心臓が壊れそう、だった。
去年も大会はあったはずなのに、緊張した覚えは全くない。ちょっとしたイベント気分でしかなかったから。真剣ではなかったから。
原稿を持つ手が震える。何度も練習した言葉が、頭の中で膨らみ過ぎて何も考えられない。
高校二年生の夏。野球部は昨日の準決勝で負け、予選敗退となったが、佐久間には春も夏もまだある。俺にも来年の大会はある。
けれど俺が今日ここで優勝できなければ、同じ舞台に立つことは叶わない。佐久間が来年の選抜に出たときしかチャンスはない。来年俺が優勝したとしても佐久間がそこに立つことはないのだから。
あの日の約束を叶えられるかどうかは、今日決まる。
煌々と照らされたステージ。先ほどまでいた観客席を見上げる位置。静かに深く息を吸う。
――甲子園さ、俺と一緒に立つのは、どう?
四か月前。そう言った自分を、それを聞いた佐久間の顔を思い出しながら、最初の一音を放った。
***
桜の開花が告げられた翌日、図書室から見える景色は雨に霞んでいた。放送部の活動日ではない、自由な放課後。気づけば閉室時刻まで三十分となっていた。読みかけの本を借り、昇降口へと急ぐ。
春の冷たい風が雨粒を運ぶ。湿った土の匂いを吸い込んだところで「今日も聞こえないな」と思う。なんと言っているのかわからない掛け声。雨だから室内練習なのか。それとも休みなのか。昨日の夕方、甲子園から帰ってきたのは見たけど。
雨音と吹奏楽部の練習音、その隙間で傘を開く。ぱん、と軽い音が弾け、視界を黒い布地が上がっていく。瞼を開けるような、舞台の幕が上がるような――世界が切り替わる瞬間、に似ていた。
だから目に飛び込んできた景色にさほど驚かなかったのかもしれない。
薄暗いグラウンドの中でひとり佇む姿。傘はない。雨に馴染むようにそこにいる。濡れた髪、張り付く練習着、地面の一点を見つめる顔。足元に何があるのか、ここからではわからない。
声をかけるという思考に至らなかったのは、視線の先の彼と自分が別の世界に立っている気がしたから。防球ネットで隔てられた、舞台と観客席。自分は見ることしかできない、足を踏み入れてはならない、そう思った。
何分、いや何秒にすぎない時間だったのかもしれない。気づけば彼は顔を上げていた。
スクリーン越しではない、生身の視線が繋がる。ふっと空気が抜けたように、彼の表情が変わった。――瞬間、駆け出していた。
何かを言われたわけでも、求められたわけでもない。それでも今この瞬間に行かなくてはならないと、本能にも似た強い気持ちが湧き上がり、突き動かされた。
開いたばかりの傘を手にグラウンドへと駆け込む。跳ねる水もぬかるんだ地面も気にする余裕はなく、ただまっすぐに彼の元へと走る。
俺は知っている。この顔を、この表情の意味を。悲しくてたまらないとき、悔しさに飲み込まれそうなとき、泣くよりも先に笑ってしまう。――それは、心が折れた瞬間だと、知っていた。
小学生までの俺はミニバスケットのチームに入っていた。ボールをゴールへ運べたときが何よりも嬉しい。床から離れる足、ゴールへと伸びる体、ボールがネットを通る音。こんなに気持ちいい瞬間はない。好きだから、楽しいから、そんな純粋な気持ちだけで取り組んでいた。――あの日までは。
「――以上だ」
練習おわりに告げられたのは最後の試合のメンバー。俺はベンチに入れなかった。俺より上手い奴はいっぱいいる。人数が限られているのだから出られない奴もいる。わかっていたはずなのに、どこかで「自分は大丈夫だ」と期待していた。
今まで一日だって練習を休んだことはない。誰よりも早く体育館に行き、一番遅くまで練習していた。「一番練習したのに」「誰よりも真面目に取り組んだのに」自分の中で回る言葉に自分で苦しくなる。「おめでとう」なんて言えない。うまく笑えない。早く家に帰りたくて仕方なかった。
けれど、俺は監督に呼び止められる。
「礼司。お前が誰よりも努力していたのは俺が知ってるから。試合には出してやれないけど、これからもチームのために頼むな」
何を言われているのかわからなかった。けれど、俺は優等生らしく「はい」と頷く。それ以外どうすればいいのかわからなかったから。
「礼司にとってはいいことだと思うんだ」
いいこと、ってなんだろう。監督の声は、俺の気持ちとはかけ離れた響きを纏い続ける。
「この挫折は絶対いい経験になるよ」
かつて「努力は嘘をつかない」と言ったのと同じ口で放たれた言葉。俺は何も言えず、頷くことしかできない。
胸に抱いたバスケットボールが急に重みを増した気がした。楽しくて楽しくて仕方なかったはずなのに。今はボールに触れているのも苦しい。弾み続けた心から空気が抜けていく。ぺちゃんこに潰れていく。
「気をつけて帰りなさい」
監督の言葉にボールを片付け、出口へと向かう。
「礼司」
戸口で待っていたチームメイトが駆け寄る。
「俺も同じだからさ。メンバーになれなくて悲しいけど、でも、一緒に最後まで応援しような」
かけられた言葉にぎゅっと唇を噛む。違う、とは言えなかった。同じ。俺も。努力をしてもしなくても、たどり着く場所は同じ。
――もう、いい。
「うん、そうだな」
顔を上げた俺は、笑った。
すると、あれほど沸き立っていた悔しさが不思議なほど落ち着いていく。何かを必死に求めるからこんな思いをするのだ。諦めてしまえば、初めから求めなければ苦しくなることはない。
折ってしまえば、もう――。
勉強も運動もそれなり。中学は部活には入らず、押しつけられるに近いかたちで放送委員になった。適度に忙しく適度に緩い。これと言って文句も不満もない、ちょうどいい場所。
「よく通るいい声だね」と褒められても「ありがとう」と返すだけ。それ以上は何もない。「アナウンサーになりたい」と言う部員には心から「頑張って」と言えた。焦りも悔しさもない。自分は何も目指していないのだから当たり前だ。
高校では部活も委員会も入らないつもりだったが、同じ放送委員だった友人に連れられ、放送部に入ってしまった。中学の頃とは違い、「適度に」と割り切れる空気はない。それでも努力を重ねるほど真剣にはなれず、上辺だけを整えてやり過ごしている。
「もっと練習したら上手くなるのに」
「いや、これが俺の限界だって」
何かに夢中になることも、努力を重ねることも、自分以外の誰かがしてくれる。俺はそれを外から見ているだけでいい。
深く息を吸えることはない代わりに、息苦しくなることもない。浅い呼吸でもひとは生きていける。
「あらあら」
ただいま、と声をかけると母が奥から出てきた。その視線は俺ではなく、隣に立つ彼に向けられる。制服に着替えてはいるが、髪がぐっしょり濡れているのは誤魔化せない。
「ちょっと待っててね」
廊下を戻り、洗面所からタオルを持ってくる。
「お風呂沸かすから。家にも連絡してね。あ、なに君?」
最後は彼ではなく俺に向けられたようだったが、俺は彼の名前を知らないので何も言えない。
一瞬の間のあと「佐久間です」と小さな声が落ちる。自分とあまり変わらない身長から落とされた声は低く、タオルを持つ手は自分よりも大きい。思わず連れて帰ってきてしまったが、犬でも猫でもないのだと改めて気づく。
「佐久間くんね。よかったらごはんも食べてって」
「いえ、それは」
断りかけた言葉に、ぐううう、と大きな音が重なった。
二人の視線が同時に俺に向けられる。いや、だって、もうごはんの時間だし。
「ね、礼司が耐えられないから。付き合ってあげて」
「じゃあ、はい……」
こぼれたのは自然な笑みだった、と思う。
夕ごはんを食べ終わる頃に雨は上がった。
母の運転する車の後部座席に、佐久間と並んで座る。
食卓での会話で明らかになったのは、隣町に住んでいることと、俺と同じ一年生だということ。一年も通っているのに「同級生」ということすら知らなかった。クラスが違うからというのもあるが、佐久間が学年にひとクラスしかないスポーツ科だというのもあるだろう。
「スポーツ科ってことは推薦よね。すごいわね」
「いえ、自分はそんなでもないので」
暗い車内では佐久間の表情はわからない。けれど、柔らかな声には小さな棘が混じっているように感じられた。外へ向けたものか、佐久間自身へ向けたものかはわからない。深く聞いてはいけない気がする。母も同じように思ったのだろう、「明日は天気いいといいわね」と話題を変えた。
戸建住宅が並ぶ閑静な住宅街。佐久間が車を降り、門扉の前で頭を下げる。家の中は暗く、誰も帰っていないようだった。
「ありがとうございました」
「親御さんによろしくね」
「はい」
母と言葉を交わした佐久間が、後部座席の俺に顔を向ける。窓ガラスは開けているので、佐久間越しに夜の空気が流れ込む。
何か言うべきだろうか。けれど友達でもクラスメイトでもない相手に何を言えばいいのかわからない。
「……じゃあ」
佐久間が軽く会釈し、俺も小さく頭を下げる。
車が発進し、角を曲がるまで佐久間は律儀に立っていた。
「佐久間くんって、野球部よね?」
母の言葉で、数時間前の、グラウンドで佇んでいた姿を思い出した。着ていたのは野球部の練習着。泥の中に落ちていたのはグローブ。野球部で間違いないだろう。けれど、母はなぜわかったのか。
「そう、だけど」
疑問を感じ取ったのか、フロントガラスを見つめたまま母は言った。
「昨日、甲子園で投げてたじゃない。佐久間くん」
「えっ」
野球部が甲子園に行っていたのは知っているが、佐久間が投げていたのは知らない。スポーツ科とは関わりもなければ、知り合いもいない。全国大会に行く部活は多いので、応援に駆り出されることはあるが、俺はなんだかんだ理由をつけ躱してきた。
「一年生なのに堂々としてて、見ていて気持ちよかったわよ。途中から調子が崩れちゃったみたいだけど。……テレビとはやっぱり違うのかしらね、雰囲気が違うから、すぐにはわからなかったわ」
「そうなんだ」
「友達なのに知らなかったの?」
ふっと母が呆れたように息を吐く。
「……友達じゃないし」
まだ、と声に出せなかった呟きが胸に戻る。
母は深くは突っ込まず「そういえば」と話を変えた。
「開会式で司会をしていた男の子がとってもいい声だったのよね。朗読部門? の大会で優勝した子なんだって」
わずかにできた間に「礼司はそういうの出ないの?」と訊かれている気がした。
けれど実際に母が放った言葉は「来週には満開かしらね」で、道に沿って植えられている桜が窓を滑るだけだった。
翌日の放課後、部室へと向かう途中、佐久間と出会った。無視するのもおかしいので「部活?」と当たり障りのない質問をした。「そう」の一言で終わる軽い会話のつもりで。けれど佐久間は戸惑いを顔に浮かべる。
「あ、いや、実は……」
「佐久間」
続く言葉より先に背中から声が響いた。バタバタと近づく複数の足音も。
「今日休むって」
「……うん。ちょっと肘の張りがあって。念のため病院に」
「そっか。俺てっきりお前が落ち込んでるのかと思ってさ」
「誰もお前のせいなんて思ってないから、気にすんなよ」
「俺もエラーしちゃったし」
「俺も打てなかったし」
「夏にまた行けるようにさ、一緒に頑張ろうぜ」
「……うん、ありがとう」
佐久間の笑った顔を見た瞬間、堪えていたものが一気に弾けた。繰り返される「俺も」がたまらなく嫌だった。自分の結果を誰かの結果と重ねること。佐久間がそれを受け入れていること。全部が耐えられなかった。どうしてそんなことを思うのか、と考えるより前に言葉は飛び出していた。
「……勝手なこと言ってんじゃねーよ」
「は?」
「礼司?」
個々の努力や失敗が同じなわけない。想いだって、気持ちだって、完璧に重なることなんてない。
「俺も、ってなんだよ」
――俺も同じだからさ。メンバーになれなくて悲しいけど、でも、一緒に最後まで応援しようよ。
チームメイトに言われた言葉を思い出す。俺は「うん」と頷いた。折れた心と同じように。頭を下げた。俺と同じように選ばれなかった奴がいる。だから大丈夫だと言い聞かせて。
でも、本当は違った。全然大丈夫じゃなかった。悔しくてたまらなかった。何が「同じ」なんだと言ってやりたかった。お前は何度か練習に来なかったけど、俺は違う。俺はちゃんと努力したんだ。したのに届かなかった。
「同じなわけあるか。誰も同じになんてなれないんだよ」
昨日のグラウンドの風景が過ぎる。ひとりで佇む佐久間の姿。きっと佐久間は向き合っていた。自分に。心が折れるほど、真剣に。それなのに、俺は……。
「お前に何がわかんだよ」
「関係ない奴が口出すなよ」
「ああ、わかんねーよ。俺は野球部じゃないし、エラーしたお前でも、大事なところで打てなかったお前でもない。俺は佐久間じゃないし、誰も佐久間になれない」
許せないのは、耐えられなかったのは、自分だ。佐久間に自分を重ねた。あの日、閉じ込めた自分を。向き合うことから逃げた自分を。佐久間は、俺とは違うのに。
「みんな、自分でしかないんだから、重ねる必要なんてないだろ」
重ねる必要なんてない。俺とは違うのだから。お前たちは舞台に立っているのだから。
どうしてこんなに苛立つのか。どうして口を挟んでしまったのか。
――今の自分は他人に重ねることしかできない、と気づいたからだ。
「え、なんだよ」
「おい、ちょっと」
気付いたら駆け出していた。戸惑う声を置き去りにスピードを上げる。何も考えずに走った結果、たどり着いたのは図書室の前だった。静かな廊下で足を止め、ゆっくり振り返る。俺は軽く息が上がっていたが、佐久間の呼吸は乱れていなかった。
「なんで」
ついてきたんだ、と口にする前に
「わかんねー」
と返ってくる。
「礼司こそ、どうして昨日俺のところに来たの?」
同じじゃないと、重ねるなと言っておきながら、佐久間に自分を重ねたなんて言えない。佐久間じゃなくて自分を助けたかったのかもしれない、なんて。何も返せずにいると、佐久間が小さな声で言った。
「……嘘、なんだ」
「え?」
「病院に行く、なんて嘘」
佐久間が右ひじに手をあてる。
「試合のこと言われるの辛くてさ、教室にいるのもしんどかった。自意識過剰なんだろうけど。どこにいてもみんなが俺のこと見てるみたいで、責められてるみたいで……俺のこと誰も知らないところに行きたいって、思った」
窓から冷たく柔らかな風が流れてくる。
グラウンドで練習を始めた野球部の声も。
「そしたら礼司が来た」
ふっと息を吐き出し、佐久間が顔を上げる。
「傘持って駆けてきて、怒るでも名前を呼ぶでもなく、ただ『帰るぞ』って」
「俺は……、自分のために、やっただけだ」
そっか、と息に近い声がふわりと消えていく。
「でも、みんなそうだろ。チームのためでもあるけど、最後は自分のため。勝ちたいって思うのは自分だから」
わずかな間が空き、
「……立っていたかった」
ぽつり、と降り出しの雨みたいに佐久間の声が落ちる。
「本当は最後まで投げたかった。でも、打たれて、焦って、どうしようもなくなって」
それで、と佐久間が唇を噛む。もう笑ってはいない。砕けた心のかけらを落として、飲み込んで、ぐっと耐えていた。
「もう一度、立ちたい。でも」
こわいんだ。紡がれた言葉は震えていた。
「佐久間……」
俺は何も言えない。佐久間に言えることが俺にはない。努力を投げ出した、向き合うことから逃げた自分が言えることなんてなかった。
浅い呼吸でよかった。何かに夢中になることより傷つかないことを選んだ。真剣になったところで結果が出なかったら恥ずかしい。全力で挑んで砕けたらどうしていいかわからない。だから何事もそれなりでいい。結果が出ないのは全力じゃないから、と言い訳できるくらいで。もうあんな苦しさを味わいたくない。
それなのに苦しい。佐久間にかける言葉が出てこないことが悔しくて、恥ずかしくて。自分が失敗したわけでもないのに。重ねることしかできない自分が、努力することさえ諦めた自分が、恥ずかしくてたまらない。
俺は――、舞台に立ち続ける彼らが羨ましかった。
夢中になれるものがあって、そのための努力をしていて。その先の結果も失敗も全部、羨ましかった。
「『俺は佐久間じゃないし、誰も佐久間になれない』か」
佐久間がゆっくり顔を上げる。
「交代を告げられたときさ、本当はどうしようもなく悔しかった。代わりはいるからって言われたみたいで」
緩やかに、けれど確かな強さで視線が結ばれる。
「でも、違うよな。俺は俺にしかなれないし。誰も誰かの代わりじゃない」
代わりじゃないから、自分で立ち上がるしかない。自分で立ち続けるしかない。
「……甲子園、ってそんなすごいの?」
こわくても、もう一度立ちたい。そう思うほど。
俺はテレビでしか知らない。ジリジリと迫る暑さも。肌を流れる汗も。バッターボックスで構えるバッター。キャッチャーのサインに頷き、投球動作へと入るピッチャー。投げ込まれるボール。キン、と響く高い音。伸びていく打球。外野が走る、観客が沸き立つ、歓声も視線もすべてがたった一球に注がれる、そんな世界。
「わかんねー」
先ほどとは違う温かな響きに、何かが芽吹くのを感じる。画面の向こうでしかなかった世界に、触れられそうな気がする。
「……あのさ」
「礼司」
わずかに早く、佐久間が俺の名前を呼んだ。
「何?」
「なんか、礼司の声って落ち着くな」
交わした言葉なんて数えるほどしかないだろうに。なぜか佐久間はそう言って笑う。ただただ柔らかく。
「なんだそれ」
笑い返しながらも、俺の胸は温かくなっていく。
――よく通るいい声だね。
そう言われたのを思い出す。流してしまったけれど、本当はとても嬉しかったことを。
――もっと練習したら上手くなるのに。
まだ、間に合うだろうか。いや、間に合わなくてもやりたい。やりたいと俺自身が思っている。
「佐久間」
スタンドから応援するのでは足りない。声は紛れ、掻き消されるだろう。佐久間に何か言うなら、せめて同じ場所に立たなくては。自分の力で、努力で、勝ち取って。
「甲子園さ、俺と一緒に立つのは、どう?」
折れた心を戻す方法なんて知らないけど。
戻らないなんて、思いたくない。
苦しくても、恥ずかしくても、こわくても。
後悔も想いも自分だけのものだから。自分以外に重ねても意味なんてない。
――自分で進むしかない。
***
明け方まで降り続いた雨は止んでいた。春の風はまだ冷たいが、内側から膨らむ緊張と喜びに寒さは感じない。
観客席はほぼ満員。奥の鮮やかな芝の端、設けられた入場門。その先には入場を待つ選手たちが控えている。校旗を持った佐久間も。
俺は白い台に置かれたマイクへと視線を向ける。
挫折があってよかった、なんてまだ思えない。あの日の苦しさは残ったまま。ひとり佇む幼い自分は胸の中にいる。けれど、無駄な時間はなかった、とは思えるようになった。
――バスケットで挫折したから。
――放送委員をやったから。
――図書室に通い続けたから。
――佐久間に出会ったから。
元通りにはならなかったけれど、それでもいい。折れたまま放置されていた箇所からでも、芽は出ると知った。教えてもらった。もう、こわくない。
トン、と腕に触れた合図。
言葉にされなくてもわかる、優しい熱。「大丈夫」たったひとつ、それだけの動作で伝わるものがあるように。用意された原稿を読むだけでも、届くものがあると信じたい。
深く、深く、息を吸う。
雨上がりの湿った匂いが喉を濡らす。
マイクを通した声が、球場全体に響き渡り、雨に洗われた景色へと広がっていく。舞台と自分を隔てるものは何もない。
「――選抜高等学校野球大会の開会式を行います」
俺は佐久間と同じ舞台に――甲子園に、立っていた。
去年も大会はあったはずなのに、緊張した覚えは全くない。ちょっとしたイベント気分でしかなかったから。真剣ではなかったから。
原稿を持つ手が震える。何度も練習した言葉が、頭の中で膨らみ過ぎて何も考えられない。
高校二年生の夏。野球部は昨日の準決勝で負け、予選敗退となったが、佐久間には春も夏もまだある。俺にも来年の大会はある。
けれど俺が今日ここで優勝できなければ、同じ舞台に立つことは叶わない。佐久間が来年の選抜に出たときしかチャンスはない。来年俺が優勝したとしても佐久間がそこに立つことはないのだから。
あの日の約束を叶えられるかどうかは、今日決まる。
煌々と照らされたステージ。先ほどまでいた観客席を見上げる位置。静かに深く息を吸う。
――甲子園さ、俺と一緒に立つのは、どう?
四か月前。そう言った自分を、それを聞いた佐久間の顔を思い出しながら、最初の一音を放った。
***
桜の開花が告げられた翌日、図書室から見える景色は雨に霞んでいた。放送部の活動日ではない、自由な放課後。気づけば閉室時刻まで三十分となっていた。読みかけの本を借り、昇降口へと急ぐ。
春の冷たい風が雨粒を運ぶ。湿った土の匂いを吸い込んだところで「今日も聞こえないな」と思う。なんと言っているのかわからない掛け声。雨だから室内練習なのか。それとも休みなのか。昨日の夕方、甲子園から帰ってきたのは見たけど。
雨音と吹奏楽部の練習音、その隙間で傘を開く。ぱん、と軽い音が弾け、視界を黒い布地が上がっていく。瞼を開けるような、舞台の幕が上がるような――世界が切り替わる瞬間、に似ていた。
だから目に飛び込んできた景色にさほど驚かなかったのかもしれない。
薄暗いグラウンドの中でひとり佇む姿。傘はない。雨に馴染むようにそこにいる。濡れた髪、張り付く練習着、地面の一点を見つめる顔。足元に何があるのか、ここからではわからない。
声をかけるという思考に至らなかったのは、視線の先の彼と自分が別の世界に立っている気がしたから。防球ネットで隔てられた、舞台と観客席。自分は見ることしかできない、足を踏み入れてはならない、そう思った。
何分、いや何秒にすぎない時間だったのかもしれない。気づけば彼は顔を上げていた。
スクリーン越しではない、生身の視線が繋がる。ふっと空気が抜けたように、彼の表情が変わった。――瞬間、駆け出していた。
何かを言われたわけでも、求められたわけでもない。それでも今この瞬間に行かなくてはならないと、本能にも似た強い気持ちが湧き上がり、突き動かされた。
開いたばかりの傘を手にグラウンドへと駆け込む。跳ねる水もぬかるんだ地面も気にする余裕はなく、ただまっすぐに彼の元へと走る。
俺は知っている。この顔を、この表情の意味を。悲しくてたまらないとき、悔しさに飲み込まれそうなとき、泣くよりも先に笑ってしまう。――それは、心が折れた瞬間だと、知っていた。
小学生までの俺はミニバスケットのチームに入っていた。ボールをゴールへ運べたときが何よりも嬉しい。床から離れる足、ゴールへと伸びる体、ボールがネットを通る音。こんなに気持ちいい瞬間はない。好きだから、楽しいから、そんな純粋な気持ちだけで取り組んでいた。――あの日までは。
「――以上だ」
練習おわりに告げられたのは最後の試合のメンバー。俺はベンチに入れなかった。俺より上手い奴はいっぱいいる。人数が限られているのだから出られない奴もいる。わかっていたはずなのに、どこかで「自分は大丈夫だ」と期待していた。
今まで一日だって練習を休んだことはない。誰よりも早く体育館に行き、一番遅くまで練習していた。「一番練習したのに」「誰よりも真面目に取り組んだのに」自分の中で回る言葉に自分で苦しくなる。「おめでとう」なんて言えない。うまく笑えない。早く家に帰りたくて仕方なかった。
けれど、俺は監督に呼び止められる。
「礼司。お前が誰よりも努力していたのは俺が知ってるから。試合には出してやれないけど、これからもチームのために頼むな」
何を言われているのかわからなかった。けれど、俺は優等生らしく「はい」と頷く。それ以外どうすればいいのかわからなかったから。
「礼司にとってはいいことだと思うんだ」
いいこと、ってなんだろう。監督の声は、俺の気持ちとはかけ離れた響きを纏い続ける。
「この挫折は絶対いい経験になるよ」
かつて「努力は嘘をつかない」と言ったのと同じ口で放たれた言葉。俺は何も言えず、頷くことしかできない。
胸に抱いたバスケットボールが急に重みを増した気がした。楽しくて楽しくて仕方なかったはずなのに。今はボールに触れているのも苦しい。弾み続けた心から空気が抜けていく。ぺちゃんこに潰れていく。
「気をつけて帰りなさい」
監督の言葉にボールを片付け、出口へと向かう。
「礼司」
戸口で待っていたチームメイトが駆け寄る。
「俺も同じだからさ。メンバーになれなくて悲しいけど、でも、一緒に最後まで応援しような」
かけられた言葉にぎゅっと唇を噛む。違う、とは言えなかった。同じ。俺も。努力をしてもしなくても、たどり着く場所は同じ。
――もう、いい。
「うん、そうだな」
顔を上げた俺は、笑った。
すると、あれほど沸き立っていた悔しさが不思議なほど落ち着いていく。何かを必死に求めるからこんな思いをするのだ。諦めてしまえば、初めから求めなければ苦しくなることはない。
折ってしまえば、もう――。
勉強も運動もそれなり。中学は部活には入らず、押しつけられるに近いかたちで放送委員になった。適度に忙しく適度に緩い。これと言って文句も不満もない、ちょうどいい場所。
「よく通るいい声だね」と褒められても「ありがとう」と返すだけ。それ以上は何もない。「アナウンサーになりたい」と言う部員には心から「頑張って」と言えた。焦りも悔しさもない。自分は何も目指していないのだから当たり前だ。
高校では部活も委員会も入らないつもりだったが、同じ放送委員だった友人に連れられ、放送部に入ってしまった。中学の頃とは違い、「適度に」と割り切れる空気はない。それでも努力を重ねるほど真剣にはなれず、上辺だけを整えてやり過ごしている。
「もっと練習したら上手くなるのに」
「いや、これが俺の限界だって」
何かに夢中になることも、努力を重ねることも、自分以外の誰かがしてくれる。俺はそれを外から見ているだけでいい。
深く息を吸えることはない代わりに、息苦しくなることもない。浅い呼吸でもひとは生きていける。
「あらあら」
ただいま、と声をかけると母が奥から出てきた。その視線は俺ではなく、隣に立つ彼に向けられる。制服に着替えてはいるが、髪がぐっしょり濡れているのは誤魔化せない。
「ちょっと待っててね」
廊下を戻り、洗面所からタオルを持ってくる。
「お風呂沸かすから。家にも連絡してね。あ、なに君?」
最後は彼ではなく俺に向けられたようだったが、俺は彼の名前を知らないので何も言えない。
一瞬の間のあと「佐久間です」と小さな声が落ちる。自分とあまり変わらない身長から落とされた声は低く、タオルを持つ手は自分よりも大きい。思わず連れて帰ってきてしまったが、犬でも猫でもないのだと改めて気づく。
「佐久間くんね。よかったらごはんも食べてって」
「いえ、それは」
断りかけた言葉に、ぐううう、と大きな音が重なった。
二人の視線が同時に俺に向けられる。いや、だって、もうごはんの時間だし。
「ね、礼司が耐えられないから。付き合ってあげて」
「じゃあ、はい……」
こぼれたのは自然な笑みだった、と思う。
夕ごはんを食べ終わる頃に雨は上がった。
母の運転する車の後部座席に、佐久間と並んで座る。
食卓での会話で明らかになったのは、隣町に住んでいることと、俺と同じ一年生だということ。一年も通っているのに「同級生」ということすら知らなかった。クラスが違うからというのもあるが、佐久間が学年にひとクラスしかないスポーツ科だというのもあるだろう。
「スポーツ科ってことは推薦よね。すごいわね」
「いえ、自分はそんなでもないので」
暗い車内では佐久間の表情はわからない。けれど、柔らかな声には小さな棘が混じっているように感じられた。外へ向けたものか、佐久間自身へ向けたものかはわからない。深く聞いてはいけない気がする。母も同じように思ったのだろう、「明日は天気いいといいわね」と話題を変えた。
戸建住宅が並ぶ閑静な住宅街。佐久間が車を降り、門扉の前で頭を下げる。家の中は暗く、誰も帰っていないようだった。
「ありがとうございました」
「親御さんによろしくね」
「はい」
母と言葉を交わした佐久間が、後部座席の俺に顔を向ける。窓ガラスは開けているので、佐久間越しに夜の空気が流れ込む。
何か言うべきだろうか。けれど友達でもクラスメイトでもない相手に何を言えばいいのかわからない。
「……じゃあ」
佐久間が軽く会釈し、俺も小さく頭を下げる。
車が発進し、角を曲がるまで佐久間は律儀に立っていた。
「佐久間くんって、野球部よね?」
母の言葉で、数時間前の、グラウンドで佇んでいた姿を思い出した。着ていたのは野球部の練習着。泥の中に落ちていたのはグローブ。野球部で間違いないだろう。けれど、母はなぜわかったのか。
「そう、だけど」
疑問を感じ取ったのか、フロントガラスを見つめたまま母は言った。
「昨日、甲子園で投げてたじゃない。佐久間くん」
「えっ」
野球部が甲子園に行っていたのは知っているが、佐久間が投げていたのは知らない。スポーツ科とは関わりもなければ、知り合いもいない。全国大会に行く部活は多いので、応援に駆り出されることはあるが、俺はなんだかんだ理由をつけ躱してきた。
「一年生なのに堂々としてて、見ていて気持ちよかったわよ。途中から調子が崩れちゃったみたいだけど。……テレビとはやっぱり違うのかしらね、雰囲気が違うから、すぐにはわからなかったわ」
「そうなんだ」
「友達なのに知らなかったの?」
ふっと母が呆れたように息を吐く。
「……友達じゃないし」
まだ、と声に出せなかった呟きが胸に戻る。
母は深くは突っ込まず「そういえば」と話を変えた。
「開会式で司会をしていた男の子がとってもいい声だったのよね。朗読部門? の大会で優勝した子なんだって」
わずかにできた間に「礼司はそういうの出ないの?」と訊かれている気がした。
けれど実際に母が放った言葉は「来週には満開かしらね」で、道に沿って植えられている桜が窓を滑るだけだった。
翌日の放課後、部室へと向かう途中、佐久間と出会った。無視するのもおかしいので「部活?」と当たり障りのない質問をした。「そう」の一言で終わる軽い会話のつもりで。けれど佐久間は戸惑いを顔に浮かべる。
「あ、いや、実は……」
「佐久間」
続く言葉より先に背中から声が響いた。バタバタと近づく複数の足音も。
「今日休むって」
「……うん。ちょっと肘の張りがあって。念のため病院に」
「そっか。俺てっきりお前が落ち込んでるのかと思ってさ」
「誰もお前のせいなんて思ってないから、気にすんなよ」
「俺もエラーしちゃったし」
「俺も打てなかったし」
「夏にまた行けるようにさ、一緒に頑張ろうぜ」
「……うん、ありがとう」
佐久間の笑った顔を見た瞬間、堪えていたものが一気に弾けた。繰り返される「俺も」がたまらなく嫌だった。自分の結果を誰かの結果と重ねること。佐久間がそれを受け入れていること。全部が耐えられなかった。どうしてそんなことを思うのか、と考えるより前に言葉は飛び出していた。
「……勝手なこと言ってんじゃねーよ」
「は?」
「礼司?」
個々の努力や失敗が同じなわけない。想いだって、気持ちだって、完璧に重なることなんてない。
「俺も、ってなんだよ」
――俺も同じだからさ。メンバーになれなくて悲しいけど、でも、一緒に最後まで応援しようよ。
チームメイトに言われた言葉を思い出す。俺は「うん」と頷いた。折れた心と同じように。頭を下げた。俺と同じように選ばれなかった奴がいる。だから大丈夫だと言い聞かせて。
でも、本当は違った。全然大丈夫じゃなかった。悔しくてたまらなかった。何が「同じ」なんだと言ってやりたかった。お前は何度か練習に来なかったけど、俺は違う。俺はちゃんと努力したんだ。したのに届かなかった。
「同じなわけあるか。誰も同じになんてなれないんだよ」
昨日のグラウンドの風景が過ぎる。ひとりで佇む佐久間の姿。きっと佐久間は向き合っていた。自分に。心が折れるほど、真剣に。それなのに、俺は……。
「お前に何がわかんだよ」
「関係ない奴が口出すなよ」
「ああ、わかんねーよ。俺は野球部じゃないし、エラーしたお前でも、大事なところで打てなかったお前でもない。俺は佐久間じゃないし、誰も佐久間になれない」
許せないのは、耐えられなかったのは、自分だ。佐久間に自分を重ねた。あの日、閉じ込めた自分を。向き合うことから逃げた自分を。佐久間は、俺とは違うのに。
「みんな、自分でしかないんだから、重ねる必要なんてないだろ」
重ねる必要なんてない。俺とは違うのだから。お前たちは舞台に立っているのだから。
どうしてこんなに苛立つのか。どうして口を挟んでしまったのか。
――今の自分は他人に重ねることしかできない、と気づいたからだ。
「え、なんだよ」
「おい、ちょっと」
気付いたら駆け出していた。戸惑う声を置き去りにスピードを上げる。何も考えずに走った結果、たどり着いたのは図書室の前だった。静かな廊下で足を止め、ゆっくり振り返る。俺は軽く息が上がっていたが、佐久間の呼吸は乱れていなかった。
「なんで」
ついてきたんだ、と口にする前に
「わかんねー」
と返ってくる。
「礼司こそ、どうして昨日俺のところに来たの?」
同じじゃないと、重ねるなと言っておきながら、佐久間に自分を重ねたなんて言えない。佐久間じゃなくて自分を助けたかったのかもしれない、なんて。何も返せずにいると、佐久間が小さな声で言った。
「……嘘、なんだ」
「え?」
「病院に行く、なんて嘘」
佐久間が右ひじに手をあてる。
「試合のこと言われるの辛くてさ、教室にいるのもしんどかった。自意識過剰なんだろうけど。どこにいてもみんなが俺のこと見てるみたいで、責められてるみたいで……俺のこと誰も知らないところに行きたいって、思った」
窓から冷たく柔らかな風が流れてくる。
グラウンドで練習を始めた野球部の声も。
「そしたら礼司が来た」
ふっと息を吐き出し、佐久間が顔を上げる。
「傘持って駆けてきて、怒るでも名前を呼ぶでもなく、ただ『帰るぞ』って」
「俺は……、自分のために、やっただけだ」
そっか、と息に近い声がふわりと消えていく。
「でも、みんなそうだろ。チームのためでもあるけど、最後は自分のため。勝ちたいって思うのは自分だから」
わずかな間が空き、
「……立っていたかった」
ぽつり、と降り出しの雨みたいに佐久間の声が落ちる。
「本当は最後まで投げたかった。でも、打たれて、焦って、どうしようもなくなって」
それで、と佐久間が唇を噛む。もう笑ってはいない。砕けた心のかけらを落として、飲み込んで、ぐっと耐えていた。
「もう一度、立ちたい。でも」
こわいんだ。紡がれた言葉は震えていた。
「佐久間……」
俺は何も言えない。佐久間に言えることが俺にはない。努力を投げ出した、向き合うことから逃げた自分が言えることなんてなかった。
浅い呼吸でよかった。何かに夢中になることより傷つかないことを選んだ。真剣になったところで結果が出なかったら恥ずかしい。全力で挑んで砕けたらどうしていいかわからない。だから何事もそれなりでいい。結果が出ないのは全力じゃないから、と言い訳できるくらいで。もうあんな苦しさを味わいたくない。
それなのに苦しい。佐久間にかける言葉が出てこないことが悔しくて、恥ずかしくて。自分が失敗したわけでもないのに。重ねることしかできない自分が、努力することさえ諦めた自分が、恥ずかしくてたまらない。
俺は――、舞台に立ち続ける彼らが羨ましかった。
夢中になれるものがあって、そのための努力をしていて。その先の結果も失敗も全部、羨ましかった。
「『俺は佐久間じゃないし、誰も佐久間になれない』か」
佐久間がゆっくり顔を上げる。
「交代を告げられたときさ、本当はどうしようもなく悔しかった。代わりはいるからって言われたみたいで」
緩やかに、けれど確かな強さで視線が結ばれる。
「でも、違うよな。俺は俺にしかなれないし。誰も誰かの代わりじゃない」
代わりじゃないから、自分で立ち上がるしかない。自分で立ち続けるしかない。
「……甲子園、ってそんなすごいの?」
こわくても、もう一度立ちたい。そう思うほど。
俺はテレビでしか知らない。ジリジリと迫る暑さも。肌を流れる汗も。バッターボックスで構えるバッター。キャッチャーのサインに頷き、投球動作へと入るピッチャー。投げ込まれるボール。キン、と響く高い音。伸びていく打球。外野が走る、観客が沸き立つ、歓声も視線もすべてがたった一球に注がれる、そんな世界。
「わかんねー」
先ほどとは違う温かな響きに、何かが芽吹くのを感じる。画面の向こうでしかなかった世界に、触れられそうな気がする。
「……あのさ」
「礼司」
わずかに早く、佐久間が俺の名前を呼んだ。
「何?」
「なんか、礼司の声って落ち着くな」
交わした言葉なんて数えるほどしかないだろうに。なぜか佐久間はそう言って笑う。ただただ柔らかく。
「なんだそれ」
笑い返しながらも、俺の胸は温かくなっていく。
――よく通るいい声だね。
そう言われたのを思い出す。流してしまったけれど、本当はとても嬉しかったことを。
――もっと練習したら上手くなるのに。
まだ、間に合うだろうか。いや、間に合わなくてもやりたい。やりたいと俺自身が思っている。
「佐久間」
スタンドから応援するのでは足りない。声は紛れ、掻き消されるだろう。佐久間に何か言うなら、せめて同じ場所に立たなくては。自分の力で、努力で、勝ち取って。
「甲子園さ、俺と一緒に立つのは、どう?」
折れた心を戻す方法なんて知らないけど。
戻らないなんて、思いたくない。
苦しくても、恥ずかしくても、こわくても。
後悔も想いも自分だけのものだから。自分以外に重ねても意味なんてない。
――自分で進むしかない。
***
明け方まで降り続いた雨は止んでいた。春の風はまだ冷たいが、内側から膨らむ緊張と喜びに寒さは感じない。
観客席はほぼ満員。奥の鮮やかな芝の端、設けられた入場門。その先には入場を待つ選手たちが控えている。校旗を持った佐久間も。
俺は白い台に置かれたマイクへと視線を向ける。
挫折があってよかった、なんてまだ思えない。あの日の苦しさは残ったまま。ひとり佇む幼い自分は胸の中にいる。けれど、無駄な時間はなかった、とは思えるようになった。
――バスケットで挫折したから。
――放送委員をやったから。
――図書室に通い続けたから。
――佐久間に出会ったから。
元通りにはならなかったけれど、それでもいい。折れたまま放置されていた箇所からでも、芽は出ると知った。教えてもらった。もう、こわくない。
トン、と腕に触れた合図。
言葉にされなくてもわかる、優しい熱。「大丈夫」たったひとつ、それだけの動作で伝わるものがあるように。用意された原稿を読むだけでも、届くものがあると信じたい。
深く、深く、息を吸う。
雨上がりの湿った匂いが喉を濡らす。
マイクを通した声が、球場全体に響き渡り、雨に洗われた景色へと広がっていく。舞台と自分を隔てるものは何もない。
「――選抜高等学校野球大会の開会式を行います」
俺は佐久間と同じ舞台に――甲子園に、立っていた。