夜になり、月鈴と空燕は方服を纏って外に出た。手にしている袋には、桃の灰が占められている。

「段取りはわかっているな?」

 月鈴が短く尋ねると、空燕はからからと笑う。

「わかっている。雨桐全域を覆うよう、桃の灰を撒け、だろう?」
「ああ……城壁をぐるりと一蹴すれば、それで円陣になるはずだ。全て撒き終えたところで、私が術式を完成させ、結界を作動させる……」
「それで、屍兵の動きを封じることができると。これで晴れて兄上の魂の吸引が防がれ、後宮内の昏睡事件は一気に解決できると」
「……そうだといいがな」
「だろうなあ」

 どう考えても、青蝶のような方士が妃として潜入している以上、誰かが引き入れたようにしか思えないのだ。
 どの国、どの時代においても、皇帝が国を傾ける際に、美しい妃がいる場合が多い。そのほとんどは、国が滅んだ凶兆の名を押しつけられた悲劇の妃だが、稀にいるのだ。
 ──国を滅ぼすために送り込まれた、魔性の女が。
 既に一介の方士の力を超越し、仙女と呼んでも不足ない存在が、青蝶なのだ。彼女を見込んで後宮に送り込んだ者が、別にいると考えるのが妥当だった。
 でも青蝶では尻尾を出さないだろうし、現状証拠以外から語れるものがなにもない以上、黒幕を炙り出すためにも、結界を張ることは強行しなくてはいけない。

「それじゃあ、空燕。あなたも無事で」
「ああ、そちらも。もしお前さんだと苦労するようなら、いつでも呼んでくれ。お前さんの方術なら、できるだろう?」
「あなたはすぐそう言う。でもわかった」

 ふたりはさんざん軽口を叩き合いながら、屋根の上を走って行った。
 月鈴は灰を撒きながら走りはじめる。ぐるりと城壁に沿って一周。それで空燕と再会できれば、そこで術式を発動させて、結界を張る。
 作戦としては簡素なものだが、ふたり揃ってそれがそう上手く行くとは思っていなかった。

 ──トン、トン、トントントン……

 最初はただまばらな足音だった。訳ありか宿を求めてかのいずれかしか訪れない現状の妓楼ですら、夜に脅えているというのに、こんな夜中に足音なんてありえない。
 トントンと跳んでいたのは、着物を着て手をぶらんと前に突き出した、札に塗れて顔の見えなくなった屍兵であった。着ている着物からして、雨桐に住まう民間人であった。

「……あの仙女、まさか民間人の魂まで抜いていたのか!?」

 思わず月鈴は歯ぎしりをする。
 方士は正しく方術を使うもの。それを使い世を乱すのは間違っている。なによりも、三魂七魄に接して人の命を弄ぶ様には、歯ぎしりしかしない。
 やがて、跳んでいる屍兵は、ギュインと屋根の上で灰を撒いていた月鈴に気が付いた。もしも人であったのなら、灰を撒いている不可解な女をいきなりは攻撃しないだろう。せめて灰の手持ちがなくなるのを待つだろうが、屍兵は違う。
 屍兵は、浄化されるということを怖れない。浄化されたら消えるということがわからない。だからこそ、一斉に月鈴に向かっておどろおどろしい動きで飛び交ってきたのだ。
 それを見て月鈴は苛立つ。

「……っ、本当に、分からず屋……!!」

 月鈴は一旦灰を懐にしまい込むと、袖から折り畳んだ棒を引っ張り出して対峙する。
 浄化されかかり、屍兵は腐った腕からしゅーしゅーと煙を上げて月鈴に向かってくる。それに月鈴は力いっぱい棒を打ち込むと、自身の指を噛み切って血を流し、札に書かれた術式を上書きしていく。
 一体、二体と札を上書きし、屍兵が屋根から落ちていくが、それでもきりがない。

(私には、空燕みたいに力任せに振り落とすことができない……ひとりふたりだったらともかく、こんな大人数だと……っ!!)

 これが人間ならば、それこそ正規軍人だとしても、月鈴の棒術で打ち倒すことができたが。相手は痛覚がなく、浄化されてもなお襲いかかってくる屍兵だ。彼女の腕では、なかなか倒しきることができない。
 しかし灰を撒きながらも、屍兵を打ち倒さなければ、術式が完成しないのだ。

(もう空燕を呼ぶ? いや……まだだ。あの人だって、まだ灰を城壁に沿って撒き終えてないだろう……)

 彼であったら最優先で助けに来てくれるだろうと自負しているが、月鈴はそれを拒んだ。
 空燕は飄々としていて、掴み所がなくて、月鈴はいつも振り回されているが。それでも彼は月鈴を優先してくれている。

(あの人に頼るのは、もう少し先だ……先に、私は私のなすべきことを……!!)

 月鈴は屍兵を棒で殴り倒しながら、屋根から落として、灰を撒く中。
 軽い足音が聞こえることに気付いた。

「あ…………」

 小さな声も共に聞こえた。

「まさか……こんな時間に子供!?」
「あ……あ…………ああ……」

 大方、屋根の上がうるさくて、こっそりと外の様子を覗き見しようとした子であろう。寝間着姿で、顔を青褪めさせながら、地面にぺたんと座り込んでしまっている。
 やがて子供の存在に気付いたのか、ギュルンと屍兵が首を子供のほうへと折り曲げている。黒幕は、おそらくは夜の戦いの現場を目撃した相手を殺すよう、屍兵に指示を出しているのだろう。恐怖で顔を引きつらせている子は、逃げ出すことはおろか、走り出すことさえできずにいた。

(くそっ……! 私ひとりではあの子の近くの屍兵を一掃できない! ひとりふたりならともかく、どうしてこんなにいるの!?)

 棒術で殴りながらも、月鈴は必死に子を見下ろす。恐怖で震えている子は、屍兵が寄ってきても動くことができずに震えている。
 月鈴はぎゅっと棒を持ち帰ると、そのまま屍兵の頭を貫いた。どっと頭から血を滴らせ、棒が濡れるのをいいことに、それらを使って貼られた札の術式を上書きしていった。

「いい加減に、しろぉぉぉぉぉぉ!!」

 こうして、今だけは月鈴に寄ってきていた屍兵を一掃してから、ようやく子供の傍へと飛び降りた。

「あなた、どうしてこんなところに!? 今晩は危ないから、家の中から出ないでほしかったのだけど!?」

 そんなことを子供に言っても無駄だとわかってはいても、言わずにはいられなかった。途端に子供はポロリと涙を流す。

「薬屋さんに行って……買い物に行ったら遅くなっちゃったの……でも、あちこちから、なんか臭い人がたくさん出てきて、逃げ回っていたらおうちに帰れなくなっちゃったの……ここ、どこ……?」
「……そうか、それはすまないことをした」

 たしかに子供は、手には袋を持っていた。子供は恐怖で身動きが取れなくなっても、屍兵が寄ってきても恐慌状態に陥ることなく、自棄を起こして薬を投げ出さなかったのだから、この薬は大切なものなのだろう。

「あなた、名前は?」
「……明玉(めいぎょく)
「明玉ね。私は月鈴。あなたを家まで送っていきましょう。屋根の上に登れる?」
「無理……高くて怖い……」
「そう。屍兵……さっきからずっとうろうろしている動く死体だけれど……がうろうろしている中あなたの家に向かうのだけど、大丈夫?」
「うん……へーき」

 明玉を名乗る子供は、べそをかいていた。正直高いところを怖がって屋根の上に登れないのは痛手だったが、怖がる子が脅えて屋根の上で立ちすくんでいたら、それこそ屍兵の餌食だ。なにをされるかわかったものじゃない。
 仕方なく、月鈴は明玉の手を取って歩きはじめた。
 今晩中に城壁を一周したいところだが、先にこの子を家に帰さなければならない。

****

 空燕は走りながら灰を撒きつつ、持っている青竜剣を振るっていた。
 カンッカンッと音を立てて、矢が落ち、短剣が落ちる。

「……おかしな話だなあ。俺を後宮で仕留めればいいものを。後宮の外に出るのを待っていたのか?」

 空燕が灰を撒きながら戦っていたのは、布で顔を覆った方服の人間であった。方士のような身なりではあるが、その動きはどこか型にはまり、方士のような一対一で励んだ鍛錬により培われたものではないように思える。
 しかし軍人の動きにしては、この国の者ではない。飛び道具も矢も、この国の軍人のものよりもつくりが甘く、正規軍ではないように思える。

(あれか……俺が兄上の影武者だということが割れている。俺の影武者計画を知っているものは限られているが……後宮から出ることを言った人間なんてもっと限られている)

 空燕は泰然たち兄三人が昏睡状態に陥った手前、形の上では側近と共に行動していたものの、自分をわざわざ寺院まで迎えに来た者たち以外は信用してはいなかった。
 後宮内で三人も昏睡状態に陥れば、普通に考えれば一旦後宮内の妃たちを宦官や女軍人を使って調べさせた上で、原因究明に当たるのが普通だが、雲仙国の側近連中は「後宮内は王以外は入れないから」と言い訳して進んで調査をしなかった。
 宦官たちを使って調べさせればいいものの、思ったような成果が上がらなかったところからして、側近連中は限りなく灰色に近い黒で、宦官たちは限りなく黒に近い灰といったところだろう。
 妃たちとも話をしたが、花妃は本気で泰然の身を案じているようだった。月鈴のことを警戒しているのならば、わざわざ月鈴の贈り物の香油に手を出す必要もなく、彼女は白と見てかまわないだろう。
 そこまで絞れば、おのずと犯人像も見えてくる。

「……俺はなあ、兄上が起きてくれなければ困るんだ」

 雲仙国のことは憂いている。しかし、玉座に着きたいか着きたくないかといえば、答えは否である。
 彼は母に命からがら寺院に入れられて出家した身であり、もう雲仙国後宮とは縁が切れていたにもかかわらず、無理矢理繋ぎ止められている身の上だ。民草は守るべきだが、守るのは自分でなくてもかまわないはずだ。
 泰然は妃たちからも、宮女たちからも慕われ、実際に皆で協力していく体勢を創り上げていた。だからこそ、連続皇帝昏睡事件なんかが起こっていても、宮女たちが疑心暗鬼に陥っていても、妃たちだけは落ち着いていたのだ。恐慌状態に陥ったところでは、誰がなにをしてもおかしくないというのに、彼女たちは比較的落ち着いていた。
 しばらく影武者として兄の後宮を見て、しみじみと空燕は思い至ったのだ。
 自分では、全員を同時に愛することはできないと。
 彼が愛して、本気で執着できるのは月鈴ただひとり。
 自分と同じでとことん欠け落ちている彼女でなければ、愛することができないのだ。