通学路の途中にある歩道橋を登り、高欄の上に両手をついて軽く背伸びをした。そのままほんの少しだけ身を乗り出し、道路の上を忙しなく行き交っている多くの車を順に見送っていく。何も起こらない、変わらない日常が、ただただ目の前を通り過ぎていくだけの時間。
 俺を支える高欄が突然壊れてはくれないかと考えた。車が俺目掛けて吹っ飛んでくるほどの大事故が起こってはくれないかと考えた。自暴自棄になった通り魔が俺を刺し殺してはくれないかと考えた。照りつける太陽が俺に向かって落っこちてこないかと考えた。
 さまざまな可能性を考え、妄想したところで、それが現実になったことなどない。死んでもいいと思っている俺が死なず、死を想像したことなどないであろう罪のない人々が死んでいく世の中。殺されていく世の中。都合よく人生は進まない。
 死にたいわけじゃない。俺は、死にたいわけじゃない。死んでもいいだけだ。自殺は怖い。自殺は後悔する。そもそも、自分の首を吊るような勇気は俺にはない。だから、それは却下。
 でも、自殺に恐怖はあっても、突然誰かに刺されたり、事故に巻き込まれたり、そうして死ぬのは怖くない。感情が追いつく前に死ねるから。怖くない。
 俺は、外発的な死が訪れるのを、静かに待っている。待ち続けている。この世の窮屈さに、息苦しさに、生きづらさに、それとなく気づいた時から。
 事故を期待してふらりと前屈みになり、両手両腕を高欄の外側へと落とすようにだらりと垂らす。高欄は頑丈で、少しも軋まない。今日も壊れることはないな、と昨日の今日も思ったことをまた今日も思って、力を抜いた両手をぷらぷらとさせていると、視界の隅で誰かが立ち止まるような気配を感じてそろりと顔を向けた。
「そこから落ちるつもりなら、俺も一緒に落ちようかな」
 同じ制服を着た男子生徒と目が合い、明るく快活な笑みを見せられる。裏表のなさそうな表情だった。その笑顔が少し眩しく感じる。う、眩しい、と目を眇め手を翳し、思ったままに冗談っぽく口にすれば、そうなんだよね、俺、オーラが発光するほどの存在感あるから、と同じように冗談で返された。俺も彼も、コミュ力だけは高いようだ。
 重さなんて感じないほど軽い調子で噴き出すように笑い合い、転落防止用の柵に再度だらりと凭れかかる。隣の男子生徒、潮崎零(しおざきれい)は、そこに両肘をついて体重を預けた。目線は下。何かを想像し、思いを馳せているかのような眼差しだった。
 潮崎と言葉を交わすのは初めてだ。俺は潮崎を知っているが、潮崎は俺のことを知っているのだろうか。知っているから声をかけたのだろうか。自分と似たような匂いがしたから声をかけたのだろうか。
 危ない、などと注意するでもなく、やめろ、などと制止するでもなく、一緒に落ちようかな、と同じ土俵に上がって俺の隣に並んだ潮崎の思考が少し気になった。
「俺の名前知ってる?」
「知ってるよ。湯峰響(ゆみねひびき)くん」
「正解」
「逆に俺の名前知ってる?」
「え、知らなーい」
「嘘じゃん。それ知ってる言い方じゃん」
「あ、バレた? 潮崎零くんだろ?」
「え、ちがーう」
「違うのかー、って、何だよ、仕返ししてんじゃねぇ」
 とん、と小突くように潮崎の肩を押すと、わー、落ちるー、とわざとらしく言い、彼は両手を下の道路へと伸ばすように垂らして戯けて見せた。俺とほぼ同じ格好になる。同じ目線になる。顔を突き合わせて、また小さく噴き出した。
 ここから落ちてしまってもいいと二人して考えているのに、空気の重たさや深刻さは感じない。笑い合っているからだろうか。浮かぶ笑顔が作り物の仮面ではないからだろうか。いかにも、病んでます、というような負のオーラが、潮崎にも、きっと俺にもないからだろうか。
 ふわふわと軽いのは良い。熱弁を振るわれるよりも良い。無闇に深入りしてこないのも良い。一緒に堕落してくれるのも良い。この緩さは、嫌いじゃない。潮崎の雰囲気も、嫌いじゃない。
「湯峰くん」
「んー?」
「このままだと、学校、遅刻するね」
「あー、そうだな」
「もういいかな」
「もういいだろ」
「じゃあ、どっか遊びに行こうよ」
「遊びー?」
「うん、どうせ落ちるならさ、そうなる前にやりたいことしない?」
「やりたいこと……」
 呟き、歩道橋の下を潜り抜けていく車を眺める。やりたいことだよ、と潮崎はどこかうきうきとした様子で繰り返した。
 いつもだったらもう学校へ向かっているだろうが、今日はそんな気分にはならない。なれない。隣に潮崎がいるからだろうか。そうかもしれない。狭い教室に囚われるよりも、外で潮崎といる方が楽なような気がする。
 潮崎は俺を変な目では見ない。死にたがっている、死んでもいいと思っているような俺を、異質なものとしては捉えない。普通に接してくれている。落ちるなら、自分も落ちると言って。
 その言葉が、俺と目線を合わせるようなその言葉が、心の片隅の方をギュッと掴んで離さない。他の人とは明らかに違う、不思議な雰囲気を放つ潮崎のことを、もう少し知りたい。何かの拍子にここから落ちてしまうのは、外発的に死んでしまうのは、その後がいい。死ぬ未来は、まだ向かってくるな。
「……このまま学校サボって、カラオケ行ったりゲーセン行ったり、どこか適当に散歩したりしたいな」
 潮崎と。彼に目を向け、そうして、だらりと伸ばしていた腕を曲げる。柵を手で押すようにして歩道橋の内側へ身体を収めた俺は、まあ、ありきたりなことだな、と大きく伸びをしながら付け加えた。
 学校は、一度でもいいからボイコットしてみたかった。誰しもが考えたことのある行動の一つなのではないだろうか。ただ本当にそれを実行する勇気がないだけで。でも、ちょうどいい機会だ。潮崎に差し伸べられた手を取り、皆が進む道に逆らって、ふらふらと少しだけ寄り道をしてみようと思う。
 今日は学校には行かない。行かずに遊んで、背徳感に高揚して、思いっきり楽しんでから、いつか訪れるであろう死を待とう。潮崎と一緒に。
「よし、決まりだね。今日は悪い生徒になろう」
 ぴょん、と飛ぶように高欄から離れ、にひひ、と秘密を共有し、小さな悪戯を企むような妖しげな笑みを見せる潮崎に、やはり興味を惹かれる。
 順風満帆な日々を送ってそうなのに、落ちるつもりなら一緒に落ちようかな、などと俺の横に並ぶ潮崎の死生観がどんなものなのか知りたい。が、それを尋ねるのは野暮だ。潮崎が俺に何も聞いてこないように、俺も潮崎に聞くことはしない。これくらいの距離感の方が、いくらか息はしやすかった。
「早速カラオケにでも行こう」
 とりあえず三時間。右手の指をピンと三本突き立てて見せた潮崎は、くるりと軽快に反転して学校へ続く道とは逆の道を進み始めた。その足取りは軽く、彼が作った轍を躊躇なく踏んだ俺の足もまた、軽かった。
 罪悪感を消し去るほどの高揚感に包まれながら、俺と潮崎は、待っている死が到着する前に、やりたいことにぐっと手を伸ばした。死を望み、憧れる自分のことは、お互いに打ち明けようとはしないまま。

 もう既に授業が始まっている時間帯に、俺と潮崎は胸を高鳴らせながら堂々とカラオケ店に足を踏み入れた。平日の朝で、おまけに制服を着ているために怪しまれてしまうだろうが、店員は怪訝そうに首を傾げて見せただけで普通に応対してくれた。いちいち干渉するほどのことでもないのだろう。後でこっそり学校に連絡されているかもしれないが、その時はその時だ。今は今で楽しみたい。
 指定された個室に入り、ソファーにどかりと腰を下ろす。もう本当に引き返すことはできない。でも、後悔はなかった。どうせ死ぬのなら、いつか落ちて死ぬのなら、思いっきり羽目を外してもいいんじゃないか。無論、犯罪に手を染めない程度に。
「湯峰くんこれ見て、履歴が凄いことになってる」
 座って早々、隣でタッチパネルを操作していた潮崎がずいと身体を寄せてきた。一つの画面を二人で共有するとなるとどうしても距離が近くなってしまうが、潮崎は特に気にした様子もない。男同士だからだろう。俺も彼に合わせようと、努めて気にしないようにした。
 思いつきでカラオケと言ってしまったが、密室で二人きりになってしまうこの空間に身を置くのは少しまずかったかもしれない。選択を誤ってしまったことに今更気づいたところで時既に遅し。変な気を起こさないよう、潮崎が指し示す画面だけに注目することにした。
「これ、同じ曲ばっか続いてるよ。歌い手の人とか、歌うま選手権とかに出る人がめちゃくちゃ練習したのかも」
 画面を指でスクロールしながら、潮崎はにこにこと楽しそうに声を上げる。履歴に何回も連続に残っている曲は、今話題のアニメの主題歌だった。アップテンポで早口で、なかなか難易度の高い曲だ。その分、歌えたらとても気持ちよく、かっこよくもなれるであろう曲。何度も流して歌った人は、納得のいく仕上がりになったのだろうか。
「湯峰くん、これ歌ってみる?」
「え、歌えるわけがねぇ」
「大丈夫大丈夫、歌える歌える」
「適当なこと言ってんな」
「えー、歌下手?」
「下手だよ、下手下手」
「それは逆に聴いてみたいんだけど」
「耳痛める。腐る」
「腐るって。そんなことないよ。せっかくカラオケに来たんだから歌ってみてよ」
「歌う、何かは歌うけど、その曲は難しすぎて無理」
「大丈夫、イケメンな湯峰くんならいける。俺が保証するよ」
 ね、だから、ほら、歌ってみてよ。納得できるはずもない強引な理論で俺に歌わせようとする潮崎の指が、今にもその曲を流そうと企てている。阻止しなければ。距離がやけに近いからともだもだしている場合ではない。相手にその気はないのだから、俺もその気はないつもりで接しなければ不自然だ。勘付かれるわけにはいかない。その指で画面を弾かれるわけにはいかない。
 覚悟を決め、決意を固め、普通を装い、もうなるようになれと咄嗟に潮崎の手を掴んでタッチパネルとの接触を止める。目を見開いてこちらを見た潮崎と思っていたよりも近距離で視線が交わり、ほぼ無意識のうちにしてしまった自分の行動に目が泳ぎそうになるのを吐いた息と共に誤魔化した。
「そういえば、潮崎は確か、オーラが発光するほどの存在感があるんだっけ?」
「え、え……? え……?」
「これはアイドルの曲。だから、俺よりも断然存在感のある潮崎が歌った方がいいに決まってる」
 潮崎は今輝いてる。眩しい。凄く。眩しすぎる。本当にアイドルみたいだ。潮崎はアイドルだ。顔がめちゃくちゃ良いアイドルだ。よし、歌え。俺もまた、説得力のない理論で潮崎を煽り散らかし、え、え、と困惑か混乱かしている彼を無視して、手は掴んだまま空いた片手で画面に触れようとした。そのタイミングで、失礼します、と注文していた飲み物を運んできてくれた店員が姿を現し、心臓を跳ねさせてしまった俺は、やましいことを隠すかのように反射的に潮崎から手を離してさりげなく空間を広げた。
「メロンクリームソーダです」
「あ、ありがとうございます」
 店員は訝しむこともなく、至って普通に、メロンクリームソーダを二つ、それぞれストローを添えて机の上に置いた。そのまますぐに個室を出て行く。店員がいなくなった空間には、妙な気まずさだけが残った。
 上がっていた熱が少しずつ落ち着き、冷静になる。俺はメロンクリームソーダを一つ引き寄せ、はい、ともう一つを潮崎の前に持ち運んだ。ありがとう、とぐるぐると渦を巻いていた思考からようやく抜け出したような潮崎が礼を言う。そして、ほぼ同時にストローを刺し、ほぼ同時にメロンクリームソーダを飲み、ほぼ同時に机の上に置いた。それがとてもおかしくて、考えていることが同じのようで、声を抑えきれずに笑ってしまった。しょうもないことで笑うのが、楽しかった。
「ああ、もう、びっくりした」
「何が?」
「湯峰くんが突然手を掴んできたことだよ」
「……あー、ごめん、つい。俺も必死だったから」
「びっくりしすぎて、え、以外の語彙を奪われちゃったじゃん」
「ごめんごめん」
「……でも、ああいうことはさ、他の人には、特に女子には、しないでほしいな」
「……え?」
「だって、普通に考えて、不意に手を掴まれてあんなこと言われたら、男子はないかもだけど、女子は勘違いするじゃん」
「……潮崎、男なのに、俺が女子に勘違いされたり、させるようなことしたりしたら、嫌なわけ?」
「……あ、や、えっと、そ、そういう意味じゃなくて」
 あは、はは、俺、何言ってるんだろう。まだ少し驚きの種が残ってるのかな。ごめん、今の忘れていいよ。聞かなかったことにして。そうして。よし、歌う。歌うぞ。湯峰くんに煽られたから、歌ってやる。初めて取り繕うような下手くそな、引き攣った笑みを浮かべた潮崎は、自分の発言を文字通りなかったことにするかのようにタッチパネルを操作して。例の難曲を送り込んだ。程なくして、曲が始まる。潮崎が、気を紛らわせるように歌い始める。
 俺の挑発に乗ったことや、意味深な台詞を口にしたことについて、本人が一番動揺している中、わざわざ突っ込むようなことはしなかった。墓穴を掘りそうになった潮崎を無闇に攻めたら、自らをも墓穴を掘ってしまいそうだと思ったからでもある。
 俺がそういうセクシュアリティーを持っていることには、きっとまだ、潮崎は気づいていない。だから、俺もまた、何も聞かなかったことにしようと思った。潮崎も俺と同じかもしれない可能性が垣間見えたとしても、気づかなかったことにした。潮崎自身がそれを望んでいる。もし本当にそうなら、気持ちが分かるから、言わない。聞かない。
 俺はそうして生きてきた。自分でその道を選んで逃げてきた。隠して、隠して、逃げ回ってきた。今更、必死に隠してきたものを大胆に見せることはできない。簡単じゃない。
 誰に決められたわけでもなく自分で選択した道を進んでいくにつれ、道幅が狭くなり、酸素が薄くなり、呼吸が苦しくなった。でも、それは自分の責任だから、誰のせいにもできない。誰のせいでもない。全部、自分が背負い込むしかない。
 他人と少し違うことでこれほど苦しんでしまうのなら、もう、死んでもいい。そう思った。そう考えるようになった。そんな些細なことで、死を切望するようになった。それくらいのことでと笑われるようなことで、死を憧憬するようになった。それでも、俺にとっては人生を揺るがすほど大きなことで、馬鹿じゃないのかと指をさして一笑に付すことはできなかった。それができれば悩んでなどいない。いつ死んでもいいなどと思うはずもない。俺はきっと、マジョリティーにはなれない。
 隣でマイクを握り、苦しげなブレス音を響かせながら必死に歌っている潮崎を尻目に、俺はメロンクリームソーダをこくこくと飲んだ。曲は後半に入りかけている。間奏がほぼないために、ずっと歌いっぱなしになっている潮崎は本当に苦しそうで、無理、これ、無理、と悲鳴を上げていた。画面に映る歌詞は、悪戦苦闘する潮崎を置いて、煽って急かすように色を変えながら無慈悲に流れ続けている。そのダメージは大きく、真正面からそれを受ける潮崎がどんどんボロボロになっていくようだった。
 流石に可哀想になってしまい、俺は未使用のマイクを手に取りスイッチを入れた。歌うことを諦めかけている潮崎がこちらを見るような視線を感じ、そっと目を合わせて少し笑ってみせる。笑い合ってばかりだったが、今は俺だけが笑っていた。潮崎の声は完全に止まっていた。
「俺も一緒にボロボロになるから」
 そう前置いて、ぽとりと落ちたバトンを拾って繋ぐために、俺はゆっくりと呼吸を繰り返しながらマイクを口元に近づけた。そして、タイミングを見計らって声を乗せる。音に乗る。
 途中参戦だったからか、最初の方の音程が上手く取れなかったが、徐々にその乱れも少なくなり安定していった。意外と歌えているだろうか。歌えているかもしれない。でもすぐに余裕がなくなる。
 歌詞と歌詞の僅かな隙間で息継ぎをする。してもそれほど吸えていないらしく、すぐに酸素が足りなくなる。必然的に息継ぎの回数が増える。吸って、吐いて吐いて。吸って、吐いて吐いて。明らかに吐き出す量の方が多く、色々と間に合わない。口も舌も肺も音も忙しい。
 足りない酸素。一撃一撃が効果抜群で、あっという間に削られていくHP。これでは潮崎の二の舞だと思ったが、一緒にボロボロになると言ったのだ。当たって、当たって、砕けて、砕けて。格好悪いところを恥ずかしがらずに見せてしまえばいい。
 なんとか最後まで走り抜いた俺は、きっつ、と本音を溢してしまいながらマイクを机の上に置いて。そのまま飲み物に手を伸ばした。乗せられていたバニラはほんの少しだけ溶けかけている。それをメロン味の炭酸と軽く掻き混ぜてから、ストローを口に咥えて喉を潤した。
「……湯峰くん」
「ん?」
「……あー、ごめん、やっぱ何でもない」
「え、何だよ」
「何でもない。何でもないよ」
 そんなことより、次は何歌おうか。今度は共倒れのようなことにならない曲にしないとね。難曲を歌う前と違って、少しも取り繕うことなく自然に笑って見せる潮崎は、もう動揺などしていない元通りの潮崎だった。
 俺に何を言いかけたのか、気になったが、あまり触れてほしくなさそうな潮崎を見て、大人しく口を噤む。彼に合わせる。隠し事をしているのはお互い様だ。
 その隠し事がどのようなことなのか、やはり俺も潮崎も口にすることはないまま、のんびりと歌ったり話したりしているうちに三時間はあっという間に過ぎた。速いと感じるほどに盛り上がり、とても満足できた時間だった。

 ゲームセンターの外にあるベンチで、親が作ってくれた弁当を広げ、早めの昼食を摂る。平日であってもそれなりに人はいて、私服姿ではない制服姿の俺と潮崎はその中でもやけに目立っているような気がした。
 その様子を目にした人に、そういう関係だと勘違いされるかもしれないと思ったが、良い意味であまり人の目を気にしない性格らしい潮崎は、時折不思議そうに見られても意に介さなかった。
 俺の隣に座っている潮崎が気にしていないのなら、俺も気にする必要なんてきっとない。カラオケでそわそわしたのは、そこが密室だったからなのではないか。そう思うことにした。
 同性と行動を共にしている時、俺は自分を隠し、普通の男子高校生であろうとする。普通の男友達であろうとする。そうする癖がついてしまっている。
 男が好意を抱くのは女。男が好意を抱かれるのも、基本的には女。それが普通で、それ以外は異質。そうしてはっきりと区別されるのであれば、相手に迷惑をかけないように、同性なのにその可能性があることを勘繰らせないように、俺の恋愛対象が男であることを悟られるわけにはいかない。共に悪いことをしている潮崎にも。
「食べたら中で少し遊んで、そこからは適当にふらふらする?」
 ご飯を口に入れ、もぐもぐと噛んで飲み込み、お茶を喉に通してから、潮崎は俺に決定権を委ねるようにそう提案した。俺は深く考えることなく、うんと頷きかけて、思い直し、やめた。潮崎は、俺が何気なく口にしたことを叶えようとしてくれている。まずはカラオケ、それから、ゲームセンター、散歩。俺は潮崎のしたいことを聞いていない。俺ばかりが、良い思いをするのは狡い。
「カラオケ行けたから俺はもう満足。今度は潮崎のやりたいことをやろう」
「えー、俺はいいよ」
「嘘、何かはあるだろ」
「……ないよ。というより、もうできてる」
「できてる……?」
「うん、できてる。できてるんだ」
「……カラオケ?」
「それもあるけど、少し違う」
「いや、でも、それ以外まだ何もしてないだろ」
「してるよ、してる。だって、俺が一番やりたいことは、湯峰くんと……」
「……俺と?」
「うん、湯峰くんと、こんな風に時間を共有して、並んでお昼を食べて、会話を交わして、そうして……」
 デートすること、だから。溜めて吐いた潮崎の台詞に、え、と俺は目を見開いた。見開いてしまった。乗りで冗談を言っているのかと思ったが、潮崎の表情に戯けた様子はない。かといって、笑い合った時のような明朗な表情でもない。本当に心の底からそう思っているような、儚くて柔和な、でもどこか緊張したような微笑みだった。
 デート。潮崎はそう言った。男と、俺と、デートすることが、やりたいことだと。潮崎はずっとそのつもりで、俺の隣で笑ってくれていたのだろうか。何も知らないでいた俺と共に、笑ってくれていたのだろうか。
「ね、ほら、そういうことだから、俺のやりたいことは、現在進行形でできてるんだよ」
 にこりと破顔した潮崎は、食事中なのにごめん、少しトイレに行ってくるね、とまだ中身が残っている弁当箱を片してカバンに押し込み、腰を上げ、様々な音が入り乱れているゲームセンター内へ入って行った。真剣に明かしてくれた重要な一つの告白を前に、上手い言葉を返せずにいる俺を置いてけぼりにして。
 一人取り残された俺は、静かに俯いて弁当の具材を見つめた。頭がぐるぐると回っている。潮崎が俺にどういった感情を抱いているのか。一切分からないほど鈍感ではなかった。
 カラオケの個室で、俺が考えなしに手を掴んでしまった時、潮崎は酷く動揺していた。それだけでなく、そういったことは他の人にはしないでほしいとまで言っていた。思わず本音が溢れてしまったみたいに、そう吐露していた。
 その時に感じた予感めいたものが、デートという言葉を本人の口から聞かされたことで確信に変わる。そして、彼が何を言い淀んでいたのか。なぜ俺に声をかけたのか。なぜ一緒に落ちようと並んでくれたのか。なぜ学校をボイコットして俺を誘ったのか。それらが芋蔓式に明らかになっていくようだった。
 潮崎は、自分がゲイであることを恥じていない。決して、そう感じているような言い草ではなかった。堂々としていた。俺はそのように受け取った。隠して、隠して、誰かの言う普通であろうとする俺よりも、勝手に苦しくなって死を切望する俺よりも、自分の気持ちに正直な潮崎の方が、断然かっこよかった。戦おうともせず、背を向けて逃げてばかりの俺よりも、圧倒的に。
 俺は、優しく素直でよく笑う人に、自分に正直で、嘘偽りがなくて、他人の抱える問題に自然と目線を合わせられるようなかっこいい人に、死んでもいいと身を乗り出していた歩道橋で声をかけられ、デートに誘われたのだ。これは前向きに捉えるべき出会いなのではないか。そう考えたら、思わず笑みが溢れてしまった。なぜだろう。潮崎には敵わないとすら思えてくる。
「イケメンかよ」
 独りごちて、止まっていた手を動かし、おかずを口に放り込んだ。同性から好意的に見られる経験はなかったため、何とも言えない面映さに胸が熱くなっている。
 潮崎のやりたいことが俺とのデートで、現在進行形でそれが叶っているというのなら、もっとその気分を味わってもらうために、自分もデートのつもりで潮崎に接してみようかと思った。そうすれば、自然と好意が伴ってくるかもしれない。元々潮崎に対して悪い印象はなかったから、余計に。
 好きとか嫌いとかは、まだよく分からない。でも、潮崎といるのは居心地が良い。パズルのピースが綺麗に嵌まるみたいに、そこに違和感などないのだ。それなりに相性の良い人間関係なのかもしれない。
 潮崎が戻ってくる前に弁当を食べ終え、カバンにしまって彼を待っていると、ちょっとした広場の、歩行者用の出入り口の辺りで見覚えのある男性を目にした。誰かを探すようにキョロキョロしている。
 目を凝らしてよく見てみると、その人物が高校の教師、それも体育教師であることが判明した瞬間、視線を感じ取ったような先生の双眸がこちらを向いた。ばちりと視線がぶつかる。
 まずい、と芽生える罪悪感に突き動かされ、潮崎を呼びに行こうと立ち上がりかけた時、湯峰くん、と今し方危機を伝えに行こうとしていた相手である彼の声がして。返事をするよりも早く手首を掴まれ引っ張られていた。
 有無を言わさず、駐車場側の出入り口に向かって駆け出す潮崎。俺は自分の手首を掴む潮崎の手と彼の後ろ姿を交互に見てしまいながらも、用を済ませて出てきた潮崎も先生の存在に気づいたのだろうと察して、大人しく手首を捕られたまま彼の向かう先に合わせた。
「待て! 湯峰! 潮崎! お前ら学校サボって何してんだ!」
 後ろで先生の怒号が響き渡る。事情を知らない一般の人が何事かと驚愕の表情を浮かべるが、気にしてなどいられない。二人で逃げるという選択を取った以上、途中で止まるつもりはなかった。簡単に捕まるつもりもなかった。俺と潮崎は、既に共犯だ。
 何か叫びながら追いかけてくる先生から逃げる俺と潮崎は、一目散に駐車場を抜け、時折振り返りながら空いた距離を見極めた。そうしながら、先生という名の鬼を撒くために、脇道を右へ曲がったり左へ曲がったりを繰り返す。その道を決めているのは少し前を走る潮崎で、俺は加速する潮崎にただついて行くだけだった。
 ほぼほぼ全力疾走で、あっという間に息が弾む。腕をちゃんと振れない状態では走りにくいだろうに、潮崎は俺から手を離さない。俺も振り解かない。途中で気づいて手放すことも拒否することもないまま、これといった言葉を掛け合うこともなく、ただ、ただ、走って、走って、走る。駆けていく。
 潮崎と繋がったまま、共に風を切った。コンクリートを踏む足が、揃ったり、揃わなかったり、揃えようとしてみたり。息を切らしながらも、思わず遊んでしまうほどには、多少の余裕があった。誰かと悪いことをして先生に見つかり、追いかけられ、一緒に逃げていることすら楽しくなって、それを他の誰でもない潮崎と共有できていることに心が踊った。
 俺の手を引いて前を走る潮崎が振り返り、俺の更に後ろを確認する。酷く真剣な表情だった。冗談を言って乗ってくれたり、自分の発言に慌ててみたり、何でも優しく包み込むかのような笑みを浮かべてみたり、とても親しみやすそうな顔しか見ることがなかったため、そんな胸を刺すような顔もできるのかと息を呑んだ。
「撒けた、かも……」
 呟いた潮崎が、ゆっくりとスピードを落としていく。駆け足から徒歩になり、俺と潮崎は呼吸を整えながら肩を並べた。撒けたと言った潮崎に倣うように、俺も後ろを振り返る。先生の姿はない。自分の目でも確認してから前を向き、息を吐く。またいつどこで鉢合わせてしまうか分からないが、今のところは問題ないようだ。
「久しぶりに全力疾走したよ。普通にきつい」
「俺も。食ったもん出そうだし、デートでこんな疾走するのも初めて」
「あ、デート、湯峰くんがデートって言ってくれた」
「デートだろ」
「うん、デート」
「潮崎だけじゃなくて、俺もそのつもりの方が、もっとデートの気分味わえるんじゃないかと思ったんだけど」
「……ありがとう。嬉しい。凄く嬉しい」
「……そんなに俺とデートしたかった?」
「うん。できることなら、これからも、誘いたい。誘われたい」
「……本気? 男だろ。俺も、潮崎も」
「本気だし、そんなことくらい知ってるよ」
「なら……」
「湯峰くん、デートに託つけて、ちょっと調子乗ってもいい?」
「……え?」
 俺の台詞を遮った潮崎が、未だ俺の手首を掴んでいた手をするりと滑らせ、徐に手のひら同士を触れ合わせてきた。ギュッと、優しく、柔らかく、握られる。
 咄嗟のことに言葉を紡げないでいると、彼は持ち前の明るい表情で俺と目を合わせた。デート中だから、と繋いだ手を俺に見せびらかして朗らかに笑う。そこに恥ずかしさなんてものはなかった。繋ぎたいから、繋いだ。そう言わんばかりの表情。
 表ではそれなりに笑いながらも、裏ではゲイであることに息苦しさを感じている。多くの人がしょうもないと歯牙にも掛けないようなことで、いつ死んでもいいと生に希望を見出せなくなった俺に、潮崎は、大丈夫だよ、とそっと寄り添ってくれているかのようで。その優しさや触れる手の温かさに、心が泣きそうになった。詳細な事情を潮崎が知っているはずもないのに、そう都合良く捉えて、泣きそうになった。
「……ああ、なんか、戻って来ちゃったね」
「……本当だ」
 繋いだ手は離さず、拒否もせず、前方にある見慣れた歩道橋を視認して、ほぼ同時に失笑する。毎日通る道だから、自然とその道を辿ってしまったのかもしれない。
 歩道橋の階段を上り、朝と同じところ、同じ立ち位置で高欄に凭れかかった。車通りは朝よりも少ない。太陽の位置は高くなっており、熱く、眩しく、自分の存在を見せつけてくる。自信があって、堂々としているように感じた。まるで、潮崎みたいに。
「潮崎は眩しい」
「そうなんだよね、俺、オーラが発光しちゃってるから。それくらいの存在感あるから」
「本当に、そう思う」
「あ、れ……、冗談じゃない……?」
「冗談じゃない」
 潮崎の方に顔を向け、目を瞬かせる彼をじっと見つめる。自分を卑下せず背筋を伸ばして立っている潮崎が、自分で自分を殺すことなどないだろう。どんな荒波に揉まれようとも、彼ならきっと、絶望したり諦めたりしない。踏みしめる足は、いつだって力強い。いつだって、彼は笑顔を忘れない。
 真面目な空気を読み取った潮崎が、何かを決意するようにゆっくりと深呼吸をする。繋がった手からは緊張が伝わり、俺は少し躊躇いつつもその手を握り返した。デート、デートだから、これは。双方そのつもりなだけ。そう誰にともなく言い訳をして。
「湯峰くん、もう気づいてると思うけど、俺ね……、湯峰くんのことが好き」
「……いつから、とか、聞いてもいい?」
「いつから、いつから、か……。正直覚えてない、けど、いつ見ても湯峰くんはどこか息苦しそうだったから、俺が湯峰くんの酸素になれたらいいな、って馬鹿みたいなことを思ってからなのは確かかな」
「酸素……」
「でも、きっとそういう問題じゃないって分かってからは、無理に引き上げることはせずに、湯峰くんがいるところまで俺が落ちようって思うようになった」
「……そう、だから、一緒に」
「うん。湯峰くんがここから本当に落ちるつもりなら俺も一緒に落ちるし、湯峰くんが本当は生き抜きたいと思ってるなら俺も一緒に生き抜くよ。湯峰くんが好きだからこそ、湯峰くんと同じ道を歩みたい。俺をずっと隣に置いておいてほしい」
 ごめんね、あまり綺麗な感情じゃなくて。潮崎はぎこちなく頬を持ち上げ、自嘲気味に笑った。湯峰くんと一緒なら死んでもいいって思う俺は、重いんだろうね。ぽつりと漏らしたその台詞は、潮崎の中に巣食う不安を表しているかのようだった。
 俺の知らないところで俺を優先していた潮崎を、危うく道連れにするところだった。俺が死んでもいいと思うことで、生を投げ出すことで、俺のことを好いてくれている潮崎もそう思うのなら、安易に死を願うのは良くないんじゃないか。
 俺の問題に、潮崎を巻き添えにするのは本意ではない。一緒に落ちたら、後悔する。潮崎はそうじゃなかったとしても、俺はきっと後悔する。そんな死を、俺は望んでいるわけじゃない。手を繋いで、せーので空を飛びたいわけじゃない。死んでもいい。死んでもいいが、そこに潮崎が絡むのなら、生き抜かないといけない。それが、俺の答えだ。
「……人はいつか必ず死ぬよな」
「……うん、そうだね」
「それなら、その日が来るまで、もう少しだけ、生き抜いてみるのもいいかもしれない」
「……俺と、だよね?」
「うん、そうだな。頑張れ俺の酸素」
「うわやめて馬鹿それ弄らないで湯峰くんの馬鹿マジで馬鹿」
「馬鹿馬鹿ばっかだけど、結構言い得て妙だから」
「真面目に言ったけど改めて考えてみたら凄く恥ずかしくて取り消したい湯峰くんの酸素になれたらって意味不明すぎる」
「めちゃくちゃ早口」
「湯峰くんが揶揄するからじゃん」
「俺は割と本気。潮崎といると不思議と息がしやすいんだよ。ありがとう、潮崎」
 俺を見つけ、デートに誘ってくれた潮崎に感謝を伝えて、一人で背負い込んできた悩みを吹き飛ばすように笑う。潮崎も笑みを返してくれた。弾けるような笑みだった。本当に眩しい人だった。
 まだまだ積極的に、自身のセクシュアリティーをオープンにすることはできないだろうが、そんな自分を受け入れることはできる。もっと生きやすく、息がしやすい道を、これからは潮崎と共に歩んでいきたい。
「……ねぇ、あれって、先生じゃない?」
「……逃げる? 大人しく捕まる?」
「愚問だね湯峰くん。逃げる一択だよ」
「そうだよな」
「湯峰! 潮崎! 逃げるんじゃない!」
「ああ、明日はこっ酷く叱られるな」
「それもまた一興だよ」
 叫びながら歩道橋の階段を駆け上がる先生を出し抜くように、俺と潮崎はどちらからともなく一気に走り出し、反対側の階段をバタバタと駆け下りた。繋いだ手は離さず、今度は肩を並べて。隣に特別な人がいる未来に、胸を弾ませながら。