*
やがて、恵実さんを載せた飛行機が飛び立っていった。
その数分後、稲田先生が息を切らしながら僕たちのいるロビーに駆け込んできた。写真で見たのと同じく汗だくで、スーツには綿ホコリがついていた。
「先生!」
出会い頭に、孝慈が勢いよく頭を下げる。
「下手なぬいぐるみなんて思っちゃって、スンマセンでした! 先生がふうちゃんを頑張って作ったなんて知らなくて……」
稲田先生は僕たちがいることにとても驚いたようで、掠れた声で言った。
「小野寺、お前、なぜふうちゃんのことを!? いや、そもそも、どうしてお前たちがここにいるんだ?」
家庭科室で拾ったぬいぐるみを持って空港をうろついていたら、先生の恋人だという人に声をかけられてぬいぐるみを渡した。
僕は和歌子関連のことを隠しつつ、なりゆきを説明した。
先生はガラス窓の外、滑走路のほうを見ながら言う。
「そうか、もう行ってしまったのか。……照れ臭いが、俺にも色々あってな」
それから先生は事情を語った。
先生によると、自分が手芸の本を借りるところや、ぬいぐるみを作っているところは気恥ずかしくて誰にも見られたくなかったとのことだ。
時間の都合で仕方なく、学校でこっそり練習もしたが。
下手すれば恋人の存在も知れ渡って、生徒にからかわれるかもしれないし、と先生はため息をついた。
「だったら、秘密にしておきますね」
僕は先生にフォローを入れた。
「皆も、それで良いよね」
やがて、別の飛行機が滑走路に降り立った。空港のアナウンスが鳴り、話は中断される。
アナウンスの後、孝慈が先生に言う。
「俺思うんですけど、あのふうちゃん、なんで捨てちゃったんですか」
「いや……だってあんなものを渡すわけにはいかなかったし」
「ふーん? だったら、作り直したほうはうまく出来たんですか?」
「……実を言うと、手足の大きさがまたバラバラだった。それも飼ってる猫に破かれて、急いで直そうとしたら見送りに間に合わず。……踏んだり蹴ったりだよ」
先生はスーツの袖の、例の傷を指さした。
「あのぬいぐるみは、恵実から聞いたことだけで再現しようと思った。
似たようなテディベアが本に載ってたが、彼女が言うふうちゃんとは何かが違う気がした。
だから三日間、俺なりに必死に知恵を絞ってたんだ。
けど……やっぱり俺のも違うのかな」
「先生は、どうしてそこまでして、ふうちゃんを再現しようとしたんですか」
先生はガラス壁の外を見て答える。
「ああ。三日後に海外に行くって時になって、あいつが打ち明けてくれた、亡き母との思い出。それがずっと、心の中で引っ掛かってたんだ。
だったら俺が、彼女のわだかまりを吹き飛ばせるかもしれない――、っていう、今思えばずいぶんと偉そうな思い込みだった」
「でも、それで先生が空港に来れないなら、本末転倒じゃないっすか」
「……ああ」
孝慈に叱責され、稲田先生はため息をついた。
「――その上で、先生。俺、思うんです」
そんな稲田先生に、孝慈は言う。
「ぬいぐるみがうまく作れなかったとしても、気持ちはきちんとこもっていると思うし、先生が作ったということが肝心だったと思います。
モノに気持ちがこもってるかなんて、目には見えないし、分からないって考えもあるけど。
でも、少なくとも恵実さんにはきちんと伝わってましたし、なら、それで良いんじゃないですか?
ふうちゃんを再現できたかどうかなんて、問題じゃないと思います」
孝慈が言い終えるのと同時に再び空港のアナウンスが入る。案内音声の後、稲田先生は、
「……そうだな。肝心なことを忘れていたよ」
ポツリとつぶやいた。
僕はふと思い出し、ポケットから未来写真を取り出す。
写真をもう一度見ると、景色が変わっていて、自分に呆れつつもほっとしたような表情の先生が僕たちと写っていた。
やがて、周囲にオレンジ色の光が溢れ出す。
和歌子を見ると、彼女の髪飾りに、二枚目のクローバーの葉が色づいていた。
松野と目が合う。
彼女はこちらを見てふっと微笑んだ。
僕は未来写真を挟み、手帳を閉じた。
稲田先生は写真のことなど知らず、窓の外を見て言う。
「はやくメールしとかなきゃな。これで連絡まで遅れたら、今度こそ愛想尽かされて、お前たちの活躍まで無駄になってしまう。どっちにしろ、俺は後で国際電話ごしに土下座だ」
ほっとしたような表情でメールを打っていた。
しばらく全員が黙っていたが、
「なあ、お前たち」
稲田先生が僕たちを見て、思い出したように口を開いた。
「--この際、どうやって俺の事情を知ったかなんて、気にしない。けど、どうしてわざわざ空港まで来て、恵実にぬいぐるみを手渡してくれたんだ?」
そんなことしても、お前達には何の得もないのに。
首をかしげる稲田先生に、孝慈が答えた。
「それは、俺らがそういうメンツだからッスよ。先生もラッキーでしたね」
「え? それは?」
それはどういうことだ?と聞いた稲田先生。
孝慈はふははっ、と笑うと、片手でVサインをつくって答えた。
「なんてったって、俺たちのグループ名は、『幸運集めのフォークローバー』ですからね」
初めてのグループワークから、早一週間が経った。
葉っぱ集めを兼ねたグループワーク。孝慈は和歌子に話を聞いて手っ取り早く済ませると言っていたものの、僕たちは何度も街を歩いた。
未来写真の対象者になりうる人は、先生の件以来見つかっていない。
和歌子が消えてしまう期限である、歌扇野の夏祭りまでは、あと十三日。
そして先ほど、今日の調査も終わって、家に帰ってきたのが夕方。昼間聞こえていた蝉の喧騒はいつの間にか消えていて、窓の外はだいぶ暗くなっている。
自室で机に向かいながら、携帯で「座敷わらしのおまじない」「歌高 七不思議」「歌扇野 座敷わらし」と、キーワードを変えつつ検索を繰り返して、ため息をつく。
ふと、孝慈に図書館で二人の時に言われたことを思い出していた。
彼が話していた、座敷わらしのおまじない。
ネットで調べてみたが、めぼしい情報は無い。今どきそういう古くさい噂話は語られないのだろうか。
それに――。
僕は調べるのをやめると、勉強机の一番下の引き出しを開けて、その物体を取り出した。
それは、正八面体のかたちをした、サイコロを模した小物入れ。中学のとき、美術の授業でつくったものだ。
その一つの面には、鉛筆で描かれた、とある人物のスケッチがある。
それを見て、もう一つ思い出すこと。
おまじない以外に、孝慈が言っていたこと。
『だって、絶対好きだって、松野』
『何か、心当たりは無いのかよ? お前が忘れてるだけで、子供のころに一度会ってたとか』
彼が言うには、松野が僕のことを気になっていて、もしかしたら過去の記憶にその理由があるかも、と。
松野と僕は昔どこかで会っているかもしれないと。そもそも、松野が僕のことを好きだという前提がおかしいけど。
心当たりなんて、ない。
だけど、――あの時。陸上。
一つだけ、あった。それは松野のことでも、幼い頃のことでもなく。
僕の記憶に焼き付いているのは、中学時代に同じ部活だった、星野鈴夏のことだった。
*
星野鈴夏とは、同じ念ノ丘中学の陸上部であり、クラスメイトでもあった。
透き通るようなショートヘアーと、ツンと澄ました切れ長の瞳。
モデルのようにすらりとのびた長い脚。会話では、非常に落ち着いた知的な話し方をする。
そのどこか冷めたような雰囲気と、文武両道であっけらかんと良い結果を残す様子から、いっけんクールそうに見えるが、その実は明るく人当たりが良かった。
休み時間には文庫本を読んだり、廊下でイヤホンをつけてひとりでいることが多いが、誰かが話しかけると笑顔で気さくに応じる。
一年の夏には、ショートヘアーが入学したばかりの時よりも短くなっていて、本人は髪を切りすぎたと言っていたが、その後伸ばしてはいないようだったから、以来少し短めにするようになったらしい。
陸上部でも、彼女は大会で予選突破の実力があるほどの選手だった。
それから、文武両道と言ったように、鈴夏は頭も良かった。
僕は中学最初の中間試験で、なんの間違いか学年三位に食い込んでしまった。たまたま試験問題の相性が良かっただけだった。いっぽうの鈴夏は学年四位で、僕のすぐ後ろにつけていた。
クラス内順位はそれぞれ一位、二位だったようで、それ以来よく鈴夏にライバル視されていた。
具体的には、いつか席替えで隣の席になった時、彼女の得意な英語や数学の答案返却で、僕の点数を越えるたびにこちらの答案をちらりと見て、「よし」と小さくガッツポーズをしていたこととか。
ちなみに僕は二回目のテスト以後、彼女に勝ったことはない。
僕の成績は一時期クラス十四位まで落ち続けたいっぽう、彼女はその後ずっと学年全体で三位以内をキープしていた。
それから、彼女のショートヘアーの横顔はいつも迷いのない表情をしていて。明るく、常に友達に囲まれていた。
僕とは違って、光だけを受けて育ってきたような人間だった。
性格が良くて、陸上も強くて、頭の良さも本物。その上、かわいいと来て。当然彼女は男子の評判になっていて、女子の中心でもあった。
僕はというと、そんなあまりにも輝かしい才色兼備さに、無意識のうちに彼女を避けていた。たぶん、ちょっと気を抜けば一瞬で好きになっていた。
鈴夏にはよく休み時間に楽しそうに話している男子がいて、彼女はそのうち彼と交際するのだろうなと密かに予想していたときもあった。
そんなこともあり、僕は彼女を好きにならないように自らの気持ちをコントロールした。
いや、コントロールできたつもりでいた。彼女を避けることで、不思議にも自分の気持ちをごまかせる気がした。
自分は光輝く彼女とは正反対の人間である気がしていた。
男子の中心メンバーにいつのまにかカウントされていて、いつも誰かが話しかけてくれた。
だが、僕は常に彼らの顔色をうかがっていた。
カラオケに誘われて華やかに盛り上がるよりも、一人になれる時間のほうが好きだった。
本来の僕は中心よりも端にいたい人間だった。
クラスの良心のような扱いを受けていたが、本来の僕は、厭世的な皮肉屋で、臆病者。
陰口を言われていやしないかといつも内心ではビクビクしていたし、そのうえ無意識のうちに人の悪いところばかりが目についてしまう人間だった。
だから、この性格のことを誰かが「優しい」とかなんとか誤解して言うたびに、それは偽りなんだ、仮面なんだ、と叫びたい気持ちになった。
いつかクラスの誰かに言われたこと。
『加澤くんは人の陰口を言わないところが良い』
違う。たしかに、話が陰口になるとできるだけ黙っていた。けど、それは僕が優しいのではなく、あとでしっぺ返しを食らうのが嫌だっただけだ。
陰口はよくないから、という理由でそうしていたのではなく、恐れていただけ。
だから、いつかそんな心のなかを見透かされるのではないかと想像して、恐ろしかった。失望されるのが怖かった。
そんな偽りで塗装したような人格。
だから、たとえ一瞬でもクラスの皆といるのが楽しくても、一人になった瞬間、その全てが虚しくなる。
どうして、あの時あんなにはしゃいだのだろう。
どうして、あの時、優しいねと言われたのだろう。
どうして、あの時声をかけてくれたのだろう。
どうして、もっと声をかけるべき人がいるのに、僕なのだろう。
本当の自分は、ただ薄っぺらいだけなのに。偽りなのに。
周りが僕だと思い込んでいる、そのほとんどが、空っぽなのに。
いつか、見せかけの自分と醜悪な本心との調和が壊れて、心が狂ってしまうのではないかと、ずっと恐れてもいた。
そんな僕に、鈴夏はいつかの部活動の時、「私、結人くんの実は腹黒い感じがとても気に入ってるんだ」と言ったことがある。
その時側にいた彼女の友達の一人が、「アンタ加澤くんに失礼すぎでしょ。こんな聖人君子に何言ってんの」と心にもないことを言ってフォローしたが、僕は鈴夏の言葉になんだか不思議な安心感をおぼえていた。
そのことは、鈴夏を強く意識するきっかけとなった。
僕と鈴夏との関係が動いたのは二年生になってから。
それは、ある日の美術の授業でのこと。進級したばかりのときだった。
その時期にあった出来事と言えば、鈴夏と休み時間によく話していた男子が、鈴夏に友達でいたいからとフラれたことだったと思う。
僕は美術の時間は憂鬱だった。テーマによってはまったくと言っていいくらいアイデアが浮かばなくなる。
つくりたいものが何も浮かばないことが多々あり、スケッチブックを白紙や書きかけで出したり、工作の時は、授業が終わる十分前に適当なパーツを適当に組み合わせて「やっと思い付いたけど間に合わなかった」風を装ったりした。
当然、小学校の時から図工・美術は真ん中より下の評価を貰っていた。
しかも、担当の先生は実際に作品を発表しているクリエイティブな人で、そのためか課題には一風変わったものが多く、よく僕を悩ませた。
なかでも頭を抱えた課題が、サイコロのアートだった。
それは、大きさが牛乳パックの半分ほどある、正八面体の大きなサイコロだった。
トランプのダイヤというか、ひし形の少し不思議なかたちをしていて、三角形の面が八つある謎のオブジェ。
普通の八面ダイスと違うのは、面に数字が何も書いていなく、真っ白だということだった。
先生の説明によるとそれは小物入れらしく、真ん中で横半分にパカリと開いた。
中は婚約指輪のケースのように赤い布が張られた空洞で、そこに物を入れられる。
この小物入れは一から製作する方法もあるらしいが、授業時間の問題で、キットを人数ぶん購入したとのこと。
そのため、僕たち生徒がする主な作業は、白紙のサイコロに絵を描くという簡単なものだった。
八つの面に描く絵はあらかじめ指定されていた。
自分の夢、趣味、得意なこと、好きな作品のキャラクターなど、そうしたものを八種類、絵にして色鉛筆で書き込む。
その中に、『大切な友達』を描く面があった。
僕は他の面をどうにかして作ったが、この面だけは授業の最後まで描くことができなかった。
大切な友達。
話し相手はいる。休み時間に男子の誰かが僕の席にやってくる、あるいは僕が声をかけると機嫌でも悪くない限り気さくに応じてくれる。
それなのに見つからなかったのだ。『大切な友達』の面に描きたい相手が。
適当に描けばいい話かもしれない。でも、そんなことをすれば、大切な友達としてあつかったことは嘘になる。悩みすぎかもしれない。でも、僕にはどうしてもそれが出来なかった。
授業終了までに描くことができず、その一面を下にして提出用の机へと並べ、描かないままにしていたことを秘密にしていた。
その後、やっぱり何か描かなければと思い直し、放課後、すぐに教室を抜け出し、陸上の練習が始まる前に美術室へと忍び込んだ。
よく話すな、と思うクラスメイトはいたので、彼の似顔絵をこっそり、無謀にも五分で仕上げるつもりだった。そしてそれは当然、偽りを描くことでもあった。
「……結人くん、だよね――。何してるのさ?」
僕が色鉛筆を持って美術室の机の自分の作品に近づくと、すぐ後ろから声をかけられた。
「あ……」
慌てて振り返ると、そこには鈴夏が立っていた。
「いや、違うよ、これは……」
自分の隠していた本質を鈴夏に見られたような気がして、僕は無意識にあとずさっていた。
次の瞬間、何かが床に落ちる音。
「……あっ」
あとずさった際に肘が当たってしまい、その反動で僕のサイコロが床の上に転がった。
八面体はまっすぐに転がると、鈴夏の足元へと近づく。
「あれっ?」
まっさらな面に気づいた彼女の声。
僕のサイコロは彼女の視線の先で、よりにもよって真っ白なままの『大切な友達』の面が上を向いて止まった。
「……これは、その、ええと……」
僕は言葉に詰まる。
鈴夏は落ちたサイコロをヒョイと持ち上げると、何も描かれていない面をじっと見つめた。
彼女はサイコロを手に取ったまま、絵が描かれた他の面を軽く見回し、それから再び白紙の面を見つめる。
「ねえ、結人くん、これ――」
「ち、違うよ! これはそう、うん。空白が僕の美学なの、ほら、無駄なものを排除した禅の精神とかよく言うじゃん!」
頭の中も真っ白になった僕の口からは、とっさに出てきた意味不明な言い訳が飛び出す。
鈴夏はあわてふためく僕を気にせずに言った。
「結人くんのサイコロ、少しさびしいようだね。この私で良かったら、代わりに何か描いてあげよう。私、絵は得意なほうだから」
鈴夏の言葉に、僕はなんとか平静を取り戻して答えた。
「……『大切な友達』の面を? でも、そんなことしたら鈴夏さんの絵だってことが一瞬でわかるよ」
僕の言葉に、鈴夏は一瞬考えてから言い直した。
「じゃあさ」
鈴夏は机のほうへと歩み、僕にサイコロを渡すと奥から別の八面ダイスを持ち上げた。
「――二人で一緒に描く?」
と鈴夏は冗談っぽく笑う。
それは、鈴夏自身のサイコロだった。彼女の作品を見て、僕は驚いた。
絵柄もイラストの中身も違う二つのサイコロに、たった一つだけ、同じ面。
鈴夏の『大切な友達』の面は、白紙だった。
それから鈴夏はため息をついて窓の外、野球部の声出しが始まったグラウンドのほうを見る。
「大切な友達って、何なんだろうね。私には本心でそう思える人は一人もいないし、嘘で誰かを描くのは失礼な気がする」
「!」
その言葉に、僕は彼女の横顔を焼き付けるように見つめた。
僕と同じことを考えていた人がいたなんて。
そして、それが鈴夏だということに驚いた。
鈴夏は大切な友達の存在で悩むようには見えなかった。彼女はいつも仲間に囲まれていて楽しそうだった。
鈴夏は投球練習の始まったグラウンドから目をそらした。
「異性として好きになれなくて、代わりに『大切な友達だよ』って言うしか無かった。
クラスの皆もそう。仲良くしてる分、言わないといけないときがある。
けど、私は誰かを傷つけないための嘘すら、良心が痛まずには吐くことができないみたい」
マウンドに上るピッチャーは、鈴夏と休み時間によく話していた男子だった。
「――なんてね。こうやって思う自分自身も偽善者みたいで、さらに嫌になる」
思えばこの時、僕は今まで完璧に見えていた彼女の、誰も知らない不器用さを初めて見つめていた。
「前から思ってた。私と結人くん、結構似てる」
鈴夏は手を伸ばすと、再び自分のサイコロを差し出して見せた。
それから、僕が右手で持つサイコロの白紙の面の上に、自分の未完成の面を手のひらごと重ねた。
「――だから、もしここに描くのが結人くんなら、この面をきちんと埋められる気がする」
そう言って、彼女は改めて提案する。
「――良かったら、描いてもらえない? その――、お互いのイラストを」
その週の日曜日、僕と鈴夏は歌扇野の図書館を訪れた。
入ったのは、ロビーにある休憩スペース。その中でも、二人一組の長机が並ぶ一角だった。
長机の前で、僕と鈴夏はそれぞれ椅子を引いて向かい合っていた。
「大丈夫、先生には後で、『できなかったから家で仕上げた』と言えば良いし。私も一緒に出しに行くから」
鈴夏の提案で、未完のサイコロは美術室からそれぞれ持ち帰ってきていた。先生には、月曜日に朝一で提出することにしたのだ。
彼女は「その前に準備運動」と言って、自前のスケッチブックに即興でイラストを描いてみせた。
「名前はどうしよう。――おふとんねこ、でいっか」
彼女が今さっき考えたというオリジナルキャラクターだった。布団と猫が合体したようなキャラで、顔文字のような目を閉じて幸せそうに眠る謎の小動物。
お店でファンシーグッズとして売ってる癒しキャラ達と並んでも、なんら遜色のないデザインだった。
「絵が好きなの?」
「うん。意外?」
答えながら、嬉々として描いたばかりのキャラクターを見せる彼女に僕はドキリとした。
「じゃあ、そろそろ。結人くん、こっち向いてて」
「うん」
鈴夏は右手に鉛筆、左手に自分のサイコロを持ち、スケッチを描きはじめる。
「あ、もし今の僕の顔、変になってたらごめんね」
「ううん、いつも通りだから大丈夫。私こそデフォルメして漫画のキャラ風にするからそのつもりで」
「いや、むしろ省略してくれたほうがいろいろと安心だよ。ところで、漫画っていうと、意識してる作品とかはあるの?」
「うん。『白百百《しらもも》高校《こうこう》凸凹《でこぼこ》カルテット』っていう少女漫画。
もともとは見よう見まねでキャラを描いてみたのが始まりでさ。
内容は、個性的な学生のキャラ達がボランティア部を設立して、まちや学校のトラブルを勝手に解決したり、時には余計ややこしくしちゃったりするコメディー漫画」
「え、余計にややこしくなっちゃうの?」
「うん。でもむしろ、これどうなるんだろ、っていうようなひどい事件でも、最後にはボランティア部の皆が綺麗に解決してくれるから、安心して楽しめる。
少女漫画だけど男子のファンも多いから、結人くんも楽しく読めるかもしれない」
「へえ。今調べてみたけど、すごく面白そうだね」
僕が携帯で片手間に検索すると、ネットニュースの記事がヒットした。
『白百百高校凸凹カルテット』、通称シラコーは最近完結したとのこと。
ラストで続編を匂わせる終わり方をしたため、続きを期待するファン達の間で盛り上がっているらしい。
それから鈴夏は、スケッチを続けながらシラコーの良さを存分に話してくれた。
「――ふふふ、興味を持ってもらうことには成功したみたいだ」
鈴夏は鉛筆を置くと、おもむろに、つくったような低い声と口調でつぶやいた。
よくわからないけれどとても楽しそうで、僕は思わずクスリと笑った。
「なに今の」
「あはは、私シラコーのオタクだからネットでも結構語ってて。今のは結人くんに興味を持ってもらえた喜びが漏れただけ……っていうか、さっき、本当に興味持ってくれたの?」
「ああ。シラコーの話してる時の鈴夏さん、すごく生き生きしてたから。つい読んでみたくなった」
鈴夏さん。僕たちの中学は同じ名字が多かったせいか、単なるクラスメイト同士でも、そんな不思議な呼び方が普通だった。
絵の話、とりわけシラコーの話をする間の鈴夏はとても輝いていて。
嘘まみれの僕もこの輝きの側にいれば、もしかしたら偽らない自分でいられるかもしれない、そんなエネルギーを彼女からは感じた。
僕はこの時、きっとこれが、彼女の偽らない本来の姿なんだと、確信した。
あの美術室での、『本当の友達』の話を聞いた後では、なおさらだった。
鈴夏の漫画風のスケッチが終わり、今度は僕がサイコロの大切な友達の面を描きはじめた。
正面に向き直って僕を見る彼女は、絵に描くにはあまりにもまぶしすぎた。
僕はどうしていいか分からず、彼女の頬のあたりから線を引いていったが、あまりにもおそれ多くて次の段階に進むことが出来ない。
「僕は絵が下手だから難しいや。横顔のスケッチでも良い?」
苦渋の決断に、鈴夏は笑って答えた。
「良いよ、結人くん」
ホッとした。美術の授業をその場しのぎでやってきた僕ごときが、自分の拙い画力で彼女の可愛い顔を写そうだなんて、あまりにもおこがましい気がしたのだ。
そしてさらにおこがましいのだけど、僕は鈴夏の横顔のスケッチだけは誰にも負ける自信が無かった。
鈴夏の明るくて前向きな性格をよく表す、希望へと向かって今にも舞い上がりそうな、きらきらしたショートヘアーの横顔。
かすかに揺れる短い髪のうしろで、窓から差す陽の光が首すじの切り揃えたラインを儚げに強調している。
「――できた」
小さなサイコロの面に彼女を描くため、鉛筆を四回も削った。
渾身の一作にして会心の一撃。
ガッツポーズとともに顔を上げた僕は鈴夏に「気合い入れて書き込みすぎ」と笑われた。
「このままじゃ未提出になるし、折角だから先生のところに持って行こ」
翌日の朝、僕たちはサイコロを提出しに行った。
先生はすでに美術室にいて、床にブルーシートを広げて次の授業の準備をしていた。
灰色の長い髪の毛が特徴的で、眼鏡の下の目つきがいつも穏やかな男性だった。
先生はお互いの似顔絵を描きあった『大切な友達』の面について直接何か言うことはなかったが、僕たちのサイコロを提出用の机の上に置くとこう言った。
「学生生活は一度きりです。常に進路のことを考えて行動するのもたしかに大切ですが、今この瞬間を出し惜しみせずに駆け抜けることの方が大切だと、私は思います」
全教科ばっちりの鈴夏と、美術からっきしの僕。
しっかり者の優等生が、落ちこぼれの世話を焼いているようにも見える組み合わせ。
それを見て、内申を気にして提出しにきたと思われたのか、それとも僕たちのようすに何かを思って言ったのか。それは未だにわからない。
二年生に進級したばかりの四月の出来事だった。