この島を囲む大海原に溶けていく太陽が好きだ。
うみねこたちがこの大空を飛び回る姿が好きだ。
互いに支え合い強く生きるこの町の人が好きだ。
「今日は雲ひとつない快晴だね」
セーラー服の後ろ襟をたなびかせて堤防を歩く君が───夏希のことが好きだ。
「夏希、ちゃんと前向いて歩かないと危ないよ」
「大丈夫だよ。それに落ちたら泳いで帰るから平気!」
そう言って堤防の上を軽い足取りで歩く夏希。昔から男顔負けの強心臓を持っていた彼女との出会いは幼少期。僕が仕事で多忙な両親の都合で、この島に住んでいる祖父母に預けられた時からの付き合いだ。
「お前は魚か。泳いで帰るよりも引き揚げた方が早い」
「ははっ確かに。セーラー服、水に濡れたら重いしね」
高校3年生になった僕らは今年で出会って15年。
母親に似て清楚で華奢だが、父親に似て勇猛果敢な性格である夏希とは男友達のように一緒に過ごしてきた。
そんな彼女に恋心が芽生えたのは、中学3年生の夏。
「航も上がってきたら?風が気持ち良いよ」
「僕は良いよ。落ちても泳げないから」
「その時は私が助けてあげるよ。小学生の時みたいに」
あの日の学校の帰り道も、夏希は堤防の上を歩いていた。
両腕を水平に伸ばしてバランスを取っては、楽しそうに歩を進める彼女。
その光景をもう何年も隣で見てきたはずなのに。
「それにこの島の神様が守ってくれるよ。だから大丈夫」
その時、向日葵のような笑顔を浮かべた夏希のことを、僕は”この島の美しさの象徴”だと思った。
夕陽に照らされた横顔が、目を離せなくなるほど綺麗だと思った。穏やかに砂の上を滑る波のような澄んだ声が、耳から離れなくなった。
同時にこの儚い存在を手の届く場所に早く繋ぎ止めなければと焦りを感じた。
一瞬で恋に落ちてしまったのか、それとも気づかなかっただけで僕はすでに夏希が好きだったのか。今となれば分からない。
ただ、どちらにせよ僕が彼女に恋に落ちることは必然だったのだ。
「夏希、あのさ」
「うん。・・・あ!航のおじいちゃんの船だ」
「僕、高校卒業したらこの島を出ようと思う」
そして、この陽だまりに包まれた日常が終わってしまうことも必然だった。
「───え?どういうこと、島を出るって」
「東京の大学に行こうと思ってるんだ」
夏希の瞳が大きく開き、ガラス玉のように僕を映す。
動揺を隠せず言葉が出てこない彼女に、高校卒業を機にまた一緒に暮らさないかと両親から提案されたことを説明した。
「航は、東京に行きたいの?」
少し声が震えた彼女に、僕は応えるようにゆっくりとうなずく。
「うん。大学で勉強したいこともあるからね。先生にも相談して、いくつか志望校はもう絞ってあるんだ」
卒業したら僕は島を出るよ。そう言葉を続けた自身の声も、少し震えていた。
「どうして、私に相談してくれなかったの」
堤防の上で足を止めて僕を見下ろす彼女は、困惑と怒りが混ざり合った表情を見せる。
そして長いまつ毛に縁取られた目尻には、潮のようはきらりと光るものが見えた。
その正体が分からないほど、僕も子どもじゃない。
「だって、離れ難くなるから」
それなのに、大人ぶってひとりで決めたはずの覚悟がぐらつく。
何度目かも分からない迷いが再び生じて心臓が不規則に動く。海に浮かんでいるように、気持ちが揺れる。
「何度も何度も東京に行くと決めたのに、その度に夏希の姿が頭から離れなくなる」
連動するように視界も揺らいで、次第に夏希の姿がぼやけていく。
今、彼女がどんな顔をしているのかなんて分からない。
平静を装いたいのに、一度言葉にしてしまうと胸の奥で塞き止めていたものが、抑えきれないほどにどんどん溢れてくる。
この15年間から溢れる幾多の思い出は、僕をこの島に縛り付けるのだ。
それはまるで海底に沈む碇のように。
「これから先もずっと堤防の上を歩く君の隣を歩きたいと思うくらいに、」
そして重力に従って落ちていく碇のように、溢れた涙がこの島を濡らしていく。
「夏希のことが好きだから」
島を出て東京に行くと決めた日から、どこかでこの気持ちを伝えてしまおうと考えていた。
しかし気持ちを伝えるだけで、その先は一切考えていなかった。
夏希は高校を卒業したら家業を継ぐことが決まっている。僕も島に戻ってくると約束したところで、何年後になるかなんて分からない。
この大好きな島に、大好きな夏希と、この気持ちも、置いて行こう。
そう思っていた。
「私、怒ってる」
「ひとりで東京行きを決めたこと?・・・それは、ごめん」
「今から私が言う“約束”をしてくれたら許す」
───約束? そう尋ねたかったのに、夏希の顔を見た僕は言葉に詰まった。
怒っているはずの彼女は泣いていた。柔らかな頬をつたって流れる涙が、またこの島を濡らした。
僕はあの日のように彼女を綺麗だと思った。この美しくて綺麗な島は彼女そのものを表しているようだった。
「絶対、この島に、私の隣に帰ってくるって約束して」
「夏希の、ところに?」
「大人になっても、子どもが生まれても、おじいちゃんおばあちゃんになっても、私の隣を歩いてくれなきゃ許さない」
そして夏希は、また向日葵のような笑顔で僕を見つめた。
「私も、航が好きだよ」
「・・・何年も戻ってこれないかもしれない」
「それでも良いよ。何年でも待つから」
「僕よりもっと素敵な人が現れるかもしれないよ」
「海に浮かぶ小さな島だよ?それに、」
私たちのこの15年間なめんな、と口を膨らませる彼女。
誰かに僕たちの話を聞貸せたら、たかが高校生の口約束だろうと笑う人もいるだろう。
でも僕にとって夏希の言葉には「確かにそうだ」と納得してしまう不思議な力が宿っているような気がする。
「分かった。約束するよ」
「うん」
「必ずこの島に帰ってくる。戻ってきたら真っ先に夏希に会いに行くよ」
この涙のように、しょっぱい汐の匂いが好きだ。
この不安を吹き飛ばす向日葵の花言葉が好きだ。
未来へと背中を押してくれるこの海風が好きだ。
そしてこの腕の中に飛び込んでくる君が───夏希のことがどうしようもなく、愛おしい。
あの夏の日の、君と未来の約束を。END