四神村殺人事件



おもな登場人物

朱雀邸

 朱野松右衛門(享年七八)――『朱雀の館』の前・当主。

 朱野源一郎(五二)――『朱雀の館』の現・当主。松右衛門の長男。

 朱野かすみ(享年二四)――その妻。二十四年前、透と穢を産んですぐ他界。

 朱野透(二四)――源一郎とかすみの長男。一卵性双生児。

 朱野穢(二四)――源一郎とかすみの次男。一卵性双生児。

 朱野百合子(享年三五)――源一郎の後妻。十年前に他界。

 朱野静(十九)――源一郎と百合子の長女。

 藤川絹代(四三)――源一郎の現・愛人。

 水谷(五〇)――朱雀の館の執事。勤続三十二年。



玄武邸

 武藤霧子(四二)――『玄武の館』の当主。



白虎邸

 白峰秀一(四三)――『白虎の館』の当主。

 白峰琴乃(三七)――その妻。深見陽介の姉。

白峰瑞樹(十八)――その長男。県外の大学一年生。

 深見陽介(二三)――中学の理科教師。琴乃の弟。朱野透と大学の同期。

 冷泉誠人(十八)――瑞樹と同じ大学の友人。大学一年生。



青龍邸

 龍川清三(六三)――『青龍の館』の当主。村の眼医者。

 龍川夫人(享年四五)――その妻。三年前に他界。

 龍川小夜(十八)――その一人娘。地元の大学一年生。

















プロローグ



 朱野松右衛門翁逝去の報が村を揺らしたのは、その年の七月も末のことだった。

 じりじり肌を蒸し焼きにする、湿った暑さの前触れに照らされた朝、家の敷地内にある堀井戸の底から、その変わり果てた躯は引き上げられた。

 よく冷えた井戸水を全身にずっしりと吸ったその躯は重く、成人した男二人掛かりでもなお引き上げるのにはたいそうな骨折りを強いられた。そうしてようやく白日のもとに晒された老体は、釣瓶と綱とに雁字搦めに逆吊りされて、それはもう、見たものの毛穴を氷漬けにするほどにひどく無残な有様だったという。





第一章 八月十八日



 一



 前略

 ずいぶんとご無沙汰しています。お変わりなくお過ごしでしょうか?

 本年七月、祖父・朱野松右衛門が永眠いたしました。

 そして問題はそれからです。

祖父の怪死が、村に降りかかる呪いのほんの序章であるという差出人不明の怪文書が届きまして、こうして稀有な縁のある深見君に相談差し上げた次第であります。

 同じ村に住む者として、君の姉君も危険に晒されている以上は、黙っておくこともできますまい。

 ただの悪戯ならば良いのですが……。

君の都合の良い日――夏休みにでも一度村に様子を見に来てはくれないでしょうか。

 久しぶりに会って話がしてみたいものです。

草々



 一九**年 八月二日

 朱野透

 深見陽介様



 深見陽介はその奇妙な手紙を三つ折りに畳み、ため息とともに上着の内ポケットへしまい込んだ。

 ローカル線の車窓から見える景色は至極長閑である。

緩徐に車体を揺らす鈍行電車の開け放たれた窓から、盛夏の日差しに温められたぬるい風が吹き込んでは、短い前髪を擽って過ぎていく。

車内に目を転ずれば、家族連れやら若者のグループやらの姿がまばらに車内を温めていた。始発からしばらくこそ、夏休み特有の大混雑に見舞われていたものだったが、列車は駅に着くたびに客を吐き出し続け、終点に近づいた今では、首を伸ばせば隣の車両が透けてみえる。辺りは心地よい静けさを取り戻していた。

風にはためいた上着を撫で正せば、そこには封書の分だけ厚みが感じられる。

 この手紙を受け取ってすぐ、深見はまず差出人である朱野透の自宅へと電話を入れた。ワンコール目で出た執事らしき男性の声に取り次がれたのち、どこか懐かしい、耳触りの良い落ち着いた声が電話口に出た。軽い挨拶を交わして、深見は早速本題を切り出した。しかし、返って来たのは予想だにしない反応だった。

 彼は、手紙など送っていないというのである。

 驚いた深見が手紙の内容を要約して話しても、一向に心当たりがないと首を傾げるばかりで埒が明かない様子であった。

 では、松右衛門翁が亡くなったのも嘘なのかと尋ねれば、そちらは事実であるようで、ますます不気味さが増すばかりである。

 その日はそれで受話器を置いた深見であったが、書状の内容からしてどこか不穏なものを感じずにはいられない。まるで背筋に百足、奥歯に銀紙の気分である。そこで、今度は姉の白峰琴乃へと電話をかけてみることにした。

書状に出てきた姉君とは、まさにこの白峰琴乃を指していた。彼女は、今年二十四歳になる陽介の、十三歳の離れた姉にあたる。もうかれこれ二十年前に、朱野透の住む四神村の旧家の一つ、白峰家へ嫁いでいって、翌年息子を一人授かった。そして、その息子も今年で十九になる。なお、深見が四神村へ赴いたことはこれまで一度もないため、顔を合わせることといえば、琴乃が深見家の本家である実家に帰省した折に限られていたが、それでも盆と正月には本家で顔を合わせる程度の間柄は保たれていた。

その姉の住む白峰家の電話番号を深見は諳んじ、要約して事を話した。すると、やはりこちらも内容に心当たりはないとのことである。しかし、誰かが明確な意図をもって深見に書状を寄越したという事実が消えるわけではない。それも、四神村の事情――朱野松右衛門翁の怪死や透と深見との関係性、白峰家と深見との関係性――に精通した人物の仕業である。そこに何かしらの作為があることには間違いがないのだ。

そう思うと、とても見てみぬふりをする気にはなれなかった。そういうわけで、深見陽介はちょうどお盆時期に差し掛かることもあり、勤め先の中学校からもらった短い夏休みを利用して、挨拶がてら四神村を尋ねることにしたのであった。

 その旨を朱野透にも連絡したところ、きっかけが不穏であるだけに不安げではあるものの、およそ一年半ぶりの再会をたいそう喜んでくれた。それから、交通の便の悪い村だからと、最寄りのバス停留所まで出迎えにきてくれることになったのである。

 ローカル線の普通電車を終点で下車し、一日二本のバスに乗り継いで揺られること二時間。七ツ森町の由緒ある教会と隣接する福祉施設を通り、それから深見の本家のある六山市の市街地を素通りして、そのはずれで下車する。そうしたところで、不意によく通る声が背中を叩いた。

「深見」

 朱野透の声だ。振り返れば太陽の下、一年半前とさして変わらない懐かしい顔が、数尺向こうで輝いていた。まっすぐした清潔そうな黒髪が、東北の夏の湿った風に揺れている。少し日に焼けただろうか。色白の印象の濃かった肌は、ほんの少しばかり色味を増して実に健康そうに見えた。大学卒業後は家業を手伝うときいていたが、具体的なことについて深見は何も知らされていない。よく日に当たるようなことをしているのだろうか。しかして、凛とした目元が印象的な、なかなかの美丈夫であることに変わりはなかった。

「うわぁ久しぶりだなあ、朱野。迎えにきてくれてありがとうな」

 深見が白い歯を見せて、隣の肩を二度叩くと、朱野透もつられたように白い歯を零した。

「深見こそ、遠いところを来てくれてありがとう。まさか卒業一発目の再会場所が四神村になるなんて、思ってもみなかったよ」

言って朱野透は半身を翻し、一歩踏み出した。言外についてくるように促された深見もその影を追う。からっとした日差しは中天に向かい、やや東の空から垂直に大地を照らしていた。

「久しぶりだな。朱野の運転は」

「あ、深見、運転してみる? 東京じゃ運転する機会もそうそうないだろ。だいぶ鈍っているんじゃないか?」

 悪戯そうに顔の横で鍵を掲げた透に、深見は破顔一笑して目の前の青いシャツをはたいた。

「無茶言うな、遭難する気か」

 視界に入る山という山はどれも、どこに道があるのかもわからないほど青葉で丸々と生い茂っていた。

「……なんだか、B級サバイバル映画の導入みたいだな」

「やだよ、俺主人公だろ? それで、朱野が山の中で突然いなくなる流れじゃん」

「主人公と一緒に山に迷い込んですぐに消える友人役か。それで、中盤あたりに敵に洗脳されて出てくるのな」

「そうそう、それで俺、泣きながら朱野を倒すの」

「え、俺倒されちゃうの? 正気に戻してくれるんじゃないんだ」

「あ、そっち? そっちね。『目を覚ませよ、俺ら友達だろ』って肩掴んで揺さぶるのか」

 洋画の吹き替えよろしく大袈裟な抑揚をつける深見に、透は白い歯を零す。

その反応に機嫌よく頬を持ち上げると、深見は続けた。「そっちルートなら、正気に戻った朱野と二人でボスを倒す流れだな。……一気に熱血王道っぽくなったぞ」

「B級サバイバル映画が、B級少年漫画になっちゃったなぁ」

透がくだらなさそうに笑うのを受け、深見も喉の奥で笑った。

「でも学生の頃はレンタカーを借りて、行ったことないような場所にもよく遊びに行っていたな」

「懐かしいな……」透はしみじみと、胸の奥底にあるものを一気に吐き出したような密度の高い声を落とした。

その声に深見は、視線で友の横顔をなぞった。目の前の彼は、ずっと遠くにある綺麗なものに思いを馳せるような澄んだ目で稜線を眺めていた。

「荷物はトランクでいい?」

 やがて歩き出した透が指すところを見れば、そこには一台の軽自動車が停車していた。田舎の山奥の未舗装の道を通るのに普通車は大きすぎるため、この辺りで見かける自動車と言えば軽自動車がほとんどである。

深見は言われるがままに、差し出された彼の手に荷物を預け、それからこんがりとよく照らされた助手席へ乗り込んだ。

「疲れただろう。ゆっくりくつろいでくれと言うには狭いけれど、村に着くまで楽にしてくれたらいいよ。もうしばらくは車の中だから」そう茶目っ気混じりに言って、朱野透は手際よく車を滑らせた。

彼の纏う空気独特の心地さに身体を浸らせ、懐かしさに深見は口元をほっと緩める。車がスピードに乗るに従って、窓から飛び込む風が柔らかく頬を撫でていった。

 深見陽介と朱野透は大学の同期生にあたる。

 教育学部生である深見に対し、透は理工学部生と、学部こそ違ったが、様々な学部の生徒が入り混じる教養科目の第二外国語の授業で、偶々席が隣になったのが始まりだった。

 話をしてみれば、気が合うどころか、驚くことに互いの故郷が目と鼻の先だというのだから、数奇な縁である。……

 車窓から移り変わる田舎景色に引きずられるように、深見の記憶は自然と隣に座る男との出会いの場面へと巻き戻されていた。

 小川を跨いだ小さな石橋を渡ると、こんもりと茂ったブロッコリーの大群のような深い緑の山々と、その隙間を彩る果樹園に囲まれた風景に出迎えられる。先ほど通ったバスの通る市街地から、長閑なここら田園地帯までを含んだ六山市というのが、深見陽介の故郷だった。

そして、深見家というのは元々ここら一帯の領主であり、祖父の代からはこの市の市会議員を務めているといった家系である。例に漏れず、深見陽介もまた父の地盤を継ぐ者として、当然の如く、溢れんばかりの両親からの期待を受けて育てられてきたのだが、残念なことに陽介自身はそういった権力やら何やらには全く興味が持てなかった。更に輪をかけて不運なことに、陽介は深見の本家の長男であるばかりでなく、きょうだいは十三も年の離れた姉が一人きり。唯一のいとこもまた女である。そのため、深見家の跡継ぎの期待は、幼少より陽介ただ一人に注がれて育ってきた。陽介が政治に興味のある人間であればさぞかし恵まれた環境だっただろう。しかし幼少から政治の表側はもちろん、その裏側まで見て育った陽介はだいぶ食傷気味で、俺にはできない、あれは親父だからできることだと背を向けるばかりであった。

そうした圧力から逃れるように、東京の大学へと進学した先で出会ったのが、朱野透という男なのである。それも、聞けばその故郷は、深見の故郷六山市から車で数時間、五藤村を挟んで隣に位置する四神村という小集落らしいではないか。

 故郷から逃れるために上京したとはいえ、深見だって別段己のルーツそのものへの嫌悪があるわけではない。寧ろ人の溢れかえる東京において同郷の者と出くわしたことに、純粋な親近感を覚えるほどであった。

ところが、接点はそれだけにとどまらなかった。

同郷というだけで、親近感を覚えるには充分だったが、偶然とは重なるもので、その四神村とは深見の姉の琴乃の嫁ぎ先でもあったのだ。

 そこから二人の距離が縮まるのは早かった。話が弾み、そして卒業して離れた今でも、多忙な合間を縫ってぽつぽつと連絡を取り合っていた。

「しばらく白峰さんの家で過ごすんだってな。うちに泊まってくれてもよかったのに」

深見が白峰家に滞在する旨を透に電話したところ、水臭いじゃないか、ならば車で迎えに行くよと、透は出迎えを買って出てくれた。バスも通らぬ奥まった村ゆえ、その申し出がいかに有難かったかは言うまでもない。

「手紙が気になったのもそうだけどさ。朱野のお爺さんに、その、お線香もあげたいし、それにたまには姉さんの顔も見たいなって思っていたところだったしさ。四神村にも行ってみたかったし……そういう切欠にはなったんだよ。甥っ子もちょうど里帰りしているみたいだし」

「瑞樹くんか。昨日帰ってきたみたいだよ。友達も一緒に泊まりにきているみたい」

「え、彼女?」

「ふふ、男の子だよ」

なんだと落胆する深見を見て、朱野透はおかしそうに肩を揺らした。

 白峰瑞樹は、深見にとって姉の息子にあたる。この春から東北M県の国立大学に通っていた。深見が彼と最後に会ったのは今年の正月だ。深見は両親から、県外への就職を認める代わりに、盆と正月には必ず帰省するように口酸っぱく言われているため、自由の代償として帰省を欠かしたことがなかった。これは姉一家も同様らしく、年に二回の本家への挨拶を欠かさない。

車窓からゆるりと流れる景色の中に学生服の少年をみとめ、深見の頭の内に、或るひとつの影が姿を現す。今年の正月に見た白峰瑞樹だ。半年ぶりに会った甥は、まだ華奢さが抜け切れていなかったそれまでに比べ、背も伸びて少し逞しくなっているようだった。それでも姉に似て、黒目がちの涼やかな目元をした中性的な印象は変わらなかったが。

車が滑るような屈曲を三度繰り返すと、景色は一転して深緑に包まれた。駅から見て六山市より郊外は、深見にとって足を踏み入れたことのない領域だった。

田園地帯は、左右に青々とした雑木林の間をくぐる未舗装の山道へと景色を変えている。

山を幾つか越えた先に五藤村、そのまた先に四神村という村があるのだと話には聞いていたが、なにぶん言ってしまえばどん詰まりの辺鄙な村ゆえ行く用事も目的もない。あるのは子供特有の幽かな冒険心だけだったが、それを満たすためだけに赴くには遠く、またどこか不気味だった。生い茂った細い道のずっと向こうにあるのだという村を想像すれば、未知への恐怖からだろうか、行ったら二度と戻れないような気さえしていたものだ。

そんな感慨などよそに、車は未知なる道へと轍を延ばしていく。

山道を車で走ること一時間。昼食を挟んで、五藤村という錆びた標識を横目に更に走ること更に一時間。渓谷に架かった長い橋で渡ってすぐのところに、軽自動車がようやく離合できるくらいの古いトンネルが現れた。日の光が数十年は届いていないのではないかと思しき湿っぽく黒ずんだ壁面は苔蒸し、枯れた蔦が幾重にも垂れ下がっている。

「このトンネルを超えた先が、四神村だよ」と、透は右手で窓を閉め、慎重にトンネルの中へと車体を滑らせた。

 しかしてそこは、まるでトンネルとは名ばかりの、真っ暗な洞穴だった。

 車のヘッドライトだけが行く手の数歩先を照らす。その向こうは完全な闇だった。

 深見は思わず窓のクローズボタンを連打した。

 窓が完全に閉まりきると車外の音が遮断され、一気に無音が押し寄せる。鼓膜が圧迫され、外界から隔絶されたような気分になった。

 車窓から見える景色は、ただただ闇一色である。

 ヘッドライトが照らす二つの黄色い円と、それ以外の闇と。その二色だけが世界の全てだった。ともすれば前進しているのか、はたまた後退しているのかさえわからなくなってくる。

 窓は閉めきっていて暑いはずなのに、車内はひんやりと冷たく背筋を這うような寒気がした。まるで鍾乳洞の中のようである。

 時間感覚さえわからなくなりそうだ。

 ぞっとした恐怖を覚え、深見は車内のデジタル時計へと目を転じた。黒い画面に浮かび上がった薄緑色のそれは十三時四十四分を指している。ごくりと唾液を飲み込む音が車全体に響いた気がした。

「酔った? 大丈夫?」

 急に口数の減った深見を不審に思ったのだろう、透が不安そうな表情を浮かべたのが気配でわかった。

「いや……」深見は小さく咳をした。安心させようと、努めて明るい声を出そうとしたものの声が掠れてしまったのだ。慌てて水筒の水を口に含む。ほんの少し体温が戻るような気がした。「ずいぶん暗いトンネルだなと思って」

「ああ、だいぶ古いトンネルだからね。改修しなきゃいけないんだろうけどさ。けれど、村へ繫がる唯一の道だから、ここを封鎖して改修すると行き来できなくなっちゃうんだ。だから補強してやり過ごしているみたい」

「え、他に道はないの?」深見はギョッと透を見遣った。暗闇にぼうっと浮かんだ横顔は、見慣れた透のものというよりも、全くの別人のそれに見えた。朧げに揺れるそれは、まるで血の通わぬ蝋人形のようで、ますます背筋が寒くなる。

 そんな深見の心境など知る由もない透は、真っ白な横顔のまま、一つ瞬きを落として仄白い唇を開いた。「ああ。山林を抜けてきても、最終的には村をぐるりと囲んだ深い谷に突き当たるみたい」

「トンネルの前に渡った渓谷か」

「うん、それ。あれが難所で、橋がないと渡れない。だから、例えばトンネルが崩れるようなことがあると完全に閉じ込められるんだ」

「閉じ……」

 思わず言葉を失う深見を宥めるように透は付け加えた。

「でも大丈夫だよ。古くても頑丈だから、崩れるなんてことないさ。それこそ、人為的に壊しでもしない限りはね」



 二



 トンネルを抜けると、そこは雑木林だった。

 脇に木の生えていないスペースがあり、中ごろに一台の軽自動車が泊めてある。その隣に並んたところで、車は止まった。

 外に出て深見は思い切り伸びをした。

 しばらくぶりの外気はひんやりと冷たい。幾重にも生い茂った木枝に遮られ、年中日光が届かないのだろう。辺りは苔蒸し、湿った落ち葉が重なっていた。その底には、更に前に落ちたと思しき木の葉が積み重なって腐葉土化している。

 ぐるりと周囲を見渡す深見に倣うように、透もまた視線を巡らせてから言った。

「これは龍川先生の車、その向こう側にはいつも白峰さんの車が止まっているのだけれど、今はご主人が使っているみたいだね」

 白峰家の主人とは、深見の義理の兄にあたる白峰秀一を指している。

「ああ、そういえば秀一さんは昨日から出張だって姉さんが言っていたな。二十一日には帰るって言っていたから……三日後か」

「そっか。深見は二泊できるんだっけ?」

「そう」

「なら、ちょうど会えないのか」

 透がトランクから取ってくれた荷物を受け取り、深見はああ、と肯いた。「と言っても、今年の正月にも会えてはいるし、割とよく会ってはいるんだよね」

 例年だと盆にも会っているのだが、今夏は深見がお盆休みを後ろにずらしたせいでまだ帰省が済んでおらず、従って白峰一家とも会えていなかった。

「実家にはこの後で寄るの?」

「ああ。四神村に二泊して、実家に一泊してから東京に帰る予定」

「そっか」透は曖昧に笑い、それ以上深く話を広げることをしなかった。

気を遣わせたのなら申し訳ないと思う一方で、そういうところが深見が朱野透という男を心地よく感じる理由だった。

 喋りながら登る山道は、運動不足の身には鈍くこたえる。息が上がっているのがばれたら恰好がつかぬと懸命に堪えながら登った先は、見晴らしの良い小高い丘になっていた。高台に生えた木々の隙間から村全体が見下ろせる。

 降り注ぐ蝉の声に全身を包まれる。烏が一羽、低く哭いて飛び立った。

 眼下に広がるそれは異様な光景に映った。

 よく見る寂れた山村のイメージとは違う、ある種人工的な美しささえ感じられた。

 視認できる家屋は四軒だった。まず村全体に描かれた正三角形の頂点に一軒ずつ。それから、そのうち一軒の奥にもう一軒あり、それで計四軒である。その周りは果てしなく続く深い森、連なる山々が見渡す限りどこまでも続いていた。

 足を止め食い入るように見つめる深見の様子に、透も隣で足を止めて言った。

「一番奥に見える一軒が、龍川先生の『青龍の館』。先生は自宅で眼医者をやっているんだ。その手前が深見のお姉さんが住む『白虎の館』、右手前が俺の家『朱雀の館』、左手前が武藤さんという女性が住む『玄武の館』」

 深見の視線が、耳なじみの良い透の説明に従って動く。

「四神村の名の通り、それぞれの館は中国神話の四神がモチーフにされているんだ。四神は方角を司る霊獣だから、本来なら東西南北に一軒ずつ配置されるのだろうけれど、現実はご覧の通り。歪な配置をしているだろう?」

「言われてみれば」深見は言葉を濁した。透の言う通り、屋敷の配置はお世辞にも四方を模しているとは言い難かった。

「江戸末期頃までは白峰家、武藤家、朱野家の三軒を交えた十数軒が暮らしている集落で、村の名前も館の名前も特にはついてなかったんだってさ。それが徐々に家が途絶えたり、他所へ流れていったりしてしまって、ついに三軒だけになってしまった。そこに外部からやってきた医師の龍川家が加わった偶然から、住人たちがまるで四神のようだ、四神の導きだと言い出して、東西南北と真ん中に石碑を建てて拝み始め、それぞれの家を四神にまつわるよう改築して四神の館と呼び始めた。それで四神村と住民たちが呼んでいただけだったんだけど、いつからか通称になり、気づけば正式名称になっていたって話だよ。つまるところ、『四神』なんてのは、無理やりの後付けなんだ。こじつけで歪な信仰に浸っている村なんだよ」

 その言いぐさに、にじみ出る透の苛立ちのようなものを感じ取り、深見は思わず隣の透の顔を窺った。が、そこにあるのはいつもと変わらない朱野透の涼やかな顔だった。

「それじゃあ、村へ降りようか」





一度登った斜面を、村を淵取るように時計回りに緩く下っていく。木々に遮られて翳った淵とは違い、村の中心部は盛夏の日差しに照らされて白くまばゆく浮かび上がって見えた。

そうしてしばらく降りたところで、右前方に一つ目の館が近づいてきた。

「そうそう。四神を祭った石碑があるって話したの、覚えている?」

「ああ覚えているよ」

「あれが、その石碑のうちの一つ」透は向かって左を指し示した。

なるほど生い茂った木々の隙間に青緑色をした人工物が見える。近寄ってみれば、成人男性の胸ほどの高さをした石像だった。

「これが東方を司る『青龍像』」

 透の説明を背に、深見は目を細めて日陰に座したその像を覗き込む。よく知る龍と比べると、どこか歪な印象を受けた。

「あれ、龍ってこんな風だっけ。角とか、思っていたより派手なんだな」

 龍の頭には、トナカイのような角が左右に三本ずつ生えていた。そして風化を差し引いても、身体もまだら模様でごつごつしている。

「ああ、よくいわれる龍とは違うよね。それは鹿の角だよ。これ以外にも青龍は、馬の首、魚の鱗、蛇の尾をもつと言われているらしい」

「へえ、じゃあこれは蛇の模様だったのか」深見は青龍像のまだら模様をまじまじと眺めた。指で触れようと伸ばしかけたが、寸でのところで引っ込めた。

そうしたところで、頭の後ろから透の声が降ってきた。

「五行説では木に対応するとされているから、こんな木々の麓に建てたんだろうね」

心地よい言葉を背に、深見は縮こまった首を解すようにぐるりと辺りを見まわす。透の言うように、寸分先は足場も見えないような深い藪だ。そのまま村の中央へ身体を反転させると、深緑の庇を抜けたすぐに一つ目の館が静かに聳え立っていた。

 黒っぽい外観の三階建ての洋館だった。

 村の中心に向かって玄関があるようで、二人が歩いている山道からでは裏側を見ることしかできない。洋館の周りは小麦色の土になっており、それを囲むように三方向に花壇が拵えてあった。

「これは『玄武の館』。今は武藤霧子さんっていう女性が一人で住んでいる。かつては武藤婦人のご両親も一緒に住んでいたらしいけど、もう三十年も前に亡くなったんだって。俺が生まれた頃にはもう霧子さんが一人で住んでいたよ」

「一人でかあ。立派なお屋敷だなあ」深見は息を漏らして屋敷を見上げた。ところどころに蔦の這った、年代を感じる洋館だった。

 広い屋敷に一人で住むのはどのような気持ちなのだろうか。

 普段六畳一間のワンルームに住んでいると、もっと広い家に住みたい気持ちがわいてくるものだが、人里離れた村の屋敷に一人で住むのと一体どちらがましだろう。

 とても口に出しては言えないことなので、それらを胸に仕舞込んで深見は建物を見上げた。三階の窓越しに人影が動くのがちょうど目に入る。長い黒髪を後ろで纏め、色付きの眼鏡に黒の衣服を纏った色白の女性だった。あれが武藤婦人なのだろう。顔はこちらを向いているようだが反応がない。

「霧子さん、こんにちは」

 透が声を張ると、ようやく影はこちらに気づいたようで窓を開けてにこりと笑った。

「こんにちは。その声は、透さんかしら」

「武藤さんはね、小さい頃に病気に罹ってから目が不自由なんだ」透は、視線はそのまま小声で深見にそう囁くと、再び窓に向かって声を投げかけた。「はい、透です。隣にいるのが深見陽介くん。僕の大学の友人で、白峰琴乃さんの弟さんです」

「まあ、はじめまして深見さん。わたくしは武藤霧子と申します。琴乃さんにも透さんにもいつもよくしてもらっているのよ」

 明るい屋外からだと暗い室内は見え難い。三十年前まで親子三人で住んでいたということは、三十歳は過ぎているはずだが、年齢の読めない女性だった。どこか浮世離れした上品な物腰が印象的である。

「はじめまして、深見陽介です。こちらこそ姉がお世話になっています。この昨年の春から、東京で中学の数学教師をしています」

「まあ、先生なのですね。立派だわ。そういえば瑞樹ちゃん……いえ、もう瑞樹くんと呼ばなきゃね。彼もお友達を連れてきていたわね。村が明るくなるようで嬉しいわ」

「そうですね。普段閉じた村の中で過ごしていると、ちょっとした変化やお客さんが嬉しくてさ」前半は武藤霧子に、後半は深見に宛てて透は言った。そして再び霧子に向かって声を張る。「では霧子さん、また夜にお会いしましょう。お迎えにあがりますので」

「透さん、いつもありがとうね。楽しみにしているわ」と、右手を上げると、武藤霧子は慣れた手つきで窓を閉め、部屋の奥へと消えていった。

 それら一部始終を見送ってようやく透は深見へと向き直った。「夜の会食は武藤さんも来るよ」

 今晩、深見は朱野家で夕飯をご馳走になることになっていた。

「村の人全員来るんだって? すごいな」

「村の外からお客人が来ることなんて、滅多にないからさ。みんな嬉しいんだよ。村人全員といっても四軒しかないしね。いっそみんなに声を掛けてみようって話になってさ」

 『玄武の館』を離れるとすぐに『白虎の館』の影が大きくなってきた。歩いて一、二分といったところだろう。右手に視線を転ずれば、菜園を挟んだ向こうにもう一つ館の屋根部分が見える。丘の上で受けた説明を思い出す限り、あれが透の住む『朱雀の館』だろう。残る一軒『青龍の館』だけは、『白虎の館』の影になって、今いる場所からでは見えそうになかった。

「そろそろ石像の二つ目が見えてくるよ」

「四方と中央で、五つあるんだっけ」

「うん。あれが中央に建てたっていう石像」

 透が右手を指し示した先、三角形を形作る玄武、白虎、朱雀の館のちょうど中心辺りに白いトーテムポールのような石像が見えた。

「へえ、あれが」

「ああ。その向こうが菜園だよ。往年よりはだいぶ縮小されたけれど、かつての自給自足の名残だね。明治初期頃まではもっと多くの家屋があって、畑だらけだったみたい。今でも、ある程度の野菜だったら自給自足できるよ」

 ふと黄色い菜の花を背景に、モンシロチョウがふわふわと飛ぶさまが見えたようだった。

 瞬きをすれば、そこには天に両手を伸ばしたひまわりが戻っていた。それから何度瞬きしても変わらず、太陽の化身が心地よさそうに揺れている。大きな飛蝗がちちちと羽根を鳴らして飛んでいった。

 パノラマに広がる異国のような景色を前に、姉はこんな村に嫁いだのかと、深見の心内に突如として感慨深い思いがよぎる。

 この隔絶された村で、姉や透は日常を送っているのだ。

 深見が授業をし、部活動の指導を行い、時にネオンに囲まれた街で居酒屋をはしごしたり、ぴかぴかに磨かれたガラスと無数の商品が所狭しと立ち並ぶ陳列棚に囲まれて買い物をしたり、満員電車に揺られて帰宅しているときに、彼らはこの時の止まったような村で日々を送っているのだ。……

 透はそのまま東京に就職しようとか、理工学系の知識を活かせる仕事に就きたいとかは思わなかったのだろうか。都会至上主義を謳うつもりなどなかったが、ふと、そんな思いが深見の胸にこみ上げてきた。

 大学時代よりも日に焼けた顔、若干筋肉のついた精悍な身体を見れば、彼にとってこの村での生活が充実したものだということは想像がつく。田舎に帰り、両親の望んだ職に就くことは、深見にとって耐え難い苦痛であったわけだが、同じように透にとっても苦痛であるとは限らないのだ。ひょっとしたら彼にとっては、それこそが幸せなのかもしれない。

透の現状を目の当たりにしたことで、深見の心の中でひしめき合う親の言いなりを覆したという解放感と、親の期待に背いているという小さな罪悪感がむくむくとその存在を主張し始めた。田舎に戻り、六山市議会議員である父親の秘書として経験を積み、ゆくゆくは地盤を継ぐことが求められている。しかし、深見はその意に反して我を通し、東京で就職してしまった。そんな自らの葛藤が首を擡げているのに無理やり蓋をするように、深見は視線を石像から引きはがす。

数歩先で、横向きに待つ透の柔和な視線がこちらを温かく照らしていた。



 三



 『白虎の館』は、二階建ての母屋と平屋造りの離れの二棟から成り立つ屋敷だった。

呼び鈴を鳴らせば、スピーカー越しにどうぞと姉の声が返ってくる。傍にある石造りの柱と柱に渡された金属の門を開ければ、ぎぎぎという古めかしい音が鳴った。続く飛び石を渡ったあたりで玄関の扉が開き、見慣れた女性が顔を出す。

「いらっしゃい。遠いところをよく来てくれたわね」

 深見の姉の白峰琴乃だった。

 黒目がちで、普通にしていてもほんのりと笑っているような目をしている。肩まであるゆるくウェーブのかかった髪を、上品な髪飾りで一つに纏めていた。特別美人だとは言わないが、我が姉ながら上品で綺麗だと思う。深見は小さなころから、この十三も年の離れた姉に淡い憧れを抱いていた。物心ついたときにはもう姉は高校生だったし、卒業と同時にお嫁に行ってしまったため、一緒に暮らした記憶は五歳で止まっていたが、そのことが寧ろ姉の神秘性を高めているのかもしれない。

 深見にとっての『家』とは息苦しい場所だったため、好きな相手と結ばれて円満に家を出て行った姉は、ある種のヒーローのようなものだった。また、深見に対する親からのプレッシャーが強まったのも深見が小学校に進学する時分からのことだったため、姉のいた五歳までの記憶は、今はなき幸せだった頃の家庭の記憶として、無性に慕情を掻き立ててくるものだという側面もあった。

 そしてまさに今、深見は憧れの姉の幸せの象徴を目の当たりにしているのだ。

 玄関に足を踏み入れれば、軽く目がちかちかした。明るい屋外から室内へと入ったためであろう。一歩後ろから透がついてきて後ろ手に扉をしめた。

「透さん、お迎えありがとうね。主人がちょうど出払っているものだから助かったわ」

「いえ、とんでもない。僕にとっても大事なお客さんですから」

 透の余所行きの声を背に、深見はぐるりと視線で弧を描く。玄関だけで、深見の東京のワンルームがすっぽり収まるような広さがあった。上がり框から右手に進めば、離れに繫がる渡り廊下がある。正面には二階へ繫がる木造りの階段が伸び、左手には居住空間が広がっているようだった。

「陽介の泊まる部屋は離れに用意しているわ。三部屋あるから後で好きなところを選んでね」

「ありがとう。瑞樹と友達はどこを使うの?」

「瑞樹は母屋の二階のあの子が使っていた部屋をそのまま、お友達の冷泉くんはその隣に」

「そうか。なら、俺は離れでちょうど良かったな。男同士、積もる話もあるだろうし」

深見がにやりと頬を持ち上げると、琴乃は片頬に手を当てうふふと笑った。

「そんなやんちゃな感じじゃなかったわ。上品ないい子よ」

「まあ、あの瑞樹の友達だもんな。そんな感じはする」

 白峰瑞樹に、粗野な子とつるむイメージはなかった。口数が少なそうな瑞樹の友達と言えば、おのずと似た類の人間が予想されるものだ。

「お外は暑かったでしょう。透さんもお茶でもどうかしら」

「姉弟水入らずの時間に水を差すのも申し訳ないですが……そうですね、お言葉に甘えまして、少しお邪魔します」

 琴乃に従い、二人は白峰家の中に案内される。よく冷えた麦茶が火照った身体に染み渡った。お茶菓子には、深見の東京土産の果物ゼリーがあがった。

「瑞樹は?」

 邸内から人の気配がしないことを受けて、深見はきょろきょろと首を動かす。

「今は龍川先生のお宅にお邪魔しているの。そろそろ帰ってくる頃じゃないかしら」

「龍川さんって……ええっと、眼医者だっけ? ものもらいか何かできたの?」

深見が目を丸くして問えば、「ああ、違う違う」と、琴乃は笑った。「小夜ちゃんっていう同級生がいるから、遊びに行ってるのよ。彼女も今年から市内の看護学校に通っているのだけれどね。夏の間はこっちに帰ってきているの」

 琴乃の説明に相槌を打ちながら、透も言葉を加える。

「この村には学校がないんだ。中学までは隣の五藤村にある分校に通うんだけれど、高校以降はどうしても村から離れることになるんだよ」

「透さんは高校から東京よね」

「ええ。どうしても学びたい分野が東京の大学にしかなかったんです。それで、その大学に入るために、どうしてもこの高校に通いたいって思う学校があって、父に無理を言って進学させてもらったんですよね」

「小さい頃から優秀だったものね。学びを追求しての進学だもの。素晴らしいことだわ」

「やりたいことをやらせてもらえる環境に感謝ですね」

 透が高校から上京していたことは聞いていたが、その理由までは聞いたことがなかったため、深見は興味深く耳を傾けた。

 言葉通り、学びを追求するために親元を遠く離れて東京まで出たのだとしたら、それは生半可な思いではないだろう。そして透は、実際にその思いのとおり、希望の大学への入学を成就させている。はたして、彼はそれで満足できたのだろうか。本当は理工学関係に就職したかったのではなかろうかという思いが、再び深見の頭を去来する。

 そうしたところで透の澄んだ目とかち合った。柔和そうに微笑みかけられる。

「じっと見つめてどうしたの?」

 そう清純な目で首を傾げられたら、どうも気がそれてしまう。深見も口元を緩めると、前のめりに椅子を引いて姿勢を崩した。

「いやあ、今まで別々に知っていた人たち同士が実は知り合いだったってだけでびっくりなのに、目の前で会話しているものだからさ。なんだか不思議だなと思って。俺の知っている姉さんと、俺の知っている朱野のはずなのに、揃うとなんだかいつもと違う人同士を見ている気分」

「そうよね。陽介は、私と透さんが会話しているところは初めてだものね」

「そうそう」

「言われてみれば、確かに新鮮かもしれない」と、透も思考を巡らすように宙に視線を投げる。

「でも、私にとってもそうよ。透さんと陽介のことはそれぞれよく知っているけれど、二人が揃っているのは初めてだわ。透さんもそうよね」

「そうなりますね」

「そっか。確かに、俺だけじゃないか」

 説明されて、深見は照れ臭そうに笑った。そんな深見を慈しむように、透も柔らかく笑う。この、小学校の先生や養護教諭、修道女を彷彿とさせる慈母のような笑みは、透の懐の深い人となりがよく表れていると深見は思っていた。

「いやでも、言いたいことはわかるよ。深見から聞いて知ってはいたけれど、こうして揃っていると琴乃さんと深見って姉弟なんだなあって納得するっていうか。どこか似ているよね。それぞれの世界が繋がった感じがするのが面白いなあって」

「私にとっては、透さんの砕けた口調も新鮮よ。いつも丁寧な振る舞いばかり目にしているものだから。同年代の男の子相手だとこうなるのね」

「俺は?」

「陽介は実家でいつも砕けているでしょう」

「あ、そっか……え、じゃあ、朱野って実家でも行儀よくしてんの?」

 深見が尋ねた瞬間、少し場の空気が凍ったようだった。

 一瞬の沈黙を経て、透が引き継ぐように口を開く。

「まあ……そうだな。うちは少し、特殊だから」

 そう口籠る透と、曖昧に笑って誤魔化す琴乃を前に、深見はどこか不穏なものを感じ取らずにはいられなかった。

 そんな折、ぎぎぎと門の開く古めかしい音に続いて、玄関の扉がからからと滑る軽やかな音が聞こえてきた。続いてひとつの足音が近づき、ほどなくして影が現れる。

「ただいま……やっぱり来てた。いらっしゃい、陽介くん、透さん」

 白峰瑞樹だ。琴乃に似た黒目がちの眼と、父の秀一に似た涼やかな面立ちは健在だった。

「こんにちは瑞樹くん。お邪魔しています」透は柔和に首を傾げた。

深見は椅子の背に腕を載せて背後を振り返った。「瑞樹、久しぶり。びっくりしたか?」あまりに嬉しそうに名前を呼ばれたもので、深見からも自然と笑みが零れ落ちる。

「靴があったからわかったよ。会うの楽しみにしてたんだから」

「なんだ、そうか。しかし身長伸びたな。立ったらもう変わらないぞ」深見は立ってみせた。隣に立った甥っ子の頭は、百七十五センチ近くはあるだろう深見のものとあまり変わらない位置にあった。「剣道はまだ続けてんの?」

「うん。大学の剣道部で週に三回。今日泊まりにきている冷泉ともそこで知り合ったんだよ」

「部活の友達か。いいな。ところで、その冷泉くんは?」

「もうすぐ来ると思う。靴の泥を落としてから来るって、あ、来た」と、瑞樹は背後を振り返った。

鴨居をくぐって瑞樹の背後から長身が姿を現した。

「こんにちは、お邪魔しています。冷泉誠人と申します」

 冷泉と名乗るその男は、怜悧そうな声でそう言って、綺麗に畳んだハンドタオルをジーンズの尻ポケットに差し込み会釈をした。清潔そうな黒髪は、ミディアムショートに切りそろえられている。切れ長の目と理知的な面立ちのせいか、どことなく年齢以上に落ち着いた印象を与える青年だった。

「冷泉くん、はじめまして。瑞樹の伯父にあたる深見陽介です。都内で中学の数学教師をしています」

 彼の持つ雰囲気に呑まれてか、深見もつい、語尾が敬語になってしまう。

 二人が歩み寄り握手をする横で、透がおもむろに立ち上がった。

「じゃあ、僕はこの辺りでお暇しようかな。琴乃さん、お茶ご馳走様でした。深見もお土産美味しかったよ、ありがとう。では、また夜に」

 家へと戻る透を見送った足で、深見はそのまま離れへと案内された。

 本家の廊下の、東側のつきあたりに簡素な鍵がかかった引き戸があり、そこをからからと開けた先には飛び石が続いていた。スリッパから下駄に履き替え、飛び石へと降りる。飛び石に屋根はなく、数歩進んだところでもう離れの玄関部分に行き当たった。

 琴乃は鍵を開けると、そのまま深見に手渡した。「この離れの鍵は陽介に渡しておくけど、一本しかないから出かけるときは母屋の玄関の鍵置きに戻しておいてね。中は好きに使っていいわよ」

 からからからと引き戸の滑る涼しい音が、しんと静まり返った木造建築に響き渡る。

 人の気配の全くない建物だ。

 足を踏み入れると、体温が幾分か下がったような気がした。

 上がり框を昇ると、まっすぐ廊下が伸びていた。廊下の途中で手前に開き戸が一つ、その奥にふすまが二つ見える。これが先ほど言っていた三部屋の入口だろうことは見て取れた。

「手前が板張りの洋間、奥の二部屋が和室になっているけれど、どこを使う?」

「じゃあ、洋間にしようかな」

 深見が答えると、手前の洋間のドアを開けた琴乃から、中へと促される。

 中は六畳ほどの明るい洋室だった。向かって右側にベッドがあり、正面にクリーム色のカーテンのかかった腰高窓が一つ。その手前にテーブルと一人掛けのソファが一脚並んでいる。

 人の気配がないとはいえ、まったく黴や埃の匂いは感じられない。日頃からこまめに掃除されていることが窺えた。

「つきあたりの扉が洗面所とトイレ。お風呂は母屋のものを使ってちょうだいね。靴は不便だったら、離れに置いておいて、母屋からは下駄を使ってくれても構わないから」

「何からなにまでありがとう」

 深見が説明の一つ一つを咀嚼するように頷きを落とし、最後に礼を言うと、琴乃は「では、ごゆっくり」と笑顔を零して去っていった。

 パタパタパタとスリッパの音が次第に遠ざかる。やがて届いた、引き戸の奏でる軽やかな音色を耳に、深見はようやく一息ついた。荷物を床に下ろし、上着をハンガーにかけて吊る。それからベッドにごろりと横になった。掌からちゃりんと離れの鍵が零れ落ちる。

 ずいぶんと遠いところへ来た気分だった。

 住み慣れた実家がここから車で一時間半の場所にあるというのに、まるで遠い異国の秘境にいるようだ。

腹の底からわくわくとした熱が突き上げてくるのを感じ、深見はがばりと勢いよく身体を起こす。遠い昔に抱いた冒険心と恐ろしさにようやく決着をつけた気分だった。自分は今、あのときなし得なかった冒険を十五年越しに成就させているのだ。

それと同時にあるひとつの思考が浮かんできた。

もし、あのとき――小学生の時分に、恐怖感に冒険心が打ち勝ち、この四神村へと足を運んでいたとすれば、ひょっとしたらその時点で朱野透少年との出会いを果たしていたかもしれない。

目と鼻の先で、それぞれがそれぞれの年表に足跡を刻んでいたのだと思うと、不思議な感覚に見舞われた。

けれども、深見はまだその一部を垣間見たにすぎない。

 向かうのはこれからだ。あの朱野透が十五年の時を過ごした家へと。



 四



 夕刻に向かうにつれて、空には雲が目立ちはじめた。

 そして、どこからともなく涼しい風が肌をさらっていく。

 盛夏のひまわりをぼんやりと見つめながら、深見は大きく息を吸いこんだ。

 田舎の澄んだ空気と、日の光に炙られた土が蒸発する風が混ざり合う、懐かしい匂いがした。

 排気ガスでくすんだ肺が徐々に浄化されていくようだ。

 白峰邸を出て、右手に視線を向ければ、そこには盲目の武藤霧子の住む『玄武の館』が見える。先ほど裏手から見たのとは逆に、向日葵越しの玄関が綺麗に見えた。

 家を建てた時、霧子はまだ生まれてはいなかったのだろう。

 目の不自由な婦人の住む家ではあるが、玄関は庭よりも高くなっており、扉の前には二段の石段があった。その玄関を中心に、左右対称に窓が三つずつついている。二階、三階も同じような作りだった。

 瓦屋根に和式住宅の『白虎の館』とは違い、『玄武の館』は小樽や横浜にありそうなモダンな洋館だった。社会科の教科書の文明開化の項の挿絵に出てきそうな外観をしている。

 そこから視線を左上に滑らせれば、少し見上げたところに丘が見える。

 先ほど、透と共にこの村を一望したあの小高い丘だ。

 そこから再び視線を下げて左へ転ずれば、そこには『朱雀の館』が鎮座していた。

 『白虎の館』からだと、丘に阻まれるため辛うじて屋根部分が見える程度だった全景が、近づくごとに露わになる。

 『朱雀の館』は全体的に赤みがかった外観をしており、これまで見た三軒の中で一番大きかった。レンガを積み上げたような外壁をした三階建ての洋館である。家の周囲は女性の背丈ほどの石壁でぐるりと囲まれていた。その石壁が一部途切れた箇所にビニールハウスが隣接しており、その横には農具倉庫がある。時折吹き始めた突風で開いてしまったのか、扉がゆらゆらと揺れており、その隙間から中の様子が垣間見えた。

近づいてみれば、農業用一輪車や、業務用サーキュレーター、手巻きウインチなど様々な器具が陳列されている。その奥には工具箱や端材など、大工道具一式も見える。鍵がかかっていないのは一見して不用心にも思えるが、この長閑な村においてわざわざ農具や工具を盗むような人もいないためだろう。

 ついでとばかりに、深見はその開き戸をしっかりと閉めて道へと戻る。

 道の向こう側、村をぐるりと囲む山の一角へ視線を転じたところで、不意に一体の石像と目が合った。白黒の虎の形をしている。『青龍像』とは違って今度はよく知る虎の外見しており、一見して『白虎像』だろうことがわかった。台座は古い金属でできているようで、錆びてくすんだ色をしている。また『青龍像』の対角線上に位置することから、素直に考えればこの『白虎像』は西方を司っているだろうことが窺えた。

 それから一分もしないうちに『朱雀の館』の門へと辿り着いた。

 門の前で呼び鈴を鳴らせば、品の良い老齢の声が歓迎してくれる。その声に言われるままに鉄の門をくぐれば、左手の突き当たりには四畳ほどの納屋が、右手の突き当たりには年代を感じる焼却炉があった。その手前、庭の花壇には白いアーチが掛かっていて、周りを彩る桃色の薔薇も相まって欧風の屋敷によく映える。降り注ぐ蝉しぐれがなければ、ここが現代日本だということを忘れてしまいそうだった。

それらを目で楽しみながらふらふらと通り過ぎ、建物の方へ足を進める。改めて見上げれば、実に立派な屋敷である。生い茂る木々を背にした、聳え立つ要塞のようだった。

初めての場所を訪れたとき特有の好奇心から、ついきょろきょろとしてしまう深見だったが、数段高い場所から玄関扉を背にぐるりと一周見渡したところで、こげ茶色の木製扉が観音開きに放たれた。

「いらっしゃい」

長い腕を支え棒にした透の笑顔が深見を出迎える。

 どうやらシャワーを浴びたらしく、微かに黒髪が湿って落ち着いた様はどこか幼く見えた。

 中は土足とのことで、泥落としで靴の土を払ったらそのまま足を踏み入れて良いらしい。

 どうぞと促された深見がどぎまぎしながら中へ入ると、老齢の執事がたわやかに頭を下げて迎え入れた。先ほどの呼び鈴の声の主は彼だろう。

「こちら、うちに住み込みでお世話をしてくれている執事の水谷さん。彼は僕の大学時代の友人で深見陽介くんです」

 透の紹介に合わせて、深見は軽く頭を下げた。

「深見陽介と申します。二日間、この村でお世話になります」

深見の顔を見るや否や、水谷は花が咲いたように明るい笑みを零し、恭しく頭を下げる。

「そうですか、あなたが……お会いしとうございました。お話は透さんからよく伺っております」

 人生初めてお目にかかる執事という人種からの礼遇に、深見はすっかり舞い上がってしまい、あたふたしながらぎこちなく笑みを返した。そんな年齢にそぐわぬ無邪気さを拭いきれない深見にも、歓待の相好を崩すことなく、水谷は目じりに皺を寄せて言った。

「遠いところからよくお越しくださいました、深見様。水谷と申します。御用の際にはなんなりとお申し付けください」

「水谷さんはね、俺が生まれるうんと前からうちで働いてくれているんだ。家のことならなんでも知っているから、わからないことがあったら訊くといいよ」

透に紹介された水谷は、「もったいないお言葉です、透さん」と謙遜して笑う。

「しかし……すごいお屋敷だな。外国の城に迷い込んだようだ」

 感嘆の息を漏らしながら、深見は改めてぐるりと辺りを見渡した。

 高い天井に、小洒落た硝子細工の照明、木の階段、赤い絨毯、壁にかかった剥製、レイピアのレプリカ、壺……視界に入るどれもが、映画やドラマで見る金持ちのイメージそのものだった。

 素直な感想だったつもりのその言葉に、透は困ったような笑いを零す。豊かであることに、あまり良い思いを持っていないような反応だった。

「こんな田舎だし土地だけはあるからなあ。一人で整備してくれている水谷さんには頭が上がらないんだよ」

 どうぞ、と居間へ促された深見だったが、どうしても気になっていたことが一つあった。

「おじいさんにお線香、上げてもいい?」

 深見の申し出に、「あー」と透は視線を逸らしながら、眉を八の字にした。「ごめん、うちは仏教じゃないから線香はないんだ。心遣いありがとう」

 気遣いを折るようで心苦しかったのだろう、すまなそうにする透だったが、深見は友人の知らなかった一面に感興を覚えることこそあれど、気を悪くするなどあるはずないと胸の前で手を振って返す。

 仏教でないとなると、朱野家はキリスト教なのだろうか。キリスト教においては、礼拝対象は神だけであり、死者へ手を合わせることはしないのだと聞いたことがある。

 そうしたところで透に案内された居間は、二十畳はありそうな大きな部屋だった。本物などほぼお目にかかったことがないため真贋こそわからなかったが、居間の床は白い大理石風の石で一面覆われていた。

「まあ」

 聞こえてきた声に深見は顔を上げる。奥から顔を出した着物姿の女性と目が合った。年の頃は四十を越えたあたりだろうか。艶やかな黒髪をきっちりと結い上げ、蛇のような三白眼をしている。全体的に、どこか能面のような無感情さを覚えた。

「こちら、藤川絹代さん」

 透の紹介を受けると、藤川絹代は温度のない目でじろりと深見を一瞥した。その視線から排他的な印象を受け、深見はじわりと芽生えた居心地の悪さを奥歯で噛み潰す。

「こちら、先日話しました僕の友人の深見陽介くんです」

 例のごとく透が紹介するのに合わせて、深見も一礼を返す。藤川絹代は、なおもじろりと値踏みするような冷たい視線を貼り付けたまま、形だけの目礼を寄越してきた。

 そうしたところで、扉の開く音と共に背後からもう一つ足音が近づいてきた。

「やあ。君が深見くんかね。よくきてくれた。話は聞いているよ。透が世話になって。東京で教師をしているそうじゃないか。現役で教員採用試験に受かるだなんて素晴らしい」

 居間の入口から姿を現したのは、茶色の着流しに身を包んだ、がっしりとした体躯の中年男性だった。黒い髪を後ろになでつけ、黒縁眼鏡に口髭をたくわえた様は、どこか厳格そうな印象を受ける。

「こちらが僕の父」

「深見陽介と申します。わたくしのほうこそ透くんにはよくしてもらっております。今晩は夕食会にお招きいただきありがとうございます。こちら、心ばかりのものですが」

 そう言って深見が紙袋から取り出した東京土産の菓子を渡すと、「いやあ、気を遣ってくれてすまないね。おい、絹代。お茶と一緒にお出ししてくれ」至極ご満悦といったふうに源一郎は、藤川絹代を呼びつけて包みを手渡した。

絹代はしおらしくそれらを受け取ると、台所へと消えていった。

 その様子を受けて、深見の中で一つの下世話な考えが生まれる。

かつて透から、母親が他界しているという話は聞いていたが、この藤川絹代はひょっとしたら内縁の妻のような位置づけなのかもしれない。

そう考えると、透から絹代についての明確な紹介がなかったのも頷けた。後妻であれば、苗字は朱野になるだろうし、透も養母と紹介するだろう。また、身なりや絹代の透に対する振る舞いから、使用人でないことも明らかだった。

ここまで閃いてしまったところで、他人の家のことをむやみに詮索するものではないと、深見は慌てて首を振る。台所では、藤川絹代が表情一つ変えずにお茶を淹れていた。

 このとき深見は、透が自身の家庭を特殊だと言っていた、その片鱗を垣間見た気がしていたが、これがそのほんの一角にすぎないことをまだ知る由もなかった。





 源一郎と絹代とを交えたお茶は、どこか息苦しいものがあって、正直なところ深見にとって居心地のよいものではなかった。時代錯誤な男尊女卑と、典型的なレッテル主義の固まりである源一郎と、その源一郎の一歩後ろで追従を繰り返す藤川絹代の相手は、職業柄多彩な保護者たちを相手にする深見でさえも、感歎するほどである。明治時代にでもタイムスリップしたかのようだ。失礼ながら、透は毎日このような相手と寝食を共にしているのかと思うと、同情の念さえ沸いてくるものがあった。

 その空気を察したのか、透が、「そろそろ部屋にいこうか」と、提案したのだが、それが深見にとって鶴の一声だったのは言うまでもない。

 二人は連れたって席を立った。

 先ほど入った玄関側とは反対の扉から居間を出ると、渋い焦げ茶色の板張りの廊下に出た。まず右手にトイレがあり、その奥に階段がある。先ほどの玄関ホールから続く広い階段とは違い、人ひとりが通れるくらいの狭い階段だった。それが二階と、それから地下に続いている。

 突きあたりは勝手口になっており、窓の外を見遣れば二、三メートル向こう側に先ほど庭から見かけた納屋が見えた。

 透が二階へ続く階段に一段足を掛けたところで、深見は地下へ続く階段を見下ろして言った。「地下もあるんだ」

「ああ」透は振り返って、段に乗せていた足を引っ込めた。「地下はね、普段はあまり行き来しないんだけどね」

「そんなもんなんだな。シェルターとかありそう」

「さすがにないよ」透は楽しそうに肩を揺らした。

 透の部屋は、二階に上ってすぐの角部屋だった。狭い階段は二階までで行き止まりになっている。

「三階へ昇るには中央階段を使うんだよ。三階は使用人の部屋だから、行くことはないだろうけど」

廊下の窓にはロールアップカーテンが下りていた。

「西日が眩しくてね」透が困ったように笑った。山裾に沈む夕日の絶景も、毎日となると流石に飽きるものらしい。

 細い廊下を二つ折れて透の私室に案内される。南向きの窓の外は小さなバルコニーが部屋ごとにあり、見下ろすと真下に納屋が、その奥にビニールハウスと農具倉庫が見える。そこから更に向こう側へと視線をのばすと、ひまわりや木々の先に白峰邸の瓦屋根の一部が覗いていた。

 大学時代、透の下宿先を訪れた際にも物の少ない部屋だと思ったものだが、案内された透の部屋も似たような簡素な部屋だった。

「どうぞ、座って」

 深見をソファに促すと、透は書き物机の備え付け椅子を向かい合うように置きなおして自らも腰を下ろした。

「お邪魔します。お、ソファふかふか。なんかすごいな、日本じゃないみたい」

「ふふ。深見が楽しそうでよかった。唯一雨が心配だけど」

 透の言葉を受けて、深見も窓の外へ視線を向ける。厚い雲が垂れ下がり、先程に増して風が強くなっているようで、木々がゆさゆさと重そうな枝葉を揺らしていた。

「雨降るのかな」

「台風が来ているようだからな。大陸の方にそれるみたいだけど、この様子だと夜は大雨になるかもね。夕食会が終わるまでは本降りにならなければいいけども」

「まずいな、俺傘持ってきてないや」

「それは貸すから心配いらないよ」笑ってくるりと深見に向き直ると、透は悪戯そうな笑みのまま続けて言った。「びっくりしたでしょ」

 何がと言われずとも主語に察しはついたものの、深見は反応に困ってしまった。曖昧に口を開閉させる。

そんな深見を助けるように透は続けた。

「うちの父親、ああいう人だからさ。周囲に気を遣わせるんだ。夕食会のときももしかしたら大変かもしれないけど、俺も割って入るようにするからさ。それから……なんとなく察しはついているとは思うけど、絹代さんとは内縁関係のようなものだと思ってもらえれば。これは、さすがに居間では言いにくくて黙っていたけれど」

「そっか」深見はあまり重くならないように口角をあげた。「下に弟と妹がいるって言っていたっけ」

「ああ、うん」透は曖昧に零して、視線を泳がせた。「双子の弟と、五つ下に妹がいる。母は、俺と弟を産んですぐに亡くなったから、俺らと妹とは母親が違うんだよね。妹の母――百合子さんっていうんだけど、その人も十年前に病気で亡くなって。しばらくは父も独りだったんだけど、二年くらい前から絹代さんと……」

「そっか」これは想像以上に複雑そうだと、深見は透の言葉を丁寧に脳内で整理する。「弟さんと妹さんもこの家に?」

 深見が問うと、透は一度唇を閉じ、改めて口を開いた。

「ああ。妹の静は、高校を卒業して今は家にいるよ。来年の春には結婚して出て行っちゃうけど」

「へえ、それはおめでたいな」

「これが妹」と透が本棚から取り出したアルバムには、雅やかな透とは少し毛色の違う、派手な顔つきの女性が笑っている写真があった。

「へえ!」深見は思わず感嘆の声をあげる。

「それから、これが俺の母」

 アルバムのページをひとつ前に戻すと、品のある和装の女性が椅子に座って微笑んでいた。隣には紋付き袴姿の、若かりし源一郎が仁王立ちしている。

「綺麗な人だな」

 深見がそう言うと、透は面映ゆそうに顔を綻ばせた。

「実際に会った記憶はないんだけどね」

「朱野と似ている」柔和そうな目元がそっくりだった。「朱野はお母さん似なんだな」と深見が言うと、透は至極嬉しそうに頷いて、ぽつりぽつりと話し始めた。

「母は大学を卒業してすぐにここに嫁いだらしいから、この写真は二十二歳くらいなのかな。今の俺より若いんだよ。二十四で亡くなっているからさ。この年で、親の年齢を追い越してしまったんだ」と寂しそうに笑う透にかける言葉が、深見には見つからなかった。

 そうして透はパタンとアルバムを閉じ、丁寧に元の棚へと仕舞いこむ。

「弟さんも家にいるのか?」

 そう問われて一瞬、透の表情が能面のように固まるのを深見は見た。透がこの能面になるのを、この村に来て深見は何度か見ていた。知る限り、東京では見ることのなかった表情だ。

透はすぐにいつもの表情を取り戻してこっくりと肯いた。

 窓硝子を雨粒が叩く軽妙な音が一つ、二つ響いたかと思うと、次第に束となって押し寄せる。

 雨が降り始めたようだった。

「あ、家にいるんだ。会って話がしてみたいな。同い年だし」

 はしゃぐ深見を前に、透は何度か唇を噛んで、視線を逸らした。

「それはできない」

「え」

「弟は――」

 そのとき一閃の稲光が、部屋を白く呑み込んだ。



 五



「これも和室に仕舞う分?」冷泉誠人は、物干し竿から敷布団を引きずり降ろして振り向いた。

縁側の上から白峰瑞樹が両手を広げて肯くのに、布団を抱えて歩み寄りバトンパスをした。渇いた土に、木製の下駄の音が涼やかに響く。

 冷泉誠人と白峰瑞樹は、午前中に『白虎の館』の離れの庭に干していた布団を、連携して取り込んでいた。だんだんと西の空が暗くなってきたので、慌てて庭に出てきたのだ。

 中途半端に作られた生垣の割れた向こうに、『青龍の館』がよく見える。青銅色を基調にした、横に長い家だ。ぼんやり見上げていたそのとき、二階の窓硝子が開き、中から龍川小夜が顔を出した。

 互いに目が合い、びっくりしたように目を丸くする。冷泉は小夜を見つめたままだったが、小夜は動揺したように目をあちらこちらに向けて俯いた。そして、そろそろと窺うように視線を冷泉の方に戻す。その一連の挙動が初々しくて、冷泉は柄になく緩みそうになる口元を右手で押さえた。

そんなところに、「何してんの」突然背後から瑞樹の声が降ってきたものだから、冷泉は、それはもう柄になく泡を食って振り返った。いつの間にか、縁側から降りて近くに来ていたらしい。

「いや……」と、何がいやなのかよくわからないまま冷泉が呟きながらそろそろと小夜を振り返れば、視線の先で小夜が口元に揃えた両手をあてて小さく肩を揺らしていた。

「小夜ちゃんに見とれていたんだろ」

 隣から瑞樹のじっとりとした目線が刺さる。

「違うから」と、反射的に勢いよく否定してしまったものの、このままだと小夜に失礼にあたると思い直した冷泉は、慌てて小声で付け加えた。「いや、小夜さんは確かに、魅力的だと思うけど」

「小夜ちゃんは駄目だからね」

「だぁから、違う」

「ふふ、わかってるって」瑞樹は少女のように肩を揺らして笑った。彼の癖だ。白峰瑞樹は人見知りだから大抵の人には見せないが、親しくなれば悪戯っ子のような一面を見せてくれる。多分に茶目っ気のある性格だが、引き時はわきまえている男だ。

「駄目って……付き合っている人がいるのか?」

同じく少女のような小夜を見上げながら、少し意外だと冷泉は小さく尋ねた。この自然に囲まれた村で過ごすと、みんな少女のような天真爛漫な性格に育つのかもしれない。

「いや、まあ、好きな人がいるんだよ、小夜ちゃんには」

 瑞樹がらしくなく濁すのに、冷泉はこれ以上の追及も野暮そうだと「そうか」と返すにとどめた。

 龍川小夜は、おかっぱ頭の小柄な体躯をしている。瑞樹に輪をかけたような人見知り気質のようで、昨日始めて会った時には「はい」か「いいえ」くらいしか声を聴いていないのではないかというほどだった。同じ空間に、互いの共通の友人である瑞樹がいなければ、とても会話が成り立つとは思えない。そのくらい初心な印象を冷泉は抱いた。

「小夜ちゃん、今ひまー? また少し遊びに行ってもいいー?」瑞樹が間延びした声を投げた。これも絶対に大学の構内では聞けない声量だ。小夜のおかっぱ頭がこくりと揺れるのを確認するやいなや、瑞樹は冷泉を振り返って目を輝かせた。「行こうよ。夕食会までまだ時間あるし。俺持って行きたいものがあるんだ」

 そう言って、瑞樹は物干し竿に二枚残ったシーツを乱暴に引っ張り込むと、下駄を脱ぎ捨てて足早に縁側から和室へとのぼっていった。すぐさま、手ぶらで戻って来て縁を降り、母屋の方へ駆けていく。鍵はかけなくていいのだろうか。思わず、鍵の開いたままの硝子戸を二度見して、冷泉も後に続く。都会育ちの冷泉からすれば、窓や玄関の施錠をしないだなんて無防備に思えたが、この村ではそれが当たり前なのだろう。昨日、今日と二度龍川家を訪れたときにも、閉じた玄関の鍵の外れる音はしなかった。

 先に自宅へと戻った瑞樹に続いて、冷泉は『白虎の館』の玄関の戸をからからと開けて中へ入る。扉を閉めたことで蝉の合唱が遠のき、かわって二階で足音が動くとたとたという音が耳に届いてきた。それに続いて『ちょっと瑞樹、何ばたばたしてんのー』と、台所から笑いを含んだ琴乃の声がする。琴乃は、今晩の夕食会の差し入れの準備があるらしい。

 冷泉が木の下駄からスニーカーへと靴を履き替え、上がり框へと腰を下ろしたところで、麦茶の入ったグラスを盆にのせた琴乃が廊下へと出てきた。

「お布団ありがとうね冷泉くん。助かったわ」

 渡された冷たいグラスに、「いただきます」と礼を述べて冷泉は口をつける。香ばしい麦の香りが慕情を掻き立てた。「せっかくの男手ですので、何かあれば使ってください」

「頼もしいわね。お客様をこき使ってしまって悪いけど、それじゃあ遠慮なく」

 琴乃が悪戯そうに笑うのにつられて、冷泉も白い歯を零す。

「少しでも泊めていただくお礼ができたら幸いです」

 そうしたところで、足音を立てて瑞樹が下りてくる。

「ちょっと小夜ちゃんのところに行ってくるね」

「あら、また行くの? 五時半にはここを出るから、それまでには戻ってきてね」

 その言葉に腕時計を見遣ると、針は午後三時半を回ろうとしていた。



 六



 村の最南端に位置する龍川家の敷地の向こう側、森の中にそれは静かに鎮座していた。

『朱雀像』である。

 両翼を広げた鳥の形をした赤い石像だった。周囲の雑草は綺麗に刈り取られ、ぽっかりと、そこだけスポットライトのように日の光が当たっている。上空を見れば、生い茂った木々の枝がその上空だけは丸く切り抜いたように剪定され、常に翳らないような工夫が施されているようだった。それらを横目に見遣りつつ、冷泉と瑞樹は『青龍の館』の玄関へと向かった。

 龍川家はこの村の四つの『館』の中で、最も庶民的な造りをしている家屋だった。

 細長い直方体型の一階の東側半分に、立方体型の二階がちょこんと乗っている。そのちょこんと乗った二階の一角に、龍川小夜の部屋があった。

 学習机がそのまま残った部屋の中央に、丸い絨毯と木のちゃぶ台がある。その上で、汗をかいた三つのグラスのうちの一つがからんと音を立てた。

改めて冷泉はぐるりと部屋を見回す。女子の部屋に入るなど、もう何年振りだろうか。そう意識した途端に、カッと体の芯が熱くなるようだった。

この部屋には時計がない。聞けば、小夜は秒針の音が苦手で、小さいころから私室に時計を置いたことがないらしかった。

勉強机の脇では、一つの包みを挟んで瑞樹と小夜が額を突き合わせている。

「透さんからもらった時計、壊れたって言っていたからさ」瑞樹の手元には、置時計の空箱があった。

すぐ隣では、小夜の華奢な指がデジタル時計を物珍しそうに撫でまわしている。「ありがとう」小夜は不器用にはにかんだ。

そんな小夜の笑顔に、瑞樹はごく幸せそうな表情を返した。

 その時計は、先日仙台の量販店で購入したものだった。買い物に付き合ったときには、自室の時計でも買い替えるのだろうと冷泉も深くは考えなかったが、どうやら彼女への土産だったようだ。

 会話に出てきた透というのは、先ほど白峰邸を訪れた朱野透のことだろう。先ほどから交わされている話から推測するに、秒針の苦手な小夜のためにと、透は彼女が小学生だった時分に時計を贈ったらしい。そして、その時計がどうやらずいぶん前に壊れてしまっていたようだった。

 欲しければ自分で買いに行けばいいのに、なぜ放っといたのだろう? そう考えた瞬間、冷泉の頭の中に一つの考えが浮かび上がった。

――好きな人がいるんだよ、小夜ちゃんには。

 瑞樹の声が蘇る。ああ、そういうことねと緩んだ口元を右手の甲で押さえて、冷泉は勉強机に視線を向けた。

とすれば、どうやら瑞樹は気づいていないらしい。先ほどの口ぶりから、小夜の想い人の正体は知っているはずなのに、時計を買い替えない小夜の行動の裏には気がついていないようだ。それとも、瑞樹は気づいたうえで、敢えて透に宣戦布告を叩きつけているのだろうか? それはそれで面白いと、再び緩みそうになる口元を咳払いで誤魔化して、冷泉はもぞもぞと胡坐を組みなおした。

「このボタンで時刻を合わせられるんだ。えっと……」と顔を上げた瑞樹は何かを探すように視線を彷徨わせる。見れば二人とも腕時計をしていないようだ。

「三時五十五分」

 冷泉が左手首を持ち上げて時刻を読み上げると、笑顔とともに「さすが冷泉」と瑞樹の囃し立てる声があがる。「でも、電源が入らないねえ……あ、まだ電池が入ってないのか。あはは、うっかりしてた」そう言って瑞樹は暢気に笑った。どうやら電池は付属していなかったらしい。

「一階に行けばあるよ、きっと。夕食会の後でお父さんに聞いてみる」ありがとうね、瑞樹くんと、小夜ははにかんだ。

 そのまま冷泉は窓の外へ視線を移す。だいぶ空が近くなり、辺りは湿っぽく暗くなり始めていた。

「降り出す前に帰ろうか」

 どちらともなく腰を浮かして、部屋を出る。瑞樹の目的は果たせたようだし、これ以上長居する理由もないだろう。

「また後でね」

 玄関先でいいと言ったにも関わらず、健気にも小夜は外に出て二人を見送ってくれた。二人が白峰邸の影に隠れて見えなくなるまで、小夜はずっと小さな白い手を振り続けていた。



 七



「すごい稲光だったね。しばらく降るのかな」

顔を上げた透は、一転、普段通りの柔和な表情を取り戻していた。それから窓に視線を移し、腕時計と見比べる。

正直、深見にとっては天気よりも透の話の続きが気になって仕方がなかったが、「そろそろ時間かな。風が出ないうちに、霧子さんを迎えにいかなきゃ」しきりに時間を気にする様子の透を前に、続きを乞うタイミングを完全に見失ってしまった。

 そこで深見は、先ほどの『玄武の館』での会話を思い出す。そういえば透は窓越しの武藤霧子に対し、夜の食事会の前に迎えに行くようなことを言っていたようだ。

合点がいったと透の後を追って部屋を出たところで、不規則な足音が耳に入った。

「あ」

 足音の主は中央の階段をまさに今降りようとしているところだった。すぐに、声に気づいて振り返る。そして深見の姿を視界に入れるや否や、そのままUターンしてこちら側へと歩いてきた。

「わあ、お兄ちゃんのお友達の! 深見さんですよね。はじめまして、透の妹の静です」

 朱野静は、さも嬉しそうに破願一笑してみせた。初めて話の通じそうな家人と会ったとあって、深見は心が軽くなるのを自覚して歩み寄る。

「ああ、妹さん。はじめまして、深見陽介です。よろしく」

静の派手な顔立ちと茶色い巻き髪は写真で見たままだったが、動くとそこに天真爛漫さが加わり、少しだけ幼い印象が上乗せされた。怪我でもしているのか、片足を少し引きずって歩いているようだ。深見が一瞬視線を下げたのに気付いたのか、静は軽い口調で笑って言った。

「あ、この足ですか? 何年か前に、二階のベランダで洗濯物を干していたら、板が腐っていてですね。そこを踏んで落ちちゃって、少し怪我が残っちゃったんですよ。でも、もう痛くはないから、気にしないでくださいね」

「そっか、それは大変だったね……お大事に」

 深見が眉尻を下げると、静は至って明るく「ありがとう」と礼を述べた。

「静も居間に降りるの?」

「うん。夜の支度を手伝わないと。ふりだけでもね」

「ふりね」と透は笑う。二人だけで通じ合う何かは、兄妹の仲の良さを感じさせるものがある。

「うそうそ、真面目に手伝うよ。大事なお客様に喜んでもらわなきゃ」ね、と静は深見に満面の笑みを向けた。そして、すぐに透に向き直って首を傾げる。「お兄ちゃんたちは?」くるくるとよく表情の変わる子だ。

透はそんな妹の頭を視線で撫でるようにして答えた。「今から武藤さんを迎えに出るところだったんだ。深見はどうする?」

 透という触媒の欠けた深見では、見ず知らずの人達が溢れるこの家に残ったところで時間を持て余すこと必至である。

深見がうーんと迷っていると、「ついてきてくれてもいいし、俺の部屋でゆっくりしていてもいいよ。父のコレクションルームにはいくつか本もあるけれど」と、透は自室の隣に位置する目の前の扉を押し開けて明かりをつけた。

 身を引いた透と入れ替わる形で深見は中を覗いてみる。玄関の延長よろしく、物珍しい調度品が所狭しと並んでいた。絵画に始まり、剥製、硝子細工、分厚い書籍、メイス、ボウガン、レイピア、サーベル、甲冑……一見、種々雑多な印象を受けるが、よくよく見ればやや中世の武器類が目立つようにも感じられる。

 深見がそれらを物珍しそうに一望したところで、静の声がその背を叩いた。

「深見さん、お兄ちゃんを待っている間よかったら居間で私とお話ししませんか? お兄ちゃんの普段の様子とか教えてください」

「それもいいね。俺も家での朱野の話聞きたいな」

 深見が笑顔で食いつくと、透もつられたように笑みを浮かべて言った。

「おいおい二人とも、あまり余計なこと言うんじゃないよ」白い歯を見せたまま、透は腕時計に視線を落とした。「じゃあ、ちょっと行ってくるね。深見はゆっくりしていて」

「わーい」と子供っぽく喜びを表す静に、透は「あまりお客様を困らせちゃあ駄目だよ」と悪戯そうに釘を刺し、「じゃあ行ってくる」と階下へと急いだ。

その背を見送りに玄関まで出た二人を、振り返ってもう一度手を振った後、透は傘を一本余分に手にして風雨の中を駆けだした。やがてその背中も、すぐに白い雨筋に隠れて見えなくなった。



 八



 居間には、手際よく夜の準備を進める水谷の姿があった。

 忙しそうにしている傍で呑気に歓談するのは少し気が引けるかと、躊躇いが生まれた深見は隣の静を横目で窺うが、無論彼女に動じる様子はない。

「水谷さん、手伝いに来ましたよ」

 そうだ。彼女は手伝いにきたのだ。となると手持無沙汰な浮雲は深見ただ一人になる。深見は自身の浅慮を後悔して一歩後ずさった。しかし、そんな深見の心境など静が知る由もなく、名前を呼ばれて手招きされ、いよいよ部屋から出られる気配ではなくなった。

 静の声を聞きつけて、台所の奥から水谷が顔を出した。口髭から覗いた唇を綻ばせる。

「いつも助かります、静さん」

「花嫁修業ですから」

 どうやら、静が家のことを手伝うのはそう珍しいことではないらしい。

 二人の会話を部屋の入口付近に突っ立ったまま聞いていると、静に部屋の奥へと促された。

「本日の主役が、何を突っ立っていらっしゃるんですか。こっちでお喋りしましょ。あのお髭の人は、執事の水谷さん。もうお会いになりましたか?」

 そのままカウンターに一番近い席へと通される。

「うん。来たときに」

 ちらりと目で窺った先で、水谷がにこりと会釈をするのに、深見もぺこりと返した。

「あら、そうだったんですね。深見さんはそこで私たちの話し相手になってください。お紅茶とコーヒーはどちらがお好きですか?」

「いやあ、なんだか俺だけ座っているのも悪いなあって」眉を八の字にしながら、深見は紅茶を選んだ。

「そう仰らずにどーんと寛いでいてください。話し相手が増えて、私も水谷さんも嬉しいばかりなので。それが深見さんのお仕事ってことでどうでしょう?」

「じゃあお言葉に甘えて」

「自分だけ寛ぐのが居心地悪いだなんて、深見さんの未来のお嫁さんは羨ましい限りですね、水谷さん」

「そうですね。お人柄が滲み出ているようです」

「ええ。そういうさりげない部分に本性って出るものですよね。今ではだいぶ家事を手伝ってくれる殿方も増えたっていいますけれど、やっぱりまだまだ少数派ですもの」

 静はティーセットをテーブルに並べながらどうぞと言った。砕けた口調とは裏腹に、その所作のひとつひとつからは育ちの良さが滲み出ている。

「いただきます……このお茶すごくおいしいよ。俺からすれば、静さんの未来の旦那さんが羨ましいな」

「やだ、深見さんったらお上手なんですから。茶葉がいいだけですよ」

静がはにかんだところで、外で風が啼いた。その音に、三人の視線が窓の外へと集まった。

「風が出て参りましたね」水谷が鼻髭を揺らした。

「武藤婦人、あまり濡れなければいいけれど」静は心配そうに頬に手を当てる。

「送迎はいつも朱野が?」深見は先刻の会話を回顧して尋ねた。

「もとはと言えば、お父様が天涯孤独の身になった武藤婦人を不憫に思って、何かとお世話をするようになったのが始まりみたいなんですけどね。お兄ちゃんが大学から戻ってきてからは、それを引き継ぐって自分から」

「へえ、そうなんだ」

「武藤婦人は週に一度、決まった曜日と時間に龍川先生のところへ眼の検診に行っているんですけれど、その時の送迎もお兄ちゃんがしているんですよ。お兄ちゃんも率先してやっていることだと伝わってくるし、武藤婦人もそんなお兄ちゃんのこと、とても信頼しているみたいだし」

静が最後のグラスを磨き終わったところで、ちょうど居間の柱時計が五つ鐘を打った。その音に導かれるように一同が顔を上げる。

「少し小降りになってきたのかな」

 外は日暮れに加え、嵐の前特有の黒い雲も相まってかなり視界が悪くなっているようだった。

そうしてしばらくしたところで、玄関の呼び鈴が鳴り白髪に口ひげを蓄えた老紳士と、小柄で華奢なおかっぱの少女が連れたって現れた。今まで紹介を受けた中から逆算すれば、彼らが龍川親子だろうことが予想されたが、外見では親子というより祖父と孫のような印象を受けた。

「ごめんください。本日はお招きいただきありがとうございます。ご挨拶したいのですが、ご主人は」

「龍川先生に小夜ちゃん、いらっしゃいませ。いやだわ。お父様ったらまだ自室にいて。呼んで参りますのでどうぞおかけになってお待ちくださいね」

 静が部屋を出るのと同時に、アイスティーをお盆に乗せた水谷がやってくる。

 良く冷えたグラスを受け取りながら、龍川医師は深見のもとに近づくと、草臥れた中折れ帽を胸に押し当てて、人のよさそうなゆったりした口ぶりで言った。

「わたくしは、この村で開業医をやっております龍川清三と申します。もうかれこれ四十年近くなりますかな。あなたが琴乃さんの弟君という――」

「はい、深見陽介と申します。日頃から姉がお世話になって」

 つられて立ち上がった深見も、ぺこりと頭を下げる。年配者に自己紹介となると、プライベートでもつい格式ばったものになってしまうのが社会人の悲しき性だろうか。

 龍川医師は、年季の入ったらくだ色のジャケットの襟をぴんと引っ張ると、右掌を顔の前で振った。

「いやいや何をおっしゃる。唯一のお隣さんということで、なにかと世話になっておるのはわたくしどものほうですぞ。こちらが一人娘の小夜です」

「こんにちは」

 小夜は鈴の音のような声で小さく頭を下げた。頬の下で切りそろえた黒髪が揺れる。高校を卒業したばかりだと聞いていたが、それよりも幾分か幼く感じられた。

「いやあ、この年になっても人見知りがなかなかなおらなくてですな。静さんや瑞樹くんとは同い年なのですが、まるでしっかりした姉兄と引っ込み思案な妹のようですよ」

「それもひとつの個性ですよ。どちらがいいというものではないと思いますよ。よろしくね、小夜ちゃん」

 そう言って深見に顔を覗き込まれると、小夜は視線を泳がせながら面映ゆそうに不器用な笑顔を浮かべた。

 大時計の針が五時半を指す頃に、大きな包みを手にした白峰琴乃がやってきた。

 だいぶ雨脚が強まっているらしく、共に来た瑞樹や冷泉などはズボンの裾の色がほんのり変わってしまっている。室内に扇風機でもついていればじきに乾きそうなものだが、あいにくこの村の空調整備率は芳しくないらしく、訪れた二軒ともに開け放った窓からの通気で暑さをしのいでいる様子だった。防犯上、窓や玄関の施錠が必要不可欠である都会と違って、田舎ではそのようなものなのだろうか。現に六山市にある深見の実家においても、晴れた日などは、開け放った窓から心地の良い冷気が吹き込んできたものだ。更に山奥深くに位置する空気の良いこの村では、なおのこと自然の風でも充分に過ごしやすいことだろう。

 しかしながら、残念なことに今日は荒天である。朱野家の豪奢な窓ガラスは、一つ残らずぴったりと締め切られていた。天井に備え付けられているシーリングファンが、気休め程度に回っているだけである。

 白峰琴乃は、応接机に朱野源一郎と龍川医師の姿をみとめると、土産物のワインと大きな箱を家主へ手渡していた。そのまま一言二言挨拶を交わしている。やがて、その輪から外れて、白峰瑞樹と冷泉誠人の二人が深見の座るテーブルへとやってきた。深見の向かいには一仕事を終えた朱野静が、その隣には少し肩に力の入った様子の龍川小夜が座っている。

「やあ。さっきぶりだな。雨酷かった?」深見は右手をあげた。

「雨もだけど、風がね、結構出てきて」瑞樹はしきりにハンドタオルでズボンの裾を拭っている。その隣で冷泉も涼しい顔で濡れた箇所にタオルハンカチを押し付けていた。

ハンカチ所持率百パーセントだなんて、品の良い男どもだなどと深見が感心していたところで、テーブルの下に潜るようにして足元を拭っていた瑞樹が、顔を上げてきょろきょろと首を回した。

「透さんは?」

「お兄ちゃんは、武藤婦人をお迎えにあがっているよ。もうそろそろじゃないかな」

 静の声につられて一同視線を外に向けたところで、ちょうど居間の扉が開いた。

 透と武藤霧子だ。黒い丈長のワンピースを着ている武藤霧子だったが、そう雨に降られた様子もなく、また透のズボンの裾も元の色を保ったままだった。

「霧子さんこんにちは。あいにくの雨ですが、お越しいただきありがとうございます。濡れませんでした?」

 静がフレアスカートをはためかせて歩み寄るのに、自然と他の面々が続く。武藤霧子は機嫌よく唇を弓なりに綻ばせて肯いた。

「ええ、大丈夫よ。透さんがちょうど小降りのときを見計らってくれて」

ね、と水を向けられた透が控えめに笑ったところで、「あ」と背後から声があがった。

反射的にモーゼの十戒よろしく人の波がぱっかりと開いた。その最後尾では、冷泉誠人が赤褐色の壺を片手に不自然な体制で立っていた。

すぐ傍で、「ご、ごめんなさい」と小夜が顔を蒼くしているところを見るに、棚の上の調度品に小夜がぶつかり、転がり落ちそうになったところで冷泉が受け止めた流れだろう。流石剣道部の反射神経だといったところだろうか。

 受け止めた壺を両手で棚に戻す冷泉の脇から、小夜が恐る恐る手を添えた。その強張った横顔を、冷泉が不思議そうに眺めている。

そんな構図を前に、武藤霧子が品のある笑みを湛えて言った。「たいそうな骨董品ですものね」

「見るからに高級そうですもんね」と、顔を引きつらせた深見も続く。

「何百万、何千万の世界よ」

「えっそんなに?」

 目を丸くする深見に、透は困ったような笑みを向けた。

「人が通る場所に置いておくのが悪いんだよ。二人とも、怪我はない?」

 透の柔らかな問いかけに、冷泉は「ありません」ときっぱり返し、小夜はふるふるとおかっぱ頭を揺らす。その答えにほっと一つ頷くと、透はさあと部屋の中心を掌で示した。

 人波に従う深見を目掛けて近づいてきた瑞樹が、周囲に気づかれないようそっと耳打ちした。

「陽介くんも気をつけてね。源一郎さんの逆鱗に触れると大変なことになるから」



 九



水谷が各人にグラスを配り始めるのに合わせ、集まった面々が自然と中心へと流れる。

 そうしたところで、家主の朱野源一郎がもの言いたげに立ち上がり、咳払いを一つ零した。自然と一同の視線が集中し、雑音が波のようにしんと引いていく。源一郎はその空気を舌の上で転がすようにゆったりと辺りを見渡してから、おもむろに腫れぼったい唇を開いた。

「みなさんにグラスは行き渡りましたかな」

太いバリトンが、地鳴りのように響き渡る。紋付き袴の家主は、客人が思い思いにグラスを胸の前で掲げてみせる様を満足げに確認し、大きく胸を膨らませた。

「本日はお足元の悪い中お集まりいただきありがとうございます。こうしてこの村の全員が一堂に会すのも久方ぶりですな。亡父の葬儀の際には突然の不幸ということもあり全員は揃うことはかないませんでしたから。まあ、湿っぽい話はこれまでにしましょう。今宵は嬉しいことに村の外からお客様がみえています。どうぞ皆さんごゆるりとお寛ぎください」

 やがて源一郎の乾杯の音頭を皮切りに食事会ははじまった。が、この村の全員という言葉に、深見は強い違和感を覚える。

朱野透の弟の姿がないではないか。

 シャンパングラスを片手にこっそりと隣の透の横顔を窺えば、特段気にする様子もなく普段通りの涼しい顔をしていた。

 それから一時間ほど歓談したところで、深見の疑問は解消されることになる。透は腕時計を確認して深見に小声で言った。

「しばらく出てくるね」

「どこへ?」

「弟の食事の時間なんだ。持っていってくるよ」

「病気か何か?」

 尋ねると、透は一瞬の間をおいて、「まあ、そんなようなものかな」曖昧に肯いた。

「そっか。弟さんが病気だというのに、俺たちばかり悪いな」

「気遣いありがとう。でも、深見は気にせず楽しんでいて」

 そう言うと、透はなるべく人に気づかれないよう場を気遣いながら、裏口側の扉を静かに開けた。深見も見送りがてら一歩二歩後を追う。開いた扉の隙間から、一匹の猫と目が合った。

隣から、「まぁた入り込んだんだな」と透の困ったような声があがる。「何匹かうちに棲みついちゃって。父さんが動物を好きじゃないから、なくなく追い払っているんだけれどね。居心地がいいみたいでなかなか離れてくれないんだよね」

「へえ。朱野が引き寄せてんのかもな」

 大学の構内で不思議なくらい透がよく動物に懐かれていた光景が浮かんできて、深見は思わず笑みを零す。透にも伝わったようで、彼も横目でにやりと笑った。

「さ、父さんに見つかると大変だから、もうお行き」そう言って裏口の扉を薄く開けた透の腕に飛沫が走り、隙間から雨粒が降り込んできた。「この雨の中追い払うのも酷だけどね。父に見つかって棒で追い払われるよりはね」透は寂しそうな目で猫を見送った。

「弟さんのところへは、裏口から行くの?」

「ああ、そうじゃないよ。裏口から外を通って台所に行くんだ。食事を取ってこなくちゃ」

 居間で盛り上がっている人たちの目に触れないための配慮らしかったが、ここでも弟の存在自体に蓋をするような感じがして、深見は妙な違和感を覚えた。





「このアイスボールは透兄さんが削ったものなのよ」

「へえ」静の説明を受けて深見はグラスを高く翳して下から覗き込む。真球状に丁寧に磨かれ、琥珀色の液体にその身を委ねる氷は、照明の光を反射してまるで高級な水晶のようだった。「これ磨くのって塊からだろ? 器用なんだな」

 隣へ笑いかければ、透は面映ゆそうに目線を下げる。

「ナイフや小刀は得意なんだ」

「へえ、彫刻とかもやるのか?」

「いや」透はないないというように小さく笑う。「そんなお洒落なものじゃないよ。単に田舎育ちだから、小刀片手に枯れ木を使った仕掛けだの、秘密基地だの作ってたってだけさ。自然のものがおもちゃだったんだよ」

「あら、お兄ちゃんにもそんなやんちゃな年ごろがあったのね」

静が目を丸くして、嬉しそうに顔の前で手を叩いた。

「そういえば瑞樹くんも器用だったわよね」

「そうなの?」

意外なところで出てきた甥っ子の名前に、深見もまた目を丸くする。

「そう。瑞樹くん、小さい頃おとなしかったじゃないですか。あたしなんか、男の子と一緒にやれ冒険だ、鬼ごっこだって走り回っていましたけど、瑞樹くんは何か彫って小夜ちゃんによくプレゼントしていて。木彫りのクマとか!」

「へえ」

 幼い頃の瑞樹と、傷の残った静の足を順に思い浮かべて、深見は少し表情を翳らせた。

「今でもあるんじゃないかな。ホラお兄ちゃん、あったよね? あまりに上手だったからお兄ちゃんが褒めて、防腐剤だかニスだか塗って仕上げたらどうだって言い出してさ」

「ああ、木工室でやったんだっけ」

「そうそれ」静は深見に向き直る。「うちに木工室があるんですけど、そこで」

「木工室まであるの?」

「父の趣味なんですよ。骨董品だの彫刻だのコレクションするだけでは飽き足らず、自分でも作り始めちゃったんです。古い蔵をリフォームした木工室なんですけどね、家の裏にあるんで明日にでも行ってみます?」

「へえ、それは面白そうだな」と頬を緩めたところで、深見はふと催して腰を浮かせた。「と、盛り上がって来たところだけど、ちょっと花摘みに」

「場所わかる?」との透の言葉に肯いて、屋敷に着いた際に受けた説明の記憶を頼りに、裏口側から居間を出る。出てすぐ右手にトイレの扉があり、その先には地下へと降りる階段があった。その更に向こう側には、二階へ続く昇りの階段がある。

 そこから視線を少し左に移せば、先刻猫を逃した裏口の扉の向こう側に、ぼんやりと納屋が見えた。日が沈み天気の崩れた今となっては視界も悪く、夕刻見たときとはかなり印象が違って見える。

 それらを順々に見渡したときだった。

 かん、かん、と。

 何かを強く叩くような金属音が不意に鼓膜を叩いた。

 深見は慌てて音のした方へ視線を向ける。どうやら、地下からのようだった。

 鎮まるどころか、次第に強まるその音に、深見は何やら毛穴を刺すような恐ろしいものを感じ、思わず地下階段へと一歩踏み出していた。

 そこで背後の扉がガチャリと開く音がした。

「そこで何をしている!」

 突然襲い掛かった背後からの鋭い声に、深見はわっと驚き二、三段たたらを踏んでくだり落ちる。それ以上の転落は、手すりを支えにすんでのところで免れた。

「どうなさいましたか旦那様……ああ! いけません、深見様」

 まず主の大声に驚いた水谷が、続いてその後ろから透が姿を現した。

 それ以外の人々に関しては、変わらず談笑を続ける声が居間から微かに漏れ聞こえている。

「ちょっと父さん、いきなり怒鳴るなんて失礼ですよ。怪我はないか? 深見」

 事態を察するや否や、透は慌てて深見に駆け寄った。

「ああ……ごめん。音にびっくりして」

 深見が眉尻を下げたところで、また階下からカンという音が一つ響いた。

 透は深見の向こう側、地下の底へと目を遣り「ああ」と口籠ると、再び深見に視線を戻して肩に手をやった。

「父が大きな声を出してしまって申し訳ない。父さん、深見は音に驚いて足を滑らせただけです。他所の家を勝手に見て回るような人じゃありませんから」

 おそらく、普段透が源一郎に対して歯向かうことなどないのだろう。いつになく厳しい口調で対峙する息子に、源一郎は見るからにたじろいでいるようだった。

 そんな父親を尻目に、透は表情を緩めて振り返ると、

「僕の部屋に行こうか、深見。傷の手当てをしよう」

「手当てでしたらわたくしが」

「水谷さんは、他の人たちへのおもてなしがあるでしょう。ここは僕に任せてください」

 一歩前へ出た水谷をやさしく制した透に、「傷……? 俺、怪我は」と狼狽える深見だったが、これに透が小さく首を振って目で合図を送る。

 それで怪我をしたというのはこの場を中座する口実だと悟り、慌てて深見も話を合わせた。

「ああ、そうしようかな。ご主人、失礼を働き申し訳ありませんでした」

 そうして頭を下げれば、ようやく我に返ったようで主人の声のトーンが下がった。

「こちらこそ、怒鳴りつけるような真似をして申し訳なかった。じゃあ透、お客様の手当ては頼んだぞ」

 羽織を翻して離れていく源一郎の背後から、いつの間にかその場にいたらしい絹代がちらりと一瞥して去っていった。

「深見様、大変失礼致しました。透さんの大切なご友人にこのようなことを……申し訳ありません」

「元はと言えば、足元をよく見ずに歩いていた俺が悪いですから」

 互いに向かい合って頭を下げ合う水谷と深見を前に、透は毅然と言った。

「よく確認せずに怒鳴りつけた父が悪いんです。水谷さんは、これ以上深見が父から叱責されないよう、守ろうとしてくれたんですよね」それから深見の腕を取って段を昇る。「では、僕たちは少し中座しますから、あまり騒ぎにならないようにお願いできますか?」

「もちろんでございます」



 十



 無言の背中に圧を感じる。速足で進む透の背中を追いかけながら、深見は自らの鼓動が乱れ打つのを感じた。つい数時間前の道のりと同じはずなのに、まったくの別世界のように感じられる。

 自室の奥に深見を促し、扉を閉めたところで透がほっと息をついたのがわかった。振り返った透は、いつもの柔和な顔をしていてそこで深見もようやく肩の力を抜くことができる。

 そうして視線と視線で互いの安堵を確かめ合ったところで、穏やかな面はそのまま、透は信じられないことをさらりと言った。

「地下には、弟が監禁されているんだ」

 稲光、そして遅れて稲妻が轟く。窓ガラスがびりびりと震えた。

 もたらされた単語の意味そのものはもちろん知っていた。しかし、その全容が理解できずに深見は言葉を失う。

「監禁って」

「うん、家の事情で地下室に閉じ込めている」

「……病気っていうのは」

「ごめん、半分嘘をついた」

 透は至極すまなそうに視線を落とした。病気というのは口実だったらしい。しかし監禁されている弟に食事を与えてくるだなんて口にすれば、深見も混乱していただろうから、あの場で事情を濁すのは致し方ないことに思えた。

「半分というのは、弟はもうだいぶ弱っていて……ね。地下に牢屋があるんだ。そこに弟は閉じ込められていてあの音は、その……弟が時折食器や道具を金属の棚に打ち付けて音を鳴らすんだ。だから父はあんな過剰に」

 開示された非現実的な事実に困惑する深見だったが、少しずつ与えられるピースにより徐々に奇妙な出来事同士が繋がってきていることもまた事実だった。なにより、透が冗談を言っているようには見えない。

 何から尋ねればよいのかすらわからないほど話が見えてこなかったが、深見は手探りで指に触れた札からひとつずつ捲っていく。

「いつから?」

「……もう、生まれたときから」

 これは、興味本位などでいたずらに掘り下げてはいけない話だ。そう深見は本能的に受け取った。けれど、透が深見を実家へ招くにあたって、どこかでこのことが露呈する可能性について、全く考えなかったとは思えない。事故的に知られることの容認どころか、ひょっとしたら打ち明けたがっている可能性もあるのではないか。その場合、彼がその心の澱を吐き出せるか否かは、全て深見の対応にかかっていると言えた。

そう肌で感じ取った深見の背筋は自然と伸び、身体はまっすぐに透の方へ向き直っていた。

「……どういうことだい」

 と、尋ねる声のトーンも自然と低くなる。深見がその目をじっと見つめると、やがて透は感情に蓋を落とすようにひとつふうと息を吐き、静かに答えた。

「四神村には、古くからの言い伝えがあるんだ。男同士の双子は、家を喰らい合う。後から産まれた子は、先に産まれた子と家そのものの幸を喰らい尽くす悪魔の化身、忌み子だから殺せ、って。難産で危険な状態にあった母に、お前は忌み子を産んだから、今から片方を殺しますだなんてとても言えないから、祖父母と父は片方を死産だったことにしたらしいんだけどね」

「殺すとか、死産って……? でも弟さんは生きているんだよな」

「うん。生きている。歪んだ気遣いも空しく、母は俺たちを産んだその日に死んでしまったから。母体が死んだ場合、今度は忌み子を殺したら駄目なんだってさ。忌み子が母体を地獄へ引きずり落としたと信じられていて、その状態で忌み子を殺したら逆恨みで一族もろとも地獄へ道連れにされる。だから、地下の奥深くに封印しろ……と、言い伝えられているそうだ。

昔は深い枯れ井戸の底や、深い洞窟の奥底に牢を作って閉じ込めていたらしいんだけどね。……弟は地下牢に。人権もなにもない。非道い仕打ちだよな」

 そこまで淡々と話をしていた透が、そこで顔を曇らせ、話を切った。

 何か声を掛けたいのは山々だったが、深見にはふさわしい言葉が見つからない。

 あまりにも奇怪すぎて、うまく呑み込めないと言うのが正直なところだった。

「……ちょっと、信じられないだろ?」

 唖然とした深見の様子を眺めて、透は自嘲を露わに笑った。

「そんな村なんだよ、ここは」

 沈んだ空気に、雨粒が硝子を叩く音が響く。

 透の言う“特殊”の闇がまた一つ深まってしまった。深見はまっすぐに透を見つめて言った。

「話してくれてありがとう」

「いや……礼を言うのは俺のほうだ。こんな話、聞かされても困っただろう」

 すまんと頭を下げる透は、きっと視線にいたたまれなくなったのだろうと、深見はひとつ視線を自らの手元に外した。

「あまりにも、その、俺の知る文化とかけ離れすぎていて驚いた。でも、朱野の話は信じるよ。宗教は自由だし、ご家族のことを悪く言うようだけど、でもこれって、虐待じゃないか……村の人達はこのこと、知っているんだよね?」

「もちろん。過去には他の家に双子が産まれた例も伝わっているみたいだし。村の人からすれば、虐待でも異様でもなんともない、当然のこととして扱われているんだろうさ」

「知っていて黙っているのか……」

 自身の姉の顔を思い浮かべて、深見は猛烈なおぞましさに襲われた。よく知るはずの姉が、突然遠い理解の届かない存在に思えてきて、不意に身震いがこぼれ落ちる。

 その顛末を察したのか、透が宥めるような口調で言った。

「村の人だけじゃない。俺だって同罪だよ」

「朱野」

「俺だって、知っているのに通報もせずに見過ごしている。こうして君に打ち明けて、自分の弟を村の奇妙な慣習に奪われた被害者のように振舞っているけれど、弟から見れば俺もれっきとした加害者の一角に変わりないはずだよ」

 透は小さく声を絞り出した。そのトーンは音としては、あくまで穏やかな体をなしていたが、その内側に耳を傾けたとき、深見は目の前の透の全身から血が滲みだすような錯覚を覚えずにはいられなかった。

「悪魔は俺たちのほうさ」

 雨脚は留まるところを知らない。次第に風が強まり、雨粒が窓を叩く音の向こうに笛の音のような声が混じりはじめた。

「弟さんの名前は?」

「穢ってみんなは呼んでいる。穢っていう字は、人名漢字として使えないからただの蔑称、あだ名のようなもので、便宜上つけた名前は他にあるんだけどね。その名前で呼んだら取り憑かれるだの、呪い殺されるだので、呼んじゃいけないことになっている」

「呪いだなんだは俺の自己責任ってことでいいから、本来の名前を呼んじゃ駄目なのかな。教えてくれよ」

 そう問えば、突然透が一瞬泣きそうな顔を浮かべたのがわかった。そして涙を誤魔化すためか、んーと短く唸ってから答えた。

「呼んでいるところを見つかると面倒だから。深見が弟を慮ってちゃんとした名前で呼ぼうとしてくれているのはわかっているんだけど、深見に迷惑がかかるのは辛いから教えられない。ごめん。心からありがとう」

 そう言って、透は深々と頭を下げた。

 確かに、本当の名前を聞いてしまったら、深見はもう穢という蔑称を呼ぶことはできないだろう。そして、深見が本当の名前を呼んでいるところが知られたら面倒なことになるということも、先ほど見た透の父親の様子や、これまでの話を聞けば至極説得力のある話だった。

透の立場と心境を慮ると、胸の奥がツンと痛んだ。



 十一



 九時を過ぎたころに会はお開きになり、それから各々家路についた。少し早い締めとなったが、それも悪天候を慮ってのものである。ほろ酔いのまま白峰家へと戻った深見は、その足で風呂を借り、十一時をまわる頃には床についていた。

 思い起こせば実に濃厚な一日だった。東京の下宿を発ったのが、何日か前のことのように遠く霞んでみえる。重い瞼を閉じると、五分と経たぬうちに深い眠りの底へと落ちていった。

 そしてそれは深夜一時過ぎのことだった。

 深見は夢の向こう側で響く、カラカラという涼やかな音に揺り動かされて目を覚ました。何やら部屋の外が騒がしい。パタパタパタという慌てた足音に続いて、扉が乱雑にノックされた。

「陽介、陽介!」

 琴乃の声だ。

 その声が尋常にはない色を含むのを受けて、深見は慌てて身体を起こす。

 扉を開けると、寝巻に上掛けといった格好で、姉が目の前に立っていた。傘を差す余裕もなかったのだろう。髪は乱れ、全身に雨粒を纏っている。

「どうした?」

「それが――」

 齎された説明に深見はぎょっと目を瞠ると、一目散に駆け出した。

 雨粒をかき分け母屋へ入るとすぐに、薄暗い居間から瑞樹が不安そうな顔で出てきた。普段は騒ぎ立てる子ではないのだが、今はおろおろと狼狽えているのが見て取れる。

 甥を安心させるべく、深見は一つ力強く頷いて肩に手を置く。

「ブレーカーは?」

 言いながら大股で居間へと踏み入れた。焦げ臭さが一層強まる。

 中では、電話台の傍で冷泉が懐中電灯を片手にしゃがみ込んでいた。深見の声を受けて、暗闇の中でその影が動く。

「ブレーカーは落としました」

「ありがとう……しかし」

 と、深見は顔を険しく歪めて辺りを見回す。

 電話機が、周辺を巻き込んで弾け飛んでいた。

 深見の後ろから、琴乃が恐る恐る顔を覗かせる。

「陽介も床には気をつけてね。破片が落ちているかもしれないから」

 誰かがしゃがみ込む気配に視線を向ければ、どこかからもう一台懐中電灯を見つけてきたらしい瑞樹が、黙々と地面の破片を拾い始めていた。

「電話、壊れてるの?」

琴乃が声を震わせる。

「木っ端みじんだよ」

 深見は辺りに散らばった破片の一つを摘まみ上げた。

「雷が落ちたのかしら」

「そうならば、他の電化製品もやられているんじゃないですかね」

 眉を顰めて冷泉が唸った。薄明りに照らされた端正な顔に、不審と懐疑の色が滲んでいる。

「じゃあ……これはなんだって言うの……何もないのに、突然こんな爆発なんてするものかしら」

「……念のため、玄関と窓の鍵を確認してきます。侵入者がいたらまずいですので」

 そう言うや否や、冷泉は部屋を出て行った。

 背後では相変わらず、瑞樹が黙々と電話機の破片を古新聞の上に積み上げている。

「ひとまず明日ご近所の電話を借りて、警察に被害届を出しておこうか。車も貸してもらえそうならば新しい電話機も買いに行こう」

「そうね……ブレーカーは元に戻しても大丈夫かしら? 冷蔵庫が止まったままだと中身が駄目になっちゃう」

「壊れたのは電話機だけみたいだし、電源は抜いてあるから復旧させても大丈夫じゃないかな」

 深見の言葉を受け、破片を集めていた瑞樹は黙って立ち上がると配電盤へと向かった。

 電化製品が一斉に復旧の音を鳴らす。特に何も異変はないようで、姉弟は顔を見合わせてほっと胸を撫でおろした。

「驚いたわ……階下でバァンみたいな大きい音がして……びっくりして部屋を出たら瑞樹と冷泉くんも廊下に出ていたの。それから、二人が先導してくれて下に降りて。焦げ臭い匂いの元を辿ってここに行き着いたのよ」

「母さん……これ。爆発物が仕掛けられていたのかも」

 そう言って瑞樹が、懐中電灯である破片を照らして見せる。

「電話機の破片じゃないようなものもいくつかあるから」

「え、爆発物って、そんな馬鹿な」

 深見も眉根を寄せて破片に目を凝らした。

 悪戯にしては洒落にならなさすぎる。嫌がらせにしても、こんな狭い村で誰がそんなことをするというのか。それとも、閉ざされた狭い村だからこそ、かえってどろどろした人間関係があるものなのだろうかと、ひとしきり深見が唸ったところで、冷泉の足音が戻ってきた。

「一階も二階も、開いていた窓は施錠してきました。玄関の鍵は閉まっていたし、……私室の中までは流石に確認していませんが、廊下に人の潜んでいる気配はありません」

 剣道部らしく、護身用として傘を手に家の中を巡回してきたらしい。

「みなさんも私室に戻られる際には、念のため押し入れやクローゼットの中は確認した方がいいかもしれませんね」

 冷泉が眉を顰めたところで、玄関の呼び鈴が深夜の来客を告げた。

 奇妙な時刻の来訪者に、一同ぎょっと目を剥き、顔を見合わせる。

なにか首筋に冷たいものが当てられた気持ちだった。

やがて呼び鈴の音は、玄関の戸を叩く音へと変わる。

電話機の爆破に、真夜中の来訪者にと立て続けの異常事態とあって、全員の思考が一瞬凍ったようだった。扉を開けるべきだという理性を押しやって、迫りくるものに対する生理的な恐怖が居座り、正常な思考を麻痺させていく。

 ややあって、恐慌状態からいちはやく抜けたらしい冷泉が玄関へと足を向けた。それが催眠術を解く合図だったかのように、深見、瑞樹とそれに従った。

「白峰さん、白峰さん」

 玄関へ近づくにつれ、雨音の手前に人の声が聞こえてくる。引き戸越しに聞こえてきたのはよく知る声だったため、巨大な警戒心から一転、深見は冷泉を縫うようにして錠前へと手を伸ばす。ほぼ同時に琴乃の「開けてさしあげて」という声が背中を押した。

 深見が錠を持ち上げると、そこには全身を雨に濡らした客人の姿があった。



 十二



 ようやく深い眠りに落ちた頃のことである。

「透さん、起きてくださいな、透さん」

 部屋の扉が叩かれる音に起こされ、透は重い体を起こした。

 室内の時計を見遣れば、午前一時二十八分を指し示している。

 その間もこんこんとひっきりなしに扉が鳴るのに、大股で扉へ向かい、「どうかしたんですか?」と外へ顔を出せば、珍しく少し困ったように眉根を寄せた絹代が、寝間着姿のまま立っていた。

「大変なんですよ。奇妙なことが起きたのです。一階へきてください」

「何かあったんです? まさか父さんに何か……」

「いえ、旦那様はお元気でいらっしゃいます」

 絹代の話は要領を得ないものだったが、焦眉の急を要するらしいと話を聞くのは後にして、とりあえず透は絹代に従うことにした。自身よりもひとまわり小さな背中が東を向いたところで透は尋ねた。

「静も起こしますか?」

「旦那様の御申しつけは透さんを起こしてくるようにとのことだったので、お任せしますわ」

 そこで透は足を止めた。

「任せるって言われても。何があったんです?」

絹代も足を止めて振り返る。

「それが、どう申したらよいものか。電話機がいきなり爆発したみたいなのですよ」

「え?」

 しんとした静寂の中、硝子越しの嵐の声だけが不気味に響いた。

「何かが破裂するような音がしたんで、旦那様と見に行ってみれば、居間の電話機が弾け飛んだようになっていて」

「じゃあ静は後だ。ひとまず下へ降りてみましょう」

 透は、中央階段に向いたつま先を翻し、西階段へと急いだ。狭く冷たい灰色の階段を一段飛ばしに下っていく。踊り場を折れたとき、目の前の窓に一閃の稲妻が走った。遅れてばりばりという重い音が腹の底を抉る。一階へ降り、左に見える居間の扉へ向かおうとしたところで、再び空が光り、辺りが白く照らされた。

その瞬間、靴底から電流を流されたように全身ががちりと固まった。

 遅れて、背後で絹代がひっと息を呑む音が鼓膜を叩いた。

 不規則に明滅する稲光に照らされた先で、何かがこちらを見ていた。

 再び廊下は暗闇に戻る。

 階段を降りようと踏み出す足がぎくしゃくと強張り、金縛り状態で無理やり身体を動かすときのような鈍い軋みが全身を刺した。

 透が手探りで廊下の電灯を点けると、今度は漏れ出る光に淡く照らされ、再びそれは闇に浮かび上がった。

 ――呪。

 それは納屋の扉に、赤く書きなぐられていた。

 辛うじて形をとどめたその文字はたしかに呪と読める。風雨にさらされ崩れた赤い文字が、でかでかとこちら側を睨みつけていた。

「血?!」

 絹代が引き攣った声を挙げる。

「いや」

 短く言って、透は傘も持たずに外へ出た。

 強い雨風に、その身体は瞬く間に色を変える。

「これはたぶんペンキです。この雨だ、血だったらもっと流されているでしょう」

 扉に近づき一つ撫でた透は、廊下に立ち尽くす絹代を振り返る。

「絹代さん、水谷さんを起こして納屋の鍵をもらってきてください。静も起こした方がいい。僕はこのことを父に伝えてきます」

 透は、緊張と恐怖から固まっている様子の絹代の身体をほぐすべく、その肩にやさしく手を置いてそう言った。そして全身ずぶ濡れなのも構わず、居間へと足を向ける。

 背中の向こうで、草履の音が二階へ上がっていくのを確認すると、透は一つ息をついて居間の扉を開けた。

「おお、透。ずいぶん遅かったじゃないか――」

 小言を言いかけた口が止まった。全身水浸しな透の姿を見て、源一郎はぎょっと瞠目する。

「納屋の扉に悪戯書きがされているんです」

「悪戯書きだと?」

 透は苦いものを噛んだような顔で肯き、「でかでかと赤いペンキで。それから電話機が壊されたって?」と、電話台の傍に膝をついた。

「ああ。お手上げだ。派手にやられておる」

「破片があちこち飛んでいますね」

「修理できるか?」

「これは……」唸りながら透は検分する。「さすがに難しそうです」

「そうか」

 理工学部修了者の言葉に、源一郎は素直に肩を落とした。

「一体誰が……」

「村の誰かだろうか」

「そんな、まさか」

 源一郎のつぶやきに、透ははっと目を瞠る。先ほどまで一堂に会していた面々の顔が浮かんでは消えた。先祖の頃から身を寄せ合って生きてきたも同然のこの村の人間を疑うのは気が引ける。弟に対する非道な仕打ちも、裏を返せば村そのものを守るためのまじない、異様なまでの集団存続への愛が歪んだもののはずだ。一人の忌み子を生贄に、悪魔から村を守っている集団なのだ。それほどまでに村への愛に殉ずる人間が、はたしてその関係を揺るがすようなことをするだろうか。

「納屋を見てくるぞ。鍵を水谷からもらってこい」

「絹代さんに頼んであります。そろそろじゃないですかね」

 そうして二人が裏口に繫がる廊下へ出たころ、ちょうど絹代と傘を手に下げた水谷が連れたっておりてくるところだった。

 凶行を初めて目にした家主と執事は、目を剥き、息を呑む。

「全くどこのどいつだ、こんな! 中は悪戯されちゃおらんだろうな」

 やがて我を取り戻した源一郎は、真っ赤な額に青筋を浮かべると、水谷から納屋の鍵をひったくって勢いよく裏口の戸を開けた。隙間から、雨粒が勢いよく降り込む。

 構わず源一郎がづかづかと出て行くのに、慌てて水谷がその背を追って傘を差しかけた。

 無骨な指が錠前を外し、重い扉が手前へと開かれる。真夜中の納屋は、ぽっかりと暗い洞穴のように口を開けた。

 水谷が暗い内部へと懐中電灯の矛先を向ける。

 内部が映し出された瞬間、一同、頭部を巡る血が一気に凍った。

 ひっと、最後尾で短い悲鳴が上がる。

 天井から、真っ赤に染まった首のない女の死体が吊り下がっていた。

 白いネグリジェを赤く染めたその華奢な身体は、外の雨粒に呼応するかのように生温かな鮮血を滴らせて揺れていた。……

「うわあああっ」

 先頭で源一郎がたたらを踏んで後ずさり、水谷にぶつかって鍵を落とした。家主を支える水谷も、もはや縋りついているというに近い。それらの後ろで風雨に晒されているのも忘れたように透が立ち尽くし、最後尾の絹代は、屋敷の扉にしがみついて呆然と硬直していた。

「く、首……首が」

「しし、静……静ァ!」

 二人が叫ぶのは同時だった。

 水谷の持つ傘が突然意志を持ったように跳ね、源一郎が恰幅のいい身体を揺さぶり転がる首に飛びついた。

 首は、吊られた死体の足元に上を向いて転がっていた。魂の抜ける瞬間を切り取ったような惨たらしく醜い表情だった。

「なんてことだ……」

 源一郎の血を吐くような嘆きは、暗闇に吸い込まれて消えた。

「け、警察……警察を呼びましょう」いち早く自我を取り戻した透が、室内に引き返そうとして「ああ」と嘆く。「電話は使えないんだった……白峰さんのところに行ってみます。非常識な時刻だけれど緊急事態だ。事情を話して電話を借りてみます」

 娘の生首を抱き呆然自失といった様子の源一郎は、息子の言葉を外国語でも聞くかのようにきょとんと眺めるだけだった。

「付近に犯人がいるかもしれないので、よかったらどなたかついてきてはくれませんか? 単独で行動するのは流石に」

 透の申し出に名乗り出たのは、意外な人物だった。

「では、わたくしが」

 幾分か我を取り戻したらしい絹代が手を上げるのを、透は目顔で確認して、「その前に……静を下に」と納屋の中へ足を踏み入れた。血に汚れるのも厭わず、吊られた妹の亡骸を持ち上げて下ろそうと試みるも、やがて諦めたように手を離す。そして、端に立てかけられていた角材を二本手に取りそのうち一本を絹代に手渡した。

「縄が固くておろせませんでした。犯人がまだ近くにいてもおかしくありませんから、用心のため、絹代さんもこれを。父さんも水谷さんも、くれぐれも用心してください。電話を借りたらすぐに戻ってきますので」

 絹代はしばらく手渡された角材を能面のようにじっと眺めて、「でしたらわたくし、こちらがいいわ」と、何かに思い至ったように、納屋の中へ踏み入り、立てかけられた鉈を手に取った。そして、すぐさま鮮血の臭気を厭うように着物の袖で口元を覆い、そそくさと外へ引き返す。

「玄関を通って、傘を取ってから行きましょう、透さん。さあ。早く警察を呼ばなければ」



 十三



 玄関先で数時間ぶりに対面した透は、まるで濡れ鼠だった。

 背後で傘をさす絹代の右手に、光るものを見つけた琴乃が短く息を呑む。

 目の前の透に視線を戻して目を凝らせば、寝間着の胸部分から腹にかけて赤黒いしみが滲んでいる。その透の右手にも濡れそぼって色の変わった角材が握られていた。

「こんな夜中にお騒がせしてまことに申し訳ありません。緊急事態なんです。電話を貸していただけないでしょうか」

 ともすれば震えそうになるのを我慢しながら、透は毅然と言った。

「え、あ、それ血か? お、おい朱野怪我してんのか」

 ようやく喉元を通った言葉はそれだった。深見は恐々と、透の全身をなめるように見回す。

「いや、俺の血じゃないんだ」

 どこかぼうっと蕩けた様子の透が首を振る。その顔は雨に濡れて冷えただけでは説明がつかぬほど酷く青白く、まるで血の通っていない蝋人形のようだった。

 深見はそんな透を中へと招き入れる。その際に触れた身体は氷のように冷え切って震えていた。

 瑞樹がぱたぱたと廊下を駆けていく音が遠ざかる。

「電話、それが今電話がね」

「緊急事態って、何があった?」

 ほぼ同時に口を開いた琴乃と深見を交互に見やりながら、透は悲痛に顔を歪めた。

「静が……何者かに……」

 突然気が緩んだように息を乱し始めた透の後を引き継ぎ、後ろから絹代が淡々と言った。

「殺されていたんですよ」

 その言葉に一同は唖然と目を瞠った。そんなことはお構いなしと絹代は言葉を続ける。

「警察を呼んで一刻も早く殺人鬼を捕まえてもらわなければ、わたくしたちの命に関わります。奥様、お電話を拝借しても?」

そのときバスタオルを手にした瑞樹が戻ってきた。冷えた透の身体にタオルを羽織らせながら深見が心配そうに顔を覗き込むと、「ごめん、もう大丈夫」と透は正気を取り戻して顎を引いた。

「殺されたですって? ……まさかそんな……静ちゃんが……いえ、けれどどうしましょう。それが、うちの電話機が壊れて使えないんですよ」

「どういうことですの?」

「さっき急に爆発して、それで今、家じゅう起きて大騒ぎしていて」

「まさか……」絹代は何かに思い至ったように息を呑んだ。「我が家の電話機も爆発しましたのよ。そうしたところで静さんの遺体が納屋で見つかったものですから……おたくのお坊ちゃん方は全員ご無事で?」

 と、玄関の中をじろじろ検分するように見回す。

「全員います。出張中の主人にだけ連絡が取れないでいるけれど……大丈夫かしら」

 琴乃がそわそわし始めるのを、瑞樹が肩を抱いて励ました。

 深見は腹の底から冷たい何かが膨れ上がるのを、唾を飲んで押し込み、声に力を籠める。

「龍川さんの家にいってみよう」

「ええ、それがいいでしょう」

 それを待ったようにすぐさま同意を示した冷泉誠人と目を合わせて頷き合う。まるで示し合わせたようなタイミングだった。もしかしたら、彼もちょうど同じことを言おうとしていたのかもしれない。

「こうなれば電話機の爆発も人為的なものに違いない。いよいよ気味が悪いぞ」





 透の案内で、深見は初めて龍川の家を訪れた。

 延々と続く深い森を背景に暗闇に浮かんだ『青龍の館』は、青銅色を基調にした横に長い家屋だった。生垣に隠れた向こう側に、石に縁どられた小さな池が、その隣には大きな鶏小屋が見える。一方向を除いて山に囲まれたその屋敷は、昼間は蝉の大合唱に包まれるに違いなかった。

 辺りは傘の厚い布地を怒涛の水の塊が叩く乱暴な音と、水の束が突き刺さる白で包まれている。そのずっと向こう側、広がる暗闇の中に違和感を見つけた深見が小さく声をあげた。つられて透も目を凝らす。

「あそこ……何か変じゃないか?」

 深見が懐中電灯を向けた先、白く粟立つ地面の隙間に二人の視線は釘付けになった。目を凝らすが、月の光の届かない荒天下の暗さに加え、空気中を大量に横切る雨の矢に阻まれて思うように見ることができない。

「まさか……『朱雀像』が……」

 その中でも何かを捉えたらしく、吸い込まれるように山の方へと足を向けた透の、寝間着の張りついた背中を追って深見も駆け出した。

 木々が見守る中、ぼんやりとした光の輪の中心で、砕かれた朱色の鳥の像が無残にも息絶えていた。その周り一帯にばら撒かれた赤い液体を、降りしきる雨粒が真白く粟立てている。まるで、像が血を流して倒れているようだった。

 気づけば深見は懐中電灯を握った拳で口元をぎゅっと抑えていた。それに伴い、映し出された惨状は元の闇を取り戻す。それが催眠解除の合図であったかのように、隣で固まっていた透の肩が、続いて首が動いた。日頃涼し気な目元が、これでもかとばかりに見開かれていた。

「お、同じだ……」

「同じ?」

「静の……納屋の扉と同じだ」

「どういうことだ」

「静が殺されていた納屋にもあったんだ……赤い血文字のような悪戯書きが……」

「なんだって……ッ」

 揃って尻に火でもついたかのように、二人は無言のまま来た道を引き返した。八畳ほどの平屋の診療棟の脇を通り過ぎ、二階建ての居住部分と思しき玄関の呼び鈴を狂ったように打ち鳴らす。扉の磨り硝子越しに見れば、一階の奥の方からぼんやりと明かりが漏れているようだった。

 その光景を受け、深見は脳内にあるひとつの恐ろしい思いつきが沸き立つのを感じずにはいられなかった。が、必死に蓋をして平静を保つ。そんなことあってはならない。

しかして、その思いつきは顔を出した龍川医師の言葉によって、無念にも現実となった。

「うちの電話機が、この雷のせいか駄目になってしまってですな」



 十四



「この様子じゃ、武藤さんの家もどうだか……」

 思わず口をついて出た自らの言葉に、深見ははっとしてすぐ隣にある透の顔を窺い見た。

 目の下に隈を浮かべてげっそりとした透は、それでも心配をかけまいと笑みを浮かべようとしているようだったが、うまくいかずに泣き笑いのようになっている。

「俺も同じことを思っていたから大丈夫だよ」

 龍川家を後にした二人は、龍川親子を引き連れて一度白峰家に戻り、事の顛末を説明した。琴乃はたいそう衝撃を受けていたが、瑞樹と冷泉を傍につかせて待機を続けてもらうことにした。また、龍川医師は静の遺体の様子を確かめるとのことで、小夜を白峰家の待機の輪に加え、絹代と共に朱野家へ向かった。

 そうして深見と透が、武藤家へと向かう運びとなったわけである。

 望みの全ては武藤家に託された。

 風雨は変わらず激しさを留め、数メートル先の視界もおぼつかない。傘をさしてもささずとも、もはや大差ないような塩梅であった。

「こんなことに巻き込んでしまってごめんな、深見」

「朱野のせいじゃないだろ」

「でも……いや、まさかこんなことになるなんて……」

「家族や友達が変なことに巻き込まれているんだ。寧ろ傍についていられるほうが安心するさ」

 深見がそう言うと、透は再び消え入りそうな声でごめんと零した。

 酷く怯えた様子の武藤霧子が玄関から出てきた時に、二人は事態の全てを悟った。

「隣村へ行くしかない。俺と深見とで車を出そう」

 電話が使えないのならば、そうする他あるまい。二人は、一旦武藤霧子を連れて朱野家へと戻ることにした。

 朱野家の居間は、暗く淀んだ空気が充満していた。訊けば、納屋で龍川医師が現場を荒らさぬ程度に遺体を検分しているとのことである。護衛のために、その傍には水谷がついているとのことだった。

 深見と透が代わる代わる事の顛末を話して聞かせると、絹代は身をぶるりと震わせ、また源一郎はわなわなと震え出し、顔を紅潮させて声を荒げた。

「それじゃあ、連絡をつけようがないじゃあないか!」

 それから、再び呪いだ、何故こんなことにとぶつぶつ繰り返しながら、頭を抱え込んでしまう始末だった。

「感情的になったところで何も変わりません。僕と深見でこれから五藤村へ行ってみますから。電話を借りられないか家々をあたってみます。住人が起きてくれなかったら、六山市の派出所まで行ってみますよ。遅くとも夜明け頃には警官を連れて戻ってこられると思いますから、父さんはお風呂にでも浸かって身体を温めてください」

 透の言うように、源一郎の寝間着は血に汚れて酷い有様だった。柱時計の針は深夜二時半を指している。

 それから車の鍵を手に、二人は連なって夜の山を登ることとなった。

 昼に下ったときには勾配のなだらかな丘だと感じたが、真っ暗な風雨の中を殺人鬼におびえながら傘をはためかせて上るとなると、一転して急勾配の山のように感じられるものだ。二人はただ黙々と、時折恐怖を紛らわすように声を掛け合いながら、ひたすらに前へと足を運び続けた。

「見えたぞ……」

 先導する透が、達成感と安堵の滲んだ声をあげた。

 つい半日前に乗ってきたばかりの軽自動車を、懐中電灯の光の輪っかが、雨粒を乱反射しながらぼんやりと映し出す。

頼みの綱が視界に入ったことで力を取り戻した二人は、水を得た魚のように足早に駆け出した。

「なんてことだ……」

 しかして、車体を支えていたはずのタイヤは全て張りを失い、ぺちゃんこに萎びてしまっていた。それだけでなく、

「深見!」

透の声に振り返った深見は、目に入った絶望的な光景に思わず叫びを漏らした。

「ああ! トンネルが!」

 懐中電灯の光の先には絶望的な光景が広がっていた。村の外へと通じたはずのトンネルの入り口は、こちら側から崩れて瓦礫に埋まっていた。……

 角材と傘をその場に取り落とし、透はふらふらと崩れたトンネルに駆け寄った。素手でセメント片や鉄骨を持ち上げようと何度か力を入れ、やがて力尽きたようにその場にへたり込む。

 背後から深見が近寄り、傘を差しかけた。

 そのまましばらく呆然と時が過ぎていった。

「そんな……」

 目の前の瓦礫の山を、透はうつろな目で見つめている。

 深見の頭の中で、閉じ込められたの七文字が壊れたオルゴールのように鳴り狂う。その恐怖と絶望に身体は固く冷たく凍りつき、目の前がざーっと昏くなった。

 雷や豪雨で崩れたものだろうか。それとも、いよいよトンネルが寿命を迎えて崩落したとでも。……否、深見の脳内に、これまで見た、弾けた四つの電話機と赤い池の上に浮かぶ砕けた石像の姿が蘇る。あれと目の前の崩落が無関係だとは、とても思えなかった。

 これは明らかに人為的なものだ。

更に状況をよくよく分析してみれば、恐ろしい事態に思い当たる。そう、トンネルが四神村側から崩れているということは、崩落を起こした犯人はこちらから爆薬を仕掛け、点火したということにならないだろうか。

つまり、犯人と一緒に村に閉じ込められたかもしれないのだ。

 ここまで考えて、深見は眼下の透を窺った。

 瓦礫の前にしゃがみ込んだ透の目は、もはや何の像も結んでいないように見えた。

 今は動転しているにしても、平静を取り戻した透であればこのことに気づかないはずはない。傷心している今、態々それを言葉にして傷に塩を塗るのはやめておこうと、深見は口を噤む。

 果たして、爆破の犯人と、静を殺した犯人は別々なのか、それとも同一人物なのか、それもまた問題だった。

 爆破の犯人と、静を殺した犯人が別にいたとしても気持ち悪いことに変わりはなかったが、同一である場合には最悪な事態が予想される。

すなわち、殺人がまだ続く可能性があるということだ。

静を殺して犯人の目的が達成されたのであれば、犯人はそのまま逃走すれば済む話だろう。何も電話機を壊して外部との連絡手段を断ったり、唯一の連絡口であるトンネルを爆破して犯人もろとも閉じこもったりする必要などない。

つまり、退路を断ったということは、獲物に逃げられないようにするため――すなわち、殺すべき獲物がまだ村に残っているということにはならないか。

 そこまで考えて、深見はぶるりと身を震わせた。

 今になって、事の発端となった怪文書の文面が蘇る。――朱野松右衛門の怪死が、村に降りかかる呪いのほんの序章である――これが預言書、否、犯人の声明文だったのかもしれないと思えば、降りしきる雨粒が自らの肌を突き破る無数の針のように感じられた。





 再び雨脚が強まり、何度も傘を取られそうになりながら、二人は転がるようにして森を抜ける。妙に現実感のないふわふわした心持だった。

そして丘を通り過ぎ、下り坂へとさしかかった頃のことである。土砂降りの雨の筋を横切り、一陣の矢が背後から横切った。

 深見は慌てて背後を振り返る。透が左腕を抑えて唖然と膝をついていた。傘越しに左腕を射られたらしい。

 腹の底から突き上げるような恐怖に襲われながら、深見はぎくしゃくとその場に伏せた。そして、すぐさまその傍へと這い寄った。

「大丈夫か、怪我は」

 言いながら、首だけを持ち上げてきょろきょろと矢の飛んできた方向を探す。真っ白く突き刺さる雨の筋に阻まれて、目を開けているのも大変なほどである。白んだ視界の隅に、辛うじて人影の動いたのを捉えて、深見は手元の角材を投げつけた。人影は慌てて、崖を反対方向へと駆けおりていく。

「逃げたぞ」

「俺はかすり傷だから、追って」

 透をこの場に置いていくのは危険ではないかと少し迷った深見だったが、あの影さえ捕まえてしまえば、村の全員の安全が戻ってくるのだ。迷うことはない、と一目散に今下ってきたばかりの斜面を駆け上っていく。

 これまで深見たちは、『玄武の館』の近くに降りる緩やかな道を通ってトンネルへと行き来していたが、どうやらもう一本『朱雀の館』の方面に下る道も存在するらしい。影を追ったことで、はじめて深見はそのことに気づかされた。

 しかし、雨の中、いつ電池の切れてもおかしくなさそうな懐中電灯の心もとない光ひとつを頼りに道を選んで駆け下りるのは至難の業だと言えた。おかげで何度もぬかるみに足を取られ、滑って転んで泥だらけである。

そうしてしばらく追いかけたところで深見は暴漢を見失い、なくなく透のもとへと引き返すこととなった。

 戻る途中、とある木の麓で深見はボウガンと幾つかの矢を拾った。先ほど暴漢を追いかける際には、追うことに夢中で気が付かなかったらしい。それらを証拠品として拾い集め、透のもとへ辿り着いた頃には雨も幾分か小降りになっていた。

 深見の姿を視認した透が、傘を手に駆け寄ってきた。深見が取り落とした傘だった。

「ごめん、取り逃がした……大丈夫か?」

 深見の言葉に、透は首を縦に振った。

「ちょっと掠っただけだ。深見は? かなり泥だらけだけど」

 と、透は心配そうに泥だらけの深見のズボンを払うが、乾いた泥と違って全く落ちる気配がない。今になって擦りむいた肘や膝がじくじく痛みを連れてきて、痛いやら悔しいやらで深見は顔を顰めて毒づいた。

「少し滑っただけだ。くっそ、捕まえられれば安心できたのに」

「深見はこの辺の山道に慣れていないし、雨は強いしぬかるんでいるし仕方ないよ……」 言いながら、透の顔がみるみる青ざめていった。「え、いや、待て。相手がこの村の山道に慣れているとなると……」

 そう言ったところで、透は驚愕に目を見開き、言葉を失ったようだった。

 堪らず深見もごくりと唾を飲み込む。渇ききった喉がささくれのように痛んだ。

 村の地理に詳しい人間となると、怪しいのは村の住人ということになるではないか。

 深見は背筋がぞっと冷え、全身に鳥肌が立つのを覚えた。

「俺たちが通った『玄武の館』の裏手に降りるなだらかな道とは別に、『朱雀の館』の裏手から伸びる険しい道も存在はするんだ。けれど、お客さんの案内の際にはもちろん、夜間や、こんな足元の悪い日にはまず間違いなく使う者はいない」

「じゃあ……」

「……あまり言いたくはないが、村の住人には気を付けた方がいいね」

 その一言は、深見の脳天に甚大な雷を落とした。

まるで背水の陣ではないか。

「信頼できる人間には伝えるべきだけど、これもむやみに言わない方がいいのかもしれない。伝えた相手が犯人だったら、どう相手を刺激するかわからない」

 透がぽつりとそう零す。そのまま、転がっていた穴の開いた傘を拾い上げて乱暴に束ねた。

 いつの間にか雨は小降りになっていた。

「信頼できる人間か」

「そう。俺が信頼できるのはもう深見だけだ」

 そう言い放ったときの透の顔が、深見には忘れられない。

それは品性と富に恵まれた透にはおよそ似つかわしくない、諦念と自棄に満ちた、世捨て人のような顔だった。

「行こう」

 雨を厭わず先に進む背中に傘を差しかけるべく、深見はその孤独な背中を追いかけた。



 十五



 朱野邸に戻ると、執事の水谷がバスタオルを手に二人を出迎えてくれた。

 左腕の傷を見るや、血相を変えて目を白黒させた執事に、透はなんでもないと気丈に返す。そのまま居間へと通され、温かい紅茶を手渡された。いつの間にか喉がからからに渇いていたようで、少し熱いにも関わらず深見は一気に飲み干してしまった。

 源一郎と武藤霧子はそれぞれ部屋で休んでおり、絹代は浴室にいるらしい。

残った老紳士二人が控えめながら期待のまなざしを向けてくるのに、深見はたまらず目を逸らす。そうか。当然ながら、彼らはまだ知らないのだ。これから自身がこの部屋に絶望をまき散らす執行人役になると思えば、なんとも心が重苦しかった。

「それで、救助は……」

 ついに待ちきれなかった龍川が、そわそわと切り出した。その言葉が今では棘のように痛い。透と何度か目配せをして、深見は小さく息を吸った。

「残念ながら車はタイヤを全て潰されていて、トンネルは崩落していました」

「え?」

 龍川の腰が浮き、水谷の手が止まる。

 深見は、それ以上は何も言えずに、ただ渋面で首を振った。

「じ、じゃあ、我々は、その……閉じ込められたんですか?」

 龍川がまるでこの世の終わりを目にしたような形相で声を裏返す。深見も透も、沈痛に俯くことがやっとだった。水谷は暗鬱と救急箱を抱く腕に力を入れ、龍川は気が抜けたようにソファに崩れた。

 隣では、水谷がかいがいしく透の左腕に手当てを施している。当初は怪我をしたと聞いた龍川が慌てて駆け寄ったものの、幸いにも傷は透の申告通り皮膚を掠った程度で、縫うようなものではなかったらしい。すぐに処置者は水谷へと変わっていた。深見と透、それぞれを中心とした大理石の床に、じわじわと水たまりが拡がっていくのを、深見は遮光フィルターでもかかった気分で他人事のように見つめていた。

 時計の針は、三時過ぎを指している。

 緊急事態にも関わらず、明るさと人の気配への安心からか、だんだんと自身の心に落ち着きが戻っていくのを、深見は不思議な心持で見つめていた。

一方机を挟んだ目の前では、すっかり消耗した様子の龍川医師がぐったりと柔らかなソファに身を埋めている。

「トンネルまで崩れちゃあ打つ手はありませんな……」

 身体中の澱をかき集めて吐き出したような、深いため息混じりの嘆きが深夜の居間に溶けて消えた。

「は? トンネルが崩れたですって?」

 突然もたらされた鋭い声に、鈍化していた空気が一瞬で引き締まる。振り返ると、そこには絹代の姿があった。いつから聞いていたのやら、まだ湿り気の残る髪を簡易に一つにまとめ上げ、居間の入口に立っている。

 上がりかけた心拍を抑えながら、深見は低い声で説明した。

「四神村側の入口が奥も見えない程に崩れていました。瓦礫も、見るからに動かせそうにありません。おそらく、何かの爆発物によるものじゃないかと」

「あなたがやったのではなくて?」

 絹代からの予想だにしない応答に、深見はぎょっと目を剥いた。

 隣で聞いていた透が憮然と声を挙げる。

「それは、どういう意味ですか?」

静かだが、怒りが漏れるのを抑えきれないといった様子だった。しかしそんな透の圧にも素知らぬ様子の絹代は、まるで物わかりの悪い生徒を説き伏せるかのように、呆れを含ませて零した。

「言葉通りの意味ですよ。余所者が来た途端に災いが連続しているでしょう。村の電話機が全て壊され、静さんは首を切って吊るされて、石像は壊され、車のタイヤは潰されて、今度はなんです? トンネルが崩落した? 全部、深見さんが来てから起こったことじゃあありませんか」

 蛇のような絹代の口から次々と言葉が飛んできて刺さるのに、深見は毒に当てられたように視界が昏く歪んだ。

「言いがかりはやめてください」透がいつになく強い口調で絹代に噛みつく。「友人を余所者だなんだって。今すぐ訂正して、深見に謝ってください」

「断りますわ」

「深見は、ずっと僕と一緒にいたんですよ。その目を盗んでトンネルに細工なんてできるわけがないでしょう」

 透の言葉にも馬耳東風といった様子で、絹代は悪びれもせずに淡々と切り返す。

「でしたら透さんも仲間なのでしょう。この家の財産を独り占めにするために、静さんを亡き者にする計画を企てた。そうだとしたら全て成り立ちますわね」

 今度は透が眩暈を覚える番だった。絹代の話があまりに暴論すぎて、思わずあんぐりと言った様子である。

「財産目当てに妹を殺すだなんて……それに可能性を挙げ始めると、絹代さんご自身だって、いえ、それだけでなく村の誰しもが容疑者たり得てしまいますよ。可能性の一つとして挙げるならまだしも……深見、例の手紙は持ってきているよな?」

「ああ。鞄の中だけれど」

 酷い眩暈と、遅れてやってきた疲労を押しのけて、やっとのことで深見が返事をすると、透は力強く頷いて絹代へ向き直った。

「もとはと言えば、僕名義で深見のもとに怪文書が届いたのが事の発端なんです」透は怪文書について、掻い摘んで説明を加えた。「だから、その怪文書のせいで深見はこの村に招かれたんです。絹代さん、あなたの言葉を借りるならば、深見が災いを連れてきたんじゃない、深見は既にこの村にあった災いから呼ばれたんですよ」

「だから何だと言うのです? それらも全てあなた方が仕込んだことかもしれないではありませんか」

 三白眼をこれでもかと見開き、得意げに顎を持ち上げる絹代を前に、透は項垂れ一つ息を吐いて顔を起こした。

「もういいです。ここでいがみ合っていても埒があきません。あなたがそう思うのなら勝手にしてください。ですが、僕の友人を愚弄したことは許しませんからね」

「許さなくとも結構ですよ。殺人鬼のいる村に閉じ込められたのだから、自らの身は自らで守らないといけませんからね。あなた方も、寝首を掻かれぬよう注意なさることですよ。ご自身が犯人であるならば関係ありませんけどね」

 と、気味の悪い笑みを残して、絹代は居間を出て行った。

 辺りに重苦しい空気が立ち込める。

 それを破ったのは透だった。

「深見、本当に申し訳ない。彼女の身内でもないのに悪く言うのもどうかと思うが、ああいう人なんだ」

 それに、龍川の慰めが続いた。

「絹代さんが一人でああ言っているだけで、誰も貴方がたが犯人だなんて思ってないから、気に病むことはないですよ」

それらをじっくりと胸の中に落とし込むと、深見は小さく息を吸いこみ、「なんというか……お前もたいへんだな」鉛でも詰まったように重く動かなかった喉をこじ開けて、ようやくそれだけを言った。わが身に降りかかったあまりの理不尽に、透への同情が禁じ得ない。自身と透の潔白は、深見自身が誰よりも知っていた。それにボウガンのことだってある。そうだ、と深見は右手のボウガンをじっと見つめた。

「これ、山の中で見つけたんです。トンネルからの帰り道に、後ろから襲われて」

 両手で胸の前に掲げながらそう言えば、老紳士ふたりはぎょっと目を剥いた。

「なんと! その傷は矢で射られたものだったのですか? 枝かそれこそ瓦礫の鉄骨か何かで引っかけたものだとばかり……」

「ええ。後ろから狙われたようで。でも傘が身代わりになってくれました。深見がすぐに気づいて、犯人を追いかけてくれたんだけど」

 そこで透の視線を感じた深見が話を引き継ぐ。

「視界が悪くて見失ってしまいました。その道すがらこれを拾ったんです」

「これ、父のコレクションのボウカンですよね」

 続けざまに透が尋ね、水谷を見上げた。

「ええ、間違いございません。二階のコレクションルームに飾っているものと同じものです。似たものを戻られた深見様が抱えていらっしゃるので、気になってはおりましたが、わたくしはてっきり自衛のために持っていかれたのかとばかり」深見が手渡したボウガンをまじまじと眺めて水谷は何度も首を縦に振った。「静さんの次は透さんを亡き者にしようだなどと、一体誰がそのような酷いことを」

 水谷の嘆きを受けて、透が言った。

「日中はもちろん夕食会の間も、玄関の鍵も開けっ放しでしたし、二階のコレクションルームは玄関の正面の中央階段をまっすぐ昇ればすぐです。内部犯、外部犯問わずボウガンを入手することは可能でしょうね」

 透と深見にはもう一つの情報があったが、透がここでは伏せるようなので深見も特に触れないことにする。

 透は老紳士二人の反応を窺うように一望してから口を開いた。

「ですから、犯人を絞るとなると、山で僕たちを襲うことができた人間を絞るほかないでしょうね。とはいえ、頭のおかしな外部の人間の仕業かもしれませんし、少ない村の住人が、互いに疑心暗鬼になってバラバラになると、それこそ犯人の思うつぼだと思うのであまりいいことだとは思いませんが」

「透さんのおっしゃる通りです。軽はずみに犯人を探すようなことを口走ってしまいお恥ずかしい限りです。ですが、龍川先生に関しましては、わたくしずっとお傍におりましたので、犯人でないことは自信をもって証明いたします」

 その言葉を受けて龍川医師が、深々と座り込んでいたソファから身体を起こして言った。

「私もご遺体に向かって検分しておりましたが、水谷さんがいなくなったら流石に気づいたと思いますよ。お恥ずかしい話ですが、なにぶん暗闇からいつ暴漢が戻ってくるかとひやひやしておりましたもので。辺りの動きには、これ以上にないくらいに気を配っていたはずですから」

 龍川の背中が再びソファに沈んだところで、がちゃりと居間の扉が開き、バスローブ姿の源一郎が姿を現した。

「何やらトンネルが通れなくなっているそうじゃないか」

 寝室に戻った絹代から聞いたのだろう。問い詰められる前にと各自で詳細を説明すれば、源一郎は額に汗を浮かべて動揺を示した。

「ああ、呪いだ……四神様がお怒りだ……大変なことになってしまった……。先生、静の方はどうでしたか」

「はあ、それが妙なことがございまして」

 龍川医師が片眉を持ち上げる。

「まず、静さんのご遺体は、納屋の天井の梁から、両腕を∞の字にたすき掛けされた状態で吊るされておりました。首は何か糸鋸のようなもので切断され、血液はまだ固まっておらず、硬直も進行していませんでした。殺害されたのはおよそ夜中の一時前後かと思われます。これ以上の詳しいことは、専門家じゃないと難しいですな」そこで龍川医師は、額に手を当てて俯いた透を慮るように一拍おいた。それから場を一度ぐるりと見回して小さく胸を膨らませる。「不可解なのはここからです。納屋には奥に一つ換気用の小窓がございますな。拳一つ分が入るほどの。こちらに鍵はありません。これは確か、人間の通り抜けどころか、人の頭も通らない大きさなので必要がないからでしたな。そして、出入り口の鍵はしっかりと閉められていた。これは間違いないですな?」

「間違いない。鍵は水谷から受け取り、私が開けた」

 源一郎に呼応して、水谷も肯く。

「わたくしもしっかりと見ておりましたが、間違いなく鍵は閉まっておりました」

 そうしたところで、深見が小さく息を呑んだ。

「じゃあ……犯人は一体どこから出たのでしょうか」

 その声に一同も、はっとした表情を見せる。

 目を見開いて驚きを示す深見に、龍川医師は大きく肯き返した。

「ええ。そうなのです。犯人の脱出口が見当たらないわけですよ」

「最後に鍵がかかっているのを確認したのはいつです?」

 この深見の問いには、水谷が小さく手を挙げた。

「朝わたくしが開錠いたしまして、夜にわたくしと透さんが鍵を掛けました。納屋と土蔵に関しましては、毎日そのようにしております」

「間違いないよ」と透が蒼い顔を持ち上げる。

一つ頷いた深見は水谷に向き直り、「もう少し正確な時刻はわかりますか?」と投げかけた。

「昨晩は夕食会がありましたのでいつもより少し遅く、そうですね二十二時を過ぎたくらいでしょうか。二十二時半に近かったかもしれません」

「そうですか」と、深見は一度背もたれに深く腰掛けた。「では、静さんの姿を最後に見かけたのは?」

「わたくし……でしょうか」

 これにもまた水谷が手を挙げる。

「夕食会の食器を一緒に洗って片づけました。それから静さんは二階の自室にあがり、わたくしは透さんと外の見回りに出ましたので、……そうですね、二十二時過ぎでしょうか」

「これも間違いないよ。静は、僕と水谷さんに挨拶をして、中央階段から二階にのぼっていった」

 透は苦しそうな声で言い終わると、目を閉じて小さく胸を上下させた。

「なるほど。状況を整理してみると、静さんは二十二時過ぎから深夜の一時の間に連れ去られ、殺害された。――あ、龍川医師、殺害現場は納屋だと思いますか?」

「まあ、おそらくそうでしょうな。大量の血液が天井から壁から、あちこちに飛んでおりましたから。これは、頸動脈を破られた際に噴き出したものと思われますな」

「じゃあ、犯人は大量の返り血を浴びた可能性が高いですね」

 と、深見が言ったところで、源一郎が苦言を呈した。

「ちょっと待ってくれ。四神様の呪いなのだろう? あるいは頭のおかしな侵入者の仕業かだ。なぜ君はそんな取り調べのようなことを」

 深見と透は一つ目配せをする。

 犯人が村の地理をよく知る人間である可能性が高いということを知る深見、透と、それ以外の者との間で認識に齟齬があるのだ。深見にしてみれば、村民の誰が疑わしく、誰が潔白なのかをより早く正確に分別したいという気持ちがある。

しかし一方で透が言うように、むやみに疑心暗鬼を煽って村民を分断させたり、犯人を刺激したりするのが危険なことも理解ができる。

 深見はどう説明したものかと一瞬押し黙り、考えが纏まるのを待って慎重に口を開いた。

「お言葉ですが源一郎さん、これは呪いなどではない。紛れもない人間による犯行ですよ。そして、犯人が頭のおかしな人物だということにも、少し疑問がありますね。現に犯人は、静さん殺害の際に密室という状況を作り上げています。それから、朱野……いえ透君を襲うために屋敷に侵入してボウガンを盗み出しているところからも、計画的であることが窺えます。そういうところから僕にはどうも、行き当たりばったりの変質者の犯行に見えないんですよね」

 そこでまた源一郎がボウガンで襲われたとはなんだと騒ぎ立てたので、深見と水谷が説明を加えた。

 それらをじっくり黙って聞いていた透が、やがて思い立ったようにぽつりと言葉を落とした。

「ところで弟は無事なんでしょうか」

 一同がはっとする。音が空間へ浸透しきるのを待つかのような、不自然な間が生まれた。

 皆、透の言葉で初めて気ついた様子だった。朱野穢などと蔑称で呼ばれる青年は、いないことが当たり前なのだということを、深見は改めて思い知らされる。

 透はその場の反応をぐるりと冷めた目で見まわし、すっくと立ち上がって居間を出て行った。深見も後から追いかける。昨晩、深見が叱責を受けた地下階段だ。段の途中に下り行く透の頭が見えた。その後を追い、深見も段に足を掛ける。一段おりるごとに、ひんやりと温度が下がるようだった。中で一つ折れた先に、頑強そうな金属の扉があった。扉の脇のフックから透が鍵を取って回すと音もたてずに扉は開いた。

 立派な扉に反してその鍵の管理がずさんなことに驚かされる。だが、おそらくは鍵の目的は中の穢が脱走しないことにあるのだろう。中に大事なものがあるわけではないので、鍵が盗まれたり、侵入者に入り込まれたりしたとしても、穢を閉じ込めさえできれば問題はないのだ。中にいる穢がたとえその侵入者に襲われようと。――その推論はのちに聞いた話により、確証に変わることとなるのだが――なんとも非道な話だった。

 階段の上から、今まさに地下へと足を踏み入れんとする深見を見下ろす気配があったが、もう誰も咎める者はいなかった。

 地下は鍾乳洞のようにひんやりと冷たく、独特の籠った匂いに満ちていた。

 薄暗いセメント塗りの廊下の先に、扉を前にした透の姿がある。

 向かって右は一面がセメント作りの壁になっていて、突き当りは行き止まりになっている。扉は一枚だけだった。

 扉の下部には牢屋よろしく、食器の受け渡し口の小窓があった。透は一度深見の姿を認めて戸惑う反応を示したが、構わずこんこんこん、と三つノックをして、

「夜中にごめん。透だけど」

 と、中に声を掛けた。中から反応が返ってくる気配はない。先ほど手に取った鍵のうち一本を選んで、ドアノブに差し込み開錠する。

 扉を押し開け、中を見るなり透は仰天した。

「大変だ――!」

 中はもぬけの殻だった。



 十六



 朱野穢がいなくなった。

 その報せは疲弊した面々に追い打ちをかけるに充分すぎる出来事だった。

「穢が呪いを呼び込んだのだ! 奴を早く捕らえて牢にぶち込まねばならん!」

半狂乱に喚き散らす源一郎の声は、さながら頭上で鳴り響く銅鑼の音のようだ。容赦なく疲れ切った精神を削り取っていく。しかし、もうこの場に昂った狂信者を宥める余力を持つ者は誰一人いなかった。

 この後総出で屋敷を隈なく探したものの穢の姿は見つからず、大時計が四時を報せたところで、一旦解散して休むこととなった。

 深見と龍川は朱野邸に一泊していくことを薦められたが、白峰邸に残してきた家族のことがあるからと断り、騒ぎに目を覚ました武藤霧子と共に各々が一旦住まいへと帰ることになった。

深見は、透と翌日の昼に朱野邸で会う約束を取り付け、屋敷を後にした。

 そのころには雨は止んでいたものの、見上げれば雲が激しく流れていくのが見て取れる。東の空が明るみ始める前には床に就けることを祈りながら、三人はそれぞれに疲れた身体を引きずって歩いた。

 武藤霧子を家に送り届け、深見と龍川が白峰邸に戻ると、居間には明かりがついていた。

 冷泉と瑞樹が交代で起きていたらしく、一階の和室では琴乃と小夜が並んで穏やかな寝息を立てている。

 そうしたところで仮眠を取っていた冷泉が目を覚まし、入れ替わりに龍川医師が客間で休むことになった。せっかく寝付いた小夜を起こして家へ帰ることもないだろうとの瑞樹の提案である。

それから居間でこれまであったことを時系列順に説明していると、次いで琴乃が起きてきた。どうやら夢と現実をうとうと行き来していたらしい。

「じゃあ、僕らは殺人鬼とともに、この村に閉じ込められたわけですね」冷泉が事務的に反芻したところで、辺りに沈痛な空気が漂った。そこで一瞬気遣うような表情を見せた冷泉だったが、黙り込んだ琴乃と瑞樹の顔を順に窺った後、深見を見据えて低い声で言い放った。「おそらく犯人はこの村の人間でしょう」

 その言葉に、琴乃は信じられないというように口に両手を当てて首を二、三度横に振る。

深見は身を乗り出して、胸いっぱいに息を吸いこんだ。

「君もそう思うかい?」

 弟よ、おまえもそれを言うのかという姉からの視線が、深見の側頭部をはたく。深見は構うことなく冷泉の両の目を熟視してその言葉に耳を傾けた。

「ぬかるんで視界も悪い中、迷いなく険しい山道を逃げ切ったというのもありますし、第一ボウガンのありかを犯人は知っていた可能性が高いですよね。いつ盗まれたかにもよりますが、もしも夕食会の最中に盗まれたのならば、屋敷をうろついていてもおかしくない人間だということになりませんか」

 冷泉の意見は、深見の見解と一致していた。

「そんな、それじゃあ……」

 琴乃が嘆くのに、深見は暗い面持ちで肯き返す。

「あの時俺たちを襲うことができた人物はかなり限られる。まずこの家にいた姉さんと瑞樹、冷泉くん、小夜ちゃんは除外される。それから龍川医師と水谷さんも一緒にいたようなものだから除外。残るのが浴室にいたという源一郎氏、自室に籠っていたという藤川絹代さん、それから客間で休んでいた武藤婦人、それから――」

「朱野穢さん、ですね」と冷泉。

「そう。姿をくらました朱野の弟さん。この四人に絞られる」

 深見の説明に、冷泉は肯いた。琴乃は頬を両の掌で挟んで俯き、瑞樹は視線を伏せて何か考え込んでいるようすである。

「ただし、朱野の弟が実行犯の場合は、背後で手引きした者……共犯者がいるのは間違いないと思うんだよな。実際に見てきたが、弟さんの地下牢は個室の鍵と、階段に出るための鍵の二つによって厳重にロックされていた。あれは鍵なしで通れるものじゃない。けれども、鍵の保管については杜撰だった。朱野家に入ることができる人間であれば、誰しもが手に入れて、彼を解放することができたと思うよ」

「つまり、誰かが朱野穢を手引きして匿い、透さんを襲撃させたということですね」

「そういうことになるね」

「しかし、共犯の可能性を言い出すと、アリバイのある人間も透さん襲撃の実行犯ではないというだけで完全にシロではなくなりますね」

 冷泉が唸るのに合わせて深見も黙り込む。そこが頭の痛いところだった。

 無音に絵具を垂らすように、琴乃がぽつりと声を挙げた。

「共犯者がいたとしても、穢さんが人殺しや襲撃を実行できるものかしら」

「どういうこと?」

 深見が尋ねると、琴乃は苦々しく表情を曇らせた。

「だって、ずっと地下に閉じ込められているのでしょう。そんな穢さんに山の道順を覚える機会があるものかしら。仮に地図を書いて事前に渡していて、コレクションルームのボウガンも共犯者が盗んで渡したのだとしても、そもそも幽閉で弱っている足で走って逃げ切れるとは思いづらいじゃない」

 そう言われてみればそうだった。深見と冷泉はそれぞれに肯き返す。

「まあ、地下で鍛えていた可能性もなくはないが。こればかりは、実際に朱野弟に会ってみないことにはわからないな。姉さんは会ったことはないの?」

「ないわよ。私だけでなく、おそらく朱野家の人以外は会ったことがないんじゃないかしらね」

「そうか……」

 深見は残念そうに肩を落とした。

「まあ、それよりもっと実行が困難そうなのは武藤婦人だろうな。アリバイがないというが、視力に不安があるのだから、朱野襲撃の手段にわざわざボウガンでの狙撃は選ばないだろう。それに、いくら道順を知っていたところで山道を駆け下りるのは難しいと思うし。実行犯からは除外していいんじゃないかな」

 深見が問えば、異論なしという肯きが二つ返ってきた。

 自らを置き去りにして纏まりかけているその場の空気に動揺を示すように、瑞樹だけが揺らいだ視線を向けてくる。

「え、待ってよ。陽介くんや冷泉も、母さんまで、なに落ち着いて探偵みたいなことしているの? おかしいよ」

 瑞樹は言いながら、ますます恐慌を膨らませているようだった。目を剥き、興奮から声を震わせる甥っ子を前に、深見は何度か唇を開閉させる。

「うん。いや」と、唇を何度か巻き込んで彼は言った。「これを言うとますます動揺するかもしれないんだけどさ、トンネルを壊して俺らを閉じ込めたということはさ、まだ事件が終わっていないんじゃないかって、俺はそれが怖いんだよね」

 いい機会だと、深見は透と山で話したことを説明した。この場にいる面々を信用しているからこそのことだった。

衝撃的な見解に、言葉を失う琴乃と瑞樹だったが、冷泉だけは細く息を吐いて一つ肯き、深見の目を見つめ返してきた。

「僕も同じように思います。……そうならなければいいとは思いますけれどね」

 賛同が推進力となったのか、深見の声にも力が漲る。

「だから、俺は一刻も早く犯人候補を絞って、これ以上の被害を防ぎたいし、姉さんや君たちを守りたいんだ」

 そう言って深見は瑞樹へと視線を投げた。瑞樹はまだ消化しきれていないような曇った顔をしていたが、気持ちと主旨は伝わったようで、これ以上異を唱えることはなかった。

「動機の面はどうでしょうか。朱野兄妹が被害に遭ったこと、『呪』の血文字、加えて『朱雀像』が壊されていたとなると、朱野家への恨みを持つ人間の仕業のように思えますが」

 冷泉の視線を受けた琴乃は、そこでようやく我を取り戻したようだった。ショックから一気に疲れを感じたのだろうか、しばらく宙を眺めてから少し芯のよれたような声で言った。

「透さんと静さんが狙われたとなると……安直だけど、やっぱり財産目当てということになるのかしら。穢さんは狙われた側なのか、犯人側なのかよくわからないけれど」

「朱野と静さんがいなくなって得をするのは、朱野弟ただ一人ってことになるのかね」

深見は頭の後ろに手を組んで背もたれに体重をかけた。椅子が軋みをあげ、慌てて姿勢を正す。

 冷泉は顎に指を当てて、上目遣いに視線を投げた。

「藤川絹代さんは?」

「あの人は、籍は入れていないようだから相続権はないだろう。それこそ遺言書でもない限りは」

「遺言書ですか……」

 秘密を漏らすのは本意でなかったが、事態が事態なだけに致し方ない。昼間に透から聞いた家庭の事情を深見が掻い摘んで話すと、冷泉は考え込むように口を噤んだ。

 その様子を見比べていた琴乃が、突然何かに思い至ったように「あっ」と口を開いた。

「姉さん?」

 一度に三対の視線を受けた琴乃は逡巡の色を滲ませる。

「いえね、あくまで噂だから」

「聞かせてよ。こんな事態だもの、情報は多いに越したことはない」

 それでも少し迷っていたようだが、やがて琴乃は意を決したように膝の上の拳を解いた。

「亡くなった龍川先生の奥様から聞いた話なんだけれどね。当時十五年前と言っていたから、今からだと二十五年近く前になるのかしら。私もまだこの家に嫁いでいない頃のことよ。執事の水谷さんが雷雨の真夜中に、隠れるようにして何かを抱えて村の外へ車を走らせたことがあったんだって」

「二十五年前か。一体何を運び出したんだろう」

 天を仰いだ深見の喉笛を眺めながら、琴乃はやや首を傾げた。

「それははっきり教えてくれなかったんだけど、その頃からなんですって。源一郎さんが武藤さんの世話をかいがいしく焼くようになったのは。それまではどこか不自然というか、寧ろ白々しいくらいだったみたいよ」

「水谷さんの不可解な行動に、源一郎氏と武藤さんの関係か」

 深見の反芻に琴乃は、んー、と同意とも唸りともつかない声を漏らすと、脱力するように食卓に視線を落とした。

「今回の事件と関係があるかはわからないけれどね」

「ねえ……もう五時だよ。そろそろ休んだほうがいいんじゃない」

 疲れの滲む母の様子を案じた瑞樹が、自身も眠そうな、力の抜けた声を上げた。各々が同意し、ここで一度話を切り上げて自室として宛がわれた部屋で休む流れとなった。