月鈴は少しだけ早くに目が覚めると、空燕がまだ寝息を立てて眠っているのが目に入った。彼の太い腕に抱かれて眠っているのに、月鈴はイラリとする。
「私は、あなたの抱き枕ではないんだが……」
重いし、男臭いし、その匂いが嫌ではないことが癪だった。
飄々として捉えどころのない男であり、本人は全く皇帝の座に着く気がない。その割に、彼は雨桐のことも後宮内のことも陛下たちがされたことについても、静かに怒っているようだった。
「……戻りたくば、戻ってもいいぞ」
「どこにだ?」
月鈴は思わず仰け反ろうとするが、がっちりと胸中に収められて身動きが取れなかった。端正な双眸が今はしっかり開いて、じっと月鈴を覗き見ていた。
「起きてたのか!?」
「お前さんの視線を感じて、眠っていられるか」
「……あなたはもっと、いい加減な人と思っていたんだが。この数日思うところがあってな。泰然陛下は助けられるとは思うが……そのあと……あなたはこの国に必要な人ではないのか?」
「それを決めるのはお前さんか? 俺ではないのか?」
空燕にじっと見つめられてそう尋ねられても、月鈴は答えを出せなかった。
そろそろ夜明け前で、暗くて星ひとつ見えなかった空も、今は白々と明けてきている。
「起きるか?」
「……そうだな」
それでこの話題は打ち切られてしまった。
妓楼の寝台でふたり寄り添って眠り。目が覚めても、特にこのふたりになにもなく。
空燕と月鈴は老婆に礼を言うと、人に見つからぬうちに後宮へと帰って行った。急いで館に帰った際、当然ながら浩宇には心底嫌な顔をされてしまった。
「それで、なにか外で掴めましたか?」
「まあ、いろいろ」
用意された食事は肉に似せた食感のおから餡を包んで蒸した饅頭であり、味噌の味が香ばしかった。それをはふはふと食べながら、空燕と月鈴は浩宇を交えて相談をすることにした。
「今晩も外に出たい。これで、兄上のほうの魂をこれ以上抜かれるのも阻害できると思う」
「またですか? これ以上誤魔化すことは……」
「そこはなんとかして欲しい。頼む」
空燕に手を合わせられ、浩宇は複雑そうに口元を歪める。
「……まあ、今晩限りですよ。私もこれ以上はお二方を庇い立てできませんからね? ただでさえ陛下に合わせろ、ひとりで囲うなと他の妃様たちからの文句が多いのですから」
「ははははは、兄上相変わらずだな」
「本当に妃様たちから絶賛されているんだな、泰然陛下は……」
花妃以外にも突撃してきた妃がいたのかと思うと、たしかに浩宇に誤魔化してもらわなかったら後宮内で派閥同士の鍔迫り合いになってしまい、泰然に後宮を返却したあとも遺恨が残っていただろう。
とりあえず空燕は伝える。
「とりかえず、押しかけてきた妃たちと、あと花妃に手紙を出して欲しい」
「……私が書いてよろしいんですか?」
「俺が書いて、字で影武者だとばれても困る。一応字の模写も秋華から習ってきてはいるが、花妃のように偽者だと看破されるおそれもあるし、他の妃たちを混乱させたくない」
「……かしこまりました。内容は?」
「今書く」
月鈴がもしゃもしゃと饅頭を食べている間に、空燕は手紙の原文を書いて、それを浩宇に見せた。その内容に、浩宇は美しいかんばせを驚愕で歪めてしまっている。
「これは……真でございますか!?」
「方士が言っているんだ。それを真と取ってもらってかまわない」
「陛下……なんともお労しい……」
そう言ってはらはらと泣く浩宇を見ながら、月鈴は饅頭を食べ終えつつも彼を眺める。
(浩宇……おそらくは泰然陛下に惹かれていたのだろうな。そして、このことは白妃に勘付かれてはならないから、字で書いて伝えるしかなかったと)
薔薇園を押収できればいいが、あの青蝶のことだ。別の場所に屍兵をつくるだけで、さらわれた挙げ句に魂を抜かれた宮女たちが浮かばれない。
青蝶の近くに長居して、泰然の魂を抜く術式を打ち破れればそれが一番大事にはならないのだが、最悪屍兵をおかわりおかわりで相手をせねばならなくなる上に、自身の魂が抜かれる心配までしなければならず、理想的ではない。
だからこそ、雨桐全域に結界を張り、屍兵の動きを封じるという強攻策に出た訳で。
青蝶に勘付かれないように事を進めるためにも、他の妃たちとの連携が重要だ。花妃には他の妃たちとの中継を頼み、他の妃たちには香油を贈与する。
浩宇が手紙を書いたあと、最後に「浩宇」と月鈴が声をかけると、花の咲いた桃の枝を贈った。
「これは……」
「あなたを守ってくれるように。あなたに他の妃様たちへの伝言を託す以上、あなたが無事でありますように。この後宮内では、次にいつ誰が魂を抜かれるのかわかったものじゃないから」
「……ありがとうございます。それでは、行って参りますね」
いつものようにしなやかに笑いながら、浩宇が出かけていった。
月鈴は空燕に振り返る。
「あなたもそろそろ出かけるか?」
「そうだな。そろそろ決着がつくと、兄上の側近たちにも伝えなければならないし……兵を動かしてもらわなければならないかもしれんしな」
「……方士ひとりでか? 私たちはわかっても、白妃が方士だなんてこと、誰ひとり見抜けなかったのに?」
「いや? 代々あの女が後宮に紛れ込んでいたんだ。おまけにわざわざ名簿を細工してまでな。こんなの、普通に国を揺すぶるために誰かが細工したんだろうさ」
「私には国の政治闘争のことは理解できないが……その辺りは任せる」
「ああ、月鈴。お前さんも気を付けて」
「わかっている。あなたも」
こうして、ふたりは再び方服から皇帝の着物と宮女の着物に着替え、それぞれ出かけていった。
****
「陛下からお手紙が届きました」
「まあ……どうぞ」
花妃の館は、このところ桃の花が咲き誇っている。
桃の花の香油を月鈴が静芳を通して流行らせたのはつい数日前だが、彼女が桃の破邪の力を静芳に教えたところ、それを花妃に伝えてから、彼女は庭師たちを入れて、館の庭を改造したのである。
今はようやく梅の季節が終わりを迎え、桃の季節に切り替わったところ。艶やかな桃色に気持ちを和ませながら、泰然……の名を借りた空燕の手紙に目を通していた。
「今晩は一日、館に篭もっているように、とのことです。日が出ている内に、用事は済ませたほうがよさそうですわね」
「それは……先日の屍兵のせいですか?」
静芳は一度襲われているせいで、あれの怖さを嫌というほど思い知っている。月鈴に助けてもらわなかったら命がなかったのだから。
彼女が身を震わせているのに、花妃は「そうですわね」と頷く。
「他の妃様たちにも連絡を致しましょう。陛下の妃ですもの、わかってくれますわね」
「ですが……他の方々は泰然陛下が現在影武者と入れ替わっていることは気付いていないのでは。中には館に押しかけて苦情を言いに行った話も聞き及んでいます」
侍女たちが食事を摂りに行く中、宮女たちの詰め所に入ることがある。そこは稀少な他の妃たちの情報を得られる場所なため、そこでの情報は逐一静芳も耳に入れていた。
月鈴の館に、花妃たちも押しかけたことがあるため、当然といえば当然であった。それに「ええ」と花妃は答える。
「他の方々は、未だに陛下が眠ってらっしゃることを存じておりません。ですが、迂闊に知らせるよりも今はそっとしておいたほうがいい気もしますわ……だって陛下が亡くなるかもしれないなんて恐怖、知らない方がましですわよ」
そう花妃が気丈に言い切る姿を、静芳は複雑な顔で眺めていた。
「花妃様……」
「それでは、昼間の内に、皆々様に花を届けてちょうだい。どちらの方々も方術のことを嗜んではいらっしゃるでしょうが、これがきちんと屍兵に効くところまでは存じてないはずです。今晩は館にずっと引きこもる以上、不安は少ない越したことはありませんでしょう?」
こうして花妃は、静芳たち侍女を集めて、庭の桃の花束をつくらせ、それをそれぞれの妃の元に贈り物として贈ることにした。
気に食わなければ燃やすだろうが、灰だけでもひと晩は持つはずだ。花を花瓶に生け、おそらくは月鈴が配り歩いているであろう桃の香油を焚き込める。それだけで、なんとか対処できるはずだ。
──問題は。これらがひと晩で終わらない場合だ。
花妃は侍女たちが同様せぬよう「念のため」を強調した上で、ひと月持つか持たないかの食料の調達や、館のかまどの整備などを、宮女や宦官も巻き込んで指揮を執ったのである。
****
青蝶の館は歪だ。
人形のようなかくかくとした動きしかしない、化粧の下手な侍女ばかりが存在している。その中で薔薇の匂いだけが華やかなのもまた、この館の歪さを際立たせていた。
青蝶は自身の手に蝶を留める。
本来、蝶が羽ばたくのはもう少し先の季節のはずだが、青蝶はそれを気にする素振りも見せない。月鈴が気付けば、もしかしたら蝶は殺されて青蝶の元に帰ってこなかったかもしれないが、彼女も忙しいのだろう。青蝶の飛ばした方術の蝶に気付くこともなく、情報収集も怠ることがなかった。
月鈴の館の様子を窺い、青蝶はころころと笑った。
少女のような姿を取っている青蝶ではあるが、こう心底面白がって笑うことなど、この数十年とんと存在していなかった。
「そうかそうか……後宮に縛り付けられるとは思っていなかったが、まさか王都全域に結界とは、思い切ったことをしてくれたのう……」
仙女になるという目標を達成したあとの人生は、全て暇つぶしだ。依頼が舞い込んできたら、それが楽しい苦しい問わずに引き受ける程度には、暇を持て余していた。
この数十年引き受けた中でも、一番時間を食らった依頼だったのだが、その依頼の妨害をされそうになっている。
青蝶はそれにころころと笑った。
「そうかそうか……面白い面白い。あの娘だけかと思っておったが……まさか伴侶のほうも面白い輩とは思わなんだ」
月鈴はなかなか見所のある方士とは思っていたが、若さの割には頭が固かった。
彼女と夫婦のふりをしている泰然の影武者である空燕。方士としては、月鈴と比べれば月とすっぽんであったが、いかんせん彼の頭の回転は早い。それに付き合える月鈴もすごいのだが、彼は彼女の受けた依頼について、数日後宮で過ごしただけで察することができたようだ。だからこそ、ここまで大がかりなことをして妨害しようとしている。
「面白い面白い……早うわらわの罠を突破してみてくりゃれ……ああ、長い人生こうでなくてはなあ……!!」
青蝶が高笑いをはじめた。
普通であれば、これだけ狂った笑い声を上げれば誰かしらから心配の声をかけられるし、青蝶が壊れたと医局にでも連行されるところであるが。
既にこの館の中は歪で壊れているのだ。誰ひとり、それをおかしいと思うことはない。
作り物の宮女。偽りの館。そして紛い物の妃。
ここにはなにひとつ本物は存在しない。ただ、人の命を吸った薔薇の香りのかぐわしさだけしか、真実は含まれていないのだ。
「私は、あなたの抱き枕ではないんだが……」
重いし、男臭いし、その匂いが嫌ではないことが癪だった。
飄々として捉えどころのない男であり、本人は全く皇帝の座に着く気がない。その割に、彼は雨桐のことも後宮内のことも陛下たちがされたことについても、静かに怒っているようだった。
「……戻りたくば、戻ってもいいぞ」
「どこにだ?」
月鈴は思わず仰け反ろうとするが、がっちりと胸中に収められて身動きが取れなかった。端正な双眸が今はしっかり開いて、じっと月鈴を覗き見ていた。
「起きてたのか!?」
「お前さんの視線を感じて、眠っていられるか」
「……あなたはもっと、いい加減な人と思っていたんだが。この数日思うところがあってな。泰然陛下は助けられるとは思うが……そのあと……あなたはこの国に必要な人ではないのか?」
「それを決めるのはお前さんか? 俺ではないのか?」
空燕にじっと見つめられてそう尋ねられても、月鈴は答えを出せなかった。
そろそろ夜明け前で、暗くて星ひとつ見えなかった空も、今は白々と明けてきている。
「起きるか?」
「……そうだな」
それでこの話題は打ち切られてしまった。
妓楼の寝台でふたり寄り添って眠り。目が覚めても、特にこのふたりになにもなく。
空燕と月鈴は老婆に礼を言うと、人に見つからぬうちに後宮へと帰って行った。急いで館に帰った際、当然ながら浩宇には心底嫌な顔をされてしまった。
「それで、なにか外で掴めましたか?」
「まあ、いろいろ」
用意された食事は肉に似せた食感のおから餡を包んで蒸した饅頭であり、味噌の味が香ばしかった。それをはふはふと食べながら、空燕と月鈴は浩宇を交えて相談をすることにした。
「今晩も外に出たい。これで、兄上のほうの魂をこれ以上抜かれるのも阻害できると思う」
「またですか? これ以上誤魔化すことは……」
「そこはなんとかして欲しい。頼む」
空燕に手を合わせられ、浩宇は複雑そうに口元を歪める。
「……まあ、今晩限りですよ。私もこれ以上はお二方を庇い立てできませんからね? ただでさえ陛下に合わせろ、ひとりで囲うなと他の妃様たちからの文句が多いのですから」
「ははははは、兄上相変わらずだな」
「本当に妃様たちから絶賛されているんだな、泰然陛下は……」
花妃以外にも突撃してきた妃がいたのかと思うと、たしかに浩宇に誤魔化してもらわなかったら後宮内で派閥同士の鍔迫り合いになってしまい、泰然に後宮を返却したあとも遺恨が残っていただろう。
とりあえず空燕は伝える。
「とりかえず、押しかけてきた妃たちと、あと花妃に手紙を出して欲しい」
「……私が書いてよろしいんですか?」
「俺が書いて、字で影武者だとばれても困る。一応字の模写も秋華から習ってきてはいるが、花妃のように偽者だと看破されるおそれもあるし、他の妃たちを混乱させたくない」
「……かしこまりました。内容は?」
「今書く」
月鈴がもしゃもしゃと饅頭を食べている間に、空燕は手紙の原文を書いて、それを浩宇に見せた。その内容に、浩宇は美しいかんばせを驚愕で歪めてしまっている。
「これは……真でございますか!?」
「方士が言っているんだ。それを真と取ってもらってかまわない」
「陛下……なんともお労しい……」
そう言ってはらはらと泣く浩宇を見ながら、月鈴は饅頭を食べ終えつつも彼を眺める。
(浩宇……おそらくは泰然陛下に惹かれていたのだろうな。そして、このことは白妃に勘付かれてはならないから、字で書いて伝えるしかなかったと)
薔薇園を押収できればいいが、あの青蝶のことだ。別の場所に屍兵をつくるだけで、さらわれた挙げ句に魂を抜かれた宮女たちが浮かばれない。
青蝶の近くに長居して、泰然の魂を抜く術式を打ち破れればそれが一番大事にはならないのだが、最悪屍兵をおかわりおかわりで相手をせねばならなくなる上に、自身の魂が抜かれる心配までしなければならず、理想的ではない。
だからこそ、雨桐全域に結界を張り、屍兵の動きを封じるという強攻策に出た訳で。
青蝶に勘付かれないように事を進めるためにも、他の妃たちとの連携が重要だ。花妃には他の妃たちとの中継を頼み、他の妃たちには香油を贈与する。
浩宇が手紙を書いたあと、最後に「浩宇」と月鈴が声をかけると、花の咲いた桃の枝を贈った。
「これは……」
「あなたを守ってくれるように。あなたに他の妃様たちへの伝言を託す以上、あなたが無事でありますように。この後宮内では、次にいつ誰が魂を抜かれるのかわかったものじゃないから」
「……ありがとうございます。それでは、行って参りますね」
いつものようにしなやかに笑いながら、浩宇が出かけていった。
月鈴は空燕に振り返る。
「あなたもそろそろ出かけるか?」
「そうだな。そろそろ決着がつくと、兄上の側近たちにも伝えなければならないし……兵を動かしてもらわなければならないかもしれんしな」
「……方士ひとりでか? 私たちはわかっても、白妃が方士だなんてこと、誰ひとり見抜けなかったのに?」
「いや? 代々あの女が後宮に紛れ込んでいたんだ。おまけにわざわざ名簿を細工してまでな。こんなの、普通に国を揺すぶるために誰かが細工したんだろうさ」
「私には国の政治闘争のことは理解できないが……その辺りは任せる」
「ああ、月鈴。お前さんも気を付けて」
「わかっている。あなたも」
こうして、ふたりは再び方服から皇帝の着物と宮女の着物に着替え、それぞれ出かけていった。
****
「陛下からお手紙が届きました」
「まあ……どうぞ」
花妃の館は、このところ桃の花が咲き誇っている。
桃の花の香油を月鈴が静芳を通して流行らせたのはつい数日前だが、彼女が桃の破邪の力を静芳に教えたところ、それを花妃に伝えてから、彼女は庭師たちを入れて、館の庭を改造したのである。
今はようやく梅の季節が終わりを迎え、桃の季節に切り替わったところ。艶やかな桃色に気持ちを和ませながら、泰然……の名を借りた空燕の手紙に目を通していた。
「今晩は一日、館に篭もっているように、とのことです。日が出ている内に、用事は済ませたほうがよさそうですわね」
「それは……先日の屍兵のせいですか?」
静芳は一度襲われているせいで、あれの怖さを嫌というほど思い知っている。月鈴に助けてもらわなかったら命がなかったのだから。
彼女が身を震わせているのに、花妃は「そうですわね」と頷く。
「他の妃様たちにも連絡を致しましょう。陛下の妃ですもの、わかってくれますわね」
「ですが……他の方々は泰然陛下が現在影武者と入れ替わっていることは気付いていないのでは。中には館に押しかけて苦情を言いに行った話も聞き及んでいます」
侍女たちが食事を摂りに行く中、宮女たちの詰め所に入ることがある。そこは稀少な他の妃たちの情報を得られる場所なため、そこでの情報は逐一静芳も耳に入れていた。
月鈴の館に、花妃たちも押しかけたことがあるため、当然といえば当然であった。それに「ええ」と花妃は答える。
「他の方々は、未だに陛下が眠ってらっしゃることを存じておりません。ですが、迂闊に知らせるよりも今はそっとしておいたほうがいい気もしますわ……だって陛下が亡くなるかもしれないなんて恐怖、知らない方がましですわよ」
そう花妃が気丈に言い切る姿を、静芳は複雑な顔で眺めていた。
「花妃様……」
「それでは、昼間の内に、皆々様に花を届けてちょうだい。どちらの方々も方術のことを嗜んではいらっしゃるでしょうが、これがきちんと屍兵に効くところまでは存じてないはずです。今晩は館にずっと引きこもる以上、不安は少ない越したことはありませんでしょう?」
こうして花妃は、静芳たち侍女を集めて、庭の桃の花束をつくらせ、それをそれぞれの妃の元に贈り物として贈ることにした。
気に食わなければ燃やすだろうが、灰だけでもひと晩は持つはずだ。花を花瓶に生け、おそらくは月鈴が配り歩いているであろう桃の香油を焚き込める。それだけで、なんとか対処できるはずだ。
──問題は。これらがひと晩で終わらない場合だ。
花妃は侍女たちが同様せぬよう「念のため」を強調した上で、ひと月持つか持たないかの食料の調達や、館のかまどの整備などを、宮女や宦官も巻き込んで指揮を執ったのである。
****
青蝶の館は歪だ。
人形のようなかくかくとした動きしかしない、化粧の下手な侍女ばかりが存在している。その中で薔薇の匂いだけが華やかなのもまた、この館の歪さを際立たせていた。
青蝶は自身の手に蝶を留める。
本来、蝶が羽ばたくのはもう少し先の季節のはずだが、青蝶はそれを気にする素振りも見せない。月鈴が気付けば、もしかしたら蝶は殺されて青蝶の元に帰ってこなかったかもしれないが、彼女も忙しいのだろう。青蝶の飛ばした方術の蝶に気付くこともなく、情報収集も怠ることがなかった。
月鈴の館の様子を窺い、青蝶はころころと笑った。
少女のような姿を取っている青蝶ではあるが、こう心底面白がって笑うことなど、この数十年とんと存在していなかった。
「そうかそうか……後宮に縛り付けられるとは思っていなかったが、まさか王都全域に結界とは、思い切ったことをしてくれたのう……」
仙女になるという目標を達成したあとの人生は、全て暇つぶしだ。依頼が舞い込んできたら、それが楽しい苦しい問わずに引き受ける程度には、暇を持て余していた。
この数十年引き受けた中でも、一番時間を食らった依頼だったのだが、その依頼の妨害をされそうになっている。
青蝶はそれにころころと笑った。
「そうかそうか……面白い面白い。あの娘だけかと思っておったが……まさか伴侶のほうも面白い輩とは思わなんだ」
月鈴はなかなか見所のある方士とは思っていたが、若さの割には頭が固かった。
彼女と夫婦のふりをしている泰然の影武者である空燕。方士としては、月鈴と比べれば月とすっぽんであったが、いかんせん彼の頭の回転は早い。それに付き合える月鈴もすごいのだが、彼は彼女の受けた依頼について、数日後宮で過ごしただけで察することができたようだ。だからこそ、ここまで大がかりなことをして妨害しようとしている。
「面白い面白い……早うわらわの罠を突破してみてくりゃれ……ああ、長い人生こうでなくてはなあ……!!」
青蝶が高笑いをはじめた。
普通であれば、これだけ狂った笑い声を上げれば誰かしらから心配の声をかけられるし、青蝶が壊れたと医局にでも連行されるところであるが。
既にこの館の中は歪で壊れているのだ。誰ひとり、それをおかしいと思うことはない。
作り物の宮女。偽りの館。そして紛い物の妃。
ここにはなにひとつ本物は存在しない。ただ、人の命を吸った薔薇の香りのかぐわしさだけしか、真実は含まれていないのだ。