「遠くまで悪い」

「いや、どっちにしろ帰る方面同じだよ。知ってるだろ」

そう言った俺に、彼は苦笑する。

「あぁ、そうだったな。ちょっとそこ、座って話そう」

そんな彼の視線の先には、青色の、ちょっと古びたベンチが一台。二人で並んで腰掛けて、改めて話を促した。

「それで、話って?」

「お前ら、同じもの買うのな」

こちらが発した問いには答えず、楠瀬は俺が手にしたオレンジジュースのペットボトルを指さした。それはさっき、ここに設置された自販機で購入したものだ。

「お前らって」

「お前と、陽乃」

彼の口から出た“陽乃”の名前に、俺は蓋を開けるためペットボトルに落としていた視線を思わず上げた。

「陽乃?」

「去年さ、あいつともここに来たんだ」

「……うん」

「それで、話を聞いた。お前と、陽乃との間にあったこと。俺が『話せ』って言ってさ」

「そっ、か」

あれから結局、学年まで変わってしまった今に至るまで、俺は裕也と一度も話せていない。時々廊下ですれ違うこともあったけれど、どちらも声をかけなかった。俺は、かける勇気がなかった。だって、きっともう嫌われている。

けれど、嫌われるよりもっとこわいのは、彼に忘れられること。彼がもう、俺のことを何とも思っていないと知ってしまうこと。怒りや嫌悪すら向けられず、一緒に過ごした時間は初めからなかったみたいに忘れ去られてしまうこと。

彼の隣を歩く、俺の知らない誰か。俺を忘れた彼が、その名前も知らない誰かと笑っている姿を見るのがたまらなくこわくて。遠くで彼の姿を見かけたら、決まって先に視線を逸らしている自分がいた。

「俺、今日まで待ったんだよ。お前が部活、引退する日まで。絵がお前と一旦は何の関係もなくなるまでさ。勝手に美術部引退の日を、その区切りにさせてもらった」

「待ったってなんで? 何を?」

「頼まれたんだ、陽乃に、『言わないで』って」

「……話が見えない」 

「なぁ、なんでまだお前達、仲直りしてないんだよ」

「俺が悪いんだ。陽乃から話聞いたなら知ってるだろ? 二年の時に起きたボヤ騒ぎの件。その時、俺の絵がどうなったかも」

「あぁ、知ってるよ」

「八つ当たりだったんだ。自分のことでいっぱいいっぱいになって、余裕なくして、裕也に酷いことを言った」


『お前と違って、そんな簡単な気持ちで絵を描いてたわけじゃない』


あの日裕也にぶつけた言葉を、今でも覚えている。俺のことを心配してくれた彼に返すにはあまりにも似合わない、身勝手で、酷い言葉。

どうしても大学で、絵を学びたかった。けれど門戸はとても狭い。掴めるチャンスは何だって掴んでおきたかった。絵画の甲子園、その受賞者に与えられる推薦枠も、その一つだった。そして、それだけじゃない。

上手くならなければ。

受験までに。

誰よりも上手く。

そんな思いが焦りとなって、あの頃少しずつ俺を苛んでいた。なんだか俺ばかりが必死になっているような気がして、本当はそんなことなんて、なかったのに。

みんな、何かに悩んで、苦しんで、それでも前に進もうとしている。そんな人が沢山いることくらい、言われなくても分かっていたはずなのに。

裕也との時間が好きだった。彼といると、いつでも心が穏やかに凪いだ。

彼の笑顔が好きだった。これから先も、二人で笑っていたかった。

それなのに、一つの揺らぎで俺は簡単に彼を傷つけた。傷つけることができてしまった。そんな自分が、ひどく恥ずかしくて。

「陽乃に言ったことも聞いた」

「うん」

「お前さ、あいつのこと、多分お前自身が思ってるより全然知らないんだよ。自惚れるなってやつ。まぁ、俺が言うのもなんだけど」

そう言った彼が一つ、ため息を地面に落とす。

「本当は俺が言うことじゃないんだけどさ。お前達があんまりにも、放っておいたらいつまでもこのままみたいだからさ」

「……」

「覚えてる? 一年の頃、お前に”陽乃は昔絵を描いてた”って言ったこと」

そう言われ、懐かしい記憶が蘇る。一年生の、あれは部活道に行く前の、教室でのこと。

「覚えてる」

「絵をやめた理由も、そもそも絵を描いてたことも、陽乃は結局お前に何も言わなかったんだろ?」

「あぁ」

「俺、勘違いしてた。あいつ、お前になら話すだろうって。でも逆だった」

「逆?」

「これは俺もあとになって気づいたんだけどさ、自分の“特別”に入れた相手には、肝心なこと言わないやつだったんだ、陽乃は。だからお前には言わなかったんだよ」

「特別って、俺が?」

「他に誰がいるんだよ」と、彼が苦笑いを浮かべる。

「多分言って、かわいそうとか思われたら耐えられなかったんだろ。対等でいたい相手には尚更」

「かわいそうってなんで」

「陽乃さ、もともと右利きなんだ」

「……でも絵筆は左手で」

「事故にあったんだ。中学三年の夏」

言葉が出ないとはこういう状態のことなのかと、この時身をもって初めて知った。驚きと困惑、その両方の感情が一度に波のように押し寄せて。言葉は喉をつかえて出てこない。

「もともと絵を描くのが大好きでさ、暇さえあればいつも描いてるようなやつだった。もっと絵を勉強したいって頑張って、高校は美大の附属高に推薦が決まってた。それなのに、ほんと神様って残酷だよな」

「事故で……?」

「右半身に麻痺が出た。リハビリして、中学を卒業する頃にはもう日常生活自体は問題なくこなせるようになってたよ。でもさ、右手、細かい作業をしようとしたら指先が震えるんだって」

ーーそれこそ、絵筆を握った時なんかーー

「……完全に、治らなかったのか?」

「そう。それで、まぁそんなんじゃ附属高への進学も怪しい。だからあいつは、自分から辞退した」

「そんな」

「陽乃に代わって言うけどさ、あいつは簡単な気持ちで絵を描いてたことなんてないよ」

そう言われて、またしばらく何も言えなくなった。何か言わなければとそう思うのに。焦れば焦るほど、思考は空回りして。けれどそんな俺の言葉を、楠瀬は辛抱強く待ってくれた。

だから、一つ、深呼吸をして。俺は何とか自分の思いを吐き出した。

「何も、知らなかった。いや、違う。知ろうとすれば、知れたかもしれないのに。俺は勝手に知った気になって、あいつのことをちゃんと見てなかったんだ」

やっとのことでそう言った俺に対し、隣に座る彼は本日二度目のため息を吐いた。

「お前らほんとさぁ。なんなの? なんでそんなとこまで似てるんだよ」

それを聞いて、俺の肩がビクリと跳ねる。

「あっちの事情を聞いたら『俺が悪い』、こっちに事情を話しても『俺が悪い』、挙句二人揃ってお互い合わす顔がないと思ってる」

楠瀬は一度、そこで言葉を切った。静かにそう言った彼は一転、顔をあげると、今度は彼らしからぬ強い口調でこう続けた。

「合わせよ顔を! 悪いと思ってるなら謝ればいい。お前らに足りないのは自己内省の時間でも、自己嫌悪の時間でもない。話す時間だよ。言葉にする努力が、お前ら二人とも圧倒的に足りてないんだよ」

力強い二つの瞳が俺を捉える。彼の言葉はなぜだろう、ストンと俺の胸に落ちた。

まるで憑き物が落ちたみたいに、なんだか肩の力が抜けてしまって。そうすると自然、頬を温かなものが伝っていった。

「本当は泣き虫なところまで一緒だな」

「……裕也も泣いたの?」

「泣いたよ。あぁ、ほんと、お前らむかつくほどお似合いのコンビだよ。さっさと元の鞘におさまれ」