「ふうむ……なにやら僕の数が減っておるとは思っていたが、まさか方士が紛れ込んでいたとはのう……」
これだけ年若い妃がいて、どうして誰も不審に思わないのか。だれもおかしいと言えないのか。
青蝶は指先にひらひらと羽ばたく蝶を乗せていた。その蝶は彼女がふっとひと息かけただけで消えてしまう。
方術は極めれば極めるほど仙人に近付くとされている、超常の術。さりとて誰でも仙人仙女になれる訳ではなく、限界がある。しかし限界をひとつ飛び越えれば、まず年は取らなくなり、方術を常に使い続けていても誰もなにも気付かなくなる。
書面に書いて管理していても、術を飛ばせば簡単に揉み消せる。
不審に思って密告しようとした者は殺して、屍兵に替えてしまえばいい。
こうして、青蝶はこの後宮内を少しずつ少しずつ作り替えていったのだが、誰もなにも気付かないし気付けなかったが。
さすがにおかしいと思った誰かが、後宮内に方士を招き入れた。これがよくない……と普通ならば思うのだが。
「まあ……よいわ。せいぜいわらわとたむろしてくりゃれ」
青蝶はのんびりと椅子にもたれかかり、薔薇の花を囓った。蜜も固めてないはずだが、それを気にせずにもしゃもしゃと。
人形のようにかくかくと動く宮女たち。あちこちに飛び交う触れるとすぐに崩れる蝶。
おかしな光景が広がっているが、誰もそれをおかしいと認識できないし、おかしいと理解できない。
それこそが、青蝶の術なのだから。
「方士がひとり入ったところで、誰も気付きはせぬよ……まあ、方士じゃないほうはどうにかせねばなるまいがなあ」
後宮内に方士がいる。これだけ不審なことが起これば、後宮内を調査しようとするのは当然のことだが、そこで明確に方士が必要だと気付いた者がいる。
そちらをどうにかしなければ、青蝶の企みも気付かれてしまうだろう。
どうしたものか。青蝶はのんびりと策を張り巡らしはじめた。
****
次の日、起きたが月鈴はなんとも言えない顔をしていた。
なにも解決していない上に、屍兵を取り逃がしたこと、皇帝たちの魂を奪った証拠を回収できなかったことで、ひどく落ち込んでいたのだ。
(私らしくもない……失敗をずっと引き摺ることなんてないのに)
月鈴本人としては、皇帝たちの魂を奪う術をどうにかしたかった。そうすれば泰然が助かるのだから。月鈴からしてみれば、世話になった秋華やこちらに押しかけてくるほどに泰然を心配している花妃が気の毒なこともあり、それは絶対に成し遂げなければいけないことだった。
のろのろと着替え、月鈴は食卓に向かうと、既に空燕がすすり音を立てて食事をしているところだった。きのこ麺だ。きのこを出汁と具として使っているので、肉を使っていなくても深みのある味わいがする。相変わらず浩宇が気を遣ってくれているおかげで、肉のない食事を摂ることができていた。
「おはよう。寝て起きたのに、まだなにも解決してないという顔だな」
「……すまないな、あなたの兄上を必ず助けなければならないのに」
「そうだな。昨日のあれで、屍兵がたむろしていることもわかったし……しかしなあ」
「なんだ」
ずるずると麺をすすり、出汁も音を立てて飲む。その姿を怪訝に思いながら、月鈴も麺をすすっていると、出汁を飲み終えた空燕が口を開いた。
「ここまでされると、これは罠なんじゃないかと思うんだ」
「……昨日も似たようなことを言っていたな。なにが言いたい?」
「ちなみに月鈴は、奇術を見たことがあるか?」
「きじゅつ? 方術や仙術ではなくて?」
「相変わらず月鈴は固いなあ……奇術っていうのは大がかりな手品だな。たとえば、こう」
空燕は手に持っていた毒味用の銀の匙を持つと、先端がぐにりと曲がる。
「……あなたが曲げたのではないのか?」
「ほらすぐそういうことを言う。そもそも俺は匙の柄の部分しか持ってないだろう。ほら」
空燕が相変わらず月鈴に柄の部分を見えるように持つと、今度は先端が真っ直ぐに戻ってしまった。それを月鈴はポカンと口を開けて凝視する。
「……あなた、方術は苦手だろうが」
「だから、これは手品だってば。種も仕掛けもあるんだよ。そして、奇術はもっとそれが大がかりになる」
「だから、それがどうしたんだ?」
「種も仕掛けもわからないようにするには、手前でいかに目を引く行動を取るかになるんだ。普通に考えれば、後宮内で皇帝が昏睡状態になると考えれば、後宮内に事件があると人の目がそこに集中する」
「だからあなたが呼び戻されたんだろう?」
「まあ聞け。だが……それすらも相手がかけた奇術だとしたら? 本当の狙いが別にあるとしたら?」
それは月鈴も考えてない訳ではなかったが。なんの確証もない上に、そもそも後宮内に本当に屍兵がいるのだから、そちらに視線が集中してもしょうがない気がする。
だが本当の狙いがあるとしたら。
そこまで考えて、ふと雨桐に入ったばかりのことを思い出した。あのとき、なんとも言えない違和感があった。
「……本命は、雨桐に隠されている?」
「俺も確証はないがなあ。だから念のため、兄上の側近たちに話を付けさせて、今日一日は雨桐の探索に向かうことにした」
「……唐突過ぎやしないか?」
「それになあ……これも俺が兄上の側近たちと仕事をしているときに気付いたんだが、雨桐からの陳情がやけに上がっていたんだ……行方不明事件の捜査のな」
それは後宮内で起こっている不可解な宮女行方不明事件に似ている。
連続皇帝昏睡事件、連続宮女行方不明事件、そして、雨桐で続いている行方不明事件。これだけ連なれば、関連性があると疑うのも無理はない。
「それも奇術の仕掛けではなくて?」
「考えてみたがな。後宮に仕掛けられている謎を解くにしても、一度後宮の外に出てみてから考えたほうがいいと思ったんだよ。後宮だとやっぱり男の肩身が狭くて、動きづらくて思考が鈍る」
「あなたは陛下の影武者だろうが」
「ここは兄上の後宮だ。俺のじゃない。兄上の部屋をうろついているようなものだから、正直言って気まずい」
空燕にそういう情緒があったのか。月鈴は少しだけ感心しながら、出汁を飲み干した。美味かった。
「外に出て、探索な。一日。ただ、一日でどうこうできる問題なのか?」
「方士が占術のひとつでも見せりゃ、誰だって口のひとつでも開いてくれるだろうさ」
「私、占術は苦手なんだが……まあいい。行こうか」
ふたりは一旦服を方服に着替え終えると、浩宇にひと言言ってから、外に出かけることにした。当然ながら浩宇には困惑の顔をされてしまったが。
「陛下が起きたとき、困惑するでしょうね。まさか陛下の影武者が外に出て事件の捜査をしていただなんて」
「そこまで面白いことはしちゃいないさ。ありがとう。ちょっと行ってくるよ」
「お気を付けて」
そもそもひと月しか時間がないのだから、これ以上は伸ばせない。
それまでに事件を解決しなければ、空燕に玉座が転がり込んでくるのだから。
(この人、頭は切れても、きっとそれを国を動かすのには使ってくれそうもないからな……)
月鈴からしてみれば、年上の弟弟子だ。彼が玉座につき、彼の人柄が、賢さが、どんどん権力で曇ってしまうのをおそれていた。
人は視界が狭まると、いくらでも残酷になれる。しかもその残酷さに無自覚になるのだから、始末に負えない。
月鈴は空燕の視界の広さを知っている。だからこそ、後宮を窮屈だと言い張り、考えをまとめるために外に出たいと言う彼を好ましいと思っている。
****
雨桐は相変わらず、人の気配があまりない。
首都がこの様子では、各地から商いにやってくる人や、仕事で出てきた人も困ってしまうだろうに、どこかよそよそしい雰囲気が抜けきらなかった。
それでも裏通りに入ると、なんとなく爛れた雰囲気の場所になる。
「ここって……」
思わず月鈴は半眼になって空燕を睨むが、空燕はどこ吹く風だった。
「妓楼だな」
思わず月鈴は空燕の臑を蹴ると、空燕は「あいたっ!」と悲鳴を上げてぴょんぴょんと跳ぶ。
妓楼。男が春を買いに来る場所である。首都には様々な人が行き交うため、欲の発散先を求めて問題を起こさぬよう、妓楼がある場合が多い。
「どうして外に出たと思ったら真っ先にここに来るんだ!?」
「まあ聞け。こういうところには、大概情報が入ってくる。首都で起こっていることは、大概な。それにここで働く女たちは皆、口が固い。妓楼で起こったことは全て箝口令が敷かれているからな。だとしたら、情報を手っ取り早く集めるには、ここの女に聞くのが一番早い」
「理屈はわかるが……」
「それに単純にここでほうれんそうを行って、外で一切口を利かない連中もいるからな。とりあえず行こうか」
「……というより、どうしてあなたはここに詳しいんだ?」
いくら継承権が低いとはいえど、皇子がどうしてと月鈴がなおも信じられないものを見る目で空燕を睨むが。
彼は力なくわらって肩を竦めた。
「あまりに後宮が息苦しいんで、見かねた人に外に連れ出してもらったことがある。ここはそういう思い出の場所だよ」
それにはもう、月鈴はなにも言えなかった。
(父親の後宮だろうが、兄上の後宮だろうが、彼のものではない場所にずっと押し込められるのが息苦しいか。やっぱりこの人、皇帝には向いてない。やっぱり、一連の事件は早急に解決すべきか)
そう考えながら、月鈴は空燕についていった。
やがて、妓楼の中でもひと際目立つ建物が見えてきた。そこの入口には、老婆がその年にそぐわぬ鋭い眼差しで立っていたが、空燕を見て目を細めた。
「なんだい? 娘を売りに来たのかい?」
月鈴はどうして空燕が女である自分を連れて堂々と妓楼に来たのかを思った。
(私を売り物にして情報を抜いてこいとでも!?)
彼女が目を釣り上げて空燕を睨んでいたが、彼はさわやかに笑うばかりだ。
「はははははは、ご冗談を。自分たちは旅の方士なのですが、首都の雨桐まで出てきましたら、どこも宿がなく、こうして彷徨っていたところです」
「ふうん……方士ねえ……だとしたら、占術でもしてやくれないかい? 気休めでかまわないから」
方士と名乗ると、本物ならば寺院で厳しい修行をしていることは誰でも知っているため、おいそれと殴ったり、嘘だろと糾弾したりはしなくなる。
方士の特徴である体術や方術を見せることで、本物だと認めさせなければならないのである。
(だから、私は占術が苦手なんだが……空燕は論外だし……)
月鈴がそうまごついていたが、空燕は知らぬ顔だ。
「じゃあ入口でいいかい? 机と椅子さえもらえれば、いくらでも占術を披露しよう」
「しておくれ。ただし、客におかしなことを吹き込んだら、いつでも叩き出すからね」
「それはそれはご丁寧に。もしおかしなことがなければ、ひと晩泊まっても?」
「好きにしな」
老婆は奥に引っ込むと、使用人たちに「机と椅子を。方士様たちが占術を披露してくださるそうだ」と吹聴し回った。
彼らがいなくなったのを見計らって、月鈴は空燕に抗議する。
「どうするつもりだ!? 私もあなたも占術なんて苦手だろうが!」
「でも俺は体術が得意だし、お前さんは占術以外の方術は大概できるだろうが。問題ない」
「あのなあ! おばあさんを騙してどうする!?」
「まずは人を集める。そして情報を集める。それにこれだけ雨桐が不景気な理由も、報告じゃなくって生の情報が入るじゃないか。いいこと尽くめだろう?」
「そう簡単に上手くいくのか?」
「行くさ。行かないと困る」
そうきっぱりと言われてしまったら、もう月鈴もなにも言えなかった。
これだけ年若い妃がいて、どうして誰も不審に思わないのか。だれもおかしいと言えないのか。
青蝶は指先にひらひらと羽ばたく蝶を乗せていた。その蝶は彼女がふっとひと息かけただけで消えてしまう。
方術は極めれば極めるほど仙人に近付くとされている、超常の術。さりとて誰でも仙人仙女になれる訳ではなく、限界がある。しかし限界をひとつ飛び越えれば、まず年は取らなくなり、方術を常に使い続けていても誰もなにも気付かなくなる。
書面に書いて管理していても、術を飛ばせば簡単に揉み消せる。
不審に思って密告しようとした者は殺して、屍兵に替えてしまえばいい。
こうして、青蝶はこの後宮内を少しずつ少しずつ作り替えていったのだが、誰もなにも気付かないし気付けなかったが。
さすがにおかしいと思った誰かが、後宮内に方士を招き入れた。これがよくない……と普通ならば思うのだが。
「まあ……よいわ。せいぜいわらわとたむろしてくりゃれ」
青蝶はのんびりと椅子にもたれかかり、薔薇の花を囓った。蜜も固めてないはずだが、それを気にせずにもしゃもしゃと。
人形のようにかくかくと動く宮女たち。あちこちに飛び交う触れるとすぐに崩れる蝶。
おかしな光景が広がっているが、誰もそれをおかしいと認識できないし、おかしいと理解できない。
それこそが、青蝶の術なのだから。
「方士がひとり入ったところで、誰も気付きはせぬよ……まあ、方士じゃないほうはどうにかせねばなるまいがなあ」
後宮内に方士がいる。これだけ不審なことが起これば、後宮内を調査しようとするのは当然のことだが、そこで明確に方士が必要だと気付いた者がいる。
そちらをどうにかしなければ、青蝶の企みも気付かれてしまうだろう。
どうしたものか。青蝶はのんびりと策を張り巡らしはじめた。
****
次の日、起きたが月鈴はなんとも言えない顔をしていた。
なにも解決していない上に、屍兵を取り逃がしたこと、皇帝たちの魂を奪った証拠を回収できなかったことで、ひどく落ち込んでいたのだ。
(私らしくもない……失敗をずっと引き摺ることなんてないのに)
月鈴本人としては、皇帝たちの魂を奪う術をどうにかしたかった。そうすれば泰然が助かるのだから。月鈴からしてみれば、世話になった秋華やこちらに押しかけてくるほどに泰然を心配している花妃が気の毒なこともあり、それは絶対に成し遂げなければいけないことだった。
のろのろと着替え、月鈴は食卓に向かうと、既に空燕がすすり音を立てて食事をしているところだった。きのこ麺だ。きのこを出汁と具として使っているので、肉を使っていなくても深みのある味わいがする。相変わらず浩宇が気を遣ってくれているおかげで、肉のない食事を摂ることができていた。
「おはよう。寝て起きたのに、まだなにも解決してないという顔だな」
「……すまないな、あなたの兄上を必ず助けなければならないのに」
「そうだな。昨日のあれで、屍兵がたむろしていることもわかったし……しかしなあ」
「なんだ」
ずるずると麺をすすり、出汁も音を立てて飲む。その姿を怪訝に思いながら、月鈴も麺をすすっていると、出汁を飲み終えた空燕が口を開いた。
「ここまでされると、これは罠なんじゃないかと思うんだ」
「……昨日も似たようなことを言っていたな。なにが言いたい?」
「ちなみに月鈴は、奇術を見たことがあるか?」
「きじゅつ? 方術や仙術ではなくて?」
「相変わらず月鈴は固いなあ……奇術っていうのは大がかりな手品だな。たとえば、こう」
空燕は手に持っていた毒味用の銀の匙を持つと、先端がぐにりと曲がる。
「……あなたが曲げたのではないのか?」
「ほらすぐそういうことを言う。そもそも俺は匙の柄の部分しか持ってないだろう。ほら」
空燕が相変わらず月鈴に柄の部分を見えるように持つと、今度は先端が真っ直ぐに戻ってしまった。それを月鈴はポカンと口を開けて凝視する。
「……あなた、方術は苦手だろうが」
「だから、これは手品だってば。種も仕掛けもあるんだよ。そして、奇術はもっとそれが大がかりになる」
「だから、それがどうしたんだ?」
「種も仕掛けもわからないようにするには、手前でいかに目を引く行動を取るかになるんだ。普通に考えれば、後宮内で皇帝が昏睡状態になると考えれば、後宮内に事件があると人の目がそこに集中する」
「だからあなたが呼び戻されたんだろう?」
「まあ聞け。だが……それすらも相手がかけた奇術だとしたら? 本当の狙いが別にあるとしたら?」
それは月鈴も考えてない訳ではなかったが。なんの確証もない上に、そもそも後宮内に本当に屍兵がいるのだから、そちらに視線が集中してもしょうがない気がする。
だが本当の狙いがあるとしたら。
そこまで考えて、ふと雨桐に入ったばかりのことを思い出した。あのとき、なんとも言えない違和感があった。
「……本命は、雨桐に隠されている?」
「俺も確証はないがなあ。だから念のため、兄上の側近たちに話を付けさせて、今日一日は雨桐の探索に向かうことにした」
「……唐突過ぎやしないか?」
「それになあ……これも俺が兄上の側近たちと仕事をしているときに気付いたんだが、雨桐からの陳情がやけに上がっていたんだ……行方不明事件の捜査のな」
それは後宮内で起こっている不可解な宮女行方不明事件に似ている。
連続皇帝昏睡事件、連続宮女行方不明事件、そして、雨桐で続いている行方不明事件。これだけ連なれば、関連性があると疑うのも無理はない。
「それも奇術の仕掛けではなくて?」
「考えてみたがな。後宮に仕掛けられている謎を解くにしても、一度後宮の外に出てみてから考えたほうがいいと思ったんだよ。後宮だとやっぱり男の肩身が狭くて、動きづらくて思考が鈍る」
「あなたは陛下の影武者だろうが」
「ここは兄上の後宮だ。俺のじゃない。兄上の部屋をうろついているようなものだから、正直言って気まずい」
空燕にそういう情緒があったのか。月鈴は少しだけ感心しながら、出汁を飲み干した。美味かった。
「外に出て、探索な。一日。ただ、一日でどうこうできる問題なのか?」
「方士が占術のひとつでも見せりゃ、誰だって口のひとつでも開いてくれるだろうさ」
「私、占術は苦手なんだが……まあいい。行こうか」
ふたりは一旦服を方服に着替え終えると、浩宇にひと言言ってから、外に出かけることにした。当然ながら浩宇には困惑の顔をされてしまったが。
「陛下が起きたとき、困惑するでしょうね。まさか陛下の影武者が外に出て事件の捜査をしていただなんて」
「そこまで面白いことはしちゃいないさ。ありがとう。ちょっと行ってくるよ」
「お気を付けて」
そもそもひと月しか時間がないのだから、これ以上は伸ばせない。
それまでに事件を解決しなければ、空燕に玉座が転がり込んでくるのだから。
(この人、頭は切れても、きっとそれを国を動かすのには使ってくれそうもないからな……)
月鈴からしてみれば、年上の弟弟子だ。彼が玉座につき、彼の人柄が、賢さが、どんどん権力で曇ってしまうのをおそれていた。
人は視界が狭まると、いくらでも残酷になれる。しかもその残酷さに無自覚になるのだから、始末に負えない。
月鈴は空燕の視界の広さを知っている。だからこそ、後宮を窮屈だと言い張り、考えをまとめるために外に出たいと言う彼を好ましいと思っている。
****
雨桐は相変わらず、人の気配があまりない。
首都がこの様子では、各地から商いにやってくる人や、仕事で出てきた人も困ってしまうだろうに、どこかよそよそしい雰囲気が抜けきらなかった。
それでも裏通りに入ると、なんとなく爛れた雰囲気の場所になる。
「ここって……」
思わず月鈴は半眼になって空燕を睨むが、空燕はどこ吹く風だった。
「妓楼だな」
思わず月鈴は空燕の臑を蹴ると、空燕は「あいたっ!」と悲鳴を上げてぴょんぴょんと跳ぶ。
妓楼。男が春を買いに来る場所である。首都には様々な人が行き交うため、欲の発散先を求めて問題を起こさぬよう、妓楼がある場合が多い。
「どうして外に出たと思ったら真っ先にここに来るんだ!?」
「まあ聞け。こういうところには、大概情報が入ってくる。首都で起こっていることは、大概な。それにここで働く女たちは皆、口が固い。妓楼で起こったことは全て箝口令が敷かれているからな。だとしたら、情報を手っ取り早く集めるには、ここの女に聞くのが一番早い」
「理屈はわかるが……」
「それに単純にここでほうれんそうを行って、外で一切口を利かない連中もいるからな。とりあえず行こうか」
「……というより、どうしてあなたはここに詳しいんだ?」
いくら継承権が低いとはいえど、皇子がどうしてと月鈴がなおも信じられないものを見る目で空燕を睨むが。
彼は力なくわらって肩を竦めた。
「あまりに後宮が息苦しいんで、見かねた人に外に連れ出してもらったことがある。ここはそういう思い出の場所だよ」
それにはもう、月鈴はなにも言えなかった。
(父親の後宮だろうが、兄上の後宮だろうが、彼のものではない場所にずっと押し込められるのが息苦しいか。やっぱりこの人、皇帝には向いてない。やっぱり、一連の事件は早急に解決すべきか)
そう考えながら、月鈴は空燕についていった。
やがて、妓楼の中でもひと際目立つ建物が見えてきた。そこの入口には、老婆がその年にそぐわぬ鋭い眼差しで立っていたが、空燕を見て目を細めた。
「なんだい? 娘を売りに来たのかい?」
月鈴はどうして空燕が女である自分を連れて堂々と妓楼に来たのかを思った。
(私を売り物にして情報を抜いてこいとでも!?)
彼女が目を釣り上げて空燕を睨んでいたが、彼はさわやかに笑うばかりだ。
「はははははは、ご冗談を。自分たちは旅の方士なのですが、首都の雨桐まで出てきましたら、どこも宿がなく、こうして彷徨っていたところです」
「ふうん……方士ねえ……だとしたら、占術でもしてやくれないかい? 気休めでかまわないから」
方士と名乗ると、本物ならば寺院で厳しい修行をしていることは誰でも知っているため、おいそれと殴ったり、嘘だろと糾弾したりはしなくなる。
方士の特徴である体術や方術を見せることで、本物だと認めさせなければならないのである。
(だから、私は占術が苦手なんだが……空燕は論外だし……)
月鈴がそうまごついていたが、空燕は知らぬ顔だ。
「じゃあ入口でいいかい? 机と椅子さえもらえれば、いくらでも占術を披露しよう」
「しておくれ。ただし、客におかしなことを吹き込んだら、いつでも叩き出すからね」
「それはそれはご丁寧に。もしおかしなことがなければ、ひと晩泊まっても?」
「好きにしな」
老婆は奥に引っ込むと、使用人たちに「机と椅子を。方士様たちが占術を披露してくださるそうだ」と吹聴し回った。
彼らがいなくなったのを見計らって、月鈴は空燕に抗議する。
「どうするつもりだ!? 私もあなたも占術なんて苦手だろうが!」
「でも俺は体術が得意だし、お前さんは占術以外の方術は大概できるだろうが。問題ない」
「あのなあ! おばあさんを騙してどうする!?」
「まずは人を集める。そして情報を集める。それにこれだけ雨桐が不景気な理由も、報告じゃなくって生の情報が入るじゃないか。いいこと尽くめだろう?」
「そう簡単に上手くいくのか?」
「行くさ。行かないと困る」
そうきっぱりと言われてしまったら、もう月鈴もなにも言えなかった。