――僕はよく、水の中にいる夢を見る。
 苦しくて、冷たくて、光がカーテンのように揺らめく水面に向かって僕は必死に手を伸ばすけれど、どんなに泳いでも身体はどんどん暗い水底に沈んでいくばかりで。僕の声は、だれにも、どこにも届かない。


 ***


 優等生。ものわかりのいい子。頼れる委員長。アイドル、藤峰(ふじみね)水月(みづき)の弟。
 これらの言葉は、僕の中で呑み込まれることなく喉につまったまま、ぎゅうぎゅうと僕の首を絞めつけてくる。 
 クローゼットに備え付けの鏡を見る。映っているのは、見慣れた、見飽きた能面のような自分の顔。ブレザーをハンガーから引き抜いて、クローゼットを閉める。
「……おはよう。頑張れ、僕」
 呪文のように呟いて、ドアノブを握る。
 さて、今日も一日が始まる。
 寮の部屋を出たら、僕はいつものように優等生の皮を被る。
 
 高校一年生、五月の初め。クラスメイトたちにも少しづつ慣れてきた今日この頃。
 教室に入り、自席につく。教室内にはまだだれもいない。静かな今のうちに予習を始める。
 自習を始めて一時間ほど経つと、ぱらぱらとクラスメイトたちが登校してきた。
「藤峰おはよー」
「おはよう、石田(いしだ)
 一番に教室に入ってきたのは、石田航太(こうた)。明るく元気なクラスのムードメーカー。ちょっとバカだけど良い奴だ。
「おはよう、藤峰。今日も早いな〜」
進藤(しんどう)、おはよう。今日は朝練休み?」
「うん。眠くてサボっちゃった」
 つづいて入ってきたのは、進藤明来(あくる)。野球部のエースだ。うちの高校は甲子園常連校で、部員は全国から選抜されている。しかも二年生を差し置いてのエースはめちゃくちゃすごい。……ちょっと不真面目だけど。
「藤峰おはよ〜!」
「おはよう、圭司(けいじ)
「頼む! 数学のプリント見せて!」
 来て早々俺の前で手を合わせたのは、安城(あんじょう)圭司。
 圭司もまた、この学校にスポーツ推薦で入った。圭司の専攻は競泳だ。既に日本記録を保持しているとか。気さくで取っ付きやすいから、最初聞いたときは冗談だろうと思った。
「……はいはい、どうぞ」
「サンキュー、助かった〜!!」
 圭司は競泳はすごいけど、勉強はちょっと苦手らしい。
 私立明日葉高等学校(しりつあしたばこうとうがっこう)
 学業、部活動ともに全国でも有数の名門校だ。
 僕は神奈川の地元中学から特待生として入学し、現在寮生活を送っている。
 プリントを渡すと、安城は自席につき、かりかりと自分のプリントに答えを写し始めた。僕も自習に戻る。
「なぁ明来〜、今日帰りにマック行かね?」
「また?」
「昨日のハンバーガーめっちゃ美味かったんだもん」
「あーでも今日部活なんだよなぁ」
「サボりゃいーじゃん」
「そうだな。行くか」
 それぞれの自席から大きな声で話すふたり。いいなぁ、とふたりの話を聞いていて思う。
 放課後に友達と遊びに行って買い食いなんて、一度もしたことがない。僕だって、たまには自習をサボって友達と遊びに行ったりしてみたい。
 ……思うだけで口には出せないけれど。
 つまらない煩悩は頭の外に追いやって、僕は目の前のルーズリーフに数式を書き込む。
 と、そのとき。
「おはよー! あっ! いたいたっ! ねぇ藤峰くんっ!」
 扉をがらりと開けて新たに教室に入ってきたのは、クラスメイトの女子数人。
 佐藤(さとう)彩美(あやみ)波多野(はたの)美夜(みや)丸木(まるき)優花(ゆうか)
 目が合うと、なぜか全員僕のもとへやってきた。しかも、ものすごい勢いで。
 なんだろう、なんか怖い。
 ちょっと身構えていると、
「ねぇ、藤峰くんってあの藤峰水月の弟って本当!?」
 その瞬間。きぃんと金属が擦れるような、嫌な音が頭に響いた。
 思わず一瞬顔をしかめた。
「――あぁ。うん、まぁ」
 さらりと答えながら、すぐに愛想笑いを貼り付ける。
「言ってなかったっけ」
「聞いてないよ〜!」
 藤峰水月は、僕の兄だ。今年高三になる水月は、男性アイドルをやっている。結構人気があって、同年代で知らない人はまずいないだろう。
「マジ!? すごーい!!」
 女子たちは僕の席の周りで兄の話をして、キャッキャと盛り上がっている。
 急激に、みんなの声を遠くに感じた。
 あぁ、まただと思う。僕を通して僕じゃないだれかを見る。いつになったら、僕はだれかの目に止まるんだろう……。
「ねぇ、水月くんって家だとどんな感じなの!?」
「え……?」
「藤峰くんに対してとか!」
「あぁ……べつに、普通の兄貴だけど」
 水月は、アイドルの前にただの兄だ。ぶっちゃけ家ではぐーたらな普通の兄貴だった。……まぁ、今は離れて暮らしているからどうか分からないけれど。
「水月くんとメッセージ交換とかするの!?」
 面倒だな、と心の中で思いながらも、当たり障りのないように答える。
「まぁ、家族だからね。ふつうにするけど、大した内容じゃないよ」
「えぇ〜いいなぁ」
「家族がアイドルとか憧れるよねーっ!」
「ねーっ!」
「そういうものかな?」
「ねぇサイン欲しいんだけど!」
「あっ! 私も私も!」
「あぁ……ごめん。そういうのはできないって、水月から言われてるんだ」
 心底申し訳ないという顔を作って謝ると、女子たちはため息をつきながらも納得してくれた。
「なぁんだ、そっかぁ」
「残念。でも仕方ないね」
「ごめんね」
 謝りながら、みんなに気付かれないように小さく息を漏らす。
 ……あぁ。この世界は、なんでこんなに息苦しいんだろう。
 
 朝礼の時間になると、担任教師の雨谷(あめや)隆弘(たかひろ)が教室に入ってきた。僕のクラスの担任教師だ。
「ほーい席につけー。ホームルーム始めるぞー」
 教材を机の中にしまい、教卓を見る。
「さて、出席取るぞ……と、言いたいところだが、三石(みついし)がいないな」
 雨谷先生は窓際の一番前、空白の席を見てため息をつく。
「悪いが藤峰、三石を連れてきてくれないか」
 ……言われると思った。
「はい」
 仕方ない。頷き、席を立つ。
 教室を出て、徒歩十分かかる僕らの寮に戻る。
 部屋番号、七〇五。家主・三石コウ。僕のクラスメイトであり、学年一の問題児だ。
 三度ノックをして、声をかける。
「おーい、三石。いるかー?」
 返事はない。
「三石ー」
「…………」
 絶対寝てるな、これは。
 とんとん。とんとん。
 少し乱暴に扉を叩くと、ようやく中から物音が聞こえて、扉が開いた。
「――あ〜、柚月(ゆづき)。はよ。なに?」
 なに、じゃねえよ。もう登校時間とっくに過ぎてるんだよ。
 出てきたのは、例の問題児。
 明るい金髪、切れ長の瞳はとろんとしていてほとんど開いていない。寝起きの顔だ。
「時間、見ろ。もうホームルーム始まってるよ」
「時間? んー……」
「とにかく、顔洗って制服着ろ。学校行くぞ」
「あーダルいなぁ」
「ダルくても行くんだよ。学生なんだから」
「えー」
 僕は三石の部屋に押し入りながら、勝手にカバンに今日のカリキュラムの教材を突っ込む。
 まったく、今日使う教科書ぐらい、昨日のうちに用意しておけよ。なんで雨谷先生は、こんなやつを気にかけるんだろ。……放っておけばいいのに。
 心の中で毒を吐く。すると、喉元がさらに締め付けられるような気がした。
 三石の首根っこを引っ掴んで、なんとか教室に連れていくと、ホームルームはとっくに終わっていた。
「はよー」
 三石は遅れたことを気にする素振りもなく、むしろ大きな欠伸をしながら自席につく。
「三石おせぇよ」
「わりー。だって眠くて」
「ったく、そろそろ真面目に来ないと単位落とすぞ〜」
「マジかぁ。それは親に怒られそうだからダルいなぁ」
 クラスメイトたちと何食わぬ顔で談笑する三石にら内心イラッとくる。
 本来ならば、とうの昔に三石は単位を落としているはずだ。今無事にここにいるのは、僕がほぼ毎朝叩き起して学校に連れてきているからだ。
 もちろん、率先してやっているわけじゃない。雨谷先生に言われて仕方なくだ。それなのに、三石の寝坊ぐせはまるで治らない。たぶん、本人は治す気がない。
「三石〜。今日放課後カラオケ行かねぇ?」
「おー」
「三石くん行くなら私も行く〜」
「じゃあみんなで行こーぜ」
 三石は、当たり前のようにクラスの中心にいる。頭の良さをひけらかさず、壁もつくらない。だから三石はみんなに人気がある。……僕と違って、遊びにも誘われる。
 三石がちらりと僕を見た。
「柚月も行こうぜ、カラオケ」
「え……」
「今日の放課後。みんなでカラオケ。お前いつも勉強ばっかじゃん。たまには羽伸ばそーぜ」
「……僕はいいよ。勉強があるから」
 三石はじっと僕を見つめたあと、小さく「あっそ」と言って、それ以上誘ってはこなかった。
 ……べつに、寂しくなんかない。僕には遊んでる暇なんてないのだから。

 授業が終わり、放課後になるとなぜだか雨谷先生に呼び出された。なんだろう、と首を傾げながら職員室に向かう。
 渡り廊下を歩いていると、校門のところに三石たちがいるのが見えた。男女数人で、楽しげに話しながら出ていく。
 ……マックからのカラオケかな。
 足を止めて、みんなの後ろ姿をじっと見つめる。
 ……羨ましくなんかない。だって、僕にはやるべきことがある。
 特待生として入った僕は、みんなの見本としてしっかり勉強しないといけない。芸能人である兄のために、真面目な弟でいないといけない。親にいい子だと、先生にものわかりのいい子だと、クラスメイトたちに頼られる委員長だと思われないといけない。
 だから僕には、遊んでいる暇なんてないのだ。……特待生なのは、三石もだけど。
 
 職員室に入ると、僕は雨谷先生の姿を探した。教室三つ分くらいの広さはある職員室。たくさん並んだデスクのひとつに雨谷先生の姿を見つけて、「失礼します」と挨拶をしてからそこへ向かった。
 パソコンをいじっていた雨谷先生は、僕に気が付くと「あぁ」と軽く手を挙げてパソコンを閉じた。
「藤峰。放課後に悪いな」
「いえ」
「実は、三石のことで頼みがあってな。青柳(あおやぎ)先生、ちょっとよろしいですか」
 雨谷先生が学年主任の青柳先生を呼ぶ。青柳先生は雨谷先生と僕を一瞥すると、あぁ、となにやらひとりで納得したような顔をしてそばまできた。
「こんにちは、藤峰くん」
「こんにちは」
「じゃあ、ちょっと場所移動しようか」
「え?」
 わざわざ? ……なんだろう。ものすごく嫌な予感がする。
 そして、僕はなぜだか相談室に連れていかれた。先生たちを正面に座る。面談のようで落ち着かない。
「藤峰。高校生になって二ヶ月が経つが、調子はどうだ? 慣れてきたか?」
「藤峰は特待生だからなにかと大変だろう。もうすぐ最初の中間テストがあるし、特待生にとって成績はとても重要になる。それに、親元を離れて寮でもひとり部屋だし……なにか悩みはないか?」
 同時に話しかけられてもな、と思いながら上手く答える。
「……いえ、大丈夫です。勉強は楽しいですし、寮の生活にも慣れてきました」
「そうか。さすがだな」
「君は優秀で、生徒の鏡のような子だ」
「そんなことは……」
 まぁ、あるが。
「そこでなんだが、今日は藤峰くんにちょっと頼みがあってね」
「……はい」
 先生たちは顔を見合わせて頷く。
 なんだ、その意味深なアイコンタクトは。嫌な予感しかしない。
「実はな、三石と相部屋になってもらえないかと思って呼んだんだよ」
「三石と……ですか」
 戸惑いがちに雨谷先生と青柳先生を交互に見つめる。すると、青柳先生が穏やかな口調で言った。
「ちょっと三石くんの素行には手を焼いていてね。このままひとりで生活させるのはちょっと不安があるんだよ。それにね、君たちは特待生同士。同じ悩みを抱えている者同士で相部屋でも仲良くできるんじゃないかと思って」
「そうそう。三石はちょっと自由が過ぎるだけで悪いやつではないから、藤峰と同部屋になれば多少は生活態度も改善されるだろうということで、職員の中で話し合ってたんだよ」
「はぁ……」
 当事者の僕抜きでか。
「で、どうかな。藤峰。藤峰が嫌だって言うなら考え直すんだけど……」
 そんなの、嫌に決まっている。
 だって三石と相部屋になってしまったら、僕の息抜きの時間がゼロになってしまう。
 それになにより、相手が嫌だ。三石のことは、正直好きじゃない。
 ……でも。
「……いいですよ。毎朝寮に戻って三石起こしに行くよりは効率的ですし」
 僕は委員長だから、クラスメイトの面倒を見るのは僕の役目。先生たちに期待されてるのだから、ちゃんとその期待に応えないといけない。
 どれだけ、息が苦しくても。

 翌日から、早速三石との相部屋生活が始まった。
 三石は相変わらず自由気ままで、寝たいときに寝て起きたいときに起きて、話したいときに話しかけてくる。
 ねぇ、お前ってなんでわざわざ県外からここ来たの? 貧乏とか? 大学とかもう決めてんの? 俺さぁ、ぶっちゃけ特待生とかどーでもよくて。勉強とかただの暇つぶしなんだよねぇ。
 三石は、素直というか素直過ぎる奴だった。
 朝は少し遅く出るようになった。いつも僕が学校に行く時間に間に合うように三石を起こしたら文句を言われたからだ。譲歩して、十分遅くしてやった。もちろん、遅くしたからといって、起こさないと起きやしないが。
 放課後は、教室に三石がいるときは一緒に連れ帰って課題をさせる。うっかりして逃げられたときは、追いかけるほどでもないので大人しく泳がしておく。帰ってきたら机に縛り付けて、予習復習とまでは言わないまでも翌日提出する課題だけはやってもらう。
 それが、毎日毎日。
 おかげで息を吐く時間がなくなった。
 でも、仕方ない。だって、僕がやらなきゃ誰もやらないのだから。せっかく先生が頼ってくれたのだから。


 ***


 あっという間に一ヶ月が過ぎて、六月。灰色の季節、梅雨(つゆ)に入ったある日の放課後のこと。
「柚月〜、一緒に帰ろーぜ!」
「えっ……」
 いつもなら脱兎のごとく教室から逃げ出す三石が、話しかけてきた。驚いて顔を上げると、きょとんとした無垢な顔がある。
「あれ? 今日一緒に帰って課題やるって言ってなかった?」
 それはそうだけど。一体どんな心境の変化なのか。
 ……まぁ、やる気になってもらえたのならありがたいのだけど。
「……じゃあ、帰るか」
「おう」
 一緒に寮の部屋に帰って、僕はひとまず楽な格好に着替える。……僕が着替えているうちに、三石は制服のままベッドで寝ている。やっぱりだった。
「おい、なんで寝てんだよ! 着替えたら課題やるんだってば!」
 慌てて起こすけれど、
「あ〜……さっきまでそのつもりだったんだけど、雨だからダルい。眠いからひと眠りしてからにしよー?」
 自由にも程があるだろ。てか『雨だから』の意味が分からない。
「ダメ! 起きろ! 今すぐ起きろ〜!!」
「え〜……」
 三石は前髪をかきあげながら、渋々起き上がった。じっと見つめられている気配がして、顔を向ける。
「……なんだよ」
 これはろくなことを考えていないときの顔だ。絶対。
「……お前ってさ、そうやって優等生やってて、楽しいの?」
 喉がきゅっと絞られたような心地になる。
 楽しい……? そんなこと……。
 丸めたプリントで三石の頭をぽんっと叩く。
「あたっ!」
「楽しいってなんだよ。勉強するのは学生の本分だろ」
「でも、そればっかじゃ飽きるじゃん。もっと自由に生きよーぜ。眠いときに勉強したって頭に入んないし、だったらきっちり寝てから学校に行けばいーじゃん」
 それで成績が保てたら苦労しない。
「お前の自由度半端ねぇな……」
 げんなりする。
「ははっ! だろ!」
「いや、褒めてないから」
 あっけらかんと笑う三石が眩しくて、僕は目を細めた。
「つーわけでおやす〜」
「あっ、おい!」
 数秒で寝息が聴こえてくる。
「寝付き良すぎだろ……」
 ため息をつきながら、ぐーすか眠る三石の間抜けな寝顔を見つめていると、ふといつかの先生の話を思い出した。
『――さすが特待生だ。三石とは大違いだな』
『――三石?』
『――同じクラスにいるだろ。藤峰と同じ特待生なんだけどさ、自由奔放でまいったよ』
 入学してすぐの頃、三石に対する先生の評価は散々で。一体どんな問題児特待生なのかと思っていたけれど。
 三石は、たしかに問題児だと思う。
 ……だけど、バカじゃない。三石はただ自分に素直に生きているだけだ。三石は、僕なんかよりずっと利口な奴だった。


 ***


 テストが明けて、一週間が立った。返ってきた答案用紙を見て、僕は愕然とする。
 テスト科目のうち、四科目の点数が前回より落ちている。
 物理、化学、数学II。得意だったはずの英語まで……。
「…………」
 成績が、落ちている。明らかに。
 試験範囲はそんなに広くなかったのに……。これじゃ、このままじゃ、三年間学年一位はキープできない。
 特待生は、学年順位五位以内に入っていないと特待生制度を受けられない。成績が落ちてしまえば、その資格は剥奪される。
「うおっ! お前すげぇな。いつも首席入学の特待生ってお前だったのか」
 隣から三石が僕の答案用紙を覗いてくる。
 成績が落ちた理由は明白。三石に時間をかけ過ぎているのだ。
「藤峰はー……今回ちょっと成績下がったかな? でもまぁ一位は固いから安心しろ。お疲れ」
「……はい」
 雨谷先生の言う通り、一位は圏内だ。でも、ぐらついちゃダメだ。ダントツじゃないとダメだ。
 僕は特待生。優等生。委員長。先生に心配なんてされてたらダメだ。
「次、三石」
「ほーい」
「……お前はいつ勉強してるんだ? まぁ、点数は良しとして、お前は生活態度の改善だな」
「へーい」
 先生は三石の答案を見て、満足そうにしている。
 なんだよ。三石の点数はそんなによかったのか? どうしよう……もし、三石に順位が抜かされていたら。……笑えない。
 それに、この結果は親にも届く。このままじゃダメだ。心配されないように、もっと頑張らないと。もっと、勉強しないと。
 たとえ、寝る時間を削ってでも。
 その日から、僕は寝る間を惜しんで勉強に励んだ。


 ***


 七月の半ば。夏休みを目前にして、教室は既に夏休みモードで浮き足立っている。
 夏休みまであと一週間。だけどその前に、僕たちには大きな試練がある。来週から期末テストが始まるのだ。
 勉強してはいるけれど……同じ特待生の三石が隣にいるせいか、きちんと集中できている気がしない。
 あと一週間。徹夜してでも勉強しないと……。
「柚月〜、次体育だぞ。早く着替えねーと遅れるぞ」
 三石の声にハッとして目頭を押さえる。
「――あ、あぁ」
 もう二限終わったのか。あれ、ちゃんとノート取ったっけ。
 手元を見る。ちゃんと取っていた。よかった。
 ぼんやりするなんて僕らしくもない。次は体育……。早く着替えて向かわないと。
 体育着を持って、席を立つ。立った瞬間、頭がずきんとして、踏ん張った足の力が抜ける。
 視界が歪む。声すら出ない。
「おいっ! 柚月!」
 遠くから、珍しく三石の慌てた声が聴こえた気がした。


 ***


 目を開けると、白々とした天井が見えた。ちょっと視線を落とすと、同じく白々としたシーツ。独特の薬液の芳香。
 目が覚めると、僕は病院にいた。
「軽い脱水症と熱中症だってさ」
 視線を手元にずらすと、腕から細いチューブが繋がっている。
 今、何時だろう。学校は……。
「……あぁ、もう。最悪」
 テスト前にかなりのタイムロスだ。寝ている暇なんてないのに。
「勉強……しなくちゃ」
 鉛のように固まった身体を無理やり起こす。頭ががんがんする。でも、やらなきゃ。
 今からでも間に合うだろうか。今度こそ一位は厳しいかもしれない。三石は涼しい顔をしているし、もしかしたら三石に負けるかもしれない。でも、できるかぎりやらなきゃ。
 だって、これで三石より順位が低かったら、僕は……。
 ぎゅっと拳を握ったとき、すぐ耳元でかさりと乾いた衣擦れの音がした。見れば、ベッド脇のスツールに腰を下ろし、膝に頬杖をついた三石がいた。
「……あ」
 三石と目が合う。
「お前さぁ、バカにも程があるだろ」
「……はぁ?」
「倒れるほど勉強するとか、引くんですけど」
「……うるさい」
 目を逸らすと、三石はなぜだか嬉しそうに声を弾ませた。
「おっ、珍しくしょげてる?」
 本当にうるさいんだが。
「放っておいてよ」
 お前になにがわかるんだ。努力もしないで特待生の権利を得られるお前なんかに。
「……誰のせいだよ」
 ぼそりと小さな声で文句をつぶやくと。
「は? 自分だろ?」
「お前だよ!」
 鋭く突っ込むと、三石は心底驚いたというようにぽかんと口を開けた。
「はぁ? なんで俺のせいなの?」
 マジで言ってんの、こいつ。
「僕は主に、お前のせいで成績落ちてるんだよ!」
「成績が落ちたってのはまぁ、この前先生が言ってたから聞いてたけど。だからってなんでそれが俺のせいなんだよ」
「お前が真面目にやらないからだろっ……! お前の面倒見てるせいで勉強する時間が明らかに減ったし、心労も増えたし、こっちは迷惑してるんだよ!」
 叩きつけるように言うが、三石は全然動じない。
「だから? 俺がいつどこでなにしてようが、お前の成績には関係ないだろ」
 それに俺、べつに成績下がってねぇし。と、三石は平然と言った。
 ぎりっと奥歯を噛む。
「僕は先生たちからお前の面倒見るよう頼まれてるんだよ!」
「なるほど。じゃあ、先生が悪いんじゃん」
 さらっとした声で言われた。
「はぁ!? なんで……」
「だって、俺はべつにお前に面倒見てくれ、なんて頼んでないよ。頼んできたのは先生なんだろ? それなら先生のせいじゃん。なんで俺が責められんの?」
 真顔で返され、頭に血が上る。
 理屈がバカ過ぎてついていけない。いや、そうだ。バカなんだった、こいつは。
 三石が大袈裟なため息をつく。
「前から思ってたけどさ、お前っていつもそうだよな。大人の顔色うかがって、いい子ぶって。バカじゃないの」
 バカだと?
「うるさいっ! お前になにが分かるんだよ!」
「……大人が言う優等生っていうのは、ただ自分たちに都合のいい子供の言い換えだろ。柚月はさ、先生に都合のいい子って言われてるだけだよ。それで柚月は嬉しいの?」
 うるさい。そんなこと、言われなくたって分かってるよ。僕は大人の良いように利用されてるだけ。知ってる。だからなんだ。それこそお前には関係のない話だ。
「……なんの努力もしないで特待生の名をほしいままにするお前なんかに、僕のなにが分かるんだよ」
「じゃあ仮に、特待生じゃなくなったらどーなんの?」
「――は?」
 質問の意味が分からなくて、思わず顔を上げて三石を見た。相変わらず澄んだ泉のような瞳は、吸い込まれそうにどこまでも深い。
「特待生じゃなくなったら親に捨てられんの? 先生に無視されんの? みんなにバカにされんの?」
「…………」
 言葉に詰まる。
「……なんだよ、いきなり」
「だって、特待生でいなきゃなんない理由(わけ)があるんだろ?」
 ――理由。
 返す言葉が見つからず、うっかりおろおろしてしまう。
 ……違う。言い負かされたんじゃない。意味が分からないから答えられないだけだ。
「お前はすごいよ。誰より努力して、ちゃんとした結果を出してる。真面目で努力家で、理想が高くて、おまけに俺みたいな問題児にも優しい。お前が優等生だとまわりは助かるよ。でもさ、お前の気持ちはどこにあるの? なんのために特待生でいたいの? なんのために地方からわざわざここ受けて、面倒な寮生活なんてしてるの?」
「なんのためって、そんなの……」
 きゅっと唇を引き結ぶ。
「親のため? お前んちって、貧乏なの? 特待生でいなきゃ、学校に通えないの?」
「べつに、そういうわけじゃ」
「……だったらさ、そうやっていつもいつも本音を呑み込むのやめなよ。お前がお前を認めなかったら、なんにも残んないじゃん。自分で自分を追い詰めてんじゃねぇよ」
 三石はそう言い捨てて、病室から出ていった。呆然とその背中を見つめる。
「……お前みたいに素直になれたら、こんな苦労してねぇよ……」
 その背中にぽつりと呟いたけれど、たぶん三石には聴こえていないだろう。

「――藤峰っ!」
 三石が出ていってしばらくすると、雨谷先生が慌てた様子で病室に駆け込んできた。雨谷先生は肩で息をして、汗びっしょりで髪もボサボサだ。
「あ、雨谷先生」
 僕はまだ重い頭を支えるように腕に力を入れて、よろよろとベッドから起き上がる。頭だけ軽く下げると、きぃんと耳鳴りがした。一瞬、顔を歪める。
「いい、いい。起きるな」
「すみません……僕、迷惑ばっかり」
「迷惑なわけあるか。でもよかった無事で」
 雨谷先生は僕の肩を二、三度トントンと軽く叩くと、申し訳なさそうな顔をして頭を垂れた。
「すまなかった。お前にはいろいろと頼り過ぎてしまって……倒れるまで無理させてたなんて……本当に教師失格だ」
「え、いや……大丈夫ですよ。倒れたのは、僕の自己管理不足ですし」
 心底申し訳なさそうな顔をする雨谷先生を少し意外に思いながら、首を横に振った。
「……体調はどうだ?」
「もう大丈夫です」
「そうか……」
 雨谷先生は僕の顔を見てホッとしたのか、へなへなとスツールに座り込んだ。
「……いや、ダメだ。大丈夫って言うのは、お前の口癖だろう」
 え、と顔を上げる。目が合って、すぐに逸らした。
「いえ、そんなことは……」
「三石に言われたんだ。お前の大丈夫を真に受けるなって。……たしかにその通りだった。これからは気をつける。とにかく、今はゆっくり休め。もちろん、勉強もダメだぞ。体調が戻ってからな」
 黙り込んでいると、先生がわざとらしく僕の顔を覗き込んできた。
「返事は?」
「はい……」
 目が合い、先生がにこりと微笑む。
「よし。よろしい。……いや〜にしても暑いなぁ……こんなんじゃ校庭で運動なんて危なくてさせられんよなぁ。まったく最近の天候はどうなってんだか」
 意外だった。雨谷先生には、特待生のくせに自己管理がなっていないと説教を食らうかと思っていたのに。
 ……案外、良い先生だったのだな。
 汗だくの雨谷先生を見てふと思った。
 雨谷先生は、その後しばらく談笑してから帰った。そして、雨谷先生と入れ替わるように扉がガラッと盛大に開き……。
「藤峰っ!」
「藤峰〜!!」
 つづいてやってきたのは、石田に進藤。それから、クラスメイトの女子数名。
「大丈夫か、藤峰!」
「倒れるとか聞いてないよ〜」
「これ、激うまのパンやるから元気出せ!」
「あ、俺もポクリ買ってきた! これ飲めばすぐ元気になるから」
「あ、ありがとう……」
 あちこちから話しかけられる。騒がしい。
「藤峰くん大丈夫ー? 熱中症って辛いよね、頭ガンガンするし。私も部活中なったことあるから分かるよー」
「藤峰くんの場合は勉強し過ぎでしょ? 特待生ってそんなに大変なの?」
「藤峰くん頭いいんだから少しくらいサボったって大丈夫だよ〜」
 佐藤さん、波多野さん、丸木さんまで来てくれるとは思わなかった。こんなふうに女子からの視線を浴びたのは、兄の話以外では初めてだ。
「……みんな、どうしてわざわざ……」
 まさか、まさかだ。こんなにみんなが心配して病院まで来てくれるだなんて思わなかった。
「わざわざってなんだよ! 心配してきたのに!」と、石田が冗談交じりに怒り出す。
「だってテスト前だし……みんなだって、いろいろあるのに」
「なに言ってんの? テストより友達でしょ」
「友達……?」
 友達。友達? 言葉を知らない子供のように、何度も小さく繰り返す。
「え、なんだよその反応! 俺たち友達だろ!? 違うの!?」
 そう……だったのか。
「まぁいいや。とにかくさ、早く元気になれよ。藤峰がいないと三石手に負えないし」
「えぇ……」
 それはちょっとなぁ……。
「そうじゃなくても早く元気になんないと」
「そうだよ。せっかく来週から夏休みなんだし、寝込んで終わるなんて最悪だもんね!」
「だな」
「とにかく早く良くなれよ〜」
「学校で待ってるねー!」
 進藤たちは散々騒いだ後、このあと塾があるからと帰っていった。一瞬で静けさを取り戻した病室で、ふっと息を吐く。なんというか、台風一過のような心地だ。案外、みんなも自由なのだなと苦笑する。
「自由か……」
 ほんの少し、喉に詰まっていたものが流れていった気がした。

 そして。
「――柚月!」
 最後に病室に駆け込んできたのは、両親だった。僕は驚いて言葉を失う。
 ふたりまで来るとは……今日はいろいろと想定外なことばかり起こる。わざわざ神奈川からなんて。ふたりとも共働きで水月のサポートもして忙しいはずなのに。
 お父さんもお母さんも真っ青な顔をしながら、僕を見て涙ぐんでいる。
「お父さん、お母さん……?」
 ふたりとも、珍しく取り乱している。
「あぁ、もう……! 倒れたなんて学校から電話が来たから、本当に心配したのよ!」
「体調はどうだ?」
「大丈夫……だけど」
「良かった」と、お母さんが大きく息を吐く。
「……ふたりとも、仕事は? 水月は……」
「バカじゃないの! 仕事なんてしてる場合じゃないでしょ!」
 強い口調で返され、ぎょっとする。動揺して目が泳いだ。
「でも……ふたりとも、水月のことでいつも忙しいのに……迷惑かけて」
 ごめん、と口にしようとしたとき、
「迷惑ってなによ! そりゃ水月のことも心配だけど、柚月だって私たちの子なんだから心配して当然でしょう! 私たちはあなたの親なのよ!」
 半ば怒鳴りつけるように言われ、言葉に詰まる。いつもおっとりしたお母さんが、こんなに感情を露わにするのは珍しい。
「……ごめん」
 思わず俯くと、そっと頬を撫でられた。
「柚月、先生から学校での様子を聞いてたけど、最近ちょっと勉強し過ぎなんじゃない? 少し痩せたみたいだし、どうせご飯だってろくに食べてないんでしょう! あぁもう……これだから私は寮に入るの反対したのよ。あなたってば、しっかりしているようで結構抜けてるところがあるし、すぐに我慢しちゃうものだから……案外水月より心配してるのよ」
「え……そ、そんなことないよ」
 言い返しながらも、語尾がしりすぼみになる。
「あるから倒れたんだろう。いいか、柚月。成績なんて、そのときの状況によって上下するのは当たり前なんだよ。いちいち気にすんな。お父さんたちは、べつに成績なんて気にしてないよ。それより、柚月にはもっと学校生活を楽しんでほしい」
 いつも寡黙なお父さんの言葉に、僕は口を噤んだ。
「……お兄ちゃんも心配してたわよ。柚月が起きてるようなら、連絡しろって。あとで声くらい聞かせてあげなさいね」
「……でも水月は今、ドラマの撮影中で大変なんじゃないの?」
「報せを聞いて現場から来るってきかなかったのを、なんとか止めてここに来たのよ。まぁそれだけ柚月のことが心配だったんでしょうけど。……あのね、柚月。水月が言ってたわ。柚月は『大丈夫』って言うのが口癖だからって。大丈夫って言ったら、絶対大丈夫じゃないからって」
「……え……」
 目の奥がぎゅうっと絞られるように熱くなった。だって、水月は僕のことなんか、眼中にないと思っていた。なんの取り柄もない僕には……。
「べつに、大丈夫だよ。僕は……」
 強がりを口にしたとき、ぽろっと涙が落ちた。
「あれ……」
 ぽろ、ぽろ。次々と溢れ出して止まらない。
「なんで……」
 どうしよう、泣きたくなんてないのに涙が止まらない。
 ごしごしと涙を拭う。けれど、拭っても拭っても視界は明瞭にならない。
 みんなにそんなふうに思われてただなんて知らなかった。みんな、僕のことなんて興味はないのだと……。
「柚月」
 ふわりと柔軟剤の甘い香りがした。と思ったら、お母さんに抱き締められていた。
「ごめんね、ずっと寂しい思いをさせて、我慢させてたんだね……いいんだよ、泣いて」
「べつに……そういうんじゃ」
 慌ててお母さんから離れようと藻掻くと、お母さんは僕を抱き締めたまま言った。
「実はね、さっき、あなたのルームメイトっていう子から、怒られちゃったのよ」
「え?」
 ルームメイトって、もしかして三石……?
「な、なんて?」
 あの野郎。変なこと言ってないだろうな。ひやひやしていると、お母さんが言った。
「柚月が倒れたのは、私たちのせいだって」
「……え」
 目を瞠る。
「ごめんね、柚月。私たち、あなたのことを蔑ろにしてるつもりなんてなくて……ただしっかりしてるから、柚月は大丈夫って勝手に思っちゃってた。子供に寂しい思いさせるなんて親失格よね……本当にごめんなさい」
「そ、そんなことない! 僕はべつに、なんともないから……」
「あのね、柚月。あなたは私の命より大切な子よ」
 お母さんは駄々っ子をあやすように僕を抱き締めたまま、とんとんと背中を叩く。
「ち、違うからね。三石の言ってたことは、違うから! 僕、本当に寂しくなんかないし」
「分かってる分かってる」
 いつにも増して、優しい声だった。それから僕は、しばらく泣き止むことができなかった。でも、泣いている間ずっとお母さんもお父さんも僕の背中を優しく撫でていてくれた。
「……ねぇ柚月。たまには帰ってきて。お兄ちゃんも会いたがってたから」
「……うん」
「そうだ! ふたりが帰ってきたら、旅行でも行こうか」
 突然、お父さんが言った。
「えっ、旅行?」
「そう。久々に家族四人で」
「水月は無理だよ。仕事が……」
「なんとかなるわよ。少しくらい」
「そうだな。それじゃ、ふたりが帰ってくるまでにお父さんとお母さんで計画立てとくからな。柚月、夏休みは絶対帰ってくるんだぞ」
 そんな、強引な。
 そう思いながらも、ちょっと嬉しく思っている僕がいた。
「分かった」と、素直に頷く。
「お父さんも仕事、休み取らなきゃね」
「そうだな」
 ふたりとも、楽しそうに笑い合っている。こんなふうに両親と本音で話したのは、どれくらいぶりだろう……。
 ずっと、ひとりぼっちだと思っていた。
 お母さんもお父さんも、地味な僕には興味なんてないのだと。
 だから、中学生になったあたりから、文句も不満も希望も、なにも言わなくなった。言ったって、面倒な子だと思われるだけだから。
 ……みんながこんなに心配してくれていたなんて、僕はちっとも知らなかった。
 ずっと喉の奥に詰まっていたものが、なにかの拍子にぐっと押し流されて消えていくような、そんな心地で僕は両親と一緒に笑い合った。


 ***


 翌日、僕は退院した。もう大丈夫だと何度も両親を説得したけれど、寮の前まで送るときかないので素直に送迎を頼むことにした。そして、寮の前で夏休みにはちゃんと帰るという約束をして、別れた。

 寮に戻ると、三石がベッドで寝ていた。
 いや、おかしい。……今の時間は、学校のはずなのだが。
 とりあえず、声をかけてみる。
「……おい、三石」
 起きない。
「おいってば」
「んぁ?」
 呑気な声の返事が返ってくる。まったく……。
「……あ、柚月じゃん。退院したの?」
 ようやく起きた三石が、ぽわんとした顔で僕を見た。
「おめでと。よかったな、大したことなくて。顔色もいいし安心したわ」
 しっかりと目を合わせて言った。どうやら、本当に心配してくれていたらしい。
 クローゼットから制服を取り出しながら、ちらりと三石を見る。三石はまた大きな欠伸をしていた。
 それを見ていたら、なんだか唇の隙間からふっと息が漏れた。
「……あのさ、三石」
「ん〜?」
 呑気に欠伸をする三石に、僕は小さく言った。
「……ありがとう。先生とか、お母さんに俺のこと言ってくれたみたいで」
「……は? なんのことだし」
 しらばっくれる三石に、思わずくすっと笑みを漏らす。
 白いワイシャツに視線を戻して、僕は小さく口を開いた。
「……僕、本当はここじゃなくてもよかったんだ。高校」
 三石はなにも言わず、ただちらりと僕を見た。
「家を出られればそれでよかったんだ。水月ばっか気にかける両親と、仕事で忙しくしてる水月を間近で見ているのが嫌で、遠過ぎなくて寮があるここを受けたんだ。特待生として入学すれば、学費も寮費も免除されるから、親に迷惑もかからないだろうと思って」
 少しの間を開けて、三石が訊ねてくる。
「……水月って、アイドルやってる兄貴だっけ?」
「そう」
 三石は目尻に溜まった涙をごしっと拭うと、ベッドの上にあぐらをかいてこちらを見た。
「……正直僕、三石のことがきらいだった。三石はさ、なんとなく水月に似てるんだ。自由気ままで、ちょっと問題児で。小さい頃から両親は、水月に手を焼いてた。でも、中学のとき事務所の社長にスカウトされてアイドルになってからは、真面目に仕事に打ち込むようになって、あっという間に人気者になって、ブランドで私服まるごと固めるくらい大金持ちになって。両親はすっごく喜んでさ。でも、忙しくなればなるほど、両親はさらに水月にかかりきりになって」
 三石はなにも言わず、黙って僕の話を聞いている。
 ……意外だった。もっとちゃちゃを入れてくるかと思ったのに。
「僕はお金なんて稼げないし、みんなが振り向くような容姿も持ってない。……だから、僕は迷惑をかけちゃいけない、面倒をかけちゃいけないってずっと思ってた」
「だから、家を出たの?」
 こくりと頷く。
「水月のことばかり話すふたりを見ていたくなかったんだ。両親には水月がいればいい。僕は用無しなんだって、言われているような気がして」
 だから、当てつけみたいに勉強しまくって、特待生としてこの学校に入学した。
 でも、本当は……当てつけなんかじゃなかった。
「本当はただ、頑張ったねって言ってほしかっただけだった。ほんの少しでいいから、僕を見てほしかったんだ……」
「……そっか」
 昨日の涙が、心の中で乾き切っていた泥を溶かしていたみたいだ。それを今、一気に吐き出してゆくような心地だった。
「……ごめん、帰って早々愚痴って」
 いたたまれなくなって、制服をハンガーから取ると、洗面所に向かう。扉に手をかけたとき、三石が言った。
「……あのさ、俺はお前のこと好きだよ」
 足を止め、驚いて振り向く。
「アイドルの兄貴のことは俺は知らねえけど、俺はお前が好きだよ。お前が優等生じゃなくても、お前の兄貴がアイドルの藤峰水月じゃなくても。……だって俺のわがままにここまで付き合ってくれるの、お前ぐらいだし」
「……僕はただ、先生に頼まれたからやってただけで……」
「それでも、だよ。俺はお前と同じ学校で、同じ部屋で良かったよ。まぁ扱いは雑だし、みんなといるときよりかなり口も悪くなってたけどな〜」
「それは、お前が言うこと聞かないからだろ」
「ははっ、だな〜。……じゃあさ、先生がやらなくていいって言ったら、お前もうここから出てくの? 俺と話してくれなくなるの?」
 少し切ないその表情に、ぐっと喉が詰まった。
「……なんだよ、いきなり」
「俺は、どんなお前だって好きだよ」
 その瞬間、ストンとなにかが落ちるような音がした。
「お前はどうなんだよ?」
「……なにが」
「俺のこと、きらい?」
 振り向くと、三石のまっすぐな無垢な瞳と目が合った。無性に落ち着かない。
「…………きらいじゃない」
 本当は、最初からきらいじゃなかった。
「……ただ、羨ましかっただけ」
 自由気ままに好きなことやって、みんなに好かれている三石は僕にはちょっと眩しすぎた。
「ははっ」
 三石はからっと笑うと、黙り込んだ。
「……三石?」
「あ〜……」
 なぜか、頬をほんのり赤くしている。
 ……いや、キモイんだけど。というか、こっちまで恥ずかしくなってくるからやめてほしい。
「…………」
「って、なんだよ。柚月まで照れんなよ。照れんじゃん」
「照れてないし。というか今授業中だよね? なんでここにいるんだよ」
「そりゃ決まってんだろ。ルームメイトが心配で待ってたんだよ」
 よく言う。ただサボってただけのくせに。
「……言っておくけど、僕もういい子やめたから。明日から起こさないから自力で起きろよ」
「えっ! そんなつれないこと言うなよ! ルームメイトだろ!」
「よくよく考えたら、誰よりお前が僕のこと都合よく扱ってたよな」
「うっ……そんなことないって!」
 機嫌をとるように、三石は僕に絡みついてくる。鬱陶しい。
 三石をぺっと引き剥がして、ササッと制服に着替えると、カバンを持つ。
「じゃ、僕用意できたからもう学校行くね」
 わざと冷たく言うと、
「待て待て、俺も行く! 柚月〜! 俺お前のこと待ってたんだよ〜」
 慌てて準備を始めながら、三石が僕を引き止める。ちょっと面白い。
「……分かったから服引っ張るなよ。待ってるから早くして」
「おっす!」
 それからたっぷり十分ほどバタバタしてから、一緒に寮を出た。

「あ〜、あち〜」
 ごりごりに強い陽射しを浴びながら、三石が文句をボヤく。その隣で、僕はため息を漏らした。
「わざわざ言うなよ。余計暑くなるから」
「だって暑いんだもん、暑いって言いたくなるじゃん」と、三石は口を尖らせる。
「子供か」
「子供だよ」
「都合によりな」
「そのとおり」
 にっと無邪気な笑みを向けられ、つられて僕も笑う。まったく、三石は相変わらず自由だ。
 校門の前まで来たところで、三石がなにかを思い出したようにバッグを漁る。
「どうした?」
「やっぱり! ペンケース忘れた!」
 ……呆れた。
「……お前ってなにしに学校来てるの?」
「遊びに来てる!」
 キメ顔が返ってきた。つか、即答かよ。
「学校は勉強をするところで……」
 説教を始めようとしたところ、三石の視線がふらっと背後に逸れた。
「?」
 直後、パッと腕を掴まれた。
「柚月! 俺いいこと思いついた。ちょっとこっち来て!」
「はっ? おい、どこに……」

 夏休み直前。テストを目前にした昼下がり。三石が向かったのは、屋外プールだった。
 蝉の声が響く、鋭い太陽の光を反射させた水面が目に眩しいプールサイド。
「おい……プールなんか来てどうすんだよ」
「まあまあ。お前熱中症だったんだし、涼もうかなって」
 涼む? だったら早く、冷房が効いている教室に行きたいのだが。
「よっと」
 三石が飛び込み台に乗る。
「おい、落ちたら危ないよ」
 陽射しが強くて、思わず手を翳しながら三石を咎める。
 ――と、翳したその手を掴まれた。
「なにを……」
「ほいっ!」
 ぐいっと強く腕を引かれ、かまえていなかった僕は簡単にバランスを崩した。
「うわっ!」
 引かれた勢いのまま僕は飛び込み台に乗りあがって、そして、水面に向かって落ちる。
 ――ドボンッ!
 どろんと急に鈍く、遠くなった蝉の声。一瞬、時が止まったかと錯覚した。
 水の中で目を開くと、視界が青一色に染まっていた。
 三石と目が合った。三石は笑っていた。口から透明な泡を吐きながら。
 その光景は、今まで見たどんな人や物よりも美しく見えて、僕は呼吸を忘れて三石に魅入った。
「…………」
 三石がなにかを言う。けれど、分からない。首を傾げると、三石はまたからっと歯を見せて笑った。そして、僕の手を掴んで、勢いよく水面へ向かって泳ぎ始める。
 そうだ。息を忘れていた。
 ……苦しい。苦しい。
「ぷはっ!」
 ふたりそろって勢いよく水面に顔を出す。
 水飛沫が舞い、細かい水の粒が太陽の光を透かして輝く。 
「あぁ〜気持ちい〜!!」
 はー、はー。息を吸う。すっと肺に酸素が入ってくる。
「柚月!」
「……なんだよ」
 若干苛立ちを露わにして三石を見る。
「涼しくなっただろ!」
「…………」
 三石が濡れた髪をかきあげる。
 ……まぁ、暑くはなくなったけれど。

 プールサイドに上がると、僕は裸になってぐっしょりと濡れた制服を絞る。じゃばじゃばと水が滴る。細く落ちる水の糸を、じっと見つめる。
「やべー。パンツまでびちょ濡れだぁ」
 となりで三石も同じように制服が含んだ水を絞っている。
「柚月、タオル貸して」
 持ってないのかよ。
「まったく……」
 カバンからタオルを取り出して、三石の顔面にぶん投げる。
「わぷっ」
 三石は顔面でタオルをキャッチした。
 ……意外と反射神経悪いのか。
「なぁ柚月、もしかして怒ってる?」
 タオルで顔を拭きながら、ちらっと見てくる三石。
「……べつに、怒ってないよ。お前がこういうやつだってのは、もう知ってるし」
「そ? よかった」
 怒っていない。ただ、驚いたのだ。水の中独特のあの嫌な苦しさを感じなかった自分に。
「いやー俺、プール入ったの初めてだわ。結構塩素臭いんだな」
「は? 初めて? プールが?」
 驚いて三石を見る。
「うん? そうだけど」
「中学でプールの授業なかったの?」
 訊ねると、三石は気まずそうに曖昧に笑って、
「あー俺、中学まで身体弱かったから。学校に通うのも高校が初めてだし。中学まで、入退院の繰り返しだったんだよね」
 顎が外れかけた。
「……マジで?」
「うん。……あ、みんなには言うなよ? 恥ずいから」
「……言わないけど。いや、けどさぁ……」
 ……ったく、なんだよそれ。それで特待っておかしくない?
「ははっ。病院で暇過ぎて死ぬほど勉強してたら特待生受かっちゃったってやつ。だから俺、べつに特待生であることにこだわりないんだよね。親は俺が学校に行けてるってだけで喜んでくれてるし。俺は俺で、初めての学校生活は遊びまくるつもりだったし!」
「…………なんだよ、それ」
 そっか、そうだったのか。へなへなと座り込みそうになる。
 なにより自由だと思っていた三石も、これまでは病院のベッドで制限ばかりの人生を送っていた。よくよく考えれば、学校生活で三石はかなり浮いているし、それにも理由はあるはずなのだ。それを僕は、知ろうともしなかった。
「……黙っててごめんな?」
 三石が僕の顔を覗き込んでくる。
「……ん。いいよ、べつに。まぁ、お前も言いにくかっただろうし。……聞けてよかった。ありがとう」
 礼を言うと、三石はからりと笑った。
「おう!」
 水の中は、きらいだった。息ができなくて、いくらもがいても水面はずっと遠くて、僕は暗い水底に沈むばかりで。
 でも、さっきは違った。見上げた水面はきらきらしていた。手を伸ばしたら、掴んでくれる手があった。沈んでいく僕を明るい水面に連れていってくれる三石がいた。
 だけど、三石もまた……。
 心の中は、見えない。言葉にしなきゃ伝わらないのだ。だから、伝えたいことは、飲み込んじゃダメだ。
「……なぁ、三石」
「んー?」
「僕も、三石と同じ部屋になれて良かったと思ってるよ」
 言ってから恥ずかしくなって顔を逸らす。逸らしてから、チラッと三石を見ると。
 三石は、瞳をうるうるとさせて感動していた。
「……あ、だからってこれから態度が甘くなるとかはないけどな。それでなくても僕成績落ちてるから、さらにスパルタでいくつもりだからよろしく」
「えぇーっ!?」
 そんないけず言うなよ、と三石はびちょぬれの身体で抱きついてくる。
「うわっ! ちょ、くっつくな気持ち悪い!」
 恥ずかしくて引き剥がすが、三石は懲りずにくっついてくる。
「ぎゃん、叩くのはひどい!!」
「だったら離れろこのやろ!」
「そんなこと言うなって〜」


 ***


 その後、すっかり乾いた制服を着て、僕たちは廊下を歩いていた。
 プールで騒いでいた僕らの声を聞きつけた先生がやってきて、無断でプールを使用していたことがバレてしまったのだ。
 教室に行く前にこっぴどく怒られた僕たちは、夏休み最初の一週間補習という処分を下された。
「あ〜もう最悪。せっかく優等生で通ってたのに補習とかないわ……」
 これで特待生資格を剥奪されたら本気で笑えない。
 しかも、夏休みは実家に帰るって話までしていたのに、両親になんて言えばいいものか。言う前に連絡がいきそうだけど。
「ドンマイ! このくらい高校生ならふつうだって!」と、三石はあっけらかんとした笑顔で言う。
 先生のお説教も、三石にはまるで効いていない。まったく、自由が過ぎる……。
「お前のせいで親に捨てられたらどうしよ」
 わざとしょげたふりして言ってみる。
「うわぁ、悪かったよ〜! 悪かったから泣くな〜」
 三石が抱きついてきた。
 いや、暑いからやめてほしいんだが。
「嘘だよ。つか泣いてないし。でもまぁ……あとでアイスくらい奢ってよね、――コウ」
 さらっと名前で呼ぶと、コウは目を丸くして足を止めた。僕も足を止めて振り返る。
「なにしてんだよ、早く行こ?」
「……あ、う、うん」
 コウは慌てて僕に駆け寄りながら、きらきらした瞳で僕を見る。……ずっと見てくる。
「……なに」
 聞きたくないけど、聞かないとずっと熱視線を向けられそうなので訊ねてみる。
「もっかい言って」
「は? なにを?」
「名前」
「ヤダよバカ」
「いーじゃん、ケチ! なぁ柚月、お願いもっかい! アイス奢るから!」
「ウザいウザい」
 僕たちはじゃれ合いながら、ふたりそろって昼下がりの昇降口に入る。
 静かな渡り廊下を歩きながら、あらためて思う。
 肺に入ってくる空気が軽い。どうしてだろう。
 ちらりととなりを見る。コウは空を見上げて、相変わらず「あち〜」と嘆いている。
 そのだらけた横顔に、ふっと笑みが漏れる。
「……そっか」
 コウのとなりだからか。
「ん? なに?」
「……いや」
「なんだよ?」
 コウは不思議そうに首を傾げて僕を見ている。
 みんなには言っていない秘密を教えてくれたコウもまた、僕の前でだけは少し喉のつかえが取れているのかもしれない。そうだといいと思う。
 教室に入る前に一度立ち止まって、すぅっと大きく深呼吸をしてみる。
 喉になにも引っかからない。すうっと、まっさらな空気が肺に流れ込んできた。
 それはまるで、呼吸のしかたを覚えたばかりの人魚のように。
 コウのとなりで、僕は少しづつ呼吸(いき)のしかたを覚えていく。