「あ、わ、えっ」
 ここが電車内であることも、周りに人がいることも頭からすっ飛んだ。おかしな声が出ようと気にする余裕なんてない。いや、この状況で声を出さずにいられるだろうか。
 手の中の画面から視線が外せない。取り消すはずだったメッセージの左下。小さく並ぶ数字の上。現れたのは「既読」の二文字。
 今から取り消しても遅いってこと……か?
 いや、うっかり開いたけどまだちゃんと読めていない可能性もあるかもしれない。可能性は低いけどゼロじゃない。今からでも削除しよう。そうだ、そうしよう。
 ――今どこ?
 追加された吹き出しに今度は声も出なかった。終わった。読んでいない可能性どころか読みましたって言われている。それどころか、これは「フラれた」ってことだろう。俺が送った言葉にはこれっぽっちも触れられていない。冗談にもされなかった。スルーされたってことだ。
「……そう、だよな」
 わかっていた。わかっていたはずなのに。期待なんてこれっぽっちもしていなかったのに。胸の奥が痛くてたまらない。こんなことならちゃんと言えばよかった。中途半端。意気地なし。それなのに悲しみは止まらない。苦しくて苦しくて。膨らんで弾けて溢れて。止めたいのに止められない。ぐっと唇を噛みしめれば噛みしめるほど震えているのがわかる。泣くな。泣くな。こんなところで泣くわけにはいかない。
 ――……行きは向かい側、三番線からの発車となります。
 車内アナウンスの声。いつの間にか扉は開いていた。ホームからの風が流れ込む。学校の最寄り駅まではあとふたつ。このまま乗っていれば着く。
 このまま行くのか? アイツがいるってわかっているのに? 顔合わせて普通に「おはよう」って言うの? そんなの……無理だろ。
 手の中のスマートフォンは待ち受け画像に戻っていた。返信はしていない。あっちにも「既読」は付いているだろう。表示されている時刻はすでに一限目が始まっていることを示している。行く必要なくない? 顔見たらマジで泣きそうだし。
 電車の到着を知らせる音楽が流れ出す。ホームの向かい側、風を押し出す車体。空気が動く。
「……」
 もう一度開いた画面。表示が変わると同時に電源を落とす。ポケットではなくリュックの中にしまう。
 立ち上がり、扉の向こうへと駆け出す。電車と電車の間。吸い込んだ空気には朝の冷たさが残されていた。

 同じホームに下りたのは俺以外に三人だけ。みんな目的地があるのだろう、迷うことなく改札へと向かっていく。その後ろをゆっくり歩く。肌に触れた潮の香りに学校をサボったのだと実感した。
「海なんていつぶりだろ」
 駅舎を出た瞬間、影が濃さを増した。真上には届いていない太陽。雲は一つもない。バスもタクシーもない駅前。並んだ街路樹の葉がきらきらと揺れる。流れる風に涼しさを感じれば、降り注ぐ日差しが肌を焼く。暑さはじわじわと高まっていた。
 シャツの袖を捲り、方角を確かめようとズボンのポケットに手を入れる。
「あっ」
 何も掴めず戻された手。スマートフォンはリュックの中だ。充電がなくなったわけではない。電源を入れさえすれば地図アプリは使える。使えるけど……。並んだ吹き出し。表示されていた名前。胸の痛みまで鮮やかに蘇る。
「いや、スマホなんてなくても行けるし」
 海岸の方向さえわかればいい。距離はそんなにないはずだ。
 視界に入った市街図へと足を進める。
「薄っ」
 思わず言ってしまうくらい色褪せていた。作り直す気はないのだろうか。地図を必要とするような人は来ないのか。誰に見られることもない、必要のないもの。ただ消えるのを待つだけ。
 ――必要とされないのなら、気づかれないうちに消えてしまったほうがいい。
「なんで送ったんだろ……」
 送るつもりなんてなかった。伝えるつもりなんてなかった。いや、文字を打ち込んだのは自分だ。「もしかしたら」という期待が膨らんだから、打ち込んだ。
 ――今どこ?
 自分の言葉には返事すらしてもらえなかったのに。

 海までは一キロほど。確かめた方角に向かって足を進める。平日だからか、時間帯の問題か。道に並ぶお店のほとんどが閉まっていた。すれ違う人も少なく、足を進めれば進めるほど寂しさは増していく。逃げたくて、楽になりたくて来たはずなのに。別の寂しさまで加わって窒息しそうだ。
「あらあら」
 風鈴の音に重なった声。振り返れば、半分開いたお店の入り口におばあさんが立っていた。「帽子も被らないで」と俺を見上げる。駄菓子屋だろうか。土産物も日用品もあってごちゃごちゃしている。
「ちょっとコレ持っていきなさい」
 差し出されたのは、じいちゃんが畑仕事のときに被るようなつばの広い麦わら帽子。
「いえ、大丈夫です」
「今の時期でも熱中症になるのよ。はい」
 断ったのにあっさりと頭に被せられる。ふわりと落ちてきた感触にツン、と胸の奥が鳴った。
 やめてよ。こういうの。今無理なんだって。
 何気ない優しさが滲みちゃうんだよ。泣いてもいいって言われている気がしちゃうんだよ。でも、ここじゃない。ここじゃないから。
 内側からせり上がる想いをぐっと飲み込む。無理にでも笑顔を作らないとこぼれてしまいそうだった。
「え、あ、じゃあ……いくらですか」
「いらないわよ。帰りまた通るでしょ? そのとき返してくれればいいから」
「でも」
「じゃあ、なにか飲み物でも買ってちょうだい」
 店の奥へと向けられた視線を追う。棚に並ぶ薄青色の瓶。夏祭りでしか飲んだことのないそれを買い、再び日差しの中へと戻った。

 頭部だけ大きくなった影をつれて歩く。
 カラン、カラン。
 傾ける度に音が鳴る。
 シュワシュワと弾ける炭酸。
 喉を通る低い温度。
 舌に残る甘さ。
 ――ジャンケーン、ポン。
 耳の奥で蘇るアイツの声。
 手の中で生まれる水滴が指を伝う。
 帽子の内側、じわじわと浮かんだ汗が流れた。
「あ」
 並んでいた建物が途切れる。開けた視界。広がった空。横に伸びるコンクリートの壁。向こうから響くのは波の音。階段を上れば、たぶん……。
 ジャリ、とスニーカーの底で砂が擦れる。ほんの数段を一段とばしで駆け上がる。
 ぶわりと風が体を包んだ。青と白。視界を上下に分けるのは空と砂浜。その境界線に求め続けた海がある。
 砂浜へと駆け下りる。ふわふわとうまく捉えられない地面。転びそうになりながらも前へと進む。ただまっすぐ。馬鹿みたいに進む。泳ごうとか飛び込もうとかじゃない。目的なんてない。家に帰ってもよかった。泣くだけならここじゃなくてもよかった。それなのに。
「もう、いいか」
 波が届くか届かないか。
 濡れた地面と乾いた地面の境界に立つ。
 誰もいない。波の音しかない。ここでなら泣いても誰も気にしない。誰にもバレない。吐き出して、吐き出して。ちゃんと『友達』の顔に戻るんだ。そのために今だけ。今だけは。
「ばっ、……かやろう」
 思いきり叫ぶ予定だったのに。声は消えそうなほど小さかった。足の力が抜ける。波に濡れた地面。しゃがみこんだ自分の影は映らない。
 ――今どこ?
 あれはアイツの優しさだ。
 気まずくならないよう気を遣ったのだろう。わかっている。そういうやつだってわかっているから、だから。「もしかしたら」なんて期待をして、それで。
「ばかは俺だ……」
 勝手に期待して。落ち込んで。向けられた優しささえ素直に受け取れない。わかっている。わかっていた。友達以上になんかなれないって。わかっていたのに。
「ホント、ばか」
 駅前に設置されていた市街図が浮かぶ。
 誰にも必要とされない。見向きもされない。消えていくだけのもの。俺の想いだって求められてなんかいない。色褪せるのを、消えていくのをただ待てばよかったのだ。
「なんで……」
「ほんと、なんでこんなとこにいるんだよ」
 こぼれた言葉に重なった声。頭上から落ちてきたそれにビクッと体が跳ねる。見上げれば、俺と同じようにシャツの袖を捲り、ムッと不機嫌な顔を向けられる。
「は……なんで……」
「なんではこっちのセリフなんだけど」
 目の前に差し出されたのはスマートフォンの画面。電車の中で見続けた吹き出しが左右逆に並んでいる。
「『海』ってなんだよ」
 ――今どこ?
 送られた吹き出しの下。
 ――海
 たった一文字だけが浮かんでいる。電車を乗り換える直前に俺が送ったものだ。
「いや、どこって聞かれたから」
「雑すぎるだろ」
 はあ、とため息とともに影が落ちる。地面と平行に繋がる視線。同じ格好でしゃがむと「てか、なにその帽子」と今度はおかしそうに笑う。
「なんかおばあちゃんが貸してくれて」
「海っていうより畑にいそうだな」
 ふっと緩んだ表情。変わらない。今までとちっとも変わらない。だけど、もう知っているはずだ。俺が隠し続けた想いは文字に変換されて画面に残っていた。
「ここにいるって、よく、わかったな」
 たった一文字。どこの海岸かも入れなかった。学校をサボるってことだけ伝わればいいと思って。
「ほんとにな」
 ――違う。どこかで期待した。本当はまだ終わってなんかないって。フラれてなんかないって。もしもこれだけで迎えに来てくれたら。会うことができたら。ちゃんと返事をもらえるんじゃないかって。そう思ったから。だから。
「電話繋がらないし。ほんと会えたことにオレのほうがビックリだわ」
「たまたまってこと?」
 一瞬、表情が消える。まっすぐ見つめられ呼吸が止まる。黒い瞳が瞼の奥にゆっくりと隠され、
「――あのさあ」
 ため息が落とされた。波音にも消えないくらい大きな。
「そもそもオレが――品行方正の優等生で通ってるこのオレが、学校サボって来たってことわかってる?」
 ズイっと顔を近づけられ、思わず仰反る。
「いや、近っ」
「返事」
「え」
「しに来たに決まってるだろ」
 てか、なんでメッセージなんだよ。直接言えばいいだろ。ブツブツと続けられる文句にドクドクと心臓が波打つ。待って。いや、返事もらえるかもって期待したけど。でも、まだ心の準備できてないし。今、なの?
「あ、あのさ」
 期待と不安。今はもう期待のほうが大きくなってしまっている。だからこそこわい。知りたいのに知りたくない。会えて嬉しいのに逃げたくなる。
「やっぱり」
「逃げんなよ」
 ――まだ、と続けるはずだった言葉は言えなかった。重ねられた言葉のすぐあと。くいっと帽子の先を引っ張られる。揺れるだけの小さな動き。それだけで距離は消えた。耳に届くのは波の音。口の先に触れるのは無防備なほどの柔らかさと体温。何が起きたのかわからなくて。目を閉じることさえできなかった。
 ふっと潮の香りが戻って初めて唇が離れたのだと気づく。
「なんか……甘い?」
「あ、えっと、ラムネ飲んだから」
 混乱する頭のまま答えてしまう。いや、そうじゃなくて。
 あの、と声をかけるより先に影が戻る。見下ろされて「ジャンケーン」と突然構えられる。反射的に握り締めた手。訳も分からず開けば、「ラムネ奢って」とチョキの指が同じように開かれて重なった。
 そのまま握られ、引っ張り上げられる。体が伸びると同時、足が痺れてよろけた。
 トン、と触れた胸から心臓の音が伝わってくる。
「はや」
 思わず笑えば「返事したからな」と視線を逸らされる。頬が赤いのは日差しのせいだろうか。
「……おぅ」
 自分が送った文面を思い出す。
 冗談だと誤魔化せるギリギリのライン。
 どんな反応が返って来るかで見極めようと思った。

 ――なあ、俺とキスできる?