如月紗綾。今日から十七歳。
朝起きて一人で暮らすには広い家の扉を開けては閉めていく。やっぱりお母さんは、帰ってきていなかった。
今年も、誕生日は一人だ。
賃貸マンション桜町西ヒルズの六〇二号室。2DK。この世に生まれてからずっと住み続けている我が家。
実質一人暮らし。母子家庭の『母』は、彼氏の家に入り浸っていて帰ってくるのは月に一回あるかないか。きっと私の誕生日なんて、もう覚えていない。
早起きしてやることは、洗濯にお弁当作り、時間があったら軽く掃除機をかけて、残りの時間でヘアメイク。
私はきっと、同級生の中で一番主婦力がある。
やることを全て終わらせて制服に着替えるとき、ボタンがめんどくさいブラウスはスカートで隠れてしまう下二つくらいはいつも留めない。きちんとする日は、身なり検査くらいだ。
紺色のスカートを履いて開きっぱなしのボタンが見えていないかを確認する。
大丈夫そうだ。
男子よりも短めのピンク色のネクタイを締めて、八時ピッタリに家を出る。
四月十九日。気温は涼しめ。ピンクで溢れていた桜の木は、もうすっかり緑色に変わっていた。
みんながローファーで地面をたたく中、私は安売りされていた旧作の薄ピンクの運動靴。
可愛いけど洗うときにめんどくさい、あれ。
「紗綾、おはよう」
十五分ほど歩くと、幼馴染の家がある。
坂入奏真。男子。
「おはよー」
待ち合わせは八時十五分。奏真の家の玄関前。
彼は去年まで同じマンションの六〇三号室に住んでいて、お隣さんだった。
一戸建て注文住宅に住み始めて、はや一年。
幼馴染というこの関係は、変わることなく続いている。
「母さんがうちで夜ご飯食べないかって言ってたよ」
「え!いいの?」
奏真ママは私のお母さんとは違って優しい。優しくて、息子である奏真を大切にしているのがよくわかる。
「うん。おばさん、今日は帰ってきてた?」
去年の誕生日と同じことを聞かれる。
私の答えは分かっていたから、彼も奏真ママも私のことを食事に誘ってくれている。
「んー、多分私の事なんて、頭の片隅にもないよ」
もう慣れたことだから、となんでもない会話をするときと同じように、笑って返した。
「じゃー行くってメールしとく」
奏真もいつもみたいに普通にしてくれる。
それがすごく心地よくて、救い。可哀想な女の子じゃなくて、同じように生きている一人の人として見てもらえているような気がするから。
「帰りさ、ちょっとだけ寄り道してもいい?」
「いいよ。奏真が寄り道なんて珍しいね」
「ちょっと欲しいものがあって」
木曜日。職員会議があるから、弓道部もサッカー部もお休みの日。
久しぶりに奏真と学校帰りに寄り道ができる、少し特別な誕生日。
「今日一日、これだけで乗り切れそう」
朝から夜まで、奏真と一緒。
十四年間片思いしている好きな人と放課後デート。
無意識にスキップをしてしまうほど、重いカバンの重量なんて忘れてしまうほど、今日の私は気分がいい。
「オレも」
ははっ、と幼い頃から変わらない笑い方をして、もう人が集まりかけている教室に並んで入った。

大型ショッピングモール。出入りする人の中には、同じ制服に身を包んだ人達が少しだけいた。
「何買うの?」
「イヤホン。この前ミスってハサミで切った。左耳が真っ二つ」
そういえば、今日は昼休みに昼寝をするとき、イヤホンをつけていなかった。いつもは周りが騒がしくて眠れないからとイヤホンをつけてシャットアウトするのに、今日は珍しいなと思っていた。こういうことだったのか。
「買ったげるよ」
彼にとっては必需品のイヤホン。
プレゼントできたらどれだけ喜んでくれるんだろう。……いや、それは自己満足だな。
「じゃあ誕生日まで我慢しないと」
「遠っ」
ケラケラと笑う彼はCDショップに、私は隣の雑貨屋に。少しの間、別行動。
ハンカチ、マグカップ、アクセサリー。
キラキラしたものたちが私を囲む。
「本日お誕生日の方は半額キャンペーンやってまーす」
綺麗な店員さんの声に耳がピクっと反応する。
貼り紙を見ると、どうやらこのお店の一号店の誕生がこの日らしい。なんだか今日は、ついている。
いつもは買わないような、自分用のフタ付きマグカップ。フタにはクマの耳。可愛い。
誘惑と半額に負けてカゴに入れて、最近売り始めたばかりのサブレアソートも一箱。
動物型が特徴の、手のひらサイズのサブレ。
プレーン、ココア、抹茶、ラズベリー、きな粉と味も豊富。
これはお招きされたから、奏真ママへの手土産。甘いものと可愛いものが好きな奏真ママは、きっと喜んでくれる。
レジでお会計をするとき、学生証を出した。
少し大人になったみたいで、なんだかくすぐったかった。
パステルカラーの花柄包装紙で綺麗にラッピングをしてもらって、お渡し用の特別感のある紙袋にサブレの箱は入れてもらった。
マグカップは、教科書が詰まったリュックの中に隙間を作って押し込んだ。
背負ったとき、確実に重みを感じた。
「お、なんか買ってる」
「いい買い物した。奏真は欲しいの買えた?」
ちょうどお店を出たとき、彼もCDショップからでてきた。こういうときはいつも同じようなタイミングになる。
同じ歩幅で人生を歩んでいる、みたいな、付き合って五年は経ったカップルみたいな。
それほど、お互いのことはよく分かっているつもり。
話し方とかで、ほとんどのことは分かっているつもりだったのに。
同じ階に入っている店舗に入るや否や、目的のブースまで言葉もなく歩く。
「どっちにつく?」
帰る前に寄った本屋。どっちにつく?というのは、現代社会で行うグループ討論の議題の話。
『わかりやすいLGBTのこと』
オレンジ色の文字で書かれたタイトルの本を二人で立ち読みしながら、明日までに決めないといけない自分の立場を考える。
議題は『同性愛者同士の結婚はありかなしか』。
「私は『あり』につくかな」
「なんで?」
驚いた目つきで、食い気味に聞いてくる。
どうやら奏真は『なし』側につくみたいだ。
「恋愛も結婚も、異性とじゃないといけないなんて思ってないし、異性でも同性でも一生連れ添って生きていきたい相手ができるって素敵だと思う。それに性別なんて関係ないでしょ?」
これは本を読む前から決まっていた、自分の率直な意見。ただ、なにかに関係するわけでもない学校の討論会だから、人前で発表するのが苦手な私は発表できない人ばかりだったら『なし』に移動するつもり。
「オレも『あり』につくかな」
「えっ?うそ、なんで?」
私の予想は間違っていた。
でもあの話し方は、絶対『なし』だと思ったんだけどなぁ。久しぶりに外した。
「なんでだと思う?」
「私の熱弁に惹かれたとか?」
ふざけて言ってみるけど、どうやら彼なりの考えがあるらしい。空気を含んだ笑い方をするときは、だいたい私のおふざけに気付いて、図星じゃなかったとき。
「ううん。色んな夫婦の形があるっていいなって思ったから。同性愛でも普通に『いい夫婦だね』って言い合える世界になってほしいからさ」
ペラ、と一枚ページをめくる手を眺めながら、想像してみる。
女性同士の夫婦、男性同士の夫婦、男女の夫婦。手を繋いで、腕を組んで、みんなが幸せそうに笑っている世界。
そんな世界になったら素敵だな、と思った。
自分たちの立場がきちんと固まってショッピングモールを出ると、空はオレンジ色に染まっていた。ここから帰ってご飯をご馳走になるには、ちょうどいい感じの時間。
「紗綾に相談があるんだけど」
特にかしこまった感じもなく、紙袋を片手に奏真の家に帰る道中。彼から相談があるなんて珍しい。
「どうしたの?」
歩く足は止めずに、奏真の顔を見上げる。
何か覚悟を決めたような顔つきをしていた。
「告白しようと思うんだ。来月末の体育祭の日に」
「え、好きな人いたの?」
彼の発言は、結構ショックだった。好きな人なんていないと思っていた。
「いるよ。ずっと好きな人」
幸せそうに口角を上げる姿は、今までで見た事のないような、恋をする人の顔。
「どんな人?誰?」
固有名詞がでたらもう、奏真のことをまっすぐ見ることなんてできなくなる。見てきた感じ女子と親しく話している様子はなかったから、尚更。
「いつも一緒にいる人。休み時間も一緒にいることのが多いかも」
休み時間、いつも一緒にいる女の子。
そんな人、全然思い浮かばなかった。というのも、奏真と休み時間を過ごす女子は私しかいないから。
「ふーん。そっか。叶うといいね。応援してる」
抑えきれないにやけ顔を見られないように、誕生日にお祝いをしてもらって口元を両手で包み込む女の子を真似る。
嬉しい、嬉しい、嬉しい。
十四年の長い片想い。両思いまで、あと一ヶ月ちょっと。
「ありがとう。紗綾ならそう言ってくれると思ってた」
最高の誕生日プレゼントをもらった気分だ。
だからかな。彼の家で食べたご飯が、いつにも増してキラキラと輝いていて、美味しく感じたのは。
「ごちそうさまでした。私の好きなオムライスにケーキまで。幸せな誕生日になりました」
帰るとき、玄関先でお見送りまでしてくれる。奏真ママが本当のお母さんだったらって何度考えたことか。
きっと奏真ママはお母さんよりも私の好物を知っている。私もお母さんより奏真ママの好きなものの方が詳しい。
「あ、ちょっと待って」
何かを思い出したかのようにリビングへと引っ込んでいく奏真ママ。
この場には奏真と二人きり。
「これ、誕生日プレゼント。十七歳おめでとう」
小さい箱。春らしい桜のラッピングが可愛らしい。これを奏真が買ってきてくれたんだと考えると、それだけで胸があったかくなる。
「なんだろ。あけてもいい?」
「遅いから帰ってからみて。多分ここであけると一時間は玄関にいることになるから」
う、確かに。
ラッピングの話、プレゼントの話。そこから広がった全然関係のない話。
「ごめんごめん、おまたせ。紗綾ちゃん、お誕生日おめでとう」
紙袋に入った、これまた小さい箱。黒い箱に薄ピンクのリボンがよく映えている。
「え!ありがとうございます!」
「そんなに嬉しそうにしてくれるとおばさん嬉しいな。またいつでもおいで」
「はい!おじゃましました」
パタン、と閉まる扉。ここから十五分、奏真と一緒だ。
「あけていい?」
「帰ってからな」
待ちきれない私をみて楽しそうに笑いながら、それでも開けさせてくれない。
「ちぇっ」
いじけたように言うと、彼はまた笑った。
私も笑った。
「また明日ね」
「おう」
手を振って、扉を閉める。カチャン、と鍵をかけると、一気に寂しさに襲われた。
スニーカーを脱いだそのままの足で自分の部屋に向かって、もらったばかりのプレゼントをドキドキしながら開けてみる。
奏真ママからいただいた、スー、と布地同士が擦れる音がしたあとに出てきたものは、素敵なネックレス。
私が桜の花が好きだと知ってくれているからか、本物をそのまま小さくしたかのような白に近いピンクの花びらに、中心は赤くなっているのが可愛すぎる。
この一瞬で、この子は出かけるときの必需品になった。
奏真からのプレゼントは、丁寧にラッピングを剥がすとすぐにわかった。
少し厚く触り心地もいい紙の白い箱。スマホの入っている箱を小さくしたような、防御力の高そうなしっかりした箱。それにパステルピンクのワイヤレスイヤホンの写真が表面に載っていた。私の好み、ドストライク。
自分の家庭は周りから見るとそんなにいい家庭ではないけれど、いつか彼の家に嫁入りすることを考えたら、何も気にせず親の手を離すことができるのはメリットだと捉えられる。
こんな心の内がバレたら気が早いって笑われるかな。
でもずっと夢みてきたこと。幼稚園の頃から、ずっと。
体育が大嫌いなのにこんなに体育祭が待ち遠しいなんて、彼のせいだ。

『桜崎祭一日目、これよりスタートです!』
十時ちょうど。生徒会長がアナウンスをする。
三日にかけて行われる桜崎祭。
一日目二日目が文化祭、三日目が体育祭。年に一度の大きな盛り上がりを見せる学校行事。
うちのクラスは『甘味処 桜崎』。
和装で和のスイーツを提供する、カフェに分類されるところ。
実行委員が校内で四クラスのみの高い高い壁を乗り越えてくれたおかげで、今楽しくあんみつを袴でお席まで運ぶことができている。
茶色の生地に赤やピンク、白の花柄の着物。それに黄色い袴を合わせている私の衣装。
明日は別の衣装が一人ひとり用意されている。
ここまで本格的な衣装が着れたのは、クラスメイトの家が呉服のレンタルをしているから。
今日明日は定休日で、明後日はクリーニングをするためにおやすみにするらしい。
本当に彼女の家には頭が上がらない。
「紗綾!グリーンティーフロート一個とお抹茶パウンドケーキ二つ」
紺色の着物に身を包んだ奏真が、教室の片隅にある厨房から顔を出した私に伝えてくれる。
「了解。グリーンティーフロート一個とお抹茶パウンドケーキ二つお願いします」
まるで伝言ゲー厶のように、奏真が聞いてきた注文を厨房係の人に伝える。
「ごめん、出てきたからつい」
「いいよいいよ」
こんな些細な会話ですら幸せを感じられる。
だって明後日は待ちに待った体育祭だもの。少しくらい浮かれてもいいでしょ?
「交代したら一緒に回らない?」
「あー、いいね。ちょうどシフトも一緒だし」
「じゃあ決定!あ、ご注文お伺いいたします」
可愛い女の子と、少し背の高い男の子。お互いのネクタイを交換していて、まさに憧れのカップル像そのもの。
私も明後日には、奏真とこんな風になれるのかな。なれるといいな。
「あの、このカップルメニュー、お願いします」
ドキドキが声から伝わってくる。まだ付き合い始めて数ヶ月なのかな。いいなぁ。
「かしこまりました。カップルメニューですね。少々お待ちください」
今回一番気合いの入ったメニューであるそれは、大きめのワンプレートに抹茶ロールケーキ。その上に生クリームを絞り、いちごをトッピング。丸いいちごアイスもロールケーキの隣にのせて、その上に『I wish you happiness forever』と書かれたハート型のピックが刺してあるもの。
最大の特徴は、スプーンがひとつ。フォークもひとつ。お互いに『あーん』をし合うように、と実行委員が熱弁していた。
「お待たせいたしました。カップルメニューでございます」
机の上に優しく置くと、目を輝かせる彼女さん。それをみて幸せそうに微笑む彼氏さん。
どうか末永くお幸せに。
「あ!いたいた!紗綾!」
心穏やかに定位置に戻ると、どうも忙しない百笑の声。
「え、なに?どうしたの?」
「大ピンチ!ちょっと来て!」
いや、ちょっと来てと言われても。こっちはこっちで仕事中だ。そう簡単には抜けられない。
「ごめん、まだ私仕事中だから……」
「あ、いいよ。如月さんもう交代でしょ?あと二分だし、大丈夫だよ」
そう言われて時計を見ると、交代の十二時まであと二分だった。うそ、びっくり。もうそんなに時間が経っていたなんて。
「でも……」
「お願い!」
ここで行っちゃうと、奏真と文化祭を回るのは困難に近い。というのも、明日は私と交代するのが彼だから。それに私はクラスの仕事が入っていないときは部活の出し物で今日入らない代わりに明日はきっちり入っている。
「わかった。ちょっと待ってて」
恋より、友情。男より友達。
自分に言い聞かせて、残念な心を閉じ込める。
まぁ、来年があるし。いっか。
「奏真ー。ごめん、一緒にまわれなくなった」
私が言うと、彼は「そっか」と笑った。
「じゃあオレは陽高と回るかなー」
「うん。陽高くんと楽しんで」
最後にもう一度「ごめん」を置いて、百笑のところへ走る。袴で走るのは慣れている。
「どうしたの?」
「人が足りないの。男子部長が体調不良で帰っちゃって」
なるほど。それなら仕方ない。
今年の弓道部の出し物は射的。
ゴム鉄砲とかじゃなくて、二本の割り箸をくの字にしたものに輪ゴムをくっつけた弓と、紙で羽根を付けた半分サイズの割り箸め作った矢。
それらを机の上に置かれた、的代わりの紙の番号表に当てる。
弓を引いて矢を放つ。これを体験してほしくて、射的に決まった。
射的というより、的当てゲームといったほうがわかりやすいかもしれない。
「紗綾ー!ありがとうー!」
弓道場に入ってそうそう、部員たちの声が聞こえる。でもそれより、意外と人が入っていることに驚いた。
普段は入れない弓道場に、この際だから入ってみようと思って来た人が多そうだ。
「こんなふうになってるのか」「意外と広いんだね」という声が聞こえてくる。
「袴、着替えたほうがいいよね?」
みんなの格好は、弓道袴。私はクラスの出し物のレンタル袴。更衣室に明日忘れないようにと昨日置いて帰ったから、着替えることはできる。
ただ、仕方ないとはいえ脱ぐのは勿体ないと思ってしまう。脱ぐのは袴。着るのも袴。漢字にしてしまえば一緒だけど、パッと見たときの綺麗さが大きく違うのだ。
「できれば……」
「わかった。着替えてくる」
ここはもう、折れるしかない。女子部長として、ここはしっかりやり遂げないと。
綺麗な借り物の袴を丁寧にたたみ、白と黒の袴に着替える。着崩れないようにしっかりと帯をしめると、脱ぐときの解放感がすごい。あれは結構、気持ちいい。
「お待たせ。じゃあ午後からも頑張ろう」
みんなに呼びかけるけど、ほとんど自分に言い聞かせているだけ。頑張ろう。
的の合計点数を計算し、景品を渡す。
外れた矢を拾い、机の上に綺麗に並べておく。
お客さんから一回の料金である百円を受け取り、ケースにしまう。しまったら正の字を書いていく。
部員の休憩とクラスのシフトも把握して、順番に回していかないといけない。
明日もやることを考えたら、帰ってくれて良かったかもしれない。結構ハードだ。
「紗綾、おつかれ」
十五時をまわり、残すところ一時間になった頃、奏真と陽高くんが遊びに来てくれた。
「おつかれー。楽しんでる?」
聞かなくても、イキイキした表情で楽しんでいることはよくわかる。でも本当は私が陽高くんの立ち位置にいたはずなのに……。なんか悔しい。
「まぁ。はい、これ差し入れ」
ガサガサと音を立てながら渡してくれたのは、透明なパックに入った焼きそば。サッカーボールのかまぼこが入っているから、サッカー部で買ってきたことは一目瞭然だった。
「え、ありがとう。いいの?」
「うん。昼飯食ってないだろ?空き時間になんか食べないと帰りまでもたないよ」
「奏真ぁー。す」
やばっ。好きって言っちゃうところだった。
いいけどね、明後日には晴れて両思いなら、今日も明日もそんなに変わらない。
でもやっぱり、告白されたいって考えたらあと少しだけ我慢しよう。
「す?」
あ、聞き返しちゃう?やっぱり?そうだよね。
「す、す……っごい嬉しい!ありがとう」
「そう?ならよかった」
何かを疑う様子もなく、「一回づつお願いします」と二人で百円づつ手渡してくれた。
「じゃあ奏真は一番、陽高くんは二番に進んでください」
案内をしたあと、隠れて少し熱くなった頬を包み込む。喜びと恥ずかしさとでもうお腹はいっぱいだ。
本当はずっと飾っておきたいサッカー部の焼きそばは、今日の夜ご飯にしよう。
この喜びに浸りながらご飯を食べて、また明日も頑張る力をもらおう。
そっと足元に袋をおいて、次の人の百円玉を受け取った。

ジリジリと照りつける太陽。雲ひとつない空。
団カラーであるオレンジ色のハチマキをつけてグラウンドの日向にならんで体操座り。
「皆さんの日頃の行いがよく、天気に恵まれ……」
こういうとき、校長先生は決まって天気と日頃の行いを結びつけようとする。
体育祭も遠足も、球技大会もそうだった。
言うことなすこと何一つ変わらない、「僕たち、私たちは」の選手宣誓も終えて、放送部のアナウンスがかかる。
『それでは第一種目、準備体操です』
プログラムに準備体操を入れるのは、正直小学生までだと思っていた。
中学は入っていなかったから、去年三年ぶりにプログラム内の準備体操といらない再会を果たしたところだ。
ただ、それでさえも素敵だと思えてしまうのは、奏真パワーだろう。
告白されるためにいつもより髪型をこだわり、トーンアップの日焼け止めを念入りに塗りたくってきた。メイク禁止なのが痛いけど、校則を破るのは嫌だからここはすっぴんで。
音楽がかかるとみんな一斉にラジオ体操を始める。まるで小学生の夏休みみたいに。
最後の深呼吸を終えると、やっと教室から一生懸命運んできたテントの中の椅子に座ることができた。
開始二十分。身体を動かしたのは三分くらいなのに、首周りの汗はもう既に滝のよう。
百メートル走、男女別・男女混合リレー、障害物競走。あとは綱引きに玉入れ。
午前中のプログラムは、結構ガチガチに運動系。それに引替え午後はレクリエーション系が多い。
『玉入れに出場する選手は……』
午前中最後のプログラムである玉入れは、運動が苦手な人が集まる競技。
もちろん私もその中の一人で、何か一つ出ればあとは何も出なくていいというのがうちの体育祭のいいところ。
「よーい、ピッ」
笛の音と共に、落ちた玉を広い、投げる。
網を通り越したり、何故か後ろに飛んでいったり。やっぱり体育祭の良さというものは、いくつになっても分からない。
決まった時間になると、また笛の音が鳴り、終了を教えてくれた。
いーち、にーい、さーん。
ドーン、ドーン、ドーン。
カゴの柱を押さえていた先生が、太鼓の音に合わせて玉を外へ投げていく。
にーじゅし、にーじゅご、にーじゅろく。
ここでオレンジ団の玉はなくなった。
結果は下から三番目。いいか悪いかといわれたら、あんまりよくない方だ。
「おつかれ。相変わらず面白いな、紗綾は」
テントに戻ると、頭に手をぽん、と乗せられる。じわじわと奏真の手の温かさが頭から伝わってきて、少し暑かった。それなのに、ずっとこのままでいてほしいと思った。
「運動音痴の腕の見せどころだからね」
「弓道部部長なのに運動音痴とか、ギャップすごいよな」
手渡される冷たいペットボトル。喉に流し込むと、火照った身体がじわじわと冷えていって気持ちよかった。
「昼だって。行こう」
桜崎祭の日だけは、外での食事が許される。
グラウンドや中庭で食事をする青春シチュエーションが叶うのは、年にこの三日くらいだ。
教室にお弁当を取りに行き、奏真と二人で中庭のベンチに腰掛ける。校舎の影になっていて、少し涼しかった。
「紗綾はあとなににでるんだっけ?」
「えっと、部活動対抗リレーと借り物競走」
今年の体育祭は、昨日と同じくらいハード。
部活動対抗リレーは部長だから必ず出ないといけないし、借り物競走は出る人がいないからとハズレくじを引いてしまった。
「オレも一緒だ。頑張ろうな」
「うん」
奏真からの頑張ろうの一言で、食事よりも力が湧いてくる。背筋がシャンと伸びた気がした。
同じオレンジ色を身にまとった彼は、ご飯を食べている姿でさえいつもより輝いている。
「そろそろ行くかぁ」
午後の集合時間に間に合うように行かないと、午後一の借り物競走に遅刻して怒られてしまう。
キュッとハチマキを結び直して、もうぬるくなってしまった汗かきのペットボトルから水分を補給した。
テント内での十分前点呼で数を数えられ、レクリエーション種目だからと奏真と話しながらスタート地点へ向かった。
『第八種目。借り物競走です』
放送部のアナウンスがかかる。
レクリエーション種目だからか、玉入れよりも心做しか身軽な気がした。
「位置について、よーい……」
パンッ!とスターターピストルの音が響く。
選手全員が円になって並んでいたのが、一斉に走り出した。
次々に真ん中に置いてある紙を取り、開いて借りに行く中、足が遅い私は残り一枚の紙を手にした。
『団旗を一本』
そう書かれたお題の通り、オレンジ色の団旗を片手にゴールまで走る。
誰かとゴールして盛り上がるものだと思っていたけど、こういうお題もあるみたいだ。
「それでは一位から順番にお題に沿っているか見ていきましょう」
一位でゴールテープを切った人は、青団の三年生。先生のスマホがお題だったらしく、校長先生のスマホを借りてきていた。すごい。
八位でゴールした奏真のお題は『大事な人』。陽高くんと並走してゴールしていた。
それに引替え、下から三番目にゴールした私はプレートと団旗を見られて終わり。変に発表しなくていいと思えば、ものすごく救われた気分になった。
自分が出る競技は最後の部活動対抗リレーのみとなった今は、暑さと戦っている。
先生たちのリレーを見るのは楽しいけど、昼の暑さには敵わない。暇さえあれば水分を流し込んで暑さを和らげることに必死だ。
「紗綾ー!そろそろ行こー」
百笑がまあまあ大きな声で叫んで、手を振っていた。高い位置で揺れるポニーテールは、まさにスポーツ系女子って感じで爽やか。
「んー」
惜しみなく最後の一滴まで飲み干し、空になったペットボトルを片手に弓道場の更衣室へと向かう。通り道にある自販機横のリサイクルボックスに、本体と蓋を分けたペットボトルを捨てておいた。
三日目の袴。汗くさくないか心配になるほど、このバタバタの三日間、確実に汗をかいているのに洗濯すらできていない。
こういうのを無念というのか。
「お、一昨日ぶり」
「さっきぶりー」
着替えてグラウンドへ戻ると、サッカー部の青色にピンクのラインが入ったユニフォームを着た奏真とばったり会った。
どうやら隣のレーンらしく、すこし心がくすぐったい。それと同時に、染み付いた汗の匂いが彼の方まで漂っていないかということで頭がいっぱいだ。
「やっぱ紗綾、和装が似合うよな。普段は可愛いのに、一瞬で綺麗になるギャップがすごい」
それは褒め言葉として受け取っていいものなのか。綺麗、可愛いと嬉しい言葉ばかり飛んできて、正直暴れたい。キャーって叫びたい。
「ありがとう。奏真もユニフォーム着るとかっこいいよ」
「着るとって、いつもはそうでもないってこと?」
「そうじゃなくて、いつもの何倍もって意味」
「ありがと」
キラキラの笑顔を向けられる。私の大好きな彼の笑顔。
私より先にサッカーボールというバトンが渡った彼は、ボールを蹴りながら先へ先へと進んで行った。
なんだか彼が少しだけ遠く感じた。
これからもっと長い時間、一緒にいるのに。
なにかの予感のように、この一瞬で私の心は小さい穴があいた。

お祭りが終わった教室、前から回ってくるくじ引きの箱。
一枚引いて開くと、『帰宅』と書かれていた。
四十枚入っているくじ引きの中の十枚は片付け係に任命されるハズレくじが入っている。
数からしたら、そっちのが当たりかもしれないけど。
「ごめん紗綾。オレ片付け係になっちゃったから先に帰ってて」
いいよ、終わるまで待ってるよ。
そう言いたいところだけど、私が残ったところで邪魔者になるのは目に見えている。
「わかった。頑張ってね」
それだけを言い残して、大量の着替えを持って教室を出る。
大丈夫。まだ今日は終わっていない。
奏真のことだから、やっぱりもうちょっと寝かせるってこともないとはいえない。
「うん。ありがとう。気をつけてね」
見慣れた制服姿に、小学生の頃憧れたゴミを逃がさないホウキ。それだけで絵になるって、なんなの。イケメンなの?……イケメンだよ。
モテるかどうかといわれたら、別に普通の男子高校生だけど、好きな人はかっこよく見える。
昼までは奏真の彼女になるのは私だと自信たっぷりだったのに、あの部活動対抗リレーの一瞬で、一分一秒が過ぎていくごとに自信がなくなっていく。
休み時間。よくよく考えたら、放課後の間違いかもしれない。
奏真ママは愛知県出身で、愛知県の人は方言で休み時間のことを『放課』と言うらしい。奏真もたまに無意識で使っていることがあって、休み時間と放課後がごちゃごちゃになっていることもある。後者に関しては何度も。
こういうことがあると思うと、実は放課後の部活で一緒に活動しているマネージャーが片思いの相手ということもないとは言いきれない。
……あー、なんか一気にモヤモヤしてきた。
考え事をしていたら三十分なんてあっという間に歩き終わって、気づいたらもう、家の前。
鍵を開けて大荷物を玄関に置いて、また鍵をかけた。家にいてもずっと同じことの繰り返しなら、いっそのこと出かけようと思ったのだ。
制服のまま、最寄り駅前のまあまあ栄えている場所まで歩く。
家から学校へ向かうより少し距離があるから、いつもはめんどくさいと思うことが大半。でも映画館もおしゃれなカフェも、落ち着いた雰囲気が可愛い雑貨屋さんもあって、めんどくさいながらもよく行く場所。
そういえば二年生になってからはまだ一度も行っていなかったな。
『まもなく一番線に……』
駅に近づくと、ホームからこぼれるアナウンスが音楽と共に聞こえてくる。なんだか少し遠出しているような、これからどこかへ行くような。そんな気分になれるから、好き。
駅の真向かいにあるカフェ。先にカウンターで注文する方式で、ココアフロートとレモンのバスクチーズケーキを注文した。
白い店内にドライフラワーが飾ってある、イマドキ風な店内。
セルフサービスのお水には輪切りレモンが入っていて、見た目が可愛らしく、味も爽やか。
窓からは、夕日と夜空が混ざったピンク色の雲がよく見えた。恋愛運が上がったような、そんな気がした。
「お待たせしました」と運ばれてくる糖分たちは、きっと目に入れても痛くない。眼福とはまさにこのことだ。
スプーンですくって食べるソフトクリーム。フォークで運ぶバスクチーズ。ストローを伝う甘み少なめのココア。
一人で食べても十分幸せで、奏真のことを一度忘れるために来たと言っても過言ではないのに、奏真にも食べてほしいな、と思ってしまうのは彼に対してはっきりと恋心があるから。
ソフトクリームと氷と、その隙間に入り込んだココアが凍ってシャリシャリになったところが好き。
何度も彼に熱弁して、それでもまだ理解は得られていない。アイスはアイス、ドリンクはドリンクとわけるタイプだから仕方ないかもしれないけど。
半分くらい胃の中へ消えたころ、ブー、ブーとスマホが震えた。
画面には『奏真』の二文字。
「もしもし」
いつもより小さい声で出ると、優しい笑い声が聞こえた。
「今出かけてる?」
「うん。駅前まで来てるよ」
電話をするのは久しぶりだ。いつも直接話して終わりだった。主に私が寝るまでの間にやることがありすぎてしたくてもできなかったのだけれど。
夕飯を作って、帰ってすぐに取り込んだ洗濯物をたたみ、課題も終わらせる。
奏真と電話をしたいのは山々だけど、あまりできた試しがなかった。
「どうしたの?」
奏真もそれを知っているから、電話はあまりかけない。珍しいな。
「今日ご飯食べに来ない?紗綾の好きなトマト煮込みのハンバーグなんだけど」
「え!行く!」
奏真ママのハンバーグはトマト煮込みとデミグラスソースの二種類がメインで、旨みがぎゅっと詰まっていて美味しい。奏真はデミグラスソース派らしいから、これは多分、本当に私のためのメニュー。
「すぐ行く。準備する」
「迎えに行くよ。いつものカフェ?」
駅前まで、としか言わなかったのに、彼は見ているかのように私の居場所を簡単に当てた。
「うん。じゃあ待ってる」
それだけ言ってプツリと切れた電話。正直もう腹五分目くらいまで来ているけど、大好物は別腹だ。それにこれから歩くから、きっとお腹も空くだろう。
ペロリとたいらげた残骸のお皿をそのままに、お迎えがやってくるであろう時間より少し早く店を出る。奏真が店に入るだけ入って、そのまま出ていくのはなんだかお店の人に申し訳ない。
ピンク色だった空模様も、もうオレンジと藍色でぼんやりわかれてしまっていた。あれは長い一日の中のほんの一瞬だった。
冷たい風は、アイスココアをソフトクリームと共に味わった私には少し寒く感じる。
「お、いたいた」
聞こえてくる大好きな声。
手を上に伸ばして彼と落ち合うと、いつもみたいに車道側を歩いてくれている。
「ありがとう、来てくれて」
まるで彼女みたいなことを言ってみた。
飲み会でお酒を飲みすぎて、彼氏に迎えに来てもらった彼女みたいなことを口走ってみる。
「いいよ。オレがやりたくてやってることだから」
目の前の信号待ちをするのにちょうどいいベンチがある、階段で言う踊り場みたいなところ。そこをまっすぐ眺めながら奏真は言った。本当に彼氏みたいだ。
でも彼がまっすぐ見ている先は、定位置を動くことのないあのベンチの隣にあぐらをかいた、ギターを持っている男の人。
ケースから取り出しているから、これから路上ライブをするのかもしれない。
茶色の丸いひょうたん型。初めて見るギターは、よくSNSで見るような形をしていた。
「今から歌うのかな」
「ぽいよね」
だからといって、聴いていくつもりはない。
これから美味しいハンバーグを食べるという大事な予定が入っているから。
信号が青に変わった。
眺めていたその人は、もう左を向いたらそこにいるくらいの距離まできていた。
立ち止まる人なんて全然いないのに、その人はギターを弾いて、誰もが知っているような有名な恋愛ソングを歌いはじめた。
音符が宙を浮いているような、歌声が私に向けられているような。透き通るような声がまっすぐ私の心へと届いた。
何度も本人の声で聴いたことがあるその歌は、まるで初めて聴いたかのような感覚。正直、こっちのが好きかもしれない。
「この曲だけ、聴いていこうか」
青信号を目の前に立ち止まった私の心の内に気づいたらしく、そう言ってくれた。
「うん」
優しい笑顔で愛の歌を声にするその姿は何故か一段と輝いて見えた。
「ありがとうございます」
一曲歌い終えた彼は、私と奏真を交互に見て、嬉しそうに微笑んだ。
若干左に流れている黒い髪、吸い込まれそうな茶色い瞳。整った顔立ちで、肌は白よりの肌色。一言で表すなら、圧倒的清潔感、がピッタリ合うかっこいいお兄さん。
「歌声、素敵です。歌手ですか?」
「いえ、普通の大学生です。もしよければ、たまにやっているのでまた聴きに来てください」
そう言った彼は、信号を渡りきった私たちを手を振って見送ってくれた。
歌う声より、喋り声のが低いところにギャップを感じた。そんな彼の歌声が、頭にこびりついて離れてくれない。
美味しいハンバーグを口にしているとき、まるで大好きで何度も何度もリピートして聴きまくっている音楽のように、スーパーのお魚売り場で手足がついているスピーカーから流れているBGMみたいに、ずっと流れている。
「送ってく」
食べ終わって少し楽しくおしゃべりをしたあと、彼はガタン、と音を立てて腰を上げた。
「ありがとう」
本当はこの時間がやってくることが少し怖かった。
今日告うと決めていた彼からの告白を受ける側になれるのか、それとも既に終えた告白の結果を話されるのか、はたまた今日はやめてまた別の機会にすると決意を揺るがせたのか。
知りたいような、知りたくないような。
でも、だからといって、一人で帰るのは奏真ママに心配をかけるから、この家を出るときはいつも奏真とふたりきり。今日も例外ではない。
「おじゃましました」
玄関で見送ってくれている奏真ママにそれだけ告げて、玄関の戸をしめる。
途端、いつもとは違う静かな空気が広がった。
「ちょっと寄ってかない?」
少し歩いて、彼はいきなり懐かしい公園を指さして言った。私の家と彼の家のちょうど真ん中あたり。そこは幼いころからの思い出がめいっぱい詰まった小さい公園がある。
「いいね」
ちょっと考えようかと思ったときには、もう口はそう言い放っていた。
この公園に寄るってことは、なにか大事な話をされるということで、多分今回は、今日の告白のことを話される。
自販機で、水でもジュースでもなく、もうすぐ自販機から消えるであろうコーンポタージュを人差し指だけで購入する。
缶と金属がぶつかった、クォン、という変な音を聞き流し、思うがままに振って封を開ける。
もう満腹の胃の中に流し込むと、さすがに胃もたれがしそうになった。
「この前話した、告白のことなんだけど」
開けっ放しのコンポタを片手に、幼いころから変わらない座る面が赤く塗られているブランコに腰掛けた。
これでもう、話を聞く体制は完璧。
「うん。どうしたの?」
あなたのことはただの幼馴染としてしかみてないよ。そういうオーラを五割。
あなたのことがずっとずっと好きなんだよ。そういうオーラを、五割。
どちらに傾くこともない天秤みたいに、気持ちを均等に保ちながら彼の声に耳を傾ける。
「明日、告うことにした」
「えっ」
今日がダメだったら、てっきり次は秋の修学旅行までお預けだと思っていた。それに明日ってことは、きっと……。
「今日、掃除当番引いちゃったから。だからきっと、神様が告白する前に紗綾に伝えておく時間をくれたんじゃないかと思って」
キィ……と隣で小さく鎖が軋む音が聞こえる。
彼の体重が、全てブランコにかかった音。
仲良く手を繋いでこの公園に来ていた頃から何年という長い時間が経った音。
「なに、を……?」
この時点で、もうはっきりわかってしまった。
彼の好きな相手は、私じゃない。
横に座っているのをいいことに、俯いたまま会話を続ける。
こぼれそうな涙をこらえるために、下唇を噛みしめながら。
「オレの好きな人のこと、聞いてほしい」
「……うん」
泣くのは帰ってから。一人になってから。
下唇を噛む強さを少しづつ強めながら、二文字だけは頑張って、平気な声で絞り出した。
気付かれないように、これからも幼馴染として変わらず隣にいられるように。
……奏真に彼女ができたら、私なんてただのお邪魔蟲なのかな。今日でこの関係を終わりにするためにここに寄ったのかな。
頭に浮かぶのはネガティブなことばかりだ。
「オレの好きな人、陽高なんだ」
じわっと滲んできた涙が引っ込んだ。
どれくらい可愛い名前なんだろうと、一方的に影で勝負していた逆恨みの気持ちはどこかへ行ってしまった。
「陽高って、古池陽高くん?」
冗談かと思って聞いてみるけど、「うん」と言う声はいたって真剣だった。
「オレの恋愛対象は、男なんだ。『ゲイ』ってやつ」
ぽつりぽつりと、でも一言一言確実に、自分のことを伝えてくれた。
今まで一度も女性を好きになったことがないこと。男同士の恋バナも理解できなかったこと。幼馴染である私に、理解してもらえるか怖かったこと。両親にも、まだこのことを話せていないこと。
話してくれたのは、あの討論の話し合いで私が『あり』についたかららしい。
「こんなこと、知りたくなかったならごめん」
「ううん。知れてよかった。教えてくれてありがとう」
彼の方を向くと、安心した表情でこちらを見て微笑んでいた。それに応えるように私も口角を上げる。
コンポタは、結局減らないまま温かさだけがどこかへ逃げていった。
送ってもらって「また明日」と扉を閉めたあと、きちんと笑えていたか不安になった。
玄関に腰掛けると、無意識にこらえていた涙が静かに頬を伝いはじめた。
私は完全に失恋した。当たる前に玉砕した。
女である以上、一生彼の隣を恋人として歩くことができないと遠回しに言われたようなものだ。
奏真に可愛いと思われたくてやってきたヘアメイクも、ずっとずっと無意味だったということ。
こんなに男に生まれたかったと強く思ったのは生まれて初めてだ。だってそうじゃないと、彼の恋人にはなれないから。
止まらない涙をそのままに、私は壁にもたれかかるようにそのまま玄関で寝てしまっていた。

奏真と出会ったのは、幼稚園に入る前だった。
桜町西ヒルズの六〇二号室で暮らす私と、六〇三号室で暮らす奏真。
これが幼馴染という名の腐れ縁と、私の片思いの原点。
「さあちゃん、あーそーぼー」
ベランダの薄い壁越しに声をかけられると、ベランダへ出て「うん!」と答える。
雨の日も風の日も、雪の日も関係ない。お互いの家を行き来して、同じようなことを何回も、何日も繰り返していた。
親が外に出られるときは公園へ行くことがほとんど。お砂場だったり滑り台だったり、ブランコに揺られたり。二人なのに鬼ごっこをしてずっと走り回っていたのが今でも懐かしい。
お母さんが優しい笑顔を向けてくれていたのが、もう遠い昔みたいだ。
ある春の日、奏真と私は同じ幼稚園に行くことになった。男女関係なくパステルイエローのスモックを着て、紺色に赤いリボンが巻かれている帽子をかぶった。それにレモンカラーのポシェット型のカバンを掛け、お迎えに来たバスに乗り込む。
ひまわり幼稚園のりんご組。年少さん。
年中さんはあかね組で、年長さんはうめ組。
奇跡なのか先生の配慮なのか、私と奏真はずっと同じ組で、その中でもずっと一緒だった。
遊ぶときも、お昼寝のときも、給食のときも。もちろん帰りのバスも隣同士に座って、隣同士の家に帰っていた。
「ただいまー!」
「おじゃまします!」
「紗綾おかえり。あら、今日は奏真くんも一緒なのね」
今思えば、あの頃はちゃんとお母さんはお母さんだった。働きに出ているとはいえ、子どもを愛す母親だった。
専業主婦である奏真ママは、たまに自分のお母さんのところへ出かけることがあった。それは奏真ママのお母さん。奏真のおばあちゃんが入院していたから。
そのときは、よく奏真はうちに来て一緒にご飯を食べて、そのまま半お泊まりコース。完全にお泊まりじゃないのは、仕事を終えて帰ってきた奏真のお父さんが迎えに来ていたから。
一緒に寝たはずなのに、朝起きたら隣に奏真がいないことで何回泣いたかわからない。
彼のおばあちゃんは、私たちが小学一年生の秋に空へと旅立った。
私のお母さんはこれくらいのときから、少しづつおかしくなっていった。おかしくなったのか、化けの皮を剥がしたのかはわからないけど、家に帰る時間が少しづつ遅くなっていった。
それでも関係は変わることなく、仲がこれ以上深まるわけでも浅くなるわけでもなく。強いて言えば、私がよく奏真の家におじゃまするようになったくらい。
彼のことをよく知っていきながら、何度も季節が巡っていた。
中学に上がる頃には、今と同じ生活が既に身に付いていた。
「紗綾、映画でも行かない?」
公園で遊ぶのは小学生で終わった。
以来、公園に行くのはしっかり聞いてほしい話があるときに足を運ぶ場所へ、自然と変わっていった。
「いいね、行こう」
今何がやっているのか、そういう情報もほとんどないまま、駅前の映画館へ向かう。
初めて二人で観に行った映画は、少女漫画が原作の恋愛映画。
男女の青春が描かれていて、発売部数は五百万部を越えていた、『雨の日は、君とふたり』。高校二年生になった今も尚、月間漫画雑誌で連載が続いている有名な作品。
出会いは雨の日。田舎の、バス停の小屋で雨やどりをしている高校生の優真と、傘を忘れて走ってそこへ辿り着いた別の高校の早柚。
ふたりは自然とそのバス停でお互いのことを探すようになり、雨の日はバスを一本見送って二人で話すのが日常になっていった。
ひそかに楽しみにしていたある雨の日。早柚はこの日、優真に告白しようとしていた。
それなのに一向に彼が現れず、心配になった早柚は彼の高校の門の前まで足を運んだら、可愛い女の子と相合傘をしている彼が歩いてきているのが目に入って、ギリギリ間に合ったバスに乗り込んで泣きながら帰ってしまう。
それでも優真が好きなのは早柚だったから、走ってバス停に向かうも彼女はもういない。
何度もすれ違い、やっと会えて話したとき、数ヶ月越しに誤解がとけた。
苦しいときも乗り越えて、晴れて恋人になってこの先もずっと、雨の日も晴れの日も、ふたりで幸せに生きていくお話。
『目が会った瞬間、君から目が離せなくなった』
二人の声で聞こえるその言葉は、まだ開始五分も経っていないのに、いい方の意味で鳥肌が立った。漫画から実写への、珍しい成功例。
「恋ってむずかしいんだな」
映画館をでると、ボソッと彼が言った。
「そうだね、タイミングっていうもんね」
私たちにはいつ、ベストなタイミングが訪れるんだろうって、このときはずっと思っていた。
夢に出てくるほど、ずーっと。
結局、タイミングも何もなかったけど。
机の本棚に置いてある外身だけの初めてふたりで観た映画だからと買ったDVD。中身だけいつでも観れるようにDVDプレイヤーの中に入っている。
ご飯を食べながら、家事をしながら。あとはお風呂から出てストレッチだったりマッサージをするときに。
ほとんど毎日テレビで流れていた。
映画が流れると同時に時も流れ、あっという間に高校受験。志望校は、合わせる気がなくても同じところだった。今通っている、桜崎高等学校。
「高校でもよろしくな」
「こちらこそ。よろしくね」
入学式の日に、私と奏真の家の間で頭を下げる。この日、ここで立ち話をするのは最後になった。一週間後には一年前から商談を続けていた注文住宅が建って、そっちに引っ越したから。
隣の家は、すぐにに空き家になって、未だに誰かが入居する様子もない。
それが少し、安心できたりもする。まだ思い出だけはそこに残っているみたいで、「さあちゃん!」と私の名を呼ぶ幼い頃の奏真の声が、まだどこかで聞こえてくるような気もした。
そして気づけばふられて、私、これからどう生きていけばいいんだろう。
考えることさえ、苦しかった。

近くで、何かが鳴っている。目覚ましではない、なにか。
ゆっくり目を開けると、まだ辺りは暗かった。
懐かしくて懐かしくない、まるで余興ムービーの失恋バージョンみたいな夢を見た。これはきっと、結婚式というより離婚式のほうがピッタリだ。結婚どころか告白さえもできなかったけど。
鳴り響くスマホを見ると、奏真からの着信。放っておいたら一度切れて、それなのにまたかかってくるから仕方なく応答ボタンをスライドさせる。
「紗綾今どこ?」
少し焦りが混じった声が、スマホ越しに耳へと届く。
「家」
寝起きに加えて振られたばかりで話す気も湧かない。少し冷たかったかな。そう思うと、ちょっと心苦しい。
「もう八時二十分過ぎてるけど、母さんに車だしてもらう?」
へー、八時二十分かぁ……。
……え、八時二十分?
耳からスマホを離し、左上に表示されている時計を見る。間違いなく八時二十分だった。
「ごめん、昨日頑張りすぎたみたいで頭痛いから今日休むんだ。言い忘れてた」
咄嗟についた嘘。
ただ奏真と顔を合わせると泣いてしまいそうってだけ。少し時間を置いて、踏ん切りがつけられてからにしないと。
「そっか、ゆっくり休んでね」
今日休めば、明日も明後日も休み。
土曜日はいつも部活があるけど、今週は学園祭があったおかげで土曜日曜共におやすみだ。
「うん。ありがとう」
そう伝えて電話を切り、硬い床で寝てガチガチの身体を起こす。
制服のまま寝ていた。最悪。
目尻は涙が固まってパリパリしているし、お風呂に入っていないから汗臭い。体育祭だったから余計に。
気になることは多いけど、とりあえず学校に電話しないと。
「はい、桜崎高等学校の江崎です」
電話に出たのは知らない先生。ついてる。
「二年三組の如月紗綾の母なんですけど……」
先生は私が一人暮らしということを知らない。
去年の担任いわく、仕事が忙しい人というイメージらしい。親が行かないといけない三者面談も奏真のお母さんに出てもらっているし、入学式にも顔を出していない。
お母さんの顔を知っている先生は、きっと誰もいないだろう。
「はい。いつもお世話になっておりますー」
社会人の電話のルールなのか、江崎先生はその言葉を口にした。
「いつもお世話になっております。今日なんですけど、娘が頭痛がするとのことでおやすみさせますので、よろしくお願いします」
「かしこまりました。娘さんにお大事にとお伝えください」
バレてない。大丈夫そうだ。
「ありがとうございます。それでは、失礼します」
先生からの「失礼いたします」を聞いて、電話を切った。
三連休を勝ち取り、役目を終えてポケットにしまったスマホは、もう充電が残り三十パーセントを切っていた。
いつまでも玄関にいるわけにいかないから、重い身体を持ち上げて洗面所の鏡と向き合う。
目がしっかり腫れていた。自分でもこんなになるほど泣いたのかと思うほど、赤く腫れていた。
これは休んで正解だった。
奏真にも、もしかしたら変な罪悪感を感じさせたかもしれないから、そういうんじゃないからね、と伝えておかないと。
「うぇー、きもちわるっ」
脱いだ靴下の中から、砂。
少し触ったふくらはぎから、砂。
試しに触ってみた腕から、やっぱり砂。
一晩グラウンドの砂と一緒に過ごしたらしい。
どうせ一人だし、いいや。
一昨日の夜用意しておいたバスタオルが脱衣所のカゴに入っていることを確認して、服を脱いでシャワーを浴びる。
ただお湯が皮膚に当たるだけなのに、汚れが取れていく感覚がして気持ちいい。
今日は何をしようか。お弁当もつくらなくていいし、洗濯物も二日にいっぺんだから、明日回せばいい。
電車に乗って、少し遠出をしよう。
奏真のことを忘れるくらい、楽しいことをしたい。
甘いものをいっぱい食べよう。
甘いものは、私の心を満たして幸せにしてくれるから。
一日でも早く奏真への恋心をなくしたい。
……そうだ。髪、切ろうかな。胸下あたりまであるのを、肩までバッサリ。
昔の人は失恋をしたら髪をバッサリ切るって聞いたことがあるし、髪と一緒にこの気持ちもサヨナラしよう。
ロングの髪を乾かし、体操服と袴を洗濯機に入れる。
茶髪のストレートヘア。生まれつきもっている、自分の一番好きなところ。
柔らかくサラサラな髪の毛は、扱いやすくて自慢。
「いってきまーす」
ICカードを入れた小さいベージュのリュック。去年、自分の誕生日プレゼントで一目惚れして買ったやつ。
お昼頃、もう電車は空いていた。
もう少し早く出るつもりだったけど、掃除機をかけてメイクをして、一番お気に入りの薄紫でウエストがきゅっとしまっているワンピースに着替えていたら、気づいたらもうこんな時間。
電車で二駅。SNSで結構人気のある美容室。
今日はもう、綺麗に髪を切ってもらおうと決意したのだ。もう、揺るぎはない。
チリンチリン、と金属の棒が触れ合う音。
「いらっしゃいませー」と、若い男性の声が聞こえた。
全く知らないし、今回限りの美容師さん。覚えるつもりはない。
「予約している、如月です」
初めてのお店でドキドキしながら名前を伝えると、お兄さんはニコッと微笑んでシャワーへと案内してくれた。
「どのようにしますか?」
「肩までバッサリ、お願いします」
言った。言ったぞ。
お兄さんがハサミを持つのが、鏡越しに見える。
慣れたハサミさばきによって、私の髪がどんどん短くなっていく。
地毛が茶髪なんですか?とか、学生さんですか?とか、色々聞かれる質問に適当に答えていると、あっという間に時間は経ち、あっという間に髪は肩につくくらいになった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございましたー。またお待ちしています」
カットで七千円、飛んで行った。いい美容室は高いなぁ、やっぱり。
これからはいつも行っているところにしよう。
そのままの足で、近くのカフェに入った。
パフェが有名な『Cafe Parfaitrian』。
いちごのパフェを頼んだ。細いグラスに入った、大きいいちごが乗ったいちごパフェ。
手元に来たものは、想像より大きかった。
中にさくらんぼとブルーベリーが入っていて、爽やかなレモンクリームが初夏を連想させた。
一番上に飾られているいちごは何よりも魅力的で、フルーツ界のトップって感じ。
でも私が一番好きなフルーツは桃。桃の中でも缶詰はNG。生の桃で、白桃が一番好きだ。
七月になったら丸ごと桃のパフェがでる予定らしいから、また来よう。今度は奏……じゃなくて、友達と一緒に。
カフェを出るころには、もう空は赤く染まり、温かい色味で世界を照らしていた。店を出る私とは裏腹に、今から入店する制服を着た女の子たち。白シャツに、紺色のベストに赤いネクタイ。うちの高校と負けず劣らずの可愛さだ。
えらいな、ちゃんと学校行って来たんだ。
自己肯定感、だだ下がり。
「帰ろう」
ボソッと口からこぼれる独り言。
さすがに夜ご飯は食べていく気にはならなかった。
家に帰って手洗いうがい。その流れのまま合い挽き肉を解凍させた。そろそろ使わないと新鮮味が失われるキャベツがいるから、ロールキャベツでも作ろうと歩きながら思ったのだ。
電子レンジの便利で地味に長い解凍機能を使っている間に玉ねぎをみじん切りにして炒める。
飴色に染まった玉ねぎを冷ましながら、ボウルにパン粉と牛乳。ついでに調味料ボックスから塩コショウとナツメグを取り出しておいた。
タネはハンバーグとすこし作り方が違ったような気がしたけど、詳しい作り方は調べる気にもならなかったからハンバーグのタネを小麦粉をまぶしたキャベツで巻いていく。
爪楊枝を刺して固定して、鍋の中へ並べていくと、銀色の鍋底が緑色になっていくのが見ていて少し、笑えた。
味はもちろんトマトスープ。リコピンが取れて、なおかつ温かいトマトは美白効果があるとどこかで聞いたことがあるから。
トマト缶を二缶と、一缶分のお水。砂糖と塩を少々にコンソメを加える。
チチチチチ……と火をつける音。
静かな空間だからか、よく響く。
いつもは音楽を流すけど、今日は聴く気にもなれなかった。心にぽっかりと空いた穴は、体育祭の最中に空いたそれが伝染したストッキングみたいに時間が経つごとにその隙間を広げていく。
弱火に近い中火でグツグツと煮込むこと三十分。
部屋にいい匂いが漂うなか、私の食欲は失せる一方。いつもは作っている最中につまみ食いを必死に我慢するほどお腹が空くのに、パフェを食べたからなのか、全然お腹が空かなかった。
ふと見上げた時計は、十七時四十五分。
まだ奏真は部活中だ。
せっかく作ったのに食べないのは勿体ないから、奏真が帰ってくる前に奏真ママにおすそわけしに行こう。
坂入家の毎週金曜日の夕食はサボりデーだから、恐らくお茶漬けか納豆ご飯。
金曜日にご飯が作られている日は、次の日にお弁当が必要な日か、家族の誕生日の日だけと年一で聞かされているし、迷惑にはならないだろう。
そうと決まれば鉢合わせないうちに持って行って、帰ってこよう。
密閉力の強い大きめのタッパーに一人二つづつ食べられるように詰めて、タッパーごとビニールで包む。
やばい、部活が終わるまであと十分だ。
生身のビニール包みタッパーと鍵を手に家を出る。
風が冷たくて、涼しかった。
すっかり腫れが引いた目元は、もう風の感じ方はほかと変わらない。
「え、紗綾?」
「え?」
マンションのロビーを出ると、数メートル先から聞こえる君の声。聞きたくなかった声。
「ちょ、出歩いて大丈夫かよ。……どうした?」
いつもはこっちに向かってくる彼に手を振るのに、無言の私を見て心配そうな目が私を覗きんでくる。
泣きたくないのに、ツーっと頬を伝う涙。
彼は私の涙の対処法をよく知っているけど、今日は確実に効果なし。
親指で優しく拭ってそっと抱き寄せてくれるけど、それが私の傷口に塩を塗る行為だと彼は分かっていないし、これから先、知ることもないだろう。
「あくび。あとドライアイ?……そうだ、告白どうだった?」
必死に誤魔化して、話題を変える。方向性は完全に間違えたけど。
「付き合うことになった。誰にも話す気はないけど、ちゃんと紗綾には報告する許可もらってきたから」
グサッと、心にナイフ。
なにそのいらない許可。
でもそっか、二人は両思いだったんだ。
「おめでとう。なんか、私も嬉しい」
思っていないことを口にする。刺されたままのナイフが、じわじわと傷口をさらに広げていく。
痛い、痛い。辛いよ。
昨日の夜からずっと、私も男に生まれたかったという思いは変わらないまま。それなのにベリーショートにもできなかった。所詮、それくらいの気持ちなんだ。きっと。
そう思わないと、十四年の長い片思いに終止符を打つことは何年経っても無理だ。
「それより、どうしたんだよ。髪も切ったし、大丈夫か?」
気付いてくれた。嬉しい。
まだ踏ん切りのついていない私の心は、それだけで少し、傷が回復した。
これじゃあ髪を切った意味がなくなるのに。
「気分。じゃあ私、帰って寝るね。これ、お祝い。みんなで食べて」
押し付けるようにロールキャベツを渡して、逃げるようにエレベーターへ乗り込んだ。
必死に止めた涙は枯れることなく溢れてくるから、きっと明日も目は赤く腫れている。
彼の幼馴染に戻れる日は来るのかな。来ないかもしれない。
それでも幼馴染としてでもそばにいたいという私の気持ちは、誰が聞いてもきっと呆れられてしまう。
それくらい、苦しいけど好きなんだよ。
短くなった髪の毛に触れながら、拭うことなく涙を流した。

『少し会ってお話しませんか?部長』
彼女からそうメッセージが届いたのは、体育祭から二週間ほど経った日曜日。
『いいよ。どこにする?』
百笑はたまに私のことを名前ではなく、部長と呼ぶことがある。それでそれは、何かを相談したいときが大半。あとは面白がっているとき。
『とりあえず紗綾の最寄り駅まで行くね』
指先ひとつで送られてくるメッセージ。
数十分経つと、『電車に乗ったよ』と、行きます!スタンプと共にメールが送られてきた。
百笑の最寄り駅から私の最寄り駅まで、十分ちょっと。
赤信号でちょうど立ち止まっていたから、向かってます、のスタンプを親指で送っておいた。
電車が着く頃に私も到着できそうだ。
改札前の駅特有の白い椅子に座って彼女を待つ。
ちらほら人が改札をくぐるのを見送って、次の電車かな、と思い始めたころに無表情でICカードをかざす彼女が目に入った。
白シャツにデニムのショーパン。細い脚がよく映える。
「いやー、やっと髪切った紗綾に慣れてきたよ」
開口一番、ここ最近のいつもの一言。
「どうせ次会ったときも同じこと言うくせに」
「だってまだ私の中の紗綾は髪の長い紗綾だから」
笑いながら話していると、駅員さんの視線がこちらに向いている。女子高生二人の会話はうるさいのかもしれない。顔が怪訝そうに歪んでいる。
「どこ行く?」
「んー、甘いもの食べたいかも」
あ、じゃあ前のカフェに。
そう思ったけど、電車に乗ってきてもらってまた来た方向へ行く電車に乗せるのはさすがに酷だ。
「じゃあとりあえず、カフェに入る?」
駅前のカフェ。ここからも見える、すぐそこのお店を指さした。
「うん!」
頷いた彼女を横目に、軽く駅員さんに頭を下げながら外へ出る。
日の光がジリジリと肌を照らす。あと二週間もすれば七月になる。夏本番目前だ。
木の扉を開けて中に入るとエアコンの効きがいい感じで、火照った身体を冷やしてくれる。
「ご注文お決まりになりましたらお声がけ下さい」
レジの前で、二人してメニューとにらめっこ。
ドリンクはもちろんココアフロートだけど、スイーツメニューは誘惑だらけだ。
「これと、これ、お願いします」
サクッと決めた百笑は、サクッと注文を済ませてしまった。
「じゃあ私は、これとこれで」
ちゃんとメニューに書いてある名前で言うつもりだったけど、彼女につられてこれこれしてしまった。
「かしこまりました」
店員さんの優しい声。
お会計を済ませて、窓側のソファー席に腰掛けた。
「どうしたの?なんかあった?」
少し間をおいて話を聞く体制にはいる。今日の一番の目的はこれだ。
「うん。大丈夫?紗綾」
「え、なにが?」
「そろそろ聞いてもいいかなって。髪切った本当の理由とか、しょっちゅう目が赤かった理由とか」
スイーツよりも先に来たクリームソーダを飲みながら言った。
相当心配をかけていたみたいだ。
というのも、そろそろとか言いながら、まだ少し聞きづらそうだから。
「失恋、したの。小学生のころからずーっと奏真のこと好きだったから、結構ダメージ大きくて。心配かけてごめんね」
正直まだまだ大好きだし、頭の中は奏真でいっぱいだけど、そればっかりにとらわれてたら生きていけない。
それにありがたいことにお母さんが家にいないからこそ私がやることが溢れていて、そのおかげで少し気が紛れている。
料理、洗濯、掃除、あと勉強。
恋にうつつを抜かして成績が落ちるとかよく言うけど、来週から始まる一学期の期末テストは今までで一番いい点が取れそうだ。
「そっか、もう大丈夫なの?」
「万全な状態ではないけど、いつかは新しい恋をして私も奏真に負けないくらい幸せになりたいって思ってるよ」
そのいつかは何十年も先になるかもしれないし、こんなに奏真のことを思っている私を振ったことを後悔させることもできないけど。
まだまだ未練タラタラだけど、いつか。いつかきっと。誰かに言って聞かせられるような、人生経験のひとつとして恋をしたい。
「ちなみにさ、奏真くんのどんなところが好きだったの?」
それはまだ失恋していないときに聞くことだろうに。こんなこと話したら、まだまだ引きずっていくことになりそうなのに。
「心配性で、すっごく優しいの。だから私、あの体育祭の日まで一人で帰ったことはなかったし、奏真に話せないのは恋心だけだった」
お腹がいたくて一瞬顔を歪ませただけでも気付いてくれて、寝かせてくれたりした。
寒さで手をポケットに入れていたら、コンビニのひとつの肉まんとふたつの温かい紅茶を買ってきてくれて、肉まんはふたりで半分こ。少し大きい方を、いつも私にくれた。
問題が解けなくて先生に「もういいよ」と言われて泣きそうだったとき、屋上へ連れ出してくれて涙を流す私の肩をさすってくれていた。
肝試しも私が怖いのが嫌いって分かっているから、幼稚園の頃から手を繋いで少し前を歩いてくれていた。
かっこ悪いところもあるけど、いいところが山ほどあって、それを幼い頃から一番近くで見てきたんだ。惚れずにいるのは不可能な話。
「そうなんだ。そんなに幸せそうに奏真くんのこと話せるなら、出会えてよかったし恋をしてよかったってことだよ。無理に忘れなくても、少しづつ前を向けばいいんじゃない?」
いつの間にか運ばれてきたナッツとキャラメルソースのクロッフル。新商品。
初めて食べたクロッフルは、クロワッサンをワッフルにしただけあって結構バター感が強かった。結構重かった。私には。
未だに心を占める奏真への思いくらい、重かった。
「ありがとう。百笑がいなかったら私、奏真に恋したこと後悔してたかもしれない」
それでも今、救われた。百笑の言葉に。
自分でも嫌だと思うほど重い気持ちも、なんだか少し、そこまで好きでいられる自分が好きになれた気がした。
「てかさ、ごめん、私文化祭のとき紗綾の邪魔してたよね?」
ハッと思い出したかのように口を開く。
「なにがなにが?」
正直がむしゃらで、二日間しっかり働いたことしか覚えていない。部長という責任感で、必死に働いていただけ。
「シフトの時間がって気にするとき、今考えたら奏真くんの方見てたなーって。一緒に回る約束してた?」
そういえばそんなこともあった。
今思えば、変なことを口走らなくてよかったからある意味助かったのかも。
「ううん、全然。一方的に一緒に回れたらなって思ってただけだよ」
「そっか」
一に沈黙、二に沈黙、三に沈黙。
「この前弓助さん来てたじゃん」
先に謎の沈黙を破ったのは百笑だった。
「あー、そうだね」
弓助さんは学校でお世話になっている弓具店で、握り革だったり弦だったりを定期的に売りに来てくれる。大会前とかは特に。
「透明の中に金箔が入ってる筈があって、すっごく可愛かったの」
たまに弓助さんはオリジナルの商品を作って持ってきてくれることがある。
弦巻も、どこにでもあるものかと思えば内側に『弓助』と印字されていたことがあった。
「買ったの?」
「買えなかった。お財布忘れちゃってさ」
残念そうに、アイスとブルーハワイが混ざって薄い水色になったクリームソーダを軽くストローで混ぜていた。
「じゃあ次だね」
「うん。次こそは絶対ゲットする」
そんなどうでもいいような話をして、数時間。
ママ友並にドリンクとデザートだけで話し込んでいると、彼女のスマホが着信画面に切り替わった。
「あ、ちょっとごめん」
私に一言伝えると、耳元にスマホを押し当てる。
「うん、うん。あー、わかった」
百笑が電話している声を聞きながら、すっかり薄味になったココアを吸い上げる。氷がもう溶けてしまっただけあって、ココア風味の水を飲んでいるような感覚になった。
「ごめん紗綾、先帰る」
電話を終えると、荷物をまとめながら言った。
「いいよ。どうかしたの?」
「今日従姉妹が泊まりに来るんだけど、お母さん残業になっちゃって。鍵開けないといけないんだよね」
「大変じゃん!早く帰ってあげて」
「ありがとう」
たまに時計を見ながら残りのドリンクを飲み終えると、「ほんとにごめんね!また明日!」と急に来た嵐のように帰って行った。
「お母さんかぁ」
別にNGワードではないし、奏真にさえも本当のことは話していないけど、少し羨ましいと思ってしまう。本当に、一ミクロンくらいだけど。
「帰ろ」
空っぽになったお皿たちをそのままに、荷物を持って店を出る。ムワッとした暑い空気が直接肌に触れた。
日に日に日が長くなっていて、吹いている風からは正真正銘夏のにおいがした。
このまま帰るのもなんだか勿体なくて、隣の隣にあるアイス屋さんに寄ってテイクアウトの抹茶ストロベリー味のアイスを買った。
夏の草原に赤い花が咲いたような、綺麗な色合いにパステルイエローのスプーンが刺さっている。
食べながら歩いていくと、ギターを弾いているあのときのお兄さんがまた、同じ場所で歌っていた。
口から紡がれるバラードの、ゆったりした音調がよく似合っている。
一曲歌い終わると、今度は知らない曲が彼の手元から流れ始めた。
一曲聞き終わって横断歩道を渡ろうとする足がピタッと止まった。私だけ時間が止まったかのように、動けなかった。
初めて聴く歌に、驚くほど心が吸い寄せられていた。

ごめんね
君のことはなんでもわかっているつもりだった
ずっと繋がっているはずの運命の赤い糸
プツンと切れた日はまだ忘れられない
荷物は全部手元から消えたのに
頭の中に残る思い出だけは
もとから取り付けてあったかのようにその場を動かないんだ

二人で笑いあった日々は本物なのに
今まで思い出すだけで幸せだったのに
今はこんなに苦しいよ
雪が散るあの日
二人で分け合った肉まん
君の方が多く食べていたけど
美味しいって笑うその笑顔が
僕にとって最高の幸せなのに

ごめんね
『別れてほしい』その言葉に
『別れたくない』って駄々を捏ねたあの日
君は涙を滲ませながら困ったように笑ったよね
告白が成功して嬉しすぎたあの日
僕が大きな声でガッツポーズをしたときとおんなじ顔だった

二人で過ごした日々は本物だから
出かけるたびに思い出すよ
夕日が綺麗なデート帰りの定番のカフェ
君のお気に入りのケーキ屋
二人で楽しいと笑いあった思い出が
今でも僕の頭と心を君でいっぱいにするんだ
今でも愛おしい君の笑顔が

向かいの道路
ふいに見つけた君の姿
久しぶりに見た君
隣には新しい恋人
もう違う人が君のことを守っているんだね
僕もいつかこの恋に終止符を打てるように
ありがとう。いい恋だった
そう思えるように
今はこっそり
君を想って涙を流すよ
ごめんね。ありがとう
____さようなら。僕の恋心

全てを聴き終わる頃には、目からボロボロとおかしいくらい涙が溢れていて、手元をひんやりと冷やしてくれるアイスはドロドロに溶けてしまっていた。
「……えっ、大丈夫ですか?」
歌い終えて顔を上げたお兄さんは、ギョッとした目で私を見て勢いに任せて立ち上がった。
「すみません、すごく心に響いて……」
私と奏真をそのまま当てはめたような、そんな歌だった。
「ありがとうございます。えっと、とりあえずどこか入りますか?」
ギターを片手にあわあわとしているお兄さん。
「……はい」
せっかくなら、この歌が誰の歌なのか聞いておきたい。あと、こんなに素敵な歌声を聞かせてくれたことへのお礼も。
「ちょっと待ってくださいね、片します」
せっせとギターをケースへしまい、肩にかけた。身体の輪郭から斜めにはみ出るギターケースは、素敵なお兄さんをより素敵に魅せる。
「夜ご飯食べましたか?」
「いえ、まだです」
溶けたアイスはあまり良くないと聞くから、残念だけどしわくちゃのスーパーでお豆腐を入れるようなビニール袋のなかに入れてごめんなさいとさよならをした。
「じゃあ、ファミレス行きますか」
映画館の建物の一階のフロアに入っているお財布に優しいイタリアンレストランへ入る。
久しぶりに入った。エビ入りのサラダとミートソースドリアが有名なこの店は、どこにでもあるチェーン店。安くて美味しい、お馴染みの味が楽しめるのがいいところ。
「あの、お兄さん」
席へ案内されてそうそう、机の上に丁寧に置かれたメニューには目もくれず、お兄さんに話しかけた。
「ん?」
慣れた手つきで縦長のメニューを開くお兄さんは、優しい笑顔でこちらを見た。
「あの、さっき歌ってた『ごめんね』から始まる歌、誰が歌ってるやつですか?」
もう一度聴きたい。なんならアラームにしたい。
もしかしたらお兄さんの声で聞いたから心にストンと落ちてきただけで、ご本人様が歌ったら全然違うパターンも有り得るかもしれないけど。
「あー、あれ?あれかぁ……」
右手で首の左側をポリポリと掻きながら、照れたように俯いた。
相当その歌手の人が好きなのかな。推しなのかな。
「実は僕が作ったんだよね。生まれて初めて作詞作曲したやつ」
顔を少し赤く染めて、囁くように口にした予想外の答え。
「え!そうなんですか!最高です!」
口からは明らかにびっくりマークが単語ごとに付いていると分かるほど、興奮してしまった。
これは、もう。無意識に足を止めてしまうくらいなら、もう。
「私、お兄さんのファンになっちゃいました」
胸の内にしまっておくつもりが、普通に声に出して伝えてしまった。
恥ずかしくて、顔が熱い。
「ありがとう、嬉しい」
そう答えるお兄さんの顔も、さっきよりも真っ赤になっている。
「僕、若草惟人っていいます。大学一年、十九歳です」
「私、如月紗綾です。高校二年の、十七歳です」
二人して頬を染めながら、お互いの名前と年齢を知った。