目次
プロローグ 八月五日
第一章   八月三日
第二章   八月四日
第三章   八月五日
第四章   八月六日
第五章   幕引き
エピローグ 九月某日







主な登場人物



橋波 佐和子(二八)・・・OL
黒石 徹也(二一)・・・M大学 理学部 三回生
内海 八重菜(二六)・・・ペットショップ店員
佐古田 正次(二二)・・・F大学 農学部植物化学科 四回生
河西 瑛介(二二)・・・F大学 農学部植物化学科 四回生
白峰 瑞樹(一九)・・・T大学 二回生 剣道部



相藤 一郎(三三)・・・世話役
冷泉 誠人(一九)・・・T大学 二回生 剣道部
真砂 玲司(三十一)・・・興信所の職員
 千葉 狛虎(十九)・・・T大学 二回生 剣道部






『浦見島』地図 略









プロローグ 八月五日




 1




僕が戻らなければ、両親に伝えてください。小夜のところに会いに行った、と。
白峰 瑞樹



 良く晴れた、真夏の午後だった。どこかの軒下で、風鈴の鳴く声がした。
蝉の声に全身を包み込まれながら、冷泉誠人は思い出す。およそ一年前、東北はA県の『四神村』で起きたある連続殺人事件。
そして、三か月前のあの惨劇――東北F県沖十一キロの『雪女島』および、その周辺にて、総勢九名もの人間が命を落とした。
龍川小夜というのも、そのひとりだった。
冷泉はぎゅっと手指に力を込めた。関節が折れ、握りしめた紙片にくしゃりと皺が寄った。
 白峰瑞樹は、龍川小夜に会いに行ったという。龍川小夜は故人である。
 冷泉の頬に一筋、雫が伝った。
 白峰瑞樹と冷泉は、同じ大学の同じ学部、同じ学科に通う学友である。そして、白峰瑞樹と龍川小夜は、中学までを四神村で共に育った幼馴染であった。今はもう、僅か四軒を数えるだけになっている四神村において、瑞樹と小夜はまるで兄妹のように生まれ育ったようだった。それが……。
冷泉は目を閉じた。三か月前の惨劇が脳裏に蘇る。――『雪女島』――。幾重にも生い茂った枝葉が作る、ひんやりと肌を刺すような木陰。木々が吐き出す新鮮な空気。ぽっかりと切り取られたようなその空間で、少女はその身を、真っ赤に染めたその細い身体を、強く地面に投げつけられたような格好で斃れていた。冷泉たちが駆け付けたときには、もう手遅れだった。死の匂いがそこには充満していた。瑞樹はそんな友の動かぬ躯を両手で掻き抱き、静かに透明な涙を流していた。半身を失ったようなものだろう。普段穏やかな男の静かな激情を、そのとき冷泉は初めて目にした。
駆け付けた警察の船で、雪女島から本土に引き上げるまで、瑞樹は一言も言葉を口にしなかった。ただ、龍川小夜の遺体を取り上げられるときにだけ、その端正な顔をくしゃりと歪めて、親とはぐれた子供のように泣きじゃくった。
沈んでいた太陽が、東の海を照らす頃には、瑞樹は元の彼へと戻っていた。
警察署の廊下で迎えた朝は、昏い終末の気配が漂っていた。
それから三か月経つが、瑞樹は冷泉も動揺するほどに、以前と何も変わらない様子を取り戻している。
それが――。
冷泉は瞼を開けた。目の前には、皺の寄った白い紙片と、それを握り潰す己の手指がある。心の底がざわざわした。この感情に一番近い表現があるならば、不安だ。そして、次に怒り。なぜ、自分は彼と三か月も一緒にいたのに、気づくことができなかったのか。
そこは、白峰瑞樹の下宿先のアパートの一室だった。見慣れたその部屋は六畳の板張りで、実に綺麗に片付いている。
奴は今どこにいる?
彼の居場所について、何かヒントはないだろうか。
冷泉はぐるりと部屋を見回した。
布団が綺麗に畳まれたベッド、小さな机、グレーのカーペット。その向こうの半透明のゴミ箱の中に、冷泉は一枚の紙片を見つけた。
他人の家のゴミ箱を漁るなんて、マナー違反だが目に入ってしまったものは止めようがない。
冷泉は、細長い指でその三センチ四方の小さな紙きれを摘まみ上げた。
そこには、見慣れた柔らかな文字で殴り書きがされていた。
――浦見島、と。




 2




 北陸は、I県にある小さな漁村である。釣り具屋と、個人商店のその向こうの空間に『I漁港 I地区』の看板はあった。四隅は潮風に晒されて赤茶けた錆が見える。その看板の麓に船着き場はあった。目的の『浦見島』には、この港からしか船は出ない。週に二度だけ、その先のT島に向かう船が途中浦見島に立ち寄ってくれることになっているらしい。
砂利道の脇に生えた広葉樹の陰で、冷泉はハンカチを取り出し、一度汗を拭った。歩いてきた日向は地面から炙られるような熱気だったが、木陰はうってかわってかなり涼しかった。日はだいぶ西に傾いていた。瑞樹のアパートで紙きれを見つけ、それから一度自宅に戻り、簡単な旅支度を済ませてから電車に乗った。それから、このI漁港最寄りの駅までローカル線を乗り継いで、ようやく……である。家を出る頃には西に色濃く輪郭を主張していた影も、今は東に長く伸びるようになっていた。
船着き場の奥には、白い桟橋が伸びていた。その手前に、四角い箱のようなターミナル施設があり、中にはベンチがいくつかと、カウンターの奥に一人、六十前後の男性がいた。船がつくごとに切符を切りに外に出てくるのだろうか。
ひとしきり汗を拭った後、冷泉はその建物のガラス戸を開けた。カラカラカラと涼しげな音とともに、油臭いような独特の香りが鼻腔をつく。二つある窓が全開になっており、天井で扇風機が不規則に首を回していた。
「いらっしゃい」
男性は不愛想にしわがれた声で言った。
その声を反射したように、冷泉は会釈を返す。「こんにちは」
「今日はもう船は出ないよ。T島かい?」
「いえ、浦見島です」
 冷泉が答えると、男性は白髪交じりの眉を小さく顰めた。「浦見島?」
「はい」冷泉はその反応に不審を覚えたが、顔は至って平静を保ったままで、細い顎を縦に引く。
「へえ、浦見島。珍しいね」男性も、つられたようにこくこくと無精ひげの散らばった顎を引いた。「週に二度も浦見島への客が来るなんて」
 その言葉に冷泉は確信した。瑞樹はここに来たのだ、と。
「兄ちゃん、浦見島の船は、次は明日だよ。週に二度しか出ないんだ」
「そうですか」
「一泊するあてはあるのかい?」
「いえ……急だったもので。近くにどこか宿はありますか」
「それだったら、この道をずうっとまっすぐ歩いて、そうだな、二分くらい行ったところに鈴木さん家があるよ」
「鈴木さん」
 冷泉は、つられて男性が指さした方角へと視線を投げた。未舗装の砂利道が続いている。
「民宿やってんだ。たぶん、今日は平日だから泊まれるよ」
「それはよかった」冷泉は、視線を男性に戻した。「ところで一昨日? でしょうか――に、浦見島に向かった人はどんな人でしたか?」
「八月三日な。一昨日だ」男性は、カレンダーのマスを指さした。「一人じゃなかったよ」
「誰かと一緒にいたのですか?」
 瑞樹に恋人がいるという話は聞いたことがない。あの書き置きの内容から、両親ということもありえない。冷泉は身を乗り出すようにして男性に顔を寄せた。
「誰か、というより、集団だったよ」
「集団?」冷泉は柳眉を顰めた。
「若者の集団。何人だったか……ちょっと待ってな」男性は指に唾をつけて、ぺらぺらと手元のノートを二枚捲った。「七人だ。大人七人」
 切符の販売記録だろう。よく日に焼けた、節くれだった指をじっと見つめて冷泉は唇を震わせた。頭に浮かんできた集団自殺の四文字を慌てて追い払うようにぶんぶんと首を横に振る。リムフレームの眼鏡が鼻の頭にずり落ちた。
「その船は、明日にしか出ませんか?」
 急に早口になった冷泉に怪訝そうな目で男性はきっぱり答えた。「ないよ。出航は明日の朝十時だ」
「漁船でもなんでもいいんです」
「どうしたんだい」
「急ぎなんです」
「残念ながら、ここらにはないな。出るとしても明日の早朝三時とかだ。それなら、朝十時の船を待った方がいい」
「その集団はどのような様子でしたか?」
「どのようなって……」
「その……楽しそうでしたか?」自分でも何を言っているのかわからないが、とにかく情報が欲しかった。それも、自身を安心させてくれるような情報が。
「楽しそうっちゃ、楽しそうにも見えたし……割と大人しい集団だったよ。男と女と半々くらいだったかな。どっかよそよそしい感じもあった」
「荷物は?」自殺をするつもりならば、大荷物は持って行かないだろう。そうふんで冷泉は尋ねた。
「みんな普通の旅行鞄ひとつふたつって感じだったが。――兄ちゃん、あんたどうしたんだいさっきから」
「いえ……」冷泉は一瞬躊躇って、それから核心には触れずに話すことにした。「友人の様子が変だったんです。彼、少し前にひどく落ち込むようなことがあったものですから。この浦見島に行くって置手紙だけを残して、家を出ているようだったので、追いかけてきました」
「なるほどなあ。どこから来たんだい?」
「M県です」
「そりゃあ結構かかったろう。大変だったなあ」男性は立ち上がってぽんぽんと冷泉の腕を撫でた。「でも、そんな思いつめたような顔をした兄ちゃんはいなかったけどな」
「そうですか……変なことを聞いてしまってすみません」




 3




 男性の話のとおり、砂利道を数分歩いたところで『旅館 すずき』という看板が目に入って来た。一階が家主の居住スペースで空いた二階を旅客用に開放しているらしかった。
 恰幅のいい女性に出迎えられ、冷泉は受付を済ませた。一泊二食付きで良心的な値段だった。そのまま、急な階段を昇って一番奥の部屋に通される。
「夕食は七時、朝食は八時ですが、いいですか?」
「はい」
「では、お部屋にお持ちしますので」
「ありがとうございます」
「お風呂は夜六時から九時の間にお願いしますね。では、ごゆっくり」
 事務的な話をして、女将は去っていった。部屋は四畳半の畳部屋だった。なかなかに年季の入った建物である。客室は廊下を通る際に横目で数えた限りは三部屋あるように見えた。そのいずれものふすまが開いていたことから、今晩の宿泊客は、どうやら冷泉一人らしいことがわかる。
 冷泉は背中のディパックを下ろす。背中に接していた面がじっとりと湿っていた。ふと見下ろすと、紺色と白のボーダーのTシャツもほんのり首まわりと背中が濡れていた。早く風呂に入りたい。左手首の腕時計を見ると、時刻は十七時過ぎを示していた。あと一時間はこのままでいなければならないのかと小さく息を吐く。湿ったシャツのまま畳に寝転がるのも気が引けたので、そのまま地面に立膝をつくことにした。




――僕が戻らなければ、両親に伝えてください。小夜のところに会いに行った、と。
白峰 瑞樹

――浦見島。




 同じ字体で書かれた二枚の紙片を、掌の中でトランプのように扇状に広げてみる。
 瑞樹の両親には何と連絡をしようか。「おたくの瑞樹くんは、小夜さんのところに会いに行ったようです」――これでは、意味不明だろう。しかし、黙ったままでいるのはよくないだろう。見回してみたところ、予想はできていたが部屋に電話はなかった。一階に降りて借りることにしよう。冷泉は、ディパックのポケットから黒革の手帳とペンを取り出し、その場に立ち上がった。
 電話には瑞樹の母親が出た。昨夏会った時の、柔和な顔が脳裏に浮かんだ。
「突然すみません。瑞樹くんの友人の冷泉です。昨年の夏はお世話になりました」
「あら、冷泉くん、どうしたの?」
「実は……何からお話しすればいいのかわからないのですが……」
 冷泉は事態を、極力心配をかけないように、筋道を立てて話した。
 瑞樹の母親は名前をかすみと言った。彼女は最初こそ驚いたような反応を見せていたが、おっとりとした声で時折相槌を挟んできた。
「それで、僕は今その浦見島の近くの港町にいるんですが、浦見島に対して何かお心当たりはありませんか?」
 そう尋ねると、受話器の向こうの声は「うーん」と小さく唸った。
「記憶にはないわね。そもそも、I県にも行ったことがないわ」
「そうですか」冷泉は小さく息を吐いた。「その浦見島は、週に二度しか船が通らないそうなんですよ。それで、明日の朝がちょうどその日みたいなので、試しに僕が行ってみます」
そう言うと、かすみは「なんだか悪いわね」と言った。
「僕も心配なので」
「私も主人とそちらに行きましょうか?」
「いえ、瑞樹くんと入れ違いになったらまずいので……その、浦見島に彼が行っているという確証もないわけですし、島へ行ったというのは僕の早とちりで、案外ひょっこり戻ってくるかもしれません」
「そうだけど……」受話器の向こうで、かすみが頬に手を置く姿が、冷泉の脳裏に浮かんだ。昨夏会った時によく見かけた光景だった。
「もし四日経っても連絡がないようでしたら、その時は警察に連絡をお願いしてもいいですか? 浦見島で瑞樹くんと会えたら、六日の次の定期便――ええっと、八月十日ですね、その便で帰ってきますので」
「わかったわ。本当にありがとう。瑞樹のことを宜しくお願いします」




























 第一章 八月三日




 1




白峰 瑞樹 様
 一九九*年 八月三日
北陸I県の沖、浦見島にて待っています。
龍川 小夜



 その手紙を手に、白峰瑞樹は未踏の地、I県はI漁港のI地区へと来ていた。ローカル線を乗り継ぎ五時間。出航は朝の十時とのことだったため、前日二日の夜から宿泊で来ていた。『旅館 すずき』という民宿は、瑞樹が予約の電話を入れたときには既に残り一室となっていた。薄い壁の奥、隣の部屋からは時折足音のようなものも聞こえてきていた。十時の出向のために、九時十五分にはターミナル施設へと来るようにと“招待状”には書いてあった。I地区までの電車の切符が同封されていた。乗船券に関しては券売機から当日購入したものを渡すとのことだった。それらを持って、瑞樹が九時に宿の部屋を出たとき、ちょうど隣室の男と一緒になった。
「おはようございます」
 つい反射で挨拶をしてしまう。すると、相手の男も会釈と共に挨拶を返してきた。
「おはようございます」
 身長は瑞樹よりも少し低い。日本人の平均身長くらいだろうか。癖っ毛に眼鏡、白いTシャツにデニム姿の人のよさそうな青年だった。
 瑞樹よりも階段に近い部屋にいたその男を先に階段に向かわせて、瑞樹も後に続く。愛想のよい女将に礼を告げて外へ出る。どうやら方向が同じようだった。
「どちらへ?」なんとなく気まずくなったのか、男の方から声を掛けられた。
「そこの港に」瑞樹は進行方向へと指を伸ばす。まだ、ターミナル施設は見えなかった。
「僕もです。港です」
「T島に?」
「いえ、その手前の浦見島に」
「え」瑞樹は目を丸くした。「一緒です」
 すると、相手の男も驚いたように、眼鏡の奥の目を丸くした。
「招待状が来ましたか?」
「はい」招待状の言葉に一瞬心の奥を刺されたような気持ちになったものの、瑞樹は右手に下げた旅行鞄の外ポケットから手紙一式を手に取った。「これが、自宅に」
 流石に故人の名前が書いてある文面は見せられなかったため、封筒をその場に示してみる。どちらともなく足が止まりかけていたので、「とりあえず、行きましょうか」と瑞樹は先を指さした。
 もう、ターミナル施設はすぐそこにあった。
 ガラガラと横滑りのドアを開けると、既に中には男性が二名と女性が二名いた。
「浦見島へ向かう方ですか?」
 そのうちの一人、男性から声を掛けられる。スーツを着た、二十代後半とみられる男だった。
 先に入った瑞樹が戸惑いがちに肯き、それにつられるように背後の男も「はい」と肯いた。
「お待ちしておりました。お名前を伺っても?」
「白峰瑞樹です」
「佐古田正次です」
 二人の名前を聞くと、男は手元のバインダーに丸印をつけて顔をあげた。「白峰様と佐古田様ですね」
 瑞樹はめいめいベンチに腰掛ける他の男女に視線をくべた。「あの……これは」どういう集まりなんでしょうか、小夜に会えるとは、と続けようとしたところで、背後のドアがまた涼しい音を立てた。
 瑞樹は反射的に振り返る。
「えっ」
 瑞樹はぎくりと身体を硬直させた。




 2




「佐古田……と、白峰くん」
 相手も驚いたように、口をぽかんとあけている。
 彼の口から出た名前に、隣の佐古田を見てみれば、癖っ毛の下で眼鏡がずり落ちそうになった彼と目が合った。
「河西様ですね」
 スーツの男性に問われ、河西瑛介は驚愕を顔に貼り付けたまま、黒目だけを動かして「はい」と答えた。
「これで全員が揃いました。乗船手続きまでの間、しばらくお待ちくださいませ。申し遅れましたが、わたくし、このツアーのお世話役をさせていただきます、相藤と申します。御用の際は何なりとお申し付けくださいませ」
 心地の良いテノールでそう言って、相藤は小さく一礼した。ストレートの髪がさらりと揺れる。つり気味の眉、切れ長の甘い目が印象的な男だった。そして、その彼は壁際へと移動すると、バインダーを胸に窓の外へと視線を外した。世話役なりの気遣いだろう。その様子をたっぷりと目で追いかけてから、瑞樹は河西へと視線を戻した。そうしたところ、どうやら似た心境だったらしく、怪訝そうな表情の彼と視線が合った。
 一番に声を発したのは、瑞樹でも河西でもなく、佐古田だった。
「どうしてここにいるんだよ、河西」
「佐古田こそ」
 小声で額を向き合わせる二人を前に、瑞樹はおずおずと口を開いた。
「お知り合いですか?」その声に、示し合わせたように二対の視線がくるりと向けられる。
「そう。同じF大の農学部植物化学科、四回生。まさかこんなところで会うなんて」と、河西は涼しい目を丸くした。
この河西瑛介は、瑞樹にとって、三か月前にF県の『雪女島』で事件に巻き込まれたときに一緒になった仲だった。そして、一年前に瑞樹の生まれ育った『四神村』において、ある悲痛な運命を辿った、五歳年上の幼馴染の青年と瓜二つの見た目と声をしていた。
「河西と白峰さんはどういう知り合い?」
「ああ……」河西の目がふっと陰りを帯びる。「ちょっとね。共通の知人がいて」
「そっか」河西の様子を受け、佐古田もそれ以上の追及はしなかった。
「佐古田と白峰くんはどういう知り合いなの?」河西が視線をあげた。
「俺らは、たまたま昨日泊まっていた宿が同じでさ。出るときに一緒になって、方向も一緒だったもんだから、もしかしてって感じで声掛けたら……」佐古田の視線が「ね」と同意を求めてくるのに、瑞樹も「ええ」と肯き返す。
「偶然です。そこの『すずき』っていう宿で一緒になりまして」
「あ、満室だった宿だ」どうやら、河西も予約の電話をかけたらしい。
「ああ、予約するとき、僕が最後の一室でした」と瑞樹はへらりと笑ってみせた。
「満室だったもんな」と佐古田はベンチに荷物を置いて、隣に腰を下ろした。「もしかして俺らのうちの誰かがもう一部屋に泊まっていたりしてな」『すずき』は、三部屋で満室だと言っていた。「白峰さんも大学生ですか?」
 河西がその向かいに腰を下ろすのに合わせて、その隣に腰を下ろしながら瑞樹は肯いた。「はい。T大学の二回生です」
「優秀なんだね」佐古田の口調が一気に砕けた。
「佐古田さんたちこそ」瑞樹は何度か瞬きを繰り返す。
「でも……」瑞樹が自らの手元に視線を落とした。「いったい何が行われるというんでしょうね。死者に会えるだなんて」そしてぐるりと、他の三人を見遣る。キャリアウーマンと、保育園の先生と、バンドマンのような三人だった。「あの人たちも誰か会いたい人がいるのかな……」
「宗教の勧誘かもしれない」佐古田が言った。「島に誘って、逃げられないようにして入信を強いるんだ」
「え」瑞樹は困った顔をした。
「そういう新興宗教もあるってきくからね」
「断れないんですか」
「断れないように、孤島で契約を強いるんだよ」
「本当にこの集団についていっていいんでしょうか……」
「大丈夫。こっちは男三人が少なくとも味方だ。あっちの派手な男はサクラかもしれねぇがな」
 そうしているうちに、船のエンジン音が近づいてきた。窓からぶわりと油臭いにおいが入ってくる。建物内の客たちの視線が昼間のヒマワリのように一気に外へと向いた。
 カウンターの奥にいた初老の男性が、立ち上がって相藤たちの方へと近づいてくる。「切符を拝見します」
 それに応じて、相藤が人数分の切符を男性へと手渡した。男性は指に唾をつけて枚数を数えると半券をぴりりと纏めてちぎり取った。「下船するまで失くさないでくださいね」
 客たちは自然と一列に並んで、相藤から半券を受け取った。手にした者から外へ出て、船の横へと進む。船の中から出てきた男性が、係留し、船と陸の間に板を敷いて段差を埋めた。
「この船は十時に出航します。十分前までに乗船してください」
 白い小さな船だった。客は瑞樹たち七人を入れて十五人程度である。平日だからか空席が目立った。緑色の地面はさらさらとしたもので水はけがよさそうである。
瑞樹は、佐古田と河西に続いて乗船した。一歩踏み入れた瞬間、感覚がふわりと変わる。それも数歩歩くうちに慣れていき、船室へと入った頃にはすっかり忘れているくらいだった。
背後を見遣ると、二十代半ばと思しき女性が二人、何か小声で話している。この二人も、相藤から半券を受け取っていた。瑞樹たちと同じく『浦見島』に用のある人たちだろう。
隣の女性から「ハシナミさん」と呼ばれたほうは、細身で女性にしては少し身長が高い。髪型は前下がりのボブでツヤツヤと黒髪が陽光に映えている。きりっとした目元が印象的な、少し気の強そうな女性だった。ちなみに先程、瑞樹がキャリアウーマンだと予想したのはこの人である。
 そして「ハシナミさん」を、そう呼んだほうの女性は、日本人女性の平均身長くらいかそれよりも少し低めであった。中肉中背で、少しぽったりしており、色白で、頬にはそばかすがある。茶色のごわごわした人形のような髪の毛を、二つに編んでいた。桃色の長いジャンパースカートに茶色のショルダーバッグと、ふんわりとした雰囲気を纏った女性だった。ちなみに保育士だと予想したのはこの女性である。
その後ろから最後に一人で乗り込んできた人物はやや長身の中肉中背の男だった。年齢は瑞樹たちと同じくらいだろうか。鋭い目元を長い前髪が覆っている。少し硬そうな癖のある黒の髪の毛がふわふわと頭部に乗っていた。飄々とした雰囲気を纏っている。ぱっと見、どこかのバンドマンのようである、と瑞樹が予想したのはこの男だった。
相藤を除いたこの六人が、相藤から船の半券をもらって乗船した顔ぶれだった。




 3




 瑞樹は、相藤を視線で追いながら、目の前の二人に相槌を落とす。そして、相藤が一人になった瞬間を見計らって、席を立った。
「小夜に会えるとはどういった意味でしょうか」
 そう早く尋ねたかった。
 しかし、人の目が気になる話題である。ようやく得た好機に飛びついた瑞樹の足を払うように、相藤は笑顔で瑞樹の方へと歩み寄った。これでは、話が河西と佐古田だけでなく他の乗客にまでに聞こえかねない。
「いかがなさいました?」
 やってきた相藤に瑞樹は「ええっと」と視線を泳がせた。「どのくらいで着くのかなと思って」適当に答えながら視線だけを持ち上げる。初めてまじまじと見つめた相藤の瞳は、色素が薄くて、綺麗な琥珀色をしていた。
「二時間程度で着きますよ。今日は波も穏やかですし、ぼんやりしていたらすぐ、と言った具合でしょう」
「そうですか」
「船は苦手ですか? 必要でしたら薬がありますが」
「いえ、大丈夫です」瑞樹は作り笑いを張り付けて丁重に断った。「お気遣いありがとうございます」
 そんな瑞樹の言葉に、相藤はにっこりと恭しく一礼を返して再び窓際の席へと戻っていってしまった。
「乗り物苦手?」河西が心配そうに、瑞樹の顔を覗き込んだ。
「いえ、そうじゃないんです。先ほどの質問をしようかと思ったんです。死者に会えるってどういう理屈ですか? って。でも、目が合った瞬間、逆に質問されてどうしようって困ってしまいました」
「ああ」河西は快活そうに白い歯を見せた。「なるほどねえ。相藤さんの目、綺麗だもんねえ。――吸い込まれそう」そう言った河西の目に吸い込まれそうな眩暈を覚え、瑞樹は視線を窓の外へと向けた。
 窓の外では、手すりに背中を預けたバンドマンが一人心地よさそうに目を閉じていた。
 遠くでエンジン音が響いた。




 4




『浦見島』は、一平方キロメートル強の、今は無人となっている島だった。島の中央に、東南アジアのログハウスを移築してきたような平屋建てが一軒見えた。なかなか南国の情緒がある島である。そのログハウスを母屋として、客人は各々のロッジに宿泊することになっていた。
「広間にはお飲み物のご用意がございます」相藤は甲斐甲斐しく出迎えた。『そして誰もいなくなった』の冒頭とまさに瓜二つだった。
「それでは、まずはご主人様へご挨拶を」相藤の話に乗るように河西がそう言うと、相藤は芝居がかった表情でこちらに見せた掌をゆるゆると振った。
「それができないのです」
「なぜでしょう」河西は立ち止まった。
「主人はこの島にはおりません」
「どういうことです? まさか、“明日来られる”のですか?」
「いえ」相藤は困ったように胸の前で右手を振った。「主人の代わりにわたくしが、皆さまのことをおもてなしすることになっているのです」
 河西はしばらく相藤の端正な顔を見つめていた。やがて、話を聞いていた橋波佐和子が大きなため息をついて広間の中へと足を踏み入れた。残る面々も、ハーメルンの笛吹き男にさらわれた子供たちのように、後に続く。
 後には河西と相藤だけが残った。
「さあ、河西様も中へ」
「あ、ああ」そう言われて河西もハーメルンの背中を追いかけた。






「荷物はどうしたら?」
 凛とした低めの声が、相藤へと投げかけられる。橋波佐和子だ。
「あっと、皆さまのロッジの部屋割りはこちらで決めておりますので、いつでも行き来できますよ。橋波佐和子様のロッジは……一号室ですね」相藤が金色の鍵を彼女の手の上に落とした。薄いコルクで作ったキーホルダーがついている。ローマ数字でⅠとあった。
 橋波佐和子と呼ばれた女性は、先ほど船で見たショートボブの人だった。身長が高めで、利発そうな顔をしている。いかにも会社務めをしていそうな雰囲気だった。
 それから、橋波に続くように、茶髪のふんわりした女性が相藤に声を掛ける。「あの、内海、内海八重菜です。鍵をいただけませんか?」
「内海八重菜様は、お隣の二号室ですね」
「ありがとうございます」
 内海八重菜は、そばかすのある頬を綻ばせて金色の鍵を受け取った。
「一号室と二号室は島の西の方にあります。母屋を出たところに、場内の地図がありますので、ご覧ください」
 それから、一匹狼の彼――黒石徹也と呼ばれていた――が、三号室の鍵を受け取って室外へと消え、残るところは瑞樹達三人となった。
 相藤が機嫌に良さそうにこちらへ向かってくるのに、瑞樹はカバンの中から一枚の紙片を取り出して一歩前へ出た。
「ところで、小夜に会えるというのはどういうことなんでしょうか」
 その声に相藤は鍵を探っていた手を止め、ゆっくりとターンした。
「それでしたら、夕食の際に全てお話しがあるということですよ」
「話?」
「ええ」
「でも、ご主人は、この島にはいないって……」瑞樹は戸惑うように視線を泳がせた。
「ああ」相藤は合点の言ったように、ぽんと拳で自らの掌を叩く。「大丈夫です。このようにテープを預かってきております」四角いカセットテープだった。「主人の肉声の入った音声テープです」
 いつのまにか背後に来ていた河西瑛介が尋ねた。「瑞樹くんは小夜さんに会えるという内容だったのかい?」
「ええ」
「俺は檜山司に会えるという文言だった」
「檜山さん……」瑞樹は灰色に曇った記憶の奥底からその名前を取り出す。檜山司とは、今年の五月、龍川小夜が命を落とした『雪女島』での連続殺人事件において、最後まで小夜を守ろうとしてくれて命を落とした男だった。彼一人の保身だけを考えれば、もしかしたら生き残れたかもしれないほどの身体能力と頭脳を持っていたと聞いた。河西とは同じ大学、学科の大学生だった。
「俺は宗教とかじゃなくて、交霊術か何かかと思って来てみたんだけど」
「交霊術」
「瑞樹くんは何か思いつくかい?」
「いや……」瑞樹は小さく俯いた。視線の先で、紙片がくしゃりと音を立てる。
瑞樹は何も考えていなかった、ただ、「小夜に会える」その文字に引き寄せられるように、深く考えずにこの島まできたのだった。
「交霊術なら、エメリとも会えるかもしれない」
 河西の言葉に、瑞樹ははたと現実に戻った。早見エメリ――河西瑛介が半年ほど前に事故で亡くした恋人の名前だった。
 気づけば、相藤の姿はなくなっていた。
 そして、エメリの名前が出たことで、瑞樹の中で他の名前が濁流のごとく押し寄せてきた。
 朱野静。水谷。朱野源一郎。深見陽介。藤川絹代。朱野透。――みな、去年の夏に瑞樹の故郷『四神村』で命を落とした人たちだ。
「大丈夫かい?」
 気づけば前かがみになった瑞樹の上半身を、河西が抱きかかえるようにしてくれていた。慌てて背筋を伸ばし「なんでもないです」とかすれた声を出す。額には冷や汗が浮いていた。
「そういった話、苦手だったのかな」
「少し……そうですね、得意じゃなくて」
「そうか。無神経に悪かったね」
 瑞樹の左腕を支えるように、河西が広間の端に用意されているソファに瑞樹を座らせた。それから、グラスに入った水を持ってきてくれる。
 佐古田は部屋割りについて相藤に質問をしているようだった。
「河西さん、本当にすみません」グラスから口を外して瑞樹は身体を小さくした。
「こっちこそ。変なこと言ってごめんね。落ち着いたかい?」
「はい」
 そうしたところで、佐古田が金色の紐を持って、こちらに速足で歩いてきた。
「ロッジの鍵貰って来たぞ。……お? 白峰くんは昼間っから酒か? いけるクチかい?」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ」河西がやんわりと窘める。「瑞樹くんはまだ十九歳。だよね?」
「そうですね」瑞樹は困ったように笑った。
「とか言って、大学じゃこっちも、こっちもやってるんだろ?」佐古田はグラスを傾ける動作と、たばこをふかす動作を繰り返した。
「まだやったことがないんですよね。先輩には愛飲家も愛煙家も多いので、いいものなんだろうなとは思っているんですけれどね」瑞樹はよそ行きの声で、当たり障りなく応えた。
「まぁでも、無茶飲みはやめた方がいいぜ。コンパとかでも見かけたら止めてやんな」
「そうですね。僕はとりあえず、今のところ断っていますけれど」
 立ちっぱなしの佐古田に向かって、椅子に腰かけたままで話すのも気が引けたがまぁいい。その代わり、上目遣いになってしまう。瑞樹はかつてその上目遣いを「男殺し」と揶揄されてからは、忌避するようになっていたが、この二人相手だと不思議とそんなことも忘れていた。
「鍵ありがとうございます。もらってきていただいて」瑞樹が立ち上がり様に、佐古田の手のなかを見遣る。
そこには三本の金色の鍵が握られていた。鍵には部屋番号がかかれているキーホルダーが、ワイヤーでつなげられている。
「白峰くんが六号室、河西が四号室、俺が五号室ってことだったぜ。ただ……ローマ数字だからわかりにくい! これかな?」
 佐古田の見た目に寄らずしっかりとした手から、鍵を受け取り、三人は母屋を出ることにした。
 玄関の逆に裏口があり、各人のコテージへの出入りはそこが使われるのが主のようだった。出て真正面にコテージの配置図がある。客室はちょうど六部屋あり、向かって左に一から三号室が、右に四から六号室があるとのことだった。一号室の向こうには花時計があるとのことである。
 奇しくも、三人は皆右の分かれ道を歩いていくルートだったので、肩を並べて、小道を歩いた。小道の両隣には、野生の木がよく手入れされた状態でお出迎えをしてくれる。首を伸ばしても、客室から客室までは見えないくらい、植物が群生していた。最初に河西の四号室が見えてくる。
モンゴルのゲルを思わせるような半球のコテージだった。そこで河西と別れて、佐古田と瑞樹は二人になった。
「佐古田さんは元々こちらの方なんですか?」瑞樹は夏の日差しを紛らわすように言った。額からぽたぽたと汗が流れ落ちる。
「ああ。こっちだよ。兄貴も同じ大学なんだ」
「へえ、お兄さんが」
「そうそう。三つ上の兄貴でな、三つ違いってなるとさ、俺の中学の入学式のときは、兄貴の高校の入学式だし、俺の高校の入学式のときには兄貴の大学の入学式だし、受験の時期も重なるしで、うっぜーなんて思ってたんだけどさ」
 瑞樹は曖昧に返事を返す。
「でもさ、すっげー仲良かったわけ。追いかけて同じ大学目指しちゃうくらいには。……あ、瑞樹くんは、兄妹は?」
「一人っ子です」
「そうか。ある意味羨ましいような。でも、無いものねだりだよね」
「そうですね」
 瑞樹はまたも愛想笑いを零した。
「洋服も体操服もそろばんも絵具セットも全部おさがりでさー、……でも……」
佐古田の様子が変わったのに、瑞樹はそっと彼の顔を覗き込んだ。
「俺の……たった一人の兄ちゃんだったんだよねえ……」
 瑞樹はわけがわからず、おろおろと涙を零す佐古田の正面に立った。
 すると佐古田は何を思ったか、旅行バッグの外ポケットから一枚の紙片を取り出して瑞樹に手渡した。「これ」
 瑞樹は刮目した。



佐古田 正次 様
 一九九*年 八月三日
北陸I県の沖、浦見島にて待っています。
佐古田 正一



気づけば右手で唇を覆っていた。「この……正一さんっていうのが……」瑞樹は震える声で尋ねる。
「そう。俺の兄ちゃん」
 ということは――と瑞樹は一瞬で悟ってしまった。
「そう。もういないんだ。五年前の春に、急性アルコール中毒で死んでしまった」
「そんな……」
「未成年だったんだ。なのに……新入生歓迎コンパで……断れなかった、そういう空気じゃなかったって周りの学生が言っていた。自分のゲロに溺れて死ぬなんて、本当に酷い最悪な死に方だよな。チクショウ……。だから兄ちゃんは、大学の授業を一コマも受けていない。俺が代わりに全部受けるって誓ったんだよね。あ、重い話ごめんね」と謝罪の言葉を口にしつつも、佐古田はどこか軽妙な口調で、飄々としていた。
 瑞樹は何と言っていいのかわからずに、ただ俯いてしまった。こういうとき、あの口下手な幼馴染のことを思い出す。
「白峰くんは、誰からの手紙が届いたの?」
「え?」
「いや、さっき言っていたから。俺、ここに集まった全員が、死者からの手紙に呼び寄せられてきたんだと思うんだよね。白峰くんは誰なのかなぁって、気になっちゃって。言いたくなければ別にいいんだよ」
「……そうですね」
「ごめん、突然入り込みすぎた話だったよね。聞かなかったことにして。じゃあ、俺はここみたいだから」と、佐古田はボールを伏せたようなコテージの玄関口に鍵を差し込んで回す。ガチャリと言う音が鳴って、ドアが手前に開いた。
「また後で、ホールで会おう。夕食が何か楽しみだね」
 明るく言って、佐古田は五号室の中に消えていった。






瑞樹は、蝉しぐれの中、一人森の腹の中に取り残された気分だった。そこからすたすたとよく焼けた遊歩道を歩いていく。赤茶色のざらざらした床だった。小さい子がはしゃいで転びでもしたら、掌と膝小僧に小さな擦り傷ができるだろう。瑞樹は目の細かい紙やすりを思い出した。
左に緩いカーブを歩き、そして右に曲がってしばらく進んだところに六号室はあった。一本道だから迷わないが、道から外れてしまうと迷子になってしまいそうな具合だった。
ロッジの外観は四号室、五号室とかわらない。お椀を地面に伏せたような、茶色い建物である。外壁の材質を身の回りのもので表わすならば、笹の皮のような感じだった。
瑞樹は佐古田から受け取った金色の鍵を使って、六号室の扉を上げる。がっちゃりと硬質な音が響いて扉は難なく開いた。外開きだった。中の窓は開けっぱなしになっていたらしく、ドアを開けた瞬間ぷうんと室内の香りが鼻腔をついた。そういやな香りではない。
まっすぐ進んで右手にバスとトイレがある。左手には、クローゼットが。そしてそこを抜けたところに、広い空間。ベッドとそれから――蚊帳があった。なるほど、窓に網戸はない。周囲は森林である。となると、蚊に悩まされていてもおかしくはない。しかし、蚊帳だなんて祖母が生きていたころに実家で見たっきりだ。
ベッドサイドには小さな机と鏡があった。ソファとテーブルが一つずつ。ベッドのシーツは南国風でざっくりとした糸で編まれたシーツに枕カバー、それから上掛けだった。普段わりかし肌理の細やかな寝具を使っている者にとっては、少しガサガサ感じられるものだろう。
瑞樹は荷物をクローゼットの中に置いた。中から「小夜からの手紙」を取り、ジャケットの内ポケットへと滑り込ませる。三か月前に、あと連続殺人事件に巻き込まれ、不遇の死を遂げた彼女……。




 5




 河西瑛介は蚊帳の中、ベッドの上に大の字になっていた。
 


河西 瑛介 様
 一九九*年 八月三日
北陸I県の沖、浦見島にて待っています。
檜山 司



「司……」
 髪を両手に持ったまま、ごろんと寝返りを右に打った。
「本当にいるのか? 司……」
 あの日、あの時、あの島で何が起きたのか。知っている者が皆死んでしまっているので、確かめる術がない。ただ、檜山と龍川小夜が手帳に手記を残してくれていた。見慣れた檜山の流麗な文字。紺のインク。いつも、愛用していた革の手帳。それが、まさか遺品となるなんて。目を閉じれば、目じりからつつっと涙が伝った。
 恋人のエメリが死んだのは、ちょうど檜山と河西に、農学部の生物化学科の実習が入っていた日だった。その時も、檜山は一緒にいてくれた。彼も、共同研究者だったエメリが亡くなって、心身ともにダメージはあったろうに、ひたすらに河西の心が癒えるのを待っていてくれた。
 そして……共同研究の新種の薔薇を完成させてくれた。研究者は二人とも死亡という中での異例の発表であった。二十一で亡くなったエメリの唯一の目に見える形での生きた証だ。エメリの身が朽ちて、エメリのことを知る人間がみな死に絶えても、この薔薇は残る。そんな素晴らしい贈り物を遺してくれた。
 それを……佐古田……。
 あの日、研究室には誰もいなかった。ただ、佐古田が一人レポートを書きに残っていた。そんなときに電話がかかって来た。
『檜山司さんの薔薇の研究は順調そうですか?』
 佐古田は、受話器を首に挟んで答えた。
「五月頃には発表できるんじゃないですかねぇ」
 電話の相手は、一瞬の沈黙を挟んで、こういったらしい『わかりました。充分です』
 これは、先刻佐古田から聞いた話だが、――もしも、このとき佐古田が「おしえられません」と答えてくれていたら……。
 たら、れば、を言えばきりがない。あの藤間エーリクの執念だ。佐古田が口を割らなかったとしても、別の方法を使って情報を集めていたかもしれない。
 藤間エーリクは勘違いしていたのだ。檜山がエメリの研究成果を独り占めして、自らの栄光のための研究成果を得ようとしているのだと。
 そして、勘違いされたまま檜山司は凶刃に斃れた。その時、どうにか全員で助かる方法、犯人を特定する方法を模索したことは手記に残っている。そして、最後の最後まで、龍川小夜を、命を懸けて守った。
 会えるなら会って、話がしたい。エメリのこと。薔薇が学会で発表されたことの報告もしたい。あの島で何を感じ、どういう最期を迎えたのか。怖かっただろう。痛かっただろう。声が聴きたい。会いたいよ、檜山……。




 6




 佐古田正次は、ロッキングチェアに座って窓から外を眺めていた。
 エメリたちF大山岳部の滑落事故の報が入ったとき、檜山と佐古田と河西は同じ部屋にいた。F大山岳部の七人が宙づりになり、そのうち一番下にいたエメリだけ行方がわかっていないということだった。エメリは何日、何週間、何か月待っても帰ってはこなかった。
 早見エメリは研究室の天使でエースだった。
 だから、そんな存在を失った研究室は暗く沈みに沈んだ。特に河西の沈みようは見ていて不安になるほどだった。河西とエメリがこっそり付き合っていることは、研究室の半数は知っていたが、誰も口外せずに、影ながら見守っていた。
 そんな天使兼エースが行方不明になって、檜山の研究は続行が難しいのではないかという判断が下された。早見エメリが得意としていた分野を補填できる人材がいないからである。それを檜山は、自分が埋めると宣言して、かつてよりも研究に没頭するようになった。
 彼のノートは、同じ生物化学専攻の学生でもわからないような数式や文字でいっぱいだった。毎日毎日、寝る間も惜しんで彼は研究に没頭していた。
 彼は、家が貧しいらしく、特待生として優秀な成績をおさめる代わりに学費を免除されているという側面も持っていた。
 腹がぐうとなった。時計を見れば、もう約束の時間十分前だった。




 7




 二十時。ロッジの食堂には、六人の客人と相藤が揃っていた。
「それでは、主人のメッセージを流します」
 相藤はよく通る声で言った。今は晩餐会の前である。机の上には豪勢な料理が立ち並んだ。これを、この相藤一人で用意したのだと思えば、驚くばかりである。およそ調理師免許でも持っているなら別であるが。
誰かの喉がぐつりとなる音がした。それほどに目の前の料理は魅力的であった。
相藤は慣れた手つきで、ローカウンターの上のラジカセのスイッチを押した。すーっというホワイトノイズの後、ぷつっと音が鳴って、バリトンの声が流れる。
『今日お集まりのみなさん、ようこそ我が館へ』
 各人が、それぞれの顔を見回せるだけの間があった。
 だが、次の瞬間場は氷柱の筵のように凍り付いた。
『あなたがたはこの中に殺したいほど憎い相手がいるのではないですか?』
 白峰瑞樹がビクッと身体を硬直させた。ガタッと椅子が悲鳴を上げる。
『ここは恨みの島。あなたがたの愛する人の敵を討つチャンスです。それを生かすも殺すもあなた次第。
では、ここでかの名作『そして誰もいなくなった』に倣って少し〈声〉を聴いてもらいます』




  諸君はそれぞれ、次に述べる罪状で殺人の嫌疑を受けている。
  佐古田政次、汝は一九**年一月十四日、檜山司ならびに九人の死に関する責任がある。
  内海八重菜、汝は一九**年四月三日、佐古田正一の死に責任がある。
  黒石徹也、汝は一九**年十一月十五日、花山武を死に至らしめる原因を作った。
  河西瑛介、汝は一九**年五月のある日、F大学山岳部の中で唯一生き残った。
  白峰瑞樹、汝は一九**年十月二八日、橋波勇太の死の原因に関連がある。
  橋波佐和子、汝は一九**年二月二十三日、黒石裕子の死に関係がある。




『ははは、どうですか。驚いたかね? この島には誰も見張るものはいない。武器はふんだんとある。君たちの知恵を絞りさえすればね。何だって武器にはなるものだよ。ふはははは。グッドラック諸君! 良い旅を』



プツリとそこで〈声〉は終わった。氷の塊のような時間が過ぎ、やがて誰かが小さく息を吸った。
「なん……ですか、これは」河西瑛介が口元に震える指を当てた。「何かの悪戯ですか?」
「それにしては質が悪すぎるわ」橋波佐和子は事務的に髪をかき上げた。
「悪戯ではないですよ……」佐古田が喉に空気のつっかえたような声を出した。「僕の知る限りは、内容は事実です」
「ええ、主人からは、そう聞いております」相藤は淡々と話し始めた。「例えば、河西瑛介さん」
河西はびくりと肩を揺らした。
「あなたはある人物を恨んでいますね。三か月前、あなたは殺人事件によって多くの友人を失った。犯人から研究室に架かって来た電話に応対して、友人たちの現況をぺらぺらと漏らしてしまった相手を今でも憎んでいるのではないですか?」相藤の言葉に、河西は一度視線を泳がせて、再び足元へ落とした。
 相藤は満足げに頷いて続けた。「その人が相手の身分を確認し、情報遵守に徹していたら、あるいは事件の結末は違ったのではないかと」
「それは……」河西はちらりと佐古田の方へと視線を投げて、再び相藤に目を戻した。「俺が佐古田を恨んでいると思われている、と解釈して間違いないですか?」
「電話の応対をしたのは佐古田様でしたか」相藤の飄々とした態度に河西はむっとしたようだった。
「だとしたら、俺は佐古田を恨んでなどいませんよ。佐古田がしたことなんて、藤間くんに檜山の薔薇がそろそろ完成間近であることを伝えただけにすぎない」
「それはたいしたことではないと?」
「それだけじゃ事件は起こりえない。確かに……確かに藤間くんが檜山に対して逆恨みをする原因にはなっただろう。でも、でも……」
「河西! 言っちゃえよ! 俺が! 俺があの時電話の相手をきちんと確認していれば、檜山だけは助かったかもしれないって!」佐古田が叫んだ。
「それは違う!」河西は苦しそうに、細く息を吐いた。「僕は、藤間エーリクが事件を起こす前に、彼の心の闇に気が付くことができなかった。その闇に気づけていたらと散々悩んだ。そりゃあ、仲間を殺した藤間くんのことは許してはいけないとは思っているけれど、藤間くんが唯一の肉親だった姉のエメリを失った辛さもわかるから……」河西は目頭をもんだ。「それに檜山だけが助かれば、他の人は死んでもよかっただなんて思っていない。ましてや、エメリの時だって……。結果的に犠牲になったのはエメリだったけれど、じゃあ誰か別の人に身代わりになってほしかったかと言われれば、それはノーだよ」
「河西……」佐古田は唇を噛んだ。「河西! 本当に済まなかった! 俺の不注意が檜山を殺すことになった!」
「だから、お前のせいじゃ」
「お取込み中のところ悪いけど、他の文章も検討してみましょう」 橋波佐和子がぴしゃりといった。「佐古田くんの“罪”は今言った、何? 河西くんの友人たち九人の殺害に関連があるの?」
「三か月前に話題になった『雪女島殺人事件』って知りませんか? そこで、従業員二人と、大学生七人が犠牲になったんです。そのきっかけとして、犯人に情報を漏らしてしまったのがそこにいる佐古田だ、って〈声〉は言っているんですよ」河西は投げやりに答えた。
「へえ。その事件だったらはっきりと覚えているわ。最近だものね。大学生が東北の島で皆殺しにされた事件。まさか関係者と会うことになるとは思わなかったけれど」橋波はこともなげにそう言った。「で、次は誰だっけ? 内海ちゃん? 内海ちゃんが誰かを――」
「佐古田正一です」声は席の端から上がった。佐古田だ。先ほどまでの、勢いを引き継いだような、実に堅い声だった。「佐古田正一は俺の兄です」
 内海がヒッと両手で口元を抑えて立ち上がった。椅子が、ガターンと音を立てて倒れた。
「覚えてなかったですか。僕、遺族席にいたんですがねぇ。まあ五年も経てば風貌も変わりますか。僕はあの時十七歳だった、高校生の次男、佐古田正次ですよ」
 佐古田は、座ったまま、俯いてそう早口で言った。
「何? 遺族とかって、どういうこと?」
 橋波は確信犯だ。わかっていて、それでいてわからないふりをして、事の核心へと迫ろうとしている。
誰もがわかっていた。内海八重菜が佐古田の兄の死に絡んでいるということを。
「あ、あたし、居酒屋でバイトしていたんです……その日はF大の新刊コンパの団体が入っていて……」内海は泣きそうな声で語り出した。「私はそのテーブルの当番で……年齢確認をするようにお店の決まりではなっていたんですけれど……あたし……ちゃんとはしませんでした……そしたら……」
「もういいよ」佐古田が小さくはっきり断った。「兄貴は急性アルコール中毒で死んだ。いくら強引にと言っても結局飲んだ兄貴も悪いし、飲ませた仲間たちだって同罪だ。内海さんだけのせいじゃないし」
 内海八重菜は、それでも立ち上がったまま、顔をおさえていた。
「で? なんだっけ。黒石徹也ってあんたの名前でしょ」橋波がテーブルの端でことを傍観していた男に視線を投げた。
「よく覚えてんな」黒石と呼ばれた男がにやりと口元を歪めた。
「仕事柄、瞬間記憶だけは鍛えてんのよ。で、アンタ、花山武って人を殺したの?」橋波が右掌をひらりとさせた。
「花山……」と、黒石は気まずそうに視線を宙に浮かせた。長い前髪の奥の目は隈がある。陰気だが、どこか色気のある青年だ。
 その視線の先で、立ち上がったままの内海が顔を上げていた。二人は隣の席だった。黒石が倒れた椅子を戻してあげると、内海は立ち上がったまま凄んだ。
「『黒石徹也』。あなたが武を殺した相手だったのね」内海は隣の席の黒石を火の点きそうな目で睨んだ。
「そうです」黒石は飄々と答えた。
「どういうことなの?」橋波が、学級会を取り仕切る教師のような声で尋ねる。
「花山武は私の婚約者でした。二年前のあの日、武は私にプロポーズしてくれたんです。なのに……次の日急に倒れて……検査の結果、前日にどこかで転んだときにできた脳の損傷が原因だったと言われました。交通事故じゃないからどこで武が転んだかなんて特定のしようがなくて、私や武のご両親は泣き寝入りするしかなかったんです。なのに!」再び内海は立ち上がった。「交通事故だったんですか?」
 内海から見下ろされてもたじろぐことなく、黒石はその黒水晶のような目をじとりと目の前へと向けていた。
「交通事故……といえば、交通事故かもしれない」
「じゃあ、なんでその場で警察に行かなかったんですか!」
「自転車に乗っていたのは花山さんの方なんだよね」
「あなたが車に乗っていたの?」
「いや、俺は徒歩」
「どういうこと?」
「坂から猛スピードで下って来た花山さんと、交差点に出ようとしていた俺はぶつかった。幸い、互いに大きなけがはないように見えた。彼は、とても急いでいると言った。本当は駄目なんだけど、二人だけの秘密にしとこうねと連絡先だけ交換をした――それだけだ」
「じゃあ……」
「そう。一見元気そうにしていたけど、花山さんの脳には損傷があったようだね。その時、俺らがちゃんとした段取りを踏んで警察と救急に連絡しておけば――」
「……!」内海が椅子に座り込んで泣き出した。
「だから、俺が花山武の死に責任があるっていうのは紛れもない事実だね」
 黒石は飄々とそう言った。
「で? 次が河西……さん? くん?」
「二十二です」
「なら、“くん”ね」
「河西くんが唯一生存した、というのはどういう“罪状”なの?」
「それは……僕にもわかりません。ただ、先ほどお話しした『雪女島』の事件で、山岳部が全員――それこそ、瑞樹くんの幼馴染の龍川小夜さんまでが亡くなっている中で、僕だけが悲劇から免れたことは、他の遺族などからも……まあ、そういう目で見られました」
「僕は河西さんも一緒に巻き込まれればよかっただなんて、一切思っていません」瑞樹はきっぱりと言い切った。
「でも、その龍川さん? 彼女は他の大学のメンバーと一緒にあの『雪女島』で殺されてしまったのよね?」橋波は赤いルージュの端を持ち上げた。
「そうですけれど……でも、死んだ人を悪く言うのもあれですけれど、河西さんはエメリさんを追悼するために本土に残った。残りのメンバーはそんな中でも卒業旅行に出かけた。だから……仕方のないことだと思うんです。河西さんはエメリさんのことがあって、旅行に行けなかったっだけだし、そこで事件が起こるなんて、誰にも想像はできなかった。そこに河西さんの責任はないはずです」
「僕が力づくでも、旅行を止めておけば」河西は自嘲気味に呟いた。
「とにかく、僕が恨んでいるのは藤間エーリクであって、河西瑛介さんではない。そのことだけは間違いありません」瑞樹は力強くそう宣言した。
「そう」橋波は事務的に言った。「次はよく覚えているわよ。だって私の関係することだもの。忘れもしない十四年前の正月休み。弟の勇太は急性虫垂炎になったのよ。救急を呼んでもね、山中の村だからなかなか救急車、来ないのよ。そして、来たところで、受け入れ先が決まらなくて、結局搬送が始まったのは勇太が倒れてから何時間も後だったわ。私は母と一緒に付き添ったのよ。覚えているわ。それでも、引受先が決まらなくて、たらいまわしにされて、結局勇太は手遅れで死んでしまった」
 話しながら橋波佐和子は、白峰瑞樹の俯いた頭頂部を何度も見ていた。
 瑞樹はだまって身体を小さくしていた。
「救急の無線からたびたび聞こえてきたのよ。最も家から近かった六山総合病院はね、肺炎の五歳児がいるから無理だって。そこから他の病院に回されて、年始の渋滞につかまったまま勇太は亡くなったわ」
「勇太が亡くなってしばらく、そんなことはすっかり忘れていたわ。でも、そう、私の記憶力ならば覚えている。確かにあの日、五歳児の肺炎患者がいたわ。ねえ、白峰くん」
 瑞樹は俯いたままびくりと身体を固くした。
「あなた、何歳?」
「じゅう……きゅうさい……です……」
「そう。肺炎にかかったことは?」
「五歳のころに」
 橋波は前髪をかき上げ、あははと声を上げて笑った。
「そう。これではっきりしたわ。別にあなたが勇太を殺したなんて思っていないのよ。だって勇太を優先すれば、代わりに死んでいたのは白峰くん、あなただったかもしれないからね」
 瑞樹は唇を噛んで俯いた。
「じゃあ? 最後は決まりね。黒石さん? くん?」
「二十一」
「じゃあ黒石くん。黒石裕子ってどなた?」
「俺のおふくろ」
「そう」
「あなたのお母さまの死に私がどう関係しているの?」
「……言いたくない」そういって黒石は、そっぽを向いてしまった。「料理が冷めちまう。こんなにいい料理なのに。早くいただかないと料理に悪い」
 その声に、皆は影縫の魔法を解かれた人形のように、ぎくしゃくと自らの料理へと向かったのだった。
 その後の食事は、盛り上がりこそしなかったもののつつがなく終わりを迎えた。
 食事がすんだ頃には、外には満天の星空が広がっていた。




 8




 そう。私は正義の鉄槌者、使徒なんだ。罪深き生贄を天にいる、哀れな犠牲者へと捧げる。




 9




 白峰瑞樹は浴槽に入っていた。このロッジには、ユニットバスがある。自宅では毎日湯を張って入浴する習慣がついているため、ここでも迷うことなく湯を張った。狭めの浴槽に膝を立てる。なんだか筋肉が固くなっている気がした。それらを丁寧にもみほぐす。
 瑞樹は子供の頃身体が弱かった。そのせいで、祖母のまじないに則り、髪の毛を女の子のように腰まで伸ばしていた。その頃の瑞樹を周りは天使のようだと言う。しかし、自分の中では暗黒の六年間だった。家にはその頃の写真を自ら棒で貫いたものもある。そんなに嫌ならば処分してしまえばいいのに、なぜかそうできずにいた。
 五歳の年末は風邪を拗らせて一週間近く寝込んでいた。毎日下がらない高熱と痛む身体、喘鳴、長引く咳に気力も体力も限界だった。そのまま年を越して正月の夜、ついに呼吸ができなくなった。呼吸ができないことにより、冷や汗、顔面蒼白、パニックに陥り、身体はガクガクと震えた。そんな状態の瑞樹を見た母親は救急に連絡をした。救急隊員の若者が二人家に入って来た、「お名前は言えますか?」数秒後にその意味がわかった。しかし、言えなかった。「白峰瑞樹です」そう言おうと「し」の形を作ったところで、激しい咳が邪魔をする。横隔膜と気管支が千切れそうに傷んだ。「今日は何月何日かな?」また、咳に押しつぶされる。ぼんやりとしていたので、相手が何を聞いているのかよくわからなかった。意識レベルがどうのこうのという話があり、指の先に洗濯ばさみのようなものをつけられた。血中の酸素濃度を測る機械だったのだろう。前後して血圧と心拍数を測られ、瑞樹はそのまま担架へと乗せられた。その辺りの記憶はぼんやりとしていてよく覚えていない。ただ。気管が浮腫んで空気が通らないことにパニックを起こしていたことは覚えている。
 次に目を覚ましたのは、病院の処置室だった。高熱も少し引き、口には酸素マスクが当てられていた。呼吸もそんなに苦しくはなく、止めどなく襲ってきていた咳も落ち着いていた。
 少しでも遅れていたら、命を落としていたかもしれない。そう医師に言われ、そんな我が子の命を救ってくれた老医師に対して、両親は深々と頭を下げていた。
 その同時刻、別の場所で失われた命があったのだ――。
 今、まさにこの瞬間、世界のどこかで誰かが死んでいる。それは事故によるものかもしれないし、病気によるものかもしれないし、誰かに殺されたのかもしれない。そんなことを考えても詮無いことである。
 でも――目の前にその遺族がいた。あの日瑞樹が肺炎を拗らせなければ、あのベッドがあいていたならば、死なずに済んだ命がそこにはあったのだ。
 瑞樹は天井を見上げる。右手を伸ばす。中指の内側にはペンだこがあった。勉強したからついたたこだった。あの子は八歳で亡くなったといった。ペンだこもまだできる途中だっただろう。代わりに生き残ってしまってごめんなさいとは思えないけれど。生きる価値があると言えるだけの人生を、今、自身は歩いているのだろうか。そう問わずにはいられなかった。




 10




佐古田正次はロッキングチェアに腰かけ、窓越しに満天の星空を満喫していた。
不思議なことに、このロッジの窓は換気用に二センチ少々しか開かないようになっているらしい。子供の手さえ通らなさそうな隙間だった。
その隙間から細く紫煙がたなびく。佐古田はだいぶ質量を増した灰をトントンと灰皿に落とした。そして、空虚な胸いっぱいに空気を吸い込む。
まさか、早見さんの弟が、薔薇のことを逆恨みして檜山を殺すだなんて思わなかった。そのための電話だったなんて、微塵も疑わなかった。彼が自分の名前を何と名乗ったのかは覚えていない。藤間ではなかった。女性だと思った。どこかの研究室の人か、あるいはマスコミ関係の人なのだと……ちゃんと、電話の相手の名前と所属と連絡先と用件は聞くように。口酸っぱく言われていた意味がようやくわかった。友人を一人失くしてようやくわかるだなんて……。檜山……。
檜山司と早見エメリは共同で新種の薔薇の研究をしていた。早見エメリの事故がなければ、今年の五月には学会で発表できたはずだった。
そして……最愛の兄の命を奪う一因となった人物がこの島にいた。彼女も直接手を下したわけではない。ただ「年齢確認を怠った」「通報を怠った」それだけだ。能動的な何かをしたわけではない。
それでも、事情を聴いたときには、血が沸騰するような思いだった。あなたが、踏むべき手順をきちんと踏んでくれていたら、兄の死のドミノは途中で止まっていたんだ。そう思った。
同じだった。自分が踏むべき手順をきちんと踏んでいれば、檜山の死のドミノは止まっていたかもしれない。檜山の家族や、この島にいる河西に恨まれても仕方のないことなのだろうか。
 気づけば、たばこが根元まで灰になっていた。慌てて、それを灰皿にもみ消し、佐古田は立ち上がった。ベッドは蚊帳でおおわれている。蚊帳に囲まれて寝るなんて、いつぶりだろうか。でも、窓を閉めたまま蒸し風呂状態で寝るのはごめんだ。窓を開けると蚊が入ってくる。蚊に刺されるのもごめんだ。――蚊帳は実に理にかなっているのだ。
 二の腕に泊まろうとした蚊をぺしんと振り払う。佐古田は元来蚊に好かれやすい体質だった。風呂も入ったし、さっさと蚊の来ない聖域、蚊帳の中へと入ってしまおう。ベッドに不思議な模様のタオルケットが一枚乗っていた。それを剥がしてあおむけになる。まくらはベッドに固定されているようだった。シーツも柔らかくてさらさらしているが、やはり不思議な模様をしていた。こんな色彩鮮やかな中で寝たら、奇想天外な夢でも見てしまいそうだ。などと考えながら佐古田は眼鏡を枕元へ置き、瞼を閉じた。




 11




「ぐえ」生贄の口からからこの世のものとは思えないような汚い音が出た。
 使徒はそのまま、生贄の口から容赦なく酸素を奪っていく。空気の通り道のなくなった生贄は、いよいよ全身を使ってバタバタと暴れ始めた。しかし、もう遅い。間の蜘蛛の糸はお前の穢れたその身体を絞殺せんとまさに仕上げに架かっているところなのだから。やがて、その肢体はびくんびくんと波打ったあと、一切の動きをやめた。辺りに異様な臭気が立ち込める。

 これで一人。生贄はあと五人。








第二章 八月四日




 1




 分厚い雲の垂れこめた、湿気の多い朝だった。
「おはようございます」
 誰かがログハウスに来るたびに相藤は丁寧に声を掛けた。
「おはようございます」
 瑞樹がその大広間に足を踏み入れた時、黒石が窓際に向いたソファに足を組んで座っているのが見えた。
「おはようございます」瑞樹は向かいに腰を下ろしながら言った。「お向かいよろしいでしょうか」
 すると黒石は一瞬ぽかんとしたような目を見せた。相変わらずの隈だし、前髪は長いし、無造作に跳ねた髪をしているし、正直積極的にかかわりあいになりたい外見はしていない。
 しかし、この旅を共に過ごすメンバーなのだ。少しでも親睦を深めておくに越したことはない。
「黒石さんですよね」
「うん」黒石は表情を変えずに飄々と肯いた。口元はゆったりと笑っている。よく見れば、少しのっぺりした感じの、なかなかのハンサムな部類なんじゃないかと瑞樹は感じた。
「僕は白峰です」
「白黒だね」
「はい?」
「白峰と黒石」
「あ、ああ、ああ。本当だ」瑞樹は白い歯を見せた。
「早起きだね。蚊にやられたの?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけれど、元々早寝早起きなんです」
「俺と一緒だ」
「早寝早起きなんですか?」
「仕事柄ね」
「黒石さんはお仕事をされているんですか?」
「バイトだよ。本業は大学生」
「大学生なんですね」
「見えないね、ってよく言われるよぉ」
「そんなことはないですけど」
「白峰くんはさ、趣味は? 部活とかは」黒石の手足は細いようでいて、武骨な筋肉質であった。
「僕は剣道を少し。黒石さんは?」
「趣味はバイト。授業以外はバイトしてる。寂しいでしょ。友達もいない」
「あ……」苦学生だったのかと思い至り、瑞樹は無神経だった自身の質問にしゅんとなった。
「最後のは冗談ね。友達くらいは、まあ。でも案外いいもんだよ。工事現場のバイトでは筋力つくし、程よく日焼けするし、夜の仕事なんで焼けないけどね。新聞配達のバイトなんかも、規則正しい生活リズムが身に着く。自転車であちこち行くもんだから、脚力もつくし。悪いことないよ」
 黒石はそう、のんびりとした口調で告げた。そこに嫌味などは一切ない。切れ長のぼんやりした目で窓からどこか遠くを見つめていた。
「深夜の工事現場と新聞配達だと、寝る時間がないんじゃないですか?」
「その分、休講の時間があれば寝てるし。コンパとかしてる連中だってオールくらいはしてるだろ。変わんないって。寧ろこっちの方が健康的な時間の使いかたしているから体にはいいかもしんないよ」
「そう……なんですかねぇ」
 猫のようだ。不思議なオーラが出ている人だと瑞樹は思った。話していると、なんだかぽかぽかした気分になってくる。
「俺は学歴を残して、手に職つけて、まっすぐに生きていければなんでもいいんだ」




 2




 そうしたとき、河西がログハウスに到着した。
振り返れば、橋波がデッキで私物の英字新聞を読んでいる。彼女は、瑞樹よりほんの少し早くログハウスに入ってきたようだった。そのまま大広間へは入らずに奥の縁側へと向かったところまでを確認している。
「お、白峰くん早いね、おはよう。黒石さんもおはようございます」
「おはよう。同じくらいの年齢だし、敬語はいらないと思う」黒石がのんびりと河西に言った。
「そうですね。こんな大きな海の上の島です。小さな大学の上下関係から解き放たれましょう」河西は背伸びをするような仕草を取った。「しかし、珍しい組み合わせだね?」
「そう?」黒石は小首を捻った。
「確かに初めてお話ししました。すごく話しやすい人ですよ」
「言わせてしまったみたいだねぇ、はは」黒石は顎に指を当てて、表情をあまり変えずに小さく笑った。
「君も大学生?」
「そう。農学部の四回生」
「へえ。立派だね」
「ついでに眼鏡のあいつも同じ……って、佐古田の奴遅いなあ」河西が左腕の時計に手をやって背筋を伸ばした。
「いつも朝弱いんですか?」と瑞樹。
「いや……まぁ弱いほうだけど、待ち合わせにはぎりぎりだし。でも――、こんなところまできて時間に遅れるやつではないかなぁ。もう少し待とうか」と、河西はソファにどすんと音を立てて座った。布張りのカバーから埃が舞う。
「でも……僕たち、何のために集められたんでしょうね」瑞樹が俯いた。「各々に恨みを持つ人間を集めて、寝食を共にさせて親睦を深めるだなんて、主旨の読めないイベントです」
「でも、白峰くんは現にここにやってきた」黒石がずばっと言った。
「小夜に会えるなら……そんなことは現実的にないとわかっていても、それでも、会ってみたかったから……」
 三者三様に俯き、各自の指の先を見つめた。黒石はすぐに窓の外へと視線を飛ばした。
「俺もおふくろには会ってみたかったんだろうな。親孝行する前に死んじまったから……」






 そうしたときに内海八重菜が食堂から顔を出した。
「みなさん朝食の準備が整いましたよ」そう言うと、昨日夕食を食べた部屋へ再び引っ込んだ。
「佐古田さん、起こしに行った方がいいんじゃないですか?」瑞樹が河西を伺う。
「そうだな。みんなをこれ以上待たせるわけにもいかないし」




 3




 そうして、内海と橋波と相藤に一言断りを入れて、瑞樹、河西、黒石の三人は佐古田のロッジへ向かった。
 佐古田のロッジは二号室、奥から二番目だ。三号室を通り過ぎ、しばらくくねくねと降り曲がった道を歩いたところで、河西の足が一瞬止まった。そのせいで、後ろから歩いて来ていた瑞樹と黒石が、彼を追い越す形になった。
「どうしました?」突然足を止めた河西の横顔を瑞樹は振り返った。
 河西は首をぶるぶると震わせ、遅れて喉の奥から「あ、ああ、あああ」と震えた声をあげた。
 何かあったのだと、瑞樹と黒石が同時にコテージの中を見遣る。窓は二か所、二センチ以上は開かないようになっている。
 その窓と窓を結んだ中央部分のキングサイズのベッドの上で、佐古田は大の字になって倒れていた。
「うそ、佐古田さん」
 どんどん、と瑞樹は窓硝子を叩いた。
「こっちが早い」と、黒石が玄関のドアノブに近づいてがちゃがちゃと回す。「ごめん、開かなかった」
 瑞樹も同じようにノブを回してみたが、しっかり鍵は掛かったままだった。
「佐古田、どうした? 佐古田」
 薄いカーテン越しの佐古田はぴくりとも動かない。蚊帳の中で、蜘蛛の巣に囚われた蝶のようになっている。
「窓を割るぞ」黒石が、その場で見つけた大きめの石を肩に担いで言った。「少し離れて。破片が飛ぶと危ないから」
 その言葉が呪文だったかのように、河西と瑞樹は一歩二歩とその場から離れた。次の瞬間、とてつもない音を響かせて、窓硝子は大穴を開けた。
 中から何とも言えない臭気が漂ってくる。
 緊張から足が動かない様子の河西よりも早く、黒石が羽織っていたシャツを脱ぎ、手にぐるぐるまきにしたままで、バリバリと、ガラスの破片を割り崩した。そして、ロッジの中へ足を踏み入れた。
 遠目からでもわかる。これだけの騒ぎに目を覚まさない、生きている人間なんていない。佐古田正次は死んでいるのだ。
 佐古田正次の顔は、元の顔がわからないほどに紫色に腫れあがり、首から下は打ち上げられた烏賊のようにだらりと伸びていた。失禁の痕がある。
「早く相藤さんに報せないと」瑞樹が震える身体を鼓舞して、河西に言った。が、河西はその場で刮目して震えたまま動こうとしない。
 黒石が部屋から戻って来た。
「死んでいる。酷い有様だ。近寄らない方がいいかもしれないな」それから身をかがめて硝子をこえようとし、はたと何かに気づいたようで、玄関の方へと向かった。
 かちゃり。音とともに黒石のひょろりとした長身が出てくる。硝子を砕くのに使ったシャツは手にもったままにしていたので、実質黒いTシャツ一枚だった。
「相藤さんのところへ行こう。事件が起こってしまった」心配そうに駆け寄った瑞樹を見据え、黒石は言った。それから、放心する河西に聞こえていないのを確認して、「河西クンには注意しといた方がいいよ」と小声で言った。




 4




 黒石によって、事態は全員に伝わった。橋波は「なんですって!」と柳眉を吊り上げ、内海はがくがくとその場に座り込んでしまった。
テーブルの上では料理がこれでもかと美しく盛り付けられている。
「河西くん、あなたがやった、なんてことはないの?」橋波は口元に笑みを浮かべて、片方の眉を上げた。
 内海八重菜が一歩二歩とその場から離れる。
 河西は一度ギッと橋波の双眸を睨み、ふうっと力を抜いた。
「俺が、例のテープの言ったように、恨みを抱いている佐古田を殺したというのですか? そんなの安直ですよ。それに、檜山からの『島で待ってる』の手紙の意味もわからないじゃないですか」
「でも、彼を殺す動機があるのはあなただけしかいないのよ。それはどう説明するのよ」
「それは……いや、でも、密室状況だったんですよ。僕が仮に犯人だったとしても、どうやって佐古田を殺せるというんですか」
「それを調べるのは警察でしょう。明後日、船が来るまでこの人を縛っておきましょうよ」
「そんな横暴な!」
「はい、はい、はい。そこまでにしましょう」その場を諫めたのは、黒石だった。「三人以上で行動すれば怖くないです。僕たちはもう一度現場に行ってきますので――現場責任者の相藤さんにも確認してもらう必要があるでしょう。女性ふたりと河西さんはこの場に残っていてくださいませんか?」
「いやよ! 殺人犯かもしれない相手と一緒になんて」橋波が難色を示す。
「俺も縛られるのはごめんですよ。殺人犯に遭遇したときに、逃げる手がなくなりますからね」河西もきっぱりと言う。
「でも、凶器を隠し持っている状態で襲い掛かられたら、いくら二対一でも抵抗できないわよ」橋波も引き下がらない。
「だいたい僕には佐古田を恨む動機はあっても、あなた方を恨む動機がないじゃないですか」
「埒が明かないので、別々の部屋にいればいいじゃないですか。食堂に河西さんを閉じ込めて、外で女性お二人は待っているとか、ねぇ」黒石が瑞樹の方に同意を求めてきた。
「え、ええ」突然のことに瑞樹は動揺を示しながらも、同意を加える。
「じゃあ、決まりと言うことで」





 ショックが大きそうな河西と女性陣をこの場に残し、相藤を連れて再び現場に行くことになった。
 佐古田正次は、ベッドの中央で枕に頭を乗せた状態で、大の字で斃れていた。窓は、先ほど黒石が割ったが、割る前は傷一つついていなかったし、換気用に二センチ以上は開かないようになっている。蚊帳は張ったままだった。部屋の鍵は、彼のカバンの中に入っていた。
「これで、どうやって中の佐古田さんを殺すっていうんだろうな」黒石が瑞樹の耳元で囁いた。
 確かに、玄関の鍵は掛かっていたし、窓は完全に閉まっていた。その状態で、中にいる佐古田の首に何かを巻き付けて絞殺するなど、無理な話に思える。
「凶器はどなたか保管していらっしゃるんですか?」
 相藤に尋ねられて、黒石と瑞樹はめいめいに首を左右に振った。
「凶器がないんですか?」黒石が一歩前に出る。
「ないみたいなんですよね。首のところ、うっ血しているので、ここを強く絞められたことだけはわかるんですが」相藤が、紫色の塊の麓を指さした。
 だんだん胸が悪くなってきて、瑞樹は一旦外に出た。
 そこで、驚くべき文字を見た。

『これで一人目。生贄はあと五人』

 おそらく赤いペンキで書かれていた。これは犯人の犯行声明だ。
 小夜に会いに来たと思ったら、佐古田さんが小夜のところへ逝ってしまった。
 そう考えた瞬間、おそろしい想像が地面から足の裏を伝って髪を逆なでた。



白峰 瑞樹 様
 一九九*年 八月三日
北陸I県の沖、浦見島にて待っています。
龍川 小夜



これは……瑞樹をあの世へと連れて行くという予告だったのではないか。
再び硝子越しの佐古田を見遣る。それから、ガラスのトンネルをくぐって彼の私物の旅行鞄を漁った。外ポケットにそれはあった。


佐古田 政次 様
 一九九*年 八月三日
北陸I県の沖、浦見島にて待っています。
佐古田 正一




 5




 三人は連れたってログハウスまでの道のりを戻る。
 どうやって佐古田の首を絞めたのだろう。瑞樹の頭はそのことでいっぱいだった。部屋の窓は閉まっていた。鍵は開いていたので、それぞれ二センチまでなら開くが、二センチの窓から腕を伸ばして部屋の中央にいる佐古田を殺せるなんて思えない。
 佐古田は部屋の中央の派手なベッドの上で大の字になってこと切れていた。粗相の痕があったので、ほぼ間違いがないだろう。玄関は、黒石が閉まっているといったあと、瑞樹も確かめたが確かに閉まっていた。
 それから窓硝子を壊すということで、岩を投げ込んだ――。
 完璧な密室に見える。
 こんなとき、彼ならどう思考を飛躍させるのだろう。
 あの、冷泉誠人なら。






「鍵はカバンの中にありましたもんねぇ」黒石が顎を掻きながら暢気な声を上げた。
「鍵ですか」と相藤。
「いえね、窓と窓の隙間に糸を張って、鍵を部屋の中に戻すというトリック、ミステリ小説なんかであるじゃないですか。あれができないかなと思って」
「なるほど」
「でも、カバンの中、それもファスナーの中でしたから」黒石はズボンのポケットに両手を入れた。「ファスナーに鍵をひっかけてそれで糸を引くって手も使えませんしね。やっぱり、鍵を一度閉めてから中へ戻したって説は微妙かな」
「頭いいんですね」瑞樹は素直に感心して言った。考えて言った、というより、心の中の声が唇から零れ出たに近いかもしれない。
「そうでもないよ。俺より頭のいい奴なんかごまんといる」
「いえ、いいです」瑞樹は目を輝かせた。「僕の友人に冷泉誠人って友人がいるんですけれど、彼の幻影を見ました」
「幻影? どんな子なんですか」と相藤。
「だったら、その子も相当の変人だ」と、黒石が楽しそうに笑った。
「いえ、見た目は全然違うんですけれどね、彼、去年僕の故郷の『四神村』で起きた連続殺人と、今年の五月に起きた……あの話題に上っていた『雪女島』の連続殺人を解決したんですよ。公表はされていませんけれど」
「へえ、すごい友達を持っているねえ」と黒石が目を丸くした。「でも、だったら俺とは似ても似つかないんじゃないかな」
「いえ、さっきの黒石さんの密室への向き合い方は、冷泉の姿とだぶってみえたもので……なんか、非科学的なことをごめんなさい。幻影だなんて」瑞樹は途端に恥ずかしくなって、耳を赤く染めた。
「いいよ別に。現に密室だなんて、よくわかんない現象がおきているんだから。幻影くらいでびびったりしないさ」黒石は軽く笑い飛ばした。




 6




 瑞樹達がログハウスに戻ってくるなり、残りの三人ははっと立ち上がって、助けを請うような目で三人を見つめた。
先頭を歩いていた相藤が残念そうに首を振る。「駄目でした」
「駄目って……」橋波が眉を寄せる。
「佐古田さんは亡くなっていましたし、完全に密室でした」相藤は靴のつま先を凝視して言った。
「自殺ってこと?」
「いえ、凶器もありませんでしたからそれもありえません」
「え……じゃあ、やっぱりこの島に殺人鬼がいるということでしょう」橋波がきつい声を上げた。
 そうしている横で、瑞樹と黒石で河西のバリケードを解いた。中から疲れ切った様子の河西が顔を出す。
 相藤は依然靴のつま先を見つめたまま、口を固く閉ざした。そんな彼を橋波が激しく問い詰める。
「警察を呼びましょうよ、警察を! 電話機はどこ?」
「こちらでございます」相藤は、廊下の奥へと足を急がせた。




 7




相藤によって案内されたログハウスの電話機は、受話器を持ち上げても開通を示す音を一向に発しなかった。
「どういうことなの」橋波ががちゃがちゃと何度か適当にダイヤルを回していると、
「モジュラージャックが切られている」電話機の裏で、黒石がそう小さく呟いた。
「は?」
「連絡の取りようがないってことさ」黒石はゆっくりと立ち上がると、膝の埃をパンパンとたたいた。
「あんた、なんで動じていないの」橋波が口の端をひくりとさせる。
「慌てても事態は変わらないだろう」
「そうです。慌てると犯人の思うつぼです」相藤が肯いた。「ますは、私たちは食事をして、少し気分を落ち着かせましょう」
「食事なんてできるわけがないでしょう。食事があったあの食堂には容疑者の河西さんを閉じ込めていたのよ。毒が仕込んでいないとも限らないわ」
「待ってください」河西が胸の前に両手を差し出した。「やってはいないですけれど、僕に佐古田殺害の動機があるのは認めます。だけど……さっきも言ったように、僕にはそれ以外の四人を殺す動機はありません。なぜ僕が殺人鬼扱いなんでしょうか」
「最もな話だねえ」黒石が肯いて、橋波へと流し目を向けた。「モジュラージャックの切断――警察を遠ざけた理由があるとすれば、これからも殺人を続けるためだろう。でも、河西くんにはそれだけの動機がない」
「連続殺人で思い出しましたが……」瑞樹が眉根に皺を寄せて言った。「ロッジの脇に赤いペンキでの文字を見ました。『これで一人目。生贄はあと五人』と」
「何よそれ!」橋波が高い声を上げる。「まだ続くってこと?」
「じゃないといいですが」瑞樹は低くため息をついた。
「いずれにしても、食べねば体力は落ちてしまいます」と相藤。
「食べ物があるということは有難いことですよぉ」黒石も低く呟く。
「食事を摂りましょう」相藤の声を皮切りに、全員が不承不承と食堂へと入った。




 8




 朝食の席は、実に沈痛な空気に支配されていた。内海八重菜などは青い顔で、口元を抑え、震えが止まらない様子である。
 相藤と、意外なことに黒石は洗練された動作で綺麗に料理を平らげていたが、それ以外はどうも食が進まないようであった。
「毒でも入っていたら怖いじゃない」橋波は一切ものを口に入れようとしない。
「このままだと、犯人に殺される前に、餓死してしまうよ」黒石はスクランブルドエッグを咀嚼しながら暢気に言った。
「このままって……いつまで私たちはこうしてここにいないといけないわけ?」
「次の定期便の日までだから……八月六日ですね。明後日です」
「明後日……」橋波はテーブルに肘をつき、顔を覆った。「明後日までなら、飲まず食わずでもなんとかならないかしら……」
「あの」内海八重菜が、震える声で手を挙げた。「席順を毎回クジにしてしまえばいいんじゃないでしょうか。そうすれば、犯人だってうかつに毒を入れたりはできないと思います」
「それよ! 内海ちゃん、それだわ」橋波が酔っ払った時のような低い声で肯定した。「次から席順は籤引きね。決まり。そして……どなたか私にバターロールを一つ譲ってくれないかしら? ここまで平気だったら、毒が仕込まれている箇所なんて限られているわ。その、あと毒が仕込まれているとしたら私の食事くらいしかないでしょう?」橋波が少し恥ずかしそうに頬を染めるのに、内海八重菜がうんうんと人のよさそうな笑みで答えた。
「私のパン、何ともなかったですから一つ差し上げますよ。もともと全部は食べきれなかったですから」




 9




 朝食とその片付けが済んだのはもう十一時に近かった。
「相藤さん」橋波佐和子である。「このロッジには雨戸のようなものはないの?」
「雨戸、ですか?」
「ほら、この地方だったら台風なんかもくるでしょう? そういうときの」
「ああ、でしたら心配ありませんよ。計算された球体をしているから台風には強いんですよ」
 相藤は人のよさそうな笑みで答えた。
 しかし、橋波は不服そうに唇を尖らせた。
「誰が台風の心配をしているというのよ。雨戸があれば、犯人から襲われるリスクを軽減できるかなと思って聞いているのよ」
「ああ、なるほど」相藤は、その佐和子の口調にも動じずに事務的に返した。「そうですね。窓を閉めて、施錠して寝るしかないでしょうね。当ロッジには空調設備がないですから、この真夏に締め切って寝るのは暑いかもしれませんが」
「死ぬよりはましよね」




 10




 相藤を残した男たち三人は、再び密室の謎に挑もうと、佐古田の殺された二号室へと赴いた。
 部屋の中央には身体に毛布をかけられた佐古田が仰臥している。
「さっぱりわからん……」河西が天を仰いだ。「なんで、密室のど真ん中で、佐古田が首を絞められて死んでいるんだ? 凶器はどこへいった? どうやって入室して退室した?」
「少なくとも玄関から出たんじゃないことは確かだねぇ」黒石が玄関の鍵を開けたりとめたりしながら言った。「これはシリンダー錠だ。テープの仕掛けや、氷の仕掛けは使えない。糸と針の仕掛けもね」
 頭を抱えそうな河西に反して、黒石は難題に目を輝かせる学者のようだった。彼ならもしかして……そう思わせるような雰囲気があった。
「鍵を紐につけてすーっと中に入れるって方法は却下だな」黒石は何度か試していたようだが、チャックつきのかばんのポケットの中にうまく入れ込むことはできなかった。
「入るときはもしかしたら、玄関から普通に入ったかもしれないな」河西が言った。「佐古田も警戒しないだろう。『あの死者からの手紙について相談があるんだ』とか言ったらあいつはほいほい開けてくれるさ。何せ電話番させても、相手の名前もわからないうちから要件に応えちまう男だからな」河西の言葉には棘があった。
 そんな河西の演説を、黒石はクローゼットにしゃがんだまま首だけフロアの方を向けて聞いていた。
「じゃあ、河西くんの推理どおり、犯人を佐古田くんは招き入れたとしよう。その後、隙を見て、首を絞めた。佐古田くんはベッドに倒れて動かなくなった。そして?」
「そして……」河西が口の中で呟く。
「そもそも、佐古田くんは仰向けに倒れていた。ふつう、背後から首を絞められたのだとしたら、死体はうつ伏せに転がっているはずだよね」
「それもそうだ……」
「なぜ仰向けに寝転んでいたんだろう。ふつうだったらそのままぽいっとベットの上に転がすよね。それを仰向けにしたりはしないし、粗相の痕ともあっている。仰向けになったまま馬乗りになって首を絞められたのか?」
「確かに」河西が顎に指を当てた。
 瑞樹は壁にもたれかかったまま、そんな二人の様子をじっと観察していた。
「でもその場合」黒石が遺体の指を指さす。「防御創? っていうのかな。それが爪にないもんだなと思って。目の前で首を絞られていたらさぁ、どうにか相手に殴りかかったり、爪で引っ掻いたりするもんじゃないかな」
「じゃあ、この爪の中には犯人のDNAが入っていると?」河西がまじまじと佐古田の短く切りそろえられた指先を見た。
「どうだろうねえ」黒石は、首筋をぽりぽりと掻いた。「でも少なくとも、今日顔を怪我している人物はいなかったよねぇ」
「確かに……どうなってんだ」
「謎だらけだねぇ……」




 11




 二日目の夕食も終わり、皆は大広間で思い思いに時を過ごしていた。
「殺人鬼が島のどこかに潜んでいるというのなら、ログハウスにみんなで立てこもっていた方がいいんじゃないですか?」河西が提案した。
「私嫌よ。この中に殺人鬼がいるかもしれないじゃない」橋波が毅然と言った。
「私も……男の人相手だと勝てないですし、自分の部屋の方が安心です」内海も言葉を選びながらそう答えた。
「佐古田さんは一人で部屋にいるときに殺されましたよ」黒石がぼそりと言った。
「でも、あの時はまさかあんなことが起こるなんて思わないから、用心していなかったじゃないですか」内海は少しむきになったように言い返した。
「この中に殺人鬼がいる場合にも、固まっていた方が犯人を牽制できますよ」河西が続けた。
「なんか、あんたが言うとどれも罠臭く感じてしまうのよね」橋波が臆面もなく言った。
これにはさすがの河西もむっとしたようで、「そんなこと言うなら橋波さんだけ好きにしたらいいですよ」と売り言葉に買い言葉で言ってしまった。
 それを受けて、橋波は余裕を顔面に貼り付けた笑みを浮かべて、ゆうらりとその場に立ち上がった。
「最初からそうするっつってんだろ!」
 そして、つんと顎を前に向けて、すたすたと歩いて行ってしまった。彼女がログハウスのドアを開けたことで判明したのだが、外はかなり風が強くなっているようだった。雨が降り始めるのも時間の問題だろう。
「俺たちだけでも籠城しますか?」瑞樹が窺った。
「完全籠城は崩れたな」と黒石。
「すみません……つい……」河西がしまったと額に手を当てて俯いた。
「いや、腹が立ったんなら、言っていいと思うよ? 感情をため込むのは日本人の悪い癖」
「僕もそう思います」
「瑞樹くん、僕だったり俺だったり安定しないね」と黒石が口元を緩めた。
「いやぁ……身内だと俺なんですけどね、年上相手だと僕になっちゃうんです」
「真面目だね」
 瑞樹はこの黒石という人間のことがいつの間にか苦手じゃなくなっていた。
「でも……男性ばかりの中にいるのも気になります、私。やっぱりロッジに戻りますね」内海八重菜がもじもじしながら立ち上がる。茶色のジャンパースカートとそろいのポシェットが良く似合っている。
「じゃあ、送ってくよ。全員で、だったら怖くねぇだろ」黒石が提案した。
 それに、河西も瑞樹も続く。
 相藤はもうログハウス内の自室に戻ってしまったようだった。
「いいんですか? ありがとうございます」内海八重菜はぺこりと頭を避けた。「でも、この中だと、私が一番安全なんですよね」
 黒石が重そうにログハウスの扉を開ける。外は風がごうごうと哭いていた。
「恨まれている相手がいないから?」河西の質問に、内海は肯いた。
「まぁ……起きて欲しくはないが、“次”が起きねぇとなんとも言えねぇな」黒石が口を曲げた。「それにその理屈で言やあ、俺を狙うのは内海さんになっちゃうんだなあ」
「やめてください」
「言い出したのはそっちだよ」
 そうしたときに、内海のポシェットと黒石のズボンのポケットがぶつかって鍵が落ちた。慌てて内海が拾い上げる。
「すみません」
「いや、ありがとう」
「同じ持論だと、俺は白峰くんに殺されることになるし、あまり気にしなくていいんじゃないかな」河西がのんびりとまとめた。
 瑞樹ももちろんそんなつもりはなかった。




 12




「計算された球体をしているから台風には強いんですよ」相藤の言葉が蘇る。こんな脆弱そうな建物のどこにそんな強さが備わっているというのだろうか。
 橋波は窓とカーテンを閉めて蚊帳の中に入った。窓が開いていないのでは、蚊帳に入る意味もないかもしれないが、取り外しができないので仕方がない。また、窓が開けられないことで、かなり不快な熱気と湿度と戦うことになった。
 佐古田正次が殺された――。犯人として怪しいのはやはり、彼への動機を持っていた河西瑛介だろうか。橋波は何かに突き動かされるように部屋の鍵を確認した。
 それから、再び蚊帳の中へ入る。
 勇太の仇の青年が目の前に現れた。



橋波 佐和子 様
 一九九*年 八月三日
北陸I県の沖、浦見島にて待っています。
橋波 勇太
 


これは、殺してほしいということなの? 勇太。仇を取ってほしいと……。
勇太の敵と言えば、……佐和子も黒石裕子という女の死に関係しているということになっていた。黒石徹也は何も話したくないと言ったが……そんな女、佐和子は知らない。小さいころから橋波建設の長女として家を守って来た。人を殺す殺さないだなんて、下賤な部分になど、触れたこともない。――。ないか?
そういえば……。
「佐和子、勇太のことは残念だったな。新しい弟が欲しいか?」
「いや、いらない。勇太以外アタシの弟じゃないわ」
「血が繋がっていても?」
「いらない! 勇太以外アタシの弟じゃない!」
「わかった。君の意思も尊重しよう」
 こういう会話が、父親との間に会った気がする。
 あの時言っていた、佐和子の弟とはいったい何だったのだろうか。
 そう思っているときに、とんとんとんとノックが鳴った。
 びくりと顔が強張る。
「はあい……」声が予想以上に掠れた。
 ドアを開けた先には、よく知る人が立っていた。
「傘もささずに」どうしたの、とタオルを取りに部屋の中へと入ろうとした瞬間、前頭部にいたみが走った。




 13




 ズルズルズルズル……雨の中、意識のない生贄を運ぶのはなかなかに骨が折れる。
 花時計は、時刻は二十三時四十分を指していた。まずは生贄のまとっていた衣服を脱がせて、花時計の長針に背骨を、短針に下半身をむずびつける。これで、生贄の身体は逆Lの字型のエビぞりになった。
 喉は潰しておいた。奴の懺悔が聴けないのは寂しい気もするが大騒ぎされて、一命を取り留められでもしたら大事だからしようがない。
 そして、とんとんと生贄の肩を揺すった。生贄は数度の瞬きの後、目を覚ました。そして、自らの置かれている状況に無音の絶叫をとどろかせる。
 生贄も自らの置かれている状況を、把握したようだった。今約九十度のエビぞりになっている彼女は、あと十五分すればぽっきりと折りたたまれる。そして五分十分と進むごとに、身体は、あらぬ方向に捻じれ始める。それが何度も繰り返されたらどうなるかは明白だった。
 生贄の身体がぎくぎくと嫌な音を立て始める。生贄の口は、洞穴のようにぽっかりと開いたまま、目には台風の雫とも涙とも取れない水的が無数についていた。あと十分。そこで彼女の身体は真っ二つになる。ギギギギと針の音に混じって生贄の頸椎の悲鳴が聞こえてくるようだった。
 オオオ、オオオと風が啼く声が、生贄の心の悲鳴のように感じられた。
 あと五分。もう生贄はびくりびくりと痙攣を繰り返し、口からは泡を吹いていた。意識もないだろう。そして――カチン。
 ――十二時。

 これで二人。生贄はあと四人。




 14




 びゅうびゅうと風の鳴く音が響く。
 黒石徹也は寝るために黒い上下の長袖を着て、小説を読んでいた。
 真夏でもその習慣は変わらない。黒石は肌を晒すのがあまり好きではなかった。長めの袖に裾、それを持て余しながら、備え付けのソファに埋まって小さく身体を抱え込む。
 眠れない夜だった。
 元々低気圧の日は頭が鈍く痛む。それから解放されるためには寝てしまうのが一番だったが、それ以上にアドレナリンの方が勝っていた。
 人が一人殺された。それも密室下で。
 黒石自身、この目ではっきり見たし、ドアの鍵が掛かっていたことも確かめた。あんな状況で人は死ねない。なのに死んだ。どうやって……。
 そして、そのことを考えると、この島が恨みに塗れた島だということがセットのようにして思い出された。
 元から黒石は歩くのが早かった。そして、あの日はレポートの提出のために大学方面に歩いていた。レポートに不備はないだろうかと、背負ったディパックを斜め掛けにして中身を見た瞬間だった。ちょうど、曲がり角を曲がったそのとき、猛スピードで坂を降りてきた自転車と激しく衝突した。黒石は咄嗟に左に避けたので、道路側に叩きだされる形になった。そして、相手の自転車は黒石とは逆側の石壁側に避けたようで、激しく転倒し、身体を石壁にぶつけたようだった。
 黒石が激しい痛みから覚めたら、そこには横倒しになった自転車と、その奥に蹲る男の姿が見えた。
「大丈夫ですか」
 慌てているようには見えないと言われる顔であわてて駆け寄った。一瞬、自転車の男が声を発さなかったから、救急車を呼ぼうと、慌てて近くの電話ボックスに走り出そうとした。
 すると、「大丈夫です」背中から声が返って来た。
 黒石は覆いかぶさっていた白いフレームの自転車をどかして、相手に駆け寄った。
「大丈夫です。少しびっくりしてしまっただけで、怪我の方はなんとも」
 相手は、ニコニコとした顔で上体を起こして見せた。よく見ると、少しおめかしをしているようだ。
「でも、頭を打っているかもしれないし、骨だってどうかなっているかもしれません。病院へは行った方がいいんじゃないですかねえ」
 黒石は、相手の自転車を立てながら、眼下の空元気な男に向かって低く言う。
「いや」男は左腕の腕時計を見た。「大丈夫です」それから立ち上がり、少しよれた自転車をからからと押した。「警察には届けた方がいいでしょうね。僕の前方不注意です」
「んー、そこまでのものでもないんじゃないかなあ。僕だったら少し転んだだけなので平気ですよ」黒石は地面に散らばった荷物を纏めて、ディパックに突っ込んで背中に背負った。それに、レポート提出期限は午後五時までだ。それを過ぎるわけにはいかない。
「肘から血が出ていますよ」
「このくらい舐めたら治ります。あなたが避けてくれたおかげでこっちは本当にその場で転んだだけですからねえ」黒石はパンパンとシャツの裾についた汚れを落とした。「それより僕は、貴方の頭の傷の方が心配ですよ。病院行きましょう。本当だったら動かすのもよくないんですよ。救急車、呼びましょう」
「救急車なんてやめてください」
「頭舐めてると、酷いことになりますよ」
「本当に大丈夫ですから」相手は懇願するように言った。「お願いします。このまま見過ごしてください。警察への出頭が必要になったら、そのときはきちんと応じますから」そう言って、背中のディパッグから紙きれを一枚出すと、さらさらと連絡先を書いて寄越してきた。
「これをあなたに差し上げます。何かあれば連絡をください」そして、同じように白紙の紙片を一枚黒石に渡してきた。同じようにしろということだろう。黒石は、同じように名前と電話番号、住所と大学を書いて相手に渡した。
「ありがとうございます。前方不注意本当に申し訳ありませんでした。お詫びは後日必ず」
 そう言って、相手の男――メモによると花山武という社会人らしい――は、壊れた自転車を手押しして、走って駅の方へ向かっていった。
 新聞を取っていない黒石は、その翌日に花山が脳出血でなくなっていることを知らなかった。ただ、互いに連絡を取ることもなく、その紙きれは机の肥しとなっていつまでも、奥にしまわれているだけだった。
 まさか――その婚約者、内海八重菜とこんなところで会うなんて。しかもこれは偶然ではない。仕組まれた必然である。
同じように橋波佐和子との邂逅だってそうだ。
 黒石は私生児である。その、認知をしてくれなかった父親こそ、橋波佐和子の実父、橋波恭太郎であった。黒石はまだ小さいころ、母に連れられ橋波の家へ行ったことがあるが、とにかく城のように広かったことと、どこかの寺にある怖い像のようなおじさんがいたことくらいしか覚えていない。もちろん、佐和子たち恭太郎の嫡子にもあっていない。
 彼の長男、橋波勇太が十四年前――黒石が七歳、勇太が八歳の時、急性虫垂炎に罹って命を落としたらしい。母はそのことを、今日の天気は曇りらしい、というような話題と同じニュアンスで黒石に伝えてきた。その時の母の顔は、向こう側にあったため見られなかったが、とても不穏なものを感じたことはよく覚えている。
 その後、桜が咲き始めた頃、四畳半の家に黒塗りの車が二台連なって来た。
 母は「部屋にいなさいね」と黒石に告げて一人で外へ出て行った。
 それから、十分だかニ十分だか、黒石が何度目か玄関の硝子窓につま先立ちをした頃、黒い車は連なって帰って行った。
「聴いちゃいけませんよ」とは言われていなかったが、黒石の聴覚は、その間聞こえてくる一切の音を情報としては遮断していた。だから、母と黒服が何を話していたかはわからない。
 それから十一年間、母とつつましいが幸せな時間を過ごした。しかし、幸せには終わりがやってくる。――必ず。
 黒石は高校三年生になっていた。受験を控えて遅くまで勉強をしてきて、返ってくる頃にはうっすらと電気がついていて、温かい美味しそうな匂いに包まれている。
 その日もそのはずだった。
 しかし、その日窓は冷たく暗いままだった。
「ただいま……母さん?」
 合鍵で玄関を開けて、台所の電気をつける。その瞬間、これまで感じたことのない、感覚が身体中を襲った。毛穴と言う毛穴から、氷の針を刺されているような……これが怖気が走るというものだろうか。
 母は、台所の水場の前で横向きに倒れていた。身体は完全に弛緩し、口からは泡と唾液、舌が出ていた。目は両方とも上向きに固定され、動く気配がなかった。激しく暴れたのだろうか、いつもはいているスリッパは部屋の端と端に散らばっていた。
 これはただごとでないと、慌てて黒石は大家の部屋に向かい、電話を借りた。
 母はくも膜下出血だった。
 覚えているのは、その言葉と、白い骨壺の重みだけ。
 黒石は一人になった。




 15

 


 河西瑛介は夢を見ていた。
 二段ベッドの上に横になっている。下の段からは、檜山司の微かな規則正しい寝息が聞こえてきていた。檜山司とは、同じ学部学科の友人のことだ。
 農学部の植物化学科は毎年必修で研究合宿がある。研修施設に泊まり込んで、様々な演習を行うのだ。河西瑛介と檜山司はF大学の山岳部に所属しており、昨日からH岳に登るはずだったのだが、今回の研修と重なったため、おあずけとなっていた。
 ベッドが氷のように冷たい。先ほどから、異様なほど冷気が肌を撫でる。河西は必至で毛布と布団を手繰り寄せた。頬に当たる風など、冷たいを通り越して痛いにかわってきている。これはただの隙間風じゃなくて、吹雪だ、違いない。このままじゃみんな凍える、凍えてしまう、声を出さなきゃと思うが声が出ない。身体も動かなくなっていた。凍死するときは眠くなるという。だんだん眠くなってきた。眠ってはならない、眠っては……。
 はっと目を開けた瞬間目の前に、水色のスケルトンの姿をした恋人のエメリが寝ていた。そう、二段ベッドの上の段に横になっている河西の顔の前にその顔が向き合っていて、その下の身体が浮遊しているのだから腹ばいに「寝ている」というのが正しい表現である。
「どうしたの?」
 河西はいつものように優しく声を掛けた。
 彼女は首を横に振った。
「会いにきてくれたの?」
 エメリは曖昧に肯いた。
 水色の半透明の中はどうなっているのかわからない。
 と、その水色のゼリーのような、靄のような物体の右目から物質が零れ、ぽたりと河西の左肩に落ちた。
「エメリ……」
 水色のエメリは両手で頬を覆った。
「泣いているの?」
 エメリの黒目はなかった。よくある彫刻の人物像のように、黒目の部分は描かれていない。だが、その時不思議と、彼女と目が合った気がした。
「大丈夫だよ、エメリ、傍にいるから」
 河西は彼女の頭を撫でようとした。しかし、エメリは身をよじって拒んだ。
「だめなの」
 エメリの唇がそう刻んだように感じた。
「エメリ?」
「サヨナラ。ありがとう」
 声の代わりに、エメリの物体がもう一粒零れた。
 そして、彼女はすっと消えていった。
「エメリ、エメリ」
 その後何度読んでも彼女は戻ってこなかった。それから。河西は両手で両目を抑えて溢れ出そうになる不安の感情を閉じ込めようとした。気が狂いそうだった。
 そうこうするうちに遠くから「……さい、河西」と、自身の名を呼ぶ声が聞こえてきた。もうその時、河西は両目を覆ってはいなかった。目の前に、視線を険しくした檜山司が立っていた。
「どうしたんだよ、エメリエメリって」
「エメリ?」
「お前、ずっと早見さんの名前呼んでいたんだよ」
「あ」視線を外すと、もう一脚ある二段ベッドの上下段から研究室のメンバーが苦い顔を出していた。佐古田もいる。
「みんな起きちまったよ」檜山は怒ってはいない。ただ、首を傾げている。「うなされたのか?」
「ああ……いや」と、河西は自らの左肩に手を置いた。瞬間ぞくりと背筋に氷が通った。「水が!」
「なに?」檜山が柳眉を歪める。
「肩に水が……」河西は色の変わった寝間着を檜山に示して見せた。
「濡れているな。雨漏りか?」
「違う……エメリは本当にいたんだ」
「河西、おまえ本当に大丈夫か?」
「いたんだ……これは、エメリの涙なんだ……エメリ……どうしたんだよエメリ……」
 佐古田ともう一人が、これは熱でも出たかとこっそり校医を呼びに走った。
 檜山は呆然とした河西の横顔をじっと見つめていた。
 すると、校医の代わりに、血相を変えた佐古田が返って来た。
「たいへんだ! 滑落事故だって! 俺らン大学の山岳部!」
 そこから先は地獄だった。






 エメリと檜山は合同で青い薔薇の研究を進めていた。当時大学三年。このままいけば卒業研究として四年の春頃には学会に発表できるものだった。そのことは、同じゼミのメンバーであれば皆知っていた。
 河西は知らなかった。滑落事故のあと、ゼミ室に発信元不明の電話があって、青い薔薇の研究の進捗について尋ねられたらしい。詳しくは電話を受けた佐古田しかしらない。彼ですらも、もう数日もすれば忘れるような些事だっただろう。
 しかし、その電話の発信元は、あの『雪女島』で起きた連続殺人事件の犯人からのものだった。佐古田が電話を取らなければ、佐古田が進捗について正直に話さなければ、もしかしたら檜山司は死なずに済んだかもしれない。
 そもそも、それを言うのならば、犯人である藤間の一番近くにいた自分がもっと彼の心の悲鳴に気づくべきだったのだ。あの事件を起こさせたのは、自身の未熟さ、配慮の至らなさのせいだ。そのせいで……何人もの人間が死んだ……。
 



16




「があ」生贄の喉の奥から空気がつぶれた音が漏れ出た。
 使徒の目が、らんと輝き、笑むのに併せて、両頬の肉が持ち上がった。息が上がる。自らの吐息が生暖かい。使徒の薄いゴム手袋をしたその両手の中には、ロープが握られていた。その先を辿ってみると、生贄の首に繋がっている。後ろ手に縛った生贄をロープで天井の梁に吊り下げた上で、首吊ごっこをしているのだ。
「お前は楽には死なさんよ」
 使徒は面の奥でヒヒヒと高く喉を鳴らした。
 と、おもむろにサバイバルナイフを取り出し、右の太ももに突き立てた。生贄の「ぐっ」と噛み殺した声と、激痛を堪えている濃い吐息がその場の温度を二度あげた。刃の刺さった先からは、じわりと赤黒い液体が盛り上がっては流れ、膝、脛、つま先と通って床を濡らした。
「おめでとう。今の一滴が、初めてこの床に落ちた君の血だよ。メモリアルなブラッドさ! これから、嫌と言う程ここに血反吐を垂れ流してもらうけどね」
 ぐさりと右の拳を押し付けるように、次のナイフが生贄の左足の肉にめり込む。「赤下げてー、白上げてー、赤下げてー」と、使徒は右太もも、左太もも両方のサバイバルナイフを躊躇なく抜いた。
「あぐっ」頭上で生贄の悲痛な嗚咽が漏れる。
 冷や汗の滲んだ、光の当たらないその顔を、下からにぃっと見上げて満足そうに使徒は生贄の背後に回った。「赤下げて、白下げて」腰骨のあばらに弾かれないように、歌いながら使徒はナイフと抜き差し繰り返した。
 それらを生贄は黙ったまま、死んだような目で眺めていた。
 使徒はナイフを生贄の背中に刺したまま、足元の筒に手を掛けた。ぴりぴりぴりとファスナーが開き、中から光り輝く棒が出てくる。金属バットだった。
「さーバッター使徒! ノーアウトランナーなし! 一球目ぇえええピッチャーふりかぶって、投げたあああああ」ドッという音と血潮がその場に飛び散る。「二球目投げたあああああ」ドッ、「第三球目ええええ」ドッ、――ドッドッドッ。使徒は生贄に向かって何度も何度もバットを振り続けた。
 生贄の吊り下がった同心円状には、半径二メートルにわたって大小の血糊がへばり付いていた。
 びゅうびゅうと、今では風の鳴き声のような音が、忙しなく響き渡っている。
 生贄の顔は、真っ青で、髪の毛も冷や汗と血液で頬にへばりついていた。目は伏せられ、薄く開いた唇からヒュウヒュウと枯れた音が小刻みに出る。時折、びくりと脱皮でもするかのように身体を震わせて足元に吐血した。
 使徒と何度も目が合う。生贄はただ静かに、やや下にある使徒の両目を眺めるだけだ。そこに、恐怖、不安、反感などの感情は一切感じられない。そのことが、使徒をますますいらだたせた。
 使徒は生贄のぐるぐる巻きにされた胸と腹の間のロープを縦にナイフで裂いた。その下にあった生贄のシャツも一緒に破れたとみえ、赤い血筋がすっとついた。
「今から開腹手術をしまーす」
 使徒は、生贄の目をじっと見据えて低くそう言った。
 生贄は、その死んだ魚のような目を一瞬大きくしたが、すぐにいつもの気だるげな目に戻って、それから静かに目を閉じた。
「抵抗しないのか?」使徒が問う。「今ならまだ助かるぞ」
「助ける気が……ない奴に……頼んでも……無駄だ……」生贄は普段にはない、静かな声で返した。
「ならば、一生無理だ。開腹手術をしまぁす」
 使徒は、高らかに宣言すると、下生えの覗く生贄の腹に、サバイバルナイフの先端をあてた。そして、一気に先端から数センチを差し込んで右に引いた。腹膜の裂けるさーっという小気味のいい微かな音、滴る血液、骨につきあたる。それをぞんざいに刃先で破り、べろりと開帳してみた。時折電撃でも走ったかのように、びくん、びくんと生贄の身体が揺れる。その度に、ごぽり、ばしゃりと吐血が落ち、患部からの出血に混じって地面を汚した。
 生贄の顔を仰いでみた。
 生贄の顔は、もはや青白いを通り越して灰色になってきている。目の焦点も合わず、時折こくんと首を垂らして意識を飛ばすようになった。
 それでも生贄は人を食ったような表情を曲げない。
「痛くないのか! 命乞いしろよ! 泣き叫んでみろよ!」
 使徒の鋭い声が半球状の檻の中で反響する。
「許してください、自分が悪かったですって言ってみろよ! なあ!」
 それでも、生贄は飄々と、しかしどこか寂しそうな顔を崩さなかった。
 そんな折、生贄の唇が幽かに動いた。オオエ? 何を言っているのだこいつはと、使徒はその血だらけの口元に耳を近づけた。生贄は浅い呼吸の合間に、大きく息を吸って掠れた声で言った。
「コ・ロ・セ」
 使徒はおどろいて生贄の顔を見た。生贄はうんと一つ肯いた。そして、すっと溶けるように目を閉じた。
「うわああああああ」
 使徒は半狂乱で、生贄の身体を鉈で滅多切りにしていた。鉈がその身体に当たるたびに、サンドバッグのようにぐらぐらと揺れる。それから、ありったけのナイフを背中と腹に刺してはりねずみのような状態にしてみた。
 生贄は、ぴくぴくと小さく痙攣しながら、それでも口をうっすらと開けて笑っているように見えた。
 最後に……使徒は日本刀を手に、生贄に近づいた。これで終いである。
「しねぇぇぇぇぇえええええええ」
 ぶしゅり、何度か臓器や骨に阻まれたようだったが、突き立てた日本刀の先端が生贄のへその上からにょきりと顔を出した。
 生贄自身、生えてきた異物を把握できていたかはわからない。生贄はただ穏やかに目を閉じてミノムシのように地球の重力を楽しんでいるようだった。
 やがて、使徒は、後ろ手に縛り付けていた縄を切って生贄の大きな身体を、血反吐塗れの床へと落とした。生贄は血しぶきと古い砂ぼこりをまき散らしてばたんと地面に落下した。腹部からは色とりどりの内臓が飛び出している。
 使徒は生贄の身体を蹴って、仰向けに寝かせた。後ろ手と両足を縛ったままであるが、その制限がなくてももう逃げ出すことなどできないことが窺えた。
 使徒はまず、生贄の喉元に日本刀の切っ先をあてた。数センチずぶりと埋め込み、それから、ズバッと勢いよく刀身を下へ引いた。血しぶきが放物線を描く。生贄はびくびくと力のない痙攣を繰り返してやがて動かなくなった。けれども、使徒によって引かれたラインの、向かって右側、心臓と思しき臓器はまだ動いていた。これじゃあ、まだ復讐完了とはいえない。使徒はその臓器を、ゴム手袋越しにつついてみた。それから外へと引っ張り出す。手のひら大のどす黒い塊はどくんどくんと鳴動を繰り返していた。まさにこの憎き生贄の命はわが使徒の掌の上だ。使徒は身体を反らして高らかに笑った。
 それから、両手で包み込むようにしてその臓器をゆっくり、じっくりと潰していく。どこかに傷がついた瞬間、一気に鮮血が噴き出したので慌ててその場に放り投げた。
 生贄はしばらく痙攣を繰り返していたが、やがてぴくりとも動かなくなった。
 これでおしまいではない。使徒は大ぶりの斧を右肩に担いだ。

 これで三人。生贄はあと三人。







第三章 八月五日




 1




「きゃあああああああああああああ」
 雨上がりの曇り空を引き裂くような叫び声が上がった。
 叫び声は喘ぐような声にかわり、断続的に天を突き刺し続けている。
 最初に気づいたのは、河西だった。ロッジへ向かおうとドアを開けたところで、ただ事でない声を聴いた。
 その頃には、声はかすれて絶え絶えになっていたが、それでもはっきりと鼓膜に届いた。
 また何かあったのか。「どうしました」言いながら河西は声のする方へ駆けていた。四号室の河西から見て西方向、一号室の方向だった。
 だんだん声が近づいてくる。そして、幾つめかの角を曲がったとき、床にはいつくばった内海八重菜の姿を発見した。
 八重菜は、河西の姿を確認するなり、頭を抱えて地面に伏してしまった。
「どうしたんです」河西は八重菜の上半身に手を掛けた。その腕や背は堅いゴムのように固まりぶるぶる震えていた。
 ただ事ではないことはすぐにわかった。
「何かあったんですか?」河西は努めて柔らかな声で、八重菜に問うた。
 八重菜は「あ……あ……」と一号室を指さしたまま頭を抱えてしまった。
「一号室で何か?」
 内海は激しく首を横に振る。そして、「花……時計!」と溺れた人間の叫びのように言い切った。
「わかりました。花時計ですね」河西は立ち上がった。
 今すぐ花時計に行くべきなのだろうが、内海八重菜をこのままにしていくのは気がかりだ。よって三号室の黒石に声を掛けることにした。
「黒石さん、黒石さんいますか? いたら出てきてください」
 黒石の部屋は留守のようだった。確かに、河西のいた四号室からでも八重菜の悲鳴は聞こえたのに、それより近い黒石が、気が付かないわけがない。もう、ログハウスに行ってしまったのだろうと、河西は諦めて八重菜のところに戻った。
「内海さん、黒石さんがいないんです。僕一人で花時計に行ってみますから、ここから動かないでくださいね。何かあったら大声を上げてください」そう言い残し、河西は花時計の方へと走った。

 




 そこは、まるで地獄だった。
 時刻は朝の七時半、時計の短針は南西の方角に、長針は南の方角にある。橋波佐和子は、一糸まとわぬ姿で、その針に結び付けられていた。辺りには血と体液、臓物と思しき軟体が散らばっている。時計の針がくるくると回るたびに橋波佐和子の身体はねじれ、よじれ、傷つけられていたのだろう。
 河西は気づかぬうちに喉の奥から「ああ、あああ」という呻きが漏れていた。そして、そのことを知覚するのに数十秒かかった。内海八重菜が錯乱するのも無理はない。これは一刻も早く、全員に報せなければならない。
 河西は、内海八重菜をまずログハウスに連れて行くことを考えた。
 体を支えて、相藤へと引き渡す。現場については混乱をきたすので「橋波さんが殺された」とだけ伝えることにした。それから、六号室の瑞樹を呼びに行く途中で、暢気に歩いてくる瑞樹と遭遇した。
 まさか惨劇が起こっているなど露ほども思っていないような顔をしていたが、河西の顔色を見て察したのか、険しい顔つきになった。
「もしかしてまた……」
「ああ」河西は両膝に手をついて、俯いたまま肯いた。そして背筋を伸ばす。そのままの体勢だと戻してしまいそうだった。
「橋波さんが殺された」
「橋波さんが……」
「それも、惨い方法で」
「どこで?」
「花時計に。長身と短針にそれぞれ上半身と下半身を固定されて、放置されていたみたいなんだ」
「二号室の内海さんは叫び声か何か聞かなかったのかな」瑞樹は自問するように呟いた。
「確かに……でも、各ロッジは二百メートルくらい離れているからね」
「このことは黒石さんには?」
「まだだ。黒石さんもロッジにはいなかった。ログハウスでも見かけなかったが……」
 瑞樹の顔がハッと険しくなった「黒石さんのロッジに行ってみましょう。どこにもいないなんて不自然だ」

 


 2




「黒石さん、黒石さん、開けてください」
 三号室はしんと静かなままだった。黒石が出てくる気配もない。
「黒石さ……あ」河西が叩いていたドアのノブは難なく開いた。「鍵が開いている」
 ドアは、キィィという古めかしい音を立てて空いた。中は薄暗い。その瞬間むわりと、胸に来る悪臭が鼻腔をついた。
 河西と瑞樹は顔を見合わせた。この先に何があるのか、予想がついてしまった。
 そろそろと忍び足で廊下を歩く。どちらからともなく、身を寄せ合うようにしていた。
 廊下とリビングを隔てるドアをそっと押し開けた。
「ああ!」
「ひっ」
 大の男二人が、揃ってたたらを踏んだ。瑞樹は目を背けて俯いてしまっている。河西は目を見開いて、石膏像のようにその場に固まってしまった。
 黒石徹也の使う三号室には、部屋の中央部に一本の柱があった。そこに黒石の身体は磔宜しく固定されている。着衣はあった。隣には拉げたパイプ椅子が転がっていた。座面には血とも反吐とも言えない液体がこびりついている。黒石の胴体はその柱に直立で固定されたまま、首から下腹部までを十字に斬り裂かれて、また千手観音像のように、腹部背部のあちこちに短剣が何本も差し込まれていた。零れ出た臓物はそのままだらりと彼の下半身方向に流れている。その下半身も原型を留めないほどの刺し傷、殴打の後があり、指は全て切断されていた。足元を中心に部屋中に血が飛んでいる。二重に閉められたカーテンまで飛んでいるものもあった。遺体のそばに何か赤黒い肉塊があった。心臓だった。そして――あるべき場所に首がなかった。
「首は?」
 河西がふらつきながらやじろべえのように辺りを見回したが、首は存外すぐに見つかった。ベッドの脇に転がっていた。美しい生首だった。
「おえっ、えっ」
 瑞樹が小さくえづいた。それだけ、胸の悪くなるような濃厚な死の匂いが充満していた。
「い、一度出よう」河西に肩を抱かれて、瑞樹は四号室の外へと連れ出された。
「大丈夫かい?」
 瑞樹は地面にへたり込んでしまったまま言葉を発しない。顔が真っ白だった。
「しかし、誰があんな酷いことを……あんな現場見せられたら、慣れている警部さんや法医学の先生でも人によっては気分が悪くなるっていうんだから仕方ないよ」
「すみ……ません……」
 ようやく、頭に血が上って来たらしい瑞樹が、荒い呼吸の合間に言った。
「どうしようか。内海さん呼んで来たらそれこそ卒倒しかねないし、相藤さんには報せたほうがいいし」
「一緒に、ログハウスに行きましょう」よろけながら、瑞樹が立ち上がった。
 その後内海八重菜と白峰瑞樹を残して、相藤と河西の二人でそれぞれの現場の確認へ言った。どちらの現場も見るに堪えないもので、三十分ほどして戻って来たころには二人とも顔が陶磁器のような白さになっていた。
「食事はいかがいたしますか?」相藤は事務的に尋ねた。
 しかし、返事をするものはいなかった。
「ところで相藤さん」河西が、口元に当てていた手をどけて、ふらふらと立ち上がる。「この島で人が隠れられるような場所はありますか?」
「隠れる、ですか」
「ええ。僕らを殺しまわっている人物が隠れているんじゃないかと思いまして」
「そうですね……あ、そうだ。倉庫がありましたよ」
「倉庫?」
「ええ。ガラクタ小屋のようになっていますが、倉庫が。後で行ってみますか?」
「いやよ……あたしここにいる……」頭を抱えた八重菜が首を横に振った。
「二手に分かれる方が危険ですよ、内海さん」河西が努めて優しく言った。
「でも、殺人鬼がいるかもしれない場所なんて、もし遭遇したらどうするの?」
「それは……」河西が唇を噛んだ。
 相藤が目線を合わせるようにしゃがみ込んで微笑んだ。「殺人鬼がいると仮定したならば、一人でいるときに遭遇するよりはましですよ。一人で殺人鬼には勝てないかもしれませんが、この四人対一人だったら勝てるかもしれませんからね」
 その言葉に内海八重菜は納得したようであった。
「武装していきましょう。何か使えそうなものはありますか」河西が相藤を見た。
 相藤はうーんとしばし考えて、「椅子とか、盾になりますよね。ここまでの犠牲者で銃火器相手でやられた方はいないことを考えると、原始的な、それこそナイフや斧を無効化するものがあれば勝負になるように思います。そしてこちらはスコップで対抗しましょう」
「そのスコップはどこにあるんですか?」と、河西が尋ねる。
「あ……倉庫でした……」相藤が首筋を赤く染めた。
「モップとか長槍みたいになりませんかね」河西が槍を振り回す仕草を取る。
「竹刀があれば……」剣道部の瑞樹は呟いた。
「とりあえず、やれるだけの武装をして、倉庫に向かってみましょう」




 3




 倉庫は、三メートル角程度のセメントづくりの立方体であった。
「じゃあ、行くぞ」先頭の河西が一歩踏み出した。窓は一つ。高いところに小さいもののみである。入ってすぐの壁を弄ったが電気のようなものはなかった。独特の埃っぽさと、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
 と、その時、ズンと何かの動く音がして、河西の両手が瑞樹を強く突き飛ばしてきた。
 瑞樹は後ろによろけ、入り口の外を見張っていた相藤と八重菜の横までザザザーと滑って倒れた。ほぼ同じときにドンッと地面が揺らぐような音がした。
「どうしたんですか?」
 中からは石灰の零れたようなもくもくした白い霧が発生していた。
「石灰は吸ってはいけません。一旦離れましょう」相藤の音頭で一度倉庫から離れる。離れた中に河西の姿はなかった。
「外から窓だけ開けてきました」相藤が両手をパンパンと叩きながらこちらへ歩いてくる。倉庫から二メートルほど離れた地面で、八重菜と瑞樹はそれぞれに身を固くしていた。
 すぐさま、瑞樹が石灰がまだ残っているのにも構わず、倉庫の中へと舞い戻った。窓が開いたことにより、青白い光が室内を照らす。石灰の霧はまだ完全におさまってはいないようだった。
 河西瑛介はセメントの詰まったドラム缶の下敷きになって息絶えていた。
 誰が見ても彼がもう息をしていないことがわかる。彼の首は折れ曲がり、腹はつぶれ、ドラム缶の下には夥しい量の血液と臓物が広がっていたのだ。




 4




 三人は肩を落としてログハウスへ戻った。
「あたしたち皆殺しにされるんだわ……」八重菜はさっきからこの調子であった。「イギリスの有名な小説があったでしょう! 罪人は島で裁かれていくのよ! 助かる方法はないんだわ」
「呪いなんて絶対にありませんよ。これも人によって引き起こされたものです」瑞樹ははっきりと言い放った。「僕らは呪われてもいないし、皆殺しにしようとしている誰かがいるのだとしたらそれは人間でしかありえません。このまま三人で明日まで固まっていましょう。明日になったら船がやってきてくれるはずです。相藤さん」と瑞樹は相藤を見た。「明日船は何時でしたっけ?」
「十四時着の予定です」
「でしたら、その頃に港まで出迎えに行って、船から救難信号を出してもらいましょう」




 5




 内海八重菜はちょうど太陽が日本海に沈んだ瞬間にログハウスのカーテンを開けた。太陽の名残は着々と闇へ還り、一秒ごとに寂寞感に包まれていく。
 ここまで四人が死んだ。それも、明らかな他殺体となって発見されている。
 この島は『怨みの島』だ。――各々恨みの輪で繋がっているのだ。
 殺される前に自らを恨む人間を殺してしまおうか。
 内海は、震える手で手帳を開いた。見るまでもない、内海を恨んでいるのは佐古田正次だ。最初の犠牲者となった――。だから、内海はきっと助かる。この、恨みの連鎖の殺人事件における、唯一の生き残りとなれるのだ。
 と、そこで考えた。
 黒石徹也を殺したのは誰だ?
 黒石徹也のことを恨んでいるのは、ほかならぬ内海八重菜である。彼は先ほど、見るも無残な姿となって発見された。あれは誰の仕業によるものだろうか。
 これは、恨みの連鎖に見せかけた、誰かによる連続殺人なのかもしれない。そうなると内海の身の安全だって、わからなくなってくる。
 内海はカーテンを閉めて内側で膝を抱えてぶるぶると震えた。
 あれは五年前のことだった。内海は大学三年生。居酒屋でバイトをしていた。そろそろ就活もはじまるし、バイトも辞めなきゃな、なんて考えていた矢先のことであった。大学生の新入生歓迎コンパらしき集団がぞろぞろとやってきた。もちろん飲み放題。
「当店では二十歳未満の方のご飲酒は遠慮させていただいております」
 お決まりの文句も言った。聞いている者はほとんどいなかった。それから、浴びるように消費されていくアルコール飲料、厨房まで響くコール。そういうよくある風景を耳にしながら、八重菜はひたすらに実務を遂行した。と、新入生歓迎コンパの部屋の一番奥の青年が机に突っ伏してしまっていた。これ自体はそう珍しくもない事態なので、「お客様、大丈夫ですか?」と小声で確認をしてみた。小さないびきが聞こえてきていた。返事がないことを確認して、八重菜はそのままその場を後にした。それから、何度目かの配膳で、例の青年はついに座敷に仰向けになって倒れた。さすがに大丈夫かと思った八重菜は、彼の傍に膝立ちになち、「あのお客様」と何度か揺すってみた。口からは飲み下しきれなかった酒や嘔吐物がこぼれ、予めぎゅうぎゅうに重ねられていたお絞りへとしみ込んだ。
「いいのいいの。みんな新人のときに受ける洗礼だから」
「寝かせときゃそのうち起きるって」
 このグループは、既に何人も酒に酔ったものをトイレ送りにしているようだった。
 大丈夫だろうか、と後ろ髪を引かれる思いで八重菜は厨房へ戻った。あまり介入しすぎて、楽しんでいるお客様の興を削ぐのもよくない。
 しばらくして、例の部屋から大きな声が聞こえてきた。何事かと顔を出すと、先ほどの青年が、口から泡を吹いて、身体が冷たくなっていた。これはまずいと救急に電話を入れた。
 彼はその日の夜遅くに息を引き取った。
 あの日のことで罪にと問われるならば、彼に無茶な飲み方をさせたり、介抱しなかったり、嘔吐しているのに上向きに寝かせていた周りの人であって八重菜ではない。
 そう強く思い続けているのだが、瞼の裏の、あの泡を吹いた青年の顔は何をもっても消えてはきれない。
 それと――先ほど見た黒石徹也の惨殺体が蘇る。
 黒石徹也のことを内海八重菜が知ったのは、花山武が死んで、彼の身辺整理をしていたときのことだった。彼の机の引き出しの中に「黒石徹也」という名前と大学名、電話番号が書いてあった。聞いたことない名前だなぁと思ったけれど、男性の名前だし、もし知り合いならば、通夜にも葬儀にも来ただろうとよく考えずに鞄の奥底にしまったのだった。
 彼の中をその次に思い出したのは、ちょうど昨日、点呼のときだった。何か聞いたことのある名前だと思っていたら、あのときの紙切れの男だった。
 あの日、武は八重菜にプロポーズをしてくれた。幸せの絶頂だった。このまま死んでもいいと思ったくらいだったが、実際に死んだのは花山武の方だった。
 医者から、脳に損傷がある。数日のうちに強く頭を打つようなことはなかったか、と聞かれたがまったく心当たりがなかった。そのため、原因不明の病死として、だびに付されることになった。
 まさか、と思った。五年の月日を経て、目の前に武の仇が現れるなんて、それこそ神のお導きだと思った。詳しいことは知らないが、この黒石徹也が、『武の頭の損傷』の原因になっていることは間違いなさそうだ。殴ったのか、ぶつかったのか、突き落としたのかはわからないが、黒石のあの見た目ならなんでもあり得る気がする。そして、あの優しい武なら笑って許して、プロポーズを待つ八重菜のもとへ駆けつけるだろう……。









 その日の夜は、簡易非常食を三人で食べ、何事も三人で行動した。夕方の七時から五時間ずつ、朝の十時までを三等分にして寝ることにした。
「この中に犯人がいるっていうの……」内海八重菜は顔を覆ってひくひくと肩を時折痙攣させている。
「そうではないと信じたいですが」瑞樹も言葉に力がない。
「残酷な方法で殺されるなんて絶対いやよ。殺すなら優しく、一瞬で殺してね」八重菜が両手を顔から外してにっこりと言った。しかし、目はらんらんと光を放ち、涙だらけである。
 これには相藤も、瑞樹もぎょっとした。
「内海さん落ち着いてください。死ぬことより生きることを考えましょう。相藤さんブランデーか何かありませんか」
「あります。お持ちしましょうか」
「お願いします」
 そうこうする間も、内海八重菜は泣いたり笑ったりと情緒の安定しない様子であった。
「さあ、ブランデーを飲んで。これで少しはゆっくりできるはずですから」瑞樹は相藤から受け取ったブランデーを彼女の両手に握らせた。
「いやよ。毒が入っているんでしょう。飲んだら苦しんで血を吐いて死ぬんだわ!」
 瑞樹と相藤は困ったように目を見合わせた。
「白峰様失礼しますね」と、相藤は、グラスを横から受け取り、一口飲んだ。「さあ。毒見は済みましたよ。内海様。これを飲んで眠ってしまいなさい」
 相藤の、身体を張った行いによって、八重菜はようやくおちついたようで、しばらくするとすぅすぅと安定した寝息が聞こえてきていた。
「いい夢を見ていればいいですね」
「ええ」
「現実があまりにも悲惨すぎますからね」


















第四章 八月六日




 1




 翌朝十時、快晴である。あとは十四時に港に出迎えに行くだけである。三人はまた非常食を食べ、水道水を飲んだ。
 テラスで瑞樹は言った。「あと四時間、あと四時間何も起こらなければ生きて帰れるんですね……」
 相藤はうなずいた。「もうすぐです」
 八重菜は怯えたように左右をきょろきょろと見回しながら「でも、河西さんの例がありますよ……あの人、ただ倉庫に入っていっただけなのに、高いところにあったドラム缶が落ちてきて亡くなったのでしょう? 危険そうな行為をしなくても、いつでもどこでも死はすぐそこで、こちら側を覗き込んでいるのだわ……」
 河西の死に方は悲惨だった。棚の一番上、二メートルの場所に積んであった中身のセメントがたっぷり詰めてあるドラム缶が、何かの拍子に転がってきた。そして、不運にも河西の上に落下してきたというものだった。落下から直撃の一瞬で、河西は瑞樹を倉庫のそとへと突き飛ばした。その間を使えば、自分が逃げることもできただろうに。
 昨日から瑞樹はその思いに苛まれていた。
 自らはまた誰かの命の上に生きてしまったと。一度目は、橋波勇太の、そして二度目は河西瑛介の――。
 そんなときだった。
 ボォー。ボォー。遠くで汽笛の音が聞こえる。
 三人は顔を見合わせた。
 相藤は腕時計を見遣る。「まだ十二時ですよ」
「船が来るのは十四時のはずじゃあ」瑞樹が腕時計から顔を外して眉根を寄せた。
 八重菜は真っ青な顔で口元に拳を宛がっている。
「と、とりあえず、船のところへ行ってきます。相藤さんは八重菜さんのことを宜しくお願いします」
 瑞樹はそう言うや否や、ログハウスから駆け出して船着き場を目指した。
 どう少なく見積もっても十分はかかる。瑞樹は木枝に衣服が引っかかるのも構わず、一直線に船着き場を目指した。
 ボォー。ボォー。
「いかないで! 待ってええ」
 瑞樹はあらん限りの大声で叫んだ。しかし、船は離岸を始めているようだった。そして、独特のエンジン音を鳴らして沖に向かって進んでいってしまった。
 その瞬間、瑞樹の膝から下の力が急に抜けた。下り坂だったので、ずさーと前につんのめる。全身擦り傷だらけで、服も泥だらけ、あちこちが痛んだが、もうどうでもよかった。次はまた八月十日、そのときまで三人で耐えればいい。耐えれば……あの地獄のような夜をあと四回も……。
 目から涙がにじんだ。
 小夜に会いたい。その気持ちでここまで来たというのに、同じ気持ちで死者に会いに来た人たちは、天国へと旅立ってしまった。この島は天国への高飛び場だったのだろうか。
 ここは『浦見島』いや、『怨み島』だ――。
「大丈夫か」
 天の声が聞こえた気がした。瑞樹は、ああとうとう自分も天に召される時が来たのだと腹を括って顔を上げた。
「……冷……泉……?」
 目の前には冷泉誠人の姿があった。信じられない。信じられない!
「瑞樹……」
「冷泉! なんでここにいるの? 俺もう死ぬの?」
「何を馬鹿なことを言っているんだ。お前を探しに来たんだよ」
「俺を探しに?」
 そうすると、冷泉は何事か、がさがさとディパックを探り始めた。「ん」



 僕が戻らなければ、両親に伝えてください。小夜のところに会いに行った、と。
 白峰 瑞樹


「あ」瑞樹はぽかんと口を開いた。
「こんな文章を見せられて黙っていられるか」冷泉は眉間に皺を寄せた。「ご両親には、ひとまず俺に任せてくれとだけ伝えているよ」
「なんで行先がここだと?」
「ゴミ箱の一番上に『浦見島』と書かれた紙があっただろう」
「……冷泉」瑞樹は、冷泉に抱き着いた。「ごめん、気持ち悪いかもしれないけれど……冷泉…………冷泉……」
 冷泉はしばらく何も言わずに抱き着かれたまま瑞樹の背中をさすってくれていた。「……何があったんだ」
「集められた六人の男女のうち四人が殺された」
「なんだって?」冷泉も切れ長の目を瞠る。
「河西さんも」
「河西さんって、あの、『雪女島』の?」
 瑞樹はぶんぶんと首を縦に振った。
「ドラム缶に潰されて死んでしまったんだ」
「それは……で、犯人は」
「まだ見つかってない」
 冷泉は何事か思案するように顎に曲げた指の第二関節を当てて、「とりあえずログハウスまで案内してくれ。現場にも行ってみよう」瑞樹を元気つけるように彼の背中をぽんぽんと二度叩いた。




 2




「すみません。船、間に合いませんでした」
 ログハウスには、背の高い相藤という男と、背の低いほんわかした二つに茶髪を結った内海八重菜という女性がいた。内海は、瑞樹のその言葉を聞くや否や、わっとその場に崩れ落ちてしまった。緑色のジャンパースカートに涙の染みが広がる。
「しかし」相藤はその内海を困ったように見遣った。「私共の予定表では帰りは十四時としっかり……」
「まだ十二時ですよ」と瑞樹。
「俺の乗船切符には十時出航十二時下船とかいてありました」冷泉が乗船チケットの半券を示しながら言った。「下船前に知っていれば、船の無線で警察にも連絡できたのに……」
「まさにそれを我々は目論んでいたのですよ。十四時を待って、船の無線で連絡してもらおうと……」相藤がため息交じりに言った。
「でしょうね」冷泉は瑞樹を見遣った。「船がだんだん遠ざかっていくときの絶望感は半端なかったろう」と、傷だらけの瑞樹に優しく声を掛ける。瑞樹は、今は自分で救急セットを持ち出し、けがの手当てをしていた。このあたりは流石剣道部である。
「しかし、なぜ間違った時刻が私たちに伝えられていたのでしょう」と相藤が首を傾げた。
「誰から聞いたんですか?」と冷泉。
「あの、切符切りのおじさんです。聞き間違ったか、言い間違ったんでしょうか」
 冷泉は何かを少し考えてから、「それは……どうでしょうね」と濁した。
「時間さえ間に合ってたら……」内海のすすり泣きが廊下中に響く。
「四人の方が殺されたと聞きましたが」冷泉がその話題を口にすると、三人の動きがぎくりと固まった。「よろしければ、現場を見せてくれませんか?」
「警察にそのまま引き渡すべきかと」相藤は難色を示した。
「冷泉は、過去二度も事件を解決しているんです。途中で話に出たでしょう。河西さんのご友人がたくさん亡くなった『雪女島殺人事件』や、他にも、とにかく二度も連続殺人事件を解決しているんです。助けがくるまであと四日もあるんです。その間ただ指をくわえて待っているというのも危ないですから」
「わかりました。ですが、二対二になると危険なので、私たちもついていくということを条件にしてもよろしいでしょうか。そして内海様が無理だと判断された場合は、そこで一度中断すると」
「わかりました」冷泉は二つ返事で声を返した。




 3




「この五号室が最初の事件が起こった場所です」相藤は説明して内海八重菜と共にロッジから数メートル離れたところに立った。
 なるほど、ロッジの脇には『これで一人。生贄はあと五人』と赤いペンキで書かれていた。
 また、半球型のロッジの側面のガラスが割られていた。麓には大きな岩が転がっている。
「これは?」冷泉は瑞樹に目で尋ねる。
「これは三号室を使っていた黒石さんが窓を割った岩。鍵がかかって中へ入れなかったから」
 冷泉は一度黙とうして、部屋へと入り込む。だいぶ腐敗臭が強くなっていた。「亡くなったのは?」
「河西さんと同じ大学、同じ研究室の佐古田さん。八月三日の夜中に殺されて、四日の朝に発見された」
「発見したのは?」
「俺と河西さんと黒石さん。玄関が閉まっていたことは黒石さんと俺の二人が確認している。また窓に他に傷がなかったことも確認できている」
「窓は二センチしかあかないのか」
「そう。網戸がないから蚊が入ってくるんだよね」
「それで蚊帳がああしてつるされているんだな。風流だ」
 冷泉はぐるりと一周部屋をまわってみていた。
「うーん。蚊帳の中でベッドに寝ていた被害者は、首を絞められて死亡した。凶器は犯人が持ち去った。こういうことになるな」
「そうだね」
「窓は一か所、二か所。ベッドから見て丁度左右にあるんだな」
「うん」
「窓に傷はなし。鍵はどこにあったんだ?」
「鍵は佐古田さんの使っていた旅行カバンの内ポケットの中。チャックがあってその中にあったから、トリックでそこに放り込む余地はないと思う」
「わかった、次へ行こう」




 4




「靴だ」
 冷泉は、次の殺人現場、花時計に向かう途中で片方の靴を発見した。
「これは誰の靴かわかるか?」
 瑞樹は首を微かに傾けただけだった。
「引きずった跡があるな」
 地面には、嵐でだいぶ洗われていたが、微かに物を引き打った痕が残されていた。






 次の現場はすさまじいことになっていた。花時計に全裸の遺体、腐敗臭、鳥や虫にかじられた痕――相藤と内海はもちろんのこと、瑞樹もほとんど目をそらしていた。
「花時計にしばられた遺体ですね。女性のもの。靴の持ち主だ」冷泉の手にした靴と同じものが橋波の左足と思しき部位にはめ込まれていた。
「橋波佐和子さん」瑞樹が口に手を当て、苦しそうに呻いた。
「額を殴られている」短針のちょうど真ん中に固定された顔の額部分に裂傷があった。「どこかで殴られてから、ここに運び込まれたようですね。――これ、花時計を止める方法はないのですか?」冷泉は相藤を振り返った。
「いえ、ソーラーの蓄電になっておりまして、無理なんです」
「そうですか」
「これは、自動殺人装置だな。あらかじめ生きた人間を時計に結んでおいて、時計が回ると身体がねじきれて死ぬ。そういうからくりじゃないか? おそらく、彼女は部屋か帰り道かで昏倒させられ、ここに強くしばられた。そして犯人は立ち去った。それだけのことに見える」
「叫び声は? 流石に気絶していたとはいえ、身体が無理なポーズになっていったら叫び越えを上げるだろう」瑞樹が呻くように聞いた。
「喉は潰されていただろうな」冷泉は、花時計の傍の『これで二人。生贄はあと四人』の赤い文字を見ながら言った。「しかし……この『生贄』って何だろうな。あなたがたは、何か『生贄』にされるようなことをしたのか?」
 瑞樹は視線をずらす。その先の八重菜も視線をずらす。そして最後に視線の終着駅になった相藤が、一つ頷いて口を開いた。
「後でテープを聞いていただきましょう」
「テープ」と冷泉。
 それに相藤はひとつゆっくりと肯いた。




 5




 第三の殺人現場も、第二の殺人現場と勝るとも劣らぬ(この場合何が勝るのか不思議だったが)凄惨さだった。
 ベッドサイドに転がった生首は剥製のように美しかった。
 先ほど見た五号室とはちがって三号室には直径十五センチほどの柱が部屋のベッドの先に立っていた。そこに遺体は十字に縛り付けられて、残酷の全てを施されていた。
「これは明らかに異常性癖か、尋常でない恨みかのいずれかだろうな」
 瑞樹はこくこくと小さく頷くだけにとどめた。口を開くと、熱いものが逆流しそうだった。
「ここの部屋の鍵は開いていたんだっけ?」
 瑞樹はふぅーっと長く息を吐いて、熱い何かを無理やり呑み込んだ。「ああ。俺と河西さんが確認したよ」
「そうか。ならば、この部屋の謎は特になさそうだな」
 生首の傍には心臓と思しき肉塊と、『これで三人。生贄はあと三人』の血文字が克明に残されていた。




 6




 第四の現場は事故なのか殺人なのか、瑞樹にはわかりにくいものがあった。
「殺人犯が潜んでいるならここだろうっていって、みんなで椅子だのモップだのを持って倉庫に乗り込んだんだ。河西さんを先頭にして、次が俺、内海さんと相藤さんは外から誰も来ないかを見張っていてくれたよ。そしたら」
「上からドラム缶が落ちてきたと」
 瑞樹は眉を下げた。「あの時、河西さん、どこかに身を隠すこともできたんだ。なのに、最後の力を振り絞って俺を……俺を……突き飛ばしてくれて……」言いながら、今にも泣きそうだった。
 冷泉はその背をぽんぽんと撫でる。「お前が気に病むことじゃあない。犯人が悪いんだ」冷泉は慎重に、石灰で埋まった床を見つめた。「ここだけ石灰が途切れている」
 その指先のところ、トランプ程度の大きさの四角と、そこから連なった紐のような形で、石灰がなくなっていた。
「何か仕掛けここにはあったんだ。それを犯人が頃合いを見て取ったと」
 瑞樹も顔を寄せてくる。「どんな仕掛けだろう」
「それはまだわからない」
 透が潰されていたドラム缶は、端っこの方に潰れている箇所があった。
「この凹んだ箇所、気になるな……」
「ドラム缶が落下したときに拉げたのかな」瑞樹はドラム缶の端の凹凸部分を撫でながら言った。
「さあ、どうだろう」
 倉庫の裏には小さく『これで四人。生贄はあと二人』とあった。




 7




「なかなかに残酷な事件ばかりだったな」冷泉は帰り際に、小さくため息をついた。「こんな凄惨な現場に何度も立ち合っていただきありがとうございました」相藤と内海への礼も忘れない。
「いえ、私たちは遠くから眺めていただけですので」相藤は右手を顔の前で振った。
「では、次にさっきおっしゃっていたテープを聞かせてくれないでしょうか」




 それから、一行は、大広間で例の告発テープを聞いた。
 最初に聞いた時に比べれば三人も人がいなくなっていた。

『ここは恨みの島。あなたがたの愛する人の敵を討つチャンスです。それを生かすも殺すもあなた次第です。
では、ここでかの名作『そして誰もいなくなった』に倣って少し〈声〉を聴いてもらいます』




  諸君はそれぞれ、次に述べる罪状で殺人の嫌疑を受けている。
  佐古田政次、汝は一九**年一月十四日、檜山司ならにも九人の死に関する責任がある。
  内海八重菜、汝は一九**年四月三日、佐古田正一の死に責任がある。
  黒石徹也、汝は一九**年十一月十五日、花山武を死に至らしめる原因を作った。
  河西瑛介、汝は一九**年五月のある日、F大学山岳部の中で唯一生き残った。
  白峰瑞樹、汝は一九**年十月二八日、橋波勇太の死の原因に関連がある。
  橋波佐和子、汝は一九**年二月二十三日、黒石裕子の死に関係がある。





『ははは、どうですか。驚いたかね? この島には誰も見張るものはいない。武器はふんだんとある。君たちの知恵を絞りさえすればね。何だって武器にはなるものだよ。ふはははは。グッドラック諸君! 良い旅を』


 ――ここで、テープは停止ボタンが押された。
「これは……」冷泉は、メモしていた手を止めて顔を上げた。「怨みがリングになっていますね」
「ああ」と瑞樹。
「リング?」と八重菜が不安そうに相藤を見た。
「ええ、こういうことです」と、冷泉はさらさらと図表を描いてみせた。「それぞれの『怨み事』の内容に信憑性はあるんですか?」
「それは……その場で確認してみました。黒石さんから橋波さんへの怨み事だけ、はっきりとはしなかったけれど」瑞樹はテーブルに目を落として答えた。
「なるほど。じゃあ、この恨み、恨まれの関係性を正とした場合、一番目の犠牲者である佐古田さんを殺害する理由があるのは、四番目の犠牲者である河西さんだね」
「そうなるね」と瑞樹も身を乗り出した。「あの時河西さんは、佐古田さんのせいじゃない、悲劇を止められなかった自分自身にも罪はあるというようなことを言っていたけどね」
「ふむ。じゃあ次に殺されたのが橋波さんか黒石さん、発見された順に、便宜上橋波さんを二番目ということにしましょう。ここへ恨みを持つのが三番目の犠牲者、黒石さんだな。そして、三番目の犠牲者、黒石さんに恨みを持つのが内海さん」
「はい」内海は怯えたような声を上げた。
「いや、呼んだだけだから」冷泉はなんでもないと、右手をひらひらさせた。「で、河西さんが事故でなければ、ここに恨みを持つのは、瑞樹、お前と言うことになるな」
「そうだね。まあ、俺の場合、河西さんに恨みを持つのはお門違いであって、持つとしたら藤間エーリクにだけどね」
「ふむ。しかし、仮にここに出てきた六人を皆殺しにする意図が犯人にあるとすれば、既に内海八重菜と白峰瑞樹を殺す役目の人物がいないことになるが……」
 冷泉はしばらく考え込んだ後、ふうと大きく背伸びをして、座りなおした。
「事件の意図は置いておいて、事件の謎の方にいこう。まず、第一の殺人、佐古田さん殺しだ。佐古田さんは密室の中で絞殺されていた。凶器はなかった。こうだよな」
「外で絞殺した佐古田さんをどうにかしてベッドに投げ込んだ可能性は?」瑞樹が右手で頬杖をついた。
「なるほど。どこかに隠し扉があって、そこを通って中に遺体を運び入れたと」冷泉が反芻する。
「それはあり得ませんよ。隠し扉やオープンルーフなどの設備はございません」相藤がすかさず訂正に入った。
「じゃあ、こっそり合鍵を」瑞樹が呟く。
「合鍵もございません。かつてマスターキーがあったのですが、ちょっとした盗難事件が起きた際に、当時の管理人が怒って捨ててしまったそうです」
「うーんそれもなしかぁ……」瑞樹が天を仰いだ。「じゃあ、外から紐を差し込んで、うまく佐古田さんの首の位置にもっていって、ぐるりと巻いて、一周させて戻って来た紐でぐいっと」瑞樹が両手を引っ張る動作をした。
「それだったら、引っ張った側の窓の方に佐古田さんが引きずられていないとおかしいだろう。それに、そんなに都合よく紐を操れるとも思えない」
「はりがねとかあるじゃん」
「はりがねか」冷泉は一瞬黙り込んだ。「ないな」
「ないの?」瑞樹ははぁと小さくため息をついた。
「ただ、この両サイドの窓が何かしら関係しているのは確かなんだ。窓を通して……」冷泉が再び黙りこくった。「ああ、解けたかもしれない」




 8




 すぐに冷泉は五号室の窓の上部に傷跡がないかを再度調べに走った。
「ないな」
 何もないことを確認して、再びログハウスの定位置へと戻ってくる。
「なかったら、ふりだし?」瑞樹が心配そうに尋ねた。
「いや、なくても、今はいろんな素材がある。傷跡があれば『犯行がなされた証拠』になるなと思ったけど、なかったからといって『犯行がなされていない証拠』にもならないよ。後を残さないで済む方法があるのだからね」
「そっか」
「じゃあ、次に第二の橋波さん殺害についてかな。あれはトリックがあるとすればアリバイトリックだけど……」冷泉は、窺うように相藤を見た。
「あの日は嵐でしたので、皆さま早くから自室に籠ってらっしゃいました」
「橋波さんが先に帰って、それから内海さんも帰るってなったから男連中で送っていったんだよ」
「なるほど。だったらアリバイトリックの必要もありませんね。犯人は、橋波さんにドアを開けてもらうなり、ドアを破るなりして橋波さんを拉致したはずですが」
「橋波さんの一号室の鍵は開いていたよ」瑞樹がすかさず差し込んだ。
「では、一号室に行ってみましょう」






 一号室は綺麗に片付いていた。かすかに死臭が漂っている。
「これは……血痕かな」冷泉がしゃがんだ先で指を差し出した。
 瑞樹も狭いなりに上から覗き込む。「茶色いね」
「橋波佐和子はここで殴られ昏倒した。武器は何だろうか」冷泉はくるりとその場を見回す。
 靴ベラ、芳香剤、スリッパ、……凶器になりそうなものは何もなかった。
「じゃあ、犯人はここで橋波さんを何かしらで殴り、ここに橋波さんは倒れた。そして凶器と共に抱えて花時計のところまで連れていき、その途中で靴を落とし、おそらく花時計の傍で衣服を脱がせて縛り付けた。こういうことになるね」
「うん……」瑞樹の顔が蒼くなる。
 冷泉は構わず続けた。
「そして衣服と凶器は発見されていない。用意周到な犯人だな」
「どうして、花時計の傍で衣服を脱がせたことがわかるの?」瑞樹が尋ねた。
「靴が途中に落ちていたからさ。全裸にして、靴だけ履かせて運ぶなんて不自然だし、もし途中で誰かに見られたときに、服を着せていたほうが、なんとでもいいわけができるだろう」
「なるほどなあ」瑞樹はうんうんとなんども肯いた。
「そういえば、部屋割りも仕組まれたものだったりするのだろうか。それとも、たまたま花時計に近かったから橋波さんが花時計の自動殺人装置で殺された?」冷泉は一号室の扉をかちゃりとゆっくり閉めた。「とりあえずログハウスに戻ろうか。おそらくすぐに三号室に行くことになるんだろうけど、あの二人一緒に置いといて片方が犯人だったらまずい」
「犯人はあの中にいると思う?」
「まだはっきりは言えないけれど、不思議な点はいくつかあるな」




 9




「というわけで、僕たち、あなたたち二人のうちのどちらかが犯人だったらまずいと思って戻って来たんですけれど、三号室の観察、一緒に行きますか?」冷泉が淡々と尋ねた。
 相藤は一瞬唇を噛み、八重菜は睫毛の長い目からぽろぽろと涙を零す。「あんな首の取れた酷い遺体なんて、診ることができません……」
「黒石さんの遺体はそれこそ、何かの生贄の儀式のような惨状でしたもんね」
 瑞樹の言葉に、八重菜はうんうんと肯いた。
「じゃあ、やっぱり俺と瑞樹の二人で行こうか。ではくれぐれもお二人とも注意してくださいね」






「内海さんはずっとああなのか?」冷泉が尋ねた。
「ああ。あまりああいう残酷なものに耐性がないみたいで。唯一花時計のときは第一発見者になってしまったけれどね」
「そりゃあ、ショックだったろうな」
「だから、他の遺体や現場は極力見せないようにしている」
「俺らでも見たくないもんな……」冷泉は小さくため息をついた。
「あ、ごめんな。冷泉」
「何が?」
「強制的に捜査に付き合せてしまったから。俺、冷泉がきたからきっと助かるって勝手に舞い上がってしまって」瑞樹が小さく手を組んで両手の指をいじった。
「いやいいよ」冷泉が右手を顔の前で振る。「俺も四日間この島に閉じ込められた同志だ。早く犯人を逮捕しないと身の安全の保障などどこにもないからな」
「もともとこの島に呼んでしまったのも俺だし」
「そのことは言うな。俺が勝手にやったことだ」
 二人分の靴が落ち葉を踏む音が響く。
「まだ殺人は続くのかな」
「さあな」冷泉は鼻から小さく息を吐いた。「ただ、残っているのが、内海八重菜と瑞樹だったことが気になっていてな」
「俺と内海さんが?」
「犯人はなぜ、恨みの輪っかの順番に殺していかなかったんだろうと思って」
「確かに……はっ」瑞樹はびくりと身体を痙攣させたようにして立ち止まった。
「どうした?」冷泉が振り向く。
「いや……」瑞樹は困ったような顔で再び歩き出した。
 しばらく、木の葉を踏む音だけが続く。カサリ、カサリ。
「ねえ、冷泉」
「ん?」
「俺がさ、死んでもさ、無実だって信じてな?」
 冷泉ははたと瑞樹の横顔を見た。
 瑞樹は困ったように笑っていた。
「俺は何もしてないから」
「あた……りまえだろう……」冷泉はずれたリムフレームの眼鏡を元に戻した。
「うん。ならよかった」
 それから、苦い沈黙がしばらく続いて三号室が目の前に現れた。
「ここにあるね」瑞樹が半球体の麓、ドアのサイドに書き記された赤塗料の犯行声明を指さした。「あと三人ってことはやっぱり、橋波さんが殺されてから、黒石さんが殺されたみたいだね」
「攪乱するために、敢えて逆に各というトリックもあるが……誰にもアリバイがない以上、そこを誤魔化しても意味がないだろうしな」冷泉は一度じいっとドアノブを握った自らの手を凝視した。「ところで、この部屋を見たのって誰と誰だ?」
「俺と河西さん。それから河西さんと相藤さんで見に行ったっけ? 相藤さんと内海さんは外で離れていたよ」
「そうか」冷泉はそのままドアノブを捻って開けた。
 窓は完全に閉められ、厚手のカーテン二枚もきれいに閉められていた。
「なぜこの三号室だけこんな冬物のカーテンと、センターにポールが立っているんだろうな」冷泉はハンカチで鼻と口を押えた。
「それは、相藤さんもわからないそうだよ」ハンカチの奥で瑞樹がふがふがと答えた。
「しかしこの痛めつけられ方は酷いな。殴打されて切り刻まれて。相当な恨みと狂気を感じるよ」
 今は首には布が掛けられ、目は閉じられていた。それでも、いくばくも彼の無念は浮かばれないだろうと瑞樹は思った。




 10




 それから、続けてふたりは倉庫へと赴いた。
「あ」冷泉が声を上げてしゃがみ込んだ。「石灰のラインが消えている」
「うそ」瑞樹も慌てて駆けてきた。「本当だ」
「犯人が、消したんだ。図星だったんだよ、瑞樹」
「俺たち核心に近づいていたの?」瑞樹が目を瞠るのに、冷泉は小さく俯いた。
「石灰の壺が倒れたことは犯人にとっても誤算だったんだろうな」
 冷泉は、天井を仰いでふうと長い息を吐いた。
「犯人がわかった」




















第五章 幕引き








「犯人がわかりました」ログハウスの定位置で、冷泉はゆったりと言った。
 隣には瑞樹が、向かい側の座席には相藤と内海八重菜が座つている。
「犯人がわかったって……この中にいるんですか?」相藤が目を剥いて聞いてきた。
「はい」冷泉は淡々と肯いた。
「そんな……」相藤が困ったような顔で呟いた。
「では、説明に参りましょう。第一の殺人、佐古田正次さんの殺人についてです。犯人は、蚊と蚊帳、そして派手な色の枕と寝具を巧みに利用して、彼を殺害したのです。
 まず、紐を彼の枕の下に固定しました。そのままクロスさせて蚊帳の中間部にうまくはめ込んだ。そして、片方の端を窓Aの隙間から出し、逆側の端をもう片方の窓Bの隙間から出しました。そこから窓B側から出した紐をぐるりと周回させて窓Aの紐と併せます。それから、その紐のたるみを取っていくうちに、輪のような状態になります。




 そうして、彼が横になった瞬間、両方の紐を引いた。蚊帳に貼り付けていた紐は取れ、佐古田さんはベッドに寝転がったまま絞殺されてしまったのです。そして、最後、凶器は片方の紐の端を引っ張れば回収できますね」冷泉は空間図形には強いが、あまり絵はうまくはないようだった。
「それで、窓の傷を確かめていたんだね」瑞樹が感心したように言う。「でも、紐の傷跡がつくんじゃないの?」
「いや、ビニルコーティングされた紐を使えば、傷つけずに犯行をすますことができるよ」
「なるほど」相藤が肯いた。「そんなうまくいくものでしょうか?」
「物理法則を綺麗に守れば、同じ結果に収束するはずです」
「そんなものなんですね」
「ええ、これが、第一の殺人の真相です」冷泉はひとつ瞬きを落とした。「次に、第二の殺人、橋波佐和子さんが殺害された事件についてですね。彼女が括りつけられたのは、およそ夜の零時前でしょうね。血液のつきかた、臓物の零れ方からそう想像することができます。なので、彼女はそれよりも前、仮に二十三時二十分頃としましょうか。犯人は彼女の部屋を訪れた。額に傷がついていたことから正面から殴られたことが推察できます。凶器は見つかりませんでしたが、一号室の床に血痕があったので、その場が拉致の現場だということは判明しています。そこから花時計まで引きずった痕跡がありました。靴も片方脱げていましたね。そして花時計の現場で彼女を全裸にして、時計の針に括りつけた。そこからさきの死後とは全て時計がやってくれますね」
 八重菜が目を背けた。
「これが第二の殺人の真相です。この、橋波さんが引きずられたということも、犯人を特定する際のヒントになりました」
 そこで冷泉はひとたびぐるりと場を見渡した。
 冷泉のとなりに、瑞樹が座り、向かい側の斜め前にあたる席に八重菜と相藤がそれぞれ咳をひとつ開けて座っている。
「では、次は第三の殺人ですね。黒石徹也さんが蹂躙された上で殺害されたあの痛ましい事件です。犯人はある方法を取って、黒石さんの玄関の鍵を開けさせることに成功しました」
「ある方法?」瑞樹が反芻する。
「そう」冷泉はじっくりと目を閉じた。「ですよね、内海八重菜さん」
 指名された内海八重菜の身体がびくりと揺れる。そしてその顔がみるみる青ざめた。
「瑞樹、言っていたよな。内海さんが黒石さんにぶつかって、鍵が落ちたって」
「ああ」
「間違いないですね?」冷泉は八重菜に目で尋ねた。
「はい」八重菜は気圧されたようにこくこくと肯いた。
「その時にこっそり鍵だけ入れ替えていたんだよ」
「入れ替えるなんて無理です」八重菜は首を振った。「そんな芸当あの数秒間にできるわけない」
「最初からあなたは彼の三号室の鍵の贋物を用意していたんですよ」
「贋物?!」瑞樹が目を瞠った。
「鍵の先っぽは贋物、キーホルダーは本物そっくりだとなると、黒石さんも鍵を使うまでそれが贋物だなんて気づきません。そこで、あの嵐の夜、解散になったあとでこっそりあなたは黒石さんの部屋までいった。黒石さんは鍵が開かなくて往生している。そんなときにあなたはこういったんですよ。『私の部屋の鍵と入れ替わってしまっていたみたいです』とね。そこで、本物の黒石さんの鍵を渡したんです」
「でも、それって黒石さんに渡すのは『二号室のキーホルダーがついた贋物の鍵』でないと、それは成り立たなくないですか? 二号室の鍵と三号室の鍵が入れ替わっていたなんて嘘をつくには」八重菜が必死に抗弁した。
「ええ。キーホルダーのデザインは、ローマ数字です。Ⅱの横に傷でもつけてⅢに見えるように見せかけていたんじゃないですか?」
「傷なんてついていないですよ」八重菜はポケットから鍵を取り出した。「ほら、みてください」
 確かに八重菜が示した鍵にはⅡとはっきり刻印されたキーホルダーがついていた。
「それは本物の二号室の鍵だからでしょう。贋物はもう処分しているのではないですか?」「そんな、今ないものをあったかもしれないだなんて言われても困ります」
「いいでしょう。話を続けます。自分も二号室に入れなくて困っていたと言った内海さんの前で、黒石さんは鍵を開けてしまった。『どうです? あきました?』とでもいえば、開けてくれない人はいないでしょう。それが黒石さんにとって命取りとなったわけです。
 犯人は、黒石さんを殴るか何かして昏倒させ、部屋の内部へ連れて行った。もちろん鍵を閉めることも忘れずにですね。そこからあらゆる残酷な所業を尽くして、最後に首筋をきってから生きた状態で心臓を抉り取った。最後に首を切り取った。それで、あの血まみれの部屋ができあがるわけですね」
「思い出したくもないです」八重菜は口元に手をあてて、目を背けた。
「あんなグロテスクなものは早く忘れたいですか?」
「あんな光景、二度と思い出したくないです」
「そうですか」冷泉は至って事務的に言った。「あなたは今ここで、自身が犯行を犯した人物であることを自供しましたよ」
八重菜は立ち上がった。「え?」椅子ががたりと揺れてひっくり返った。
「おかけください」冷泉に掌で促されて、八重菜は元の通りに椅子に座った。
「どういうことですか?」八重菜は憮然と言った。
「あなたはいつ、三号室の惨劇を見たのでしょう」
 瑞樹がはっと息を呑む音が聞こえた。
「確かに、橋波さんの遺体を見つけたのは内海さんで、それからあまりのショックにログハウスで休んでいたはずですよね。その後の犬馬検証でも、建物を遠くから見てこそいたけれど、光景が目に焼き付くはずはない」
「そ、それは揚げ足取りよ! あなたたちが、どういった様子だったとか、あれこれ話すのが聞こえていたのよ。それで勝手に想像して……橋波さんの遺体のショックと混同してみた気になっていたのよ! そういうことあるでしょ!」
 八重菜は冷泉を懇願する目で見ていた。
 冷泉はあくまで冷徹な相好を崩さなかった。
 八重菜の目が隣の瑞樹へ向く。
 瑞樹も、どこか残念そうな目で八重菜を見ていた。
 それから、風切り音がしそうな勢いで八重菜は相藤を見た。
 相藤は、感情の読めない凪いだ目をしていた。
「なによ……物的証拠はないじゃないの……」
「そこは警察の守備範囲でしょうね。ここまで大筋を暴いてしまって、逆算的に捜査をすれば何かしらあると思いますよ」
「第四の犠牲者は事故だったんでしょ?」
「あれも殺人です」冷泉はいとも簡単に言った。「まず、入り口付近に踏み込み式の小さなスイッチを置いておく。ボタン式でなくカード式だったかもしれませんね。そこに電気が通ったら、ドラム缶に繫がったリフターが膨らんでドラム缶が傾く。こういう仕組みです。リフターというのは、重いものを一時的に浮かす際に使う器具のことですね」
「なるほど。それで。バランスを崩したドラム缶は下に落ちてきたのか」瑞樹は感心した。
「あらかじめリフターを設置していただろうドラム缶のへこみの部分も、後から見れば、ドラム缶が落ちた際にどこかにぶつかって変形したものだと思わせることができる。そういう仕組みですよ。しかし、ひとつアクシデントが起きた」





「石灰か」瑞樹が刮目した。
「そう。あれのせいで、リフターとスイッチを回収した痕が残ってしまったんだよね。俺たちが『この跡はなんだ』という話をしていたとき、内海さんはさぞかし焦ったことでしょうね。その後、俺たちが再び一号室から順に検証している間にこっそり石灰の跡を消した。それができたのも、ログハウスに残っていた内海さんか相藤さんのいずれかしかいないのですよ。
 どうですか? 内海さんまだ言い逃れをしますか?」
 内海八重菜は黙って机の天板を見つめていた。
「動機はなんなんですか?」
「動機? 心臓を素手で握りつぶしてみたかった」
 八重菜はぽつりと零した。
「人を猟奇的に殺してみたかった。どうせ殺すなら、アタシの大事なものを奪った奴をめちゃくちゃにしてみたかった」
 八重菜は遠くにある、眩しいものを追い求めるような目をした。
「恨みのループはどのようにして調べたのですか?」冷泉は事務的に尋ねた。
「東京にね、なんでも調べてくれるっていう興信所があってね。そこはある人が一人でやっているところなんだけど。そこで、今回の話をしたの。最初は花山武を殺した人を調べてほしいっていう話だったんだけどね。面白いことが見つかった」
「面白いというのは、恨みのループのことですか?」
「そう。だから全員に手紙書いて島に呼んだの。最後は白峰くん、あなたの自殺で終わるはずだったのよ。テープを燃やしてしまえば、私たちの関係性なんてわからないわ。残り何人だというカウントだって、狂人の妄想とでもなんとでも解釈はできる。だから……それで私は島から出るつもりだったの。この人と一緒に」
「そう。相藤さん、あなたは興信所の職員ですよね」
「いかにも。どこで気づきました?」
「船の到着時刻です。十二時到着のところを十四時と。瑞樹を騙しましたよね?」
「お見事です。ですが、計画を遂行したのはすべて内海さんですよ」
「この世には殺人教唆罪というのもありますよ」
「それこそ証明のしようがありません」
「あなたはどうするつもりなんです?」
「僕は東京に戻って元の仕事を続けるつもりですよ」
「冷泉君」八重菜が挑発的に言った。「ひとつだけ。本当にどうでもいいところかもしれないけれど、間違っているところがあるわ」
「聴かせてください」冷泉は真摯に向かい合った。
「あなた、黒石が鍵を自分で開けたと言ったわよね」
「はい、言いました」
「あいつ、開けなかったわ。私のこと、犯人わかっていたのか、全体的に警戒していたのか知らないけれど。『開いた? それで合ってた?』と聞いても、『まだ開けません。合ってたかどうかは、あなたが二号室で試してみればわかることですよ。開かなければまた来てください』だなんて、失礼なこと言うのよ。あたし、カッときてその場に隠していたパイプ椅子で殴り倒して、鍵を奪って奴を部屋へ運び入れたわ。そこだけ」
「そうでしたか。失礼しました。この様子だと、警察が到着してからも、ご自分で全部話してくださいそうですね」
「ええ。もう私の欲求は満たされたわ」
「では、内海さん、女性に乱暴はしたくありませんが、椅子に両手両足を縛らせてもらいます。食事や飲料水は十分に置いておきますので、我慢してくださいね」




 2




「冷泉さん」内海は、飲料水のキャップを開ける手を止めた。「聴いてくださる?」
 冷泉ははす向かいの席で彼女の顔をじっとみていた。
 少し、痩せたようだった。
「昔話。私の作った作り話」内海はにへらと笑った。「こうして時間が過ぎるのをただ待つだけっていうのも、つまんないでしょ」
 冷泉は柔らかな視線を作った。それで肯定を示したつもりだった。
「家庭がね。なかったの。毎日、かぎっ子で。一人っ子で。母親の考えで校区外の小学校に通っていたから近所に友達もいなくて。薄暗い部屋には、人形のヤエナがいたわ。ヤエナ。
 あたしはね、ヤエナが好きで好きでたまらなくて。いつもあたしと一緒にいてくれるの。髪を切りたくなってお母さんに髪を切っていいか尋ねたら、『ヤエナは一度切ったら髪の毛は伸びてこないから駄目よ』って言われたの。だからあたしは粘土でヤエナを作ったわ。そして髪の毛を切るの。何度切っても、何度切っても、また元通りになるの。素敵でしょ。
 あたしはヤエナのおなかの中が見てみたくなったの。だってヤエナってば、あたしの友達なのに何も食べないし飲まない。粘土のヤエナに水を飲ませてみることにしたのよ。そうするためには人体の標本が必要になってくる。あたしはお金だけは潤沢に与えられていたからね、人体の本を買いに言ったわ。内臓や骨の配置がのっている分厚い本。レジのおじさんにこんな本を読むのかい? って聞かれたけど、お父さんのおつかいですって言ったら誤魔化せたわ。
 今度は紙粘土で作ることにしたの。胃を作って、小腸を作って、大腸を作って、胆のうを作って、腎臓を作って、直腸を作って、食道を作って、肝臓を作って、すい臓を作って、心臓を作って。全部内部まで忠実に再現したわ。でないと、正しく消化ができないでしょう?
 こうしてあたしのやヤエナは体を手に入れたわ。あたしは手始めに水を口にいれてみたの。ヤエナは美味しそうに水を飲んだわ。でも、小腸までいったところで、とまってしまったわ。水分は大腸で吸収するはずなのに、このままだとヤエナが死んじゃうと思ってあたしは無理やりヤエナを逆さにしたり、横にしたりして水を全身に行きわたらせたの。そしたらヤエナったら、お小水じゃなくて肛門からお水を排泄したわ。失敗作だったのよ。
 それだけじゃないわ。ヤエナったら、なぜだか内臓からどろどろと溶けだしていったのよ。失敗作は自ら溶けて、反省の意を示したのね。だからあたしは衝動的に彼女の顔面を殴ったわ。柔らかくなっていた彼女の顔は簡単に凹んで、あたしの拳の型がくっきりとついたの。あたし、楽しくなっちゃって何度も何度も何度も何度も失敗作を殴ったわ。ヤエナは駄目なヤエナね。失敗作の駄目なヤエナなんかこうしてやる。こうしてやる! って。
 いつもお母さんが言うのよ。失敗作の八重菜なんか、いらない。生まなきゃよかった。あんたが生まれてこなければ、今頃私は課長級になっているんだからって。
 あたしもヤエナに同じようにしてあげたわ。だって、何度作ってもヤエナってば、粗相するんですもの。大便と小便の区別もつけられないおバカなヤエナはぐちゃぐちゃにしてやるのが一番なのよ。
 その頃から、夜遅くに帰って来たお父さんとお母さんが、しょっちゅう喧嘩するようになったわ。毎日夜の九時から十二時まで。あたしの部屋は二階だったけど、全部階段から上へ筒抜けだった。あたしはヤエナを抱いて、枕を頭の上に押し付けて毎日泣きながら寝たわ。お父さんとお母さんが離婚しちゃったらどうしようって。
 毎日ヤエナに相談したの。あたしのただ一人のお友達だから。そしたら、お父さんとお母さんがずっと一緒にいられるように、お母さんを壊しちゃえばいいんじゃないってヤエナは言ったわ。そしたらお母さんは職場に復帰ができなくなるでしょって。
 だからあたしはその指示にしたがって、お母さんの車にこっそり仕掛けをしたわ。ブレーキのところに、お母さんの口紅を転がしといたの。そしたらお母さん、電柱にぶつかって怪我して顔に痣ができたわ。それからはもう、離婚して職場に復帰したいなんて言わなくなったの。
 でも、その代わり、八重菜の成績が上がらない話をしてきたわ。せっかく遠い私立に通わせているのに、これじゃあ、お金をどぶに捨てているようなものだって。あたしだって公立の小学校のレベルのテストだったら一番がとれるはずなのよ。私立では半分くらいだけど。
 悔しかったから勉強をしたわ。毎日家に帰って、ヤエナと一緒にあのひとたちが喧嘩している間も。そしたらね、なんと二番が取れたの。先生からはカンニングしたのか何度も聞かれたけど、そんな卑怯なこと一度だってしてないわ。嬉しくて帰ってお父さんとお母さんに見せたらね、なんて言われたと思う?『一番の子は誰なんだ』『一番の子の親が羨ましい』
 あたしは絶望したわ。次に一番を取ってやるなんて思えなかった。その成績表は、ぐちゃぐちゃに破ってゴミ箱に捨てたわ。
 あたしは次第に漫画を描くようになったわ。漫画の中ではヤエナも髪が伸びるし食事もするの。あたしだっていつもテストで一番、お母さんもお父さんもいつも優しいわ。勉強せずに漫画を描いているのがばれると叱られちゃうから、あたしは漫画を古い茶封筒にいつも仕舞っていたの。ある日帰ったら、その茶封筒がなくなっていたの。お母さんに聞いたわ。そしたら『割れた茶碗を包む紙がなかったから、ちょうどいいと思って使ったわ』って。
 あたしの世界は壊れてしまったの。
 両親は、あたしが中学のときに結局離婚したわ。お母さんは元の会社じゃなくて、揚げ物屋さんでパートをしている。あたしも高校からヤエナを連れて家を出てバイトするようになったわ。
 こんな駄目で何のとりえもないあたしを、可愛いって。大事にしたいって言ってくれたのは、武さんだけだった。
 だから……あたしから武さんまでを奪ったあいつが許せなかった……。
 あとはどうでもよかったの。
 だって、あたしは、何もないただの空っぽの人形だから」


 こうして、長い一週間は終わりを告げた。

  


































エピローグ




 1




「れーいぜい! お前またすげー事件解決したらしいじゃん」
 背中から乗られて、冷泉は危うく前へつんのめりそうになった。
 隣で瑞樹が苦笑いをしている。
 同じT大学剣道部の千葉景虎である。
「お前剣道部なのに隙だらけだぞ。武人たるものそんなんじゃいけねぇなぁ」
 季節は秋の終わり、大学生の夏休みももうあと二週間という九月の中旬である。銀杏並木が目に眩しい。
「で? 何の用?」冷泉は切り出した。
「何の用って冷たいな」
「こんなところでお前が俺を呼び止めるなんて、何かあるときしかないだろう」
 すると、千葉はいきなり真剣な顔になって、そこのベンチいいか? と、ロータリーの端にある茶色いベンチを指さした。
 瑞樹が気をきかせて、学内掲示板の方へ行こうとするのを「あ、瑞樹も聞いてくれ」と呼び留めて、そういうことで……男三人がベンチにびっちり座ると言うむさくるしい光景ができあがったわけである。
「どうした?」冷泉が先を促す。
「うん」景虎は一つ頷いて口を開いた。「俺の故郷、随分と田舎にあるんだけどな、武田信玄公をものすごく奉っているんだよな。その村にある日手紙が届いたんだ」



『千葉 景虎 様
 
一九九*年 *月*日
Y県、***村にて待たむ。
武田 信玄



「これは……!」予想以上に大声が出た瑞樹が慌てて口を塞いだ。「冷泉」
「そうだな」冷泉も、細い顎を捏ねながら、口を尖らせた。「穏やかじゃないな」
 まだ日にちはあるものの、瑞樹が受け取ったものと同じ文面の文書となれば、警戒せざるを得ない。
「この文書は警察の中でも機密情報とされているはずなので、模倣犯はありえない」
「な、気味悪いだろう? 信玄公が蘇るわけないのによぉ」景虎は腕を組んで首を捻っている。
「冷泉、まさか」瑞樹は切れ長の目を丸くして冷泉を見た。
「ああ。景虎いいな。このことは誰にも口外するな。見せてもいけない」冷泉は、景虎を正面から見据えた。
 景虎も正面から肩を掴まれて驚いた様子である。「あ、ああ」
「また、あの惨劇が……あの男……」瑞樹がぶつぶつと呟いた。
「相藤一郎」




 2




 その日の帰り道、冷泉は自らの下宿しているアパートの二階へと階段を昇っていた。カンカンカン……。そこには、一人の男が座っていた。相藤一郎だった。
「あの手紙、読みましたか?」相藤はにこにこと笑んでいる。服装は黒いスーツにノータイ、白いワイシャツ。
「これ以上、僕たちを巻き込むのはやめていただけないでしょうか」
「君が巻き込まれるかどうかは、君次第なんじゃないかな?」
「俺次第って……そんな非情な」
「助けにいかなければいいじゃないですか」
 二人の間に、一陣の夜風が吹いた。
「相藤一郎というお名前、偽名ですよね」
「そうですね」
「本当の名前はなんというのです?」
「真砂玲司」
 そのあまりにあっさりとした様子に、冷泉は思わず言葉を失った。
「何か言いたそうだね」
「なんで、そんなにあっさりと教えてくれたのですか?」
「君と僕はね、ちょうど十二支が一周まわった日に産まれているんです。誕生日が同じ日なんです」
「ただそれだけで?」
「ただそれだけで」
 相藤――真砂は、その場に立ち上がった。
「僕たちはまた出会うよ。そう遠くない明日にね」
 そう言って彼の足音が遠ざかっていくのを、冷泉は最後の一音まで聞いていた。




〈本文 了〉