旅館に戻ってきていた。殺人未遂事件が起きたばかりの旅館は、どこか息を潜めているようで静まりかえっていたように思う。この旅館には他に誰もいないのではないかと、錯覚させるほどに。

 楠木と別れて部屋に戻る。そこには大志と響の姿が見えた。

「響!」

 思わず響の名前を叫んで手を握りしめていた。

 響が無事であった事に安心すると同時に、強い憤りが浮かんでくる。こんな事が起きるまで、響はどこで何をしていたのか。響が犯人なのかもしれない。そう思うと感情が抑えられなかった。

 複雑な感情は僕の心を螺旋のように渦巻いていて、まだ何もわからないのに敵意すら浮かんでいたように思う。

「浩一か」

 響は僕の顔をみるなり、どこか低く暗い声で答えていた。麗奈が刺された事実は当然知っているのだろう。

 響が麗奈を刺したのか。いやまさかそんなはずはない。でもじゃあ他に誰が。
 僕の中でぐるぐると渦巻く感情は、整理できないまま僕の口から漏れ出していた。

「お前がやったんじゃないだろうな」

 そんな事を話すつもりではなかった。だけど僕の口をついてでたのは、響を疑う言葉だった。この感情を誰かにぶつけずにはいられなかった。

「だとしたらどうする」

 響は吐き捨てるように告げていた。
 違うと否定すると思っていた。否定してほしかった。だけど響は逆に冷たい質問を僕へとぶつけてきていた。

 その瞬間、僕は自分でも何をしているのかわからなかった。

 ただ右拳を握りしめて、そのまま殴りかかっていた。
 しかし響は僕の拳を避けると、その腕を掴む。そのまま少し捻るようにして、僕を捕まえていた。右腕に強い痛みが走る。ただそれも構わずに僕は今度は左拳を握る。

「こ、浩一くん、響くんも、や、やめてよ」

 大志はおどおどとしながら、僕と響の近くであたふたと手を動かしていた。
 それが合図だったかのように、響は僕の手を離した。

 僕も握っていた手をほどく。

 別に響と殴り合いの喧嘩をしたかった訳じゃなかった。そもそも殴りつけようだなんて思ってもいなかった。ただ何か感情が爆発して、気がつくとそうしていた。大志の声で少しだけ落ち着きを取り戻したと思う。

 だけどふつふつとわく激情が冷めてしまった訳ではなかった。
 響が麗奈を傷つけたのかもしれない。そう考えただけで、黒い感情が僕の心を満たそうとしていく。

「麗奈は防空壕の中で誰かに襲われた。今までどこで何をしていたんだよ」

 僕の言葉に響の表情に驚きの色が浮かべていたと思う。驚いたという事は麗奈がナイフで刺された事は響も大志に聴いてはいるだろうが、防空壕の事は知らなかったということだろうか。それとも僕に見られた事に驚いていたのだろうか。わからない。

 ただ響はすぐに吐き捨てるように僕へと言葉を投げつけてくる。

「麗奈くんの為に必死か。麗しい兄妹愛だな」

 どこか吐き捨てるような口調ではあったが、しかしその言葉はどこか僕へと向けたものではないように思えた。もしかしたら響も麗奈の事に責任を感じていて、それが荒い言葉を吐かせていたのかもしれない。そうだとしても響が何をしていたのか、訊かない訳にはいかない。

「そんなことはどうでもいい。質問に答えろ。答えないつもりなら腕ずくでも答えさせてやる」

「お前が、この俺を? は、無理な話だな」

 響のどこかあざけるような声に、僕はいらつきを隠せない。

 確かに響とは体格差もある。力尽くで何とかするのは難しいかもしれない。だけどそれでも今の僕にとっては、無理で済ませる訳にもいかなかった。

「もういちどだけいう。何をやっていた」

 僕は冷たい声で投げかけていた。抑揚がなくてロボットみたいだと自分でも思った。
 感情がどこか壊れ始めていたように思えた。

 本当は響を疑いたくなんて無かった。だけど何かしていないと自分の心が崩れていきそうに思えた。だから言わずにはいられなかった。

「……防空壕の中で小さな分かれ道がいくつかあって、僕はその奥で迷っていたんだ。麗奈くんが中に入ってきていたなんて事も知らなかったし、その間にこんな事になっているとも思っていなかった。俺だって悔しくてたまらない」

 響の声は確かに事態を悔やむ意思が感じられた。

 響は嘘をついているかもしれない。だけど嘘だなんて思えなかった。思いたくなかった。犯人は別にいるんだと信じたかった。

 信じるべきなのか、それとも疑うべきだったのか。わからない。わからなかった。だけど信じたかった。響はそんな奴じゃないと信じたかった。

 息を飲み込む。

 麗奈はたったひとりの双子の妹だ。ふだんは少しうっとうしく思う事もあるけれど、大切な家族だ。こんな事態になって犯人を捕まえるためなら何でもしようと思う。だけどそれは響や大志をないがしろにしてでもという意味じゃない。その二つを天秤にかけるような真似はしたくなかった。

 喉が渇く。何を告げれば良いのかわからない。

 それでも信じたい。信じようと思った。

「……そうか。それならいいんだ。疑うようなことを言って悪かった」

 もう響の顔を見ていられなかった。そのまま僕は部屋を抜け出していた。
 頭の中がピカソの絵のように、ぐちゃぐちゃで理解できない感情であふれ出していた。ただいまはその気持ちを何とか消さなければならない。

 背中から大志が僕を呼ぶ声が聞こえてくる。でもいまは立ち止まれなかった。
 ただ僕はこの場から離れたかった。

 一人になりたかった。だから外へと向かっていた。