空燕が呼んできた兵により、浩宇は捕縛された。
女兵士は、きびきびと浩宇を縄で縛り上げると、「立て」と言った。
妖怪になったことで気力も精力もかなり使ったのだろう。元々宦官になったことによりすり減っていた浩宇の命も削れたようで、目を見張るほどの美貌だった彼の表情は、気のせいか疲れ切って青白くなったまま戻らなかった。瞳も活力が乏しく、どこか濁って見える。
彼は空燕の渡した方服の上着だけを着ていたが、元々肩幅もなく胸板もなかったせいか、上着だけでもがばがばであり、下半身も覆ってしまっていた。
力なく連行されようとしている浩宇に、「浩宇」と空燕は短く言った。
「……なんですか? 報いを受けて当然だと?」
「いや。お前さんたちが怒る気持ちはもっともだ。ただ、戦を知らぬような民草を巻き込むのが筋違いというだけだ……それに。お前さんはいずれ許されるだろうさ」
浩宇の目は怒りで、光が戻った。余計なことは言うな、とでも言いたいのだろう。
その中、空燕は告げた。
「兄上は、お前さんの行いは許さずとも、お前さん本人は許すだろうさ。それをどう受け取るかは、あとはお前さん次第だ」
「……っ」
浩宇は一瞬舌打ちしたが、そのまま兵に連行されていった。
全てを見届けていた月鈴は、複雑な顔で空燕を見上げた。
「これは慰めになるのか?」
「さあな。あれは兄上に惚れていた。その気持ちを忘れてしまったとしても、兄上は天性の人たらしだからなあ。また惚れるかもわからん。それに、四像国の情報を抜かねばならないから、あれにはどうにか味方になってもらわなければ困る」
「たしかに……」
そもそも空燕と月鈴がここに来たのは、連続皇帝昏睡事件の調査と解決であり、四像国の件は政治の問題だ。これ以上踏み込んでしまったら、この国の法に置ける、宗教と政治の分離に反してしまうため、あとのことは想像することしかできない。
「それで、貴様はこれからどうする気だ?」
兵も浩宇も気にすら留めなかったが。青蝶は当然のように一部始終を面白そうに見物していた。そもそも浩宇が招き入れたとはいえども、彼を妖怪に変えたのも、宮女や雨桐の人々、皇帝から魂を抜き続けていたのも彼女だ。
空燕は何度か彼女を仕留めようと隙を窺っていたが、遂には一度も隙を見せなかった。彼女は自分は方士であり仙女ではないと言い張っているが、空燕より上の体術を使い、月鈴よりも方術に長けているとなったら、もう仙女に値すると言ってもかまわないだろう。
何度も狙われていたことを知ってか知らずか、青蝶は「ほっほ」と笑う。
「決まっておろう。次にわらわを雇う者、見物するに値するものを探しに行くまでよ。今日は都合のいい宝玉も手に入ったことだし」
「貴様……っ」
月鈴から抜き出したものに対して、空燕は怒りではらわたが煮え返りそうになっていた。しかし、彼女が止めるからこそ、彼は相打ち覚悟で青蝶の首を狙うことをせずにいる。もし月鈴が混乱していたら、それこそ命を捨てる覚悟で彼女の首を狙っていたことだろう。
青蝶は笑いながら扉に手をかけた。
「ああ、そうだ。わらわは複製が得意なんじゃ。そちの懐を検めるがよかろうぞ」
そう言い残し、薔薇の匂いを残して立ち去っていってしまった。
空燕は「くそっ!」と苛立った気分のまま、ガンッと壁を叩いた途端、コロンと彼の懐からなにかが飛び出した。
「これ……」
月鈴は驚いてそれを拾い上げた。
それは群青に月の光の混ざった……たしかに月鈴が浩宇を元に戻すための対価で使ったはずの宝玉であった。
「どうして……そして宝玉って、こんなに簡単に複製できるものなのか?」
「いや、待て月鈴。それを貸せ」
月鈴は困った顔で宝玉を眺めていたものの、空燕に言われて、彼に差し出した。空燕はそれを凝視する。
「月鈴、お前さんは本当に白妃になんの対価を支払ったのか覚えてないんだな?」
「覚えてない。覚えてたら私だって言う」
「そうか……」
空燕はしばらくそれを眺めていたが、やがてそれに力を込めた。宝玉にミシミシとひびが入る。
「ちょっと……空燕、あなたはなにを考えてる!? 折角浩宇を人間に戻したのに……!」
「……あの女がどうしてこれを俺に渡してきたのか考えていた……おそらくは、俺が宝玉を見てどう反応するのかを楽しみたいんだろうさ……冗談じゃない」
パリンパリン。とうとう宝玉のひびは広がって、砕けてしまった。それを空燕は一生懸命踏みしだく。
「空燕!」
「……月鈴。俺はお前さんを連れてきたのは、お前さんを犠牲にするためじゃない。そもそも兄上が治めてなかったら、後宮なんてとっくの昔に魔窟になっていた。そんなところにお前さんを愛妃として連れてくるものか」
「……なにが言いたいんだ?」
「俺は他に見向きもしない。俺が皇位に興味のないところを見せて、安心させたかっただけだ……全て俺のわがままだけどな」
空燕の言葉を、月鈴は黙って聞いていた。ただ綺麗な瞳は驚きで染まっていた。
普段の飄々とした彼の言動では、想像だにしなかっただろう。彼の優先順位なんて。しかし空燕は、とっくの昔に優先順位を定めている。
「どうせ一度寺院に捨てられた身だ。母上が命を賭けて逃がしてくれた身だ。そのあとのことなんて余生だろうと諦めきっていたが、捨てられたはずの寺院にお前さんがいたんだ。それで捨てられた身が惜しくなった。皇位なんかで、俺の気持ちまで勝手に変えられてたまるか」
「……空燕、まるでその物言いだと」
情緒が育ってない情緒が育ってない、そう言われ続けている月鈴であり、実際に彼女と同年代の女子であったらわかるようなことにもとことん疎いが。さすがに疎い彼女でもここまで言われたらわかる。
「あなた、私が好きみたいだが……?」
その言葉に、空燕は鼻息を立てた。
「……俺は、そう言っているつもりだが?」
途端に月鈴は固まってしまった。情緒の育ちきっていない彼女に、こんな形で告げるつもりなんて、空燕もなかったが。
彼は髪をガリガリと引っ掻いてから「はあ……」と溜息をついた。
「どうせ全部終わったら、兄上に後宮を返すんだ。立ち退いた先で、お前さんが嫌なら、俺は寺院を離れる。修行ならどうせ別のところでもできるしな」
「待て、空燕」
「なんだ?」
「……どうして私の気持ちを聞かない」
「……一応は夫婦の役として、布団に引きずり込んでもなんの反応を示さないんだぞ? それにどうこう押しつけられるか? ましてや惚れた女だ。そこで拒絶されたほうが堪える」
「だから、そうじゃなくって」
月鈴は一度拳を握ってから、それを解く。
「私は別に、あなたの気持ちを嫌だなんて、一度たりとも言っていない」
「月鈴……」
「わからないからって、あなたの気持ちをないがしろにしようなんて思ったことはない。たしかに私は方術以外のことにはとことん疎いが……それでわからないあなたを遠ざけたいなんて考えたこともない。勝手に私の気持ちを決めるな」
それに一瞬、空燕はポカンと口を開いた。
普段の余裕のある笑みも綺麗さっぱり拭われ、まるで無垢な少年のような顔になる。
「……俺は、お前さんへの気持ちを捨てなくってもいいのか?」
「私はそういうの、わからないが……それでかまわない」
「そのうち触れたくもなるがかまわないか? ああ……あまりやり過ぎると寺院から叩き出されるか」
「叩き出されるようなことはするな。それでは私がひとりになる」
「ああ……そうか……そうかあ……」
空燕は少年のような顔から、いつもの余裕綽々な顔に戻ってしまった。
「お前さんとまだ、一緒にいられるのか……」
ふたりはふたりとも、それぞれ違う理由で捨てられた身だ。自ら修行に向かった方士たちとは違い、それしかすることがなかったからしていただけだ。方士を目指すようになったのは後からだ。
決定的に欠けているものがあるという自覚は、誰かといなければわからないものだった。ただふたりは常に隣にいたから、それぞれの欠けているものに気付いてしまった。
だから隣にいようと思った。だから傍にいようと思った。
ただ愛とか恋とかだけではなくて、後宮に煮こごりのように存在する利用価値でもなくて、情欲とも違う。
誰かを想いたいというかけらは、互いが埋めてくれたんだ。
離れがたいと思うのも、当然の話だった。既に欠けた形は互いの形だ。他のものでは埋まらない、埋められない。
****
青蝶はのんびりと歩いていた。
これだけ豪奢な着物を纏い、華やかな薔薇の匂いを漂わせた美少女が歩いていたら、人買いやらやり手婆やらが黙っていないだろうに、誰もかれもが彼女に視線を向けない。
青蝶の練り上げた気は、やろうと思えば誰よりも存在感を主張し、逆に誰よりも存在感を希薄にすることもできる。彼女は気を練り上げて、雨桐の大通りを通る人々の視界から消えていたのである。
四像国の連中により、雨桐は羅羅鳥が魂を食み、屍兵を産み出す死都と化していたが、後宮で知り合った方士たちにより結界が張り巡らされた。これでは羅羅鳥は雨桐に入ることもできず、大人しく冬虫夏草を求めて山に戻るしかなくなるだろう。
あれだけ人がいなかった大通りは、少しずつ営業再開の貼り紙が貼られて、店を出す人々が増えていた。
それを見ながら青蝶は目を細める。やがて、自身の持っていた宝玉がコロンと音を立てたことに気付いた。
「ほう……案の定割ったか」
そう呟きながら、青蝶はにんまりと笑って宝玉を眺めた。
青蝶が空燕に渡した宝玉は、月鈴に対価の支払いを命じた上で渡した宝玉ではない。彼女が気を練り込んで造り上げた、全く同じ色、同じ形の模造品であった。しかし、彼女の持っている宝玉と模造品は連動している。
当然、模造品が割れれば、本物にも同じ音が立つのである……本物はそうたやすくは割れないが。割れたあと、模造品が粉々に砕け散る音が続き、ふたりの会話が流れ込んでくる。
それを聞きながら、青蝶は「ほっほ」と笑った。
「人の気持ちは難儀なものよのう」
青蝶の持論では、人は気持ちをふたつ持っている。
感情に依存する気持ちと、記憶に依存する気持ちだ。彼女が宝玉に溜め込んでいる想い出は、記憶に依存するものであり、それが抜け落ちた途端に人が変わってしまったものだって中にはいるが。
どうも彼女の宝玉に閉じ込めた気持ちは、感情に依存するものだったらしい。空燕と月鈴、片や出家した身とはいえど元々皇族、片や世間知らずの方士で、いったいどういう流れで知り合ったのかはわからないが、それだけの感情を持つ程度には共に生きた時間を過ごしたらしく、一番大切な記憶を差し出したところで、なにも変わらなかったのである。
逆に言えば、月鈴は差し出せる想い出があまりになさ過ぎて、なにも変わらなかったのだと見て取るべきか。
「まあ、面白いものを見せてもらったしな。これくらいはしておこうか」
そう呟きながら、青蝶は宝玉に指を突っ込んだ。
普通宝玉に指を突っ込める訳もなく、本当に突っ込もうとしたら、指を捻挫してしまうか、宝玉を割ってしまうかのいずれかだが、彼女はどちらでもなく、文字通り宝玉に指を突っ込むと、ぐるぐると掻き回しはじめた。
やがて、彼女の指先は月の光の黄色の染まる。そうなったところで、彼女は指を引き抜いた。宝玉からは月の光はなりを潜め、代わりに群青色とまばらな星の散らばった光だけが点在している。
青蝶は指に纏わり付いた黄色にふっと息を吹きかけると、それは黄色い蝶の形を司って、そのまま羽ばたいていってしまった。
これは妖怪ではないし、悪意もない。ただ記憶が、元の持ち主のほうに戻ろうとしているだけだ。結界だって通過してしまうだろう。
「まあ、楽しませてくれたしのう。これくらいは」
もしもこの場に空燕がいたら、「ふざけるな。人のことを弄んだり見世物にして」と怒鳴っていただろうが、彼は未だに後宮にいるのだ。雨桐の大通りにいやしない。
これで満足げに青蝶は歩いて行った。
人波が増えていく。これはここ最近で久々の繁忙期になり、次期にここら一帯はごった返してくるだろう。その人波に紛れて、青蝶はとうとう姿を消してしまった。
もう、雑踏の中に薔薇の匂いはしない。
青蝶は気まぐれであり、四像国の人間に力を貸したのも、月鈴に想い出を返したのも、単純に「そういう気分だったから」であり、脈絡がない。
しかし大きな力は、ずっと大国にいたらいずれ腐り果てて災害となりうる。実際のあと一歩で雨桐は死都と化して民草は全て屍兵に変わっていたのだから、さっさと後宮を離れてくれたほうがよかったのかもしれない。
空燕と月鈴。雲仙国の連続皇帝昏睡事件を食い止めたため、ささやかながらの送別会が開かれることとなった。
とはいえ、まさか泰然と空燕がしばらくの間入れ替わっていたことなど、泰然の側近たち以外だったら花妃と彼女の侍女である静芳、あとは山茶花館に住まう人々しかいないため、送別会はそのまま花妃の館で執り行われることとなった。
今まではふたりでひっそりと食事を摂ることが多かったために、こうして花妃の手配した料理を振る舞われるとは思ってもいなかったため、それには驚いた。
「いきなり山茶花館に援軍まで送ってもらっていたというのに、その上で送別会まで開いてもらえるとは……ありがたい」
空燕が申し訳なさそうに花妃に礼を言うと、花妃はにこやかに笑う。
「いいえ、こちらのほうこそ、お礼をいくつ言っても足りませんわ。陛下を……起こしてくださいましたもの」
「兄上が目覚められたとは、先程伺いましたが。兄上の容態は?」
「今は山茶花館の皆様により、回復訓練中ですの。数週間も寝たきりでしたので、体が痩せ衰えてらっしゃいますものね……お体がよくなり次第、雨桐に戻られるとのことです」
「そうか……ありがたい」
そう言いながら空燕は何度目かの礼を、花妃に対して行ったのだ。
一方、月鈴は見たことのない食事ばかりで、途方に暮れながら花妃の振る舞ってくれた料理を食べていた。近くでは静芳が丁寧に料理のことを教えてくれる。
「私たちは方士で、基本的に肉や魚、卵の類は食べられないんだが……」
「ええ、存じてます。こちらの麺は豆腐を干してつくられたものですから、一見すると肉入りの麺にも見えますが、食べられるはずですよ。こちらは大豆でつくった肉もどきですね。味付けも西方の香辛料で辛めにして、豆腐と一緒にいただきます」
「……なにからなにまで。私は空燕の手伝いをしただけだというのに」
「いいえ。私、なにも知らないまま魂を抜かれて、最悪屍兵の仲間になるところでしたもの。月鈴さんには感謝しております」
そう静芳に熱っぽく言われ、月鈴は冷静に答える。
「私は方士だから、力を持たぬ者を守るのは義務だと思う。だからあなたもそこまで気を張らないで欲しい」
「まあ……」
なぜか静芳に顔を赤くされて、月鈴は困惑のまま空燕のほうを見た。
空燕はのんびりと出された料理を食べつつ、酒を舐めていた。
他の妃たちへの協調のため、どれだけ情報を出すべきか悩んでいた空燕だが、月鈴は「あの人は多分下手な忖度はしないから、彼女に任せたほうがいい」ということで、事の顛末をある程度は話すことにした。既に側近たちには情報は共有したのだし、今後の後宮の守りのこともあるのだから、話せるだけ話しておいたほうがいいだろう。
三代前の皇帝の負の遺産、四像国の方士、仙女の疑いのある方士の暗躍、妖怪を呼び寄せる薬屋……。それらの話を、花妃は顔を曇らせながら聞いていた。
「……四像国も、全員が全員出家した訳ではございません。小さくなりながらも、亡命国家をつくってらっしゃるはずです。彼らとは、また話をしなければなりませんね……わかりました。陛下に打診しておきましょう」
「よろしくお願いします。あと、一応俺たちで雨桐の結界は張り直しました。しかし、四像国にも方士たちがいて、我々の知る方術とは若干異なる力を用います。おまけに今回は後宮に潜入を許してしまいましたから……」
「妃選別の方法も、一旦再考する必要がございますね。宦官、宮女、役人……この辺りは陛下に陳情しますが、わたくしたちはこれらに立ち向かう術はございますか?」
「完全に、とは言い切れませんが。桃の花をもっと植えてください。できれば花見ができるほどに。季節になれば実をもいで食べられるように」
その空燕の言葉に、花妃は大きな瞳をパチリと瞬かせた。
「そんな簡単な方法でよろしいんですか?」
「たしかに、相手は我々よりも腕の立つ方士……もはやあれは仙女と呼んでも過言ではない相手でしたが……それでも代々知られる破邪の術は通用しました。有事の際には桃の香を焚き込めて、桃の枝を燃やしてください。妖怪も屍兵も、破邪の術からは逃げようとしますから。桃の香が簡単に手に入るようになりましたら、宮女や下働きの者たちの害も減るはずです」
「そうですわね……お使いに行って帰ってこなかった子たちが、憐れでしたから……」
「そういえば……、陛下がご帰還なされるまではあと二週間ほどかかるかと存じますが、おふたりはいつまでいらっしゃるおつもりで?
静芳に尋ねられ、空燕と月鈴は顔を見合わせた。
「夜になったら、やり残しがあるから。それを片付けたら、今晩中にもここを離れるさ」
「まあ……そんなにあっさりと」
花妃に言われるが、空燕はやんわりと笑う。
「我々はあくまで、陛下の影武者ですから。陛下の無事がわかった以上、そろそろ交替するのが筋でしょうし。なあ、月鈴?」
「……そうですね」
送別会の締めに出されたのは、杏仁豆腐であった。その真っ白な甘味を堪能し、ふたりは今夜のことを思ったのだ。
****
夜になり、人がなりを潜めた頃。
既に主を失った館に、空燕と月鈴はいた。ここを後宮を管理する宦官たちに明け渡すためにも、やらなくてはいけないことがあった。
「失礼する……むう」
「……あの人は、本当に冒涜的だな」
そこでは人間なのかそうでないのかわからない動きをしていた青蝶の侍女が、おかしな姿勢で床に転がっていた。主がいなくなったせいなのか、ピクリとも動かない。
「本当に……冒涜的だ」
「しかしこりゃなんだい? 屍兵ではないように見えるが……人間にしてはありえない姿勢だ」
転がり方がまずおかしい。関節を無視してぐるりと一周足が肩に嵌まっているのだ。柔軟体操しているような奇術団の団員だったらいざ知らず、一介の侍女でこれほど体の柔らかい人間はいるのだろうか。
月鈴は既に体が凝り固まっている侍女の体をどうにか正そうとするが、既に固まってしまって無理だった。空燕もどうにか彼女を横たえようとするが、下手したら千切れると思ったら無理に戻すこともできなかった。
「彼女は既に亡くなっている。遺体を無理矢理白妃は動かして侍女の代わりにしていたんだと思う」
「……侍女の替わり? それって」
「三魂七魄の内、魂を抜けば生ける屍と化す。その一方で既に三魂七魄が抜けきった遺体に魄を埋め込む外道の技があると、師父に聞いたことがある。もっとも、そんなことできるのは方士の中でも修行と鍛錬を繰り返して三魂七魄を拡張できるだけ拡張し、自分自身の魄を切り分けることのできるような者しかできないはずだが」
「そんなもの、悪用したら……」
「ああ……墓場さえあれば、屍兵をつくり放題になってしまうんだ。白妃は雇われたらなんでもする仙女だが、墓場の多い場所に移動しないことを祈るしかない」
薔薇の匂いがむわりと漂う館の庭を、空燕と月鈴は手袋を嵌めて掘り起こしていた。埋められていた屍兵が暴れないよう、札に正しく術式を書き換えてから、そのまま行方不明者全員分の数と照らし合わせる。
薔薇の匂いがすっかりと染みついてしまっていたものの、彼らは既に亡者だ。魂を抜かれてしまい、未だに魄だけが残ってしまっている憐れな存在。
既に方士のことも、影武者のことも知っている花妃たち主従にどうしてなにをするのか言わなかったのかというと。
月鈴は術式を正しく書き換えながら、更に新しく札を貼り付ける。貼られた屍兵は、一瞬ガタガタと関節を無視した無茶苦茶な動きをするが、そのあとピタリと止まって手足が地面に放り出される。
残された魄を全て抜き取っていたのである。
「……すまんな、月鈴。こんなことをさせてしまって」
「いえ。私ができるのは後宮内に埋まった、人数のわかっている屍兵だけ。さすがに雨桐の町中の屍兵たちの魄までは抜いてあげることができない」
「……人を完全に殺すことを託して、それをすまんと言っているつもりだったんだが」
「それはあなたが気にすることじゃないと思う。彼らは魂を抜かれてしまった時点で既に死んでしまったのに、後生大事に体を動かし回っていたが、既にそこに自分の意思はない。本当にそれを、生きていると認めてしまってもいいのか?」
月鈴は市井の人々の生き方がよくわからないほどに世間知らずであり、彼女が詳しいのは方術ばかりだが。それでも彼女には師父がいて、寺院にずっと篭もって身につけた死生観が存在している。
方術に長ければ長けるほど、その死生観が身に染みてくるのだ。
「意思がない生き方に、生きている価値があるとは、私には思えない。だから彼らはきちんと葬ってあげなければ可哀想だ。また彼らの意思を無視されて、好き勝手に弄ばれるのかもしれないのだから」
「……そうだな」
あまりにも冒涜に冒涜を重ねられた遺体から、どうにか全員分の魄を抜き終えると、全員を棺桶の中に入れた。
これらは全て、後宮内に存在する共同墓地に埋める手はずとなっている。おかしな姿勢の侍女も、主人に捨てられてしまった上に遺体の持ち主も身元がはっきりしないため、きちんと札を貼って封印を施した上で、棺桶に入れてやることにした。
「そういえば、あなたのほうこそいいのか? このまま雨桐に残らなくても?」
「んー? 俺が還俗して、皇族に戻れと?」
「私は皇族は今のところあなた以外に知らないが……全ての元凶であるあなたの父上は、暴君だったように見て思う。しかしあなたはこの国の民草を大切にしている。あなたはこの国に必要なんじゃないかと思ったんだが……」
「ぷっ……」
空燕は唐突に噴き出して、そのまま腹を抱えて笑い出してしまった。それに月鈴はむくれる。
「私は、あなたを笑わせるためにそんなこと言ったんじゃない」
「いや……すまんすまん。まさか、お前さんが俺のことをそう思っていたなんてと、面白かっただけだ」
「だから、私はあなたに面白いことを言った覚えはない」
月鈴はむくれるが、ようやく空燕は丸めた背中を正した。目尻に涙まで浮かべていたが、それはすぐに拭った。
「そもそも兄上が目覚めたんだから、兄上に全て任せるよ。それに、側近たちからしてみれば俺はあくまで兄上の代理だったからなあ。兄上でなければ、あれらも納得しないだろうさ。それに、ここに住まう妃たちもな」
「そうだが……せめて、泰然陛下の側近になるというのは」
「それは側近の椅子をひとつ奪うことになるだろ。いくら兄上が人たらしとは言えど、全員を納得させることはできないのは、浩宇のことでもわかっているだろ」
連行されていった浩宇のことを思い、月鈴は黙る。
祖国と恋慕の板挟みになり、とうとう恋慕を捨てて妖怪になるしかなかった彼。もし泰然が完全に彼を落としていたら、連続皇帝昏睡事件も、もっと違う形の解決があっただろう。
もっとも。雇われた仙女が巣くっていた以上、どういう形であれ方士を介入させなかったら、雲仙国は瓦解し、四像国のひとり勝ちとなっていたのだが。
「……あなたは、この国が嫌いか?」
最後に月鈴は尋ねた。それに対してあっさりと空燕は言う。
「好きだ。愛していると言ってもいい。だがな、俺が兄上の手伝いをしてどうこうできるもんでもあるまいし、大人しく寺院に戻るさ」
「……そうか。あなたがもう納得しているなら、私はこれ以上なにも言わないんだ」
「と言うより、お前さんは俺にそんなに雨桐に残っていて欲しかったのか?」
そう尋ねられ、月鈴は喉を鳴らす。その珍しい反応に、空燕はきょとんと目を瞬かせた。
「月鈴?」
「……私はあなたのことがよくわからない。私のことを好きだと言ったり、この国を愛していると言ったり。私よりも後宮や雨桐の様子、この国のことについて詳しかったり……だから、あなたが寺院で燻っているよりも楽しいことがあるんだったら、残ったほうがいいんじゃないかと思っただけで……」
「そこにお前さんの気持ちは含まれるのかい? だとしたら、俺と離れてせいせいしたと取るので、俺は寂しく不貞寝する」
空燕にからかわれているのか本気なのかわからないことを言われ、月鈴は肩を跳ねさせた。
「……寺院に話が来たとき、あなたが玉座に就くんじゃないかと怖かった。あなたが私と一緒にいてくれた。私には方術以外なにもないから、寂しいのか寂しくないのかわからなかったが……あなたと出会って私は寂しさを知った」
月鈴の言葉はたどたどしい。雨桐に住まう子供のほうがまだ、恋や愛についての言葉を知っていただろうが、あいにく月鈴は生まれたときから寺院にいたため、恋も愛も知るのが遅過ぎたのだ。
月鈴は息を吸って、吐いた。
「あなたがいなくなって寂しさを覚えるのは悪くないと思っていた。だから、寂しいことはなにもないと知って、途方に暮れている」
「……月鈴、そういうのはなあ」
そう言いながら空燕は彼女の髪をひと房掴んだ。
「愛しいって言うんだ」
そのひと房に、口付けを落とした。
後宮に入ったときと同じく、空燕と月鈴は馬車に揺られていた。あのときと違うのは、既にふたりとも後宮内での正装は返却し、方服に戻っているということ。だからこそ月鈴は化粧もしていなかった。
「化粧はしていてもよかったと思うがなあ……」
空燕に残念がられて、月鈴は「いや」と首を横に振る。
「方術修行中に化粧なんてしていられないだろ。そもそも化粧直しする暇がないし、化粧崩れは醜い」
「なるほど……お前さんがそう思ったのならそうなんだろうな」
情緒が育ってない育ってないと空燕が思っていた月鈴にも、いっぱしに羞恥心があったようなのだから、それに合わせて、空燕もそこまで追究はしなかった。
やがて、森に囲まれた麗しい館が見えてくる。
最後の最後に、起きたはずの泰然に挨拶をしてから、帰ることとなったのである。
空燕と月鈴を見た兵士たちは、既に知っている顔なため、一度山茶花館の主である秋華に許可を取りに行った上で、すぐに入れてくれた。
館は大工が出入りし、どうにも落ち着かない様子だった。
「これはいったい?」
「大方、四像国から襲撃を受けたんだろうさ」
月鈴が驚きながら大工たちの作業を眺めている中、空燕がぼそりと言った言葉に、ぎょっとして振り返る。
「それは……大変じゃないか」
「大変だったんだろうさ。ここには皇帝陛下が三人も昏睡状態で眠っているんだから、今なら仕留められると思ったんだろうさ。だからこそ、俺も花妃に頼んで実家の援軍を送ってもらったようなもんだからな」
館の扉は入念に修理を施されているし、壁も塗り直されている。あの夜は月鈴も空燕も必死だったが、本来なら安全のはずの別荘にまで襲撃があったのでは、ただ事ではなかったのだろう。
そう思っていたら、「空燕様、月鈴様!」と声をかけられた。
世話になってばかりだった秋華である。彼女はふたりを見ると笑顔で駆け寄ってきた。
「先日の連続皇帝昏睡事件、無事解決おめでとうございます……!」
「ええ……しかし、あなたには残念なことでしたね?」
空燕の言葉にも、秋華は笑顔だった。いや。
彼女はいつもよりも化粧が濃く、肌も白く塗りたくられていた。おそらくは、既に目が腫れるまで泣いたあとなのだろう。彼女自身、覚悟を決めたから、既に笑顔になれるのだ。
(強い方だ……)
そう月鈴は感嘆していたが、それは彼女をより一掃悲しませそうで、口にすることはなかった。
「最後に、兄上たちを弔った上で、泰然兄に挨拶をしたく思いますが……」
「では、どうぞ皆様を弔う際、泰然陛下と一緒に行ってくださいませ。泰然陛下、職務復帰のために、本当に真面目に訓練を続けてらっしゃいますのよ? 本来ならば修繕中のここを離れて、もっと安全な場所に行くべきなのですが、私ひとりを残せないとおっしゃって、ここに残ってくださったんです」
「私がいるところが一番護衛が多いですから、秋華殿をひとりで置いておく訳には参りませんな?」
その声を聞いて、月鈴は目を見開いた。
声は空燕に本当によく似ているが、明らかに色が違う。空燕は飄々として掴み所がない風のような雰囲気の声だが、この声はどこかずっしりと腹に響き、山の頂を思わせるような厳かさがある。
振り返った先には、空燕そっくりな顔つきの、明らかに別人が立っていた。寝間着を着ているだけだというのに、彼から醸し出される気は、空燕のものとは異なっていた。彼が泰然陛下だろう……たしかに服装さえ揃えてしまえば、気配のわからないものには空燕が影武者として立てば済む話だろう。
彼を見て、空燕は深く陳謝する。それを見て慌てて月鈴もそれに倣った。
「兄上……壮健でなによりです」
「壮健ではないかな。まだ病み上がりで体がちっとも戻らないところだよ。そちらの方士が……」
そう言って泰然は月鈴のほうに視線を送る。月鈴は深く陳謝し直す。
「方士月鈴と申します」
「そうか、あなただね、此度私の愛妾として後宮に入ったのは」
「違……それは、空燕に言われ……おっしゃられたので、陛下を謀るつもりは……」
今回の事件の黒幕は四像国ではあれども、やらかしたのは方士である。後宮内に方士が潜伏していたのを言ってしまっていいものか。そう月鈴はなんとか言い訳をしようとしたが、それに対して、泰然は「ははは」と笑った。顔以外はなにもかもが違う兄弟ではあるが、笑い声だけはよく似ていた。
「いや、失礼。弟は昔から後ろ盾がない関係で、どこか卑屈な上に人を信用しないところがあったから。そんな彼が手元に置いてもかまわないという人を見つけられたようで安心したんだよ」
「……方士は、特に結婚などはできませんが」
「いや、内縁の夫婦はいくらでもいるからね。ふたりがそのつもりがないのならば、それは流すとして、ふたりがそのまま寺院に戻らずにこちらに来てくれてよかったよ。少しだけ相談があるんだけど、いいかな?」
その言葉に月鈴は首を捻っていたが、空燕は心底嫌そうに顔をしかめていた。それを月鈴は振り返る。
「空燕? 陛下の前でその顔は……」
「……兄上は人たらしなんだ。その上、やたらと外堀を埋めてくる」
「あなた、小さい頃から私と一緒に寺院にいただろうが。今も幼い頃のまんまとは限らないのでは」
「いや……三つ子の魂百までとは方士は言わなかったか? 後宮にいた頃から、その辺りは変わってないはずだ」
既に空燕は、泰然がなにを切り出すのかわかっている様子だった。
そういえば。山茶花館の主だからこそ、責任者として修繕中でもなるべく山茶花館から離れない秋華はともかく、いち皇帝がどうしてここに残ったんだろうか。たしかに彼がいる以上、護衛は増やされて当然だし、ましてやここは一度四像国から襲撃を受けているのだ。どうしてここに残ったのだろうか。
まるで、一度ここに立ち寄る空燕と月鈴を待っていたかのようなのだ。
「まずは、此度の事件解決のために、後宮に潜伏してくれたこと、誠に感謝する」
「いえ……」
空燕はこれ以上下手なことは言わなかった。
そして泰然は続ける。
「しかしこの三代に渡る連続皇帝昏睡事件の真相は、我らが父上の引き起こした厄災が原因。四像国の亡命国家とは引き続き和平のために使者を送るが、無事に平定するまでに時間がかかるだろう」
それはそうである。元を正せば、四像国にとっての聖なる山を雲仙国が奪ったことで彼らを怒らせてしまったことが原因なのだから。しかしだからと言って、おいそれと山を返すこともできまい。既に四像国の亡命国家が隣国につくられてしまった以上、簡単に山を返すなんて言ってしまえば、賠償問題はどれだけ大きくなるかはわからない。
それに空燕は「難しいですな」と言うと、泰然は頷く。
「本来父上の行いが全面的に悪いことだけはわかっているが……下手に土地の返却だけをしてしまえば、そこに住む自国の民を路頭に迷わせることになる。だからといってこちらが一方的に悪くないと言ってしまえば火に油を注ぐようなものだ。話し合いで落としどころを探すしかないが、強硬派は話し合いにはまず応じないだろうし、今回のような事態も引き起こしかねない……なによりも、我が国では数代前に方士の介入を受けたせいで、政治系統に簡単に方士を招き入れられない。そこを突かれたようなところもある」
その話を聞きながら、月鈴はどうして空燕が心底嫌な顔をしていたのか、だんだんわかってきた気がした。
外から方士を入れることができないのならば、身内の中にいる方士を連れてこればいいじゃないか。そう思っても仕方がないからだ。
泰然の言葉がひと段落したのを見計らって、空燕が口を挟む。
「……俺は兄上の側近たちにも申しましたが、俺には方士としての素質はあまりありません。方術のほうはからっきしなんです。俺がいても、兄上の力になれないかと思いますよ?」
「そこなんだがな。あなたには月鈴がいる。月鈴は雨桐全域に結界を張り巡らせ、後宮内に潜伏していた方士を特定した方士だったな? 彼女にはぜひとも我が国にいてほしい。そして空燕」
泰然はにっこりと笑う。空燕と似ているが、空燕がしないような表情で。
「あなたには山茶花館の守護を任せたい。四像国の件がある以上、軍部の再編は急務ながら、ここは仮にも別荘。後宮内になにかあった場合、ここに人員を割けないのは困るからね。あなたが強いことは知っている。だからこそ、ふたりが山茶花館にいてくれると頼もしい。それに」
彼は笑顔を浮かべている。月鈴は思わず空燕の横顔を盗み見た。空燕は滅多にしない、上からものを頼まれて困る子供のような顔をしていた。
「なにかあったとき、私の影武者がいてくれたほうがいいからね。おまけに私の愛妾がいてくれたら、より一層正体がばれることもあるまい。手伝ってくれないかな?」
どこからどこまでも、あまりに断りにくい案件だった。
第一に、そもそも皇帝陛下の命令として有無を言わせないようにすればいいものを、わざわざ頼むという形で言ってのけた。断るにも勇気がいる。
第二に、影武者という役割を与えた。有事の際に後宮に入ったりよそに出かけたりもする任務が与えられたのは、なかなかに魅力的だった。
第三に……ふたりが内縁の夫婦として認められたところである。この一点がふたりをより一層断りにくくしていた。
空燕は溜息をついてから、月鈴のほうに視線を寄越す。
「どうする? 俺は断る理由があまり見つからないんだが。お前さんはそうじゃない」
「……私は」
ただ、これを呑んでしまえば空燕と一緒にいることはできるが、月鈴の夢である仙女になる道は遠ざかる。それは彼女にとっての核を失うことだから、あまりよろしくはなかったが。
しばらく考えてから、月鈴は口を開いた。
「この話、お受けします。ただ、一度寺院に戻って師父に許可を取らせてくださいませ」
「そうか! それはよかった」
なんだか全ては泰然に担がれてしまったようだが、まあいい。
空燕と月鈴は顔を見合わせた。ふたりでいられるのならば、それでいいということにする。
****
皇帝ふたりの葬儀は、しめやかに行われた。
表向き、ふたりは病気で玉座を離れたことになっているため、あまり表立ってふたりの死を公表することができなかった。そもそも兄弟の父たる皇帝の死からあまりに皇位に就いた時間が短過ぎたため、これらを公表することで、この国の弱っていることを表に出し、四像国をはじめとする父皇帝のせいで恨まれている方々の国を敵に回すのをおそれたのである。
彼らに札を貼り、彼らの体に溜まっていた魄を奪っていく。これにより、彼らは完全に死に絶えた。これを秋華に見せるのは躊躇ったが、秋華は首を振っていたのだ。
「どうぞ、我が陛下の最期を最後まで見届けさせてくださいませ」
こうして皇帝ふたりの棺桶はきちんとした方術で封印され、墓地に入れられたのである。
方士として、これらの指揮を執り行った月鈴は、真っ白な方服を着ていた。
「これで本当によかったのか? あなたの兄上たちだったのだろう?」
月鈴は空燕に振り返る。空燕もまた、皇族としての喪服ではなく、真っ白な方服を着て方士として葬儀の弔いを行うほうに回っていた。空燕は首を振る。
「いや……泰然兄が起きられたのだ……もし他の兄上たちまで起きてみろ。皇位争奪戦で大変なことになっていた……秋華もわかっていたからこそ、兄上の最期を見届けられたのだろうしな」
「……そうだな」
秋華はそのまま残りの人生を出家して、後宮の墓地の管理をしたいと申し出たが、それはさすがに山茶花館に住む侍女たちだけでなく、泰然にまで止められた。
「あなたが兄上を愛してくれたその事実は嬉しい。ただ、兄上も寿命や戦で死んだのならいざ知らず、このような形で亡くなり、あなたを道連れにすることはよしとはしないはずです」
「ですが……私の陛下は……もう……」
「ここに来られるような方は、皆なにかしら病んでおられます。体もそうですが、心も病んでいらっしゃる方もおられるでしょう。そのつらさのわかるあなたにこそ、ここを任せたいのです。引き続き、山茶花館を頼めませんか?」
泰然の説得で、ようやく秋華は頷いた。
「泰然陛下は本当に命令が下手ですのね」
「それは側近たちに任せておりますので」
月鈴は、離れた長いはずの空燕からすら「人たらし」と称された泰然の言葉に舌を巻いていた。
それに空燕はからかい交じりで声をかける。
「なんだ、月鈴も兄上にたらされたくなったのか?」
「馬鹿なことを言うな。私は不思議だと思っただけだ。あれだけ陛下と空燕は似ているのに、ちっとも似ていないのは何故だろうと」
「……言葉がおかしくないか?」
「だが……顔の造形は同じはずなのに、どうしてこうも別人に思えるのかがわからなかったんだ。あなたと陛下は本当に顔は似ているのに、私からしてみると陛下といるのは居心地が悪くなるんだが、あなたの傍にいるのは不思議と身が馴染むんだ」
月鈴のその言葉に、空燕は「はあ~……」と溜息をついた。
それに彼女はまたしてもむっとする。
「私はまた変なことを言ったか?」
「いや……情緒が育ってないお前さんが怖いと、本当にそう思っただけだよ。情緒が育ったらどうなるのかと……」
「悪かったな、情緒がなくて」
「そうじゃない。本当にそうじゃないんだよ」
ふたりの他愛のない会話が続いた。
──そして、季節がひとつ変わった。
深い森。木々の影は月明かりを遮り、辺り一面を闇色の染め上げている。
その中、ザッザッと落ち葉を踏みしめる人形のような足音が響いていた。木々の隙間から、手を真っ直ぐに伸ばし、跳ぶ足音……屍兵は、こんな場所にも潜んでいた。
「はあ…………!!」
棒が勢いを付けて跳ぶ。屍兵はあり得ない方向に首を曲げて避け、ギョロリと目を剥いて棒を構える者を射抜く。
「これ以上民家には入らせない……!!」
「グギャギャギャギャギャギャギャギャ」
人の声と思えない咆哮を上げ、屍兵は群れをなして向かってきた。が。
その勢いはドォーンという音と共に遮られた。
森にそびえる何百年ものの木の幹が折れたのである。いや、違う。男の太い腕と青竜刀により、切られたのである。その木は屍兵を巻き込んでいき、押し潰していく。木が数本折れたことにより、屍兵と戦っている者たちの姿が月明かりの下に現れた。
方服を着た凜とした佇まいの娘に、同じく方服を着た背の高い青年である。
「それじゃあ、俺は屍兵の動きを封じる。封じた隙に、無効化してくれ」
「わかっている」
勢いを付けて跳んできた屍兵の膝、腕、首……さまざまな箇所を男は青竜刀で切って動きを止め、その隙に屍兵に貼られた札に書かれた術式を娘は書き足していく。書き足すたびに屍兵は動きを止め、そのまま崩れ落ちていく。
本来なら多勢に無勢になるはずの戦いであったが、たったふたりの方士の活躍により、見事屍兵たちは封印を施されて、そのまま物言わぬ屍に戻っていった。最後のひとりの術式を書き終えたところで、ようやく娘は「ふう……」と息を吐いた。
「お疲れ様。今晩はずいぶんと骨が折れたもんだ」
「お疲れ様。本当に……この辺りの墓地が荒らされたのだろうな。墓地にも桃の灰を撒いておかないと」
「そうだな……」
かつて雲仙国の後宮に入り、連続皇帝昏睡事件を解決した皇帝の影武者と、その愛妾を演じた空燕と月鈴。
本来ならふたりは後宮に住まう妃たちの別荘兼療養所に当たる山茶花館預かりとなり、有事の際には皇帝の影武者とその愛妾として、各地を飛び回らないといけないと、そう時の皇帝……泰然陛下の命を受けていたが。
今は霊山の麓で、屍兵退治をしていた。
方士が民草を守るために、屍兵や妖怪と戦うのはよくあることなのだが、今回はいささか事情が変わっていた。
****
泰然が政治に戻り、雲仙国はどんどんと豊かになり、泰然陛下の人気も高まりつつあった。彼が各地に遊園に出かけ、民草に顔を合わせる。そして民草の悩みをひとつひとつ吸い上げて、新しい法律をつくる。
税が厳しいという地域では、税を免除する代わりに労働で返せるよう働きかけ、豊作が過ぎて売る場所がないと困っている地域の豊作物は国で一括で買い上げ、逆に不作で喘いでいる地域に振る舞った。
その話を聞いてからの行動の速さは目を見張るものがあり、泰然陛下は巷では「千里眼の明君」と呼ばれるまでに広がりつつあった。
「……まあ、実際は俺たちが出かけたからなんだがなあ」
「陛下もよく考えつくものだな。法案制定中でも、私たちが外に出ていればそのまま情報を抜けると」
実際のところ、遊園を行っていたのは泰然ではない。そもそも先日の連続皇帝昏睡事件のせいで、側近たちが過保護に陥り、せいぜい方士ふたりを抱えて結界を張られ、武力でも物を言う山茶花館くらいまでしか、外に出ることができなくなってしまっている。
遊園に向かっているのは専ら泰然に変装した空燕であり、愛妾として月鈴がその隣を侍っていた。
雨桐はもちろんのこと、辺境の地に皇帝が現れたとなったら、それだけで人々は活気づく。彼らから聞いた困った話、嘆願を手紙に書いて鳥に括り付けて送り、こうして法案施行をしてもらっている。
泰然や一般の兵だけではなかなか辿り着けないような場所でも、方士であり鍛錬を積んでいる空燕と月鈴ならばたとえ派手な服装をしていても出かけることができ、その上、自分で身を守れるものだから兵力を最低限でかまわず、雨桐の兵力を割くこともない。いいこと尽くめだったのである。
雲仙国をぐるりと一周し、久々に帰ってきた山茶花館では、秋華や侍女たちが待っていた。
「お帰りなさいませ。遊園はどうでしたか?」
「ただいま戻った秋華殿。あちこち見られて面白いものだった」
「それはよろしかったです」
秋華の淹れてくれたお茶を飲んでいる中「そういえば」と彼女が告げる。
「どうかしたかい」
「陛下から伝言を預かっております」
「兄上……このところ側近が過保護なのに、抜けてこられたのですか?」
「それは側近の方々の気持ちを汲んでくださいませ。皆さん不安なんですよ、また陛下が目を離した隙に昏睡状態に陥ったらどうしようと」
任務帰りで腹を減らした空燕と月鈴がお茶を飲んでいる間に、ごま団子を温めて差し出す
。それをふたりが一生懸命食べている間、秋華は手紙を差し出した。
空燕は行儀悪くもごま団子を頬張りながら、手紙を広げて目を通した。
「ふうむ……四像国の穏健派と会合を持つべく、俺たちに出かけてほしいらしい」
「隣国に亡命政権を立てたというところが、穏健派でしたか?」
「ああ……」
空燕が顎を撫で上げて手紙に何度も目を通している中、月鈴はごま団子を食べる。
「かつて山茶花館を襲撃し、後宮に侵入をしていたのが強硬派だと聞くが……強硬派は出家して現在方士となっている者たちで間違いないか?」
「ああ……方士になれば、方術、体術、丹術……ありとあらゆる知識を得られる上に、方士という肩書きはどこにでも入れる免罪符になる訳だからな」
「……陛下はよく、あなたに還俗を勧めなかったな?」
「俺を皇族に戻したら、最悪俺がなんらかの理由で神輿として担がれるかもわからないからな。兄上もそれを防ぎたかった上、後宮内に仙女の侵入を許したのだから、現在方士に対する信頼が薄い。俺が還俗するのも方士のままでいるのもまずいなら、せめて神輿にされないほうを選んだんだろう」
「ややこしい……」
「要は政治に使えるか使えないかって話だな。続き。強硬派のせいで穏健派がたびたび使者を送っているものの、使者が雨桐に到達できないらしい。俺たちで強硬派を抑えて穏健派との会談に進ませるか、強硬派を倒すか選んでほしい、らしい」
その言葉に月鈴は難色を示した。
四像国も、このまま雲仙国に取り上げられた山の奪還を諦めていないらしいが、強硬派と穏健派では雲仙国に対する取り扱いも違うらしい。
「……ここは私たちでするべきではなく、軍を派遣してもらったほうがいいのでは?」
「おそらくは、それができないんだろうな。先日の一件で、軍も人を集めるのに時間がかかるようになったから」
「ああ……」
浩宇のような例があったため、身元検めが厳しくなり、その結果軍に人を集めるのも時間がかかるようになった。軍を少し動かす場合でも妖怪や方士を相手取る危険が伴うため、自然とそれの対策が既にできているふたりにお鉢が回ってきたのである。
秋華は月鈴に「あまり泰然陛下を責めないであげてくださいませ」と口を挟んだ。
「なにも四像国をないがしろにしている訳ではないんです。後宮で、そろそろ世継ぎが誕生しそうですので」
「え……それはつまり」
「ええ……先日、花妃様が懐妊なされましたから」
あれだけ泰然のことを愛していると言って憚らなかった彼女が懐妊したとあっては、たしかに雨桐を離れる訳にはいくまい。警備が厳重になるのも頷ける。
そうなったら、やはりふたりは出かけなければいけなくなるが。
最後のごま団子をごろりと口の中に転がしてから、空燕が口を開けた。
「そうなったら、俺たちは強硬派を足止めするよりも、むしろ倒したほうが早いか」
「そうだな……秋華、おいしかった。ごちそうさま」
「いえ。帰ってきたばかりだというのに。お気を付けください」
「ああ……」
こうして、ふたりで四像国の穏健派を招けるよう、強硬派の住む寺院まで向かったのであった。
****
本来ならば、四像国で一生を終えるはずだった人々は、山を奪われ、怨嗟を撒き散らして死んでしまった。そんな怒りの形相の彼らの遺体を使い、屍兵と化していた。
彼らの怒りや恨みを受けながら、空燕と月鈴は屍兵の札の術式を書き換え、封印して回っていたのだった。
「ふう……これで隣国からの街道も開いたはずだが」
「彼らの怒りは、凄まじいものだな」
「そりゃそうだ。故郷を追われ、聖地を奪われ、挙げ句の果てに出家を迫られたんだからな。俺のように自主的にではなく、ほとんど強制的に」
「ああ……」
ふたりは最後の一体の屍兵の封印を施してから、彼らを墓地に埋葬しなおした。最後に桃の灰を大量に撒く。桃の灰が消え失せない限りは、彼らの遺体が再び屍兵のして利用されることもないだろう。
ようやくひと息ついたふたりは、宿へと戻っていった。
宿はこの数日屍兵のせいで隣国に渡ることも、雲仙国内に戻ることもできずに立ち往生していた人々で埋め尽くされていた。
気の毒なのは宿の主人であり、命を賭けて立ち往生している人々の食事のための食材を調達せねばならなかった。
「往来、だいぶ安全になった。日が昇るころには往来は再会できるだろう」
「なんと……! ありがとうございます、方士様たち!」
宿はどっと歓声が沸いたが、ふたりとも一旦宿に取った部屋へと戻っていった。
「皆、喜んでいたな。これで穏健派も雨桐へ向かえるはずだな」
「ああ……」
ふたりはごろんと寝台に寝そべる。宿屋の主人が気を遣ったため、ふたりの取った部屋は新婚用であり、寝台も大きいとはいえどひとつしかなかった。
「これで兄上からの命は達成できた訳だが」
「まあ……そうだな」
「これで暇ができたのだから、一日潰していかないか?」
「……はあ?」
月鈴は変な声を上げたのに、からからと空燕は笑う。
「一応俺たち、皇帝陛下公認の内縁の夫婦だぞ? おまけに主人も気を遣って新婚用の寝台を提供してくれた訳だ」
「あれは……そうしないとここで立ち往生している宿客が全員入らないからだろうが!?」
「あんまり恥ずかしがってくれるな」
そう言いながら、空燕は月鈴のまとめた髪を解く。枕元にばさりと彼女の艶のある髪が広がった。方服の襟ぐりを寛げ、空燕は胸板をさらけ出す。それを見上げていて、ようやっと月鈴は観念したように目を閉じた。
「……動けなくなるまで抱いたら殺す」
「善処する。が、一日は休むぞ? お前さんの体が持たんだろうしな」
「殺す」
「すぐそういうことを言うなよ。寂しいだろうが」
そうからから笑う空燕の髪を抜けるほどにグイッと月鈴は掴むと、そのまま彼の唇に齧り付いた。はっきり言って痛い。
「痛い痛い痛い痛い……おい、いい加減にしろ。雰囲気を考えろ」
たまりかねて月鈴をくすぐり続けて口の力を緩めた空燕に向けて、月鈴は普段滅多にしないにんまりとした勝ち誇った笑みを浮かべた。
「あなたは普段から大人ぶって余裕ぶっているから、私だってあなたの調子を崩したかったんだ……ざまあみろ」
「……ほーう、お前さんが初だから抑えていたが、もう大丈夫のようだなあ」
「……はい?」
そのまま組み敷かれた。体重をかけられる。
口付けは鼻先、頬、そして唇に降りかかる。
「じゃあ……いただこうか」
そう低い唸り声を持って、空燕は微笑んだ。
****
雲仙国にて、千里眼の明君、泰然という者がいた。
悪逆非道な方士によって荒れた大地を鎮め、困り果てた者たちを慰め、妖怪や魑魅魍魎を鎮めた皇帝陛下の名は、明君として広く雲仙国の歴史に名を残すことになった。
後の歴史に、彼の手足となった方士がいたとされている。
その方士は皇帝にとってなんだったのかはよく知られていない。ただ男女一組であり、仲睦まじい夫婦だったとされている。
方士は婚姻を結んでいいのか。それについては歴史研究の中でも大きく議論を呼んだが、ひとつだけわかっているのは。
雲仙国において、彼らの存在は必要不可欠だったということだ。
<了>