「昨日一〇七号室の(おか)さんが亡くなりました」

 ナースステーションで行われた朝のカンファレンスで看護師の長野(ながの)さんが冷淡な声で言う。

 僕はキュッと心臓が縮こまるような感覚を受けながら「そうですか」と一言だけ返した。

「看取りは江島(えじま)先生がやってくれました」 

 岡さんは僕の担当患者だ。昨日、十二月十三日は私用で有給を取っていたので看取りは後輩医師の江島先生がやってくれたらしい。

 僕は隣に座ってカンファレンスに参加していた江島先生に会釈をした。

 後でしっかりお礼を言わなければ。
 
 縮こまった心臓は再び拡張と収縮を繰り返し体に血液を送り始める。医者になって十年が経つが、誰かが亡くなった報告を聞くのはやはり慣れない。というより慣れてしまうことに体が精一杯の抵抗をしているように感じた。

 岡さんは小柄で誰にでも丁寧な、絵に描いたような人の好いおじいちゃんだった。自分の体調も正直に話し、ケア方針に対しても素直なので正直僕は岡さんに医者として何か仕事ができたかどうか自信はない。

 都心からもほど近い湾岸地区にある栄都(えいと)大学附属病院。その緩和ケア科が僕の仕事場だ。ターミナルケア、終末期医療とも呼ばれるこの分野は、命を救うという大義名分の一般的な医療の世界からは北極と南極ぐらい対極の位置にある。

 岡さんは末期がんの患者だった。ただ手術や抗がん剤治療を進めればもう少し長く生きられたかもしれない。いや、生きられたはずだ。僕は医者としてその判断に自信がある。

 しかし、岡さんは拒んだ。

 最期は自分らしく死にたい。無理やり生かされる治療は嫌だ。家族に見守られて笑って死にたい。それが岡さん唯一の希望だった。そんな人達が僕の患者だ。僕はそんな人達の希望を叶えるために働いている。

「家族の方は来られましたか?」

 僕は長野さんに訊く。僕は患者に対して家族の存在を重要視している。

「はい。岡さんの場合はいつ容態が悪化するか分かりませんでしたので、ご家族とはいつでも連絡が取れるようになっていました。当日もすぐに連絡がついて、娘さん家族と息子さん家族がお孫さんも含めて最期を看取ることができました」

 長野さんはピクリとも表情を変えずに言う。長野さんは色白で顔は見事なまでに左右対称だ。キリリとした目元と芯の強そうな表情は十分に美人と言えるだろう。

 ただそんな整った美人の顔だからこそ、言い方が悪いが心霊現象に出てくる日本人形のようで一抹の不気味さを感じた。

「最期はご家族に囲まれながら安らかにお亡くなりになりました」

「そうですか、それはよかった」

 本人は在宅でのケアを希望したが環境的にそれは困難だった。しかしそれでも岡さんの家族に見守られて死にたいという希望は叶えられたようだ。

 僕は人の死に対して『よかった』という感想を言うべきかはいまだにわかっていない。ただ岡さんの家族に見守られながら安らかに死にたい、そんな希望が叶えられたことに対しての『よかった』だ。

「あと」

 長野さんが付け足す。

「岡さん、最期に佐伯(さえき)先生にも大変感謝していましたよ。先生が担当でよかったっておっしゃっていました」

 そこまで言ったところで、彼女はほんの少しだけ表情を崩した。口角が数ミリ上がっただけかもしれないが、それだけでも先ほど感じた不気味さは顕著に無くなった。

「そうですか、それは医者冥利につきます」

 どうやら僕は岡さんには医者としての仕事はできたようだ。少しだけ安心ができた。

 他の看護師からも入院患者の様子や状態の報告を受ける。江島先生はコクコクと細かく首肯し、上司で医長である加藤(かとう)先生は半分寝ているように聞いていた。

 どうやら岡さんが亡くなった以外は休み前と特段変化はなさそうだ。

 僕は今日の仕事の段取りを頭の中で整理する。始業から終業までの流れをシミュレーションできるようになったのは医者としての経験を詰んだ賜物だろう。

 ……まぁほとんどの場合で緊急の対応が入ってシミュレーション通りにはいかないんだけど。

「わかりました。みなさん、ありがとうございます。今日もよろしくお願いします。まずは朝の礼拝に向かいましょう」

 僕は医療スタッフと共に、院内チャペルに向かった。


 
 緩和ケア科内には小さなチャペルがある。チャペルと言うと結婚式場のような綺麗でロマンチックな建物をイメージするかもしれない。

 しかしそんなイメージは捨ててもらいたい。

 緩和ケア科の院内チャペルは大部屋の病室からベッドを撤去し、パイプ椅子を並べ、壁に十字架を貼った極々簡素なものだ。それでも前方にはオルガンも設置されており、日曜日には牧師さんを招いて日曜礼拝も行っている。去年のクリスマスでは子供合唱団を招いて讃美歌を歌ってもらった。

 この院内チャペルは僕が二年ほど前に希望をして作ってもらったものだ。今思えば医者としてもまだまだペーペーの僕の希望がよく通ったと思う。僕が希望を出した時の加藤先生の虚をつかれた表情は今でも忘れられない。ただ、きっと加藤先生が何かと裏で手回ししてくれたのだろう。

 毎朝の礼拝は非常に簡単なものだ。CDで讃美歌を流し、参加者はその間各自好きにお祈りをするというだけ。もちろん宗教に縛りはない。無宗教でも他宗教信者でも参加は可能であり、参加自体も強制はしていない。それでも緩和ケア科内の入院患者の参加率は高く、皆思い思いに祈りをこめて礼拝をしている。

 ゆっくりと丁寧に院内チャペルという名の病室の引き戸を開ける。病室の部屋番号のプレートの上からシールで「院内チャペル」と張り付けてあるのはいつ見てもシュールだ。既に緩和ケア科の入院患者は集合をしており、パイプ椅子に座ったり雑談をしたりと自由な時間を過ごしている。

「おはようございまーす」

 そう言いながら僕は部屋の隅を通り、演台の上に置かれたCDラジカセの電源を入れ再生ボタンを押した。僕が希望して作ってもらった院内チャペルなので一連の作業は僕の仕事だ。CDラジカセ内部からはキュルキュルとCDが空転する音が漏れる。そして一瞬の静寂の後に、聴き慣れたオルガンの音と共に讃美歌が流れ始めた。

 僕は立ちながらいつも通り目を瞑り視線を落とす。普段は瞑想のように無心で時を過ごすのだが、今日は十七年前のことを思い出した。

 昨日がセツの命日で墓参りに行ったからだろうか。

 セツが死んだ日。あっけなく死んだ日。

 棺の中で眠るように横たわっているセツを僕は不思議と平静に眺めていた。

 讃美歌は程なく終わり、朝の礼拝は五分ほどで終了した。入院患者達は特に合図もなしに病室に戻る。今日は僕が病棟の担当だ。江島先生がそのまま担当である外来に向かう様子だったのでその前に声をかけた。

「江島先生、昨日はごめんね。岡さんの看取り任せちゃって」

「あ、いえいえ! 全然大丈夫です。むしろ佐伯先生じゃなくて僕が最期で岡さんには申し訳ないことをしてしまいました……」

 江島先生はあせあせと眼鏡を上げながら答える。

 江島先生は七年目の緩和ケア科医師で僕の後輩だ。少し抜けているところもあるが、人当たりの良さと患者への誠実な対応で患者からも人気がある。僕と江島先生、そして上司の加藤先生でこの緩和ケア科は回っており、ローテーションで外来と病棟の担当が分かれている。

「いやいや。江島先生、岡さんとも入院中よく話してたでしょ。だから岡さん江島先生のことも信頼していたしよかったと思うよ」

「はぁ……だと良いんですが……」

 変わらず江島先生は恐縮しきりに話す。どことなく自信がなさげなところが先輩としては話しやすかったりする。

「まぁとにかくありがとうね。今日の病棟は任せておいてよ。あとまたそのうち飲みに行こう」

「ぜひぜひお願いします。では」

 そう言って江島先生は外来に向かった。江島先生に続いてのっそりと熊のように加藤先生が歩いて外来に向かう。

「それにしても珍しいですね。佐伯先生がお休みなんて」

「うおっ」

 ナースステーションに戻る途中、突然後ろから話しかけれて随分と情けない声が出てしまった。そこには結局また日本人形のような真顔に戻っている長野さんが立っていた。

 長野さんは二十代後半の中堅ナースだ。以前までは栄大附属病院内の救急科の看護師であったが、十月から緩和ケア科に異動となっている。やはりというべきか戦場である救急科で揉まれてきたこともあり実力も折り紙付きで、早くも僕は彼女に業務では助けられっぱなしだ。

「まぁ私用があってね……」

 適当にはぐらかす。長野さんはこれ以上は追及してこなかった。

「緩和ケア科って平和ですよね」

 少しの間の後、長野さんが言った。

「救急では毎日が戦場で、ナースコールも遠隔モニターも常に鳴りっぱなしでした。ただここではそんなことない。同じ病院内でも別世界のようです」

 長野さんはつい数ヶ月前までのことを遥か昔のことのように話す。確かにここは救急科に比べたら格段に静かだろう。患者の意思を尊重し、不必要にモニターも治療もしない。

 僕がすることは、患者の体と心の痛みを和らげることだけだ。

「それがここの仕事だから」

「先生って神様を信じているんですか?」

 いまいち話の脈絡が掴めなかった。はたから見たら僕が長野さんに宗教勧誘をされているように見えるかもしれない。さすがに病院内でそれはまずい。

「いや、僕自身は無宗教だよ」

 とりあえず僕は嘘偽りなく答えた。そうだ、僕は世間一般的な日本人と同じで無宗教だ。クリスマスを祝った一週間後には初詣にも躊躇なく行ける。

「あら、そうなんですか」

「意外かい?」

「だって、朝の礼拝も熱心ですし、院内チャペルを作ったのも先生じゃないですか。だからてっきり私はキリスト教を信じているんだと思っていました」

 まぁ確かにそう思われるのは仕方ないかもしれない。江島先生にも同じことを言われた。

「僕自身は神様は信じていないよ。ただ患者さんは違うかもしれない。ましてやここは病院内でも死が近い場所だ。いくら延命処置をしないと言っても患者さんが何か縋りたくなることもあるさ。その時に何か力になれたらいいなと思ってね」

 死への恐怖。それはナイフと同じで突き付けられてみなくてはわからないだろう。

 そしてそれは、もしかしたら僕が想像で話すのもひどくおこがましいことなのかもしれない。

「さすが佐伯先生ですね。……ただ私、医療と宗教ってすごく難しいと思うんです。救急にいた時も、患者さんに輸血が必要なのに宗教上の理由で輸血拒否なんてこともありました。結局その人は亡くなられましたけど。宗教のせいで命を落とすのは、意味がないのではないでしょうか?」

「……それもそうだね。でもだからこそ僕達が、正しい縋り方を導いてあげる必要があるんじゃないかな?」

 セツの姿を思い出す。いつもヘルメットを被り、皮の手袋をはめ、食事の前に謎の呪文を長々と詠唱する姿。

「正しい縋り方、それもそうですね。確かに院内チャペルなら安心です」

 長野さんはまたかすかに表情を崩した。

 僕と長野さんはナースステーションに到着する。僕は回診を行うためにモタモタと必要な道具を用意した。書類にもサインをしなくてはならないため、白衣の胸ポケットからボールペンを取り出す。しかしその際手が滑ってボールペンを落としてしまった。

 ノック部分にイルカの人形がついたボールペン。

 昔セツと一緒に水族館に行った際に買った大切な物だ。買った当時は色鮮やかな青色のイルカだったが、今はすっかり塗装が剥げてしまってシロイルカになっている。

 これはこれでかわいい。

 コロコロと転がるボールペン。慌てて拾おうとしたが、僕の手より早く誰かの手が伸び、ボールペンを拾ってくれた。長野さんだった。

「先生ってイルカ好きなんですか?」

 長野さんは僕の年季の入ったボールペンを見つめた後、手渡しながら訊いてくる。

「ありがとう。まぁ好きだけど、変かな?」

「いえ。ただ病院にいる人は大抵貰い物のボールペンです。一つのボールペンを大切に使っている先生は珍しいと思って」

 病院には医薬品や医療機器メーカーの業者の出入りは多い。そしてそのメーカー名が入ったボールペンはよく営業から貰うので自分でボールペンを買っている医療スタッフはほぼいない。

 ちなみにこの医療メーカーの名前が入っているボールペンは非売品のため、医者と偽って合コンに参加するためにフリマアプリで高値で売買されているというのを僕は医者になって初めて知った。

「まぁイルカも好きだけど、大切なボールペンだから」

「なるほど。そういえば先ほど聞き忘れました。先生はどうして緩和ケア科を選んだのでしょうか?」

 長野さんは忙しなく動き、回診の準備を手伝いながら再び訊いてくる。今日の回診のペアは彼女だ。

「……話すと長くなるよ」

 大抵の人はこういうと理由は訊かないでくれる。誰も僕が緩和ケア科を選んだ理由を聞くのに時間を取られたくないからだろう。

「じゃあ今日仕事終わったらご飯行きましょう。その時に教えてください」

「え?」

 僕は慌てて訊き返す。こんなことは初めてだ。

「長く話せる時間があればいいんですよね。私、先生の仕事結構手伝ってますよ。なのでたまにはいいじゃないですか。今日は花金ですし。はい。じゃあ回診に行きましょう」

 長野さんはそう言うと背筋を伸ばしスタスタと歩いて行った。

「あ、ちょ、ちょっと待って」

 慌てて長野さんを追う。これじゃどっちが回診をするのかわからない。僕は頭の中で今日の業務を再度シミュレーションする。

 定時に上がれればいいんだけど……。


 
 仕事はめずらしく順調に終わった。まさに脳内のシミュレーション通りだ。今日の業務チェックと明日の予定の確認が終わったら、そそくさと帰宅をした。

 仕事がないならとっとと帰る。

 緊急業務に巻き込まれないためのテクニックだ。

 他のスタッフは夜勤者を除いて既に帰宅をしたようだ。スマートフォンを見ると長野さんからメッセージとURLが残されていた。

『二十時にこのお店でお願いします』

 URLをタップすると地図アプリが展開され、見てみるとそこは町中華の店だった。長野さんのイメージだとオシャレなバーでも行ってそうなのに、これは意外なチョイスだった。時間もあることだし、一度車で家に帰ってから電車で店に行くことにした。

 二十時五分前、指定された店に着く。

 店の前には曇りガラスの引き戸の入り口に頭上からは店名が書かれた赤いのれんが垂れており、僕はのれんをくぐりながら引き戸を丁寧に開けた。店内は汚れが染み付いたポスターや隅に積まれた漫画本など、お世辞にも綺麗とは言えない。ただテーブルやカウンターなど食事をする場所はしっかりと衛生管理がされている他、壁に大量に貼られた手書きのメニュー、厨房で寡黙に中華鍋を振るスキンヘッドの大将など、綺麗ではないが味があると言える店内だった。

「いらっしゃいませー」

 大将の奥さんらしき女将さんが愛想よく出迎えてくれた。女将さんはそのまま席に案内をしてくれようとした時、「先生こっちです」と店の一番奥のテーブル席に座っている長野さんが手を上げた。座っているためボトムスは見えないが、グレーのパーカーという実にラフなファッションだった。僕は女将さんに軽く会釈をすると、そのまま長野さんがいるテーブル席に座った。

 テーブルには既にビールが注がれた大ジョッキと、ザーサイや餃子などの数種類の中華料理が置かれていた。

「先生遅いんでもう始めちゃいました」

 長野さんが餃子をビールで流し込みながら悪気もなく言う。

「遅いって僕だって遅刻してないんだけどなぁ……」

「残業見込みで時間設定をしたのが間違いでした。先生お腹減ってるでしょ? どんどん頼みましょう」

「あ、うん……。じゃあ生中一つと、油淋鶏、あとかに玉」

 壁に貼られた手書きのメニューから目に入ったものを女将さんに告げる。女将さんは「はーい」と通りの良い声をあげるとリズミカルに注文を繰り返し、厨房の中にいる大将に注文を伝達した。

「先生、いいチョイスです」

「え?」

「ここの油淋鶏は絶品なんですよ」

 長野さんは大ジョッキのビールを一気に飲み干すと、再び大ジョッキのビールを注文した。

 すぐに注文していたビールがまとめて届く。僕は長野さんとカチンとジョッキの縁を当て、今日一日の労をねぎらい乾杯をした。

「それにしても、なんだか意外だ」

 僕は思わず長野さんに言った。

「何がですか?」

 長野さんは乾杯したビールをそのまま豪快に喉を鳴らして飲みながら反応する。

「いや、長野さんがこういう町中華のお店が好きなイメージがなかったから」

「普通に好きですよ。というより休み前はここって決めてるんです。家から近いし、安いし美味しいし、肩ひじ張らなくていい。それってご飯で一番大事なことじゃないですか?」

「確かに……」

 相変わらず長野さんは真顔で答える。その顔で言われるとなんだか怒られているように錯覚し少し萎縮してしまう。多分本人はそんな気ないんだろうけど。

「緩和ケア科、良いところですね」

 長野さんは大ジョッキをテーブルに置いて言った。ジョッキに注がれていたビールは既に半分の量になっていた。

「どうしたの突然?」

「私誤解していたんです。正直救急スタッフの中には緩和ケア自体に悪い印象を持っている人もいました。医療人の使命から外れているって。私もそう思ってなかったと言ったら嘘になります。ただ緩和ケアに異動して、幸せそうに亡くなる人をたくさん見ました。そんな人を見ると、これが医療人の使命ではないというのは口が裂けても言えないと思います」

 確かに緩和ケアというのは日本ではまだまだ発展途上の分野だ。『生きる』ことに主眼を置くのではなく『生き方』に主眼を置いている医療。命の最前線を走る分野から見たら奇妙に映るのも無理もない。

「まぁそういう考えがあるのもしょうがないよ。絶対に命を救うことを信条としている医療人からしたら、積極的な延命治療をしない僕達がやっていることは死神と同じさ」

「だから気になったんです。佐伯先生がどうして緩和ケア科の医者になったのかが。佐伯先生だって信条があるからこそ毎日患者さんのために頑張っているのでしょう?」

 長野さんは口を真一文字に閉じ、僕を見つめる。その目は力強く吸い込まれそうな目だった。

「話すと長くなるよ」

 僕がぼそりと話すと同時に、女将さんが油淋鶏をテーブルに運んできた。こんがりと揚げられた鶏肉に、刻みネギと醤油タレが多めにかけられている。ふわっと鼻に入る匂いを嗅ぐだけで口の中に唾液が滲み出た。確かにこれは美味しそうだ。

「知っています。だからこの店を選びました」

 長野さんは僕が注文した油淋鶏を先に取るとリスのように頬張る。

 昨日がセツの命日。それで今日、僕が緩和ケア医になった理由を訊かれる。何だか少し運命めいたものを感じた。

 セツ、いいかな? 君が生きた話を初めて……、いや二回目か。僕は久しぶりに人に話すよ。

 僕は間を置くために、腹式呼吸で一つ大きな息を吐いた。

「もう十七年前になるかな……」