空燕と月鈴は、ひとまず使者に馬車で連れられていく。
 ずっと修行していた山と寺院がどんどん遠ざかり、代わりに見えてきたのは花が咲き誇っている館である。

「あそこは?」
「はは、あそこは山茶花館(さざんかかん)と申します。本来ならば、あそこは皇帝たちの離宮のひとつであり、本来ならば陛下や妃様方の療養所になっておりますが……」
「今は昏睡状態の兄上たちを隔離しているという訳か」

 まさか皇帝陛下が三代続けて昏睡状態なんてこと、公表する訳にもいかず、こうして山茶花館で隔離していたという訳だ。
 そこで月鈴が使者に尋ねた。

「そうなりましたら、皇帝陛下たちは、どなたが看病なさっているのですか? 医者がずっと山茶花館を往復していましたら、怪しまれるでしょうし」
「今は現状を把握しておられる先代の妃様により、看病されておられる状態です」
「そうなんですか……」

 本来、妃は婚姻を結んだ皇帝が亡くなった場合は出家し、以降は後宮内に存在する寺院で皇帝の弔いをするのが習わしだが。
 今回は死んだ訳ではなく、昏睡状態の末に代替わりをせざるを得なくなった身だ。
 協議の末、希望者は実家に帰され、一部は帰還を断って寺院に入り、残りはこうして山茶花館で看病を続けているようであった。

「山茶花館におられます妃様と、その侍女方に、お二方は影武者としての教育を受けてもらいます」
「……そうですか」
「おいおい、俺も兄上の妃に教育を受けるのか?」
「なにぶん空燕様は、先日倒れられた陛下によく似てらっしゃいますから。そして陛下は先の妃様たちのことも気遣われ、たびたび山茶花館を訪れておられましたから、似ていなければすぐ教えてくださいますよ」
「……なるほどなあ。たびたび会っていたのならば、たしかに俺と兄上をできる限り近付けることはできるのか」

 空燕が腕組みをしている中、月鈴が「あ」と声を上げた。
 馬車が止まったのである。
 使者が招いて入れてくれた先は、豪奢な門構えの邸宅であり、ここから外の庭木を眺めると、その花の美しさにほれぼれとする。中に入ると、調度品も質のいいものがいくつも並べられているのが目に入り、なるほど療養にちょうどいい場所なのだろうと理解していたら、するすると衣擦れの音を立てて人が近付いてきた。

「まあ、ようこそおいでくださいました」

 そう言って一礼したのは、麗しい女性であった。
 髪を結い上げて涼やかにしているが、着物は袖ぐりがひらひらとしない筒状な上、使用人たちのように前掛けをしている。そして気のせいか酒と薬の匂いを漂わせている、貴人とは思えぬ人であった。
 使者が慌てて一礼をする。

「彼女が先代皇帝の妃の、秋華(しゅんか)様です」
「はい、あなたが陛下の弟の……」
「ごきげんよう、義姉上。私は空燕と申します」

 そう一礼をする空燕を、月鈴は信じられないものを見る目で見た。
 空燕はそれに苦笑を浮かべる。

「こらこら、月鈴。そんな顔をするな。これから義姉上の世話になるのだから」
「あ、ああ……そうだな。慇懃無礼なあなたが、そういう態度を取るのをはじめて見たから」
「そりゃ取るさ。これから、皇帝陛下の影武者として、兄上の妃たちを騙していかないといけないのだから」

 その態度に、秋華は複雑そうな顔をしつつ、ふたりを通してくれた。
 酒と薬の匂いが強い一室であった。酒は毒消しとして寺院でもよく使われている。薬も煎じたものの匂いが漂っているのだろう。
 寝台が三つ並べられ、似通った顔の青年たち……目覚めなくともなお、威厳を保っているものから、まだなにもないもの……そして、あまりにも普通に眠っているようにしか見えないものまでが並んでいた。
 放っておいて髪が伸びたのだろう。寝台が流れそうなほどに伸びた髪は、床に届かぬように手入れが加えられていた。

「兄上たち……お労しい」
「心の臓は動いています。呼吸も整っているのですが……ただ目が覚めないんです」
「医者の見立てでは?」
「……考えられないと。毒を盛られたのかと調べられましたが、見つかりませんでした。それに眠り続けるだけで目が覚めないなんて毒、存在してないでしょう?」

 秋華は真ん中の寝台に切なそうに触れていた。先代の皇帝に嫁いだ彼女からしてみれば、まさか目が覚めないなんて自体、考えてもみなかっただろう。
 重い空気が部屋を支配しそうな中、「申し訳ございません」と小さく月鈴が声を上げた。

「なんでしょうか? たしかあなたは空燕様の妃代理の……」
「お初にお目に掛けます。私は月鈴……修行中の身なれども、方士をしております。一度、方術の面から皇帝陛下たちを診てもかまわないでしょうか?」
「方術……ですか」
「ああ、義姉上が知らぬのも無理はありません。月鈴は私の姉弟子であり……方術の方面にも長けていますから」

 方術の奇跡は、一度見てみなければわからぬものである。
 どの時代においても、方士は国長を助けるものか、国長を惑わして滅ぼすものしか存在していない。
 月鈴は侍女たちに手伝ってもらい、眠っている皇帝たちの着衣を寛げ、耳を当ててひとりひとりの心の臓の音を聞きはじめた。

「……足りない」

 やがて全員分の心の臓の音を聞いたあと、最後に「空燕」と彼女は呼んだ。

「どうした?」
「脱げ」
「……なんだ、俺は昏睡状態ではないぞ?」
「足りないと言っただろうが。陛下たちの音と聞き比べたいから、ほら脱いだ脱いだ」
「……なんだかなあ」

 文句を言いながらも、渋々空燕は方服を寛げて胸を大きく開くと、「ありがとう」と全く照れる素振りも見せずに、月鈴は彼の胸に耳を押し当てた。

「……やはりか」
「足りないと言っていたが、なにが?」
「……あなたの音は整っているのに、陛下たちの心の臓の音……魂魄(こんぱく)が足りないみたいだ」

 それに空燕は目を見開き、手伝っていた秋華や侍女たちも同じような顔をした。

「魂魄が足りないって、そりゃいったい……」
「あなた師父からきちんと座学で習っただろう? 魂魄は三魂七魄(さんこんななはく)揃って、初めて魂魄と呼ぶんだ。魂魄が人を生かし、死ぬときには少しずつ抜けて、最終的には空っぽになり、命が終わる。そして魂魄の内、心を司るのは魂、命を司るのは魄と呼ぶんだが……陛下たちの心の臓の音からは、魂の気配を感じなかった」
「そ、それって、自然に魂が抜け落ちることはあるのですか!?」

 秋華が悲鳴のような声を上げるが、月鈴は首を振る。

「本来、魂魄はふたつでひとつ。三魂七魄全てが混ざり合って、人間を形取っている。片方だけ抜けるなんてことは、本来ならばありえない。可能性があるのならば」

 月鈴が指を折りながら訴える。

「ひとつ、後宮内に妖怪がいる。たまにいるんだ、妖怪で魂を好物にしている輩が。ひとつ、後宮内に方士が混ざっている。方術を知っていれば、たしかに魂を悟られぬよう抜いていくことも可能だからな」
「しかし……それはいささか難しくないか?」

 秋華が今にも気絶しそうなくらいにわなないている中、月鈴の推論に空燕が着衣を整えながら否を唱える。

「なんでだ?」
「後宮は本来、皇帝陛下の庭であり、妃たちを管理する場所だ。事前に方士により、結界が張られ、妖怪は入れないはずだ」
「だとしたら、後宮内の人間の仕業か?」
「それも本来ならば難しい。妃は試験をした上で合否を決めるし、侍女たちも妃の実家から入れるから、身元がたしかな人間しかいないはずだ」

 空燕は月鈴ほど方術に明るくはないが、彼のほうがよっぽど後宮については詳しかった。
 しかし現状として、結界が張られて安全なはずの場所で、三人も魂が抜かれて昏睡状態なのである。
 秋華は震えながら、彼女の皇帝の傍に立つ。

「……陛下が倒れた理由はわかりましたが……陛下は、助かるんでしょうか?」

 秋華はすがるような声を上げるが、月鈴が素っ気ない。

「先程も話しましたが、魂は心で、魄は命です。心を空っぽになるまで抜かれてしまった人間は、果たして生きていると言えるでしょうか?」
「…………っ!!」

 とうとう秋華は膝を突いて泣きはじめてしまった。侍女たちは慌てて彼女に駆け寄る。
 空燕は「おい月鈴」と言うが、月鈴は毅然とした態度だ。

「助かる見込みもないのに、あるなんてことは私には言えない。それだと秋華様があんまりだ」
「だがなあ、言い方ってものがあるだろう!?」
「……泰然(たいぜん)陛下は、まだ完全に魂が抜けきっていない」
「ええ…………?」

 本当に眠っているように目を閉じ、息をしている泰然を見た。たしかに他の兄たちよりも肌艶もよく、赤みを差してはいるが。

「後宮内に入って魂が抜ける元凶を食い止めれば、まだ助かる見込みはある」
「……他の兄上たちは?」
「それはわからない。抜かれた魂を元に戻した例は、私も知らないから」

 たしかにここで秋華に期待を持たせるのもよろしくはない。
 秋華は涙を拭ってからも、毅然と立ち上がった。

「……なにからなにまでありがとうございます。それでは、おふたりにお召し物を用意致しますから、お待ちくださいませね」
「ああ、すまない」

 ふたりはこうしてしばし待ち、侍女たちを付けられてそれぞれ部屋に入れられた。
 空燕は出された着物にげんなりとした。今まで袖ぐりの細い方服よりも装飾が多い上に、袖がひらひらとして落ち着かない。着物に袖を通して帯を締め、腰に剣を差したらかろうじていつもの方服を思わせた。

「……この袖じゃ、剣が振りにくいな」
「振らないでくださいまし」

 侍女にそう咎められて、思わず空燕は閉口する。彼は後宮にいた時間は短く、里帰りというような感傷もない。そもそも現後宮の主は泰然であり、空燕ではないのだから、里帰りもなにもあったものではない。
 髪型だけはそのままだが、振りにくい袖だけは一度考えなければならない。
 そうひとりで思いながら部屋の外を出たら。

「……重い」
「頑張ってくださいませ。妃として後宮に入る以上、他の妃方に軽くあしらわれないよう、背筋を伸ばして」
「……本当に、これで合っているのか?」
「合ってらっしゃいますとも」

 秋華に励まされつつも、息を乱した月鈴の声が聞こえる。彼女の妃装束に興味を示した空燕は、できる限り足音を殺して隣の部屋を覗き見た。
 そこで、息を止めた。
 普段化粧っ気のない月鈴の肌はつるりと色を塗られ、唇や頬、目尻に朱が差されていた。普段長い髪をひとつにまとめるだけの素っ気ない髪型だが、今の彼女は簪を使って丁寧に髪を結われていた。少し身じろぎするだけで、シャン、シャンと音を奏でる。
 そして着物は、普段の簡素な方服からでは想像つかないような、桃の花を思わせる服であった。白い着物に赤い帯が映え、しずしずと歩く様は、日頃棒を振り回している娘と同一人物とは思えない。

「……化けたな」

 そうぽつりと声を漏らした空燕のを耳ざとく聞いてしまった月鈴は、肩を怒らせる。

「に、似合わないと言うのか!? 妃の装束らしいが!」
「似合わないとは言ってないだろう。ただ驚いただけだ」
「こんな格好で修行できる訳がないだろうが!?」
「でもお前さんの目指すところの仙女は、だいたいこんな格好をしていると思うが」
「うっ……」

 そこで月鈴は黙ってしまった。
 月鈴が憧れている仙女はどのような逸話かは知らないが、空燕が寺院に入れられたときには、既に月鈴はいたのだ。そして神妙な顔で、なにかにつけて「これも立派な仙女になるため」と言っていたのだから、おかしいったらなかった。
 実際に、彼女に秋華が用意してくれた着物はよく似合う。
 全てが終わったら着物を贈ろうかと考えながら、ひとまずふたりは秋華に合格をもらうまで、練習に励むこととなった次第だ。