スタートダッシュを切り損ねた僕は、高校2年になっても教室の隅でひっそりと息をしていた。
入学直後になぜか"真面目"とレッテルを貼られたので、近寄りがたくなったのだろうか。
結果的に僕を苦しめることになった原因を、肝心の僕は知らないままだ。
僕がクラスメイトだと認識される唯一の時間、いわゆる"パシリくん"になっている時だけらしい。
「ねぇ、パシリくん。職員室にこれ持っていってもらいっていい?」
随分とストレートな物言いのこの人は確か今日の日直だった杉井さん。
クラスでは一軍の中心にいるような杉井さんが僕に話しかける理由は僕が"パシリくん"だからであって、それ以外のなんでもない。
「ほら、今日私予定あってさ。パシリくんにしか頼めなくて」
杉井さんはそう言いながら教卓の上に乱雑に置かれたクラス全員分の授業ノートを指差している。
僕は、そんなの知らないよと思いながらも、口が勝手に「わかった」と言う。
引き受けてから、面倒だと思った。
それもそのはず、40人分のノートなんて一度で運びきれる量ではない。
最低でも、僕の教室のある3階から提出ボックスのある1階までを2往復することになる。
気が乗らないのは勿論、帰宅部である僕には筋肉痛という余計なものまでついてくるだろう。
僕はいつもそうだ。
つくづく断る勇気が欲しいと思うのに、口ばかりがいい格好をして最終的に僕が頭を抱える羽目になるのだ。
昨年の春先に僕が想像していた高校生活は、もっと華やかでずっと明るかった。
馬鹿げたことが一番面白くて、家に帰るとそればかりを思い出す。
明日の小テストの存在を忘れるくらい笑えるのがちょうどいい気さえする。
それが理想だと思っていたし、勉強はなんとなくで平均を走るくらいにいられたらと思っていた。
中学生の僕は、そんな理想的な毎日を過ごしていたと思う。
なぜだ。
いつどこで道を逸れてしまったのか。
ノートを抱えて重い足取りのまま往復しながら考えてみるけれど、やっぱり理由は見当たらない。
それもそのはず。
僕は最低限の課題をこなして最低限与えられた仕事を全うするだけだ。
僕がしてきたことに特別なことはないけれど、それを真面目というらしい。
変わった世界に身を置いてしまったみたいだ。
簡単な話、頼みを断ればいいだけのことだ。
けれど、断った後の表情を想像するだけで寒気がする。
僕のことをどう思うだろうか。
僕のせいで人間不信になったらどうしよう。
そんな、周りの人を傷つけたくないという僕の生き方はいつも僕を孤独に追いやる。
「今帰りか?」
聞き慣れた声に振り返ると、自転車に乗った、友人の黒田祥吾(くろだしょうご)の姿があった。
祥吾とは小中が同じで度々同じクラスになっては一緒に帰ったものだ。
そんな祥吾はこの春から僕と同じ高校、それも僕のクラスに転校してきた。
久しぶりに再会した祥吾は、僕の知っている祥吾のままだった。
勿論、良い意味で。
「そうだけど」
「どうした、なんかあったか?」
「別に、変わらずだけど」
「そう、ならいいか」
歩いている僕に追いついたと思えば、僕の歩幅にあわせて自転車を漕ぎながら顔をじろじろと見てくる。
無言の中の視線に耐えかねて必死に話題を探す。
いくら友人とはいえ、良い気はしなかった。
「祥吾は?バイト?」
「まぁそんなところだな」
祥吾がアルバイト禁止の学校で隠れてバイトをしていることを僕は知っていた。
けれど、僕は見て見ぬふりをしていた。
祥吾の家庭が裕福ではないというのを知っていたし、祥吾が豪遊のために働いているのではないというのも勿論長い付き合いの僕は知っている。
そんな祥吾を僕は尊敬していた。
家の事情がどうであれ、僕はリスクを冒してまでバイトはしない。
俺がするとしたら、お小遣いはいらないとか、外食はしないとか。
頑張ってもそれくらいだと思う。
だから、祥吾を尊敬していたし心を許している部分も少なからずあった。
「お前また手伝ってたろ?今日は日直の代わりか?」
「まぁ、そんなところかな」
中学の時の僕を知っている祥吾は、久しぶりに再会をした僕を、過去の僕と照らし合わせて見ているみたいだ。
気にかけてくれているような気がするのも、きっと祥吾が探す僕が姿を消しているからだ。
「なぁ、それに一生懸命になる必要あんのか?友達付き合いなんてただの暇つぶしだろ」
突然何を言い出したかと横を向くと、真剣な眼差しで僕を見る祥吾と目が合った。
そんなことを思っていたのか、とは思ったけど、それは一瞬だった。
続いた言葉で、祥吾が僕を大事にしていないわけがなかった。
「そんなことにお前の人生を譲ってんじゃねぇよ」
そう言う祥吾は突き放すような口調ではない。
それをわかっている僕はなんとも思わないけれど、知らない人からはよく誤解されるのを見てきた。
「生きていくためには交友関係は広く浅くとか言うじゃん。けどさ、んなことどうだっていいんだよ。友達を超えるやつが1人でもいれば」
祥吾は時々、人生2週目かってくらいものを知ったような言い方をする。
祥吾の育った環境がそうさせたのだとしたら申し訳ないけれど、僕はそんな祥吾だから付き合っていて気が楽なのかもしれない。
「お前はお前のために生きろ。お前以外の奴を自分の人生の主人公にすんな」
ふいに心に明かりがともり、徐々に光が大きくなっていった。
「俺はこんなんだからよく馬鹿にされる。でも、お前だけはちゃんと俺の中身を見てくれるだろ?」
「お前のおかげで俺はひとりじゃなかった。だからさ、俺はお前にも幸せになってもらわなきゃ困るんだ」
「大体お前はみんなに優しすぎる。自分にももっと優しくしてやれよな」
祥吾は僕が言い返せないように間を空けずに続けた。
長い付き合いだけれど、祥吾の熱い思いを聞いたのは初めてかもしれない。
それだけ僕のことを思ってくれているのが伝わってきた。
「俺は甘すぎるけどな」
それには全くどの口が言っているんだと思った。
僕は祥吾の努力を知っているからこそ、僕も頑張りたいと思えるのに。
これを言えば謙遜しあって面倒になるだろうからあえて言わないでおく。
「無理してすぐに変わろうとすんなよ、ほら、せっかく並べてきたドミノが全部倒れちゃうからな」
祥吾が神妙な面持ちで続けたと思えば
「秀逸な例えだったろ?」
と言い出したので、思わず噴き出してしまった。
「いいんじゃない」と僕が肯定すると、
「お前は優しいな」と夕焼けに満面の笑みを咲かせた。
いつぶりだろうか、こうして人前で思いきり笑ったのは。
祥吾の秀逸な例えで空気はガラッと変わり、いつの間にか胸が張れたような気がする。
祥吾の基準で行くと、僕にとっての祥吾は友達を越えた存在なのだと思う。
いや、祥吾の基準じゃなくてもきっとそう。
「ありがとう」
「なんだよ、急だな」
少し前を行く祥吾の頬が茜色に染められていく。
それに対抗するみたいに、僕の心は青く澄んでいた。