医師は月鈴の言葉に「そうですね……」と遠い目をした。

「このところ、宮女が行方不明になる事件が多発しているというのは?」
「聞き及んでおります」
「ええ……そのせいで、先程の方々のように、妃の当番ごとに通る時間を決めようとして、警戒心を露わにする者たちも出てきましてね……そのせいでどこの妃のところにも所属していない宮女たちが困り果てております」

 宮女の中には掃除婦や洗濯婦のような下働きも大勢いるため、そんな妃付きの侍女の決めた規定なんて回ってくる訳もなく、訳もわからず怒られるせいで、余計に不安が不安を呼んでいる悪循環が生まれつつあった。
 月鈴は先程から睨み付けてくる侍女にちらりと視線を向けつつ、再び医師に視線を戻す。

「行方不明になる宮女は、戻ってきた例はないのですか?」
「戻ってきたかどうかまでは伺っていませんが……ただ、気になる話は耳にしました」
「気になる話?」
「下働きの中で、綺麗な着物の宮女が妙な動きをしているのを目撃したという話が出回っているのです」
「妙な動き……ですか」
「こう……腕を真っ直ぐに伸ばして、跳びながら進んでいるというものでした。さすがにそんなものを目撃したらすぐに大騒ぎになるだろうと、すぐその目撃情報は立ち消えてしまいましたが」
「……お話ありがとうございます」

 話が終わると医師は「これでよろしいですか?」と薬棚から用意してくれた。たしかに甘い桃の匂いがした。

「ありがとうございます。これで充分です」

 そう言って、月鈴は侍女と一緒に医局を後にした。
 意外なことに、気位の高い侍女は月鈴に向かって謝ってきたのだ。

「……申し訳ございませんでした。あなたの言動には、たしかに不審な点は見当たりませんでした。さぞやお仕えしている妃様の教育が行き届いているのでしょうね」
「私は普通のことをしたまでです。それより」

 そう言って月鈴は、先程の香油を差し出した。それに侍女は驚いたように目を瞬かせる。

「これ、あなたが主人に頼まれたものでは?」
「私は医師に話を伺いに来ただけですので、これをいただいたのはあくまでついでです。先程の医師の話ではっきりしたこともございますし、こちらの香油、あなたの主人に頼んで館中で焚き込めてください。それがあなたもあなたの主人も守ることになります」
「待って……! あなた、名前は?」

 どうしたものかと月鈴は思う。偽名を名乗ってもいいが、この生真面目な侍女にこれ以上嘘をつくのも忍ばれた。なによりも彼女の主人である妃もまた、存外に人がいいのだろうと彼女の言動を見ていてわかったからだ。

「月鈴です。あなたは?」
「……ええ、名前を名乗らなければね。私は静芳(せいほう)。あなたのことは、主人に伝えておきますので」
「ええ、どうぞよろしくお願いします」

 そう言ってふたりは別れた。
 別れつつ、月鈴は「さて……」と顔を引き締めた。慣れない宮女の顔ではなく、袖に仕込んだ棒を気にする方士の顔に切り替わっている。

「今晩は出るだろうから……彼女も巻き込まれないといいが」

 本当ならば月鈴よりも体術に長ける空燕も巻き込みたいところだが、泰然のふりをしている彼が大暴れてしていては、後宮内は大騒ぎになってしまうだろう。月鈴ひとりで対処せねばなるまい。
 彼女は気を引き締めて、一旦館へと戻っていった。

****

「新しい妃様は、いい方でしたのね……」

 どことなく明林(めいりん)の声が沈んでいる。
 明林は花妃の名である。
 彼女は生まれたときから皇帝陛下の妃になるようにと育てられ、そして妃として後宮に入ってからというもの、泰然に恋に落ち、慕っていた。そんな彼が目の前で突然昏睡状態に陥り、療養に出てから音沙汰がないと思ったら、新しい妃を連れて帰ってきたのだから、心穏やかでなくて当然である。
 彼女の気の沈みように、静芳は慌てる。

「侍女が気のいい者だっただけです! 妃様までいい方かどうかは……!」
「ですけど、桃の香油を焚くというのは、ずいぶんと用心深い方ですのね」
「用心深い……とは?」

 明林は恋に恋する妃ではあるが、妃としての教養を受けてきた身ゆえに、月鈴が桃の香油を焚けの意味がおのずと理解できた。

「桃には魔除けの意味が込められています。桃の木を削った剣は破邪の剣として方士に使用されることもございますし、桃の葉や花、香油などにも似た効果が得られると聞いたことがございます」
「……それは迷信深いだけでは?」
「あら静芳。陛下の弟君の中には、出家して方術修行に明け暮れておられる方もいらっしゃるそうですよ? 全てが全て、まやかしではないでしょう?」

 そう軽く窘められ、静芳はなんとも言えない顔で香炉を持ってきて、桃の香油を焚き込めた。ふんわりと甘い匂いが漂い、それに他の侍女たちからも歓声が上がる。
 柔らかく優しい匂いが漂う中、静芳は「ああ……」と声を上げた。

「静芳、どうなさいましたか?」
「医局から陛下に送るための薬を処方していただいたのに、月鈴との会話で取り忘れたんです。すぐに戻ります!」
「もう夜よ。明日にしましょう? 館に魔除けを焚き込めろということは、夜は外に出ては駄目と教えてくださったんですから」
「ですが! 夜は陛下の渡りがあるやもしれませんのに!」
「陛下のお渡りがあるのでしたら、昼間には連絡をいただいていますから。落ち着いて」
「すぐに戻りますから!」

 静芳は月鈴が悪い人間ではないことも、わざわざ桃の香油をくれたことも、理解はしていた。しかし彼女にとって優先順位は明林であった。
 彼女が一番陛下を愛しているのだから、彼の体を案じて処方を求めた薬を渡したいと願うのは当然だろうと。
 静芳は急いで花妃の館を出ると、走りはじめた。
 普段であったら、侍女が走り出すと煙たがられるのだが、既に夜。誰も見てはいない。そう割り切って走り出したのだが。
 やがて静芳以外の足音が聞こえることに気付いた。

(私も人のことは言えないけれど……こんな時間に外に?)

 しかし足音は奇妙なものだった。
 静芳のように駆け足の音、普段の宮女のようにしずしずと歩く足音ならまだわかるが。

 ダン ダン ダン ダン ……

 中途半端な足音が、だんだんと近付いてくるのだ。
 やがて。なにやら腐臭が近付いてくることに気付き、思わず静芳は鼻を袖で抑えた。鼻の奥が痺れるような激臭だ。

(なに……このにおい……あ、ああああ…………!!)

 静芳は体が強張り、動けなくなってしまった。
 ダン ダン ダン ダン ……
 彼女に近付いてくる足音。それは医師が昼間に月鈴に言っていた通り、腕を真っ直ぐに伸ばして、跳躍している宮女であった。しかし、どうして宮女が激臭を漂わせて跳んでくるのか。
 彼女の肌の色は、明らかに人のものではなかった。すっかりと土色になってしまった顔に何枚も何枚もペタペタと札が貼られ、その札が跳躍のたびにヒラヒラと舞う。やがて、落ちくぼんだ目がギョロリと開いたかと思ったら、静芳を凝視した。
 恐怖で動けなくなった静芳は、固まったまま「死んだ」とだけ思った。
 おそれは、頭の動きをもっとも鈍くさせる。彼女は頭が真っ白になり、なにも考えられないまま近付いてくる激臭だけを感じていたが。

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………!!」

 いきなり横からの乱入者で、目が点になった。
 端的に言えば、得体の知れない宮女を、乱入者が蹴り飛ばしたのだ。方服を纏い、手には得物の長い棒を持っている……どう見てもそれは、昼間に別れた月鈴だった。

「やはりいたか、屍兵……! はあ……!!」

 彼女は物言わぬ宮女をそのまま棒で激しく突こうとするが、それより先に宮女があり得ないほどに体を回転させて、棒をそのまま絡め取ってしまう。
 そのまま激臭が月鈴に近付いてきたが、それに彼女は自身の指を噛み切り、血を滴らせてから、屍兵と呼ばれた宮女の札になにかを描く。
 途端に、屍兵が激しく痙攣したと思ったら、ドサリと音を立てて倒れてしまった。
 傍から見ていた静芳は、呆気にとられたまま、声すら出なかった。

「……遅れてすまなかった。まさかあなたが外に出るとは思わなかったから。正直あなたが犠牲にならなくてよかった」

 月鈴から謝られて、静芳はだんだんと顔が熱くなっていくのに気付く。
 はっきり言って今の月鈴は、凜々しいという言葉以外に言い表せないほど、格好いいのである。おまけに謎のものに襲われかけたのを、体を張って助けてもらった……。照れないほうがおかしい。

「静芳?」
「な、なんでもありません! そ、れより……これはいったい?」
「……見てしまった以上、説明せねばならないな。このことは、あなたの主人にも」
「必要ならば伝えますが、難しいなら伝えません。花妃様が心労に祟るのでしたら……」
「なら伝えていただいたほうがいいのかもしれない。これは屍兵。方術の教えによると、人間には三魂七魄が存在している。年を取れば、それが少しずつ削れていって、やがて死に至るけれど、外法の術で、魂だけを抜く術が存在している。人間は無理矢理魂を抜かれてしまったら、生ける屍になってしまう。生ける屍を札を使って無理矢理操る外法が存在している」
「じゃ、じゃあ……この方は……」
「おそらくは、魂が抜かれ、札で操られていたのだろう。私が札の術式を上書きしたので、もう操られることはないはずだけれど」

 月鈴は目を剥いた宮女の目を閉じさせながら言った。

「私はこの外法を操るものを探している。陛下が再び狙われることがあってはならないから」

 そう凜として言い切った月鈴を、静芳はぽぉーっとした顔で眺めていた。それに月鈴はきょとんとした顔をした。

「ああ、話が長かったな。ひとりでは危ないだろうから、用事には私も付き合おう」
「あ、ありがとう、ございます……」

 すっかりと静芳は月鈴に対して甘くなってしまったのだが、当の月鈴はよくわかってはいない。医局で処方してもらった薬をもらうと、そのまま月鈴に送られて静芳は無事に帰っていったのである。