クーラーの効いた騒がしい教室で机に体重を預ける。机と鼻の距離はゼロで、ほんのり木と鉛筆の芯の香りがした。
顔を上げた先には絶対奏真がいて、その隣には彼氏なのか彼女なのか、立ち位置はよく分からないけど彼の恋人の陽高くん。
現実から逃げるように目を閉じると、お兄さん、惟人さんの歌は、あれから何日も過ぎた今でも相変わらず頭の中でリピートされる。
あの日、ご飯を食べてまっすぐ家に帰った私たちは、そのあと「ありがとう」を伝えることなく別れてしまった。
名前を教えあったなら、連絡先くらい聞いておけばよかったなんて少しだけ後悔した。
それ以来、惟人さんとは会っていない。
もう七月がやってきて、あと少しで夏休み。
きっとこのままあっという間に時間が過ぎて、高校二年生なんてすぐに終わってしまう。
もう一度あの声が聴きたい。あの歌が聴きたい。
惟人さんは一瞬でお気に入りの歌手ナンバーワンに登りつめていた。
「紗綾、帰るぞ」
荷物を持って、久しぶりに声をかけられる。
「ごめん、陽高くんと先帰って。用事あるから」
嘘をついた。
罪悪感と寂しさと、二人に気を遣った自分。どれも自分のことしか考えていないような気がして胸が痛い。
「サンキュ」
嬉しそうに笑うと、「陽高、帰ろーぜ」と幸せそうな笑顔で声をかけていた。
彼らが門を出るのを窓から確認して、私も校舎を出る。
白シャツにピンクのリボン。変わり映えのしない夏服は、汗ですぐ肌にくっついた。
吹く風は生ぬるくて、空から降る光は日に日に温度を上げていく。この条件でこの道を歩くのは苦痛だ。
一歩一歩に重みを感じながらも確実に前に進み、奏真の家を通り越した。
気持ちも簡単に前に進んで、奏真のことを乗り越えられたらいいのに。
「あれ、紗綾ちゃんだ」
「惟人さん!今帰りですか?」
帰り道、駅に続く十字路がある道でばったり会った。久しぶりに見た惟人さんは、特に変わっていなかった。
「今から夜ご飯食べに行くとこ」
そう話す惟人さんはご機嫌だ。
「何かいいことあったんですか?」
「うん。あ、紗綾ちゃんも一緒に来る?」
「行きたいです!」
気づいたらそう答えていて、まっすぐ行くはずの十字路を左に曲がって駅の方へと歩いていた。
「誘っといてあれだけど、お母さんとかご飯作って待ってるよね?大丈夫?」
少し歩くと、心配そうに足を止めた。
どうしよう。なんて言おう。出会いたての人に話すのは重すぎる。私の家庭事情の話。
「全然大丈夫です。話すと重くなっちゃうんですけど……」
何言ってるんだ、私。
言わないと決めてそうそう、ボロが出てしまった。こんなの、遠回しに聞いてほしいと言っているようなものだ。
「……そっか。ご病気?」
少し考える素振りをしたあと、遠慮気味に問いかける。
どうやら亡くなっていると思っているらしい。
「いえ、生きてます。多分普通に元気です」
じゃあなんだろう、と首を傾げている。
また失敗した。いっその事死んだことにしておけば……。いや、重いことには変わりないか。
「あの、なんでそんなに知ろうとしてくれるんですか?」
重い話なんて誰もが嫌がるはずで、奏真にも百笑にも、先生にも話していないのに。
知りたいのは私に興味があるわけじゃなくて、勿体ぶるから好奇心が湧いてくるという可能性もあるのかな。
「紗綾ちゃん、寂しそうで、なんだか聞いてほしそうだったから、かな。言いにくいなら、無理に聞かないから安心して」
惟人さんはそう、私の頭をポンポンと撫でると、ガラガラと引き戸を開けてレトロな家に入った。
「ここ、惟人さんのお家ですか?」
「ご飯食べに来たんだよ。ほら、入って入って」
手招きをされて、ドキドキしながら戸をくぐる。
落ち着いた雰囲気の店内は、昔ながらの食堂のよう。
「お、惟人くん!いらっしゃい!今日は彼女も一緒か!いいねぇ」
威勢のいいおじさんが親しげに惟人さんに話しかけていた。
「彼女じゃなくて、友達です。おじさん、紗綾ちゃんびっくりしてるから」
「ごめんごめん。じゃあ二人ね。空いてる席座りな」
惟人さんのあとに続いて座った窓際の席は、綺麗な花が夕日に照らされていた。
「よく来るんですか?」
「うん。お隣さんが教えてくれて。初めて来たときは普通の一軒家だから変にドキドキしたけど、今はもうすっかり常連さん」
話を聞くと、知る人ぞ知る隠れ家食堂らしい。
看板もなければ店の名前もない。今まで普通に横並びになっている家のひとつとしてしか見てこなかった。
「惟人さんのおすすめはなんですか?」
今日は質問ばかりしてしまう日だ。まだ、相手のことを全然知らないからなおさら。
「アジフライ定食が美味いよ。昼だとおにぎりランチがあるんだけど、それも絶品。だから今度は昼、一緒に来よう」
メニューを見る限り、ここは和食専門らしい。
ご飯は白米、玄米、雑穀米の三種類、お味噌汁は白味噌、赤味噌の二種類から選べる定食がメイン。
定食メニューは生姜焼きに照り焼きチキン、サバの味噌煮にブリの煮付け。唐揚げ、焼肉、トンカツ、エビフライ……。
それに日替わりで副菜の小鉢がふたつと漬物がついてくる。
これは知らないのがもったいない。
とりあえず今日は、おすすめのアジフライ定食で玄米と白味噌のお味噌汁にした。
惟人さんはサバの味噌煮定食に、白ご飯と白味噌のお味噌汁。
注文を受けてもらうのと同時にいただいたお水の氷がカラン、と涼しげな音を響かせる。
「あの、聞いてください。私の家の話」
この人になら話してもいいかなって思った。変に気を遣わずに聞いてくれるような気がした。
「うん。聞かせて」
机の上に出ている手を膝上にしまって、パチッと目が合う。
人生で初めて家族の話をするというのに、不思議とあまり緊張しなかった。
「母子家庭なんです。うち。産まれた時から父親がいなくて、母とふたりでマンションに住んでたんです」
プツプツとコップが汗をかきはじめた。
それに意識を向けていないと、まともに話せる気がしなかった。
「うん」
「小学一年生までは、普通の母親だったんですけど、奏真……幼馴染のお母さんが常に家に居るようになってから変わっちゃって」
手のひらをぎゅっと握りしめた。食い込む爪が、自分を保たせてくれている。
そうじゃないと、辛くも悲しくもないのに泣いてしまいそうだった。
「彼氏の家に遊びに行って寝泊まりすることが増えて。今はもう、そのまま帰ってこなくなりました」
言った。言ったぞ。誰にも話していない、お母さんのことをとうとう口にした。
話したあとの方が、謎に緊張してドクドクと血液を過剰に送り出している音が聞こえた。
コップがかいた汗は、つーっと流れて机の上に丸い跡を残している。それを見て、私の鼻もツンと痛くなった。
「でも今は、家事は完璧にこなせるし、嫌なことがあっても踏み込まれずに必死にやることが常にあるのでありがたいんです。花嫁修業も完璧だし、いいことづくめだなーって」
必死で誤魔化して、辛くないことをアピールするけど、きっとこれがあるから更に辛そうに見えるんだろう。
聞いていた惟人さんも、なんだか泣きそうな顔をしていた。
「さば味噌定食とアジフライ定食ね。お姉ちゃん、辛いときは耐えないでこいつに吐き出していいんだよ。手もそんな強く握りしめてたら綺麗な手に跡がついちゃうだろ?」
黒いお盆に乗った定食と共に言葉をおいて、バシバシと惟人さんの肩を叩くと厨房へと戻って行った。
「なんかすみません」
「いいのいいの。あの人いつもだから」
楽しそうに笑う声。惟人さんのそんなに重く捉えていない感じが、私の不安をあっさりと取り除いた。
「まぁ人それぞれ何らかの事情を持って生きてると思うし、泣きたいときは僕のこと呼び出してくれてもいいからさ。紗綾ちゃんはよく頑張ってると思うよ」
そんなこと、初めて言われた。
勝手に、親がそんなだから……とか、かわいそうな子って何かにつけて親のせいにされるものだと思っていたけど、この人は違った。
「ていうか、呼び出してとか言っときながら連絡先知らないじゃんね。QRコードでいい?」
「はい。ありがとうございます」
お互いの定食の、お味噌汁の湯気が立ち込める中、チャットアプリのアカウントを使って連絡先を交換した。
「よし、じゃあ食べるか!」
パタン、とスマホを伏せて置き、手を合わせる惟人さんは見ていてすごく微笑ましかった。
上手に箸を使って骨を避けながらおかずを口にする姿に、焼き魚にしなくてよかったと心底思った。
箸で掴んでかぶりつくだけの私は、一口目はお好みでかけるようにつけてくれたとんかつソースをかけずにそのまま。
サクサクッと衣の音が耳に届くと、ふわふわの身と旨みが口いっぱいに広がった。
「ん、おいひい」
心の中に抑えておくことが難しいほどの美味しさに、一個なんてあっという間にお皿から消えてしまう。
小鉢に入った胡麻豆腐とほうれん草のおひたしも食べたいけど、アジフライから動くことが難しい。
「紗綾ちゃんは将来の夢とかあるの?」
お茶碗をもったまま、ご飯を口に運ぶことなく言葉が飛んでくる。
昔はいっぱいあった将来の夢。
ケーキ屋さんとかお花屋さんとか、パン屋さんもあったかな。動画クリエイターという時代ではなかったから、現代っ子の返答は無理そう。
「まだ決まってないんです。何をしたいのか、どんな仕事をしてこの先の人生を歩んでいきたいのか、全然わかんなくて」
夏休みが終わると、もう何回目かも分からない進路希望調査が配られる。そろそろ地に足をつけて書かないといけない時期がやってきた。
「そっか。だいたいそういうもんだよ。僕もこれって決まったの、高校二年生の冬だったし」
なんだ、それまで悩んでいいんだ。
実体験の話を聞くと、期限が伸びたみたいで少しゆとりを感じる。
「何に決めたんですか?」
やっぱり歌手だろうか。
そうじゃなくても、音楽系の道に進みそう。
「高校の先生になりたいなーって」
予想の斜め上の回答に、少しフリーズしてしまった。
「そんな驚く?」
ふはっと空気を含んだ笑い声をこぼしながら、器用に胡麻豆腐をつまみ、口に運んだ。
「はい。だってあんなに歌が上手くて素敵な歌詞がかけるのに、音楽の道じゃなかったので」
惟人さんならそれで生きていけそうだけど、それほど人生は甘くないということだろう。
「あれは趣味だからね。趣味を仕事にできるっていいことだと思うけど、僕は趣味は息抜き程度にできるものにしてるから」
すごく大人な回答だと思った。
趣味は秀でていれば仕事になって、主にそれを目指している人ばかりだと、勝手に思っていた。
「音楽のこと、嫌いになりたくないから。これを仕事にして、辛くなってもうできないっていうのはどうしても避けたくて。ある意味弱虫なのかもしれない」
食べながら話すのが上手な人だな。
口の中に食べ物が入ったまま話しているわけでもないし、くちゃくちゃと嫌な音がするわけでもない。
それに比べて私は、「そうなんですか?」「へー、すごいですね」なんて相槌を打っているだけなのに、口に運ぶタイミングがイマイチ掴めない。
「だから今できることで極めたいことがあるならそれを将来の仕事にしようとするのもありだと思うよ」
それだけ言って、満足したようにずっと手をつけられていなかったお味噌汁を飲んだ。
もう、湯気は消えて無くなっていた。
「ちなみに、なんで惟人さんは先生になろうと思ったんですか?」
正直、学校の先生に魅力は感じない。口にはしないけど。
何十人もの生徒の顔と名前を覚え、授業をし、問題が起これば解決し、その場に応じて怒る。
もちろん行事はいくつになっても楽しいものかもしれないけど、一年の二、三回のために暑い日も寒い日も、大勢の前で教育活動をするなんて私には理解できない。
「高校二年生のときの担任がすごくいい人でさ。二者面談のときにどんなに希望が薄くても悲観的な言葉は一切口に出さないの。お前ならできる、やれるの一点張り」
そういう先生はあまりいないかもしれない。
適当に少し上の大学名を書いたら、『もう少し低いところがいいんじゃないか?』と遠回しにお前には無理だ、と言うのがうちの担任だ。
「それで、できるって信じて勉強したら定期テストでまさかの上位二十番以内に入れちゃって。それで、僕も人の背中を押せる教師になりたいって思ったんだよね」
やはり人に夢を与えられる人はいい人に限るらしい。嫌な人は、夢を与える前にわずかな希望も打ち砕く。
「でも確かに、先生みたいです。惟人さん」
進路の話を親身に聞いてくれるところとか、自分語りのやり方とか、生徒からの信頼を得ている先生と同じような感じだ。説得力がある。
「……そ?なら嬉しい」
肩を竦めて笑う姿が、どこか可愛らしかった。
「今日ご飯食べに行かない?」
終業式が終わり、部活もないからまっすぐ帰ろうとしたら昇降口で彼女とばったり会った。
「いいよ」
家の都合とか、そういうのに振り回されることのない私は即答だった。
「あ、奏真くんじゃん!奏真くんも一緒にご飯行こうよ」
靴を履き替えようとしたとき、ちょうど階段を一人で降りてくる奏真。最近話していないから一方的に少し気まずいのに、そんなことを知りもしない彼女は元気に声をかけた。
「いいよ」
私と全く同じ回答だったからか、なんだかニヤニヤと口角を上げている。
……これは、もしかして、もしかしなくても。
「どこか美味しいお店ないかなー」
人一倍テンションが高く、行かないなんて言えない状態になってしまった。
「ファミレスでいいよ」
頭に浮かんだ惟人さんと入った食堂を思い出したけど、言わないでおいた。
「そうだね!」
そんなこんなで通り道にあるファミレスに三人で入店した。
隣は百笑。目の前は奏真。
……なんでこうなったんだろう。
「何食べようかなー」
午前中は授業で、午後は終業式で捕まった。
時間的にはまだおやつの時間なのに、見ているページはご飯ものばかりが載っているところばかり。
「私トマトチーズリゾットにする」
そんなに食欲はないし、この状況で食欲が湧くような気もしない。
「じゃあ私ハンバーグプレートにしよー」
育ち盛りとはいえ、この時間帯に制服でご飯を頼むのは少し恥ずかしい。
「オレは……」
奏真がメニューとにらめっこをしているのを見ないようにスマホに目を落とすと、惟人さんからのメッセージが届いていた。
『今からパフェでも食べに行かない?』
三分前。たまにやりとりをするチャットに、お誘いの新規メッセージ。
ナイスタイミング。
「ごめん、私帰るね」
「え、なんで?」
カバンを持って立ち上がると、びっくりした目でこちらを見てくる。さて、なんて言おうかな。
「たまにしか会えない友達と会ってくる」
惟人さんと会う、なんて言っても、誰?から始まるゴールが遠い質問攻めが始まるのは目に見えているから、ここは内密に。
少し残念そうにしていたけどちゃんと解放してくれて、出してくれた水すら口をつけずにファミレスを出る。
『行きます!どこまで行けばいいですか?』
紙飛行機のマークで二件に分けたメッセージを送ると、すぐに既読がついた。
『じゃあいつもの駅集合で』
『はい!』
早歩きで駅まで歩くと、椅子に座って改札口の方を見る惟人さん。タイル状の窓から差し込むキラキラと輝く日差しが彼を輝かせていた。
「お待たせしました」
「全然待ってないよ」
椅子から立ち上がる彼。私より少し背が高いことに、今気づいた。
「惟人さんって身長いくつくらいですか?」
とくに具体的な数字が知りたいわけでもないくせに、改札の向こう側とこちら側、わかれたときに声をかけた。
「え、理想言わないと通らない感じ?」
楽しそうに笑う。
「いえ、なんか、聞いてました」
つられて私も笑う。
「百七十五かな、確か。ここ一年くらい測ってないけど、多分そう」
後を追って改札を通ると、少し考える素振りをして、教えてくれた。
「紗綾ちゃんは?」
「百六十です。この前の体力テストのとき測ったばっかりなので間違いないです」
胸を張って自信満々で答えると、ふはっ、と笑う声。惟人さんだなー、なんて、少し嬉しくなった。
「へぇー。運動とか得意なの?」
「いえ、全然。去年の順位は下から二番目でした」
これはある意味自慢。下から数えた方が早い順位なんて、そうそう取れるものじゃない。
いや、自慢にしてる。笑い話にしたら、この順位も悪くないかなって思えるから。
「意外だな。紗綾ちゃん、スタイルいいから運動得意だと思ってた」
「自分磨きと体育は全くの別物なので」
真面目な顔で答えると、また楽しそうに笑う。
笑ってもらえるとやっぱり嬉しかった。
二駅先で降りて、見覚えのある道を歩く。
「なんかいつも制服で会ってる気がする」
ふと、何かを思い出したかのように彼は言った。
「惟人さんの作った歌を聴いたときは私服でしたよ。でも確かに、会うときはだいたい制服かも」
見下ろすと運動靴と、生脚。あとは紺色のスカート。
それに比べ惟人さんは、白シャツに青い半袖の上着。黒いズボン。見た目からもう、爽やかだ。
大学生の彼の隣を歩くなら、もうちょっと大人っぽくて可愛い服を着たい。
白ブラウスに緑のジャンバースカートとか、袖がふわっと広がったワンピースとか。
「じゃあ今度、休みの日に遊び行こっか」
「はい!」
頭に奏真の顔が浮かんだのは、気付かないふりをした。別に彼氏じゃないし、一方通行の交わることを知らない感情ににしばられていたら何も出来ない。
悪いこと、してないもん。
足を止めた目の前は、『Cafe Parfaitrian』。
今度は友達と来ようと決めたパフェの店。
扉を開けて中に入る。外の暑さに比べて、気持ちいいくらい涼しかった。
「ここ、知ってる?パフェが有名なの」
椅子に座って、そう差し出してくれたメニューに目を落とす。
「はい。この前は一人で来たんですけど、今日は惟人さんと来られて嬉しいです」
丸ごと桃のパフェ。白くま風のパフェ。かき氷の入った珍しいものもある。
だけどここはやっぱり、桃だ。
「決めた?」
どうやら惟人さんは既に決まっていたようで、顔を上げた私の顔を見たらすぐ、そう聞いた。
「はい。桃にします」
「ん、りょーかい」
ベルを鳴らし、スマートに注文を済ませる姿がなんだかすごく大人にみえた。
「紗綾ちゃんは部活とかやってるの?」
「はい。これでも一応弓道部で、部長任されてます」
体育嫌いだからか、信憑性に欠けるんだよな。
きっと惟人さんも、疑いから入るんだろう。
「え!まじ?すごいね」
……あれ?今まで見てきた反応とは正反対だ。
「弓道部ってだけでもかっこいいのに、その上部長とかなに?イケメンなの?」
身体を乗りだして、真剣な目で訴えてくる。
奏真でさえも、紗綾に任せられるの?という方向で真剣に心配性を発揮してきたのに、この人は全然違った。
「下手なんですけどね、腕は」
「いやいや、そんなこと関係ないよ。先生は紗綾ちゃんの真剣さとか真面目さとかに惹かれたんじゃないかな」
うんうん、と頷きながらそう言ったあと、「真剣と真面目ってほとんど同じか」と笑った。
「そんなふうに言ってもらえるの初めてで、嬉しいです」
「お待たせいたしました。丸ごと桃パフェです」
ちょうど話に区切りがついたとき、様子を伺っていたかのようにパフェが届いた。
前のときのオシャレなグラスとは別の、レトロなパフェ容器。
それに下から、桃のコンポート、バニラプリン、ラズベリーのジュレ、桃のコンポート、砕いたビスケット、カスタードクリーム、バニラアイス。その上に桃を丸ごと一つ。
思わず手を叩いてしまうほど、美味しそう。
見た目はもう、スタンディングオベーションレベル。味もきっと、この前のパフェが美味しかったから約束されたようなものだ。
柄が細くて長いスプーンで、頂上の桃を掬った。
繊維が切れて、果汁が溢れてくる。
まだ口にしていないのに、もう美味しい。眼福だ。
口に入れると、みずみずしくてフルーティーな美味しさが口いっぱいに広がって、少しだけついてきたバニラアイスがその美味しさを更に引き立てている。
「来年も、一緒に来たいです」
「そうだね。また来よう」
食べ終わって帰る準備をするときに話すことを、もう既に話し終えた。
当たり前のように来年も来る口約束をして、当たり前のようにその日が来るのを待つのだろう。
「あの、もし良ければ見に来ますか?」
メインの一番上の桃がなくなった喪失感からか、思ってもみないことを口にしてしまった。
「なにを?」
まだ引き返せる。映画とか美術館とか、いくらでも言い換えられる。
「今度の土曜日、市内大会なんです」
奏真でさえも来てほしくないのに、引き返すチャンスは既になくなってしまった。
知り合いが来たら、いつもより緊張してガッチガチになるのは目に見えているのに。
もう、断られることを祈ることしかできない。
「え、いいの?」
完全敗北。
「はい。もしお暇なら、ですけど」
誘っておいて、やっぱりダメです、とは言えなかった。暇なら、と言ったのは、最後の悪あがきだ。
「暇ひま。めっちゃ暇。えー、超楽しみ」
そうだよね。暇じゃないなら、一言目から断るためにごめんとか何とか言うよね、普通。
「いつもより頑張ります」
結果、そう言わざるを得なくなってしまった。
もちろんいつも全力を出してはいるけど、惟人さんに弓道は素敵な武道だと知ってもらえるチャンスだ。もうこの際、ピンチはチャンスだと思うのがいい。
「楽しみだなー」
そう呟きながら、どんどん食べ進めていく。さすが男の人。食べるのが早い。
「じゃあ、詳細のプリント、メールで送っておきますね」
「うん。ありがとう」
てん、てん、てん。のなんだか心地いい沈黙が流れたあと、惟人さんはなにかを思い出したかのようにハッとした顔でこちらを見た。
「そろそろ進路希望調査配られるよね。この前悩んでたけど、大丈夫?」
優しいなぁ、この人は。夢の持ち方さえも優しいもの。
「配られるのは夏休み明けなんですけど、決まらなくて既に悩んでます」
そして、いい人だからこんな話もできてしまう。少し大人な目線で私の話を聞いてくれる、まるでお兄ちゃんのような人。
「紗綾ちゃん、好きなことある?」
もしかしたらきっと、ただのおせっかいに見えるかもしれない。だけど私にとってはこういうことを話せるだけですごく嬉しい。
「音楽を聴くことと、あとマンガ読むの好きです!少女マンガ、読んでると生きてる価値を感じて……。白田亜季先生の『雨の日は、君とふたり』は映画化してて、未だに連載が続いてるんですけどほんとに最高なんです。他にも同じ雑誌で連載してる春井すみれ先生の『初恋イレイサー』とか、胸きゅんのオンパレードで!あとは」
あ、やばい。熱入りすぎた。無意識にスマホの画面を見せたりして、恥ずかしすぎる。
惟人さんはぽかんとしていて、少しするとくすくす笑い始めた。
顔に熱が集中するのがわかった。うちわで仰ぎたいほど熱くて、真っ赤なのは鏡を見なくても一目……いや、ゼロ目瞭然だ。
「ごめんなさい、興味ないですよね」
「いや、全然いいよ。それに、紗綾ちゃんに向いてそうな仕事、一個見つけたし」
まさかの発言に思わず「えっ」と声が出る。
先生も絶対ピッタリだけど、転職エージェントとかにもなれそうだ。
「なんですか?」
少し心が踊る。向いてそうな仕事を誰かに教えてもらうことなんて、ずっとないと思っていたからかな。
「マンガ雑誌の編集者とか、どう?そしたらとりあえず大学に行っておこうっていうよりも未来の目標ができるから毎日がもっと楽しくなると思う。あくまで参考までにだけどね」
心がキラキラした。ワクワクして止まらなかった。
今までマンガ雑誌に関われるのは漫画家さんだけだと思っていた叶わぬ憧れが一気に近づいて、頑張って手を伸ばせば届くような気がした。
「ありがとうございます!惟人さん流石です!」
塞がった道が切り開けた。こう言うのが正しいのかもしれない。
「力になれたならよかった」
満面の笑みで、彼は最後の一口を頬張った。
「よーし!」
大前の百笑が一射目を的中させると、同じ学校の仲間が声を上げる。
二的の私はこの波に乗らないといけない。
弓手を押して、妻手を捻る。手首の力じゃなくて、腕の力で伸びる。
一、二、三、四、五、六、七。離れ。
カンッと弦の鳴る音。スパンッと的紙が破れる音。「よーし!」と耳に届く部員の声。
よかった、なんとかなった。
三人立ちの十二射を午前と午後で二回。
ふわっと吹く風が、黒い袴を優しくなびかせる。
緊張感。でもそれに勝るほど楽しみなのが、惟人さんの反応だ。
メールで詳細の写メを送っただけで、『やばいかっこいい!』と、何に対してそう思ったのか分からないことを送ってきていた。
クスッと笑えるのだ。文面を見たときはもちろんだけど、今少し思い出しただけでも思わず微笑んでしまう。
それが私の過度な緊張を解してくれた。
二本目、外れ。三本目、中り。四本目、外れ。
あみだくじの折り曲げているところみたいな中て方をして、午前は終わってしまった。
次の次で矢取りに行くのが大体の大会のルールで、今惟人さんを探しに行っていると確実に間に合わない。今すぐ探しに行きたい気持ちをグッとこらえて、第一射場と書かれた矢立にさっき放った四本の矢を取りに行く。
掴むと、カシャン、と小さく儚い音が静かな空間に響いた。
変にぶつかるとすぐに歪んでしまうからなのか、いつもは大きく聞こえる矢と矢がぶつかる音がこの瞬間だけ、儚く思えた。
「取ってきたよ」
十二本を持って帰ると、百笑はどこかへ行ってしまっていた。
「ありがとー。百笑ならトイレ行ったよ」
学校じゃないから自由にスマホを触れる空間で、落の彼女はイヤホンを挿して時間まで音楽を聴くのがいつものルーティーン。次も頑張るためのひと工夫だ。
周りにいる他校の人はRPGゲームをしたり、動画配信サイトを見ながらお菓子を食べたりと自由な時間を過ごしている。
そろそろ矢取りに行かないとな、というジャストタイミングで百笑も戻ってきて、三人で第一射場側の小屋へ入る。ぼーっとしていると肩をビクつかせて驚いてしまうほど、大きな音で的中音が聞こえる。
「入ります」
他校の何度か見たことがある知らない先生の声で背筋を伸ばす。
ビー、と少し耳障りな音を鳴らし、赤旗が小窓から出されたあと、ラミネートされた両面印刷B4サイズの『1』『2』と『3』『4』を一枚づつ持って息を吸う。
「失礼します!」
先に出た百笑に続いて大きな声を出し、土の匂いが強い外へ出た。
第一射場、二的。この人の本数は一、二、……あ、ギリギリ三本中ってる。
的の右側から的中本数を確認して、『3』の面を出してまっすぐ立った。
拍手の音があちこちから聞こえてくる。
どうやら誰かが皆中したみたいだ。
射場からの合図で矢を抜いて小屋に戻る。いつもより丁寧に矢を拭き終えて矢立に戻したらご飯の時間が終わるまでは自由だ。
本当は応援に行くべきなんだろうけど、惟人さんを探したいからここは辞退させてもらおう。
「暑いね」「そうだね」の会話を飽きもせず何日も何回も繰り返して、やっとたどり着いた室内はエアコンがしっかり働いているとは到底言いがたいものだった。
ミンミン鳴くセミ。
暑さで歪む景色。
プシュっと誰かが炭酸のペットボトルを開ける数少ない涼しげな音。
「あ、如月、ちょっと」
さて、探しに行こう。そう思ったらガッツリと邪魔が入った。
「なに?なんかした?」
男子部長に手招きされて、逃げてしまいたくなる。
なにかしたっけ、私。もしかして入り方間違えた?
「先生が来いって」
……うわうわうわ、何したっけ。
全然悪いことした記憶はないけど、身に覚えがないのは更に恐怖心を煽る。
「すぐ行く」
知らない人のものをいつもの何倍も慎重に矢立に入れて、招集をするためにホワイトボードの前に立っている先生の所に向かう。
私一人に話があるわけじゃなくて、男女両方の部長に話がある感じなのかな。
ドクドクと鳴っていた心臓は、それだけでちょこっと安心したらしく、少しだけ治まった。
「忙しくて伝えるの頼むことになっちゃうんだけど」
私たちの顔を交互に見て、先生は話し始めた。
「今日は暑いから、熱中症予防のために終わった人から帰ることになりました。決勝進出する場合は出る人だけが残る形で。この旨、みんなに伝えてくれる?」
射場の様子を伺いながら、それでもこちら側には忙しいから早くして、みたいな感情は一切出さずにいつも通りの口調と声色で伝えてくれる。
「はい、わかりました」
先生にそれだけ言って、色んな学校の控え室になっている遠的射場にいる部員に伝えるために先生の言葉を何度も頭の中で復唱する。
「ごめん、ちょっといい?」
ちょうどみんな出番も仕事も終わっていて、おしゃべりに花を咲かせたり、スマホを構っていたりしていた。ラッキー。
ただ、みんなの視線が一気にこちらへ向くのは少し緊張する。なにかの発表をするわけでもないのに、手がじわじわと汗ばんできた。
「どうしたの?」
「先生からの伝言で、今日は暑いから熱中症予防のために、出番と矢取りが終わった人から帰ってくださいだって」
ふーっと細く長い息を吐く。はぁ、緊張した。
「やった!一緒に帰ろ!」
隣に来て嬉しそうに笑う百笑。
彼女だけでなく、みんなが嬉しそうに笑う姿になんだか少しほっとした。
早く帰れる話題のまま昼食を食べ終え、結局惟人さんを探しに行く時間もなく午後の部が始まり、早く帰りたい欲が出たのか一本しか中らなかった。
「帰ろ帰ろ。紗綾も電車だよね」
「うん。でもちょっと待って」
薄ピンクのカバーに包まれた弓と紺色の矢筒を持ち、空いた右手にスマホ。
直に通知の振動が伝わってくるその画面には、『どこにいる?』という惟人さんからのメッセージ。
『弓道場の出入口のところにいます』
苦戦しながらも親指で文を打ち、送信するとすぐに既読マークがついた。
「ここに来る?その人」
メールのやり取りをみているのか、引き止めているから勘づいたのか、彼女はいつも話すときのトーンと同じように口にする。
「うん。だからちょっと待ってほしい」
もうこの際、惟人さんのことも紹介してしまおう。そしたら、今後惟人さんと会うときの誤魔化しも必要なくなる。
「いいよ。あ、そうだ。奏真くんのことだけど」
「……え?」
なんで今、奏真の話?
弓道場の出入口、傘のある日陰のところで横並びになって話す。話題に出してほしくない、彼の話を。
「やっぱり諦めるには早いと思うんだよね」
「え、なんで?」
「この前ファミレスで聞いたんだよね。紗綾のことどう思ってるかって。そしたら「好き」って言ってたよ。きっと失恋は紗綾の勘違いだよ」
思わず「は?」と言ってしまいそうになるのを必死に飲み込んだ。出て行かなかった分、心にモヤモヤと謎の黒いものがほんの少し残った。
そんなことない。私は確実に失恋した。好きな人がいて、それが男の人だっていうことを顔を見てこの耳でしっかり聞いたのだ。
「だからほら、この際髪も切ったことだしイメチェンして振り向かせてみたら?紗綾なら絶対いけるって!」
有無も言わさずにペラペラと要らない世話を焼いてくる。
「……そうかな?」
それだけを口にして、笑顔を貼り付けた。
「そうだよ!無理なわけないって」
その後も髪型を変えてみるとかメイクをしてみるとか、私が両思いを夢みていた頃にやったことがあることを次々と提案してくる。
……あー、鬱陶しいな。
黒いモヤモヤは時間が経つごとに大きくなっていって、加えて癒えはじめようとしていたかもしれない失恋の傷は友人のありがた迷惑な言葉と行動で抉られていく。
「恋愛対象が男性の人をどう振り向かせろって言うの?」
あっ……。
「……え?」
後ろから聞こえてきたその声に、一気に血の気が引いた。振り返らなくてもわかる、話題となっている張本人の声。「なんでいるの?」と聞くことすらできなかった。いつもみたいに驚くことさえ、今の私には難しかった。
もう、これ以上気持ちを隠し通してただの幼馴染として生きていくことはできない。
「……ごめん、先帰る」
声も出ず、ただ俯く百笑。
「紗綾!」
そう私の背中に向かって呼びかける奏真。
少しして、バタバタと後ろから聞こえてくる足音はきっと奏真に違いない。
怒ってる?呆れてる?……もう、嫌われた?
誰にも言いたくない秘密を、勢いでバラしてしまった私の事なんて、憎くなって当然だ。
でも、それでもいつか、この恋心は昔の大切な思い出に変わって、ただの幼馴染として笑顔で隣を歩けたらって思っていたのに。
そんな遠い未来の理想も、もう叶わない。
涙がポロポロとこぼれる。
奏真の方がずっとずっとショックで泣きたいはずなのに、そんな私を責めるように立ち止まることなく聞こえる足音。
「待って、紗綾ちゃん!」
……え?
足を止めて振り向くと、こちらへ向かって走ってくる惟人さん。
「惟人さん、なんで……」
汗を流して息を軽く切らしながら、立ち止まった私の方へ向かってまっすぐ歩いてくる。
惟人さんの姿を見て、ぶわっと涙腺が崩壊した。
「声かけようとしたら一緒のグループでやってた人と頑張って笑顔作りながら話してて、いきなり走ってっちゃうんだもん」
感情移入するタイプなのか、彼も辛そうな顔をして、でも優しい笑顔を向けてくれた。八割は辛そうな表情に呑まれていたけど。
「だってっ」
そこまで声に変えたけど、ひっくひっくとしゃくりあげてしまってそのあとの言葉を繋げられない。ただ喉にやけに冷たい空気がへばりつくだけだった。
「だって、だってっ」
「うん。大丈夫、わかってるよ。……痛いよな」
私の肩をゆっくり擦りながら、本当に苦しそうに、泣きそうになりながら言った。
私はその言葉に、泣きながら何度も頷くことしかできなかった。
「帰ろっか。送ってく」
大事な学校の備品である弓を地面に叩きつけたまま走り出していたらしく、惟人さんが乗ってきた車で待っている間に戻って持ってきてくれた。
「こういうとき、腕を引いて引き止めたりできたらかっこよかったんだろうなー」
運転席でハンドルに腕をかけて体重を預けながら、多分、恐らく、ウケを狙ってくれている。
たかが恋愛の口喧嘩で、関係ない人の励ましに対する愛想笑いさえもできない自分が嫌になる。
「ちょっとお茶でもして帰ろっか」
そう、私のシートベルトを確認して、ゆっくりと車を走らせた。
左端から吹く冷たい風、下の方から聞こえてくるラジオの声。
なにもかもが初めてだった。
誰かの車に乗るのも、シートベルトを締めることも、窓から見える景色が電車よりものんびり移りゆくことも。
意外と硬い背もたれに身体を預けて、そっと自分の心に手を添える。
ズキズキと情けないほど傷んで、このままどこか遠くへ行ってしまいたいような、いつもより寂しさを感じる夜みたいな感覚が私を襲う。
何もやる気が起きなくて、でも寝るのも少し怖いような、そんな感覚。
「ワッフルとパンケーキ、どっちが好き?」
赤信号でゆっくり止まると、前ではなくこちらを向いて、寄り添うように話してくれる。
「……ワッフル好きです」
クロッフルは重かったけど、ワッフルは好き。
優しい甘みと、端っこのサクサク感が好き。
「じゃあワッフル食べに行こう」
そう、左のウインカーを出すと、横断歩道を渡る人がいないことを確認してゆっくり曲がった。
やっと落ち着いてきて、ふと運転席をみると、当たり前だけど集中して運転している惟人さん。
両手でハンドルを握る少し骨ばった手。自分のと見比べても、一目で男の人だなってほんの少しだけドキッとした。
チラッとサイドミラーとルームミラーを見る姿は、なんだかこなれているように見える。
それなのに、無駄にカッコつけてスピードを出したりしないあたりにしっかりと彼の性格が出ている気がした。
「私人生で初めて車に乗りました」
カチカチとウインカーの音が鳴る中で、独り言のようにつぶやいてみる。
「え、まじで?」
「はい、まじです」
目を真ん丸くして驚いている。そうだよね。誰でも驚くよね。この歳になって人生初の車なんて、おかしいったらありゃしない。
「じゃあ今度は高速道路乗ってちょっと遠出しよっか」
てっきりバカにして笑うかと思ったけど、惟人さんはそんな人じゃなかった。それは私もよくよく分かっていた。
「いいんですか?」
高速道路というのは、バス移動がメインの中学の修学旅行で寝ているときに乗っていたくらいで、もうすっかり記憶にない。だからか、まるで記憶喪失になった人みたいに、誰もが当たり前に使ったりやったりすることに新しいことへのワクワクが高まるのだ。
まるで『惟人さん』だけがカラーで、背景もなにもかも全部白黒の世界が一気に色付いたかのように。
「うん。約束」
車のなか、赤信号に見守られながら指切りを交わした。
それでも、見た目からして甘くて美味しそうなワッフルは、あまり味がしなかった。
「惟人さーん!」
ブンブンと手を振り、ここにいると全力でアピールする。
愉快な音楽、火薬の香り、賑やかな視界。
去年までは奏真と二人で来ていたこのお祭りに、今年は惟人さんに誘われてここまで来た。
浴衣レンタルのお店で紫色の紫陽花が可愛い浴衣を着せてもらって、神社の鳥居の前で待ち合わせ。
「おまた、せ……」
惟人さんは紺色の浴衣に白い帯を締めている。
スラッとしていて、それでもしっかりとしている骨格になぜか柄にもなくドキドキした。
「……えっと、あの、どうかしましたか?」
お互いの浴衣姿を頭から足先までざっと見合って、バチッと目が合う。
ドキンッと心臓が跳ねる。
「いや、いつにも増して可愛いな、と」
首を触りながら少し目線を逸らして、思ってもみないようなことを言うから「えっ!」とまあまあ大きな声を出して驚いてしまう。
「それを言うなら、惟人さんだっていつもよりかっこいいですよ」
浴衣が良く似合うから、きっとこの姿でギターを弾いて歌ったら確実にモテるだろう。
足を止める人も一人二人なんていう簡単に数えられる人数じゃなくて、何十人というきっとすごく苦労するほどになる。
それならいつも通りでいいや。
浴衣姿の彼を知っているのは、私だけでいい。
「気を遣って言ってくれてるわけじゃない?本音?」
「本音に決まってるじゃないですか。ホントのホントに、浴衣めっちゃ似合ってます」
一歩を踏みしめながら惟人さんに近づいて、身体も一緒に言葉の抑揚を表しながら伝えると、照れたように笑った。
「嬉しい。ありがとう」
少し赤いような彼の頬の色が移りそうだ。
動き出せないまま、王道な待ち合わせ場所である鳥居の前には続々と一人の人が集まり、足を止めてスマホを開いたり鏡を見たりしている。
「行こっか」
「はい」
まるでマンガの中のような会話を交し、神社の境内へと足を進める。
「何食べる?」
焼きそば、たこ焼き、フライドポテト。クレープ、フルーツ飴、かき氷。
色とりどりの屋台を見るだけでわくわくしてしまう。
「どれも美味しそうですよね」
胃のキャパは決まっているから、あれもこれも、食べたいものを全部食べられわけじゃないのが悔しい。
「あ!射的!射的してみたいです!」
奏真と来たときは射的なんてできなかった。もう一回!とその場の景品欲しさに何度も百円を支払う姿が目に見えていたから。お金にズボラだと思われたくなかったから。
「いいね。紗綾ちゃん、上手そう」
「なんでですか?」
「弓道部だからかな?これくらい朝飯前って感じする」
「えー、どうかなぁ」
ふたりしてケラケラ笑い、隣同士でコルクガンを手にする。意外と重たかった。
惟人さんを見ながら、真似をして茶色いところを引いて、先端にコルクを詰める。
引き金を引くと、ポン、と軽い音が鳴って、ぬいぐるみとぬいぐるみの間をすり抜けていった。
「お嬢ちゃん、惜しいねぇ」
ラストの三発目を放ったあと、おじさんが自分のことのように悔しがりながら、チリンチリンとベルを降った。
「お兄ちゃん、大当たり!」
えっ、すご!
おじさんの方を向いている目線を首が取れそうなくらいの勢いで惟人さんのほうへ向けると、彼も目をぱちくりとさせていた。
「大当たりは一泊二日東京旅行のペアチケットだよ」
おぉー!と周りからの驚きの声と拍手が湧き上がる。私も彼も、驚いて何がなんだか分からないまま、つられて拍手をしてしまった。
「彼女と二人で楽しんできな!」
「あ、……ありがとうございます」
受け取ってもいいのかと、キョロキョロと周りを見て、たどたどしくそれを受け取った。
「ありがとね!楽しむんだぞー」
「ありがとうございます」
二人でハモリながらおじさんにお礼を言って、射的の屋台から離れる。
まだ戸惑いは私たちの身体に居座っていて、何かを買って食べるでもなく、空いていた椅子に横並びになって座った。
「どーしよ、これ」
「お祭りって、こんなすごいとこでしたっけ」
射的の大当たりといえば、今流行りのゲーム機とかゲームソフトとか、小さい子が喜ぶようなものが設定されているイメージだったけど、それをいとも簡単に裏切られた。一応、いい意味で。
恐る恐る封を開けてチケットを確認してみると、有名ホテルの宿泊券と、旅行先で使える五千円分の商品券が二枚。
「太っ腹なのか、押し付けられたのか……。すごいな、あの人」
「いやほんとに。ちょっと怖いくらいです」
でも封も開けられていなかったし、お札でいう真ん中の丸いところに野口英世が写ったり、金額のところがキラキラと輝いたりしているから、ニセモノではなさそうだ。
「八月の終盤じゃん。日付」
宿泊券の日付を見た惟人さんは、ちらっと私のほうを見た。
「一緒に行かない?」
「え、私でいいんですか?」
大学の友達とか、彼女とかと行くのかと思ったら、まさかの人選でさらに驚いてしまう。
「うん。紗綾ちゃんがいい」
「じゃあ、行きたいです。東京」
惟人さんと東京に行くという新しい予定をスマホのカレンダーに入力すると、ちょうど出発する日に『奏真とバーベキュー』と既に予定が入っていた。
「私、東京に行く前に幼馴染に気持ち伝えて踏ん切りつけます」
それで、このバーベキューは断ろう。適当にそれっぽい理由をつけて、スッキリした気持ちで大都会へと旅立ちたい。
「……んー、じゃあ僕は学園祭で披露するための新曲を東京行くまでに書き上げる」
すごく騒がしいはずなのに、旅行券に決意表明をした瞬間、まるで世界で二人きりになったような、何も難しいことを考えなくてもいいような、そんな気分になった。
「よし、気合い入れてなんか食べようか」
立ち上がった惟人さんにつられて私も立ち上がり、この世界に引き戻される。
「焼きそば食べたいです」
「よし、探そう」
下駄をカラコロと鳴らしながら、惟人さんの横を歩く。
焼きそば、唐揚げ、ベビーカステラ。他にもたくさん。
両手にいっぱい屋台飯を持って、さっきの椅子に戻る。
「さすがに座ってるよなー」
「ですよね」
幸せそうに顔を合わせるカップルが既に腰掛けていた。
いいな、羨ましい。
まだ自分にそんな感情があるなんて、なんて未練たらしい女なんだろう。
「あ!あっち空いたよ!」
え、と思う暇もなく私の手を取ると、小走りで席へと向かう。
座った席はちょうど花火がよく見える場所で、このまま花火まで見ていこうということになった。
袋から買ったものを取り出して机に広げると、思わず唾を飲んでしまうほど美味しそうだ。
「いただきます」
手を合わせて割り箸を割る。
パシ、と乾いた音が鳴って、片方の持ち手が鋭いお箸が完成した。
はふはふしながら、まだ熱々のたこ焼きを口に入れる。外はカリッ、中はとろーりで、某チェーン店みたいな美味しさだった。
「紗綾ちゃん、ついてる」
自分の右頬を指さしながら、私になにかがついていることを教えてくれる。
左頬を軽く人差し指で拭うと、たこ焼きソースがくっついてきた。
「ありがとうございます」
そう、彼に伝えるのとほぼ同時に、お腹に響くほど大きな音を立てて花火が上がった。
ヒューン、ドンッ!ヒューン、ドンッ!
色とりどりの鮮やかな花が夜空を輝かせる。
ピンク、青、緑、黄色。
真っ暗だった夜空も、まるでお花畑みたいだ。
「万華鏡みたい……」
シュワシュワしたり、色んな色がぎゅっと詰まった琥珀糖の瓶みたいに幻想的でレトロな雰囲気だったり。
色も形も様々な花火はすっかりひと夏の思い出として私の胸に焼き付いた。
でも私が一番好きなのは、たまに打ち上がる冠菊。ラストを飾る、冠菊。
色は他に比べたらそこまで華やかとは言い難いのかもしれないけど、一番大きくて趣があるものだと思っている。
「久々に見たかも。こんなに綺麗な花火」
「私も、今までで一番今日の花火が輝いて見えます」
食べるのも忘れて、話すのも忘れて。
ただ静かに耳をすませて、空を見上げる。
息を飲むほどに華やかで、声も届かないくらいの破裂音。次が上がる前、花火の形で残った煙さえもすごいと感動できる。
つい手を叩いてしまう瞬間が何度も訪れて、その度に顔を見合せて肩を竦めて微笑んだ。
惟人さんと過ごすこの時間がなんだかすごく心が安らいで、息がしやすかった。だけど同時に、ドキドキと脈打つ心で少し息苦しかった。
今日十八時、公園に集合。話したいことある。
頭の中で何度も練習して、メッセージアプリの奏真のプロフィール画面をじっと見つめる。
あとはこの、通話開始ボタンを押すだけ。
電話をする回数が少ないとはいえ、今まで気軽に押せていたこのマークがこんなにも押しづらくなってしまうなんて。
あと一センチ。五ミリ、三ミリ、一ミリ……。
ピーンポーン……。
「うわっ」
驚いて肩を震わせると、スマホは軽く宙を舞い、ゴトン、とお世辞にも軽いとはいえない音を立てながら、呼出音を鳴らしていた。
ピーンポーン……。プルルルル、プルルルル……。
プツッと通話を切って、テレビモニターホンで応答ボタンを押した。
「はい」
「ナイル配送です」
ナイルなんて頼んだっけ?そんな覚えないけど。
「今行きます」
でも仮に予約してあったものだとしたら結局受け取らないといけないから、少し頭を悩ませながらも玄関まで向かう。
扉を開けると、ムワッと暑い空気が部屋の中に入り込んでくる。
「如月真由子様のお荷物ですねー」
如月真由子。久しぶりに聞いた母の名前。
「あ、はい。ありがとうございます」
「失礼しまーす」
それだけ言って配送員は忙しそうにバタバタと去っていった。
受け取った地味に大きな箱を抱えて部屋の鍵を締める。箱が冷えていないから、日用品かなにかだろう。
トントン、と開かずの間と化した母親の部屋を開ける。生活感も何もない、少し埃っぽい空間。
掃除はしない。こういう、今のような、荷物を置きに来るときしか入ってはいけないルールなのだ。
『荷物届いた』
ものすごく大嫌いな同僚と連絡をし合うときでも、もう少し丁寧にメッセージを送るだろう。
『じゃあ、いつもみたいに置いておいて。来週帰るから、そのときに紗綾の進路の話もしよう』
すぐに既読がついて、返信が来る。
『うん』
急いで私も返信をして、惟人さんに電話をかける。
ワンコール分の呼出音を聞き流すと、「はい」といつもより少し低い電話の声。少し耳がくすぐったかった。
「あの、あのあの!」
「どうしたの?いいことあった?」
電波越しにこぼれる優しい笑い声。
「はい!来週お母さんが帰ってくるんです。進路のこと話そうってメールが来て、それでっ!私、ちゃんと将来やりたい仕事決められたから嬉しくて!つい、惟人さんに電話しちゃいました」
息をすることさえ忘れて、子供のように彼に伝える。彼にとっては心底どうでもいいことだろうけど、聞いて欲しかった。
「そうなんだ。よかったね。それで、紗綾ちゃんのやりたい仕事って?」
「少女マンガ雑誌の編集部で働きたいです。仕事内容とか、条件の学歴も全部調べて、気合十分です」
誰にも見られていないからと調子に乗ってガッツポーズまで決めてしまうほど、今の私は幸せの最高潮に立っていた。
「どこ?行きたい出版社って」
「日向堂出版です。ティアラ編集部なんですけど、高望みすぎますかね?」
そりゃあ、マンガ家になりたい!っていう人よりは多少志望者が少ない方に傾いてはいると思うけど、それでも目指す山の頂上は、富士山をゆうに超えて、アルプス山脈に到達するくらい難しいことだと思っている。
「いいじゃん。高望みくらいがちょうどいいとおもうよ。あ、そうだ。じゃあ東京に行ったとき、外観だけでも見に行ってモチベあげようか」
「いいんですか?行きたいです!」
「よし、決まり。じゃああともう三日だし、ちゃんと準備するんだよ」
あと三日。やけにリアルな数字が目の前に突きつけられる。
帰ってきたらすぐに新学期が始まるけど、夏休み課題はもうすっかり終わらせてある。ただ、東京を思う存分楽しむための大きなミッションがまだ終わらせられていない。
「はい。頑張ります」
「頑張って」
じゃあまた、とお互い笑って、電話を切る。
「よし、頑張ろ」
気合を入れてメイクをして、自分の一番お気に入りの服に着替える。
新色の赤みがあるけど淡いピンク色に、控えめで上品なラメが入っているアイシャドウは、これから告白しに行く私にピッタリだったかも。そしたらアイホールはこれ一つでいいから時短にもなるし、何よりも楽ちん。
全身に日焼け止めを塗って、三十分。
好きです。付き合ってください。
こんな王道のドキドキしかない告白は、私にはできないから。
好きだから、奏真の気持ちもわかってるから、これからも今まで通り幼馴染として仲良くしたいってことを伝えたい。
エントランスを出ると青い空から降ってくる暑い日差し。
シュワシュワの氷がたっぷり入ったクリームソーダみたいな空なのに、気温は自分の体温をはるかに超えている。
緊張で手ぶらで出てきてしまって、握る手には家の鍵だけ。日傘すら持ってくることを忘れてしまった。
……あ、メイクキープミストかけてくるの忘れた。
せめて帰るまでは崩れないでいてほしいけど、もう既に額に、首筋に、しっかり汗が滲んで来ているから諦めた方が良さそうだ。
いつもよりゆっくり歩いて、見慣れた一軒家の前に立つ。黒いインターホンを押すだけの、特別でもなんでもない行動を起こすのに五分くらいかかってしまった。
ピーンポーン、ピーンポーン。
あれ、いないのかな?
いつもはすぐに「今行くね」と奏真ママが開けてくれるのに、今日は物音すら聞こえてこない。
……よかった。
心の底でほっとしている自分がいることに、少し嫌気がさす。
このまま目標を達成したことにして行ってしまえばいいか、とか、今当たって砕けなくても別にいつか自然消滅してくれるよね、とか。
この期に及んで甘えた考えばかりが頭の中を行き来する。
「紗綾?どうかした?」
帰ろうと向けた背中から、奏真の声が聞こえた。神様は私に微笑んだのか、意地悪なのか、もうよく分からない。
「公園に行きたい」
久しぶりに会った彼は、部活のせいか少し焼けていた。冬になると夏の気配を綺麗に消し去って雪のように真っ白になるのに、ここまできちんと焼けるそのギャップに毎年必ずときめいてしまう。
「久しぶりだね」
沈黙に耐えられなくて、適当に話題をふった。
こんなこと初めてだった。奏真と歩くとき、何か話さないとと内心焦ってしまうなんて。沈黙がこんなに気まずいなんて。
「うん。夏休み中にこんなに会わないの、初めてだね」
部活が忙しいせいかなー、と体操着の入ったカバンを持ったまま私の右隣を歩く。小学生の頃にはもう、すっかり身についていたこの並び。
こんな些細な胸きゅんポイントも、彼にとっては男女の差別を感じるモヤモヤポイントだったのかな。
「で、どうしたの?」
それでも近場の公園にはすぐにたどり着いて、ブランコに横並びに座って話をする空間は完成してしまった。
なんでこういう日に限って公園で遊んでいる子がいないんだろう。
この暑さだから?外に出るための紫外線予防のひと手間がめんどくさいから?熱中症になる確率が年々上がってきているから?
ミンミンとうるさいくらい鳴くセミも、空気を読んだのかピタッと鳴き止んで静かになってしまった。
「大事な話」
「うん」
お気に入りのスカートをぎゅっとシワがよるほど握って、軽く震える手は力がこもりすぎているからだと自己暗示をかける。
そう。決して告白することに対する緊張とか不安とかじゃない。ただ、弓道部に必要な握力をスカートを握ることで鍛えているだけ。
「私、私ね」
ドキドキしすぎて吐きそうだ。
二日酔いは未成年だから暗示するも何も、感覚すら分からないし、貝にあたったことにしようにも貝類は嫌いだから購入すらしない。
……無理だ。
自己暗示は失敗に終わった。
「私ね、ずっと奏真のことが好きなの。何年も前から、彼女として隣を歩きたかった」
半分諦めで、普段何気ない話をするときみたいに話したら、その方がなんだか落ち着いて話せた。
「……えっと……」
だいぶ困った顔をしながら、申し訳なさそうに頭の中で言葉を選んでいる。
違う、そうじゃない。そんな顔をしてほしいわけじゃない。
そんな顔するなっていうほうが無理なことかもしれないけど、この場で苦しい顔をするのは私だけでいい。
「奏真、お願い。私の事、思いっきり振って。嫌いになれるくらい、思いっきり。そしたら、きっと前を向けるから」
きっと嫌いには、なりたくてもなれないから。
とは、言えなかった。だって、絶対嫌いにならない保証はないから。
「……紗綾、ごめん。ごめんな……」
彼の瞳には涙が浮かんでいた。
透明で、綺麗な涙が。
「大事な恋人がいるんだ。だからオレは、紗綾とは付き合えない。……幼馴染以上に見ることができない。ごめん」
次々と流れ落ちる涙は、ポトポトと地面に落ちて、土の色を変えた。
「ありがとう。困らせてごめんね」
これがなにかに負けたことに対する悔し涙なら、隣に座ってハンカチを差し出すことは容易いこと。
でもそれが出来ないのは、振られた身だから。今、彼の隣に居る権利はないから。
「また、新学期、教室で」
それだけ言い残して、彼の顔をこれ以上見ずに一人で公園を出た。
既に空いた心の穴は、これ以上広がることはなくて、不思議と涙も流れなかった。
そっと振り返ると、断る側の奏真はブランコに座ってまだ泣いているのに。
今日、私は奏真への恋心を砕いて捨てて、失った。完全に『失恋』をした。
お風呂に入ってベッドに寝転がったときに何気なく静かに流れた涙が、この恋の終わりを示しているような気がした。
世界がキラキラと輝いていた。
ビルの窓から反射する太陽の光が、まるで日中の星空のよう。
電車の何倍ものスピードで走る新幹線で、大都会である東京に降り立った感動が現在進行形で私を包んでいた。
今風ではなくレトロな外観の駅。
地元に比べると何倍にもなる道路。
いまさっき出ていったかと思ったら、すぐに次がやってくる電車。
迷路のように広すぎる駅の中。
テレビに出ていた有名なスイーツ。
その全てが初めてで、興奮しっぱなしのまま惟人さんの少し後ろを歩く。
隣じゃなくて少しだけ後ろなのは、人の波で少しづつ私たちの距離を広げていくから。
「紗綾ちゃん、遠っ」
そう、こちらへ歩いてきて、慣れた手つきで私の手を取る。
「はぐれちゃうといけないから」
「ありがとうございます」
果たしてこの答えがあっていたのかは分からないけど、恥ずかしいような、少女マンガの展開みたいで少しときめいてしまうような、複雑な感情が私の心を動かす。
「ここから近いみたいだよ」
いつもより少し大きな声量で、さっきよりも近い距離で言われる。
正直、それでもまだ少し、色んな音が混ざりあって彼の声は聞き取りづらかった。
「なにがですかー?」
こちらも、少し声を張って会話を繋げる。
「日向堂出版!」
なんだか夏祭りを思い出す。
なんだかもう懐かしくて、思わず笑みがこぼれた。
東京人は足が早くて、隣の人は入れ代わり立ち代わり、どんどん前へと進んでいく。
やっと出られた外は、背の高い建物では溢れていた。
「ここからまっすぐ歩いて、五分くらいだって」
スマホのマップを見せてくれて、その通りに道を歩く。初めて歩く道でスマホとにらめっこしながらだからか、いつもより会話の量は少ない。
横断歩道を渡った先に、六階建てくらいの黒くてシックなオフィスがあった。
出入口に『日向堂出版』と温かみのある文字で書かれていて、ガラス張りの自動ドアから見える内装は、待ち時間に雑誌や漫画、小説が読めるようになっているのか、受付横には本棚が置かれていた。
「よし、行こう」
「はい。モチベ上がりました」
本当はもう少しだけいて、数年先の未来の自分を想像したりしたかったけど、一人で来ているわけじゃないから仕方ない。
繋がれたままの手は、私の返答を聞いて優しく引っ張られた。
「え、どこ行くんですか?」
惟人さんは、自動ドアの真ん前に立って、開いた扉から中に入った。
手を繋いでいる私も、もちろん建物の中に入る。
「いいんですか?入って」
「うん。予約したからね」
そう、楽しそうに口にする。
「すみません、カフェを予約した若草です」
受付に声をかけると、お姉さんが笑顔で「かしこまりました。それではご案内いたします」と受付ブースから出てきてくれた。
本当はキョロキョロと色んなところを見たいけど、無礼な人とか、変な人とか思われたくなくて、必死で抑え込む。
受付の人に受け入れてもらえた安心感からか、ロビーに柑橘系のアロマのいい香りが漂っていることに気づいた。
「中へお進み下さい」
一階のフロアの一角へ案内されて、開きっぱなしの扉の奥へと進む。
お姉さんは「いらっしゃいませ」ともう一度私たちに声をかけて、さっきの場所へと戻って行った。
「お名前お伺いしてもよろしいですか?」
レトロな雰囲気のワンピースを身にまとったお姉さんが、メニューを片手に惟人さんに声をかけた。
「若草です」
「若草様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
中を進むと、一般のお客さんだったり、首から従業員証を掛けた会社側の人がケーキを食べながら仕事をしていたりと、大企業だからなのか、なかなか自由な社風を感じる。
「お決まりになりましたら、またお声がけください」
ベルで呼ぶ形式じゃないのが、もう都会って感じだ。雰囲気を崩さないためなのか、仕事をしている人がいるからなのか、はたまたほかになにか理由があるからなのか。
「こんなところがあったんですね」
「公式サイト見てたら見つけちゃったんだよね」
得意げな顔をして、どこか嬉しそうに笑っている。
「私も公式サイト見たりしたんですけど、どんな部があるのかとか、採用情報しか見てなかったです」
お堅い文章は苦手だから、必要なところだけしか読んでいなかった。
「いいじゃん、しっかりしてるね」
「ありがとうございます」
惟人さんは人のいいところを見つけるのが本当に得意なんだろうな、と所々で感じ取れる。
「わ、みてみて。この前紗綾ちゃんが話してた『初恋イレイサー』の片想いパフェとかあるよ」
「え、すごい!」
どうやらここはただのカフェではないらしい。
少女マンガも少年マンガに出てくるものとか、それをコンセプトにしたものだけでなく、小説に出てくる食べ物もメニューに載っていた。
少女マンガ『ティアラ』『ラズベリー』その他もろもろ、少年マンガ……とパッと見てわかりやすいように、それぞれ見開き一ページくらいで収められていた。
なにここ。……最高すぎない?居座りたい。普通にここで暮らしていける。
「やば、かわいい」
「え、どれがですか?」
惟人さんが呟く声に、思わず食いついてしまう。語りたい欲がひょっこり顔を出してきた。
「あ、えーっと……。これ」
指さしたのは、『はちみつとドライフルーツ』をモチーフにした、ヨーグルト風味のアイスにはちみつ漬けのドライフルーツがたっぷり乗せてあるもの。
アイスに刺さっている、ヒロイン蜜香のお気に入りのキャラクターである『はにーびー』のプリントクッキーが愛らしい。
どれにしようかなと結構長い時間悩んで、やっと店員さんを呼び止めた。
注文したのは、付属のシロップを入れると色が変わる、『初恋イレイサー』の恋色塗り替えドリンク。『雨の日は、君とふたり』のお話の中にでてきた思い出スモーブロー。私が早柚のを、惟人さんが優真のを。
あとは惟人さんが、『はちみつとドライフルーツ』のヨーグルトアイスを注文して、店員さんはこの場を離れていった。
「ここで働けたら毎日幸せだね」
「はい。最高です」
店内はステンドグラスから差し込む光が素敵で、その上メニューもこんなに素敵なものばかりなんて福利厚生が素晴らしすぎる。
「このあとどこ行こうか」
一足先に来たドリンクの色を紫から鮮やかなピンク色に塗り替えて、早速次の予定を立てる。
といっても、もうお昼はすぎているから、今日行けるところは限られてくるわけだけど。
『東京 観光地』で検索をかけて、画像とともにズラっと並ぶ候補をスクロールしていく。
スカイツリーに東京タワー、動物園、美術館。その中でも一番興味が湧いたのは、薄暗くて水色の写真。
「水族館、行きたいです!」
ペンギンが泳いでいる写真が魅力的で、意外と近いこの場所。ここなら少しでも長く海の生き物を眺めていられる。
「いいね。じゃあ水族館にしよう」
机の上に並んだ料理を写真に収めて見た目も味もじっくり味わって胃に送り込み、水族館へ向かう。
思った以上に人が多かった。ダダ混みだ。
さっきの場所が空いていたからか、余計に人がたくさんいるように見えてしまう。
それでもここまで来たのだからとペンギンの写真が載ったチケットを購入し、ひんやりとした館内に入る。
クラゲ、クリオネ、イルカ。意外と多かったペンギン。
少し薄暗い空間で、のんびり泳ぐ生き物たちを見て癒される。
これが多分、本来水族館に来たときの目的だろう。
でも現実はそんなに理想的なものじゃない。
「すごい人ですね」
「そういえば僕たち夏休みだったね」
目の前にも後ろにも、水槽の前にも人、人、人。小さい水槽は、どう頑張っても水槽すら目に入らないことも多々あった。
いつもの私なら、こんなのいても意味ないし帰りたいって思っていたんだろうけど、今日は違った。上に貼ってある、この水槽にはこの子がいます、という写真をみて、惟人さんと泳ぎ方とか生き方を想像して笑うのが楽しかった。
こんなに笑いが絶えない水族館は生まれて初めてだ。
閉館時間が近づくと、名残惜しさを感じさせるオルゴールが館内全体に流れはじめた。
「そろそろホテルに向かおうか」
「そうですね」
今日泊まるホテルで夜ご飯のビュッフェを食べて、ちょっとだけ夜更かしをして計画を立てたあと、明日に備えて眠る予定。
出版社へ来たときに降りた駅で来た道へ戻る電車に乗り、ガタゴトと縦に横に、お世辞でも空いているとは言えない電車に揺られる。
「先ほど荷物を預けに来た、予約している若草です」
ホテルについて、慣れた手つきでチェックインを済ませて、受け取ったカードキーを少し自慢げに見せてくる。
「惟人さんってたまに可愛さ出してきますよね」
「え、僕ってかわいい系だったの?」
フロントの前にあるアメニティを必要なものだけもらって、エレベーターで十二階まで上がる。どんどん上に上がる感覚がこんなにも長く続いたのは初めてだった。
「可愛いというよりはかっこいい寄りだと思うんですけど、ほら、さっきみたいなのとかは可愛いに分類されるんじゃないですか?」
惟人さんの魅力をエレベーター内で熱弁する日が来るとは、予想外だ。
「そういうギャップがあるところ、私結構好きですよ」
「えっ」
「え?」
少し頬を赤く染める惟人さん。
なんで?と自分の発言を思い返したら、軽々しく「好き」だなんて発していた。
「いやあの、その、友達として!そうです、友達として好きってことです」
私も、なんでこんなに必死に弁解しているんだろう。
別に普通に、奏真と話しているときみたいにその場の流れで人として好きということにしてしまえば良かったのに、奏真のときみたいにわざわざ触れないままでいればよかったのに、なんで?
答えの出ない疑問を心にぶつけるも、「よく分かりません」という回答しか返ってこなかった。
「うわぁ、広い!夜景も綺麗ですね」
窓から見える東京の夜景は、まるで星空の中にいるような感覚に陥る。
下から見上げるのではなく、自分も星屑の一員になって夜空の彩りに加担しているかのような。
「すごいね。地元とは全然景色が違う」
ここまでたどり着くのになんだかんだ、夏なのにもうすっかり暗い時間になってしまった。
「ご飯食べに行こうか」
窓から離れ、カードキーを片手に食事会場へ向かう。
丸いガラス玉に入った電球がとても可愛らしい、落ち着いた雰囲気の席に案内されて、一瞬座ってから料理を取りに行く。
「えぇ、すごい」
思わず口からこぼれるほど、料理の種類が豊富で、美味しそうだった。
ミニトマトのコロッケに、写真でしか見たことがないようなオシャレなサラダ。ローストビーフ、お寿司、ご飯の種類もたくさん。
オレンジ色に光る温蔵庫の中には、ホテル自家製のパンが五種類ほど並んでいた。
「紗綾ちゃん、こっちこっち」
手招きされた方へ行くと、小さいカマンベールチーズが丸ごとひとつ入った、トマトクリームソースのオムライス。包丁を入れると、桃太郎が生まれるときみたいに広がるやつ。
隣にはビーフカレー。お野菜もお肉もゴロゴロ入っているのが食欲をそそる。説明欄に、玉ねぎとトマトの水分で作った無水カレーになります。と書いてあって、初めて聞く単語に少しワクワクした。
別にこういう日くらい、太るとかそういう感情を忘れて楽しもう。
自分磨きが趣味だけど、食べるのも大好きだから、今日は食べる方に天秤を傾けることにした。
机に戻ったときにはもう、全て食べ終わってからでないと飲み物さえ追加で取りに行けないような机が完成した。
オムライスの誘惑に勝てるはずもなく、それでワンプレート。小さめの小鉢に三十穀米とビーフカレー。もちろんサラダも持ってきて、ローストビーフとお刺身も同じお皿に乗せてきた。
最後に持ってきたのは、トマトのクリームグラタン。マカロニの代わりにたくさんのキノコが入っているらしく、炭水化物じゃないならと欲望に負けて連れて帰ってきた。
「紗綾ちゃんってトマト好きなの?」
いただきますをして食べ始めると、惟人さんが私の取ってきた子たちを見て聞いた。
「はい。リコピン取れるし、温めたトマトは美白と美肌効果があるって聞いたことあって。あと単純に美味しいから大好きです」
誰もそこまで聞いていないだろうに、ペラペラと余計なことまで話してしまう。
「え、そうなんだ。リコピンまでしか知らなかった」
すごいすごいと何度も頷いて、最終的にトマトに向かって拍手まで送っていた。
「惟人さんはナスが好きなんですか?」
ナスとトマトのパスタ、ナスの煮びたし、ナスとハンバーグのはさみ焼き。
私のトマトに負けずとも劣らないナスの量。
「うん。ナスの栄養素、ナスニンって言うんだよ。可愛くない?だから好き」
「あ、あと単語に美味しいから、ね」
急いで付け足す姿に少し笑ってしまう。
「惟人さんってやっぱり可愛いとこありますね」
ナスニンが可愛いから好きって、なんだかキュンとしてしまう。
……え、『キュン』?
自分の中の惟人さんへの感情が、最近は少しおかしい。キュンとか、かっこよくて可愛いとか、ついポロッと出てしまう『好き』の言葉とか。
「ごちそうさまでした」
綺麗に平らげて会場を出るとき、ホテルマンの人に一言伝える姿を見て、彼がやけに輝いて見えた。加工アプリのキラキラフィルターをかけたような感じ。
「ここのシャンプーいい匂いだね」
私のあとにお風呂に入り、お揃いの左胸にホテル名が入ったパジャマを身にまとってまだ濡れている髪で出てきた姿。
「明日はどうしようね」
隣で一冊のガイドブックを見ながら明日行く場所を決める、骨ばった手。
「おやすみ」
隣のベッドで寝転がって、こちらに向けられる少しとろんとした眠たそうな目。
「おはよう……」
私より少しあとに起きた彼のぴょこんと揺れる寝癖。
「見てみて、超可愛い!」
最終日の目的地である動物園で、パンダを見てはしゃぐ姿。
パンダももちろん可愛いけど、惟人さんもいい勝負ですよ、とは思ったけど言えなかった。
最後に昨日今日と溜まったお土産をキャリーケースでゴロゴロと運びながらスカイツリーに上り、新幹線に乗った。
「起こすから、寝てていいよ」
窓から差し込むオレンジ色の夕日が眩しくて、カーテンを下ろした。
でも、夕日が照らす惟人さんがやけにかっこよく見えて、なんだか勿体ないような気になった。
「ありがとうございます」
別に疲れてはいないけど、ここで断るのは可愛くないかな、なんて。
ゆっくりとまぶたを下ろして、この東京旅行を一人静かに振り返る。
最大の発見は、私は奏真への恋心を失い、多分、もしかしたら、芽生え始めているこの感情に気づいたこと。
ドキドキと、胸が高鳴る人が変わっているかもしれないこと。
惟人さんは好きな人、いるのかな?
そう思うと、隣に本人がいるのに眠れるわけがなかった。
顔を上げた先には絶対奏真がいて、その隣には彼氏なのか彼女なのか、立ち位置はよく分からないけど彼の恋人の陽高くん。
現実から逃げるように目を閉じると、お兄さん、惟人さんの歌は、あれから何日も過ぎた今でも相変わらず頭の中でリピートされる。
あの日、ご飯を食べてまっすぐ家に帰った私たちは、そのあと「ありがとう」を伝えることなく別れてしまった。
名前を教えあったなら、連絡先くらい聞いておけばよかったなんて少しだけ後悔した。
それ以来、惟人さんとは会っていない。
もう七月がやってきて、あと少しで夏休み。
きっとこのままあっという間に時間が過ぎて、高校二年生なんてすぐに終わってしまう。
もう一度あの声が聴きたい。あの歌が聴きたい。
惟人さんは一瞬でお気に入りの歌手ナンバーワンに登りつめていた。
「紗綾、帰るぞ」
荷物を持って、久しぶりに声をかけられる。
「ごめん、陽高くんと先帰って。用事あるから」
嘘をついた。
罪悪感と寂しさと、二人に気を遣った自分。どれも自分のことしか考えていないような気がして胸が痛い。
「サンキュ」
嬉しそうに笑うと、「陽高、帰ろーぜ」と幸せそうな笑顔で声をかけていた。
彼らが門を出るのを窓から確認して、私も校舎を出る。
白シャツにピンクのリボン。変わり映えのしない夏服は、汗ですぐ肌にくっついた。
吹く風は生ぬるくて、空から降る光は日に日に温度を上げていく。この条件でこの道を歩くのは苦痛だ。
一歩一歩に重みを感じながらも確実に前に進み、奏真の家を通り越した。
気持ちも簡単に前に進んで、奏真のことを乗り越えられたらいいのに。
「あれ、紗綾ちゃんだ」
「惟人さん!今帰りですか?」
帰り道、駅に続く十字路がある道でばったり会った。久しぶりに見た惟人さんは、特に変わっていなかった。
「今から夜ご飯食べに行くとこ」
そう話す惟人さんはご機嫌だ。
「何かいいことあったんですか?」
「うん。あ、紗綾ちゃんも一緒に来る?」
「行きたいです!」
気づいたらそう答えていて、まっすぐ行くはずの十字路を左に曲がって駅の方へと歩いていた。
「誘っといてあれだけど、お母さんとかご飯作って待ってるよね?大丈夫?」
少し歩くと、心配そうに足を止めた。
どうしよう。なんて言おう。出会いたての人に話すのは重すぎる。私の家庭事情の話。
「全然大丈夫です。話すと重くなっちゃうんですけど……」
何言ってるんだ、私。
言わないと決めてそうそう、ボロが出てしまった。こんなの、遠回しに聞いてほしいと言っているようなものだ。
「……そっか。ご病気?」
少し考える素振りをしたあと、遠慮気味に問いかける。
どうやら亡くなっていると思っているらしい。
「いえ、生きてます。多分普通に元気です」
じゃあなんだろう、と首を傾げている。
また失敗した。いっその事死んだことにしておけば……。いや、重いことには変わりないか。
「あの、なんでそんなに知ろうとしてくれるんですか?」
重い話なんて誰もが嫌がるはずで、奏真にも百笑にも、先生にも話していないのに。
知りたいのは私に興味があるわけじゃなくて、勿体ぶるから好奇心が湧いてくるという可能性もあるのかな。
「紗綾ちゃん、寂しそうで、なんだか聞いてほしそうだったから、かな。言いにくいなら、無理に聞かないから安心して」
惟人さんはそう、私の頭をポンポンと撫でると、ガラガラと引き戸を開けてレトロな家に入った。
「ここ、惟人さんのお家ですか?」
「ご飯食べに来たんだよ。ほら、入って入って」
手招きをされて、ドキドキしながら戸をくぐる。
落ち着いた雰囲気の店内は、昔ながらの食堂のよう。
「お、惟人くん!いらっしゃい!今日は彼女も一緒か!いいねぇ」
威勢のいいおじさんが親しげに惟人さんに話しかけていた。
「彼女じゃなくて、友達です。おじさん、紗綾ちゃんびっくりしてるから」
「ごめんごめん。じゃあ二人ね。空いてる席座りな」
惟人さんのあとに続いて座った窓際の席は、綺麗な花が夕日に照らされていた。
「よく来るんですか?」
「うん。お隣さんが教えてくれて。初めて来たときは普通の一軒家だから変にドキドキしたけど、今はもうすっかり常連さん」
話を聞くと、知る人ぞ知る隠れ家食堂らしい。
看板もなければ店の名前もない。今まで普通に横並びになっている家のひとつとしてしか見てこなかった。
「惟人さんのおすすめはなんですか?」
今日は質問ばかりしてしまう日だ。まだ、相手のことを全然知らないからなおさら。
「アジフライ定食が美味いよ。昼だとおにぎりランチがあるんだけど、それも絶品。だから今度は昼、一緒に来よう」
メニューを見る限り、ここは和食専門らしい。
ご飯は白米、玄米、雑穀米の三種類、お味噌汁は白味噌、赤味噌の二種類から選べる定食がメイン。
定食メニューは生姜焼きに照り焼きチキン、サバの味噌煮にブリの煮付け。唐揚げ、焼肉、トンカツ、エビフライ……。
それに日替わりで副菜の小鉢がふたつと漬物がついてくる。
これは知らないのがもったいない。
とりあえず今日は、おすすめのアジフライ定食で玄米と白味噌のお味噌汁にした。
惟人さんはサバの味噌煮定食に、白ご飯と白味噌のお味噌汁。
注文を受けてもらうのと同時にいただいたお水の氷がカラン、と涼しげな音を響かせる。
「あの、聞いてください。私の家の話」
この人になら話してもいいかなって思った。変に気を遣わずに聞いてくれるような気がした。
「うん。聞かせて」
机の上に出ている手を膝上にしまって、パチッと目が合う。
人生で初めて家族の話をするというのに、不思議とあまり緊張しなかった。
「母子家庭なんです。うち。産まれた時から父親がいなくて、母とふたりでマンションに住んでたんです」
プツプツとコップが汗をかきはじめた。
それに意識を向けていないと、まともに話せる気がしなかった。
「うん」
「小学一年生までは、普通の母親だったんですけど、奏真……幼馴染のお母さんが常に家に居るようになってから変わっちゃって」
手のひらをぎゅっと握りしめた。食い込む爪が、自分を保たせてくれている。
そうじゃないと、辛くも悲しくもないのに泣いてしまいそうだった。
「彼氏の家に遊びに行って寝泊まりすることが増えて。今はもう、そのまま帰ってこなくなりました」
言った。言ったぞ。誰にも話していない、お母さんのことをとうとう口にした。
話したあとの方が、謎に緊張してドクドクと血液を過剰に送り出している音が聞こえた。
コップがかいた汗は、つーっと流れて机の上に丸い跡を残している。それを見て、私の鼻もツンと痛くなった。
「でも今は、家事は完璧にこなせるし、嫌なことがあっても踏み込まれずに必死にやることが常にあるのでありがたいんです。花嫁修業も完璧だし、いいことづくめだなーって」
必死で誤魔化して、辛くないことをアピールするけど、きっとこれがあるから更に辛そうに見えるんだろう。
聞いていた惟人さんも、なんだか泣きそうな顔をしていた。
「さば味噌定食とアジフライ定食ね。お姉ちゃん、辛いときは耐えないでこいつに吐き出していいんだよ。手もそんな強く握りしめてたら綺麗な手に跡がついちゃうだろ?」
黒いお盆に乗った定食と共に言葉をおいて、バシバシと惟人さんの肩を叩くと厨房へと戻って行った。
「なんかすみません」
「いいのいいの。あの人いつもだから」
楽しそうに笑う声。惟人さんのそんなに重く捉えていない感じが、私の不安をあっさりと取り除いた。
「まぁ人それぞれ何らかの事情を持って生きてると思うし、泣きたいときは僕のこと呼び出してくれてもいいからさ。紗綾ちゃんはよく頑張ってると思うよ」
そんなこと、初めて言われた。
勝手に、親がそんなだから……とか、かわいそうな子って何かにつけて親のせいにされるものだと思っていたけど、この人は違った。
「ていうか、呼び出してとか言っときながら連絡先知らないじゃんね。QRコードでいい?」
「はい。ありがとうございます」
お互いの定食の、お味噌汁の湯気が立ち込める中、チャットアプリのアカウントを使って連絡先を交換した。
「よし、じゃあ食べるか!」
パタン、とスマホを伏せて置き、手を合わせる惟人さんは見ていてすごく微笑ましかった。
上手に箸を使って骨を避けながらおかずを口にする姿に、焼き魚にしなくてよかったと心底思った。
箸で掴んでかぶりつくだけの私は、一口目はお好みでかけるようにつけてくれたとんかつソースをかけずにそのまま。
サクサクッと衣の音が耳に届くと、ふわふわの身と旨みが口いっぱいに広がった。
「ん、おいひい」
心の中に抑えておくことが難しいほどの美味しさに、一個なんてあっという間にお皿から消えてしまう。
小鉢に入った胡麻豆腐とほうれん草のおひたしも食べたいけど、アジフライから動くことが難しい。
「紗綾ちゃんは将来の夢とかあるの?」
お茶碗をもったまま、ご飯を口に運ぶことなく言葉が飛んでくる。
昔はいっぱいあった将来の夢。
ケーキ屋さんとかお花屋さんとか、パン屋さんもあったかな。動画クリエイターという時代ではなかったから、現代っ子の返答は無理そう。
「まだ決まってないんです。何をしたいのか、どんな仕事をしてこの先の人生を歩んでいきたいのか、全然わかんなくて」
夏休みが終わると、もう何回目かも分からない進路希望調査が配られる。そろそろ地に足をつけて書かないといけない時期がやってきた。
「そっか。だいたいそういうもんだよ。僕もこれって決まったの、高校二年生の冬だったし」
なんだ、それまで悩んでいいんだ。
実体験の話を聞くと、期限が伸びたみたいで少しゆとりを感じる。
「何に決めたんですか?」
やっぱり歌手だろうか。
そうじゃなくても、音楽系の道に進みそう。
「高校の先生になりたいなーって」
予想の斜め上の回答に、少しフリーズしてしまった。
「そんな驚く?」
ふはっと空気を含んだ笑い声をこぼしながら、器用に胡麻豆腐をつまみ、口に運んだ。
「はい。だってあんなに歌が上手くて素敵な歌詞がかけるのに、音楽の道じゃなかったので」
惟人さんならそれで生きていけそうだけど、それほど人生は甘くないということだろう。
「あれは趣味だからね。趣味を仕事にできるっていいことだと思うけど、僕は趣味は息抜き程度にできるものにしてるから」
すごく大人な回答だと思った。
趣味は秀でていれば仕事になって、主にそれを目指している人ばかりだと、勝手に思っていた。
「音楽のこと、嫌いになりたくないから。これを仕事にして、辛くなってもうできないっていうのはどうしても避けたくて。ある意味弱虫なのかもしれない」
食べながら話すのが上手な人だな。
口の中に食べ物が入ったまま話しているわけでもないし、くちゃくちゃと嫌な音がするわけでもない。
それに比べて私は、「そうなんですか?」「へー、すごいですね」なんて相槌を打っているだけなのに、口に運ぶタイミングがイマイチ掴めない。
「だから今できることで極めたいことがあるならそれを将来の仕事にしようとするのもありだと思うよ」
それだけ言って、満足したようにずっと手をつけられていなかったお味噌汁を飲んだ。
もう、湯気は消えて無くなっていた。
「ちなみに、なんで惟人さんは先生になろうと思ったんですか?」
正直、学校の先生に魅力は感じない。口にはしないけど。
何十人もの生徒の顔と名前を覚え、授業をし、問題が起これば解決し、その場に応じて怒る。
もちろん行事はいくつになっても楽しいものかもしれないけど、一年の二、三回のために暑い日も寒い日も、大勢の前で教育活動をするなんて私には理解できない。
「高校二年生のときの担任がすごくいい人でさ。二者面談のときにどんなに希望が薄くても悲観的な言葉は一切口に出さないの。お前ならできる、やれるの一点張り」
そういう先生はあまりいないかもしれない。
適当に少し上の大学名を書いたら、『もう少し低いところがいいんじゃないか?』と遠回しにお前には無理だ、と言うのがうちの担任だ。
「それで、できるって信じて勉強したら定期テストでまさかの上位二十番以内に入れちゃって。それで、僕も人の背中を押せる教師になりたいって思ったんだよね」
やはり人に夢を与えられる人はいい人に限るらしい。嫌な人は、夢を与える前にわずかな希望も打ち砕く。
「でも確かに、先生みたいです。惟人さん」
進路の話を親身に聞いてくれるところとか、自分語りのやり方とか、生徒からの信頼を得ている先生と同じような感じだ。説得力がある。
「……そ?なら嬉しい」
肩を竦めて笑う姿が、どこか可愛らしかった。
「今日ご飯食べに行かない?」
終業式が終わり、部活もないからまっすぐ帰ろうとしたら昇降口で彼女とばったり会った。
「いいよ」
家の都合とか、そういうのに振り回されることのない私は即答だった。
「あ、奏真くんじゃん!奏真くんも一緒にご飯行こうよ」
靴を履き替えようとしたとき、ちょうど階段を一人で降りてくる奏真。最近話していないから一方的に少し気まずいのに、そんなことを知りもしない彼女は元気に声をかけた。
「いいよ」
私と全く同じ回答だったからか、なんだかニヤニヤと口角を上げている。
……これは、もしかして、もしかしなくても。
「どこか美味しいお店ないかなー」
人一倍テンションが高く、行かないなんて言えない状態になってしまった。
「ファミレスでいいよ」
頭に浮かんだ惟人さんと入った食堂を思い出したけど、言わないでおいた。
「そうだね!」
そんなこんなで通り道にあるファミレスに三人で入店した。
隣は百笑。目の前は奏真。
……なんでこうなったんだろう。
「何食べようかなー」
午前中は授業で、午後は終業式で捕まった。
時間的にはまだおやつの時間なのに、見ているページはご飯ものばかりが載っているところばかり。
「私トマトチーズリゾットにする」
そんなに食欲はないし、この状況で食欲が湧くような気もしない。
「じゃあ私ハンバーグプレートにしよー」
育ち盛りとはいえ、この時間帯に制服でご飯を頼むのは少し恥ずかしい。
「オレは……」
奏真がメニューとにらめっこをしているのを見ないようにスマホに目を落とすと、惟人さんからのメッセージが届いていた。
『今からパフェでも食べに行かない?』
三分前。たまにやりとりをするチャットに、お誘いの新規メッセージ。
ナイスタイミング。
「ごめん、私帰るね」
「え、なんで?」
カバンを持って立ち上がると、びっくりした目でこちらを見てくる。さて、なんて言おうかな。
「たまにしか会えない友達と会ってくる」
惟人さんと会う、なんて言っても、誰?から始まるゴールが遠い質問攻めが始まるのは目に見えているから、ここは内密に。
少し残念そうにしていたけどちゃんと解放してくれて、出してくれた水すら口をつけずにファミレスを出る。
『行きます!どこまで行けばいいですか?』
紙飛行機のマークで二件に分けたメッセージを送ると、すぐに既読がついた。
『じゃあいつもの駅集合で』
『はい!』
早歩きで駅まで歩くと、椅子に座って改札口の方を見る惟人さん。タイル状の窓から差し込むキラキラと輝く日差しが彼を輝かせていた。
「お待たせしました」
「全然待ってないよ」
椅子から立ち上がる彼。私より少し背が高いことに、今気づいた。
「惟人さんって身長いくつくらいですか?」
とくに具体的な数字が知りたいわけでもないくせに、改札の向こう側とこちら側、わかれたときに声をかけた。
「え、理想言わないと通らない感じ?」
楽しそうに笑う。
「いえ、なんか、聞いてました」
つられて私も笑う。
「百七十五かな、確か。ここ一年くらい測ってないけど、多分そう」
後を追って改札を通ると、少し考える素振りをして、教えてくれた。
「紗綾ちゃんは?」
「百六十です。この前の体力テストのとき測ったばっかりなので間違いないです」
胸を張って自信満々で答えると、ふはっ、と笑う声。惟人さんだなー、なんて、少し嬉しくなった。
「へぇー。運動とか得意なの?」
「いえ、全然。去年の順位は下から二番目でした」
これはある意味自慢。下から数えた方が早い順位なんて、そうそう取れるものじゃない。
いや、自慢にしてる。笑い話にしたら、この順位も悪くないかなって思えるから。
「意外だな。紗綾ちゃん、スタイルいいから運動得意だと思ってた」
「自分磨きと体育は全くの別物なので」
真面目な顔で答えると、また楽しそうに笑う。
笑ってもらえるとやっぱり嬉しかった。
二駅先で降りて、見覚えのある道を歩く。
「なんかいつも制服で会ってる気がする」
ふと、何かを思い出したかのように彼は言った。
「惟人さんの作った歌を聴いたときは私服でしたよ。でも確かに、会うときはだいたい制服かも」
見下ろすと運動靴と、生脚。あとは紺色のスカート。
それに比べ惟人さんは、白シャツに青い半袖の上着。黒いズボン。見た目からもう、爽やかだ。
大学生の彼の隣を歩くなら、もうちょっと大人っぽくて可愛い服を着たい。
白ブラウスに緑のジャンバースカートとか、袖がふわっと広がったワンピースとか。
「じゃあ今度、休みの日に遊び行こっか」
「はい!」
頭に奏真の顔が浮かんだのは、気付かないふりをした。別に彼氏じゃないし、一方通行の交わることを知らない感情ににしばられていたら何も出来ない。
悪いこと、してないもん。
足を止めた目の前は、『Cafe Parfaitrian』。
今度は友達と来ようと決めたパフェの店。
扉を開けて中に入る。外の暑さに比べて、気持ちいいくらい涼しかった。
「ここ、知ってる?パフェが有名なの」
椅子に座って、そう差し出してくれたメニューに目を落とす。
「はい。この前は一人で来たんですけど、今日は惟人さんと来られて嬉しいです」
丸ごと桃のパフェ。白くま風のパフェ。かき氷の入った珍しいものもある。
だけどここはやっぱり、桃だ。
「決めた?」
どうやら惟人さんは既に決まっていたようで、顔を上げた私の顔を見たらすぐ、そう聞いた。
「はい。桃にします」
「ん、りょーかい」
ベルを鳴らし、スマートに注文を済ませる姿がなんだかすごく大人にみえた。
「紗綾ちゃんは部活とかやってるの?」
「はい。これでも一応弓道部で、部長任されてます」
体育嫌いだからか、信憑性に欠けるんだよな。
きっと惟人さんも、疑いから入るんだろう。
「え!まじ?すごいね」
……あれ?今まで見てきた反応とは正反対だ。
「弓道部ってだけでもかっこいいのに、その上部長とかなに?イケメンなの?」
身体を乗りだして、真剣な目で訴えてくる。
奏真でさえも、紗綾に任せられるの?という方向で真剣に心配性を発揮してきたのに、この人は全然違った。
「下手なんですけどね、腕は」
「いやいや、そんなこと関係ないよ。先生は紗綾ちゃんの真剣さとか真面目さとかに惹かれたんじゃないかな」
うんうん、と頷きながらそう言ったあと、「真剣と真面目ってほとんど同じか」と笑った。
「そんなふうに言ってもらえるの初めてで、嬉しいです」
「お待たせいたしました。丸ごと桃パフェです」
ちょうど話に区切りがついたとき、様子を伺っていたかのようにパフェが届いた。
前のときのオシャレなグラスとは別の、レトロなパフェ容器。
それに下から、桃のコンポート、バニラプリン、ラズベリーのジュレ、桃のコンポート、砕いたビスケット、カスタードクリーム、バニラアイス。その上に桃を丸ごと一つ。
思わず手を叩いてしまうほど、美味しそう。
見た目はもう、スタンディングオベーションレベル。味もきっと、この前のパフェが美味しかったから約束されたようなものだ。
柄が細くて長いスプーンで、頂上の桃を掬った。
繊維が切れて、果汁が溢れてくる。
まだ口にしていないのに、もう美味しい。眼福だ。
口に入れると、みずみずしくてフルーティーな美味しさが口いっぱいに広がって、少しだけついてきたバニラアイスがその美味しさを更に引き立てている。
「来年も、一緒に来たいです」
「そうだね。また来よう」
食べ終わって帰る準備をするときに話すことを、もう既に話し終えた。
当たり前のように来年も来る口約束をして、当たり前のようにその日が来るのを待つのだろう。
「あの、もし良ければ見に来ますか?」
メインの一番上の桃がなくなった喪失感からか、思ってもみないことを口にしてしまった。
「なにを?」
まだ引き返せる。映画とか美術館とか、いくらでも言い換えられる。
「今度の土曜日、市内大会なんです」
奏真でさえも来てほしくないのに、引き返すチャンスは既になくなってしまった。
知り合いが来たら、いつもより緊張してガッチガチになるのは目に見えているのに。
もう、断られることを祈ることしかできない。
「え、いいの?」
完全敗北。
「はい。もしお暇なら、ですけど」
誘っておいて、やっぱりダメです、とは言えなかった。暇なら、と言ったのは、最後の悪あがきだ。
「暇ひま。めっちゃ暇。えー、超楽しみ」
そうだよね。暇じゃないなら、一言目から断るためにごめんとか何とか言うよね、普通。
「いつもより頑張ります」
結果、そう言わざるを得なくなってしまった。
もちろんいつも全力を出してはいるけど、惟人さんに弓道は素敵な武道だと知ってもらえるチャンスだ。もうこの際、ピンチはチャンスだと思うのがいい。
「楽しみだなー」
そう呟きながら、どんどん食べ進めていく。さすが男の人。食べるのが早い。
「じゃあ、詳細のプリント、メールで送っておきますね」
「うん。ありがとう」
てん、てん、てん。のなんだか心地いい沈黙が流れたあと、惟人さんはなにかを思い出したかのようにハッとした顔でこちらを見た。
「そろそろ進路希望調査配られるよね。この前悩んでたけど、大丈夫?」
優しいなぁ、この人は。夢の持ち方さえも優しいもの。
「配られるのは夏休み明けなんですけど、決まらなくて既に悩んでます」
そして、いい人だからこんな話もできてしまう。少し大人な目線で私の話を聞いてくれる、まるでお兄ちゃんのような人。
「紗綾ちゃん、好きなことある?」
もしかしたらきっと、ただのおせっかいに見えるかもしれない。だけど私にとってはこういうことを話せるだけですごく嬉しい。
「音楽を聴くことと、あとマンガ読むの好きです!少女マンガ、読んでると生きてる価値を感じて……。白田亜季先生の『雨の日は、君とふたり』は映画化してて、未だに連載が続いてるんですけどほんとに最高なんです。他にも同じ雑誌で連載してる春井すみれ先生の『初恋イレイサー』とか、胸きゅんのオンパレードで!あとは」
あ、やばい。熱入りすぎた。無意識にスマホの画面を見せたりして、恥ずかしすぎる。
惟人さんはぽかんとしていて、少しするとくすくす笑い始めた。
顔に熱が集中するのがわかった。うちわで仰ぎたいほど熱くて、真っ赤なのは鏡を見なくても一目……いや、ゼロ目瞭然だ。
「ごめんなさい、興味ないですよね」
「いや、全然いいよ。それに、紗綾ちゃんに向いてそうな仕事、一個見つけたし」
まさかの発言に思わず「えっ」と声が出る。
先生も絶対ピッタリだけど、転職エージェントとかにもなれそうだ。
「なんですか?」
少し心が踊る。向いてそうな仕事を誰かに教えてもらうことなんて、ずっとないと思っていたからかな。
「マンガ雑誌の編集者とか、どう?そしたらとりあえず大学に行っておこうっていうよりも未来の目標ができるから毎日がもっと楽しくなると思う。あくまで参考までにだけどね」
心がキラキラした。ワクワクして止まらなかった。
今までマンガ雑誌に関われるのは漫画家さんだけだと思っていた叶わぬ憧れが一気に近づいて、頑張って手を伸ばせば届くような気がした。
「ありがとうございます!惟人さん流石です!」
塞がった道が切り開けた。こう言うのが正しいのかもしれない。
「力になれたならよかった」
満面の笑みで、彼は最後の一口を頬張った。
「よーし!」
大前の百笑が一射目を的中させると、同じ学校の仲間が声を上げる。
二的の私はこの波に乗らないといけない。
弓手を押して、妻手を捻る。手首の力じゃなくて、腕の力で伸びる。
一、二、三、四、五、六、七。離れ。
カンッと弦の鳴る音。スパンッと的紙が破れる音。「よーし!」と耳に届く部員の声。
よかった、なんとかなった。
三人立ちの十二射を午前と午後で二回。
ふわっと吹く風が、黒い袴を優しくなびかせる。
緊張感。でもそれに勝るほど楽しみなのが、惟人さんの反応だ。
メールで詳細の写メを送っただけで、『やばいかっこいい!』と、何に対してそう思ったのか分からないことを送ってきていた。
クスッと笑えるのだ。文面を見たときはもちろんだけど、今少し思い出しただけでも思わず微笑んでしまう。
それが私の過度な緊張を解してくれた。
二本目、外れ。三本目、中り。四本目、外れ。
あみだくじの折り曲げているところみたいな中て方をして、午前は終わってしまった。
次の次で矢取りに行くのが大体の大会のルールで、今惟人さんを探しに行っていると確実に間に合わない。今すぐ探しに行きたい気持ちをグッとこらえて、第一射場と書かれた矢立にさっき放った四本の矢を取りに行く。
掴むと、カシャン、と小さく儚い音が静かな空間に響いた。
変にぶつかるとすぐに歪んでしまうからなのか、いつもは大きく聞こえる矢と矢がぶつかる音がこの瞬間だけ、儚く思えた。
「取ってきたよ」
十二本を持って帰ると、百笑はどこかへ行ってしまっていた。
「ありがとー。百笑ならトイレ行ったよ」
学校じゃないから自由にスマホを触れる空間で、落の彼女はイヤホンを挿して時間まで音楽を聴くのがいつものルーティーン。次も頑張るためのひと工夫だ。
周りにいる他校の人はRPGゲームをしたり、動画配信サイトを見ながらお菓子を食べたりと自由な時間を過ごしている。
そろそろ矢取りに行かないとな、というジャストタイミングで百笑も戻ってきて、三人で第一射場側の小屋へ入る。ぼーっとしていると肩をビクつかせて驚いてしまうほど、大きな音で的中音が聞こえる。
「入ります」
他校の何度か見たことがある知らない先生の声で背筋を伸ばす。
ビー、と少し耳障りな音を鳴らし、赤旗が小窓から出されたあと、ラミネートされた両面印刷B4サイズの『1』『2』と『3』『4』を一枚づつ持って息を吸う。
「失礼します!」
先に出た百笑に続いて大きな声を出し、土の匂いが強い外へ出た。
第一射場、二的。この人の本数は一、二、……あ、ギリギリ三本中ってる。
的の右側から的中本数を確認して、『3』の面を出してまっすぐ立った。
拍手の音があちこちから聞こえてくる。
どうやら誰かが皆中したみたいだ。
射場からの合図で矢を抜いて小屋に戻る。いつもより丁寧に矢を拭き終えて矢立に戻したらご飯の時間が終わるまでは自由だ。
本当は応援に行くべきなんだろうけど、惟人さんを探したいからここは辞退させてもらおう。
「暑いね」「そうだね」の会話を飽きもせず何日も何回も繰り返して、やっとたどり着いた室内はエアコンがしっかり働いているとは到底言いがたいものだった。
ミンミン鳴くセミ。
暑さで歪む景色。
プシュっと誰かが炭酸のペットボトルを開ける数少ない涼しげな音。
「あ、如月、ちょっと」
さて、探しに行こう。そう思ったらガッツリと邪魔が入った。
「なに?なんかした?」
男子部長に手招きされて、逃げてしまいたくなる。
なにかしたっけ、私。もしかして入り方間違えた?
「先生が来いって」
……うわうわうわ、何したっけ。
全然悪いことした記憶はないけど、身に覚えがないのは更に恐怖心を煽る。
「すぐ行く」
知らない人のものをいつもの何倍も慎重に矢立に入れて、招集をするためにホワイトボードの前に立っている先生の所に向かう。
私一人に話があるわけじゃなくて、男女両方の部長に話がある感じなのかな。
ドクドクと鳴っていた心臓は、それだけでちょこっと安心したらしく、少しだけ治まった。
「忙しくて伝えるの頼むことになっちゃうんだけど」
私たちの顔を交互に見て、先生は話し始めた。
「今日は暑いから、熱中症予防のために終わった人から帰ることになりました。決勝進出する場合は出る人だけが残る形で。この旨、みんなに伝えてくれる?」
射場の様子を伺いながら、それでもこちら側には忙しいから早くして、みたいな感情は一切出さずにいつも通りの口調と声色で伝えてくれる。
「はい、わかりました」
先生にそれだけ言って、色んな学校の控え室になっている遠的射場にいる部員に伝えるために先生の言葉を何度も頭の中で復唱する。
「ごめん、ちょっといい?」
ちょうどみんな出番も仕事も終わっていて、おしゃべりに花を咲かせたり、スマホを構っていたりしていた。ラッキー。
ただ、みんなの視線が一気にこちらへ向くのは少し緊張する。なにかの発表をするわけでもないのに、手がじわじわと汗ばんできた。
「どうしたの?」
「先生からの伝言で、今日は暑いから熱中症予防のために、出番と矢取りが終わった人から帰ってくださいだって」
ふーっと細く長い息を吐く。はぁ、緊張した。
「やった!一緒に帰ろ!」
隣に来て嬉しそうに笑う百笑。
彼女だけでなく、みんなが嬉しそうに笑う姿になんだか少しほっとした。
早く帰れる話題のまま昼食を食べ終え、結局惟人さんを探しに行く時間もなく午後の部が始まり、早く帰りたい欲が出たのか一本しか中らなかった。
「帰ろ帰ろ。紗綾も電車だよね」
「うん。でもちょっと待って」
薄ピンクのカバーに包まれた弓と紺色の矢筒を持ち、空いた右手にスマホ。
直に通知の振動が伝わってくるその画面には、『どこにいる?』という惟人さんからのメッセージ。
『弓道場の出入口のところにいます』
苦戦しながらも親指で文を打ち、送信するとすぐに既読マークがついた。
「ここに来る?その人」
メールのやり取りをみているのか、引き止めているから勘づいたのか、彼女はいつも話すときのトーンと同じように口にする。
「うん。だからちょっと待ってほしい」
もうこの際、惟人さんのことも紹介してしまおう。そしたら、今後惟人さんと会うときの誤魔化しも必要なくなる。
「いいよ。あ、そうだ。奏真くんのことだけど」
「……え?」
なんで今、奏真の話?
弓道場の出入口、傘のある日陰のところで横並びになって話す。話題に出してほしくない、彼の話を。
「やっぱり諦めるには早いと思うんだよね」
「え、なんで?」
「この前ファミレスで聞いたんだよね。紗綾のことどう思ってるかって。そしたら「好き」って言ってたよ。きっと失恋は紗綾の勘違いだよ」
思わず「は?」と言ってしまいそうになるのを必死に飲み込んだ。出て行かなかった分、心にモヤモヤと謎の黒いものがほんの少し残った。
そんなことない。私は確実に失恋した。好きな人がいて、それが男の人だっていうことを顔を見てこの耳でしっかり聞いたのだ。
「だからほら、この際髪も切ったことだしイメチェンして振り向かせてみたら?紗綾なら絶対いけるって!」
有無も言わさずにペラペラと要らない世話を焼いてくる。
「……そうかな?」
それだけを口にして、笑顔を貼り付けた。
「そうだよ!無理なわけないって」
その後も髪型を変えてみるとかメイクをしてみるとか、私が両思いを夢みていた頃にやったことがあることを次々と提案してくる。
……あー、鬱陶しいな。
黒いモヤモヤは時間が経つごとに大きくなっていって、加えて癒えはじめようとしていたかもしれない失恋の傷は友人のありがた迷惑な言葉と行動で抉られていく。
「恋愛対象が男性の人をどう振り向かせろって言うの?」
あっ……。
「……え?」
後ろから聞こえてきたその声に、一気に血の気が引いた。振り返らなくてもわかる、話題となっている張本人の声。「なんでいるの?」と聞くことすらできなかった。いつもみたいに驚くことさえ、今の私には難しかった。
もう、これ以上気持ちを隠し通してただの幼馴染として生きていくことはできない。
「……ごめん、先帰る」
声も出ず、ただ俯く百笑。
「紗綾!」
そう私の背中に向かって呼びかける奏真。
少しして、バタバタと後ろから聞こえてくる足音はきっと奏真に違いない。
怒ってる?呆れてる?……もう、嫌われた?
誰にも言いたくない秘密を、勢いでバラしてしまった私の事なんて、憎くなって当然だ。
でも、それでもいつか、この恋心は昔の大切な思い出に変わって、ただの幼馴染として笑顔で隣を歩けたらって思っていたのに。
そんな遠い未来の理想も、もう叶わない。
涙がポロポロとこぼれる。
奏真の方がずっとずっとショックで泣きたいはずなのに、そんな私を責めるように立ち止まることなく聞こえる足音。
「待って、紗綾ちゃん!」
……え?
足を止めて振り向くと、こちらへ向かって走ってくる惟人さん。
「惟人さん、なんで……」
汗を流して息を軽く切らしながら、立ち止まった私の方へ向かってまっすぐ歩いてくる。
惟人さんの姿を見て、ぶわっと涙腺が崩壊した。
「声かけようとしたら一緒のグループでやってた人と頑張って笑顔作りながら話してて、いきなり走ってっちゃうんだもん」
感情移入するタイプなのか、彼も辛そうな顔をして、でも優しい笑顔を向けてくれた。八割は辛そうな表情に呑まれていたけど。
「だってっ」
そこまで声に変えたけど、ひっくひっくとしゃくりあげてしまってそのあとの言葉を繋げられない。ただ喉にやけに冷たい空気がへばりつくだけだった。
「だって、だってっ」
「うん。大丈夫、わかってるよ。……痛いよな」
私の肩をゆっくり擦りながら、本当に苦しそうに、泣きそうになりながら言った。
私はその言葉に、泣きながら何度も頷くことしかできなかった。
「帰ろっか。送ってく」
大事な学校の備品である弓を地面に叩きつけたまま走り出していたらしく、惟人さんが乗ってきた車で待っている間に戻って持ってきてくれた。
「こういうとき、腕を引いて引き止めたりできたらかっこよかったんだろうなー」
運転席でハンドルに腕をかけて体重を預けながら、多分、恐らく、ウケを狙ってくれている。
たかが恋愛の口喧嘩で、関係ない人の励ましに対する愛想笑いさえもできない自分が嫌になる。
「ちょっとお茶でもして帰ろっか」
そう、私のシートベルトを確認して、ゆっくりと車を走らせた。
左端から吹く冷たい風、下の方から聞こえてくるラジオの声。
なにもかもが初めてだった。
誰かの車に乗るのも、シートベルトを締めることも、窓から見える景色が電車よりものんびり移りゆくことも。
意外と硬い背もたれに身体を預けて、そっと自分の心に手を添える。
ズキズキと情けないほど傷んで、このままどこか遠くへ行ってしまいたいような、いつもより寂しさを感じる夜みたいな感覚が私を襲う。
何もやる気が起きなくて、でも寝るのも少し怖いような、そんな感覚。
「ワッフルとパンケーキ、どっちが好き?」
赤信号でゆっくり止まると、前ではなくこちらを向いて、寄り添うように話してくれる。
「……ワッフル好きです」
クロッフルは重かったけど、ワッフルは好き。
優しい甘みと、端っこのサクサク感が好き。
「じゃあワッフル食べに行こう」
そう、左のウインカーを出すと、横断歩道を渡る人がいないことを確認してゆっくり曲がった。
やっと落ち着いてきて、ふと運転席をみると、当たり前だけど集中して運転している惟人さん。
両手でハンドルを握る少し骨ばった手。自分のと見比べても、一目で男の人だなってほんの少しだけドキッとした。
チラッとサイドミラーとルームミラーを見る姿は、なんだかこなれているように見える。
それなのに、無駄にカッコつけてスピードを出したりしないあたりにしっかりと彼の性格が出ている気がした。
「私人生で初めて車に乗りました」
カチカチとウインカーの音が鳴る中で、独り言のようにつぶやいてみる。
「え、まじで?」
「はい、まじです」
目を真ん丸くして驚いている。そうだよね。誰でも驚くよね。この歳になって人生初の車なんて、おかしいったらありゃしない。
「じゃあ今度は高速道路乗ってちょっと遠出しよっか」
てっきりバカにして笑うかと思ったけど、惟人さんはそんな人じゃなかった。それは私もよくよく分かっていた。
「いいんですか?」
高速道路というのは、バス移動がメインの中学の修学旅行で寝ているときに乗っていたくらいで、もうすっかり記憶にない。だからか、まるで記憶喪失になった人みたいに、誰もが当たり前に使ったりやったりすることに新しいことへのワクワクが高まるのだ。
まるで『惟人さん』だけがカラーで、背景もなにもかも全部白黒の世界が一気に色付いたかのように。
「うん。約束」
車のなか、赤信号に見守られながら指切りを交わした。
それでも、見た目からして甘くて美味しそうなワッフルは、あまり味がしなかった。
「惟人さーん!」
ブンブンと手を振り、ここにいると全力でアピールする。
愉快な音楽、火薬の香り、賑やかな視界。
去年までは奏真と二人で来ていたこのお祭りに、今年は惟人さんに誘われてここまで来た。
浴衣レンタルのお店で紫色の紫陽花が可愛い浴衣を着せてもらって、神社の鳥居の前で待ち合わせ。
「おまた、せ……」
惟人さんは紺色の浴衣に白い帯を締めている。
スラッとしていて、それでもしっかりとしている骨格になぜか柄にもなくドキドキした。
「……えっと、あの、どうかしましたか?」
お互いの浴衣姿を頭から足先までざっと見合って、バチッと目が合う。
ドキンッと心臓が跳ねる。
「いや、いつにも増して可愛いな、と」
首を触りながら少し目線を逸らして、思ってもみないようなことを言うから「えっ!」とまあまあ大きな声を出して驚いてしまう。
「それを言うなら、惟人さんだっていつもよりかっこいいですよ」
浴衣が良く似合うから、きっとこの姿でギターを弾いて歌ったら確実にモテるだろう。
足を止める人も一人二人なんていう簡単に数えられる人数じゃなくて、何十人というきっとすごく苦労するほどになる。
それならいつも通りでいいや。
浴衣姿の彼を知っているのは、私だけでいい。
「気を遣って言ってくれてるわけじゃない?本音?」
「本音に決まってるじゃないですか。ホントのホントに、浴衣めっちゃ似合ってます」
一歩を踏みしめながら惟人さんに近づいて、身体も一緒に言葉の抑揚を表しながら伝えると、照れたように笑った。
「嬉しい。ありがとう」
少し赤いような彼の頬の色が移りそうだ。
動き出せないまま、王道な待ち合わせ場所である鳥居の前には続々と一人の人が集まり、足を止めてスマホを開いたり鏡を見たりしている。
「行こっか」
「はい」
まるでマンガの中のような会話を交し、神社の境内へと足を進める。
「何食べる?」
焼きそば、たこ焼き、フライドポテト。クレープ、フルーツ飴、かき氷。
色とりどりの屋台を見るだけでわくわくしてしまう。
「どれも美味しそうですよね」
胃のキャパは決まっているから、あれもこれも、食べたいものを全部食べられわけじゃないのが悔しい。
「あ!射的!射的してみたいです!」
奏真と来たときは射的なんてできなかった。もう一回!とその場の景品欲しさに何度も百円を支払う姿が目に見えていたから。お金にズボラだと思われたくなかったから。
「いいね。紗綾ちゃん、上手そう」
「なんでですか?」
「弓道部だからかな?これくらい朝飯前って感じする」
「えー、どうかなぁ」
ふたりしてケラケラ笑い、隣同士でコルクガンを手にする。意外と重たかった。
惟人さんを見ながら、真似をして茶色いところを引いて、先端にコルクを詰める。
引き金を引くと、ポン、と軽い音が鳴って、ぬいぐるみとぬいぐるみの間をすり抜けていった。
「お嬢ちゃん、惜しいねぇ」
ラストの三発目を放ったあと、おじさんが自分のことのように悔しがりながら、チリンチリンとベルを降った。
「お兄ちゃん、大当たり!」
えっ、すご!
おじさんの方を向いている目線を首が取れそうなくらいの勢いで惟人さんのほうへ向けると、彼も目をぱちくりとさせていた。
「大当たりは一泊二日東京旅行のペアチケットだよ」
おぉー!と周りからの驚きの声と拍手が湧き上がる。私も彼も、驚いて何がなんだか分からないまま、つられて拍手をしてしまった。
「彼女と二人で楽しんできな!」
「あ、……ありがとうございます」
受け取ってもいいのかと、キョロキョロと周りを見て、たどたどしくそれを受け取った。
「ありがとね!楽しむんだぞー」
「ありがとうございます」
二人でハモリながらおじさんにお礼を言って、射的の屋台から離れる。
まだ戸惑いは私たちの身体に居座っていて、何かを買って食べるでもなく、空いていた椅子に横並びになって座った。
「どーしよ、これ」
「お祭りって、こんなすごいとこでしたっけ」
射的の大当たりといえば、今流行りのゲーム機とかゲームソフトとか、小さい子が喜ぶようなものが設定されているイメージだったけど、それをいとも簡単に裏切られた。一応、いい意味で。
恐る恐る封を開けてチケットを確認してみると、有名ホテルの宿泊券と、旅行先で使える五千円分の商品券が二枚。
「太っ腹なのか、押し付けられたのか……。すごいな、あの人」
「いやほんとに。ちょっと怖いくらいです」
でも封も開けられていなかったし、お札でいう真ん中の丸いところに野口英世が写ったり、金額のところがキラキラと輝いたりしているから、ニセモノではなさそうだ。
「八月の終盤じゃん。日付」
宿泊券の日付を見た惟人さんは、ちらっと私のほうを見た。
「一緒に行かない?」
「え、私でいいんですか?」
大学の友達とか、彼女とかと行くのかと思ったら、まさかの人選でさらに驚いてしまう。
「うん。紗綾ちゃんがいい」
「じゃあ、行きたいです。東京」
惟人さんと東京に行くという新しい予定をスマホのカレンダーに入力すると、ちょうど出発する日に『奏真とバーベキュー』と既に予定が入っていた。
「私、東京に行く前に幼馴染に気持ち伝えて踏ん切りつけます」
それで、このバーベキューは断ろう。適当にそれっぽい理由をつけて、スッキリした気持ちで大都会へと旅立ちたい。
「……んー、じゃあ僕は学園祭で披露するための新曲を東京行くまでに書き上げる」
すごく騒がしいはずなのに、旅行券に決意表明をした瞬間、まるで世界で二人きりになったような、何も難しいことを考えなくてもいいような、そんな気分になった。
「よし、気合い入れてなんか食べようか」
立ち上がった惟人さんにつられて私も立ち上がり、この世界に引き戻される。
「焼きそば食べたいです」
「よし、探そう」
下駄をカラコロと鳴らしながら、惟人さんの横を歩く。
焼きそば、唐揚げ、ベビーカステラ。他にもたくさん。
両手にいっぱい屋台飯を持って、さっきの椅子に戻る。
「さすがに座ってるよなー」
「ですよね」
幸せそうに顔を合わせるカップルが既に腰掛けていた。
いいな、羨ましい。
まだ自分にそんな感情があるなんて、なんて未練たらしい女なんだろう。
「あ!あっち空いたよ!」
え、と思う暇もなく私の手を取ると、小走りで席へと向かう。
座った席はちょうど花火がよく見える場所で、このまま花火まで見ていこうということになった。
袋から買ったものを取り出して机に広げると、思わず唾を飲んでしまうほど美味しそうだ。
「いただきます」
手を合わせて割り箸を割る。
パシ、と乾いた音が鳴って、片方の持ち手が鋭いお箸が完成した。
はふはふしながら、まだ熱々のたこ焼きを口に入れる。外はカリッ、中はとろーりで、某チェーン店みたいな美味しさだった。
「紗綾ちゃん、ついてる」
自分の右頬を指さしながら、私になにかがついていることを教えてくれる。
左頬を軽く人差し指で拭うと、たこ焼きソースがくっついてきた。
「ありがとうございます」
そう、彼に伝えるのとほぼ同時に、お腹に響くほど大きな音を立てて花火が上がった。
ヒューン、ドンッ!ヒューン、ドンッ!
色とりどりの鮮やかな花が夜空を輝かせる。
ピンク、青、緑、黄色。
真っ暗だった夜空も、まるでお花畑みたいだ。
「万華鏡みたい……」
シュワシュワしたり、色んな色がぎゅっと詰まった琥珀糖の瓶みたいに幻想的でレトロな雰囲気だったり。
色も形も様々な花火はすっかりひと夏の思い出として私の胸に焼き付いた。
でも私が一番好きなのは、たまに打ち上がる冠菊。ラストを飾る、冠菊。
色は他に比べたらそこまで華やかとは言い難いのかもしれないけど、一番大きくて趣があるものだと思っている。
「久々に見たかも。こんなに綺麗な花火」
「私も、今までで一番今日の花火が輝いて見えます」
食べるのも忘れて、話すのも忘れて。
ただ静かに耳をすませて、空を見上げる。
息を飲むほどに華やかで、声も届かないくらいの破裂音。次が上がる前、花火の形で残った煙さえもすごいと感動できる。
つい手を叩いてしまう瞬間が何度も訪れて、その度に顔を見合せて肩を竦めて微笑んだ。
惟人さんと過ごすこの時間がなんだかすごく心が安らいで、息がしやすかった。だけど同時に、ドキドキと脈打つ心で少し息苦しかった。
今日十八時、公園に集合。話したいことある。
頭の中で何度も練習して、メッセージアプリの奏真のプロフィール画面をじっと見つめる。
あとはこの、通話開始ボタンを押すだけ。
電話をする回数が少ないとはいえ、今まで気軽に押せていたこのマークがこんなにも押しづらくなってしまうなんて。
あと一センチ。五ミリ、三ミリ、一ミリ……。
ピーンポーン……。
「うわっ」
驚いて肩を震わせると、スマホは軽く宙を舞い、ゴトン、とお世辞にも軽いとはいえない音を立てながら、呼出音を鳴らしていた。
ピーンポーン……。プルルルル、プルルルル……。
プツッと通話を切って、テレビモニターホンで応答ボタンを押した。
「はい」
「ナイル配送です」
ナイルなんて頼んだっけ?そんな覚えないけど。
「今行きます」
でも仮に予約してあったものだとしたら結局受け取らないといけないから、少し頭を悩ませながらも玄関まで向かう。
扉を開けると、ムワッと暑い空気が部屋の中に入り込んでくる。
「如月真由子様のお荷物ですねー」
如月真由子。久しぶりに聞いた母の名前。
「あ、はい。ありがとうございます」
「失礼しまーす」
それだけ言って配送員は忙しそうにバタバタと去っていった。
受け取った地味に大きな箱を抱えて部屋の鍵を締める。箱が冷えていないから、日用品かなにかだろう。
トントン、と開かずの間と化した母親の部屋を開ける。生活感も何もない、少し埃っぽい空間。
掃除はしない。こういう、今のような、荷物を置きに来るときしか入ってはいけないルールなのだ。
『荷物届いた』
ものすごく大嫌いな同僚と連絡をし合うときでも、もう少し丁寧にメッセージを送るだろう。
『じゃあ、いつもみたいに置いておいて。来週帰るから、そのときに紗綾の進路の話もしよう』
すぐに既読がついて、返信が来る。
『うん』
急いで私も返信をして、惟人さんに電話をかける。
ワンコール分の呼出音を聞き流すと、「はい」といつもより少し低い電話の声。少し耳がくすぐったかった。
「あの、あのあの!」
「どうしたの?いいことあった?」
電波越しにこぼれる優しい笑い声。
「はい!来週お母さんが帰ってくるんです。進路のこと話そうってメールが来て、それでっ!私、ちゃんと将来やりたい仕事決められたから嬉しくて!つい、惟人さんに電話しちゃいました」
息をすることさえ忘れて、子供のように彼に伝える。彼にとっては心底どうでもいいことだろうけど、聞いて欲しかった。
「そうなんだ。よかったね。それで、紗綾ちゃんのやりたい仕事って?」
「少女マンガ雑誌の編集部で働きたいです。仕事内容とか、条件の学歴も全部調べて、気合十分です」
誰にも見られていないからと調子に乗ってガッツポーズまで決めてしまうほど、今の私は幸せの最高潮に立っていた。
「どこ?行きたい出版社って」
「日向堂出版です。ティアラ編集部なんですけど、高望みすぎますかね?」
そりゃあ、マンガ家になりたい!っていう人よりは多少志望者が少ない方に傾いてはいると思うけど、それでも目指す山の頂上は、富士山をゆうに超えて、アルプス山脈に到達するくらい難しいことだと思っている。
「いいじゃん。高望みくらいがちょうどいいとおもうよ。あ、そうだ。じゃあ東京に行ったとき、外観だけでも見に行ってモチベあげようか」
「いいんですか?行きたいです!」
「よし、決まり。じゃああともう三日だし、ちゃんと準備するんだよ」
あと三日。やけにリアルな数字が目の前に突きつけられる。
帰ってきたらすぐに新学期が始まるけど、夏休み課題はもうすっかり終わらせてある。ただ、東京を思う存分楽しむための大きなミッションがまだ終わらせられていない。
「はい。頑張ります」
「頑張って」
じゃあまた、とお互い笑って、電話を切る。
「よし、頑張ろ」
気合を入れてメイクをして、自分の一番お気に入りの服に着替える。
新色の赤みがあるけど淡いピンク色に、控えめで上品なラメが入っているアイシャドウは、これから告白しに行く私にピッタリだったかも。そしたらアイホールはこれ一つでいいから時短にもなるし、何よりも楽ちん。
全身に日焼け止めを塗って、三十分。
好きです。付き合ってください。
こんな王道のドキドキしかない告白は、私にはできないから。
好きだから、奏真の気持ちもわかってるから、これからも今まで通り幼馴染として仲良くしたいってことを伝えたい。
エントランスを出ると青い空から降ってくる暑い日差し。
シュワシュワの氷がたっぷり入ったクリームソーダみたいな空なのに、気温は自分の体温をはるかに超えている。
緊張で手ぶらで出てきてしまって、握る手には家の鍵だけ。日傘すら持ってくることを忘れてしまった。
……あ、メイクキープミストかけてくるの忘れた。
せめて帰るまでは崩れないでいてほしいけど、もう既に額に、首筋に、しっかり汗が滲んで来ているから諦めた方が良さそうだ。
いつもよりゆっくり歩いて、見慣れた一軒家の前に立つ。黒いインターホンを押すだけの、特別でもなんでもない行動を起こすのに五分くらいかかってしまった。
ピーンポーン、ピーンポーン。
あれ、いないのかな?
いつもはすぐに「今行くね」と奏真ママが開けてくれるのに、今日は物音すら聞こえてこない。
……よかった。
心の底でほっとしている自分がいることに、少し嫌気がさす。
このまま目標を達成したことにして行ってしまえばいいか、とか、今当たって砕けなくても別にいつか自然消滅してくれるよね、とか。
この期に及んで甘えた考えばかりが頭の中を行き来する。
「紗綾?どうかした?」
帰ろうと向けた背中から、奏真の声が聞こえた。神様は私に微笑んだのか、意地悪なのか、もうよく分からない。
「公園に行きたい」
久しぶりに会った彼は、部活のせいか少し焼けていた。冬になると夏の気配を綺麗に消し去って雪のように真っ白になるのに、ここまできちんと焼けるそのギャップに毎年必ずときめいてしまう。
「久しぶりだね」
沈黙に耐えられなくて、適当に話題をふった。
こんなこと初めてだった。奏真と歩くとき、何か話さないとと内心焦ってしまうなんて。沈黙がこんなに気まずいなんて。
「うん。夏休み中にこんなに会わないの、初めてだね」
部活が忙しいせいかなー、と体操着の入ったカバンを持ったまま私の右隣を歩く。小学生の頃にはもう、すっかり身についていたこの並び。
こんな些細な胸きゅんポイントも、彼にとっては男女の差別を感じるモヤモヤポイントだったのかな。
「で、どうしたの?」
それでも近場の公園にはすぐにたどり着いて、ブランコに横並びに座って話をする空間は完成してしまった。
なんでこういう日に限って公園で遊んでいる子がいないんだろう。
この暑さだから?外に出るための紫外線予防のひと手間がめんどくさいから?熱中症になる確率が年々上がってきているから?
ミンミンとうるさいくらい鳴くセミも、空気を読んだのかピタッと鳴き止んで静かになってしまった。
「大事な話」
「うん」
お気に入りのスカートをぎゅっとシワがよるほど握って、軽く震える手は力がこもりすぎているからだと自己暗示をかける。
そう。決して告白することに対する緊張とか不安とかじゃない。ただ、弓道部に必要な握力をスカートを握ることで鍛えているだけ。
「私、私ね」
ドキドキしすぎて吐きそうだ。
二日酔いは未成年だから暗示するも何も、感覚すら分からないし、貝にあたったことにしようにも貝類は嫌いだから購入すらしない。
……無理だ。
自己暗示は失敗に終わった。
「私ね、ずっと奏真のことが好きなの。何年も前から、彼女として隣を歩きたかった」
半分諦めで、普段何気ない話をするときみたいに話したら、その方がなんだか落ち着いて話せた。
「……えっと……」
だいぶ困った顔をしながら、申し訳なさそうに頭の中で言葉を選んでいる。
違う、そうじゃない。そんな顔をしてほしいわけじゃない。
そんな顔するなっていうほうが無理なことかもしれないけど、この場で苦しい顔をするのは私だけでいい。
「奏真、お願い。私の事、思いっきり振って。嫌いになれるくらい、思いっきり。そしたら、きっと前を向けるから」
きっと嫌いには、なりたくてもなれないから。
とは、言えなかった。だって、絶対嫌いにならない保証はないから。
「……紗綾、ごめん。ごめんな……」
彼の瞳には涙が浮かんでいた。
透明で、綺麗な涙が。
「大事な恋人がいるんだ。だからオレは、紗綾とは付き合えない。……幼馴染以上に見ることができない。ごめん」
次々と流れ落ちる涙は、ポトポトと地面に落ちて、土の色を変えた。
「ありがとう。困らせてごめんね」
これがなにかに負けたことに対する悔し涙なら、隣に座ってハンカチを差し出すことは容易いこと。
でもそれが出来ないのは、振られた身だから。今、彼の隣に居る権利はないから。
「また、新学期、教室で」
それだけ言い残して、彼の顔をこれ以上見ずに一人で公園を出た。
既に空いた心の穴は、これ以上広がることはなくて、不思議と涙も流れなかった。
そっと振り返ると、断る側の奏真はブランコに座ってまだ泣いているのに。
今日、私は奏真への恋心を砕いて捨てて、失った。完全に『失恋』をした。
お風呂に入ってベッドに寝転がったときに何気なく静かに流れた涙が、この恋の終わりを示しているような気がした。
世界がキラキラと輝いていた。
ビルの窓から反射する太陽の光が、まるで日中の星空のよう。
電車の何倍ものスピードで走る新幹線で、大都会である東京に降り立った感動が現在進行形で私を包んでいた。
今風ではなくレトロな外観の駅。
地元に比べると何倍にもなる道路。
いまさっき出ていったかと思ったら、すぐに次がやってくる電車。
迷路のように広すぎる駅の中。
テレビに出ていた有名なスイーツ。
その全てが初めてで、興奮しっぱなしのまま惟人さんの少し後ろを歩く。
隣じゃなくて少しだけ後ろなのは、人の波で少しづつ私たちの距離を広げていくから。
「紗綾ちゃん、遠っ」
そう、こちらへ歩いてきて、慣れた手つきで私の手を取る。
「はぐれちゃうといけないから」
「ありがとうございます」
果たしてこの答えがあっていたのかは分からないけど、恥ずかしいような、少女マンガの展開みたいで少しときめいてしまうような、複雑な感情が私の心を動かす。
「ここから近いみたいだよ」
いつもより少し大きな声量で、さっきよりも近い距離で言われる。
正直、それでもまだ少し、色んな音が混ざりあって彼の声は聞き取りづらかった。
「なにがですかー?」
こちらも、少し声を張って会話を繋げる。
「日向堂出版!」
なんだか夏祭りを思い出す。
なんだかもう懐かしくて、思わず笑みがこぼれた。
東京人は足が早くて、隣の人は入れ代わり立ち代わり、どんどん前へと進んでいく。
やっと出られた外は、背の高い建物では溢れていた。
「ここからまっすぐ歩いて、五分くらいだって」
スマホのマップを見せてくれて、その通りに道を歩く。初めて歩く道でスマホとにらめっこしながらだからか、いつもより会話の量は少ない。
横断歩道を渡った先に、六階建てくらいの黒くてシックなオフィスがあった。
出入口に『日向堂出版』と温かみのある文字で書かれていて、ガラス張りの自動ドアから見える内装は、待ち時間に雑誌や漫画、小説が読めるようになっているのか、受付横には本棚が置かれていた。
「よし、行こう」
「はい。モチベ上がりました」
本当はもう少しだけいて、数年先の未来の自分を想像したりしたかったけど、一人で来ているわけじゃないから仕方ない。
繋がれたままの手は、私の返答を聞いて優しく引っ張られた。
「え、どこ行くんですか?」
惟人さんは、自動ドアの真ん前に立って、開いた扉から中に入った。
手を繋いでいる私も、もちろん建物の中に入る。
「いいんですか?入って」
「うん。予約したからね」
そう、楽しそうに口にする。
「すみません、カフェを予約した若草です」
受付に声をかけると、お姉さんが笑顔で「かしこまりました。それではご案内いたします」と受付ブースから出てきてくれた。
本当はキョロキョロと色んなところを見たいけど、無礼な人とか、変な人とか思われたくなくて、必死で抑え込む。
受付の人に受け入れてもらえた安心感からか、ロビーに柑橘系のアロマのいい香りが漂っていることに気づいた。
「中へお進み下さい」
一階のフロアの一角へ案内されて、開きっぱなしの扉の奥へと進む。
お姉さんは「いらっしゃいませ」ともう一度私たちに声をかけて、さっきの場所へと戻って行った。
「お名前お伺いしてもよろしいですか?」
レトロな雰囲気のワンピースを身にまとったお姉さんが、メニューを片手に惟人さんに声をかけた。
「若草です」
「若草様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
中を進むと、一般のお客さんだったり、首から従業員証を掛けた会社側の人がケーキを食べながら仕事をしていたりと、大企業だからなのか、なかなか自由な社風を感じる。
「お決まりになりましたら、またお声がけください」
ベルで呼ぶ形式じゃないのが、もう都会って感じだ。雰囲気を崩さないためなのか、仕事をしている人がいるからなのか、はたまたほかになにか理由があるからなのか。
「こんなところがあったんですね」
「公式サイト見てたら見つけちゃったんだよね」
得意げな顔をして、どこか嬉しそうに笑っている。
「私も公式サイト見たりしたんですけど、どんな部があるのかとか、採用情報しか見てなかったです」
お堅い文章は苦手だから、必要なところだけしか読んでいなかった。
「いいじゃん、しっかりしてるね」
「ありがとうございます」
惟人さんは人のいいところを見つけるのが本当に得意なんだろうな、と所々で感じ取れる。
「わ、みてみて。この前紗綾ちゃんが話してた『初恋イレイサー』の片想いパフェとかあるよ」
「え、すごい!」
どうやらここはただのカフェではないらしい。
少女マンガも少年マンガに出てくるものとか、それをコンセプトにしたものだけでなく、小説に出てくる食べ物もメニューに載っていた。
少女マンガ『ティアラ』『ラズベリー』その他もろもろ、少年マンガ……とパッと見てわかりやすいように、それぞれ見開き一ページくらいで収められていた。
なにここ。……最高すぎない?居座りたい。普通にここで暮らしていける。
「やば、かわいい」
「え、どれがですか?」
惟人さんが呟く声に、思わず食いついてしまう。語りたい欲がひょっこり顔を出してきた。
「あ、えーっと……。これ」
指さしたのは、『はちみつとドライフルーツ』をモチーフにした、ヨーグルト風味のアイスにはちみつ漬けのドライフルーツがたっぷり乗せてあるもの。
アイスに刺さっている、ヒロイン蜜香のお気に入りのキャラクターである『はにーびー』のプリントクッキーが愛らしい。
どれにしようかなと結構長い時間悩んで、やっと店員さんを呼び止めた。
注文したのは、付属のシロップを入れると色が変わる、『初恋イレイサー』の恋色塗り替えドリンク。『雨の日は、君とふたり』のお話の中にでてきた思い出スモーブロー。私が早柚のを、惟人さんが優真のを。
あとは惟人さんが、『はちみつとドライフルーツ』のヨーグルトアイスを注文して、店員さんはこの場を離れていった。
「ここで働けたら毎日幸せだね」
「はい。最高です」
店内はステンドグラスから差し込む光が素敵で、その上メニューもこんなに素敵なものばかりなんて福利厚生が素晴らしすぎる。
「このあとどこ行こうか」
一足先に来たドリンクの色を紫から鮮やかなピンク色に塗り替えて、早速次の予定を立てる。
といっても、もうお昼はすぎているから、今日行けるところは限られてくるわけだけど。
『東京 観光地』で検索をかけて、画像とともにズラっと並ぶ候補をスクロールしていく。
スカイツリーに東京タワー、動物園、美術館。その中でも一番興味が湧いたのは、薄暗くて水色の写真。
「水族館、行きたいです!」
ペンギンが泳いでいる写真が魅力的で、意外と近いこの場所。ここなら少しでも長く海の生き物を眺めていられる。
「いいね。じゃあ水族館にしよう」
机の上に並んだ料理を写真に収めて見た目も味もじっくり味わって胃に送り込み、水族館へ向かう。
思った以上に人が多かった。ダダ混みだ。
さっきの場所が空いていたからか、余計に人がたくさんいるように見えてしまう。
それでもここまで来たのだからとペンギンの写真が載ったチケットを購入し、ひんやりとした館内に入る。
クラゲ、クリオネ、イルカ。意外と多かったペンギン。
少し薄暗い空間で、のんびり泳ぐ生き物たちを見て癒される。
これが多分、本来水族館に来たときの目的だろう。
でも現実はそんなに理想的なものじゃない。
「すごい人ですね」
「そういえば僕たち夏休みだったね」
目の前にも後ろにも、水槽の前にも人、人、人。小さい水槽は、どう頑張っても水槽すら目に入らないことも多々あった。
いつもの私なら、こんなのいても意味ないし帰りたいって思っていたんだろうけど、今日は違った。上に貼ってある、この水槽にはこの子がいます、という写真をみて、惟人さんと泳ぎ方とか生き方を想像して笑うのが楽しかった。
こんなに笑いが絶えない水族館は生まれて初めてだ。
閉館時間が近づくと、名残惜しさを感じさせるオルゴールが館内全体に流れはじめた。
「そろそろホテルに向かおうか」
「そうですね」
今日泊まるホテルで夜ご飯のビュッフェを食べて、ちょっとだけ夜更かしをして計画を立てたあと、明日に備えて眠る予定。
出版社へ来たときに降りた駅で来た道へ戻る電車に乗り、ガタゴトと縦に横に、お世辞でも空いているとは言えない電車に揺られる。
「先ほど荷物を預けに来た、予約している若草です」
ホテルについて、慣れた手つきでチェックインを済ませて、受け取ったカードキーを少し自慢げに見せてくる。
「惟人さんってたまに可愛さ出してきますよね」
「え、僕ってかわいい系だったの?」
フロントの前にあるアメニティを必要なものだけもらって、エレベーターで十二階まで上がる。どんどん上に上がる感覚がこんなにも長く続いたのは初めてだった。
「可愛いというよりはかっこいい寄りだと思うんですけど、ほら、さっきみたいなのとかは可愛いに分類されるんじゃないですか?」
惟人さんの魅力をエレベーター内で熱弁する日が来るとは、予想外だ。
「そういうギャップがあるところ、私結構好きですよ」
「えっ」
「え?」
少し頬を赤く染める惟人さん。
なんで?と自分の発言を思い返したら、軽々しく「好き」だなんて発していた。
「いやあの、その、友達として!そうです、友達として好きってことです」
私も、なんでこんなに必死に弁解しているんだろう。
別に普通に、奏真と話しているときみたいにその場の流れで人として好きということにしてしまえば良かったのに、奏真のときみたいにわざわざ触れないままでいればよかったのに、なんで?
答えの出ない疑問を心にぶつけるも、「よく分かりません」という回答しか返ってこなかった。
「うわぁ、広い!夜景も綺麗ですね」
窓から見える東京の夜景は、まるで星空の中にいるような感覚に陥る。
下から見上げるのではなく、自分も星屑の一員になって夜空の彩りに加担しているかのような。
「すごいね。地元とは全然景色が違う」
ここまでたどり着くのになんだかんだ、夏なのにもうすっかり暗い時間になってしまった。
「ご飯食べに行こうか」
窓から離れ、カードキーを片手に食事会場へ向かう。
丸いガラス玉に入った電球がとても可愛らしい、落ち着いた雰囲気の席に案内されて、一瞬座ってから料理を取りに行く。
「えぇ、すごい」
思わず口からこぼれるほど、料理の種類が豊富で、美味しそうだった。
ミニトマトのコロッケに、写真でしか見たことがないようなオシャレなサラダ。ローストビーフ、お寿司、ご飯の種類もたくさん。
オレンジ色に光る温蔵庫の中には、ホテル自家製のパンが五種類ほど並んでいた。
「紗綾ちゃん、こっちこっち」
手招きされた方へ行くと、小さいカマンベールチーズが丸ごとひとつ入った、トマトクリームソースのオムライス。包丁を入れると、桃太郎が生まれるときみたいに広がるやつ。
隣にはビーフカレー。お野菜もお肉もゴロゴロ入っているのが食欲をそそる。説明欄に、玉ねぎとトマトの水分で作った無水カレーになります。と書いてあって、初めて聞く単語に少しワクワクした。
別にこういう日くらい、太るとかそういう感情を忘れて楽しもう。
自分磨きが趣味だけど、食べるのも大好きだから、今日は食べる方に天秤を傾けることにした。
机に戻ったときにはもう、全て食べ終わってからでないと飲み物さえ追加で取りに行けないような机が完成した。
オムライスの誘惑に勝てるはずもなく、それでワンプレート。小さめの小鉢に三十穀米とビーフカレー。もちろんサラダも持ってきて、ローストビーフとお刺身も同じお皿に乗せてきた。
最後に持ってきたのは、トマトのクリームグラタン。マカロニの代わりにたくさんのキノコが入っているらしく、炭水化物じゃないならと欲望に負けて連れて帰ってきた。
「紗綾ちゃんってトマト好きなの?」
いただきますをして食べ始めると、惟人さんが私の取ってきた子たちを見て聞いた。
「はい。リコピン取れるし、温めたトマトは美白と美肌効果があるって聞いたことあって。あと単純に美味しいから大好きです」
誰もそこまで聞いていないだろうに、ペラペラと余計なことまで話してしまう。
「え、そうなんだ。リコピンまでしか知らなかった」
すごいすごいと何度も頷いて、最終的にトマトに向かって拍手まで送っていた。
「惟人さんはナスが好きなんですか?」
ナスとトマトのパスタ、ナスの煮びたし、ナスとハンバーグのはさみ焼き。
私のトマトに負けずとも劣らないナスの量。
「うん。ナスの栄養素、ナスニンって言うんだよ。可愛くない?だから好き」
「あ、あと単語に美味しいから、ね」
急いで付け足す姿に少し笑ってしまう。
「惟人さんってやっぱり可愛いとこありますね」
ナスニンが可愛いから好きって、なんだかキュンとしてしまう。
……え、『キュン』?
自分の中の惟人さんへの感情が、最近は少しおかしい。キュンとか、かっこよくて可愛いとか、ついポロッと出てしまう『好き』の言葉とか。
「ごちそうさまでした」
綺麗に平らげて会場を出るとき、ホテルマンの人に一言伝える姿を見て、彼がやけに輝いて見えた。加工アプリのキラキラフィルターをかけたような感じ。
「ここのシャンプーいい匂いだね」
私のあとにお風呂に入り、お揃いの左胸にホテル名が入ったパジャマを身にまとってまだ濡れている髪で出てきた姿。
「明日はどうしようね」
隣で一冊のガイドブックを見ながら明日行く場所を決める、骨ばった手。
「おやすみ」
隣のベッドで寝転がって、こちらに向けられる少しとろんとした眠たそうな目。
「おはよう……」
私より少しあとに起きた彼のぴょこんと揺れる寝癖。
「見てみて、超可愛い!」
最終日の目的地である動物園で、パンダを見てはしゃぐ姿。
パンダももちろん可愛いけど、惟人さんもいい勝負ですよ、とは思ったけど言えなかった。
最後に昨日今日と溜まったお土産をキャリーケースでゴロゴロと運びながらスカイツリーに上り、新幹線に乗った。
「起こすから、寝てていいよ」
窓から差し込むオレンジ色の夕日が眩しくて、カーテンを下ろした。
でも、夕日が照らす惟人さんがやけにかっこよく見えて、なんだか勿体ないような気になった。
「ありがとうございます」
別に疲れてはいないけど、ここで断るのは可愛くないかな、なんて。
ゆっくりとまぶたを下ろして、この東京旅行を一人静かに振り返る。
最大の発見は、私は奏真への恋心を失い、多分、もしかしたら、芽生え始めているこの感情に気づいたこと。
ドキドキと、胸が高鳴る人が変わっているかもしれないこと。
惟人さんは好きな人、いるのかな?
そう思うと、隣に本人がいるのに眠れるわけがなかった。