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 柊と喧嘩した。喧嘩、と言えるほどの口論をしたわけでもないから、正確にはそれを喧嘩と表して良いのかは分からないけれど。

余裕のない彼に、俺が言葉を重ねて。結果、彼を怒らせた。そして、その時彼が言った一言はまだ、俺の心に深く刺さったまま、今も抜けないでいる。


 俺と柊が初めて出会ったのは、高校一年生の春。放課後の美術室。その日、たまたま美術室に忘れ物をした。そのことに気付いたのは、放課後に開催された数学の補修のあとだったから。一般棟の校舎にはもう、ほとんど人は残っていなくて。そろそろ部活も終わりに近づく時間だから、美術室も無人だろうか、なんて思いながら扉を開けた。

俺の予想に反して、部屋の電気はついていた。そっと中を覗き込めば、なにやら熱心にキャンバスに向かう、一人の生徒の後ろ姿が見えた。

それはまるで“昔の自分を見ているよう”で。チクリと胸が痛んだ。

胸の疼痛には気付かないふりをして、俺は美術室の中へと歩みを進める。その生徒が座る席の、ちょうど斜め横あたり。そこに配置された長机に、目当ての物を見つけたから近づいて。彼の邪魔しないよう、そっと取って帰ろう。

そう思った時だった。俺は床に落ちた何かに、足を取られた。一瞬の出来事だったから、何が起こったのか分からなくて。とっさになんの対処もできないまま、「うわぁっ」と間抜けな声を上げる羽目になった。

笑ってしまうような出会いだけれど、この日から、俺の毎日はちょっとずつ変わり始めた。

彼の絵を、初めて見たあの日から。

キャンバスの上に広がる絵は、なんだかとてもあたたかい色をしていた。それはこの、美術室の風景を描いものだった。だからきっとこの美術室は、彼にとってあたたかで、大切な場所なんだろうなと、ふとそんなことを思ったのを覚えている。

それから俺は、時々放課後の美術室に顔を出すようになって。その頻度が週に二回から三回に増えて、気付けばほとんど毎日、放課後はそこで彼と過ごすようになっていた。


 ある日、いつもみたいに柊が絵を描く姿を横でそっと見ていた時だった。彼は唐突にこちらを向いてこう言ったのだ。

「絵、描いてみないか」と。

じっとこちらを見つめてくる瞳に、俺は何と返せばいいのか分からなくなって。少しの間逡巡して、結局、差し出された絵筆を拒めなかった。だから、「上手く描けるか分かんないけど」なんて言いながらもそれを受け入れた。

絵筆を持ち、キャンバスに向かう。久しぶりのその感覚に、ドキドキと心臓が鳴った。それが緊張のせいなのか、胸を満たす喜びのせいなのかは分からなかった。

けれど久しぶりに感じるその高揚は、案外とすぐに体に馴染んでしまって。そうすると今度は、懐かしさと、それが同時に連れてくる痛みで、胸が締め付けられそうになった。

昔と違うのは、絵筆を持つこの手が“左手である”ということ。たったそれだけのことが、こんなにも俺を苦しめる。

どうしたって俺はもう、無邪気にキャンバスに向かっていた“あの頃の自分”には戻れないだ。

だって、俺の右手はもう二度と、自由に絵筆を握ることができないから。