「じゃあ、ここで」

 旅館の入り口まで戻ってきていた。僕が何を考えているのかは、つないだ手から桜乃には伝わっているのだろう。

 桜乃の心に負担をかけているのではないかと案ずる気持ちも、少しでも早く手を離した方が彼女にとっていいのではないかと思う気持ちも。だけど伝うぬくもりをまだ感じていたいと思う気持ちも。それと同時に心の中にわだかまりを作っている麗奈を刺した犯人を気にしていることも。

 麗奈が傷ついて苦しんでいる間に僕は何をしているのだろうと沈みがちになる気持ちも全て桜乃には伝わってしまっているのだろう。

 空を見上げてみる。いつの間にか星空が隠れて風が強くなってきていた。それどころかぽつぽつと小さな雨粒すら落ち始めていた。こんな時に天気まで崩れなくてもいいのにと心の中で思う。

「そういえば九州の方に向かっていた台風が急遽進路を変えてこちらに向かっていると、昨日の天気予報でいってましたね。速度も急に速まったらしくて、もしかしたら明日には直撃かもしれませんね」

 桜乃が空を見上げながら何気なく告げる。

 台風が近づいてきているのは気がついていなかった。この旅館はネット予約にも対応しておらず、そのためもともとかなりの穴場ではあったのだけど、客が少なかったのは台風のせいもあったのかもしれない。

 桜乃はどこか瞳に疲れたような色を浮かべながら、ため息を一つだけこぼした。

「浩一さん。じゃあ、私はこれで失礼しますね。もしも台風が来るようでしたら備えもしなくてはいけませんから。いろいろと」

 桜乃は少しだけ外をみつめて、それからすぐに手を離して旅館の中へと戻っていく。

 今まで何もなかったかのような態度に、どこかほっとしたような、寂しいような複雑な気持ちを抱いた。

 桜乃は旅館の事もいろいろとしなければいけない事があるのだろう。
 桜乃の言葉が気にならないといえば嘘になる。桜乃は犯人を知っている。だけど僕にそれを告げはしなかった。でもそれをしなかったのは、本人が言うように僕に未来を見せて欲しいからではないのだろう。

 本当は知る事が出来ないはずの力を利用してしまえば、それは自分が人ではないと深く認める事になってしまうから。少しでも普通の人と同じでいたかったからではないのだろうか。

 たぶん彼女は今までも人の心を知りながらも、それを知らないふりをしながら生きてきたのだろう。僕が未来を見る力を持っていたからこそ、思わず漏らしてしまったのだと思う。

 だから僕は桜乃に犯人が誰かとは問い詰めなかった。
 そしてたぶん僕には犯人の目星がすでについていた。

 桜乃は僕に辛い想いをすると告げた。もしも見知らぬ相手が犯人なのだとすれば、僕が辛い想いをする理由にはならない。だから仲間のうちの誰かが犯人である事は間違いないのだろう。

 そうは思いたくなかった。信じたくはなかった。それでも今となっては疑わない訳にはいかない。

 そしてそうだとすれば、一番怪しいのは響ということになる。部屋においてきた大志が犯人である可能性はほとんどない。位置的にも体格的にも難しいはずだ。しかし響であれば、見かけた犯人の体格的にも十分に当てはまる。

 ただ確証はない。いちど部屋に戻って、そして響と話をしよう。それで何かがわかるかもしれない。

 麗奈は命を失った訳ではない。医者の話によれば麻酔をかけた事もあってしばらく目はさまさないけれど、命に別状はないし、おそらく問題が起きる事はないとの話だ。それならばまだやり直せる。罪を背負ってもらうとしても、取り戻せるはずだ。

 そして部屋へと向かおうとした瞬間だった。
 再び僕の脳裏に新しい未来が映し出されていた。

 荒れ狂う海。強い風が吹いて、雨が激しく打ち付ける。

 その中で響が叫んでいた。その手にナイフをもって、何かを伝えようとしていた。しかしその言葉は風と雨の音でかき消されていた。

 響の前には矢上が立っていた。矢上は響を前に恐れを隠せずに、少しだけ後ずさる。

「矢上!?」

 いま起きている現実ではないと知っていたけれど、僕は叫ばずにはいられなかった。

 そして矢上が僕にきがついて、じっと僕を見つめていた。何かすがるような瞳を僕へと投げかけていた。

 映像はここで途切れる。この未来はおそらく比較的近くに起きる未来だ。

 これが桜乃の言っていた辛い想いをするという言葉の正体なのだろうか。響が麗奈に続いて矢上を襲おうとしているという事なのだろうか。

 胸の鼓動が激しくて、僕は思わず胸を抑える。ばくばくと強く打ち付けるように心臓が悲鳴を上げていた。

 こんな未来があってたまるか。僕は止めなければならない。絶対に止めるんだ。
 男性部屋の中に入るが、誰の姿もない。響はもちろん大志の姿すらもなかった。どこにいってしまったのだろうか。

 なんだかんだでそれなりに時間は遅い。どこに向かったとも思えなかったけれど、もしかしたら女性部屋の方に行っているのかもしれないし、あるいは風呂にでも入っているのかもしれない。

 窓越しに隣の部屋を確かめるとまだ明かりがついていた。少なくとも誰かが起きてはいるのだろう。矢上ももしかしたら部屋に戻ってきているかもしれない。

 まずはそちらにいるのかどうか確かめる必要があった。女性部屋の方へと向かう。
 扉をノックして、それから中の返答を待つ。

「……はい」

 扉の向こうから小さな声で答えたのは楠木のものだった。

「あ、楠木さん。夜分悪いね。井坂だけど、ちょっといいかな」

 僕が扉ごしに声をかけると、すぐに扉があいて楠木が姿を現していた。

 だけどそこに立っていたのは、いつものどこかのほほんとした楠木ではなくて、いまにも泣き出しそうな眼差しを僕に向けていた。

「浩一さん」

 僕の名前を呼ぶと同時に、その目頭に涙が浮かんでいた。

 何が起きたのかわからなくて、僕の心臓がばくばくと強く弾けるかのように鼓動していた。いつもマイペースな楠木が泣いているところなんて見た事もなかったし、考えた事も無かった。それなのに今は目の前でぼろぼろと涙をこぼし始めていた。

「何があったの?」

 僕が問いかける声に、楠木は僕の胸の中に飛び込んできていた。
 驚きを隠せないが、とにかくまずは落ち着いてもらおうと楠木の頭に手をのせていた。

「浩一さんっ、ふぇ……うぐ」
「どうしたの、泣いていてもわからないよ」

 楠木の様子を見たところ、麗奈のように誰かに襲われたといったような状況ではないようだった。

「はい……。えっと、この時間になるのに真希さんが戻ってこないんです。外はもう雨も風も強くなってきているし、電話をかけても、ライムを送ってもつながらないし。どこかで何かに巻き込まれたんじゃないかって。竹川さんと月野さんが探しにでたんですけど、お二人からも何も連絡もなくて。浩一さんもいないから、本当に心配で。みんなに何かあったんじゃないかって」

 言われてみて携帯を見てみると、僕にも何通かライムのメッセージが届いていた。スマホは部屋に置いたままにしていたので、全く気がついていなかった。

「僕は平気だよ。わかった。僕も矢上を探してくる。もし先に矢上が見つかったら、連絡して欲しい。こっちも定期的に連絡いれるよ」

 僕はスマホを手にして、振り返って走り出す。
 麗奈の事件のために忘れてしまっていたけれど、確かに矢上も防空壕の前ではぐれてから姿を見ていない。まさか麗奈が話した言い伝えのように、一人ずついなくなってしまうなんて事もないだろうけれど、矢上が行方不明な事には変わりなかった。

「うう。浩一さん、よろしくお願いします。……お気をつけて」

 背中から楠木の声が聞こえてくる。でもいまはその声を聴いている余裕がなかった。

 旅館に備え付けてあった傘を二つ借りる。矢上は傘を持っていないだろうから、余分に借りておいた。