水曜日を迎えた。この数日間で、僕は着々と七瀬の嘘を暴く準備を整えている……はずだった。実際は真逆。超絶に難航していた。
 もはや事件が起きていた。『七瀬の暴挙』としか言いようがないそれは、彼女が僕との関係を捏造して触れ回っていることである。
 詳しく言えば、彼女は教室で「吉良くんは親友だよ」「面白い人だよ」などと虚偽の発言を繰り返していた。また僕がその事実を知ったのは、計三名のクラスメイトから「本当に仲良いの?」と質問されたからで、つまりは周囲の人間にまで確実に影響が及んでいた。
 七瀬は嘘をつくのが苦手だろうと睨んだ僕だけれど、その説が早くも破綻しかけている。でも、ならば尚更、早く手を打つべきだ。
 それに逆に考えれば、彼女にこそ大きく動くだけの理由があったのだ。ならその理由を問えれば、ボロを出すかもしれない。
 そう確信して意気込み、僕は放課後、教室に七瀬と二人だけになるのを待っていた。
 が、しかし横っ面から思わぬ奇襲を受ける。
「ちょっと、話をさせて」
 突然そう言ってきたのは、クラスメイトの朝井。七瀬と特に仲が良い女子だ。
 女子にしては髪が短く、その前髪から覗く強気な目つきは、少なからず僕を緊張させる。
「とにかく、ちょっとこっちに来て」
 なぜかため息混じりにそう言って先を歩く朝井。迷惑を被っているのは僕だけれど、七瀬のことで呼び出されたのなら無視は危険だ。
 廊下を進み、人気のない空き教室の前にたどり着く。すると朝井は振り返り、言った。
「私、朝井ね」
 ぶっきらぼうな自己紹介。確かに僕らは初めて言葉を交わす。またそこに愛想がないのは、彼女も緊張している証拠かもしれない。
「単刀直入に聞くけど、あんた、小春と本当に仲良いの?」
 でも、そんな彼女の太刀筋、いや言葉は予想していた通りで、返答も用意してあった。
「ただ、一緒に旅行委員を務める仲だよ」
 先の三人から学んだ。面白みのない返答をして興味を失わせれば、彼らはすぐに去っていく……はずだったのだが。
「それだけじゃないでしょ。それだけで小春が男友達の話をあんなにオープンにしないわ」
 朝井が一歩間合いを詰めてくる。その形相を見て、彼女は興味だけで質問してきた他の人達とは違うのだと気づいた。
 だけれど、そうであるのなら、僕こそ何も言えないし、こうしか言えなくなるわけで。
「でも考えてもみてよ。君も多少は普段の僕がどんな生徒かは知っているだろ。ならそんな僕と彼女が突発的に仲良くなると思う?」
「思わない。だから余計に心配してるのよ」
 遠慮なくものを言う朝井だが、それは親友として七瀬を想っているからなのだろう。
「小春はいい子だけど、自主的に人の前に立とうとする子ではなかった。だから、なんか最近の小春は色々と変に思えて……」
 寒い時にそうするように腕を組み、廊下の隅を見て朝井はそう言った。
 朝井の発言により、僕にも七瀬の謎がより濃く、深く思えてくる。とすれば、本当に巻き込まれているだけの僕は現時点で朝井に返す言葉がないし、であれば朝井もこれ以上、僕に聞けることもなかった。
 言葉が途切れ、無言の空間で聞く蝉の声に居心地が悪くなってくると、朝井が言った。
「まぁ、わかった。なんていうか失礼なこと言ってたらごめん」
 今の言葉もそうだが、彼女は強引だけれど悪い子ではない。友達想いなだけなのだろう。
「いいや、別に大丈夫だよ」
 朝井を見て思う。僕は七瀬のことが苦手だった。人当たりが良く、誰とでも無条件に仲良くなる。そんな僕とは正反対な生態を持つ彼女に、勝手に疑問と嫌悪感を抱いていた。
 でも、こうして大切に思ってくれる友達がいるという点においては、七瀬にも朝井にもそれぞれ尊敬できるところがあった。
「とにかく仲良くするのなら、きっちり仲良くしてあげてね」
 だから、最後にこう言い残して去って行った朝井の気持ちも、今は理解も尊敬もできる。けど、僕がその言葉に従うかはまた別の話だ。

 しかし教室へ戻ってくると、七瀬を含めて誰もいなかった。気負っていた分、少し動揺して、改めて今日が水曜であることと、七瀬の机にまだ鞄が掛かっていることを確認した。
 教室に居ないだけなのだろう。それがわかると、机の側面を覗き込んでいる体勢から、机に手をついて立ち上がる。するとその時、机の上にあった何かを振り落としてしまった。
 それは一冊のノートだった。拾い上げようとして、ふと先日の北島の言葉を思い出した。
『お前、ノートのこと知ってんのかよ』
 躊躇したけれど、彼が言うノートがこれかどうかはわからないし、拾い上げただけで何かしらの関わりを持つとも思えない。
 だけれど直後、拾う過程でページが捲れて、結局、僕は中身まで覗くことになった。
 ノートには小説が書かれていた。B5サイズのノートの全ページがびっしり文字で埋まり、さらには紙が継ぎ足されさえしていた。
 とにかく元通りにしようするも、些細なことでページが捲れてしまい、結局また僕は偶然に、小説の一ページ目まで目にしてしまう。
『これは私の、最初で最後の恋愛小説』
 おそらくそれがタイトルで、隣から本文が続いていた。書き初めが第二章からなのは不思議に思ったけれど、続きは読まずに閉じた。
 これほど熱意の込もったものを許可もなしに読むことも、勝手な感想を抱くことも低俗な行為に思えた。だけれどそう思うや否や、僕のそんな感情は一瞬で無碍にされた。
 視界の端、入り口の扉の影で何かが動いた。目を向けると、ヒョコッと頭が飛び出している。正体はニンマリと笑った七瀬だった。
「あぁぁ? そのノート勝手に見たの!?」
 言って駆けてきた七瀬は僕から小説をひったくり、目線を上に逸らしながら嘯いた。
「あーあ。勝手に見られて私は大変怒っております。でもバイトのことは黙っててあげようと思います。するとあれ、吉良くんは一つ、私に借りを作ったことになりませんか?」
 七瀬は、悪戯に、にへらと笑って見せる。
「なっ! わざとここに置いておいたな!」
「でも、中身を見たのは吉良くんじゃん」
 僕が何も反論できずにいると、七瀬はにっこり笑って続けて言った。
「この借りは、旅行委員への参加。ウリボー? じゃなくて、リボ払いでお願い」
「それ、何日で返し切れるのさ……」
「どうだろうねぇ。ながぁ〜いお付き合いにはなると思うよ」
 七瀬が『ウシシ』と、変な声で笑った。
「君はとんだペテン師だったんだね」
「え、ペテン師? ゾロリとか?」
 ゾロリは怪傑だけれど、彼女を形容するにはどちらでも良い。とにかく、もうここまでやられると怒るというよりも呆れてきた。
「まぁでも、吉良くんと話す時間は、確かに盗みたいくらい欲しかったかな」
 これからが本題だというように、七瀬が声色を真剣なものに変えて言った。
「吉良くんは今日、委員のためじゃなく、むしろ辞めようと思って教室に残ったでしょ?」
「だから君は、小説という罠を仕掛けた?」
「罠って、わなっはっは。本当に私が悪者みたいな言い方だね」
「日本では嘘をつくだけでも泥棒に片足を踏み入れることになるからね」
「なら子細ないね。だって私、吉良くんに嘘ついたことは一度もないもん」
 七瀬はそう、さらっと言ってのける。
「嘘をついてないなら、例えば、君が僕と仲良しだって言いふらしてるのは?」
「それも嘘じゃないよ」
「僕が否定すれば、必然的に嘘になるけどね」
「今においてはそうかもね。でも、未来では違ったら、一概に嘘とも言い切れない」
「無茶苦茶だよ」
「それは今の吉良くんの意見だからねぇ」
 とぼけるように言う七瀬はこれまで以上に掴み所がなくて、タチが悪い。
「君は一体、何を望んでるんだよ」
「だからぁ、仲良くなりたいだけだって」
「だから、それが何で!」
 痺れを切らした僕が強めの口調でそう言うと、七瀬はぎこちない笑顔を浮かべて言った。
「じゃあ吉良くんこそ、委員をやりたくない理由は? 言えないなら、私も言えないなぁ」
 直前の表情からも、僕へのキラーフレーズになると確信して七瀬はそう言ったのだろう。
 そして確かにその一言は僕に効いた。反論も見つからず、結果、黙り込むしかなかった。
 すると「くくくっ」と、小さな笑いが聞こえ始める。顔を上げて七瀬を見ると、彼女は目を細め、歯の隙間から笑いを漏らしていた。
「吉良くんは、本当に真面目なんだね」
 またしても七瀬の予想外の言葉に「真面目?」と、僕は問い返す。
「吉良くんは何にでも理屈や、筋を通さないとダメだと思ってるんでしょ? 委員が嫌なら、ここに来ないのが一番手っ取り早いのに」
「そんなこと、君が許さないじゃないか。バイトの告げ口を振り翳して止めてくるだろ」
「関係ないよ。だって吉良くんは、私が今、何があっても絶対バイトを告げ口しないと約束しても、すぐに委員を辞めないよね?」
「……君は一体、何が言いたいの」
 僕は要領を得ない会話にたまらず言った。すると、七瀬は少しの間を空けて言う。
「やっぱり吉良くんは……んだ」
 うまく聞き取れなかった。それは僕の傾聴力の問題ではなく、彼女が意図的に濁して言ったように思えた。でも直後、七瀬は僕が「え?」と、聞き返すのに重ねてこう言った。
「わかった。じゃあ、これは勝負にしようよ」
 また脈絡のない言葉。話を逸らすのもいい加減にしろと言いそうになるも、七瀬が唐突に背を向けたことで、そのタイミングを失う。
「吉良くんは委員を辞めるために理屈が必要。ならその理屈を私が作ってあげる。そうだね、お互いの秘密を先に暴けた方の勝ちってことにしよう。そして負けた方は勝った方の言うことを何でも聞くの。例えそれが委員の辞退であっても勝負は絶対」
 七瀬はここで一息挟んでから、また続ける。
「吉良くんが暴く秘密は、『私が吉良くんと委員を一緒にやりたい理由』ね。逆に私が暴くのは『吉良くんが私と委員をやりたくない理由』。タイミングではいつでもいい。先に答えがわかった方から回答し、正解したら勝利する。ただし回答権は一人一回だけ」
 七瀬がこちらに向き直る。手にはなぜかさっきのノートが開かれていた。そして、そのノートを閉じると、こう言った。
「さぁどうする? 吉良くんにとっても悪い勝負じゃないと思うけど?」
 七瀬は首を傾け、僕の返答を待っている。
 僕の理屈だとか、そのための勝負だとか、その勝負をなぜ七瀬から提案するのだとか、今日の七瀬の言動は一段と不可解だ。
 だけれど僕は今、七瀬が意味深に小説を開いていた姿を見て、ふと思ったことがあった。
 それは以前や普段には決して見せたことのない、僕だけに対しての七瀬の姑息で乱暴な行動であったり、一方で、そんな行動の中で不意に、彼女の表情や仕草に躊躇いのような色が見える、その妙な乖離についての推察だ。
 そう。例えば、彼女の行動はその小説をなぞった行為であり、セリフを抜粋することもあるのだとすれば、彼女が時に発言に迷いを見せながらも、しかし強気なセリフを言うことに筋が通るのではないだろうか……と。
 この推察が正しいなら、そこに彼女の隙を探せる。確かな糸口の発見と言えるだろう。
 顔を上げ、七瀬を見る。七瀬が小説をギュッと握り直したのを見て、僕は言った。
「この勝負、回答の正誤が相手に依存する。誠実さが勝負を成立させるのは理解してる?」
「もちろん。ズルは厳禁。勝負は絶対だよ」
 そう言う七瀬をよく観察した。彼女と目が合う。その瞳の奥に、嘘は見えなかった。
「いいよ。その勝負、乗った」
 そう言うと、七瀬は少し顔を綻ばせた。
「よし。じゃあ指切りしよう」
 続けて七瀬は、おもむろに僕の手を取って小指を結び、そのまま物騒な歌詞を一人で歌い上げた。僕は人の手の感触を久しぶりに感じ、同時に小指の軟さにヒヤヒヤした。
「これで、約束破りは泥棒認定だけじゃなく罰せられるようになったからね。指切りに、針も千本飲んで貰って、あと一万回殴るし」
「最後に君の随分泥臭い私欲が入ってるけど」
「ふふふ。案外これ皆知らないんだよね。この歌の『げんまん』は『拳万』って書くの。つまり一万回殴るって意味なんだよ」
 七瀬は得意げに言った。この前の贔屓の亀の話といい、彼女は微妙な知識に聡いらしい。
「さらに、この歌には続きもあるんだよ」
 七瀬は胸を張って続けて言おうとしていたけど、でも途中でスッと表情を落ち着かせた。
「あは。続き、忘れちゃった」
 なんだそれ。と思ったけど、特段気になってもいなかったから声には出さなかった。ただ、七瀬は慌てて取り繕うようにこう言った。
「とにかく、そうと決まれば、やることはまず委員。勝負の行方は知れないけれど、決着がつくまでは吉良くんも参加必須だからね」
 僕も話は早い方が良かった。勝負に勝って、正式に旅行委員を辞める。そのために一時だけ委員の仕事をすることくらい割り切れた。
 かくして僕らは、ようやく委員の仕事始めを迎えた。話し合いは、勝負という言わば僕達においてのルールができたことで、お互いに割り切ることができ、スムーズに進んだ。
 今後の諸々の確認と、直近の課題設定が終わった辺りで、また七瀬のアラームが鳴った。音に合わせるように七瀬が『帰ろっか』と言ったから、それで今日はお開きとなった。

 七瀬と解散しバイトも終えてから帰宅すると、時刻は二十三時を回っていた。あの日以来、家に見知らぬ人の気配を感じることはない。今日も玄関で神経を研ぎ澄まし、違和感がないことを確認してから靴を脱いだ。
 父親は普段、この時間には大概、眠っている。僕が家にいる間は努めて眠っているのだ。
 物音がしないよう気をつけながら、リビングにたどり着き、鞄からバイトの制服を取り出す。すると、同時に二枚の紙を掴み出してしまった。一枚は、旅行委員が直近で決めるべき事項についての用紙だった。
 改めて今日のことが思い出される。振り回される形であったことは否定できないけれど、勝負に関しては、やはり悪くない提案だと思えた。しかし、そうであれば勝負の規約上、旅行委員には最低限、参加すべきだ。
 目についた手前、旅行委員の最大の議題である『最終日においての我が校からの出し物』のアイデアについて考えてみる。けれど奥山が補足した『誰もが楽しめるモノ』という不必要な書き足しによって、考える気が失せた。
 次にもう一枚の紙を見ると『文理選択』と書かれており、その存在を忘れていたことに気づいた。同時に奥山の言葉を思い出し、意識が勝手に上階へと向くも、すぐに頭を振る。
 僕は迷わず印鑑を押した。期限は、明日の放課後までとなっていて、丁度良いと思った。
 明日から期末テストの一週間前となり、短縮授業が始まるのだ。僕は構わずバイトに行くけれど、丁度、明日だけシフトに入れなかった。その分、学校で時間を潰すつもりで居たから、用事が一つ増えるのは好都合だった。
 ただ奥山と長く会話をするつもりはない。そう思うと少し心配になって、念の為に父親からのコメントを偽造し、添えてみた。
 適当な筆跡で書いた偽の父の字を見ると、ふと小学校の音読の宿題に必要だった親のサインも、何度か偽造したことを思い出す。
 すると僕は不覚にも、音読から連想して古い記憶を呼び起こしてしまった。母親と思しき人物が浮かび上がると、僕が寝室で読み聞かせをされている情景が映し出された。
 その情景と同じように、しかし違う発作にて、僕は意識が朦朧とした。
 そして、気づいた時には朝を迎えていた。