結界を張り終えたからか、あれだけ蠢いていた屍兵の動きもぴたりと止まった。路地に落ちている分は、どうにか札の術式を書き直した上で、邪魔にならないところに寄せておいたが、早いこと埋葬してやらなければ野犬の餌になってしまうだろう。軍を動かして手配しなければならない。
 後宮へ戻る途中、空燕は「月鈴」と彼女を呼び止める。

「どうかしたか?」
「いや、お前さんにはずっと迷惑を掛け通しだったなと思ったまでだ。妃のふり……は、ほとんどしてなかったようだがなあ」
「秋華さんに申し訳ないな、妃の作法を付けてもらったというのに、結局はお披露目できないままだった」
「はははは……で、お前さんは未だに真相は読めてないんだな?」
「さすがに私も、後宮内に内通者がいるところまでは読めたが、それ以上はさっぱりだ」
「なるほどなあ……」

 空燕は唸り声を上げた。それに月鈴は半眼になる。

「もしかして、あなたは真相に気付いたのか?」
「いやなあ……お前さんの情緒が育ってなくて安心したというべきか、俺は男として見られてないと残念がるべきか、迷っているところだ」
「……なんだかすごく馬鹿にされているが。情緒がなくてはわからないということか?」
「正直、初日の時点でおかしいとは思っていたが、確証が持てなかった。ただ、推論の外堀を埋めていって、今晩四像国の連中に襲撃を受けて、ようやく確信したところだ」

 月鈴はそれに心底嫌そうな顔をした。

「……空燕、私はあなたが四像国の人に襲撃を受けたなんて、今初めて聞いたが」
「この辺りは、帰った矢先に問い詰めないといけないと思ってなあ。まあ、お前さんの初手が早かったからこそ、俺は無傷でいられたが、初日の内に俺の魂が抜かれていた場合もあった訳だ。こればかりは、お前さんが情緒が育ってなくて、なおかつ初手が早くて助かったというところだな」
「遠回しに言うな、真相を話せ」
「まあ、一連の出来事は全て、四像国の連中のやらかしだというところまではお前さんも知っていると思うが。兄上たちを昏睡状態に陥らせた黒幕の前に、ひとつ話をしようか。後宮では、人の出入りは厳重に管理されている。皇帝の世継ぎをつくる場所だからな、余計なものを入れたり、ましてや他の男との子供が生まれたりしたら大惨事だから、基本的に全員の身分や出自は検められる」
「白妃は本当に例外といったところか」
「仙女に近いような方士、俺たちと同じく方士でない限りは見抜けない……その上、彼女の出入りについては何者かに記録を消されていたから、余計にわからなくなっていた」
「だから、後宮に内通者がいるというのがわかるが……その内通者というのは?」
「あまり早まるな」

 やがて後宮の門が見えてきた。
 月鈴は黙って指先のかさぶたを引き裂くと、そこから噴き出た血で術式を描いた。方術が発動したことにより、門番はふたりのことに気付くことなく、ふたりは堂々と門を通って後宮へと入っていった。
 後宮に入ってから、ふたりは屋根を伝って宛がわれた屋敷へと進む。

「ところがなあ。そこまで厳重な管理をされている後宮だが、一カ所だけ例外処置があるんだ。それはあまり多くの記録が残らず、ほぼ名前だけになる」
「後宮で務めているのに、名前しか残らない……? 管理しなくってまずくはないのか?」
「その職務は身体検査しかされない。身体検査をして確認が取れたら、晴れて後宮での職務が許可される……宦官だ」

 それに月鈴は驚いて目を見張った。
 後宮に潜入してから、ふたりと話をして連続皇帝昏睡事件の調査を手伝ってくれた宦官なんて、ひとりしかいない。
 空燕は怜悧な目でどんどん近付いてくる屋敷を見る。

「宦官は去勢されているからな。当然ながら世継ぎはつくれない。子を成さないとならない人間であったら、まず宦官になろうなんて発想がないのさ……まだ、去勢せずともなれる出家のほうがましなくらいだ。おまけに宦官は時間制限付きだからな」
「……時間制限とは?」
「去勢された人間というものは、そう長くは生きられない。去勢されたら男ではなくなるが、女でもない。その危うい美しさというものは、宮女どころか妃すらも惑わし、時には道を踏み外させる。野心のある宦官というものは、大抵は妃に取り入って出世の道を模索するものだ……だが、その栄華は長くは続かない。通常の人よりも美しさを得る代わりに、通常の人よりも早く年を取り、その美貌は衰え、人よりも早く死ぬ……王朝によっては、宦官にされるという刑罰すらあったもんだからな。いくら身分や学がないからと言っても、そう易々となりたいと思ってなるもんじゃない」
「だとしたら……あの人は」
「……雲仙国をそれだけ恨んでいる。ということだ」

 そう言って、空燕は青竜刀を構えた。月鈴は複雑な表情で唇を噛みながらも、袖から棒を取り出すとそれを正して構える。
 ふたりはほぼ同時に館の扉を蹴破った。

「……とうとう、ばれてしまいましたか」
「ああ。お前さんが俺を見たときの表情を見て、違和感を覚えた……あれは」

 空燕はちらりと月鈴を見る。月鈴は本気でわかってないという顔をしていたが、とうとう彼は……浩宇は「言うな……!」と叫んだ。

「私はあの方を愛していた……! お慕いしていた! できればあの方が世継ぎさえつくらなければ、このまま私はあの人を愛して、愛して……そのまま緩慢にこの国が滅びるのを見届けようと思っていた……!」

 浩宇の言葉に、月鈴は戸惑ったように空燕を見る。
 空燕は月鈴にだけ聞こえるように口を開いた。

「俺を見たときの目は、恋をした戸惑いの色を帯びていた……兄上に対して、気があったんだろうさ」

 それに月鈴は困惑したまま、今まで助けてくれていたはずの浩宇を見ていた。
 美しい人なのである。真っ直ぐの黒く長い髪、切れ長の双眸。それは男の角は取れているものの、女の丸さは帯びていない、危うい美しさ。
 しかし空燕の指摘の通り、時間制限付きの美貌なのである。
 その美しいかんばせを歪ませて、浩宇は激昂した。

「この国が我らの故郷を奪った! 我々の同胞は……ちりぢりになった……亡命国家だって
つくり、そこから非難声明だって出した! だが……貴様らはちっとも、我らの山を返してはくれなかった……」

 それはどう考えても四像国が雲仙国を恨んでしかるべきなのだが。
 それでも空燕は淡々とした調子で、その美貌を歪ませる浩宇を見た。

「それで、この国の皇帝たちの魂を抜いていったと」
「ああ、そうだ。私が後宮に潜入し、それで雇った仙女を引き入れた……皇帝が代替わりするたびに、名前だけは変えていたが」
「名簿の一部が抜けていたが……あれはお前さんの仕業か?」
「私は頼んだだけ。少し女のふりをしてしなをつくれば、誰だって好きに動いてくれたさ! 我らの同胞のために、国を取り戻すため、なんだってやった! そうしなければならなかったからなあ! ……あの方だけは、ちっとも私の思い通りに動いてくれなかったけれど」

 そう自嘲気味に浩宇が俯いた。
 月鈴は以前に秋華が言っていたことを思い返す。秋華の元で昏睡状態の皇帝たちの介護を続けている侍女たちも、揃って泰然に射貫かれてしまったと。
 彼は天性の人たらしだ。魔性の人たらしならば、彼に惹かれた者同士を潰し合わせて、人間関係を滅茶苦茶に破壊してしまうが、泰然の場合は天性の人たらしだった。彼に惹かれた者同士で協力関係を結び、結束を深めていった。
 今回の騒動でだって、花妃を中心として妃たちが協調してくれた。だからこそ、次に狙われるであろう秋華たち山茶花館に援軍を送ってそこにいる皇帝たちを守れたのだから。

「……あなたの言い分はわかった。あなたが陛下を愛していたことも。あなたが祖国を思って行動したことも」

 祖国への思いと泰然への恋慕で、二律背反に陥っていたこと。このことだけは同情に値するが。
 月鈴は既に明玉を見ているし、雨桐の現状を知っている。

「なら、あなたの、あなた方の祖国への思いをひとかけらでも、どうして無辜の民に向けてくれなかったんだ?」
「……彼らにはたしかに悪いことをしました。でも、恨むべきは国であって、我らでは……」
「たしかに陛下たちの父はひどい皇帝だったかと思います! ですが、現陛下は、雨桐の人々を食い物になんてしていない! 彼らを病に冒したり屍兵にしたり……それで取り戻せた国は、本当にあなた方の誇れる国なのか!?」
「ええ、ええ……あなたは本当に、最初にお会いしたときから……気に食わない……」

 だんだん浩宇の皮膚が割れていった。それに月鈴は戸惑う。

「あなた……まさか……」
「ええ……雇った仙女に頼んだんですよ……もし失敗したとしても、確実にあなた方はここに戻ってくるのだから……それで皇帝の血を根絶やしにすれば……陛下はまだ起きてないのだから……この国は滅んだも同然です……!」

 浩宇の柳のような体が膨張し、膨れ上がる。そして服が裂け、皮膚が破れて毛皮が顔を覗かせる。
 それはもう、人ではない。妖怪であった。
 窮奇(きゅうき)。雲仙国では四凶と呼ばれる四種のおぞましい妖怪の一角に位置する、牛のような鼻息を出しながら風を操る妖怪として知られている。
 空燕は顔をしかめた。

「雇った仙女、本当にろくなことをしないな?」
「あの方は……白妃は本当に、自分の趣味にしか興味を示していないようだった。浩宇を妖怪に変えてしまったのも、あの人にとっては暇つぶしなのかもしれない」
「本当に……どうしようもないな」

 方士が国に関わる場合、力を借りてよりよい国に治めるか、好き勝手するために国に寄生するかのいずれかしかない。
 青蝶の場合は、暇つぶしのために浩宇の誘いに乗り、彼に言われるがままに彼を妖怪にする術式をかけたのだろう……いや、彼女の性格上、「そうなるように」仕向けていた可能性が高い。
 本当にたちが悪い。
 窮奇は鼻息を立てた。それがかまいたちとなってこちらへ飛んでくる。

「……あの仙女の悪口は後回しだ。先にこれをなんとかするぞ」
「わかっている」

 もうしばらくすれば、日が昇る。
 結界が張られた以上、もう羅羅鳥も好き勝手に魂を奪うことはできないのだから、山茶花館で眠っている泰然も起きるだろう。
 彼に正しく後宮を引き渡せるように、全てを終わらせないといけない。
 彼が目を覚ます前に。