『この物語はね、最初で最後なんだよ』
 遠くで声がした気がして目覚めると、張り付くシャツの心地悪さと、蒸し暑さを順番に認識した。蝉の声と共にやけに多くの声が聞こえてくるから、ここが教室であるとわかる。
 この騒々しさの中、ここまで深く眠っていたということは、逆に考えれば、それだけの眠りにつける環境。つまり今この時間は、少なくとも絶対に、担任の奥山大輝の保健体育でもホームルームでもないに違いなかった。
 ただ次の瞬間、安心して顔を上げた僕は、この世に絶対はないということを改めて知る。
「よく眠れたか? な、澄人よ」
 不気味な笑顔を見せた奥山は、「さぁっ」と弾みをつけて黒板に向き返ったけれど、それで許してくれるとは到底思えない。
 ボクシングで鍛えた奥山自身が鬼と呼ぶ、白いポロシャツに浮き出た背筋を眺め、いっそ、その筋力で一発殴ってくれた方が楽なのに、なんて考えながら項垂れるしかなかった。
 周辺の生徒を横目で見る。各々ファイルや下敷きで顔を扇いでいて、机にはプリントが一枚あるだけ。どうやら今はホームルーム中であるらしく、ならば僕はいつものように机に突っ伏して過ごす休み時間から、ずっと眠っていた事になる。本当、数分前に戻って、自分で自分を殴り起こせたらいいのに……。
 ともかく僕は手元のプリントを確認する。そして『文理選択』という字を見て安堵した。どうやら重要な話はされていなかったらしい。
 僕は利き手の左手に近いという理由で『文系』の方に丸をして、三日後に提出することに決めると、机の中へ放った。
 不意に前髪を撫でられた気がして前を見ると、また新たなプリントが回ってきていた。
「次は、いよいよ冬の修学旅行についてだ」
 奥山がそう言うと、僕は胃が痛み始めるのを感じた。一方でクラスからは歓声が上がる。
「うちは大学受験に極力影響しないよう、二年の冬に毎年修学旅行に行くってのは皆も承知だろうが、例年通りなら長野だ。だが、今年は諸事情でそれが変更になった」
 しかし、奥山の予想外の発言に、皆の興奮が、動きが、ピタリと止まった。
「今年は阿古屋に行く。海と自然に囲まれた町だ。目玉はやっぱり真珠岬だな」
 一拍置いて、教室に悲鳴と文句が飽和した。僕の胃痛と皆の不満は一致してはいないものの、皆の抗議には僕も心の中で賛同する。
 だけれど抵抗虚しく、皆の声は奥山の「ダァ!」という咆哮で静まる。奥山はお得意の方法で生徒を黙らせた後「意見は代表者一名から」とこれまたお得意のセリフを吐いた。
 皆は顔を見合わせると、一様に、教室の端で椅子に浅く座っているプリン頭の北島を見た。でも彼の興味のなさそうな様子を察すると、今度は教室の真ん中、赤いダッカールで前髪を上げている青葉に視線が集まる。
 青葉は自分に集まった視線を「俺?」と満更でもなさそうに笑顔を浮かべながら確認して立ち上がると、おちゃらけた風に言った。
「センセー。なんでこっから阿古屋なんて、より一層、ドが付くような田舎に行くんすか」
「そんじゃあ、レが付いた方がいいか?」
「へ理屈っすねぇ」
「なるほど青葉はへがついた方がいいんだな」
 数人が小さく笑うのが聞こえて、青葉も「ちぇ、話になんねぇ」と言いながらも、それで自分の役目が終わったとばかりに満足げな顔で席についた。ある意味儀式的なそれで、皆の不満が消えたたわけじゃないし、むしろもっと機嫌を損ねて、コソコソとものを言う女子もいたけれど、大きな声で意見する者が居なくなれば、奥山は構わず話を進めた。
「まぁ先生達だって正直、お前達から不満が上がることはわかってたさ。だから、今回の修学旅行は、しっかりと研修旅行という位置づけにすることにしたんだ——」
 言って奥山が黒板にチョークを走らせる。対して、皆は首を捻ったまま静止していた。
 奥山がチョークを置き、振り返る。
「しっかりとした研修旅行。すなわち、ただ楽しむのではなく後の人生にも役立つ経験をしてもらいたい。具体的には地域交流。地方創生、町おこし的な形で、学びを得てもらう」
 そうして皆が奥山の言葉を解釈した時、教室には、また爆発するように悲鳴が響いた。
「まぁ待て! 地域交流ってのは、向こうの阿古屋高校と合同で、文化祭的な催しを企画するんだよ。二日目の夜には一般のお客さんに向けて舞台で出し物もできるから、絶対に盛り上がるし、楽しくなるだろ!?」
 奥山の宥めようとして言った補足は、言うまでもなく皆をさらに盛り下げた。
 続けて奥山は、彼が戸惑う時に決まってやる鼻の頭を掻く仕草をして、それから言った。
「何にしても、楽しめるかはお前達次第!」
 無理矢理としか言いようがない形で締めて、奥山はまた黒板に向かう。皆は殺意にも近いものを含んだ眼光や、もはや殺意をそのまま口にしていたけれど、奥山の鬼の背中はその全てを受け止め、いや、物ともしなかった。
 でも僕はもう、事態を現実的に捉えていた。修学旅行の行き先が生徒の意見で後から変わるわけがなく、ましてや修学旅行そのものが中止になって欲しいなんて僕の個人的な願望が叶うわけがないことは、当然のごとく承知して、納得していた……つもりだった。
「話を進めるが、そんな研修旅行に行くにあたって、旅行と交流会をまとめる『旅行委員』なる者を二人、これから決める」
 向き直った奥山がそう問答無用で話し始めると、突然、彼は意味深に僕を見て言った。
「まぁ、一人目は澄人で決定だけどな」
「なんで!?」
「なんでもクソもあるか! 理由は自分に聞いてみるんだな」
 奥山の表情を見るに、ガベルは打ち付けられ、もう判決は覆せないらしい。やっぱり数分前の自分をリングに上げたくなるけれど、ゴングを鳴らす木槌は生憎、奥山に取られている……小さな笑いが溜息のように漏れた。
 クラスには僕を見て笑う者と、どう聞いても面倒臭そうな旅行委員という役職から僕のおかげで逃れられたことに安堵する者がいた。
 だけれど、話はそれで終わりじゃない。
「そんじゃあ、あともう一人だ」
 クラスがシンと静まり、皆が顔を伏せる。単純に旅行委員も面倒だけれど、プラスあろうことかそれを僕と共に担わされるのだ。誰だって嫌がるだろうし、僕だって気が引ける。
「おぇ?」
 だけど直後、奥山がそう聞いたこともない声を漏らした。そして、皆が同時にその目線を追い、ある人物にたどり着いた時、クラスの静寂の性質が変わった。
「私、やります」
 時間も含め、この空間の全てが止まったというようだった。凛とした声と、まっすぐに伸びた白く細い手は、その停止した世界のヒロインであることを主張しているようだった。
「小春が?」と女子達が言い、男子達からも「七瀬が?」と声がする。
 端正な顔に嘘はない。そもそも、クラスメイトの生態に疎い僕でさえ認知している彼女は、こんな嘘をつくような人間ではなかった。
 透き通った白い肌。肩口まで自然に下された艶やかな黒髪にパッチリと澄んだ黒い瞳。整った輪郭には若干の幼さが残るものの、そこにかえって親しみやすさを感じさせる。
 物腰も柔らかく、口数は多くないけれど誰とでも分け隔てなく接する。主張はしないけれど自然と目立つ。それが七瀬小春だった。
 そんな少女が今、僕と旅行委員を務めたいと自ら申し出たのだ。予想もしなかった展開に教室が再びざわつき始める。すると、二つの声が重なって聞こえた。
「「なんで!?」」
 一つは鳩が豆鉄砲を食らったような目のままの奥山のもの。もう一つは、椅子にもたれ掛かっていた状態から飛び起き、金色の前髪をかき上げて言う北島のものだった。
「なんでって、やってみたいだけです。研修旅行? にはどうせ皆行くんだし、ならやっぱり楽しい方がいい。そのお手伝いができるなら、頑張ってみたいと思っただけです。大丈夫。うまずたゆまず、やり切ってみせます」
 奥山と北島に同じだけ目を配りながら、『ヒロイン様』は二人へ同時にそう答えた。
「「やってみたいって、お前——」」
 また二人の声が重なる。だけどその声に今度は『ヒロイン様』自身が声を被せた。
「やってみたいって理由以外に何か必要ですか? もっとも、私がやってはいけない。なんてことは絶対にないですよね?」
 この世に絶対はないことを、僕はさっき経験したばかりだけれど、確かに彼女が委員をやってはいけない理由なんてない。
 だから、北島はともかく、奥山がここまで食い下がるのは、何にしても変だった。
「え、あのさ何で七瀬じゃダメなんだっけ?」
 そしてとうとう、そんな奥山への疑問がクラスから顔を出した。その声は青葉のもので、単に彼なりの困惑が口をついて出たというようだったけれど、逆にそんな初歩的な問いの形をしていたからこそ、クラスからもポツポツと違和感の声が連鎖し始めた。
 そうなると、奥山も折れる他ないらしい。
「わかった。そこまで言うなら、任せる」
 まだ納得がいかなそうではあるものの、そう言って奥山は黒板の『吉良澄人』の隣に『七瀬小春』と書いたのだった。

 ホームルームが終わっても、クラスメイト達の話題は、研修旅行への愚痴で持ちきりだった。特に『ヒロイン様』の周りは賑やかで、取り囲む何人かが何度か僕を見ていた。
 ようやく教室に奥山と僕と『ヒロイン様』だけになると、旅行委員についての説明が始まり、それも終われば奥山も居なくなった。
 とにかく、旅行委員は毎週水曜の放課後の一時間に、二人で活動していくらしい。
 先が思いやられる。週に一回も人と、それも『ヒロイン様』と会話……荷が重すぎる。
「まぁ、今日は解散らしいけどさ、せっかくだし顔合わせというか、自己紹介しようよ」
 ごちゃごちゃ考えるうちに、コミュニケーションが始まってしまった。顔合わせ……高二の初夏なら今更と言うのが普通だが、彼女との顔を見合わせての会話は確かに初めてだ。
「まず私から。私は七瀬小春。高一の時にここに引っ越してきたのは、まぁ一クラスしかないから吉良くんも知ってるか。それで——」
 僕の苗字を知っているなら、彼女もある程度は僕を認識しているはず。だとすれば、よく僕と旅行委員をやろうと思ったものだ。
 それに、研修旅行へ本当に不満を持つ者なんて少数で、大抵は集団意識に飲まれているだけだ。だからそこに正義感や義務感で立候補したのなら、彼女は勘違いをしている——
「あの、聞いてる?」
 突然、視界が『ヒロイン様』で埋まる。長いまつ毛が瞬き、大きな瞳が僕を見ていた。
「うわぁ! あっ! え、あぁ、ヒロイ……。いや、ヒロさん……。あ、いや」
 余計なことを口走りかけた。まずいと思うも、しかし聞こえてきたのは快活な笑い声。
「なにヒロさんって! どういう間違い?」
「あ、いや、ごめん」
「なになに、ヒロコさんとかと間違えたりしたの? もしくはチヒロさん? 贅沢な名前だね、今からその子はセンだよ!」
 矢継ぎ早に言って、ヒロ……いや、七瀬は一人でキャハハと笑う。
 謝る僕がずっと笑われる居心地の悪い図になっている。けれど、それより気持ち悪いのは、七瀬の妙なテンション。普段の彼女からは想像できない軽さというか、言葉や表情が人格から誰かに差し代わったのかとまで思う。
「もう。ダメだよ吉良くん。これが彼女さんとかだったら修羅場だよ」
「僕にそこまでのボキャブラリーはないよ」
「女の子の名前を語彙として換算してるの?」
 言って、また七瀬は吹き出すようにして笑う。適当に返答したのが祟ったと後悔した。
 勘弁してくれと願うと同時に、やはり僕は七瀬がこんなにも、よく笑い、よく喋る人間だっただろうかと思った。そして、そんな考えに頭が埋め尽くされていたからこそ、
「吉良くんって、そんなに面白い人だったっけ?」と、言われた拍子に、
「君こそ、どこか変じゃないか」と、言ってしまった。
 一瞬、時が止まった。対面した七瀬の呆けた顔が、次第に赤く染まっていく。
「え!? えぇ、い……如何様に?」
 そう裏返った声で言う七瀬に、僕はまた勢いのまま言ってしまう。
「だって君はいつも、まさに今みたいに古風というか、言葉選びが独特だったり、言うなれば、もっと静謐な感じのイメージがある」
 言葉を並べるにつれ、七瀬の赤みを増していく。そしてソワソワ体を揺らし始めると、彼女のポケットから何かが地面に落ちた。
 それを見て僕は「あと、そのチョコバー。君は、それをよく食べてる」と、付け足した。
 そして僕は、言い終わってみて、自分が過剰に、女子の日々の生態について語っていたことに気づき、やっと七瀬に目を向けた。
「すごく、私のこと見てくれてるんだ……」
 七瀬がそうボソッと言った。でもすぐ我に返ったというように頬を両手でムニムニ擦って、慌てて何か言おうとしたところで——突然、辺りにスマホのアラーム音が鳴り響いた。
「あ……あ、じゃ、じゃあ私はお暇します!」
 すると、その音を合図にして、七瀬はそう一言だけ残し、逃げるように立ち去った。
 奇天烈な一瞬だった。併せて、その雰囲気に飲まれ、僕が彼女をよく見ているのは、僕が彼女に苦手意識を持っているからだという点を勘違いされていそうで歯痒く思った。
 とにかく、何にせよ僕はひどく気疲れした。
 でも、僕はこの後にバイトが控えているから、さらに疲れることにはなる予定だった。