バイトも終わり、帰路についた。
 家から自転車で二十分。スーパーの品出しバイト。僕はそれを何か得るためではなく、むしろただ時間を消費するために続けている。
 今日もまた信号でスマホを見て、午後十時を周ったのを確認し、就労の対価を実感する。
 そして、その時間潰しが必要となる要因と、今、丁度よく対面した。正体は僕の実家だ。
 すると突然、明かりが灯らなければ人が住んでいるとは思えないようなその玄関が煌々と光った。僕は反射的に帰路を引き返した。
 家の扉が閉まる音がしたから、慌てて路地に入り、目を瞑り、耳を塞ぐ。しかし、記憶は瞼を抉り、鼓膜を破って這い出してきた。
 母さんが居なくなって数ヶ月くらいの、僕が小学生の低学年の頃。今よりずっと綺麗だった家の玄関を開けると、女性物の服を着た人物が目に入った。すぐに母さんだと勘違いした僕は「母さん!」と叫んで、さぞ嬉しそうな顔でその女性の顔を見上げたことだろう。
「誰が母さんだ。馬鹿かクソガキ」
 でも、僕の笑顔を受け止めたのは、心底不快そうな顔で僕を見下ろす見知らぬ女だった。
 女は僕を押し退けてすぐ居なくなったけれど、僕はその女の表情、いや、その残酷な一瞬に五感で感じた全てを未だ覚えていた……。
 気づくと僕は膝をついて息を切らしていた。自転車を支えに立ち上がると、靴に鉛を詰め込まれたかのように足が重かった。家に帰りたくないからだ。と思って、頭を振った。
 今のことは忘れよう。この足の重さは今日の疲労が積み重なったからだ。そう思わなければ、僕はこの家で暮らしていけない。
 静かに玄関から家の中へと入る。視線を向けずに階段へと意識を集中させる。二階の部屋には、もう十年近くも息を殺して引きこもっている父親が居る。そして僕は一階で、父や世界から息を殺して暮らしてきた。そう考えると、この家にはやっぱり誰も住んでいないし、生きてもいないのかもしれない。
 思うと体の中心がズンと重くなる。僕はまた自分に言い聞かせた。これは今日の疲労のせいで、明日は少なくとも旅行委員の活動はないのだから、とにかくこの悪運の連鎖は一旦落ち着いてくれるはずなんだ。と、そう思い込んで明日を迎えた僕は、結論、甘かった。

 翌日、登校早々に職員室へと駆けた。握りしめるのは文理選択の用紙。昨日の鬱憤を晴らすための、せめてもの反抗として、昨日の今日で、速攻で提出してやる。それが何の抗いになるかは知らないけれど、人はよく自分の人生を下手に犠牲にすることを社会への反抗とする。ならば僕のこの行為だって——
「念押して言っただろうが。ここに捺印がいるんだよ。親御さんと話し合った上でのな」
 奥山は、ぶっきらぼうに言って用紙を突き返してきた。おまけに親の話まで付け加えた。
「忙しいんです」僕も少し感情的になる。
「お前、部活やってないだろ。バイトは禁止してるし、他に何があるってんだ」
「旅行委員です」嫌味のように言ってやる。
「週一回だけだろうが」けれど奥山はそう言い、呆れたように笑って僕をあしらった。
 すると奥山は、これでこの話は終わりだと言うように「あぁ、それと」と枕詞を付けて「今年の十二月十七日。修学旅行の前日は予定を空けておけ」と脈絡のないことを言った。
 怒りをあやふやにされて、さらに苛ついたけれど、周りには他の生徒も居る。これ以上は冷静に。悪目立ちすることの方が不本意だ。
 だけれどそう思って振り返った時、僕は頭を何かにぶつけた。額を抑えながら薄く目を開けると、同じ体勢をした七瀬がいた。
「お前っ!!」
 奥山がそう叫びながら僕の胸ぐらを掴み「気をつけろよ!」と、充血した目を大きく見開く。そうされるだけの理由がわからずに、僕が困惑していると、
「先生、やめて下さい!」と、七瀬が奥山の腕を抑えた。それで僕は解放された。
 尻餅をついた僕の頭上、奥山が七瀬に言う。
「小春、お前も気をつけろ。旅行委員のことだってそうだ。お前には負担になる——」
 その言葉を聞いて、僕は頭が重くなって、自然に顔を伏せた。そして頭上に居る自分の担任のことを心底、軽蔑し、同級生の少女のことを心底、嫌悪した。
「やっぱ、ヒロインなんだな……」
 勝手に言葉が漏れた。そして一度漏れ出すと、抑え切ることができずに決壊した。
「ふざけんな。旅行委員なんて、辞めてやる」
 けれど色々な感情が渦巻いて、結局そんな幼稚に聞こえる言葉だけ呟いて、僕は職員室から走り去る。二人や、その他の一部始終に気づいていた奴らはどんな顔をしているだろうか。考えるだけ無駄で、考えるだけ後悔した。そして、そんな状態は放課後まで続いた。

 終礼の後、僕はすぐに教室を抜け出した。奥山に呼び止められても無視をしようと思っていたけれど、心配は杞憂に終わった。ただ、国道に出て信号待ちをしている時に、奥山より呼び止められたくない、かつ呼び止められるとも思わなかった人物に肩を叩かれた。
「はぁ、はぁ、やっと追いついたよ」
 七瀬だった。彼女は前傾して息を切らしながら、自転車に乗る僕の肩に手を置いている。
 僕は肩に若干の重みを感じていて、それもあってだろう。振り返った僕の顔を見るなり彼女は「あ、やっぱりその顔は、私に話しかけてくるなってことなんだね」と言った。
「やっぱりその顔?」
「今日一日中、その顔しながら私のこと見てくるからさぁ。垣間見!? 恋の視線か!? と思ったけど、そんな風にも見えないなって」
 また昨日の妙なテンション。その上で、必死に引き止めて話すのがそんなことかと呆れて「あっそ」とだけ返して信号を渡ろうとすると、今度は後ろの荷台を引っ張られた。
 シンプルに面倒だと思って「バイトに遅れるんだよ!」と言ってからマズイと気づく。
「へぇ〜。禁止されてるのに?」と、わざとらしく、訝むような表情をする七瀬。でも僕が何も言い返さずに睨んでいると「私、言いふらしたりしないよ!」と勝手に慌てていた。
「チクらないなら好都合だ。なら僕は行くよ」
「だから、ちょっと待って!」
 もう一度引き止められて、僕はもう本当に、全身から嫌悪が滲み出るように振り向いた。
「今日のこと、謝りたいんだよ」
 だけれど、そうして目にした彼女は至って真剣にそう言った。そこには一転、ふざけた様子はなくて、ましてや本当に申し訳ないというような表情をしていた。本心はわからないけど、でも、少なくとも苛ついている僕がそう感じて足を止めたのだからよっぽどだ。
「朝のこと。本当、吉良くんは悪くないのに」
「それを言うなら悪いのは奥山だろ。君の容姿がいいからって私情で掴み掛かるとか……」
 七瀬の態度の変化に調子を崩され、なぜか僕が庇うような事を言っている。だけれど、言ってまずかったことは他に明確にあった。
「何でいきなり褒めてくれてるの!? まさかヒロインってのもそこから? あぁなるほどね。まぁ可愛いってのは否定しないけど!!」
 言って、七瀬は少し顔を赤らめて、ウフフと肩にかかるくらいの髪の毛先をいじる。
 余計な事を口走ったせいで話が変に捻れた。
「僕の個人的な趣向の話じゃない! 君には人気がある。だけど先生までってのはどうかと思うって事を言ってるんだよ。俗っぽく言うなら、依怙贔屓だ。それも度が過ぎてる」
 取り繕うというか、とにかく話を元に戻す。すると七瀬は今度、表情に憂いを滲ませる。
「依怙贔屓か。でも、あれを贔屓と呼ぶなら、伝説の亀さんもやっぱり救われないね」
 その神妙な表情で、七瀬は突拍子もないことを言う。思わず僕は「亀?」と聞き返した。
「贔屓の語源は、中国の亀みたいな伝説上の生き物なの。九頭の龍の兄弟の中の出来損ないで、重いものを背負うことしかできずに、本人は贔屓にされなかったっていう悲しい話」
 僕は一瞬、訝しみながらも、意外と博識だなと思った自分に気づく。態度の変化といい彼女には掴み所がない。それゆえペースを崩される。気持ちを入れ替え、また話を戻した。
「とにかく君は贔屓じゃないと言ってるんだとして、じゃあ今日の奥山は何だったのさ」
 七瀬は僕の問いに露骨に少し困った表情をして、言葉を探してから、口を開いた。
「まぁ私、ちょっと前に悪さしちゃって、それで先生も私に敏感になってるだけで……」
 嘘だとすぐにわかった。ならやはり二人の間には何かあるのだろう。と、そう思うと途端、改めてこの会話が不毛であると気づく。
 別に僕は謝られたいわけではないし、むしろここで喧嘩別れをするくらいがいいのだ。
 つまり僕はもう金輪際、今回のようなことがないよう、旅行委員を丁重にお断り——
「だから、やっぱり一緒に旅行委員やろうよ」
「は?」
 ここまでの会話の流れで七瀬が今、そう僕に声をかけられる理由も神経もわからない。だけれど、七瀬は僕をまっすぐ見つめて言う。
「今日は改めてごめん。もう吉良くんにあんな思いはさせないって約束する。だから私ともう一度、旅行委員をやってくれないかな?」
 わけがわからない。僕への罪悪感からそう言ったのなら大きなお世話だ。僕は旅行委員なんて端からやりたくない。いいや、そもそも彼女は根本から勘違いをしているのだろう。
「君は何でそこまで旅行委員にこだわるの? 別に皆もいざ出かければどこだって楽しむだろうし、旅行委員だって奥山の反対を押し切ってまで君が立候補する必要はなかった」
 これは彼女にとって酷な言葉になる可能性もあったけれど、前提を確認しないと、履き違えたままでは永遠に話が噛み合わない。
 だけれど、七瀬は顔色一つ変えずに言った。
「私は、本当に旅行委員をやりたいってだけ。それも吉良くんと一緒に」
 彼女の目には嘘はない様に見えた。これも『見えた』というニュアンスで、僕の主観でしかない。でも、だからこそ彼女はただ素直なだけの人間なのかもしれないと、僕自身が一瞬でもそう思ってしまったことに驚いた。
「もし、嫌だって言ったら?」
「……バ、バイトのことチクるかもね……」
「さっきはチクらないと言ったのに?」
「……とにかく来週の水曜日、待ってるから」
 信号が青に変わった時、七瀬はそう言い残すと、逃げるように信号を走って渡り始めた。
 立ち去る七瀬に文句がないわけはないけれど、引き止めて会話を続けても無駄足だろう。
 本当に一体、七瀬は何を考えているのか。最後には、不慣れなのを隠しきれぬまま、脅すようなことまで言っていたし——。
 いや、考えても仕方がない。水曜日に委員へ参加する。それしか僕に選択肢はない。
 虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。委員で活動する中で、七瀬がついた奥山との関係を曖昧にするための嘘。その真相を暴き、それを渡り合える武器にするしかない。
 スマホで時間を確認する。午後五時を少し過ぎていた。バイトまでもう時間がない。
 ペダルを踏み込む。少しの辛抱だと自分を慰めると同時に、自分を鼓舞した。

 七瀬の嘘を見抜くための初めの一歩は、思うよりも早く、それも向こうから訪れた。
「あの、ライターってどこっすか」
 なんとか間に合ったバイトの最中、かけられた声に聞き覚えがあった。振り返って北島の姿を見ると納得した。向こうも、顔を見て初めて相手が僕であると気づいたらしい。
「なっ。お前、なんでバイトやってんだよ」
「君だって、高校生にライターが必要?」
 北島はあからさまに面倒そうな顔をして金髪頭を掻きながら言う。
「ちげぇ。旅行委員はどうしたってことだよ」
「委員は水曜日だけだから」
 そう返すと、北島は「そうかよ」とだけ言った。言って、なぜか無言で僕を見つめてくる。鋭い目つきに殺意に近い気迫を感じた。
 彼は十秒くらい経って、唐突にこう言った。
「お前、ノートのこと知ってんのかよ」
「ノート? ひ、人を殺すノートとか……?」
 威圧のせいで確かに僕は変なことを言った。でも、眉を顰める北島こそ、先に『ノート』なんて脈絡もないことを言ったはずだ。
「とにかくお前、小春をどう思ってんだよ」
 でも、彼はお構いなしに続けてそう言った。その言葉こそ、そっくりそのまま返したい。
 北島は七瀬の幼馴染。でも、にしても異常に七瀬に過干渉なきらいがある。七瀬に興味を持って近づいた男子が数人、告白するより先に北島によって失恋させられた話は有名。でも彼自身は七瀬と交際関係にないという。
 別に僕は七瀬と北島がどうなろうが知ったことではないけれど、僕が旅行委員に任命されてからというもの、教室での彼からの鋭い視線には悩まされていた。だから、本当ならそのことについての文句のつもりで——
「北島こそ、どう思ってんの」
 と、そう聞きたかったけれど、この言葉の真意は別にある。
 昨日、七瀬の委員の立候補に反対をしたのは奥山と北島の二人。その理由が彼らに共通しているのかを探るため、そう言ったのだ。
 北島は訝しみながらも答えた。
「あいつは危なっかしいんだよ。だから俺が見ててやんねぇといけねぇんだ」
 質問とずれた回答が返ってきた。何かを濁そうとしたことがわかる。だから僕は続けて、彼を挑発する言葉をあえて選んで言った。
「じゃあ、奥山と一緒ってことか」
「一緒じゃねぇよ!」
 北島の返答に明確に力が入った。そこに個人的な思い入れがあることを証明していた。とすれば、彼に関しては、むしろ大部分が自身の恋愛感情によるものだと思われた。
「とにかく、もしあいつに何かあった時、俺はお前を許さねぇからな」
 そしてそう思うと、最後にそれを捨て台詞にして帰っていく北島はどこか幼く見えた。
 同時に、七瀬がついた嘘を暴くには、奥山に注目して探ればいいのだと確信できた。