなぁ!」

 果帆は母さんに整えてもらういつものおさげをぴょこぴょこと弾ませながら、慎重に足元を確認しながら近づいてくる。

「危ないから走っちゃダメだぞ! また前みたいに転ぶぞ!」

「わかってるもん!」

 果帆は堤防の真ん中あたりの位置から叫ぶ。

「妹さん、ここで転んじゃったの?」

「派手にな」

 果帆は以前堤防に来た時、俺も元に駆け寄ろうとして派手に転んだ。本人は痛みに耐えながらも大丈夫と威勢を張っていたが、膝と肘からは血が流れていた。俺はすぐに釣りをやめて果帆の元に駆け寄り、果帆をおんぶをしておっちゃんの店に走り応急手当をしたことを思い出した。

「わーお魚いっぱいだー! トウ君珍しいね!」

 果帆はこちらに到着をし、水汲みバケツの中に入った小鯖を見ると、屈託ない表情で正直な感想を述べた。

「珍しくはないだろう。お兄ちゃんそれなりに釣ってきてるだろ?」

「えートウ君いつも一匹とか二匹ぐらいじゃん! こんなにたくさんなのは珍しいよ! 果帆がお魚食べたい! って言っても全然釣ってきてくれないもん」

 俺と果帆の会話を横で聞いていたセツは終始顔を背け俯いていた。だが肩だけが小刻みに震えている。どうやら笑いを必死で堪えているらしい。

「ねぇその人だ〜れ?」

 果帆は俺の隣に立つセツを不思議そうに見上げながら言った。元々果帆は人見知りをしない性格だ。それに加えて、セツが俺と同年代の女子ということで、不思議そうには見てはいるが警戒はしていない様子だった。

「あぁ……この人は……」

「もしかしてトウ君の彼女!?」

「は?」

「トウ君彼女できたんだねー! よかったねー!」

 いつの間に彼女なんて言葉覚えたんだ。女の子の成長は早い、おませとはよく聞くが彼氏彼女のような恋愛の意味について知っているとは思わなかった。

 いや、そこまでの意味はわかっていないのかもしれない。ただ同世代の男女がいたらそれは彼氏彼女と認識をしているだけの可能性もある。

 ただそれは別にいい。

 それは別にいいとして、間違った認識は正さなくてはならない。セツは俺の彼女ではない。

 俺は果帆にしっかり否定をしようとしたが、その前に果帆はするすると俺の足元を移動するとセツの元に近づく。

「トウ君を、どうぞよろしくお願いします!」

 果帆は普段言わないような丁寧な口調で挨拶をすると、膝に手を乗せ、深くお辞儀をし始めた。

「ブフゥ!」

 その姿を見たセツが再び顔を背け笑いを堪える。ただ努力の甲斐なく、既に笑い声は派手に噴き出していた。果帆はそんなセツの様子を見て、首を傾げ頭にクエスチョンマークを浮かべていた。

 セツは涙が浮かんでいる目元を手で拭うと、ゆっくりと膝を曲げ果帆と目線を合わせて話し始めた。

「君がトウ君の妹さん?」

「うん! そうだよ!」

「お名前は?」

「果帆!」

「そっかー果帆ちゃんかー。果帆ちゃんはかわいいねぇ」

 そういうとセツは皮の手袋をはめた手で果帆の頭を撫でる。「へへぇ」と果帆は嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑う。

「お姉ちゃんは何てお名前なの?」

「私? 私は雪だよ」

「じゃあセッちゃんって呼んでいい?」

「うん。いいよー」

「セッちゃんもかわいいねぇ」

「うわーありがとうー!」

 なんとも微笑ましい会話が繰り広げられている横で俺は釣具の片付けをする。さすがにこの会話の中に入るのは部外者が過ぎる。アミエビもちょうど尽きたし、十分に魚も釣った。このまま帰ればちょうど良い時間だろう。

「果帆ちゃんはおませさんだねぇ。だけど私、トウ君の彼女じゃないんだー。ごめんね」

「えーそうなんだー。でもトウ君、優しくてかっこいいでしょ?」

「うん。トウ君は優しくてかっこいいよ」

 やめろ。聞いていてこっちが恥ずかしくなってくる。

 俺は水汲みバケツの中の小鯖をビニール袋に入れると、空になった水汲みバケツを海に落とし水を汲む。そして自分たちが釣りで使ったスペースに海水を撒き堤防に落ちたアミエビを綺麗に洗い流した。

 来た時よりも美しく。

 これが釣り人が何よりも守らなければならないルールだ。

「果帆そろそろ帰るぞ」

「はーい!」

 俺は荷物を持ちながら果帆に言うと、果帆はまるで自信満々に挙手をするように返事をした。

「あぁごめんね。片付けさせちゃって」

「いやいや。気にするなむしろ果帆の相手させちゃって悪いな。助かったよ。魚持って帰るか?」

「うぅん。全然。むしろ釣りも果帆ちゃんとの話も楽しかったよ。魚は大丈夫かな。果帆ちゃん楽しみにしてるし、私捌けないし。……トウ君、明日は来ないよね?」

「まぁいつも通り土日は他の釣り人が多いからパスかな。また月曜日、晴れてたら来ると思う」

 小さな港ではあるが土日になるとそれなりに人も来る。また土日になると伊豆という土地柄、関東の釣り好きも大挙に押し寄せてくるのが特徴だ。そうなると、こんなにゆっくり釣りをすることはとてもできない。周りに人がいる中で釣りをするのは落ち着かないのであまり好きではない。なので俺が釣りをするのは平日限定だ。

「そっか……じゃあまた月曜日かな」

「そういえばセツ、今更だけど連絡先教えてくれよ。俺も急な用事があるかもしれないし、月曜日に釣りに行く時になったらまた連絡するよ」

 俺はポケットから折り畳まれた携帯電話を取り出して勢いよく広げた。

「あ、ごめん……私携帯電話持ってないんだ……」

「マジか」

 これにはさすがに驚いた。

 こんな田舎でも携帯電話は十分に普及をしている。中学生で携帯電話を持つ生徒は少ないが、高校生になるとクラスメイトのほとんどが携帯電話を所持しており、連絡を取り合うのが当たり前だ。

 ましてやセツは東京出身で一年前まで東京で女子高生をしていたはず。

 それなのにまさかセツが携帯電話を持っていないとは思わなかった。

「ごめん……」

 セツが再び申し訳なさそうに謝る。

「いや、全然大丈夫。むしろこちらこそごめん。じゃあ月曜日はできる限り行くから。もし俺が来れなくても遠慮なく帰っていいからな」

「うん……。でも今日は楽しかったから、月曜日もまた楽しいといいな」

「トウ君! セッちゃん! はーやーくー!」

 堤防の手前にずいずいと進む果帆に大声で催促をされる。俺とセツは目を合わせて笑うと、果帆に追いつくために早足で歩いた。

 堤防から出ると、港の出入り口に向かう。その港の出入り口の隅に果帆の派手な自転車が停めてあった。女児向けアニメとコラボレーションをしたピンク色の自転車であり、これなら盗まれてもすぐに見つかる。

 ……こんな田舎で自転車を盗むやつもいないが。

 自転車の前カゴには小学校でもらった黄色いヘルメットが入っていた。俺も小学校低学年の頃はこのヘルメットを被って自転車に乗ったものだったが、いつの間にかヘルメットは被らなくなってしまった。自分がそうなのに、果帆には例え不恰好でも安全のために自転車に乗る際にはヘルメットをできるだけ被っていて欲しいと思うのはわがままだろうか。

「セッちゃんも自転車で来たの?」

 果帆は自転車の横に立ちながらセツに訊く。

「あ……、私は歩いて来たよ」

「えー! じゃあ何でずっとヘルメット被ってるのー?」

 果帆は透き通った瞳のままセツに問いかける。俺も気になっていたが訊くタイミングを逃した質問だった。盗み聞きのようで少し申し訳なさを感じるが、俺は我関せずを装いながらもセツの答えに聞き耳を立てる。

「あ……これはね……。いつでも頭を守るためなんだよ」

 セツは微笑みながら果帆に言った。

「ふーん、そっかぁ」

 果帆は納得をしたようだが、正直俺には要領の得ない答えにしか聞こえなかった。いくらヘルメットが頭を守るからと言って、年頃の女が常に被っているのはあまりに不自然だろう。

 しかし、そんな俺の思いとは裏腹に果帆はセツから答えを聞いて満足げな表情だ。そして、自転車の前カゴからヘルメットを取り出すと、それを勢いよく被った。

「へへへー、セッちゃんと一緒」

 それを見たセツはまたしても顔を背け俯き、肩を小刻みに震わせていた。果帆の純粋過ぎる行動に笑いをこらえているのだろうか? その表情は俺からは見えなかった。

 果帆はヘルメットを被り、両手で自転車のハンドルを持つとスタンドを足で蹴飛ばす。俺は一度おっちゃんの店に寄らないといけないので果帆と歩きながら店に向かおうとする。

「セツはどうする? 俺達は一度近くの釣具屋に寄るけど、家が近いなら途中までは送るぞ」

 その前に俺はセツに話しかけた。その途端、セツは慌てた様子でこちらを向き、手の平を突き出しながらぶるぶると振った。

「あ、あ、あ、全然大丈夫! 私、この後も用事あるから! ここでサヨナラの方が都合がいいんだ! ……うん、今日はホントに楽しかった! また月曜日楽しみにしてるね! 果帆ちゃんもまた遊びに来てね!」

 なんだかせわしない様子であるが、セツがそう言うならしょうがない。俺と果帆は港の出入り口の場所でセツと別れると、そのままおっちゃんの店に向かった。

「セッちゃんばいばーい」

 果帆は別れ際セツに叫ぶと、自転車を押しながら俺の横をぴったりとくっついて歩いた。

 セツは果帆に向かって小さく手を振る。そしてそれは、俺からセツの姿が見えなくなるまで続いていた。



 週が明けた月曜日。九月も後半に入ったが相変わらず残暑は厳しく秋という季節は日本から消えてしまったのではないかと不安になる。天気は日曜日にぐずついたがむしろ日曜日でよかった。日曜日のうちに雨が降ってくれたので、今日は学校終わりに問題なく釣りに行けるだろう。

 これならセツにも会える。

 セツと出会ってまだ間もないが、俺はセツに会えることを楽しみにしている自分に驚いた。

「灯一郎! ついに! 運命の日だ!」

 教室に入るとすぐにヤスに後ろから肩を組まれる。もう何度目だろうか。俺は既に数えるのを放棄していた。

「灯一郎〜! ホントありがとな! 灯一郎のアドバイスのおかげでここまで来れたよ! そしてすまん! 美味しいとこだけ俺がもらっていくみたいで! とにかく今日だ! 今日は彩菜ちゃんが一人でいるはずだから放課後は図書室にダッシュだ! そして俺は決める! 彼女ができる! 灯一郎も楽しみにしておけよ!」

「おう、楽しみだ」

 ヤスは今日、文学少女ちゃんに告白をするということはこのやり取りももう終わりか。まぁどうせ玉砕するとして、今回の切り替えにはどのくらいの時間がかかるだろうか。脳内で今までのヤスの玉砕経歴を振り返る。その度にヤスは夕暮れの中でブランコに乗りながら「もう……俺……恋なんてしない……」と哀愁を込めて呟いていた。

 ……三日だろうな。

 今までの経験上三日もすればヤスは勝手に気持ちを切り替えて、またいつものヤスに戻っているだろう。束の間の平穏な三日間になりそうだ。

 授業は滞りなく終わり、終業を告げるチャイムが鳴る。最後に担任の山田によるごくごく短いホームルームを終えると、クラスメイトが各々の放課後の時間を過ごすために教室から散っていった。さぁ今日の学校も終わりだ。俺もさっさと港に行こう。そう思って席を立つと、後ろから突然腕を掴まれる。

「灯一郎! お前には世話になった! ホントにありがとう!」

 ヤスだった。ヤスが勝利を確信したにこやかな表情で俺の腕を掴んでいた。

「お、おう。それならよかった……」

 礼なんていらん。だから腕を離してくれ。

「そういうわけで灯一郎。お前には俺の告白の瞬間を間近で見る権利をやる!」

「は?」

「ほら! 行くぞ!」

 ヤスはそう言うと、俺の腕を引っ張り廊下に出る。そして教室から最も離れた階段の方に連行していった。この先の階段の二フロア上にあるのは図書室だ。

「な、なんだ! やめろ! 腕を離せ! わかったから腕を離せ!」

 そこまで言ってやっとヤスは腕を離した。

「なんだよー。俺の勇姿、決定的瞬間を見たいだろ。せっかくその権利をあげようって言うのに」

 不服そうにヤスは言う。なんて傲慢で強引なヤツなんだ。こんなヤツがモテるわけがない。

「ヤス、気持ちは嬉しいが俺はこの後用事があるんだ。だから後で報告だけ聞くだけで十分だ。ヤスおめでとうな。俺もヤスに彼女ができて心から嬉しいよ」

「またまたー。灯一郎の用事なんてどうせ釣りだけだろ。たまには俺の生き様見てみろって! 大丈夫だよ! すぐに決めて見せっからよ!」

「く……」

 まぁヤスがすぐに玉砕することは間違いない。それなら見守るだけ見守って、振られたら見捨てればそう時間はかからないだろう。

 左手を上げて腕時計を見る。時刻は一五時三〇分を示してた。

 俺は脳内でヤスが振られてから自転車に乗り、港に向かって釣りを始めるまでをシミュレーションする。それぐらいのラグならセツがいつも来るぐらいにちょうど港には行けるか。

「わかったわかった。じゃあヤスの勇姿、生き様を見届けさせてもらう。ただ遅くなるようだったら帰るぞ」

「そうこなくっちゃ! やっぱりさ、オーディエンスがあった方が気分が高まってパフォーマンスが向上するわけよ! もうちょっとしたら彩菜ちゃんが来るはずだから、こっちで待っていよう」

 ヤスと共に階段に繋がる廊下で時間を潰す。その間、ヤスは開けた窓のサッシに前腕をかけ、身を乗り出すようにして外を眺めていた。

「風が……気持ちいいな……」

 ヤスは海が近く湿気を含んだ生ぬるい風に当たりながら呟く。その表情は希望あふれる未来を想像する青年そのものだった。俺としては時間が惜しい。早くその顔が絶望に変わって欲しかった。

「よし行くか」

 廊下で五分ほど時間を潰したところで、ヤスは深く息を吐き気合いを入れた。俺とヤスは階段を一段飛ばしで登り、図書室の前に立つ。そして引き戸に付けられた窓から、図書室の中を覗いた。

 しかし、カウンターには一年生らしきいかにも本好きで大人しそうな男子生徒が座っており、ヤスが言う眼鏡をかけた文学少女ちゃんは見当たらない。

「あれがそうなのか?」

 俺は念の為、窓に顔を近づけ落ち着きなく図書室内を見回すヤスに訊いた。

「んなわけねぇだろ! 男には興味ねぇ!」

 ヤスが血眼になって文学少女ちゃんを探すがその姿は最後まで見つからない。

 まぁ文学少女ちゃんがたまたま学校が休んだとかそんな理由だろう。

 暴れ馬のようにかかっていた状態のヤスには悪いがタイミングが良くなかったようだ。

「……いないみたいだな。まぁまたヤスの勇姿は改めて見せてくれ。楽しみにしてるから。じゃあ俺は先に帰るぞ」

 そう言って、ヤスを置いて帰ろうと振り返った瞬間、そこには身長一五〇センチにも満たないほど小柄で、おかっぱ頭をした女子生徒が立っていた。

「池田先輩と、……佐伯先輩ですね」

 まるでこけしのような女子生徒はどこかで見たことがあるような気がするのだが名前が思い出せない。そんな女子生徒に突然名前を呼ばれて俺とヤスは顔を見合わせた。

「こっちに来てください」

 有無を言わさずといった口調で、彼女は図書室の隣にある書庫に俺とヤスを誘導する。書庫は他の教室とは違い、ドアノブのついた開き戸になっていた。女子生徒は無言でドアノブを回し扉を開ける。中には壁いっぱいの本棚に本が無造作に置かれている他、中央には長机が二つくっつけて並べられており図書委員の私物や鞄などが置かれていた。

 書庫には初めて入ったが、どうやら古くなった本の保管場所兼図書委員の休憩場所として使われているらしい。

「どうぞ」

 彼女は俺とヤスを中に入るように促す。必要最低限の言葉しか話さないこの女子生徒は本当に動き出したこけしなのではないかと疑うほどだった。

 俺とヤスは言われるがままに書庫に入った。そして女子生徒は俺とヤスに続けて室内に入るとそのまま後ろ手にカチャリと扉の鍵をかける。

 その音に思わず扉の方向を振り向く。女子生徒は唯一の出入り口の扉を背にしながら、ただ俺達の方を向いて立っていた。

「二中の伊藤(いとう)です。池田先輩、佐伯先輩お久しぶりです」

 女子生徒は自己紹介をする。二中は俺達が通っていた中学の略称だ。そして伊藤、伊藤……どこかで聞いたことがあるような……。

「あ、伊藤香織(いとうかおり)ちゃん!」

 ヤスが突然名前を叫ぶ。伊藤香織……。伊藤香織……。思い出した!

 ヤスが中学の頃に六番目に振られた女子生徒だ。中二の頃にヤスから、『今あの子を狙っている。伊藤香織ちゃんだ』と遠目に紹介をされた景色が脳裏にフラッシュバックする。当時は眼鏡をかけていたが、どうやら今はコンタクトをしているらしい。身長こそ変わっていないが、眼鏡をかけていないのと顔が成長をしたのもあって、大人びた雰囲気になっていた。

 ただどことなく当時のあどけない雰囲気もまだ残っている。

 伊藤さんは歴代のヤスを振った女子の中で唯一、もしかしたらと期待を抱かせてくれた女子だった。その当時の俺は己の過ちに気が付かず、ヤスの恋愛に対して協力的な姿勢を見せていた。ヤスと一緒になって下校中の伊藤さんに声をかけ、俺が用事を思い出したと言って先に帰る。そしてヤスと伊藤さんの二人っきりのシチュエーションを作り、俺はそれを影から見守る。こんな雑な計画で作られたシチュエーションであっても、実際彼女はヤスと楽しそうに話していたし、俺もこれはひょっとするかもしれないと本心から思った。結果としては「他に好きな人がいるから」という理由でヤスは振られる。しかし、それでもまともに告白まで持っていけた、可能性を感じさせたということだけで伊藤さんはヤスの失恋史の中では伝説の女神として崇め奉られる存在であり、ヤス唯一の大偉業として俺の記憶にも刻み込まれていた。ちなみにヤスはそこから現在に至るまで連敗を十八に伸ばすことになる。

「わー香織ちゃんじゃない! 久しぶりだねー! 雰囲気変わったね! 全然気がつかなかったよー」

 ヤスは女子生徒の正体がわかるとあからさまに声色を変えて馴れ馴れしく伊藤さんに話しかけた。そんなヤスに対して、彼女は何も言わず微笑んでいる。にしても伊藤さんが一体何なんだ。久しぶりの再会は嬉しいが、とっとと俺をここから出してくれ。

「ねーねー香織ちゃん! 今日さ、彩菜ちゃんいないのかな? 俺彩菜ちゃんに用事があるんだけど……」

「正座」

「へ?」

「正座をしろって言ってんだろ! このボンクラブタ野郎どもがあああ!」

 突然の伊藤さんの怒号に俺とヤスは我先にと並んで床に正座をする。伊藤さんはその様子を見ると蔑むように笑い、俺達の目の前にパイプ椅子を広げると勢いよく腰をかけ足を組んだ。

 い、一体何なんだ……。

 俺はこの異様な雰囲気に視線を下げ彼女の上履きをただ見つめることしかできなかった。

「池田せんぱーい。どうやら彩菜にちょっかいかけてたみたいですね……。なんか本を全然知らない怪しい先輩に付き纏われているって彩菜言ってました……。それで聞いたんです……。その人の特徴……。そしたら私すぐにわかりました……。その人池田先輩だって……」

「私……、中学のころ池田先輩のこと好きになりかけてたんですよ……。地味で取り柄のない私に話しかけてくれたじゃないですか……。それが嬉しくて……。ただ当時は同級生の子が一番好きだったんで断りました……あの時はごめんなさいね……でもその後、すぐに自分のバカさ加減に呆れたのと運の良さにホッとしました……。池田せんぱーい、せんぱーい、聞いてますか……? 池田先輩、女子なら手当たり次第声かけているらしいじゃないですか……中学だけでも十人以上池田先輩に告られたって人知ってますよ……そういうのって良くないんじゃないでしょうか……?」

「いや……あの……その……」

 ヤスの様子を伺おうとするもとてもそんな空気ではない。俺は隣でしどろもどろしているヤスの声を聞きながら、じっと伊藤さんの上履きだけを眺めて息を潜める。

「彩菜はねぇ……私の大事な友達なんです……。同じ図書委員で仲良くなりました……。本当に一番の友達……。かわいくてしょうがないんですよ……。それが池田先輩みたいなしょ〜もない先輩に付き纏われているのが許せなかったんです……だから言っておきました……。もし話しかけてくる先輩が池田先輩だったら、絶対に相手にするなって……そしてそうだったら後は私に任せろって……そしたら案の定池田先輩でしたねぇ……しかも何ですか……池田先輩……森鴎外が好きなんですか……? 舞姫が好きなんですかぁ……? 池田せんぱーい、だったら舞姫の主人公の名前、言ってみてくださいよ……」

「あ、あ、あ、あうう……」

 隣からヘビに追い詰められたネズミのような弱々しい鳴き声がする。ヤスのヤツ、怯え過ぎだろ。まぁこれは自業自得だからしょうがない。恨むなら本を読まずに取り入ろうとした自分を恨め。

「どうせそんなしょうもないこと吹き込んだのは佐伯先輩でしょう……?」

 突然矛先が俺に向けられる。その瞬間、心臓が激しく脈打つと同時に手に汗が滲む。口を閉じたままゴクリと硬い唾を飲み込むと、喉仏が上下をして無理やり咽頭の奥へと押し込もうとしているのがわかった。

「佐伯せんぱーい、せんぱーい、聞いてますか……? 池田先輩に舞姫のこと適当に教えませんでしたか……?」

 恐る恐る顔を見上げる。そこにはヘビのような眼光で伊藤さんが俺を見下ろしており、その目を見た瞬間俺は金縛りにあったが如く体が硬直してしまった。

「あ、あ、あ、あうう……」

 そして俺は恐怖心のあまり口をパクパクと動かし、ヘビに追い詰められたネズミのように弱々しく鳴くことしかできなかった。

「否定がないので肯定と捉えさせていただきますね……。佐伯先輩は池田先輩のお友達ですものね……。そして池田先輩が舞姫なんて知ってるわけありません……中学の時から授業は寝ているって自分で話していましたよ……ただ佐伯先輩は違います……佐伯先輩がめちゃくちゃ頭がいいのは学校でも有名です……うちの高校から東大生が出るかもしれないってねぇ……だから彩菜から池田先輩が舞姫が好き、豊太郎を尊敬してるって聞いた時、まず佐伯先輩を思い浮かべましたよ……。きっと佐伯先輩が遊んでるなぁって……。彩菜怖がってました……そりゃ怖いですよね……。妊娠して……見捨てられて……発狂させられたりしたら……ひどくないですか……? そういう遊び……私良くないと思うんですけど……」

「今日の彩菜の当番、古賀君に代わってもらいました……古賀君、快く引き受けてくれましたよ……古賀君、代理の代理なのに優しくて良い人ですよねぇ……知ってます? 古賀君と彩菜、実は両思いなんですよ……なのにお互いシャイだからなかなか言い出せなくて私、隔靴掻痒(かっかそうよう)で……。池田先輩には意味がわからないでしょうね……。自分で調べましょう……。でも二人が付き合うのは時間の問題でしょうねぇ……。だけど私、もし古賀君が彩菜にひどいことしたら古賀君をどうにかしちゃいそうです……やだなぁ冗談ですよ……」

 伊藤さんは目を細めて笑う。ただそんな彼女の笑顔はまるでホラー映画に出てくる殺人ピエロのような笑顔だった。古賀君。恋人に誠実であれ。これは自分の命を守るためだ。

 一瞬だけ伊藤さんから目を逸らし、隣のヤスを見る。ヤスはまるで心ここに在らずといった様子で、目の焦点が合わず口は半開きになって伊藤さんの方を向いていた。

「いいですねぇ……池田先輩の表情……ゾクゾクします……。そういうわけで彩菜は今日はここに来ません……そしてお二人は図書室に出禁です……池田先輩は故意に彩菜に近づくのもダメです……視界に入るのもダメです……わかりましたか……?」

「わ、わかいましたぁ……」

 口を半開きにしたまま思考を介さないでヤスは返事をしていた。その表情は数十歳老けているように見えた。

「はい……池田先輩は……よくできましたね……佐伯先輩は?」

 伊藤さんはヤスの頭を撫でるとぐりんと素早く首を回転させ、俺の方をギロリと睨みつける。俺はその眼光に圧倒されて否応なく連続して頷くことしかできなかった。

「はい、これで一件落着ですね……」

 伊藤さんは胸の前で両手の指と指を合わせる。そして静かに立ち上がると、長机に置かれた鞄から二枚の紙とボールペンを取り出し、俺とヤスの前に置いた。そこには誓約書と書かれており、綺麗な手書きの字で文面が記されていた。

『私は今後図書室に入らないことをここに誓うと共に、石井彩菜に故意に近づかない、故意に視界に入らない、故意に同じ空気を吸わない等、故意に接触する行為全てを行わないと誓約いたします。』

「ではここにサインをしてください……。これは約束ではありませんよ……誓約です。もしこの誓約を反故するような真似をしたら……わかりますよね?」

 俺とヤスは正座の姿勢のまま前屈みになり、誓約書に一目散にサインをする。そして誓約書とボールペンを床に置くと、パイプ椅子に足を組んで座り続ける伊藤さんに深く頭を下げて書庫から退散した。

「あーヤス、ごめんな。俺が適当教えちまって……」

 無言でヤスと共に階段を降り、下駄箱から外に出た所で俺はヤスに謝った。根本的な原因はヤスにあることは間違いない。それでも俺が一枚噛んでいることは事実だ。その分に関してはさすがに謝らなくていけないと思った。

「いや、いいんだ……。元はと言えば俺は全部悪いんだ……」

 珍しくヤスが真っ当なことを言う。冗談でも「そんなことはないぞ」とは言えないが、これはこれでヤスの受けたダメージの大きさが伺える。

「なぁ灯一郎……」

 ヤスはまだ日が沈んでいない真っ青な空を見上げる。その目は微かに潤んでいるように見えた。

「もう……俺……恋なんてしない……」


 
「そうか。わかった。じゃあ俺は先に帰るぞ」

 俺は一人空を見上げ続けるヤスを置いて駐輪場に急いだ。

 時計を見る。

 時刻は十六時三十分を過ぎたところだった。

 伊藤さんに軟禁されていたのもあって随分時間が取られてしまった。やっぱり最初からヤスの誘いなんて断っておくべきだった。セツは既に港に到着をしてきっと俺を待っているだろう。俺は駐輪場で自転車に飛び乗ると、ペダルを素早く回して急いで港に向かった。

 道中のほとんどを立ち漕ぎで進み、できる限りのスピードで自転車を飛ばす。いつもは釣具を持っていくため自転車はおっちゃんのお店に停めておくが、今日はそんな時間はない。港まで直接自転車で向かい、港の出入り口のそばに自転車を停めようとするが、そこには既に見覚えのあるピンク色の小さな自転車が停まっていた。

 どうやら果帆も来ているらしい。

 よかった。それならセツが退屈していることもないだろう。

 果帆の自転車の隣に自分の自転車を停めると、勢いよくスタンドを足で下ろす。そしてそこから堤防の方に目を凝らすと、堤防の先に黄色いヘルメットを被ったセツと果帆が二人して体育座りをしているのが見えた。遠目で見ると、黄色いてんとう虫が二匹並んでいるようだ。

 俺は足元に気をつけながら走ってセツと果帆の元に向かう。

「あ、トウ君やっと来た!」

 堤防の途中まで来たところで俺の気配に気がついたのか、果帆が大きな声を上げる。それを見てセツもどうやら気が付いたようだ。俺は息を切らしながら二人に近づき、ようやく足を止める。

「ハァハァ……ご、ごめん……急用ができちゃってさ……」

 急に足を止め大きく息を吸い込んだからか、脇腹が少し痛む。ただその痛みよりも今はセツが帰るまでに間に合ったことが嬉しかった。

「トウ君! そんな急がなくても大丈夫だよ! 私が勝手に来てるだけだし……!」

 セツは急いた様子で立ち上がると、俺の背中をさする。そのおかげかは知らないがようやく呼吸が元に戻ってきた。

「ありがとう……。いや、月曜日も楽しみにしてるって言ってくれたしな。せっかく来るって約束したのにこっちが約束破るのはないだろ」

「いや、そんな楽しみにしてたけどトウ君の用事もあるだろうし……、もともと私が携帯電話持ってないからいけないんだよ……」

「約束は約束だ。とりあえず守れてよかった」

「……うん。ありがとう。急いで来てくれたの嬉しかったよ……」

 そう言った途端、セツは慌てた表情を浮かべ頬を紅潮させながら顔を伏せる。その様子を見た俺もつられて顔を伏せた。心臓はまだ激しく脈を打っている。これは走ってきた影響が残っているからに違いない。

「果帆と話してたのか?」

 俺はコホンと一つ咳払いをしてからセツに訊く。空気を変えたかった。

「う、うん……。私が来てから十分後くらいかな? 果帆ちゃんが来てくれたから話してた。おかげで退屈しなかったよ」

「そうか、果帆。セツとお話できて楽しかったか?」

「うん。セッちゃんに会いたかったからまた来た! お話して楽しかったー!」

「そうか。それはよかったな。一体何話したんだ?」

「えー……」

 果帆はセツに目配せをする。セツはそんな果帆の雰囲気を察すると、人差し指を立てて、唇に当てた。

「秘密ー!」

 どうやら女子同士の秘密のことらしい。それならば俺がこれ以上訊けるはずもない。

「じゃあ私、そろそろ帰るね……」

 時計を見ると時刻は十七時を示していた。いつものセツが帰る時間だ。俺達は堤防を戻り、港の出入り口に向かった。

「トウ君と果帆ちゃんは自転車だよね? それだったら先に行ってて。私歩きだから遅いし」

 港の出入り口に着き、俺と果帆が並んで停めてある自転車に向かうところでセツは言う。送る分には全く構わないのだが、それも返ってセツに気を使わせてしまうかもしれない。それだったら素直にセツの言葉を受け取った方がいいだろう。

「そうだな。じゃあまた明日な」

「うん。また明日。明日も無理しないでいいからね」

「無理かどうかは俺が決めるよ」

 俺とセツは同時に笑う。

「ほら、果帆も挨拶をしろ」

「あ……あ……」

 てっきり果帆はまたバカでかい声で「バイバーイ」とでも挨拶をすると思ったが、何か言いたげな様子で俺とセツを交互に見る。

 一体どうしたのだろうか? 

「どうかしたのか果帆? セツとはもうバイバイだ」

「ねぇトウ君……セッちゃんウチに呼んじゃダメかな……? セッちゃんイカ食べてみたいって言ってたよ……。あとお母さんと二人で少し寂しいって……」

「果帆ちゃん……!」

 セツは果帆に困ったような口調で語りかける。果帆が言ったことは、きっとさっき言ってた秘密の内容に含まれていたのだろう。

「だってぇ……」

 果帆は唇を尖らせながら下を向く。果帆なりにセツを心配したのだろうか、それとももっと一緒にいたいだけなのかはわからない。ただ果帆はすぐには帰ろうとせず、自分の気持ちを代弁するかのように地面に転がる石を蹴る。

 しかし、果帆の要望は俺の一存では決めることはできない。

「俺は全然構わないが……母さんが何て言うかだな。聞いてみるか」

「え、いや……! そんな悪いよ!」

「いやいや気にするな。飯はある。イカでよければな」

 俺はポケットから携帯電話を取り出すと、自宅に電話をかける。数回の電子音のコールの後に、すぐに母さんが電話に出た。

『あ、母さん……。俺と果帆の友達呼んで家で飯食べるのは大丈夫? イカ食ってみたいんだってさ』

『イカ? それは別にいいけど……、今日お父さんもう仕事行ったし。それにしてもわざわざ珍しいわね』

『最近こっちに引っ越してきたんだ。わかった。また決まったら連絡する』

 携帯電話の通話を切る。親子らしい実に簡単なやり取りだ。父さんは月曜日は漁協の会合があり、早めに家を出る。父さんがいるとセツも気を使うかもしれないし、父さんには悪いけど好都合だ。

「母さんは別にいいってさ」

「え……いや……そんな悪いよ……」

「まぁこっちも無理強いはできないからな。少なくともウチは全然構わないから後はセツ次第さ」

「えー! セッちゃん、ウチに来てよー! ご飯一緒に食べよー!」

 果帆がセツに手にしがみついてぐいぐいと引っ張る。セツは困ったような顔を浮かべるがどこか満更でもなさそうに見えた。

「そりゃ、行ってみたいけど……」

「じゃあ決まりだ。ウチのイカはうまいぞ」

「やったー! セッちゃんとご飯! セッちゃんとご飯!」

 俺は再び携帯電話を開くと、決定事項として母さんに電話をしようとした。セツの気が変わらないうちに連絡をした方がいい。

「あ、ちょっと待って……! トウ君。携帯電話借りていいかな? お母さんに連絡しなくちゃ。多分、お母さんの方がそういうのうるさい……」

 それもそうだ。うちの家族とセツが良くても、セツの母親が許可をしなくては意味がない。セツはお母さんと二人暮らしと言っていたし、高校を卒業したと言っても大切な娘が帰ってくるのが遅いのも不安になるだろう。俺は電話をかける前にセツに携帯電話を渡す。

「使い方はわかるよな?」

「うん、さすがにそれは大丈夫だよ……。サラッと失礼なこと言うねトウ君……」

 セツは使い慣れた様子で携帯電話を操作すると、受話口を耳に当てた。

『あ、お母さん。私、セツだよ』

 どうやらセツの母親とは繋がったらしい。セツは俺達に会話の内容が聞かれたくないのか、受話口を耳に当てたまま港の奥に歩いて行った。別に人様の家族の会話でどうこう思うことはないと思うが、そのおかげでセツの会話は全く聞こえない。ただそれでも俺が母さんと話した時間よりは格段に長く、セツは母親と会話をしていた。

 相談した結果許可が出ないのならしょうがない。その時はまた日を改めればいい。

 もうしばらくすると会話を終えたらしいセツが戻ってきた。その足取りはどことなく軽いように見えた。

「ごめんね長くなっちゃって……! お母さんから許可もらった!」

「やったー! じゃあセッちゃん早く一緒に行こー!」

 果帆はセツの周りをぐるぐると走り回りながらセツを急かす。セツはそんな果帆の様子を見て目を細めながら笑っていた。

 セツから携帯電話を受け取ると、再び母さんに電話をかけた。電話はすぐに繋がった。俺は母さんに友達が一人来ることと、イカをたんまり用意してほしいということを伝えた。

「歩きだと三十分くらいだと思うが大丈夫か?」

 俺はセツに訊く。港からウチまでは自転車では十分ぐらいだから徒歩になるとそれなりに時間がかかる。果帆がいるからもっと遅いかもしれない。

「うん、走らなければそれくらい大丈夫だよ」

 セツの体力の無さだ。確かに走るのは無理だろう。セツを自転車の後ろに乗せて走ってもよかったのだが、それは法律違反だ。果帆がいる手前しにくい。

俺と果帆は自転車を手で押しながら、セツと一緒に家に向かい歩を進める。

 その間果帆はセツに家で家族に話すようなまとまりのない話を延々続け、セツは笑顔でうんうんと頷いていた。


 
 果帆とセツの会話を聞きながらだったからか、予想よりも早く家に着いた気がした。俺と果帆は家の隅に自転車を停めると、古めかしい木造建築の一軒家のガラス引き戸を開けて家に入った。

「ただいまー」
「ただいま!」
「お邪魔しまーす……」

 俺と果帆の後に続いてセツが遠慮しがちに家に入る。果帆は玄関隅の靴箱の上に被っていたヘルメットを置いた。ここがいつもの置き場所だ。そして俺達の声が届いたのだろう。母さんが慌てた様子でエプロン姿で玄関まで出迎えに来た。

「はいはーい、どうぞどうぞ……って灯一郎! あんた友達って女の子なの!?」

 母さんは驚いた表情で俺を見る。

「小川です……突然お邪魔してすいません……」

 セツは借りてきた猫のように大人しく、母さんに丁寧にお辞儀をした。

「いや、そうだけど……」

「それならそうと先に言ってよー! それならもっとしっかり準備したのにー! さぁどうぞどうぞ! 小川さんね! 汚い家だけど! あらやだ! ホントかわいい子だねー。灯一郎が家に女の子連れてくるなんて初めてだから嬉しくなっちゃうわー!」

 母さんはそう言うとセツにスリッパを差し出し台所に戻っていく。セツは恐縮したようにスリッパを履くと家の中に入っていった。

「セッちゃん一緒にお絵描きしよー」

 襖を開けて居間に入ると果帆は自由帳と色鉛筆を持ってきてセツを誘う。

「悪いなセツ。ちょっと果帆と遊んでもらっていいか? 俺は着替えてくる」

「そんなもちろんだよ。うん。果帆ちゃん、一緒にお絵描きしようね」

 セツは膝を崩した正座で床に座り、果帆はお尻をペタンと着ける女の子座りで一緒にお絵描きを始める。俺はいつも以上に楽しそうな果帆を見てから二階の自室に向かい、そこで部屋着のジャージに着替えた。

「セッちゃん絵上手だねー! すごいー!」

 居間に戻ると、そこでは変わらずセツと果帆がお絵描きを楽しんでいた。セツの雰囲気が何か違う。そんな違和感を感じたがそれはすぐに解決をした。セツはいつも着けているヘルメットと皮の手袋を外していた。

 セツの少し潰れたショートヘアと両手の全貌を初めて見る。

 脳天に口があるはずもない。手が毒手で浅黒くなっていることもない。

 なんてことない至って普通の頭と手だった。

「トウ君! 見て見てー! セッちゃん絵、すっごく上手ー!」

 どれどれ。果帆の頭の上から上体を折り曲げ、自由帳を覗く。そこにはまるでプロのイラストレーターが描いたような女の子のイラストが描かれていた。

「うわすげぇ……ホントにうまい。これセツが描いたんだよな?」

「いやいやそんな……ただラフで描いただけだから……お恥ずかしい限り……」

「それでも全然うまいよ。すげーな。プロのイラストレーターにもなれるんじゃないか?」

「そんなことないよ……。一時期暇な時に結構描いてただけで私はそんな……」

 セツは謙遜しっぱなしだったが素人の俺から見たらセツのイラストは十分プロレベルに感じた。ただこれは素人の目であって現実はいろいろ厳しい世界なのだろう。俺はそれ以上言うのはやめた。

「ねぇセッちゃん。タヌえもん描ける?」

「タヌえもん? 描けるよー。私タヌえもんは得意だよ」

 セツは果帆のリクエストに応えて女の子のイラストの隣にタヌえもんを描く。自信があるのかセツの手は止まることなくスムーズに動き、あっという間にアニメの絵のまんまのようなタヌえもんが完成した。

「うわーすごいー! タヌえもんだー!」

 果帆は大喜びで歓声を上げる。セツも納得のものが描けたのか満足げの表情でその様子を見守っていた。そして果帆はその後になぜか俺の方を半目で見つめる。

「なんだ果帆? どうかしたのか?」

「トウ君のタヌえもん……下手っぴだったんだねぇ……」

 果帆は自由帳の前の方をパラパラとめくりセツに見せる。

「これトウ君が描いたタヌえもん……セッちゃんと全然違う…‥」

「どれどれ……」

 セツが自由帳を覗くと同時に「ブフゥ!」と隠すことなく噴き出した。そして口に手を当てながら大きく笑う。

「これトウ君描いたの!? これがタヌえもん!? ご、ごめん……笑っちゃう……!」

 うーん、もちろん上手いとは思ってはいないが、自分なりにはそれなりレベルの絵だと思うのだが……。

 しかしどうやらセツのリアクションを見るとどうやら俺の絵はそれなりレベルにも遠く及んでいないようだ。

 セツはまだ俺の描いたタヌえもんを見て笑っている。もしかしたら今までで一番笑っているんじゃないか? 

「あらあら楽しそうね。ご飯できたよー。持っていってー」

 台所の方から母さんの声がした。俺は立ち上がると、料理を取りに台所に向かう。その様子に気付いたセツは口を閉じて、すぐさま立ち上がろうとする。

「あ、いいよいいよ。せっかくの客だ。セツは座ってて大丈夫」

 俺はそんなセツを制してキッチンテーブルに置かれた料理を居間の四角いちゃぶ台に運ぶ。

「いやいや、そんな悪いよ……手伝うよ!」

「それなら果帆と一緒に手を洗った方が助かるかな。果帆! セツと一緒に手を洗ってきな!」

「はーい! セッちゃんこっちだよー!」

 果帆はお絵かきセットを自分から片付け、セツの手を引き洗面所に向かう。

 コイツ、普段は散らかしたままで手も洗おうとしないのに。

 セツは申し訳なさそうにこちらを見ながら果帆に手を引かれて洗面所に向かう。俺はその隙に母さんお手製のイカ刺し、イカゲソ唐揚げ、イカワタ炒め、その他自家栽培の野菜のサラダ、ご飯、味噌汁といったいつもより豪勢な料理をちゃぶ台へと運んだ。

「わーすごい! どれも美味しそう!」

 セツと果帆が洗面所から戻ると、セツはこれらの料理を見て嬉々とした声を上げた。その声色からもお世辞抜きの本心から言っていることは間違いないだろう。

 そして準備ができたところで皆が四角いちゃぶ台を囲んで座った。果帆はセツの隣に座り、俺はセツ、母さんは果帆に向き合う位置だ。

「ごめんねーこのぐらいしか用意できなくて……」

 母さんは申し訳なさそうに言うが、俺がセツを呼ぶと言ってからそう時間は経っていない。元から夕飯を用意していたとは言え、さらにここまで品を揃えられるのは長年の主婦の経験が成すところなのだろう。

「いえいえ! ありがとうございます! 全部美味しそうです! 突然お邪魔したのにここまでしてもらってすいません……」

「小川さんは礼儀正しいのね〜。嬉しいわ〜。いいのよ全然! この時期はイカだけはいつでも家にあるから! あとサラダとお味噌汁に入ってるのはうちで取れた野菜ね! さ、温かいうちに食べましょ! いただきまーす」

「いただきます」
「いただきまーす!」

 母さんに合わせて、俺と果帆は合掌をし声を合わせる。そのまま箸を持って飯を食べようと思った時、目の前のセツに視線が移る。なぜかセツは合掌をしたまま食事に手をつけようとしない。

「……セツ?」

 セツに声をかけようとしたその時、セツが突然立ち上がった。

「ちょっとごめんなさい! トイレに! 皆さんは先に食べてもらって大丈夫です!」

 セツは俯いたままそう言うと、襖を開けて廊下に出てしまった。

「……セッちゃん?」

 果帆がセツが先ほど出ていった襖を心配そうに見つめる。母さんは「お腹でも痛いのかしら?」と首を傾げていた。セツの体調が心配になった。またトイレだったら場所はわかるだろうか?

 俺は母さんと目を合わせると襖を開けてセツの後を追う。廊下を出るとなんてことはなかった。セツは俺に背を向ける形でそこに立っていた。

 俺はセツの背後に近づき「大丈夫か?」と声をかけようとした。

 しかしそれはできなかった。セツは俺が近づいても気配に察することなく、合掌をし顔を伏せながら何か呪文のような言葉をひたすら詠唱をしていた。

「今日ある日の全てに感謝します……永遠なるエンデハホルム様の賜物に……この身を捧げ……カンシュプールの鐘による導きは……世界を解氷し……この祝詞と共に……」

 俺はそのまま後ろ向きにじり、じり、とすり足で歩く。意図的だったのか、たじろいだのかは自分でもわからない。そしてゆっくりと再び襖を開けると、そのまま先ほどまで自分が座っていた座布団に腰を下ろした。

「小川さん大丈夫?」

 母さんが訊いてくる。

「うん。トイレに案内した。緊張でお腹を少し壊したみたいだ。すぐ戻るから先に食べててだって」

「あらあら。そんな緊張しないでいいのに。じゃあ先に食べていましょうか」

 咄嗟に嘘をついてしまった。なぜだかわからないが、俺が見たことは言わない方が良いと思った。

 母さんと俺と果帆は改めて「いただきます」と手を合わせると、先に飯を食べる。少し時間は経ったがまだ味噌汁もおかずも温かかった。

 その後すぐにセツは襖を開けて再び居間に入ってきた。

「すいません……。お行儀の悪い真似を……」

「いいのよいいのよ小川さん。体調は大丈夫かしら? 無理はしないでね。お味噌汁冷めてたら言ってね。温め直すから」

「いえいえそんな大丈夫です……いただきます」

 セツはそう言って手を合わせると、箸を持ち味噌汁を啜った。その後に並べられたイカのフルコースにも手をつけていく。

「わぁすごい! どれも美味しいです! 歯応えが全然違う! 本当に美味しい!」

「ねぇそうでしょー! 全部お父さんが獲ったイカなんだよ!」

 果帆はまるで自分が獲ったイカのように自慢げに言う。満面の笑みで料理を頬張るセツを見て、俺は先ほどの不穏な様子で呪文を唱えるセツはひとまず忘れることにした。

「小川さん、まだまだあるからたくさん食べてね〜。あ、塩辛! 小川さん塩辛食べられるかしら? 作ったのがあるんだけど」

「あ、塩辛……食べたことないです……頂いてもいいですか?」

 母さんはそれを聞くと、スキップでもしそうな勢いで台所に向かう。よほど俺と同年代の女子の客が嬉しいのだろう。正確にはセツは俺の二学年上になるのだが。

 それにしてもそんな女子に酒のつまみのイメージが強い塩辛を勧める母親というのも一体どうなんだ……。

 母さんは小鉢に塩辛を乗せてセツの前に置く。細かく切ったイカが赤茶色がかった漬け汁に漬けられているのはお世辞にも見た目が良いとは言えない。セツは慎重気味に塩辛を箸で取るとゆっくりと口に運ぶ。

「わ、すごい! 塩辛初めて食べましたけどこれ美味しいです! ご飯に合います!」

 セツは続けてパクパクと塩辛を口に運ぶと、その後にご飯を合わせて食べる。どうやら塩辛がかなり気に入ったようだ。その様子を母さんは充実した表情で眺める。

「ねぇトウ君、塩辛って一体何なの?」

「イカの身とワタを一緒に塩漬けにして発酵させたもの。ご飯にも合うし、パスタにしても美味しいぞ。あとは呑兵衛の主食だな」

「あら、私呑兵衛寄りの味覚なのかも」

 食卓に笑いが起こる。

 その後も俺達は会話が途切れぬまま食事を続けた。

 母さんはセツの制服について訊いていたが、セツが既に高校を卒業していて単に好きで着ていると知ると驚くと同時に羨ましいと言い、それ以上は訊くことはなかった。母さんにとって現時点のセツを見ての疑問はそれだけだったのだろう。

 果帆は学校の出来事をセツに話した。俺や母さんに比べてセツが真面目に聞いてくれるものだから、いつも以上に機嫌よく学校であった出来事の話を長々としていた。俺なら途中で絶対に飽きてしまうのにセツは最後まで微笑みながら果帆の話を聞いていた。

 しばらくして食事を終えると俺達は合掌をし「ごちそうさまでした」と声を合わせた。この際セツは中座をすることはなかった。

 夕飯を食べ終え団欒の時間を過ごしているうちに時刻は二十時を過ぎていた。窓の外はもう夜の帷が下りており、セツと一緒が楽しくて体力を使ったのか果帆は居間で寝てしまっていた。

「あ、じゃあそろそろお(いとま)するね……」

「……そうだな」

 セツは腕時計を見ると立ち上がって俺に言う。さすがにこれ以上はセツの母親も心配するだろう。俺はセツと同様に立ち上がると台所にいる母さんに声かける。

「セツ帰るって」

「あ、そうなの? ちょっと待って〜」

 母さんは台所から急ぎ足で出てくると、セツに何かが入ったビニール袋を持たせた。

「はいこれ。さっきの塩辛。瓶詰めになってるから。灯一郎も言ってたけど、パスタにしても美味しいわよ。家でも食べてみてね」

「わぁ嬉しい! ありがとうございます!」

 十代女子の手土産に塩辛を渡す母親とそれを喜ぶ当人というどうかと思うが、当人が喜んでいるのなら何よりだ。

「灯一郎、暗いから小川さん送っていきなさい」

「わかってるよ」

「え、いやいや! 悪いよ!」

 母さんに言われるわけでなくセツを送るつもりでいたが、それと同時にセツが今までのパターンから断ることは予想できた。たださすがにこの時間帯に年頃の女子を一人で帰らせるのも収まりが悪い。

 俺はそっとセツに小声で話す。

「港までだ。それだったら良いだろう」

「あ、うん……」

 セツと共に玄関に向かう。セツはそこでヘルメットと皮の手袋、そして右手にはイカの塩辛が入ったビニール袋を装備する。

「今日は本当にありがとうございました。ご飯美味しかったです」

 見送りに立つ母さんにセツは丁寧に頭を下げた。

「いいのよ〜。私も楽しかったわ。またいつでも遊びにきてね」

 玄関の引き戸を開けてセツと一緒に外に出た。九月も後半の夜、もう真夏のような熱帯夜は過ぎ去っていた。夜は秋の涼しさを感じると共に、鈴虫がどこかからリーンリーンと羽を擦り合わし、心地よく空気に溶け込む音色を奏でている。

 俺は暗がりを進むと家の隅に置いてある自転車を外に出す。この時間になれば周りには人もいないし車も少なくなる。だったら大丈夫だろう。

「セツ、後ろに乗れ」

 俺は自転車のサドルにまたがりながらセツに言う。

「え? あ、うん……」

 セツは自転車の荷台に横向きで座ると、腰に手を回し体を密着させる。それを確認すると、俺はいつもより脚に力を入れて自転車で港に向けて走り出した。

「トウ君、いつもありがとう」

 港に向かう道中、セツは自転車の後ろから小さな声で語りかけてきた。

「ん? なんだ突然」

 夜の海沿いの道を走る。周りが静かだからかいつもよりも波の音が近く感じる。

「だってこんなよくわかんない女の相手させちゃってさ」

「別に。俺が勝手にやってることだ」

「果帆ちゃんもおばさんもみんな優しいね」

「いつもは父さんもいるけど基本あんな感じだな」

「羨ましいよ」

「……セツだってお母さんがいるんだろ? 折り合いでも悪いのか?」

「うぅん、いっつも私のこと心配してくれる」

「だったら良いじゃないか」

「うん、贅沢言っちゃいけないね。(ばち)が当たっちゃう」

 ペダルを漕ぎ続ける。車は通らない。世界に俺とセツだけが取り残されたように感じた。

 俺とセツは自転車の前と後ろで言葉のない会話と短い会話を繰り返しながら進んでいく。港へ続く道路の交差点にやってきた。この交差点の右手に曲がり緩い坂道を下ればいつもの港だ。

 この道を下ればセツとお別れだ。だが俺はそれが無性に嫌だった。明日になればまたセツに会える。別れなど一日にも満たない。それでもに俺の鳩尾(みぞおち)はほんのりと暖かくなり、セツと一緒にいる時間を生理的欲求のようにさらに求めていた。

 それに時刻は二十時を過ぎている。

 今ならあそこに登ればあれが見えるかもしれない。

「なぁセツ少しだけ時間大丈夫か?」

 港へと続く道に進む前に俺はセツに訊いた。

「え? ……うん。大丈夫……」

「だったらちょっと付き合ってくれ。坂を登るからしっかり掴まれよ!」

「え? え? え? わ、わぁ!」

 俺はハンドルを左に曲げると港に続く道とは反対の登り坂を立ち漕ぎで進む。腰に回したセツの手がさらにギュッと強くなり、より体に強く密着した。ただどちらかといえば俺が立ち漕ぎをしてしまっているからか、セツは俺に必死でしがみついている感じだった。緩い坂道とは言えさすがに二人乗りでの登りはきつい。それでも俺は懸命に脚に力を入れて、ペダルを踏み込む。

「だ、大丈夫?」

 後ろからセツが心配する声が聞こえてくるが答える余裕はなかった。なんとか己の根性とギアを調節しながら登り道を進んでいく。十分ほど登り続けただろうか、既に脚の筋肉は硬直していて息を吸うたびに肺が痛かった。それでもなんとか目的地には辿り着いた。

 俺は自転車を降りるとその場でへたり込んで激しく息切れを起こす。セツはそんな俺の様子を見ると、側に駆け寄り俺の背中をさすった。

「お腹で呼吸をすると楽だよ」

 セツの指示通りに腹に力を入れて呼吸をすることで大分呼吸が楽になった。今日の港の時もそうだったがセツはやたらとこの手の対応が上手いと思った。

 自転車を停めた道路の横には、山の斜面に沿ってコンクリートの階段が作られていた。階段には街灯はない。階段の先には、イカに墨を吐かれた水槽のような闇がただ広がっていた。

「この階段、そんな高くないけど登れそうか?」

「う、うん……。むしろトウ君が大丈夫って感じだけど……」

 ここまで来てセツに心配されるのも情けない。もっと体力をつけるようにしなければ。携帯電話のライト機能で足元を照らしながら俺とセツは一緒にゆっくりと階段を登る。大体百段ほどの階段であり、普通に登れば五分ほどで登ることができる。それでもセツは後半には軽く息を切らしており、途中で足を止め、呼吸を整えながらなんとか登り切った。

「うわああ! すごい!」

 セツは階段を登り切った途端に驚きと感悦が混じった声を上げた。

 セツの視線の先には点々と光る町に加えて夜空に輝く無数の星、そして町を飲み込んでしまうように広がっている海が広がっていた。

「ここは低山の展望台なんだけど、夜になるとそれなりに良い景色が見えるんだ。わざわざ時間もらって疲れさせてこんな所で申し訳ないけど……」

 展望台奥の防護柵に手を乗せ、前のめりに景色を見つめるセツに俺は言った。

「うぅん! こんな場所あるなんて知らなかったよ! しかもすっごく綺麗! ありがとう!」

 どうやらセツは喜んでくれたらしい。展望台には街灯が一つだけあり、滲むインクのようにぼんやりと夜を照らしていた。その街灯の光に映えるセツの笑顔を見れただけでここまで来た甲斐があったと思えた。

「夏の大三角もしっかり見える! 九月なのに見えるんだねぇ。えぇっと、名前何だっけ……?」

「あそこに見えるのがデネブ、あれがベガ、あれがアルタイル。ベガは織姫でアルタイルは彦星のことだな。夏の大三角は九月の方が実はよく見えるんだ」

 俺は夜空を指差しながら解説をする。

「あーそっかぁ! さすがトウ君! 物知りだね」

「小学生で習うだろ……」

「習うけどそんなこと覚えていないよ! 普通!」

 セツは眉をひそめ頬を膨らませる。ただその仕草に反して声色は楽しそうなままだった。

「ねぇあれって何? 星が反射してるみたい……綺麗……」

 セツは展望台から海に向かって指を差した。指の先には水平線上に並ぶ、星とは趣が違う強く眩しい光がゆらゆらと揺れていた。

「あれ、イカ釣り漁船」

「え?」

「セツが星が反射してるみたいで綺麗っていったやつ、イカ釣り漁船」

 セツが目を丸くし、キョトンとした顔でこちらを見てきた。そんなセツの顔を俺は真顔で見つめ返しながら言う。

「あの……綺麗な光……イカ釣り漁船なの?」

「そう」

「…………ブフッ!」

 数秒の沈黙の後、俺とセツは同時に噴き出し声を上げて笑った。夜の屋外だ。こんな大声で笑っていたら怪しいと思われたり、心霊現象だと思われたりするかもしれない。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。

 俺とセツは人目を気にせず腹を抱えて笑い合った。

「えー! 私めちゃくちゃロマンチックなこと言った感じなのに恥ずかしい!」

「あの光が俺の名前の由来の集魚灯だよ。ロマンチックだろ?」

「やめて! 思い出させないで!」

「きっとあの光の中に父さんもいるな」

「そんなお父さんを月にいるウサギみたいに言わないで!」

 俺はセツと一緒にいるのが楽しかった。セツといる時間が何よりも愛おしかった。俺とセツはその後も意味などありもしないくだらない会話を続けた後、展望台を後にした。

 行きとは違って力を入れる必要のない下り坂を、セツを自転車の後ろに乗せてゆっくりと下った。自転車は安定をしているのに俺の腰に回すセツの手は、登り坂の時よりも力が入っているような気がした。

「トウ君、今日はありがとう。また明日ね」

「あぁまた明日。気をつけて帰れよ」

 港までセツを送ると、セツとはそこで別れた。往路とは違い軽くなったペダルは、軽やかに俺の体を前へ前へと運んだ。波の音、自転車のタイヤが回る音、鈴虫の羽音、当たり前にある町の音がどれもこれも心地よく耳に入ってきた。

 俺はそんな自然が織り成すBGMの中で既に明日のことを考えていた。


 早くセツに、また会いたかった。