その日、三日に一度の姉のお見舞いに、着替えと入院用品一式を携えて病院に来ていた。
アルコールと薬のにおい。その中で漂う独特の死臭の中、どこかですすり泣く声を耳にした。この病棟は、既にいつ死んでもおかしくない人ばかりが入院しているものだから、ときおり泊まり込んでいる遺族の部屋が開いてすれ違うことがある。
いつか、私もあの部屋のお世話になるんだろうか。不謹慎が過ぎる想像が頭をよぎり、首を振った。姉はまだ生きている。余命一年を言われた姉は、どういう理屈かその一年を過ぎても生きていた。
ただ、会いに行くたびに細くなっていくだけで。私が扉を叩いてから「お姉ちゃん」と声をかけて部屋を開けると、ベッドでコミックをぺらぺらめくって読んでいた姉を見つけた。コミックをめくる指先は乾燥勝ちで、病院から渡された保湿剤を塗りたくらないとページをめくることすらできなくなっていた。
あれだけ綺麗にしていた姉が、気のせいか前よりも小さくなっている気がした。腕が棒のように細く、夏用の薄くて小さい寝間着を着ていると、嫌でも彼女から肉が削ぎ落ちて行っているのがわかった。
……今は生きている姉も、いつか止まってしまうのかもしれない。そう思うと、どこかでぞっとした。
やがて、ようやっと姉はコミックを閉じて、私のほうに視線を寄越した。
「あら蛍。いらっしゃい」
「うん、お姉ちゃん。着替え」
「ありがとう……あら?」
姉はパチパチと長い睫毛を摺り合わせた。そして私のほうをじぃーっと見て、小首を傾げた。
「蛍、なにかいいことあった?」
「ええ? いいことってなに?」
「うーんと。いつもお母さんとお父さんに振り回されてばっかりで、蛍は疲れた顔をしているから。それがなくなったのはなんでかなと。だって蛍。友達に家のことなにか言われたら、すぐ突っかかるじゃない」
そう言われても、と私は思った。
突っかかりたくないけれど、向こうから勝手に聞いてきて、勝手に持ち上げてきて、勝手に突き落としてくるのだ。
悲劇のヒロインの妹。可哀想な子。姉妹格差。
その手の題材の映画やマンガは多いし、それに当てはめて勝手に憐憫を投げかけられたら、こちらも「違うよ」と言い続けていくうちに、自分がどんどん削れていってくたびれてしまう。その不毛さが原因でくたびれてくるのに疲れ果て、私から逃げてしまったんだ。
それを姉はなにも知らないから、こんなこと言えるんだ。また自分の中でサリサリとなにかが削れる音を聞きながら、私は「別に」とだけ答える。本当に心当たりがないのだから、姉に何度尋ねられても答えられる訳がない。
姉は私の返答に首を捻りつつ「蛍」と再び声をかけてきた。
「そういえばもうそろそろ期末テストなんでしょう? その時期くらいお母さんが替わってくれたらよかったのにね」
「夏休みシーズンに有給を取るために、お母さんも今のうちに必死で働いて稼いでいるんだよ。だからそういうことあんまり言わないで」
「そう? 勉強は楽しい?」
「あんまり。現国とか意味わかんないし、読んでいる文章も全然面白くない」
「そんなに面白くないの? 国語の教科書って、小説とか載ってて面白いと思ってたけど」
「なんか知らないけど、そんなの全然載ってないよ。契約書の説明文ばっかり読まされて、契約の仕方ばっかり教えられる」
「えー……知らなかった。今の教科書ってそういうもんなの?」
姉は私の学校生活に興味津々のようだった。私にとっては心底どうでもいいと思うようなもの……たとえば体育の日に雨だけど体育館が他の学年に借りられてしまって使えず、急遽体育館に向かう渡り廊下で体操していたとか、避難訓練の際に消防車に乗る役割をクラスでじゃんけん大会をして勝ち残った子がいるとか……それを姉は心底面白そうに聞くのだ。
他愛ない話は、少女マンガからは溢れ落ちてしまって、すくい取ってくれない。
「そっかあ……楽しそうでよかった」
「……楽しいのかな」
「うん。私は蛍が楽しそうなのがいいよ」
『楽しそう』という言葉は、姉の中では『羨ましい』『ずるい』の置き換えだ。それを感じて、私は勝手に胸がズキズキと痛んだ。
勝手なことを言わないでよ。楽しいのかどうかなんて、なんにもわかんないよ。
私はなんとか話を打ち切ろうと「お姉ちゃん、今度欲しいマンガある?」と聞いた。姉はしゃべり過ぎたことに気付いたのか、天井を見た。
「うーん……最近ね、あんまり起きてられないから、未だに買ってきてもらった少女マンガ、全部読み終わってないんだ。今度来たときにリクエストするから、そのときに言うね」
「ええ……それって、お母さんには言ってるの?」
「お母さんには言ってるよぉ。お医者さんも知ってる。だから、あんまり心配しないで。ねっ?」
そう言って姉は朗らかに笑った。私はまたしてもなにかが削られる音が聞こえても、それを聞かなかったことにして、病院を去って行った。
姉のことを嫌いになれたら、私はお見舞いをボイコットして、アルバイトしたり部活に入ったりして、普通の高校生になれたんだろうか。
湿気で制服がぺったりと体中に貼り付いて動きにくい。その体を引き摺って帰っている中、コーヒーショップの前を通り過ぎた。同じ制服の子たちは、コーヒーボトルを片手に、楽しそうに話している。
私はそれから目を逸らして、家路を急いだ。
皆違って皆いいとはどこかの詩人が言っていたけれど、皆、自分と違う人は攻撃するのだ。多様性と呼ばれている時代でだって、どこかで自分と似た人を探そうとするし、違う人は追い出してしまう。
それが嫌で逃げ出した私は、普通がよくわからないまま、今に至る。
****
梅雨の間、窓を開けたら雨水が入って作品を濡らすし、でも窓を開けないとにおいが篭もり過ぎて食事が取れず、結果として引き戸を開けっぱなしにして、弁当を食べていた。靴がペタペタして気持ち悪い。
「今日雨すごいな」
「うん……一週間雨だって天気予報で言ってた」
「最近天気予報確認してなかった」
「そっか」
私と榎本くんで他愛ない話をしながら弁当を食べる。本当だったら日本の夏は過酷が過ぎるからあまり弁当をつくりたくはないのだけれど、梅干しご飯やしそご飯など、傷みようのないものばかり用意して食べていた。
榎本くんも似たようなもので、最近の彼の弁当は寿司酢をラップにくるんでぶん回したおにぎりだ。かろうじて中に生姜が刻んであるのだから、傷みようがないだろう。
期末テストまであと数週間だから、ふたりで一生懸命ノートを交換して勉強会をしていた。ふたりで昼ご飯を食べながらノートを読んでいるとき。スマホが鳴った。私のじゃない。
榎本くんが「ごめん」とひと言言ってからスマホを取る。
「もしもし」
『もしもし、達也?』
低い女性の声は、榎本くんのお母さんだろうか。スマホだと通話内容がダダ漏れだから
、気まずくしながらノートを読んでいたら、女性は言う。
『あのね、おしめ買ってきて欲しいんだけど』
「えー……しばらく雨だって天気予報で言ってるんだけど」
『なかったらあなただって困るでしょうが。お願い、学校帰りに買ってきて』
言いたいことだけ言って、電話は唐突に切れた。途端に榎本くんは気まずそうな顔で「ごめん……」と言う。
私は慌てて首を振る。
「う、ううん。気にしないで。お姉ちゃんも緊急入院のときとか、トイレは大変だったって聞いてるし」
「うん、まあ……ばあちゃんのおむつ、メーカーが限られてるんだよな」
「そうなの?」
さすがにおむつの話は管轄外過ぎて、少しびっくりして話を聞く。それに榎本くんが頷く。
「この辺りだったらまあ、大きめのドラッグストアに行かないと売ってないんだよなあ。他のだったら肌が被れて、前にお医者さん呼んで診てもらって怒られたから……あー、ごめん。デリカシーがなくって」
「ううん。でも雨の中かさばるもの買いに行くのは大変じゃない?」
最近は大きな袋は有料の上高い。それにかさばるものを持って傘を差すのは、なかなか至難の業だ。それでも榎本くんは「いやあ」と言う。
「いいよ。どうせ濡れるの俺だけだし」
「私も一緒に行こうか?」
「ええ……」
そう言ってしまって、少しだけ「しまった」と思う。家族の介護用品を一緒に買いに行くというのは、なかなか気まずいものだろう。
ただ、私はどうしても訴えたかった。
「ふたりで傘支え合ってたら、濡れにくいかなと思って」
「ええ……悪いよ東上さんに」
「私もあんまり大きなドラッグストアに行ったことがないから、興味あるし……なんかすごく変な話だね。ごめんやっぱり」
単純に、放課後に友達と買い物に行ってみたかっただけだった。でも、人の家の介護用品の買い出しについていくのは、いくらなんでもおかしい。自分で自分のおかしさに気付き、慌てて言葉を訂正しようとしたものの。
「……わかった。放課後一緒に行く?」
「……いいの?」
「行きたいって言ったのは東上さんでしょう?」
そう言われて、少しだけ榎本くんに笑われた。普段の眠たそうな顔が、少しだけふっと崩れた瞬間、私はなにかが満たされたような気がした。
「……うん。行こう行こう」
「じゃあ放課後に」
そうこう言っている内に、予鈴が鳴った。私たちは弁当一式とノート類を片付けて、そそくさと美術室を後にする。
昔『やりたい100のこと』みたいな本を見たことがある。やってみたいことをたくさん並べて書いてみて、それを少しずつ埋めていくと、人生がちょっとだけ楽しくなるみたいなことが書いてあった。
姉のお見舞いや家事全般、なによりも友達がとにかくいない私は、少女マンガのコミックや家事をしながら流し見するドラマくらいでしか、同年代の子たちがやっていることを知らなかった。
友達とコーヒーショップに行ったり、百均の化粧品を集めたり、コンビニカフェでしゃべったり。そんなことはちっともしたことがなかった。
ドラッグストアで買い物も、やってみたくてもやったことがなかった。それができるのかと思うと、少しだけわくわくした。
アルコールと薬のにおい。その中で漂う独特の死臭の中、どこかですすり泣く声を耳にした。この病棟は、既にいつ死んでもおかしくない人ばかりが入院しているものだから、ときおり泊まり込んでいる遺族の部屋が開いてすれ違うことがある。
いつか、私もあの部屋のお世話になるんだろうか。不謹慎が過ぎる想像が頭をよぎり、首を振った。姉はまだ生きている。余命一年を言われた姉は、どういう理屈かその一年を過ぎても生きていた。
ただ、会いに行くたびに細くなっていくだけで。私が扉を叩いてから「お姉ちゃん」と声をかけて部屋を開けると、ベッドでコミックをぺらぺらめくって読んでいた姉を見つけた。コミックをめくる指先は乾燥勝ちで、病院から渡された保湿剤を塗りたくらないとページをめくることすらできなくなっていた。
あれだけ綺麗にしていた姉が、気のせいか前よりも小さくなっている気がした。腕が棒のように細く、夏用の薄くて小さい寝間着を着ていると、嫌でも彼女から肉が削ぎ落ちて行っているのがわかった。
……今は生きている姉も、いつか止まってしまうのかもしれない。そう思うと、どこかでぞっとした。
やがて、ようやっと姉はコミックを閉じて、私のほうに視線を寄越した。
「あら蛍。いらっしゃい」
「うん、お姉ちゃん。着替え」
「ありがとう……あら?」
姉はパチパチと長い睫毛を摺り合わせた。そして私のほうをじぃーっと見て、小首を傾げた。
「蛍、なにかいいことあった?」
「ええ? いいことってなに?」
「うーんと。いつもお母さんとお父さんに振り回されてばっかりで、蛍は疲れた顔をしているから。それがなくなったのはなんでかなと。だって蛍。友達に家のことなにか言われたら、すぐ突っかかるじゃない」
そう言われても、と私は思った。
突っかかりたくないけれど、向こうから勝手に聞いてきて、勝手に持ち上げてきて、勝手に突き落としてくるのだ。
悲劇のヒロインの妹。可哀想な子。姉妹格差。
その手の題材の映画やマンガは多いし、それに当てはめて勝手に憐憫を投げかけられたら、こちらも「違うよ」と言い続けていくうちに、自分がどんどん削れていってくたびれてしまう。その不毛さが原因でくたびれてくるのに疲れ果て、私から逃げてしまったんだ。
それを姉はなにも知らないから、こんなこと言えるんだ。また自分の中でサリサリとなにかが削れる音を聞きながら、私は「別に」とだけ答える。本当に心当たりがないのだから、姉に何度尋ねられても答えられる訳がない。
姉は私の返答に首を捻りつつ「蛍」と再び声をかけてきた。
「そういえばもうそろそろ期末テストなんでしょう? その時期くらいお母さんが替わってくれたらよかったのにね」
「夏休みシーズンに有給を取るために、お母さんも今のうちに必死で働いて稼いでいるんだよ。だからそういうことあんまり言わないで」
「そう? 勉強は楽しい?」
「あんまり。現国とか意味わかんないし、読んでいる文章も全然面白くない」
「そんなに面白くないの? 国語の教科書って、小説とか載ってて面白いと思ってたけど」
「なんか知らないけど、そんなの全然載ってないよ。契約書の説明文ばっかり読まされて、契約の仕方ばっかり教えられる」
「えー……知らなかった。今の教科書ってそういうもんなの?」
姉は私の学校生活に興味津々のようだった。私にとっては心底どうでもいいと思うようなもの……たとえば体育の日に雨だけど体育館が他の学年に借りられてしまって使えず、急遽体育館に向かう渡り廊下で体操していたとか、避難訓練の際に消防車に乗る役割をクラスでじゃんけん大会をして勝ち残った子がいるとか……それを姉は心底面白そうに聞くのだ。
他愛ない話は、少女マンガからは溢れ落ちてしまって、すくい取ってくれない。
「そっかあ……楽しそうでよかった」
「……楽しいのかな」
「うん。私は蛍が楽しそうなのがいいよ」
『楽しそう』という言葉は、姉の中では『羨ましい』『ずるい』の置き換えだ。それを感じて、私は勝手に胸がズキズキと痛んだ。
勝手なことを言わないでよ。楽しいのかどうかなんて、なんにもわかんないよ。
私はなんとか話を打ち切ろうと「お姉ちゃん、今度欲しいマンガある?」と聞いた。姉はしゃべり過ぎたことに気付いたのか、天井を見た。
「うーん……最近ね、あんまり起きてられないから、未だに買ってきてもらった少女マンガ、全部読み終わってないんだ。今度来たときにリクエストするから、そのときに言うね」
「ええ……それって、お母さんには言ってるの?」
「お母さんには言ってるよぉ。お医者さんも知ってる。だから、あんまり心配しないで。ねっ?」
そう言って姉は朗らかに笑った。私はまたしてもなにかが削られる音が聞こえても、それを聞かなかったことにして、病院を去って行った。
姉のことを嫌いになれたら、私はお見舞いをボイコットして、アルバイトしたり部活に入ったりして、普通の高校生になれたんだろうか。
湿気で制服がぺったりと体中に貼り付いて動きにくい。その体を引き摺って帰っている中、コーヒーショップの前を通り過ぎた。同じ制服の子たちは、コーヒーボトルを片手に、楽しそうに話している。
私はそれから目を逸らして、家路を急いだ。
皆違って皆いいとはどこかの詩人が言っていたけれど、皆、自分と違う人は攻撃するのだ。多様性と呼ばれている時代でだって、どこかで自分と似た人を探そうとするし、違う人は追い出してしまう。
それが嫌で逃げ出した私は、普通がよくわからないまま、今に至る。
****
梅雨の間、窓を開けたら雨水が入って作品を濡らすし、でも窓を開けないとにおいが篭もり過ぎて食事が取れず、結果として引き戸を開けっぱなしにして、弁当を食べていた。靴がペタペタして気持ち悪い。
「今日雨すごいな」
「うん……一週間雨だって天気予報で言ってた」
「最近天気予報確認してなかった」
「そっか」
私と榎本くんで他愛ない話をしながら弁当を食べる。本当だったら日本の夏は過酷が過ぎるからあまり弁当をつくりたくはないのだけれど、梅干しご飯やしそご飯など、傷みようのないものばかり用意して食べていた。
榎本くんも似たようなもので、最近の彼の弁当は寿司酢をラップにくるんでぶん回したおにぎりだ。かろうじて中に生姜が刻んであるのだから、傷みようがないだろう。
期末テストまであと数週間だから、ふたりで一生懸命ノートを交換して勉強会をしていた。ふたりで昼ご飯を食べながらノートを読んでいるとき。スマホが鳴った。私のじゃない。
榎本くんが「ごめん」とひと言言ってからスマホを取る。
「もしもし」
『もしもし、達也?』
低い女性の声は、榎本くんのお母さんだろうか。スマホだと通話内容がダダ漏れだから
、気まずくしながらノートを読んでいたら、女性は言う。
『あのね、おしめ買ってきて欲しいんだけど』
「えー……しばらく雨だって天気予報で言ってるんだけど」
『なかったらあなただって困るでしょうが。お願い、学校帰りに買ってきて』
言いたいことだけ言って、電話は唐突に切れた。途端に榎本くんは気まずそうな顔で「ごめん……」と言う。
私は慌てて首を振る。
「う、ううん。気にしないで。お姉ちゃんも緊急入院のときとか、トイレは大変だったって聞いてるし」
「うん、まあ……ばあちゃんのおむつ、メーカーが限られてるんだよな」
「そうなの?」
さすがにおむつの話は管轄外過ぎて、少しびっくりして話を聞く。それに榎本くんが頷く。
「この辺りだったらまあ、大きめのドラッグストアに行かないと売ってないんだよなあ。他のだったら肌が被れて、前にお医者さん呼んで診てもらって怒られたから……あー、ごめん。デリカシーがなくって」
「ううん。でも雨の中かさばるもの買いに行くのは大変じゃない?」
最近は大きな袋は有料の上高い。それにかさばるものを持って傘を差すのは、なかなか至難の業だ。それでも榎本くんは「いやあ」と言う。
「いいよ。どうせ濡れるの俺だけだし」
「私も一緒に行こうか?」
「ええ……」
そう言ってしまって、少しだけ「しまった」と思う。家族の介護用品を一緒に買いに行くというのは、なかなか気まずいものだろう。
ただ、私はどうしても訴えたかった。
「ふたりで傘支え合ってたら、濡れにくいかなと思って」
「ええ……悪いよ東上さんに」
「私もあんまり大きなドラッグストアに行ったことがないから、興味あるし……なんかすごく変な話だね。ごめんやっぱり」
単純に、放課後に友達と買い物に行ってみたかっただけだった。でも、人の家の介護用品の買い出しについていくのは、いくらなんでもおかしい。自分で自分のおかしさに気付き、慌てて言葉を訂正しようとしたものの。
「……わかった。放課後一緒に行く?」
「……いいの?」
「行きたいって言ったのは東上さんでしょう?」
そう言われて、少しだけ榎本くんに笑われた。普段の眠たそうな顔が、少しだけふっと崩れた瞬間、私はなにかが満たされたような気がした。
「……うん。行こう行こう」
「じゃあ放課後に」
そうこう言っている内に、予鈴が鳴った。私たちは弁当一式とノート類を片付けて、そそくさと美術室を後にする。
昔『やりたい100のこと』みたいな本を見たことがある。やってみたいことをたくさん並べて書いてみて、それを少しずつ埋めていくと、人生がちょっとだけ楽しくなるみたいなことが書いてあった。
姉のお見舞いや家事全般、なによりも友達がとにかくいない私は、少女マンガのコミックや家事をしながら流し見するドラマくらいでしか、同年代の子たちがやっていることを知らなかった。
友達とコーヒーショップに行ったり、百均の化粧品を集めたり、コンビニカフェでしゃべったり。そんなことはちっともしたことがなかった。
ドラッグストアで買い物も、やってみたくてもやったことがなかった。それができるのかと思うと、少しだけわくわくした。