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「うわぁっ」

人と人とが初対面で交わす言葉は大体決まっている。

「はじめまして」

「こんにちは」

「どうぞよろしくお願いします」

他にも幾つか挙げられるが、大方同じような意味を持つ、いわゆる挨拶ってやつだろう。

けれど、俺が初めて聞いた彼の声は「うわぁっ」という大きな叫び声だったし、そのあと俺たちが初対面で交わした言葉は「ごめん」という謝罪と、「いや、うん」という困惑が滲んだなんとも間抜けなものだった。

 俺は入学したばかりの高校で、迷わず美術部に入部した。周りは女子生徒ばかりで、男子生徒はといえば三年生の先輩が一人だけ。そんなだから最初こそ、部員の皆から注目されたものだけれどなんてことはない。大した愛想も可愛げもない俺は、すぐに周囲の興味の対象から外れた。

そこからは無難に部に馴染んで。今では放課後、一番最後まで残って絵の具を混ぜ返している、なんとも熱心な一美術部部員となった。


 その日も、いつもと同じ。放課後、「久東くん、鍵よろしくね」と最後の女子生徒が美術室を出て行って。そのあとは一人、残って絵を描いていた。

人がいるいつもの美術室も悪くはないが、こんな風に、誰もいなくなったあとのここも、俺は案外好きだった。

窓から差し込む夕陽。

時折そよぐ風になびくクリーム色のカーテン。

クラスの教室が並ぶ一般棟とは別に建てられた、特別棟の一角に位置する美術室。

ここに、あたりの喧騒は届かない。ただ、静かだった。まるで世界からここだけ切り取られたみたいに。取り残されたみたいに。


 だから、そんな静寂を突然破った声に、驚くなと言う方が無理だろう。背後で突然「うわぁっ」と弾けるような大声がして、俺は反射的に、それまで座っていた椅子から立ち上がって振り返る。

人間、突発的な出来事はスローモーションに見えると聞いたことがあるが、“これがそうなのか”なんて馬鹿みたいに冷静な感想が頭に浮かんだ。しかし、そんな思考とは裏腹に、体は驚き固まったまま動けなくて。

そうしている間に、気付けば俺は自身の前に立て掛けてあったキャンバスごと倒れて尻餅をついていた。そして俺に覆い被さるように、見事に体の正面から倒れ込んできたのが、(くだん)の彼、陽乃裕也だった。


「ごめん」

ガバリ、と漫画なら効果音が付きそうな勢いで起き上がった目の前の男子生徒がそう言って、俺を見た。対する俺はなんと言うか、呆気に取られていたものだから。

「いや、うん」

と、気のない返事しか返せない。そんな俺に何を思ったか、彼は俺をまじまじと見た後「頭、は打ってないよな」なんて呟いて。それからすっくと立ち上がると、倒れたキャンバスを床から起こした。同じく俺が倒れた時、周囲に散らばったであろうスケッチ道具の幾つかも、手際よく片付けていく。

「これ、ここでいい?」

彼が、落ちていた絵筆の一つをこちらに差し出して見せた時、俺はようやく我に返った。一人、しゃがみ込んだままなのが恥ずかしくて、急いで立ち上がる。

「うん。ありがとう」

平静を装ってそう言った俺に、彼は再度、申し訳なさそうに眉を下げた。

「いや、ほんとにごめん。忘れ物取りに来ただけだったんだけど。びっくりさせた。というか今更だけど、怪我はない?」

「大丈夫。びっくりはしたけど」

「そっか。いや、さ、床にこれ落ちてて、多分踏んで滑った」

そう言って彼が指差す先には、グニャリと潰れた絵の具のチューブ。

「お前のだよな。えっと、弁償、する?」