夏休みが終わって数日が過ぎていた。暦の上では秋になる九月ではあるが、熱気はまだまだ俺達を解放してくれない。朝っぱらから雲一つない快晴、いつまでも居座る暑さに嫌気が差しながら自転車で今日も学校に向かう。

 やる気があるわけでもない。

 目的があるわけでもない。

 ただ高校には行って当然、そんな社会のレールに便乗をして、学校に行くだけだった。

 自転車で海沿いの道を走る。陽射しは厳しいが、それでも海から吹く柔らかな潮風は気持ちよかった。坂道を下る。自転車はグングンとスピードを上げ、シャーとタイヤが軽快に回る音が響く。

 ーー佐伯、放課後職員室に来い。

 俺は潮風に当たりながら昨日のことを思い返していた。



 命令口調の担任の山田(やまだ)の声。断れる感じはしなかった。まぁ話される内容も大体検討がついている。俺は言われた通り放課後に職員室に向かった。

「失礼します」

 失礼だとは微塵にも思わなかった。ただ職員室に入るためだけの合言葉。それを唱え職員室の引き戸を音を立てて雑に開ける。教師達は各々のデスクに向かって忙しそうに仕事をしていた。その中で山田の姿はすぐに見つかった。

 デスクに着いている山田の元に寄り、その横に立つ。山田のデスクの上に置かれたプリントが自然と目に入った。

 やっぱりか。

 山田は俺の存在に気付かないのかいつまでもプリントとにらめっこをしていた。呼び出しておいてその態度はないんじゃないか。

「山田先生」

 山田に声をかけると、山田はすぐに顔を上げ俺の方を見た。

「来たか……」

 まるで借金取りが来たかのように歓迎の素振り一つ見せずに山田が呟くと、そばに置いてあったパイプ椅子を広げ、俺に座るように促した。

「佐伯よ……この進路希望は何なんだ?」

 山田はそう言うと、デスクの上に置かれたプリント、『佐伯灯一郎(さえきとういちろう)』という俺の名前以外白紙の進路希望用紙をトントンと指で叩いた。

「いや……そのままの意味です」

「進学か、就職かも決めてないのか?」

「決めてないです」

「やりたいことはないのか?」

「特にないです」

 山田は脱力と同時に項垂れる。その姿からは中年の哀愁が感じられた。しかし、俺としては全て質問に正直に答えただけだ。それなのに勝手に落胆をされても困る。むしろ正直に話して偉いと褒められても良いぐらいだ。

「佐伯……、俺も教師生活はそれなりに長い。不良生徒ともそれなりにぶつかってきた自負がある」

 相撲でか? 山田の中年太りした腹を見て心の中で思う。山田山。前から読んでも後ろから読んでも山田山。

「確かにそういう不良生徒で進路が決まっていない、興味がない。と言ってくるやつらはいた……。そういうのはもうしょうがないんだ。若いままの人生がずっと続くと思っている。これからも好き勝手やっても社会が多めに見てくれると思っている。ただ、お前は違うだろう?」

 山田は俺の肩を勢いよく掴んで言う。

「学年テストでも成績はトップ。全国模試でもトップクラスの成績じゃないか。狙おうと思えば東大だって十分に狙える。授業態度も悪くない。まぁお前には簡単過ぎるのかもしれないが。なりたい職業にだって就くことができる。お前、本当にそのままでいいのか……?」

「そう言われましても……」

 俺は眉をひそめながら返す。

「学者はどうだ?」

「興味がありません」

「医者はどうだ?」

「興味がありません。僕には人の命は重すぎます」

「じゃあこのまま何も決めずに高校卒業するのか?」

「やりたいことは考えています。ただ何も決まらなかったその時は家業を継ごうかと思います。僕は長男ですし、家業自体は好きなので」

 山田は俺の肩から手を離すと、その手を膝に置きこれ見よがしに嘆息をついた。

「……まぁそれもお前の人生だ。それ以上は俺は何も言えない。ただ何かやりたいことがあればすぐに俺に言ってくれ。協力はする」

 山田に会釈をすると、そのまま「失礼しました」と同じく職員室から出るためだけの合言葉を言い、一礼をしてから職員室を出た。

 失礼したのはどっちだ。俺の人生だ。他人にとやかく言われる筋合いはない。



 記憶を断ち切るとハンドルを左に切り、海沿いの道から外れた小路に入った。こっちからの方が近道だ。小路に入ると周囲は古い民家に囲まれて海はもう見えない。この景色だけだったら都会のちょっとした路地裏と言われても騙せそうだ。木塀の上には猫が香箱座りをして俺の行方を不思議そうに見守っていた。そのまま自転車で進むとすぐに高校の裏手に着いた。

 この町で唯一の高校。田舎の特権を生かしたやたら広い敷地内と大きな校舎。

 町内の中学生は大抵そのままこの高校に進学をするので、受験戦争などありもしない。のどかで牧歌的といえばそれまでなのだが、変わり映えのしない毎日は早くも自分が狭い社会の歯車の一員に過ぎないことを強制的に理解させられる。

 裏手から学校に入ると駐輪場は目の前だ。駐輪場に自転車を停めると、二年A組の下駄箱に靴底がだいぶ擦り減ったスニーカーをしまう。そしてスニーカーとは対照的に最近新しく買った上履きを取り出すと、まだ硬さが残るゴム底の感触を確かめながら教室に向かった。

「灯一郎〜進路希望何て書いたんだよ〜」

 教室に入るやいなや、クラスメイトのヤスこと池田泰明(いけだやすあき)が親しげに話しかけてきた。

 小柄で素朴な顔立ちをしているのだが、髪の毛はオシャレのつもりでツンツンに立てている。ただその髪型は逆に田舎者らしさを助長させているのではないかと俺は毎度思う。

 ヤスとはもう幼稚園からの付き合いになる。

 幼小中高と同じなのは何かの縁なのかもしれないが、残念ながらこの町ではよくあることだ。

 女好きで中学の頃から気になる女子に声をかけて告白をしては邪険、ぞんざい、侮蔑な態度であしらわれる。普通の男なら立ち直れないであろう悪態をつかれても、鋼のメンタルですぐに切り替えては勇猛果敢に次のターゲットにぶつかっていく。

 それがヤスという男だ。

 しかし、最近俺はそれを鋼のメンタルというよりはただの鳥頭と言った方が良いのではないかと思っている。そう思うとヤスの頭はなんだか鶏のとさかのように見えてくるから不思議だ。

「白紙」

「やっぱりな! 何でだよ! 灯一郎めちゃくちゃ頭いいじゃん! だったらやっぱり東京でしょ! 東京の大学でしょ!」

「まぁそうなのかなぁ。ヤスは?」

「東京でビッグになるって書いたら破り捨てられた」

「当たり前だろ……」

 窓際後ろから二番目の自分の机にリュックを下ろし席に着くと、ため息をつきながら俺はヤスに言った。ヤスにはひどく呆れたが、もしかしたら山田も同じ気持ちだったのかも知れない。そう思うと少しだけ山田に対して申し訳なさを感じた。

 ただ俺の場合には進路が決まっていないだけでヤスのような荒唐無稽の物とはわけが違う。なのでどちらかと言えば俺の方がマシな部類に入るはずだ。

「何でよ! 俺ならなれるね! 東京でビッグになって大金持ちだ!」

「どうやってそのビッグとやらになるんだ?」

「さぁ。原宿辺りを歩いてたらスカウトされるんじゃね?」

 上京したての若者を狙った詐欺が流行っているというニュースを見たことを俺は思い出した。そうか。こういう奴が甘い言葉に騙されて詐欺に引っかかるんだな。

「こんな田舎なんて出て行ってやる!」

 伊豆半島の隅っこ、それが俺達が住んでいる町。海沿いの自然豊かな漁師町と言えば聞こえばいいが、自然と温泉ぐらいしかないと言うのが本当の所だ。人はどんどんいなくなり過疎化が進んでいく一方で、なぜかイカは申し合わせたように毎年大量にやってくる。この呑気なイカ達を根こそぎ捕まえるイカ漁こそがこの町の屋台骨であり、この町の経済活動の大半を担っている。

 もし異常気象や突然変異でイカが獲れなくなったらどうなるのだろう?

 俺は考えてみる。

 多分この町は一瞬にして失業者が溢れるディストピアになってしまうに違いない。町の財政は破綻し、今俺が通っている公立高校ももしかしたら閉鎖だ。いわば俺達はイカに生活を握られている運命共同体と言っても過言ではない。

 そんなイカとの運命共同体もとい、田舎に嫌気がさして、高校卒業後はこの町を出ていく若者が後を絶たない。

 近所に住んでいてよく遊んでくれたお兄ちゃん、お姉ちゃんはみんな町を出て行った。そして極々僅かな若者が家業を継ぐためや、都会へのアンチテーゼでこの町に残るだけだ。

 その結果日本全体で問題となっている超少子高齢化の縮図のような土地が生まれてしまうというわけだ。

「そういえば港の近くのお屋敷の空き家、人が入ったの知ってる?」

 ヤスは声高らかに田舎との決別宣言をすると満足をしたのか、話題を変えて俺に訊く。

 港から徒歩十分ほどの距離にある大きな西洋風の屋敷を思い出す。

 以前はそこには人の好さそうな老夫婦が長く住んでいた。温泉好きが高じて温泉が引いてある家を建ててしまったらしい。だが、体を悪くしたのと家が広過ぎるということで、数年前に退去をしそこから長らく人が入っておらず空き家になっていた。

「そうなのか。それは知らなかった」

 ただでさえ人が出ていく一方のこの土地だ。新しく人がやってくるのは珍しい。そしてその情報がすぐに回るのも田舎ゆえの性なのだろう。

「灯一郎も知らないのか。まぁ人が新しく入ったということ以外何にもわからないんだよね」

「静かに暮らしたい人だっているだろう。やたらに詮索しようとするのも田舎者の悪い癖だぞ」

「マジ!? じゃあやめる! もうしない!」

 ヤスはよほど田舎者のレッテルが嫌なのか、すぐさま詮索するのをやめた。

「灯一郎は学校終わったら今日も行くの?」

「まぁな。それしかやることもないしな。今日は潮もいい感じだ。ヤスも来るか?」

「行かん! 今日の放課後は図書室に行く!」

 ヤスは握り拳を突き上げると、大きな声で叫んだ。

 ヤスが図書室? 自分から?

 そんなことは天変地異が起こってもあり得ないはずだ。

 この広い学校の中でも最もヤスという人間から遠い存在なのが図書室だ。ヤスの場合、図書室と女子トイレだったら、まだ間違えて女子トイレに入る可能性の方が高い。

「なんでヤスが図書室に? 読みたい本でもあるのか?」

「んなわけあるか! 図書委員でかわいい子がいるってのを聞いたんだ! いいねぇ文学少女! 俺にぴったりだ! せっかくだからお近づきになろうと思ってね」

 案の定というか、もはやこの可能性を一番に考えられなかった自分の見識の無さが恥ずかしかった。ヤスに言い寄られる文学少女ちゃんが少し気の毒に思えたがそればっかりはしょうがない。適当にあしらっておけば大丈夫だから。

 ヤスはアホだが害は無い。

 キーンコーンカーンコーン。始業を告げるチャイムが鳴る。クラスメイト達は急いで席に着く。担任の山田が今日も教室に入ってくる。日直が号令をかける。当たり前の日常が始まる。


 
 授業が終わるとそそくさと学校を後にした。部活動には所属していないので他の生徒に比べて一足早い下校だ。

 もともと小さな高校であり生徒数も少ないので部活動は盛んではない。それゆえに基本的には部員の貸し借りによって成り立つ運動部と、一部の文化部か委員会。そして部活動に所属をしていない直帰組でこの高校は成り立っている。

 ヤスも部活に所属をしていないので、今頃文学少女ちゃんの到着を見計らって図書室に突入しているのだろうか。

 自転車に乗ると、ペダルにかけた足に力を入れる。スムーズに加速をしていく自転車は軽やかに俺の体を運んでいく。往路を逆走し、今度は登り坂を立ち漕ぎで登る。そして平坦な道に出ると、家へと続く道とは違う道に入って坂を下っていく。シャーと再び小気味良い音が自転車から響くと、そのまま目的地である釣具屋『おざわ』に到着した。

 おざわは一軒家の一階部分を改装した小さな釣具屋だ。古い店ではあるらしいが、マリンブルーを基調とした店の外観はオシャレなカフェのようで釣具屋らしからぬ小綺麗さがある。それに加えて十分な品揃えと立地の良さ、店主の人の良さで俺以外にも常連客は多いと聞いた。

 自転車を滑らせ『釣り餌』と書かれたのぼりの横に停めると、ガラス戸の自動ドアの前に立つ。自動ドアが静かな駆動音と共に開くと、入店を知らせる軽やかなメロディが店内に流れ、すぐに店の奥の居住スペースから中年の眼鏡をかけた店主ががのんびりと現れた。

「おー佐伯君か。今日も行くかい?」

 店主はサンダルを履き店内に入ると、親しげに話しかけてくる。店主は生粋の地元人であり、生まれも育ちもこの田舎町で俺の高校の先輩にも当たる。釣りの趣味が高じて地元に残り店まで始めてしまったものだからそれはもう天職なのだろう。お子さんは既に自立をしているようで仕事にプライベートに釣りしかしていないとこの前笑って話してくれた。

「うん。おっちゃん、今日はどんな感じ?」

 俺は店主のことを『おっちゃん』と呼ぶ。おじさんの親しみを込めた言い方、そして店主の名字が『小沢』だからおっちゃん。

 まぁもともとおっちゃんも学生時代からのあだ名がおっちゃんだったらしく、むしろこっちの方が違和感がないらしい。

「大潮これから下げ七分。ベストタイミングだね。朝にはベイトも湾内に入ってきてたみたいだし大物も狙えると思うよ。大物狙いいっちゃう?」

「うーん、いやいいや。いつものちょい投げ五目でいい」

 おっちゃんは俺の注文を聞くとお馴染みの柔和な笑顔を浮かべる。

「そうだね。間違いないね」

 そう言うとおっちゃんは店の隅に隠すように置かれた俺が愛用する竿やタックルボックス、腰巻型のライフジャケットなどの釣具一式を手渡してきた。

「ありがとう。いつも悪いね」

「いいよいいよ。常連さんへのサービスだから。イソメは赤? 青?」

「青。三百円分で大丈夫」

 おっちゃんは今度は店の隅にある水槽に向かうと、水槽からウネウネとうごめくイソメを慣れた手つきで菜箸で取った。そしてそれをそのまま小さなプラスチックパックに入れる。

「釣れるといいね」

「何かしらは釣れるさ。それに釣れなくてもいい」

「佐伯君らしいね。ライフジャケット忘れずにね。はいどうぞ」

 おっちゃんのゴツゴツとした手の平からイソメが入ったプラスチックパックを受け取ると、代わりに小銭を渡した。そしておっちゃんに挨拶をしてそのまま店を出ると、俺は歩いて港に向かった。

 おっちゃんの店では俺の釣具一式を預かってもらっている。本来はそのようなサービスはないのだが、毎回一度家に帰って道具一式を持ってきていた俺を見兼ねておっちゃんがサービスを提案をしてくれた。俺にとってそれは渡りに船の提案であり、このおかげで学校帰りに直接釣りに行けるようになったのはとてもありがたかった。

 おっちゃんの店から港までは徒歩五分ほどの距離だ。コンビニ以上に港があるこの町の港の中でも小さめの港であり、港内を進み開けた海側向かうと海原に向かって堤防が迫り出している。小さめの港だからこそ人気も少なく、ゆっくり釣りをするにはうってつけの場所だ。

 学校に向かう時の潮風よりも風がもっと近くに感じる。風なのに質感があるように、鼻の下に少しざらつきを感じた。ザザーザザードプンと海面の小さなうねりが堤防を叩く音がする。

 腰巻式のライフジャケットを着けた後、ロープで繋がれた水汲みバケツを堤防から海面に落とした。バケツがくるんと回転をして海水をすくった瞬間にずしりと腕に重さを感じ、それを引き上げると手の平にロープが食い込むのが少し痛い。

 竿に仕掛けを組むと、針に餌であるイソメをつけるために、プラスチックパックからイソメを一匹摘み取った。そして暴れるイソメの体に針を食い込ませ、体内に針を貫通させる。

 針を刺したイソメからはヘドロのような青緑色の体液が流れ出たが何も感じることはない。

 釣りという魚の生命で遊ぶ趣味をしているのだ。生き餌に対して何か感情を持つこと自体が失礼なように感じるからだ。

 リールのベールを起こすと釣り糸に人差し指をかけ、竿を振ると同時に人差し指を離す。イソメがついた仕掛けは勢いよく海に向かって飛んでいき、海面に落ちるとすぐに竿から仕掛けが海底に着く感触が伝わってきた。

 ベールを下げてまずは糸ふけを取る。ズリズリとナマケモノが地面を這うような速さでリールのハンドルを回す。すぐにチョンチョンというアタリがあった。

 少し待つ。

 またゆっくりとリールを回す。今度はガクンと大きく引っ張られるような当たりがあった。

 かかった。

 子供が期待に胸を膨らまして回すガラガラ抽選機のように素早くリールのハンドルを回す。魚影が見えてきた。一五センチほどの良型の美しいシロギスだった。

 シロギスの最盛期は七月から八月であり、これからシーズンは下り坂だ。しかしそれでも良型のシロギスは浅瀬に残っており、九月の堤防からでも十分に狙うことができる。幸先が良い。釣ったシロギスの口から針を外すと、先ほど海水を入れた水汲みバケツにシロギスを放す。

 確かな高揚感を感じる。


 これだから釣りはやめられない。


 
 学校が終わると自転車で港に向かい、大体十六時から十七時三十分の一時間半ほど釣りをするのが日課になっていた。時間としては決して長くはないけど、それでも平日にほぼ毎日釣りに行けるので十分だ。時々冷やかしでヤスもついてくるが、ヤスが釣りをすることはない。昔一度一緒にやってみた時も、「釣りは性に合わん!」と言ってすぐに竿を投げ出し、港にいる猫を追いかけ回していた。

 まぁこればっかりはしょうがない。

 釣りが好きな俺でも釣りがとことん合わない人がいるのは理解できる。待つのが基本の釣りではヤスのようなタイプがハマるわけがない。

 幸先の良い一投目から対照的に、二投目からは当たりがさっぱりなくなってしまったので、俺は堤防の地面に腰を下ろしあぐらをかいた。これをやると母さんに怒られるが気にはしなかった。

 制服のズボンの生地を通して、アスファルトと小石のジャリジャリとした感覚が肌に伝わる。

 別に釣れなくてもいい。これは強がりでもなんでもない。先ほどシロギスを釣った際の高揚感は既になくなり、今度は心が凪のように落ち着いていた。

 後方の地面に手をつくと、体を仰け反らして空を見上げる。

 手の平にはズボン越し以上にジャリジャリとした感覚が伝わる。

 空には海鳥が四羽、暇を持て余すように自由に青空の中を飛んでいた。

 なり続けるザザーザザーという波の音に、キーッという海鳥の鳴き声が混ざる。

 目を瞑ると自分が生態系に取り込まれていくように感じた。

「ねぇねぇ、何釣ってんの?」

 突然後ろから声をかけられた。高くか細い女の声。この時点で既に珍しい。釣り場で話しかけれることは時折あるが、大抵は釣果を聞くおじさんの低い声だ。

 座ったまま振り返る。そこには両膝に手をつき、かがみこんで俺の目を興味津々といった様子で見つめてくる女がいた。

「聞いてた? ねぇ何釣ってんの?」

 女は黒髪のショートへアで、目はくるみのように丸く少し垂れ下がっていた。小さな鼻と口は均整が取れており小動物のようなかわいさがある。服装は半袖のスクールシャツにベージュのサマーベスト、そして紺色のギンガムチェックのミニスカートを履いており、随分オシャレな制服だ。

 俺の高校の女子の制服は古風なセーラー服のため、少なくともうちの高校の生徒ではない。

「いや特に何か狙ってるわけじゃない。釣れるのを釣ってるだけ……」

「ふーん、そうなんだー」

 不思議そうに人差し指を頬に当てる女だが、俺にはその姿こそが不思議だった。

 女の容姿は確かに整っていると言えるだろう。

 しかしなぜか頭には黄色いヘルメットを被っており、手には分厚い皮の手袋をしていた。オシャレな制服とのアンバランスさはギャップを生み出すのではなく、ただただ奇妙な姿だった。

 女子のファッションにはとことん疎いが今はヘルメットと季節外れの手袋がトレンドになっているのか? 

「ここにはよく来るの?」

 女は矢継ぎ早に俺に質問を浴びせる。

「まぁ、用事がなければ平日は毎日」

「わお! それはいいね。毎日釣り三昧だ! 美味しいお魚食べられるね!」

 女はそういうと、胸の前で小さく拍手をした。ただ皮の手袋のせいでパスパスと気の抜けた音がする。女は視線を水汲みバケツに移すと、中を覗き込む。

「これは何ていうお魚?」

「シロギス……」

「知ってる! 天ぷらすると美味しいやつ! すごいねぇ! そんなの釣れるんだ! どうやって釣ったの?」

 やれば誰でもできるのですごくはないのだが……。まぁお褒めの言葉はありがたく頂いておくことにしよう。俺は立ち上がってイソメが入ったプラスチックパックを女に差し出す。

「コイツを餌にして後は待つだけだよ」

 どれどれ……と子供の工作を見る母親のように、女は差し出したプラスチックパックを一瞥(いちべつ)する。

 その瞬間、血の気の引いた顔になり「ぎょええええええ」と叫び声を上げると、罠を見つけた忍者のように三メートルほど飛び上がりながら後退をした。

「ミ、ミミ……、ミミズ……。生きてて……うねうねしてるミミズ……」

「そりゃ生き餌なんだから生きてるだろ。それにミミズじゃなくてイソメな。足だって生えてる」

 俺はプラスチックパックに入ったイソメを一匹掴み、女に近づきながら見せた。

「ひいいいいいい見せないでええええ」

 女は今度は堤防の奥に逃げる。なんだコイツは。どうやって釣ったかを聞いてきたのはそっちじゃないか。ただそのリアクションはまるで妹の果帆(かほ)のようで面白かった。

 せっかくだからイソメを持って女を追いかける。

 女は逃げる。

 堤防で突然始まった鬼ごっこだった。

 追いかける。逃げる。追いかける。逃げる。

 ただすぐに女は激しく息を切らして俺に捕まってしまった。女とはいえどんだけ体力がないんだ……。

「お願い……やめて……そんなの……見せないで……」

 女は息を切らして涙目になりながら懇願をしてくる。動き回って体温が上がったのか頬も紅潮している。その表情に俺はドキリとしながらも、とてつもない罪悪感を覚えたのですぐに手に持っているイソメを海に捨てた。

「はい、これで大丈夫だ」

 両手の平を広げ、そのまま万歳する。なぜか追い詰めたはずの俺がいつの間に降参のポーズを取っていた。

 その姿を確かめた女は恐る恐る近づいてくる。重心は後方に置いていつでも逃げられる体勢。まるでプロ野球の試合、同点九回裏サヨナラのランナーだ。

 そうしてジリジリと女は俺に近づいてくると、手袋を包まれた人差し指を立てながら俺に言う。

「もう! か弱い女の子をいじめちゃダメなんだからね!」

「だから聞いてきたから答えただけなのに」

 そんな言葉が喉にまで出かかったが、俺はそれを飲み込んでため息をついた。

 先ほどまで釣りをしていた場所に戻り、再び釣りを始めた。その様子を女は横から見つめてくる。

「じゃあさっきのウネウネアシミミズを餌にして釣るんだ」

 ウネウネアシミミズ? 一瞬何のことを言っているのかわからなかったが、すぐにイソメのことだと理解した。イソメの方がよっぽど言いやすいと思うのだが釣り未経験者だとそうでもないのだろうか。

「そ。まぁシロギス関わらずウネウネアシミミズはたくさんの魚の餌になる。だから今日みたいな釣れる魚を釣る五目釣りにはぴったりだ」

「えぇ……じゃあ魚屋さんで売ってる魚もウネウネアシミミズ食べてるの?」

「まぁ魚によって餌は違うけど……、スズキ、カレイ、カワハギあたりは普通に食べてるだろうな」

「うげぇ……知らなきゃよかった……」

 オーバーアクションで女は肩を落とす。得てして真実とはそんなもんだ。知らなきゃよかったことなんてたくさんある。

「ねぇイルカって釣れないの?」

「はぁ?」

 女の素っ頓狂な質問に思わず感嘆詞のみの声が出た。いくら初心者でもイルカが釣れるとは思わないだろう。

 いや……、実はそんなもんなのか。

 例えばエイだったら釣れることはあるし、ごく稀にエイを狙う釣り人もいる。釣りに全く触れていない人だったら、エイは釣るけどイルカは釣らないの違いがわからないのかもしれない。そんな人にとってはイルカやシャチ、アシカなんかも釣れる可能性がある海の生物にカテゴライズされている可能性は十分にある。

「イルカは釣れないし、釣る人もいないと思うぞ。俺の知ってる限り」

 俺は安全策として範囲を絞ることでお茶を濁した。

「そうなんだー。でも伊豆の人ってイルカ食べるんでしょ? 私びっくりしちゃった」

 ……なるほど。それでイルカを釣ると思ったのか。

「食べることには食べるけど、釣りはしない。それに売られているイルカはたまたま定置網に引っかかったやつだけさ」

 確かに伊豆ではイルカを食べる。スーパーでも普通にイルカの切り身が売られているため、俺も中学生の頃まではそれが当たり前だと思っていた。しかし、イルカを食べる食文化があるのは伊豆と和歌山、そして東北の一部の地域だけだ。そして伊豆でイルカを食べると言っても今は積極的に食用のための漁はしていない。売られているイルカは定置網に引っかかって死んでしまったイルカで、それを食用として加工して出荷しているに過ぎない。ただそれでも動物愛護団体や活動家からしたら、この食文化を是とする時点で俺達のことは野蛮人として粛清の対象になるはずだ。

「あ、そうなのか。ちょっと安心した」

「もしかして、そっち系の活動している人?」

 探りを入れる。場合によっては今やっている釣りでさえ糾弾されかねない。竿を持つ手にじわりと汗をかく。

「うぅん全然。お肉大好きだし。ただやっぱりイルカはちょっと食べられないかな」

 女は小石を蹴飛ばしながら話した。蹴られた小石は堤防から海に落ち、着水と同時にそこから小さな波紋が広がる。

「かわいいからか?」

「まぁそれもあるけど……、キリスト教ではイルカって神様の使者で魂を冥界に運ぶって信じられているだって。私は全然キリスト教徒ではないけど、それって素敵な考え方だよなーって。イルカに乗って天国に行けたらそれだけで楽しそうじゃない? それなのに食べちゃったらかわいそうで……」

 そんなものなのだろうか。俺は無宗教だからその感覚はわからない。手持ち無沙汰を誤魔化すようにくるくるとリールのハンドルを回し、仕掛けを回収する。当然針先には何もついていなかった。

「確かにな。ま、それなら食べなくても全然いいさ。個人の自由だし。売ってるといっても正直ここら辺の人でも好んでイルカを食べる人は少ないと思うぞ。あんまり美味いものでもないしな」

 俺は女に見えないように体で隠しながらイソメを針につけると、素早く仕掛けを海に投げた。

 先ほどの小石とは違う、ポチャンという大きな音と共に、数倍の大きさの波紋が海面に広がった。

「それに釣り人でイルカが好きな奴なんていない」

「え? そうなの?」

「イルカが堤防に入ってくると魚がみんな逃げちゃって魚が釣れなくなる。だから釣り人はみんなイルカが嫌いなんだ」

「……確かにそれは困っちゃうね! ていうか堤防にイルカが入ってくるのがびっくり。いつか見てみたいな」

 その後も女とは取り留めのない話を続けた。その間、竿にアタリが来ることはなかった。

「ありがとう。お話できて楽しかった。明日もここに来るの?」

 大体一時間ぐらい話しただろうか。女は話に満足をしたのか、礼を言うと俺に笑顔を向けながら明日のことを訊いてきた。

「そのつもりだけど」

「じゃあ、明日も来ていい? その時に名前を教えて」

「別に来るのはいいけど、なんでその時に名前なんだ?」

「約束があった方がちゃんと来てくれるでしょ?」

 女をそう言い残すと体を九十度回転させ、ゆっくりと歩いて去っていった。

 釣りをしながら横目で女が帰っていく様子を見たが案の定歩いて港まで来たようだ。自転車だったら安全意識の高さ故のヘルメットだったのかもしれないがそうでもないらしい。

 やはりファッションなのだろうか? 変な女だった。かわいいけど、変な女。

 その時、竿が大きく引っ張られる感覚がした。意識を素早く竿に向け、大きく竿を上げ合わせを入れるが手応えは何もなかった。どうやら逃げられたらしい。

「くそ、アイツのせいだ……」

 俺は一言愚痴をこぼすと、今日はそのまま帰ることにした。



 俺は水汲みバケツの中で既に息絶えていたシロギスをビニール袋に入れると、道具を片付け、おっちゃんの店に向かった。

 店に着くと、店内に入る前に外につけられた外水道の蛇口を捻り、真水で釣具を丸洗いする。釣具に潮が付いていると壊れやすくなるのもそうだが、おっちゃんの店で預かってもらっている以上清潔にしとくのが礼儀だと思うからだ。

 洗った釣具を丁寧に雑巾で拭いてから店内に入る。

 再び入店を知らせるメロディがなると、居住スペースからおっちゃんが出てきた。

「お疲れ様、今日はどうだった?」

「シロギス一匹。でも良いサイズが釣れたよ」

 ビニール袋の中に入れたシロギスを見せると、おっちゃんは顎に指を当ててながら嘆声を上げた。

「おぉ食べ応えのある良いサイズじゃないか。どうする捌いていく?」

「いや、そこまでは悪いよ。多分大丈夫だと思うけど……また氷だけもらっていい?」

「はいよー」

 おっちゃんはすぐさま店の奥の居住スペースに向かうと、ビニール袋に氷を入れて戻ってきた。俺はその氷を幾つか貰うとシロギズが入ったビニール袋の中に入れた。

 これで家に帰るまでに傷むことはないだろう。

「氷までいつも悪いね。だけど本当にいいの? 俺全然氷買うよ」

 俺は店内の冷凍庫に入っている商品の氷を横目に見ながら言う。

「いいのいいの。その氷、ウチの冷蔵庫の氷だし。そのサイズ一匹分の氷でお金取る方がめんどくさいよ」

 おっちゃんは極々当たり前のことをしているように言う。きっとおっちゃんなら財布を拾っても交番に届けるし、その際に謝礼として一割を求めるような真似をしないことだけはわかる。

「その分、また店使ってね。平日のこの時間は暇だから佐伯君が餌買ってくれるのが助かるのよ」

「それなら任せてよ」

 釣具屋の営業時間は極めて特殊だ。釣り人は魚に合わせて行動をし、釣具店は釣り人に合わせて営業をする。

 魚の活性が最も上がるのは日の出前後と日の入り前後と言われている。なので早朝に釣りに行く人に合わせておっちゃんの店も朝五時に営業が始まり、夜釣りに行く人に対応をするために二十一時まで営業をしている。客としてはありがたいのだが心配になる労働時間の長さだ。

 おっちゃんに倒れられても困るし、この店が潰れるのも困る。

 一度おっちゃんにそのことについて訊いてみたが、「奥さんと交代でやってるから」「昼間はほぼ休みみたいなものだから」「インターネットでの販売が意外と儲かってこっちは趣味だから」という理由を挙げられ俺の心配を余所に笑い飛ばされてしまった。

 そんな楽観的なおっちゃんの人柄も含めて俺はこの店が好きだった。

「じゃあ道具ここに置いておくね。また明日も来るよ」

「オッケー、今日はお疲れ様!」

 そのまま帰ろうとした時、ふと今日会ったあの女について思い出した。

「おっちゃん、ヘルメットを被って手袋を着けた制服の女って知ってる? 制服はうちの高校じゃなくてもっとオシャレなやつ」

「ヘルメットと手袋と制服の女? いや、知らないな。怪談の一種かい? それにうちの高校じゃないって、ここら辺ではうちの高校以外の人っているのかな?」

「……いや、知らないなら大丈夫。今日もありがとう」

 確かに怪談みたいだな。ヘルメットを脱いだらそこには大きな口がある、手袋の中は禍々しい毒手になっている。いやいや、そんな妖怪みたいなことを考えるのはさすがに失礼だ。

 妖怪にしてはあの女はかわいすぎる。


 
「文学少女最高だぜ! いい感じだぜ! 来てる! 俺の中で眼鏡っ子が今久しぶりに来ている!」

 翌日、教室に入るやいなや、俺は待ってもいないヤスからの報告を聞いた。どうやら文学少女ちゃんとはお話ができたらしい。ヤスのテンションは朝っぱらから最高潮に達していた。俺は後ろからヤスに肩に手を回されると、そのまま一方的に話しかけられる。

「灯一郎聞いてよ! 昨日さ、図書室に入ったら貸し出しカウンターに文学少女が一人で本を読んでたんだ。これはチャンスだと思ったね! まさに神様が俺にくれたチャンスだね。俺はすかさず声をかけた! 『何読んでるの?』って。本を胸に当てビクッとした表情は最高だったね。絵に描いたような文学少女の眼鏡っ子! めちゃくちゃかわいいの! 眼鏡っ子に恋をしたのは中学生以来だ! あの子はもう一押しだったなぁ……! まぁいい! それは過去の話だ! そしたらさ、『サレンダーです』って言うんだ。俺全然わからないっつうの!」

「サリンジャーだろ。勝手に降参をするな」

「あ、そうそう! サリンジャーだ! さすが灯一郎! 頭いいな! だけどさそこで俺は言ったさ『良いよね、俺も読んだよ』って。そしたら文学少女、目をキラキラさせて話し始めてさ! 止まらないの! おとなしい子だと思ったんだけどペラペラ話し始めてさ! もうマシンガントーク! でもその方が助かったね。俺全然本読まないから内容なんてわからないのよ。だから適当に相槌を打っておいた! なんか途中からテンション下がってたけど多分ごまかせてたと思う」

「ごまかせてないよ。それ」

「いいや! 大丈夫! ホストだってさ相手に喋らせることが大事じゃん。その点、俺はホストの才能があるかもしれないな! ホストでビッグになってやろうかな! でさ、一通り話終わったら間が空いちゃってさ。俺も困った! その時さ、文学少女が聞いてきたんだ! 『本は読まれるんですか……?』って」

「思い切り疑われてんじゃねーかよ」

「違うね! これは脈ありのサインだ! 俺が読む本が気になってるんだよな! カーッ! モテる男は辛いねぇ! たださ、文学少女はサリンジャーとやらを読んでいるってことはきっと海外文学が好きなんだと思う! その分野になったらすぐに俺はボロが出てしまう! だから言ってやったさ! 『当たり前さ。俺は日本文学中心だけどね』って。そしたらさ! これが大成功! 文学少女は言った! 『わぁすごいんですね。先輩、日本文学では誰が好きなんですか? 私日本文学は詳しくなくて』だって! どうよ! 文学少女に先輩だって! これだけで俺のハートは射抜かれたね!」

「よかったじゃないか。それで質問には答えられたのか?」

「後一押しだ! 文学少女は俺に落ちかけている! そこまではわかった! だがあいにく俺は本を読まない! 国語の授業も寝ている! そんな質問答えられるわけがない!」

「知ってるよ」

「だからそこで俺は一度引くことにした! 恋愛、押しすぎでもダメだからな! 俺は時計をサッと見る! そこで言うわけだ! 『悪い今日は時間だ。また今度教えてあげるよ』って。きっと文学少女、しばらく夜は枕を抱えてドキドキしっぱなしだろうね!」

「うわぁ」

「というわけで灯一郎! あと一息だ! あともう一息なんだ! 俺に日本文学の作家でそれっぽい答えを教えてくれえええ」

 そこまで言うとヤスはようやく肩を離し、今度は前方でいきなり土下座をし始めた。ヤスはついに唯一残された男としてのプライドまで捨ててしまったのか。俺は目の前で五体投地でダンゴムシのように小さくなるヤスを憐みの目で見つめた。

「断る。その子を思うんだったら尚更真面目に本を読むしかないだろう。そうしないと相手にも悪いし、万が一付き合えたとしても上手くいくわけないじゃないか」

「だってぇ……本読むのめんどくさいし……眠くなるし……」

 ヤスは五体投地をしたまま首を傾け、上目遣いで俺の様子を伺う。俺はそんなヤスを睨みつけた。ヤスはすぐさま首を戻し、再び額を床に擦り付けた。

「お願げえええだああああ。後生の頼みだああああ」

 ダメだ。アホではあるが害はなく、純朴なヤスはもうそこにはいなかった。目の前にはプライドもなく相手の気持ちを考えもせず、リビドーのままにただ息を吸い彷徨う妖怪がいた。コイツは俺が止めなくてはならない。

「森鴎外だ」

「…………へ?」

「森鴎外だ。森鴎外は知っているか?」

「知らない」

「だろうな。森鴎外というのは日本文学の中でも有名過ぎず無名過ぎずの絶妙な位置にいる作家だ。これぐらいの位置の方が『知ってる』感が出るだろう」

「おお! さすがだぜ灯一郎!」

 ヤスは土下座の姿勢のままメモとペンを取り出すと、『もりおうがい』と平仮名で書いていた。

「舞姫だ。舞姫は知っているか?」

「知らない」

「だろうな。舞姫というのは森鷗外の代表作だ。明治時代を舞台にエリート官僚の主人公と留学先で出会った外国人女性との禁断の愛……。まぁヤスに説明をする必要はないだろう。とにかく舞姫は日本文学における知る人ぞ知る名作だ。教科書になんて載っていない。そういうのを挙げる男ってかっこいいだろう」

「おお! さすがわかってるなー灯一郎! 知る人ぞ知るってのがかっこいいわ!」

 ヤスは再び『まいひめ』と平仮名でメモを取る。

「あとはヤス。主人公を徹底的に推せ。褒め称えろ。俺の人生の目標、恋愛においての師匠だと言え。そうすれば文学少女ちゃんもきっとヤスの深い人間性に惹かれてくれるはずだ!」

「うおおお! わかったぜ! 主人公を推すんだな! ありがとう灯一郎! 後は何とかしてみせるさ!」

「おう! 頑張れヤス! 応援してるぜ」

 ヤスは勢いよく体を起こすと、そのまま悪友グループの中に入っていった。俺はその姿をサムアップをしながら見送る。

 まぁ日本文学に造詣が深くないとは言っても図書委員でサリンジャーを読んでる子だ。舞姫ぐらいは普通に知ってるだろう。悪いなヤス。さすがにお前のリビドーに加担する気にはなれない。

 拝啓、森鴎外先生。あなたの言葉を引用させてもらいます。

『人の光を籍りて我光を増さんと欲するなかれ』


 
 その日の授業終わり、今日も自転車で港に向かう。ヤスは今日一日中「ありがとうありがとう」とお礼を言っていた。俺にもさすがに良心の呵責はあったのか、多少は胸が痛んだがそれだけだった。

 本当にそれだけだった。

 港に行く前におっちゃんの店に寄る。いつもは入店のメロディが鳴ると、おっちゃんが居住スペースから出てくるのだが今日はどうやらいつもと勝手が違う。今日はおっちゃんは既に客の対応中のようだ。この時間帯の店に客がいるのは珍しい。

 しかも客は女だった。

 四〇代後半ぐらいだろうか、服装は黒いワンピース、上品で美人な顔立ちをしているが頬は瘦せており見るからに疲労がたまっているような雰囲気がした。

 俺はこの女が釣りをする姿は全く想像することができなかった。

「あーごめんなさいね。うちは配達はしてないんでねぇ。氷の配達だったら(みなみ)製氷が対応してくれると思いますよ。電話番号教えましょうか?」

「いえいえ……。わざわざすいません。お願いしてよろしいでしょうか?」

 女がそう言うと、おっちゃんは電話帳を開き、メモに南製氷の電話番号を書き女に手渡す。

 南製氷は車で三十分ほどの距離にある氷の卸だ。伊豆の隅の商店から飲食店、そして漁港にまで幅広く氷を卸している。

 女はメモを受け取るとおっちゃんに丁寧に礼を言い、弱弱しい足取りで店から出ていった。

「あー佐伯君。おかえり。今日も行くのかい?」

「ただいま。うん、そのつもりなんだけどさっきのお客さん何? 釣りをするようには見えなかったけど」

 俺は野次馬根性丸出しでおっちゃんに訊いた。自分はそのタイプではないと思っていたが、実際気になる事に遭遇をしてしまうと、ついつい当事者には話を聞きたくなってしまうものだ。

「うん。ちょうど佐伯君が来る前にお店に来てね。氷は欲しいんだって。それも二十キロ。しかも毎日」

「氷?」

 店の隅に置いてある冷凍庫を見る。そこにはいつもおっちゃんが氷をくれるので買ったことがない大容量の氷がぎっしりと詰まっていた。

「あそこにあるの売ればいいんじゃないの?」

「いや、こっちとしても店だし買ってくれるのは大歓迎なんだけどさ、あの人車持ってないらしくてさ。配達をして欲しいんだってさ」

「車持ってないの!?」

 女は歩いて帰っていったからもしやとは思ったが、車を持っていないとは思わなかった。

 この田舎では、生活に車を欠かすことができない。父さんも母さんも車は持っているし日常の足として運転をしている。バスとなると二時間に一本であり、日常の足として使うとなるとなかなか厳しいものがある。

「そう。うちは僕と奥さんでやってる店だし、氷の配達となるとどうしても厳しいからさ。だから南製氷を紹介したってわけ。二十キロ毎日だったら卸の方が対応できるでしょ」

「なるほどね……。だけどそんな量の氷、何に使うのさ?」

「さぁ……。そこまでは聞かなかったからわからないなぁ」

 いかんいかん。つい好奇心で根掘り葉掘り聞いてしまった。きっと理由は知らないけど諸事情で氷が大量に必要なのだろう。そこからは人のプライベートの領域だ。深く詮索するのはよそう。

「で、佐伯君。今日もいつものでいいかい?」

 おっちゃんは気を取り直したように訊いてくる。おっちゃんとしても初めての客よりは常連客の方が相手にはしやすいのだろう。

「うん、それでいいや」

 昨日と同じくイソメを買い、釣具を受け取ると俺は港に向かった。

 港の堤防に着くと、早速イソメを仕掛けに付けキャストを行う。今日は一投目に当たりはなかった。幸先は悪いがこんなもんだ。焦ってはいけない。

「おっすー」

 聞き覚えのある声が後ろからする。振り返ると昨日と同じ制服姿、そしてヘルメットと皮の手袋を着けた女がいた。この姿で見間違えることはない。

「一日振りだね」

「そうだな」

 リールのハンドルを回し仕掛けを回収するが、イソメが食われていることもなかった。今日は渋そうな気配がする。

「ひぃ! ウネウネアシミミズは見せないで」

 女は皮の手袋を着けた両手の平をこちらに見せながら目を瞑る。

「そんなこと言っても釣りをしている最中に来る方が悪いんじゃないか……」

 そんな女を横目にさっさと針の餌を付け替えて、仕掛けを再び海にキャストする。ただ女はそれでも同じ姿勢のままだった。

「もう大丈夫だ」

 俺が声をかけると、女は薄く目を開けて、警戒をするようにこちらを見てきた。

「あーよかった。本当だった」

「そんなに信用してないのかよ」

「だって昨日あんなことするし」

 何も言えなかった。言われてみれば確かにそうだ。苦手な虫片手に追いかけてくる男を信用しろって言う方が無理だ。

 女はすっと体を移動させると俺の隣に立った。

「また昨日と同じ?」

「同じ」

「大物は狙わないの?」

「狙わない。性に合わないんだ」

「へぇ。釣りにも好みってあるんだね」

 基本的に俺がやる釣りはちょい投げ釣りと言われるものだ。なんとも微妙なネーミングだがこれがそういう名前なのだからしょうない。その名の通りちょいっと投げる釣り。餌にイソメをつければシロギスを始め、何かしらの小ぶりの魚を釣ることができる。何も釣れない所謂ボウズも少ないーー俺の場合はそれなりーーので、とりあえずは釣りを楽しむことができる。

「今日は釣れないね」

 女は海水のみが満たされた水汲みバケツと、一向にアタリの気配がない竿を見て言う。

「釣りなんてそんなもんだ。釣れる時は釣れるし釣れない時は釣れない」

「そうなんだ。でも退屈じゃない?」

「退屈じゃないさ。釣れない釣りが一番楽しい」

「え? なんで? 釣れた時の方が楽しいんじゃないの?」

 女は自分の常識を疑うように聞く。まるで1+1が2ということを信じられない子供のようだった。

「釣れない時は釣れた時のことを楽しみにできるだろ」

「うーん、わかるようなわからないような」

 女は納得しきれていない様子で悩む。波の音や鳥の声を聞くだけでも退屈しない。これも理由に挙げられるのだが、こちらはなんとなく気取っているような感じがして言わなかった。

「ねぇ君の名前は何ていうの?」

 女はこちらを見ながら好奇心に満ちた様子で訊いてきた。

「昨日教えてって言ったら、いいって言ってたよね」

 昨日の約束。当然忘れてはいなかった。別に名前なんて構わない。

 俺はそんな約束を守るために今日もこの場所に来たのだろうか。

 いや、ただ日課の釣りをするというある種の義務感でここに来たのに過ぎない。

「灯一郎。佐伯灯一郎」

「へーどんな字書くの?」

「佐藤の佐に伯爵の伯で佐伯。灯台の灯に水木一郎の一郎で灯一郎」

「最後がわかりづらいよ……」

「数字の一につくりがおおざとの方の郎。よくある一郎だよ」

「なるほど。灯一郎君。かっこいい名前だね」

 女は中空に俺の名前を書き出す。そしてなぜか納得をしたようにうんうんと繰り返し頷く。

「この名前の意味がイカ釣り漁船から来ていると知ってもそう思うか?」

「え? どういう意味?」

 コテンと女は首を傾げる。そのしぐさはただでさえ幼く見える女の姿がさらに幼く見えた。

「灯一郎って名前。どういう意味が込められていると思う?」

「え? やっぱり灯台みたいに誰かを導く人になってもらいたいみたいな感じじゃないの? 他には灯りのように明るい人になってもらいたいみたいな? 違うの?」

 女は格好とは違って至極真っ当な答えを言った。

「まぁ普通はそう思うよな。間違ってないよ。むしろそっちが正しいと思いたい。俺の父さん、イカ漁師やってるんだ」

「へーすごい! ここってイカが特産品だもんね」

「それでさ、母さんが俺が産まれるかもって時にも父さんはイカ漁に行ってた。イカ漁は夜にやるんだけど、その時にイカを寄せ付けるために集魚灯っていうライトを大量に焚くんだよ。それでさ、父さん、集魚灯を焚いた瞬間、あ、産まれたってわかったんだってさ。まぁ後で調べてみたら時間的にも確かにほとんど同じだったらしい。だから灯の文字を使ったのと、長男だから一郎」

「何それ! 面白い!」

 女は大きく口を開けて相好を崩す。お腹に手を当てて涙を流す勢いだ。

「トウ君のご両親、それで行こう! ってしちゃうのが面白いね!」

「トウ君?」

「あ、灯一郎君だったら長いかなぁって思ったからトウ君。トウちゃんだとお父さんみたいだから。嫌だった?」

「いや、妹にもそう呼ばれてるから別にいい」

 女はまだ笑い続けている。どうやらツボにハマったらしい。まぁ俺自身も半分ネタにして名前の由来は話すことは多い。小学生の頃、自分の名前の由来を発表した際にもクラスが大いに沸いたの思い出す。

「君は?」

「え? 私?」

「当たり前だろう。俺の名前を聞いたんだ。俺だって君の名前を訊く権利はある」

「なんだかトウ君の名前を知った後だと言いづらいなぁ……セツだよ。オガワセツ。小さい川に雪でセツ」

「雪と書いてセツ。なかなかオシャレじゃないか」

 俺は皮肉でもなく本心から言う。音読みの使い方が上手い気がした。セツ……セツ……。女の名前を頭に入れるように数回セツの名前を心の中で読み上げた。

「そうかなぁ。ちょっとおばあちゃんみたいな感じがしない? 節約の節の方とよく間違えられるし。私は素直にユキの方が良かったな」

「そんなことないと思うけど。なんかユキよりセツっぽい顔してるし」

「どんな顔よそれ」

 セツは再び相好を崩す。なんだか名前を知っただけなのに、お互いのことを昔から知っているような気がした。

「しかし、どうして雪一文字なんだ? 雪の日にでも産まれたのか?」

「お、御名答。大正解」

 どうやら当てずっぽうで言った答えが合っていたらしい。

「私、東京出身だけど私が産まれた日の東京、大雪だったんだって。それで雪一文字。私、自分の名前の由来もそれなりに面白いと思ってたけど、トウ君のを聞いちゃうと負けるなぁ」

「でも本質的なことは同じ気がする」

「そうだね。間違いないね」

 セツはその場で膝を折り、ゆっくりとしゃがむ。その動きはどこかぎこちなく、まるで『節』という名のおばあちゃんのような動きだった。立っているだけでそんなに疲れたのだろうか? 

 その時、ふとセツの東京出身という言葉が引っかかった。

 考えてみればセツはどうしてこんな田舎にいるのだろう?

 それにその制服、そして謎のヘルメット。名前だけ聞いて満足した気になってしまったが、俺はセツの名前しかまだ知らない。

 そういえばヤスが港近くの屋敷に新しい人が引っ越してきたって言っていたな。あれはセツのことではないのだろうか。あの場所ならここからでも十分に徒歩圏内だ。

「そういえばセツはどこに住んでいるんだ? ここから近いあのでかい屋敷か?」

 それとなくセツに訊く。セツの動きが一瞬ピタリと止まった気がした。

「うぅん、違うよ。別の人じゃないかな。私、お母さんと二人暮らしだからあんな大きい家じゃ広すぎるよ。私が住んでいるのはお屋敷近くだけど、もっとちっさい空き家だったところだよ」

 どうやら勘違いだったようだ。ここら辺は空き家だらけであり、あの屋敷以外にも格安で家を借りることができる。セツの言う通り二人暮らしだったらあの屋敷は持て余してしまうに違いない。

 セツは左手首の内側に着けた腕時計を見ると、「時間だ」と言って立ち上がる。

 俺も同様にして左手首の外側に着けたデジタルウォッチを見る。

 誕生日に父さんに買ってもらった防水性のお気に入りの時計だ。時計の盤面にはカクカクとしたデジタル表示で十七時を示していた。

「トウ君、明日も来る?」

「まぁ多分な」

「そっか。じゃあまた明日ね」

 セツにはまだ訊きたいことがあったのだがタイミングを完全に逃してしまった。まぁそれはまた明日以降に訊けばいい。リールのハンドルを回して仕掛けを回収するが、イソメが食べられている様子は相変わらずない。

 この調子だと多分今日はボウズになりそうだ。

「でもトウ君が言ってた釣れない釣りが一番楽しいって意味なんとなくわかったような気がする」

 セツは俺に背を向けながら首だけこちらに傾けて言う。

「釣れない方がトウ君とお話ができる」