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 楠瀬と話した翌日の放課後、俺は裕也の教室を訪れていた。

「陽乃くんいますか?」

廊下側の席に座る、見知らぬ生徒に声をかける。裕也の名前を口にした時は、心臓が口から飛び出るかと思うほど緊張した。

「おーい、陽乃、お客さん」

そう言って呼ばれた彼がこちらを振り向き、目が合った。もう一度、俺の心臓がドキリと鳴った。



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「久しぶり」

「うん、久しぶり」

声を聞いただけで、込み上げてくるものがあった。あの頃は当たり前のようにすぐそばで聞いていた裕也の声。それが、こんなにも遠いものになるなんて、考えてもみなかった。

「ごめん」

「え?」

「ずっと謝りたかった。謝らないといけないのは分かってたのに。先延ばしにして、こんなに遅くなって、それもごめん」

「……あの日のこと?」

「酷いこと言った。俺、お前のこと何も知らなかったのに」

「俺の方こそ、ごめん」

「お前が謝る必要はないだろ」

「いや、あるんだ」

そう言い切った彼は、とても真剣な顔をしていて。だから「ちゃんと、話をしたい」という彼の言葉に、俺はそれ以上何も言わずに頷いた。

「行こうか」

「美術室」


 人がいなくなるまで少しだけ待って、俺と彼は、久しぶりに二人で美術室に入った。

「裕也の手のこと、聞いた」

「あー。楠瀬?」

「うん。ごめん」

「ははっ。あいつ昔からお節介なんだよ。ほんとに。まぁ、じゃあバレちゃったんだ。それなら仕方ない」

「できれば裕也の口から直接聞きたかったけど」

「え、何、ごめん。でも言うの、なんか嫌だったんだよ」

「理由、聞いてもいい?」

「お前優しいから、言ったら気をつかうだろ。そういうのなしでお前とは対等に、肩を並べていたかったんだ」

「それならなおさら、言ってよ。自分の隣を歩いてるやつのこと、本当は何も知らないなんて、そんな寂しいことないだろ」

「……そっか。そうかもしれないな」

「俺もお前のこと何も知らなかったら寂しい」と彼は困ったように笑った。それから一度、俯いて、今度は何かを決意した表情を浮かべて俺を見た。

「話したいことがあるって言ったよな。じゃあ聞いてもらおうかな。俺の話」

「聞かせて」

「さっき、教室の外で謝ったこと。ちゃんと理由があるんだ」

「うん」

「俺が元々の利き手だった右手で絵を描けなくなった話は、楠瀬から聞いたと思う。事故で、後遺症が残った。だから、俺は絵を描くことをやめた。辛かったんだ」

辛いのは当たり前だろう。昨日まで当たり前のようにできていた好きなことが、突然、できなくなる。夢へと続く道行を、突然、理不尽に奪われる。その辛さはきっと、当事者にしか分からない。

「なんとか左利きに修正して、それでも希望してた高校で絵を勉強することは諦めて。進路を変えて入ったこの学校で、お前と出会った」

彼の語りに、俺は必然、俺と裕也が出会ったあの日に思いを馳せる。窓から差し込む、眩い茜色の夕陽に照らされた美術室。そこに満ちた静寂を破って、突然現れた彼。

「お前の絵を初めて見た時、あったかいなって思ったんだ。あったかい絵だなって。あの日から、お前と過ごすようになって、お前の絵も、お前のことも大好きになった」

俺だって似たようなものだ。渡した絵筆を受け取って、俺の前で初めて絵を描いてくれた時。出来上がった絵を見て、きっと彼は優しい人なのだろうと、そう思った。柔らかなタッチで描かれたそれは、俺の心を惹きつけた。それだけじゃない。共に過ごす時間の中で、俺は彼という人間にも惹かれた。

「最初はただ見ているだけでよかったんだ。でも、お前が俺にもう一度絵筆を握らせてくれた。あの日、本当に久々にさ、真剣にキャンバスと向きあったんだ」

彼はそう言って、どこか遠くを懐かしむような表情を浮かべる。

「楽しかったんだ。少し前まで、絵を見るのすら辛かったはずなのに。あの時、俺は確かに楽しかった」

しかし、それまで穏やかに話していた彼の表情が、「だから」と続けた言葉のあとに、突然曇る。

「ボヤ騒ぎがあったあと、お前が筆を置くんじゃないかって考えが頭を過って。だって、あの絵にどれだけ真剣に向き合ってたか、近くでずっと見てた俺は知ってたから。それが駄目になって……。昔、進学を諦めたあの頃の俺と、お前の姿が重なってこわくなったんだ」

「俺が、絵をやめるのが、こわい?」

「そう。俺は無意識のうちに、自分の姿をお前に重ねてたんだと思う。だから、お前が絵をやめることがこわかった」

「どういうこと?」

「俺は多分、俺の代わりに、お前がずっと絵を続けて、この先もっと絵を勉強していく未来を夢見てた。自分が叶えられなかったことを、お前に託そうとしてた。あの時『絵をやめないよな?』って聞いて、お前に『続ける』って言ってもらいたかったんだ。でも、それはお前のためじゃない。あの時はお前のこと、本当に心配してるつもりだったんだけどさ。結局、元を正せば全部自分のためだったんだってことに気が付いた」

そこまで言って、彼は再び真っ直ぐな瞳で俺を見た。

「だから、ごめん。それから、ありがとう。お前の言葉で目が覚めた」

「それって、あの日、俺がお前に背を向ける直前に言ったやつ?」

「そう。最初は正直、傷ついたよ。簡単な気持ちってなんだよって。こっちはもうずっと長いこと苦しんできたのにさ」

「本当にごめん」

「違う。謝ってほしいんじゃなくて。……あのあと、しばらくして冷静になって考えてみてさ、気付いたんだ。あながちその言葉が間違ってなかったんだってことに。俺、逃げてたんだよ」

彼の表情に、悲しげな自嘲の笑みが浮かぶ。

「あんなに絵が好きだったのに。右手が駄目なら左手で描こうなんて、思ってもみなかった。もう終わりなんだって勝手に決めつけて。これまでやってきたことなんて、全部無駄だったんだって。そうやって一人で腐って、簡単に諦めた」

「そんなの……。誰だってそうだろ。そんな理不尽なことがあったら、苦しくて辛くて、なんで自分なんだって。そんなの、当たり前だよ」

「優しいな。ありがとう。でもさ、そこで終わらせるか、また立ち上がるかは自分次第だったはずなんだ。俺は自分の状態を、お利口に理解したふりで自分に納得させて。本当は、絵を続ける覚悟から逃げてただけだった。でも、やっぱり諦めなんてつくわけなくて。お前に俺の理想の未来を押し付けてた。でもそれは、違うだろ。許しちゃいけないだろ」

どれだけの間、彼は自分の心と向き合ってきたのだろう。痛みも、苦しみも、悲しみも、全部抱えて。それらを丁寧になぞって。そうして自分と、自分の心と向き合って。

「だから俺、決めたんだ。もう逃げないって。俺さ、美術大学を目指す。本気でやるよ」

「え?」

「もう三年だしさ、今からじゃ間に合わない。だから浪人して、一年遅れて、大学を受験する」

そう言った彼の目にもう迷いはなくて。その瞳には、なんだかとても眩い光が宿っているように見えた。

「そっか……そっか、うん」

「だから待ってて。お前が先に、そっちで」

そう言って笑った彼の顔を、俺はきっと忘れない。