彼の言葉を借りて言えば、僕は今から自首をする。
もう一度「自首」と反芻してから、薄い扉を押し開けると、鋭い冷気が肌を刺した。
この寒さはシベリアなんて、そんな近くから来たんじゃない。この寒さはきっと、あの日の真珠岬から吹雪いているに違いなかった。
意図せず足が止まる。だけど直後、僕の逡巡を許さんとばかりに扉が突然、勢いよく開かれた。僕はそうして腕を引かれるように、招かれざる冬の世界へと飛び出した。
振り向いて扉を開けた人物に向く。スーツに薄いアルミ縁のメガネ。髪はかえって奇妙に見えるほどにきっちりと分けた、真面目という言葉がそのまま人の姿を成しているような、そんな見た目の人物がそこに立っていた。
「人の顔見て、なに笑ってんだよ」
「やっぱり本質は変わらないんだね」
僕がそう返答すると、彼はより顔を歪めた。
「そう言うお前こそ変わらねぇな。でも、今日でお前が変わらねぇのはお終いだ」
「……とうとう懐古主義にもお別れか」
そう言うと「主義ってもんじゃねぇだろうが」と彼が僕のシャツの肩口を掴んでくる。
「カイコってのも違うって?」
僕がそう返すと、彼は今度、呆れた顔になって、そのまま僕を部屋へ押し戻した。
「あぁそうだよ。綿のシャツ一枚で、どうすんだって言ってんだ」
三和土の段差に躓きながら「これは合成繊維だよ」と返したけれど、もう彼は付き合ってはくれなかった。観念した僕がダウンを取りに奥へ向かうと、後ろから彼はこう言った。
「お前の罪は誰も許しちゃくれねぇ。だから謝罪の必要もねぇ。お前にできることは、真摯に今に、今日に向き合うことだけだ」
その言葉を背中で聞けて、正直僕は安堵した。でなければ、こうは返せなかったから。
「わかってるさ」
ダウンを羽織って戻ると、彼は未だ眉間に皺を寄せ、僕の目を見てくる。だけれど彼は数秒して、僕の足元の紙袋へ目線を移した。
「固まったのか」
その言葉に、僕は嘘をつけない。
「形にはなった。だけど、これが正解の形かどうか、そう固められたのかはわからない」
言ってしまってから、僕は彼の返答に身構える。だけれど彼はそこでは何も言わぬまま、先に歩き始めた。紙袋を持ち上げ、僕も彼の後を追う。そして、駐輪場で単気筒バイクのキックペダルを踏み抜き、隣に立つ僕にも鼓動が聞こえ始めた時に、彼は言った。
「言葉の解釈なんて、受け手の捉え方次第だ。伝える側のこだわりなんて、結局は自己満足でしかない。でも、お前はそこに、それほどに拘れるだけの想いがあった。そんで、それを聞こうとする人がいる。それだけで俺は、お前と……お前が羨ましい」
単気筒の排気が、僕の体を揺らしている。
僕は一言、「ありがとう」と、それだけを噛み締めるように言って彼の後ろに跨った。言葉は返って来なかったけれど、発進する時、彼は少し余計にエンジンを吹かした。
海に面した片側一車線の国道へ出る。長く直線の続く道には僕達しかいなかった。エンジンが四度唸り、また落ち着いてから鼓動が一定のリズムを刻み始めると、僕は、いや、きっと僕たちは、いつの間にか流れる景色にあの日の記憶を見ていた。
「着いたぞ」
エンジン音が途切れるのと同時に、僕の意識も現実へと戻った。
彼が車体を斜めに倒して促すから、僕はバイクを降りる。すると——、
「久しぶり」
彼が僕の背後へと向けてそう言いながら、僕の肩を小突いた。不意の攻撃に数歩よろめくも、すぐに慌てて彼に目を向ける。睨んだわけじゃない。勢いのまま背後に向いてしまわないよう正面に視線を固定しただけだ。
だけれど僕は、そうして初めて彼の笑顔を見て、結局のところ拍子抜けしてしまった。
彼がバイクのタンクを指で叩いて言う。
「こっちの傷はもうなくなった」
確かにタンクには、あの日の傷跡はなくなっている。だけれど綺麗さっぱりという風ではなかった。彼のバイクへの想いを知る僕には、それがあえて残されているのだとわかる。
やはり彼は変わらない。変わっていなかった。そして、彼が変わっていないのなら、つまりはやっぱり僕が変わらないといけない。
僕は覚悟を決めて頷いた。すると彼は、また視線を僕の向こう側へと向けて、言った。
「こいつはね、俺の倅なんですよ。だからよろしくしてやって下さい」
彼はそうして、また茶目っ気のある笑顔を見せ、最後に一瞬だけ僕の目を確認するように覗くと、ヘルメットを被り直した。
単気筒がすぐそこで鼓動を始める。この距離ではもうその振動までは伝わってこない。
僕は、今この瞬間が彼との別れであると察した。そして僕と彼との間に必要なのは、言葉ではないことを改めて理解した。だから僕は深く呼吸をして、覚悟を決めた。
そしてその覚悟を、親友と自分と、何よりあの日の真珠岬の彼女に誓う。
そうして僕は、振り返った。
もう一度「自首」と反芻してから、薄い扉を押し開けると、鋭い冷気が肌を刺した。
この寒さはシベリアなんて、そんな近くから来たんじゃない。この寒さはきっと、あの日の真珠岬から吹雪いているに違いなかった。
意図せず足が止まる。だけど直後、僕の逡巡を許さんとばかりに扉が突然、勢いよく開かれた。僕はそうして腕を引かれるように、招かれざる冬の世界へと飛び出した。
振り向いて扉を開けた人物に向く。スーツに薄いアルミ縁のメガネ。髪はかえって奇妙に見えるほどにきっちりと分けた、真面目という言葉がそのまま人の姿を成しているような、そんな見た目の人物がそこに立っていた。
「人の顔見て、なに笑ってんだよ」
「やっぱり本質は変わらないんだね」
僕がそう返答すると、彼はより顔を歪めた。
「そう言うお前こそ変わらねぇな。でも、今日でお前が変わらねぇのはお終いだ」
「……とうとう懐古主義にもお別れか」
そう言うと「主義ってもんじゃねぇだろうが」と彼が僕のシャツの肩口を掴んでくる。
「カイコってのも違うって?」
僕がそう返すと、彼は今度、呆れた顔になって、そのまま僕を部屋へ押し戻した。
「あぁそうだよ。綿のシャツ一枚で、どうすんだって言ってんだ」
三和土の段差に躓きながら「これは合成繊維だよ」と返したけれど、もう彼は付き合ってはくれなかった。観念した僕がダウンを取りに奥へ向かうと、後ろから彼はこう言った。
「お前の罪は誰も許しちゃくれねぇ。だから謝罪の必要もねぇ。お前にできることは、真摯に今に、今日に向き合うことだけだ」
その言葉を背中で聞けて、正直僕は安堵した。でなければ、こうは返せなかったから。
「わかってるさ」
ダウンを羽織って戻ると、彼は未だ眉間に皺を寄せ、僕の目を見てくる。だけれど彼は数秒して、僕の足元の紙袋へ目線を移した。
「固まったのか」
その言葉に、僕は嘘をつけない。
「形にはなった。だけど、これが正解の形かどうか、そう固められたのかはわからない」
言ってしまってから、僕は彼の返答に身構える。だけれど彼はそこでは何も言わぬまま、先に歩き始めた。紙袋を持ち上げ、僕も彼の後を追う。そして、駐輪場で単気筒バイクのキックペダルを踏み抜き、隣に立つ僕にも鼓動が聞こえ始めた時に、彼は言った。
「言葉の解釈なんて、受け手の捉え方次第だ。伝える側のこだわりなんて、結局は自己満足でしかない。でも、お前はそこに、それほどに拘れるだけの想いがあった。そんで、それを聞こうとする人がいる。それだけで俺は、お前と……お前が羨ましい」
単気筒の排気が、僕の体を揺らしている。
僕は一言、「ありがとう」と、それだけを噛み締めるように言って彼の後ろに跨った。言葉は返って来なかったけれど、発進する時、彼は少し余計にエンジンを吹かした。
海に面した片側一車線の国道へ出る。長く直線の続く道には僕達しかいなかった。エンジンが四度唸り、また落ち着いてから鼓動が一定のリズムを刻み始めると、僕は、いや、きっと僕たちは、いつの間にか流れる景色にあの日の記憶を見ていた。
「着いたぞ」
エンジン音が途切れるのと同時に、僕の意識も現実へと戻った。
彼が車体を斜めに倒して促すから、僕はバイクを降りる。すると——、
「久しぶり」
彼が僕の背後へと向けてそう言いながら、僕の肩を小突いた。不意の攻撃に数歩よろめくも、すぐに慌てて彼に目を向ける。睨んだわけじゃない。勢いのまま背後に向いてしまわないよう正面に視線を固定しただけだ。
だけれど僕は、そうして初めて彼の笑顔を見て、結局のところ拍子抜けしてしまった。
彼がバイクのタンクを指で叩いて言う。
「こっちの傷はもうなくなった」
確かにタンクには、あの日の傷跡はなくなっている。だけれど綺麗さっぱりという風ではなかった。彼のバイクへの想いを知る僕には、それがあえて残されているのだとわかる。
やはり彼は変わらない。変わっていなかった。そして、彼が変わっていないのなら、つまりはやっぱり僕が変わらないといけない。
僕は覚悟を決めて頷いた。すると彼は、また視線を僕の向こう側へと向けて、言った。
「こいつはね、俺の倅なんですよ。だからよろしくしてやって下さい」
彼はそうして、また茶目っ気のある笑顔を見せ、最後に一瞬だけ僕の目を確認するように覗くと、ヘルメットを被り直した。
単気筒がすぐそこで鼓動を始める。この距離ではもうその振動までは伝わってこない。
僕は、今この瞬間が彼との別れであると察した。そして僕と彼との間に必要なのは、言葉ではないことを改めて理解した。だから僕は深く呼吸をして、覚悟を決めた。
そしてその覚悟を、親友と自分と、何よりあの日の真珠岬の彼女に誓う。
そうして僕は、振り返った。