普段だったら美術講師室に先生がいるけれど、今日は食事を摂りに行っているのか留守だった。だから私と榎本くんは、食事を食べながら世間話をすることができた。
 私の弁当は、今日も日の丸弁当だった。それを見て、榎本くんは尋ねた。

「東上さんは自分で弁当用意してるの?」
「うん……菓子パンだと、夕方まで持たないし。洗濯物が溜まってないときだったら、そこまで手抜きでもないんだけれど、洗濯物が多い日なんかはどうしても時間がなくって、ご飯を詰めて、梅干し入れるだけになっちゃうの」
「そっか。偉いね。家族は?」
「お父さんはお姉ちゃんの入院費稼ぎのため、ずぅーっと忙しそう。家に帰ってきてもご飯食べながらときどき舟漕いでる。お母さんもフルタイムで働いてるから、ずーっと大変」
「偉いね」

 そうあっさりと言ってくれるのに、私は心底ほっとする。
 私がこの手の話をすると、事情を知っている叔母さんたちすら顔をしかめるのだ。「それはさすがにおかしい」と。
 間違ってるのかもしれない。変なのかもしれない。でも、他にどうしろと?
 口だけ言わずにお金をちょうだいよ。お父さんもお母さんもボロボロにならないだけのお金をちょうだいよ。それができないんだったら、もう黙っててよ。あまりにも気の毒がっているので、そんなことを口にしたことは一度もないけれど。
 私を淡々と褒めている榎本くんは、ラップにおにぎりを包んでいた。私みたいにご飯を詰めて梅干し載せただけよりも、ちょっとだけ偉い気がする。

「おにぎり握ったの? 偉いね」
「別に……ただラップに包んで、ぶんぶん振り回せばおにぎりになるから。朝は慌ただしいから、あんまり弁当づくりに時間かけてらんないし」
「おばあさんから、目を離せない感じ?」
「寝ているときとかはそうでもないけど。食事中は絶対に目を離せないから。誤飲で簡単に肺炎になるから」
「あー……榎本くん、すごいね」

 私はそれを言うと、榎本くんは「どうして」と言いたげな顔をした。私は続ける。

「私、お姉ちゃんの世話は全部病院の人たちがしてくれるから、ずっと見てるとかしたことないもん。榎本くんは、ご家族いないときは、学校休んででも介護してるんでしょう? それはやっぱりすごいよ」
「……どうなんだろなあ。うちは、俺以外は誰もばあちゃんの面倒を見れなかったから。施設も予算考えなければあるんだけれど、ばあちゃんに合う条件、なかなか見当たらなかったから」
「条件?」
「有事の際にすぐお医者さんに診てもらえて、安全で、そこそこばあちゃんを自由にしてくれるところ」

 それはどの人も求めそうな施設の条件だったけれど、誰でも求めるからこそ、なかなか空きがないのだろう。だから榎本くん家は家族で交替しながら介護を行っている訳で。
 私は「大変だね」と言った。
 榎本くんもまたこちらに尋ねる。

「東上さんは?」
「えっ?」
「お姉さんが入院しているみたいだけど」
「あー……」

 私よりも大変そうな人がいるのに、言ってもいいものなのか。私が言葉を濁して、梅干しを崩しながら弁当を食べている中、榎本くんは淡々と言う。

「なんというか、人ってキラキラしたいものだと思う」
「キラキラ?」
「キラキラ。写真撮りたがる人なんて、すごく自分に自信があるんだなと思う。俺は、自分に特に自信はないし、写真を撮るのは好きじゃない。だからそれはすごいことなんだと思う。それに、東上さんは充分すごいよ。家族が大変だからって、それを外に愚痴らないんだから」
「……愚痴っても、勝手に同情されるからさあ。言いにくいんだ。私より大変な人ってもっといるのに、それを言ってもいいのかなって」
「大変って、そんなに比べられるもの?」
「へっ?」

 榎本くんは、淡々としている。

「うちのばあちゃんの介護は大変だけれど、ばあちゃんは別に体が動きにくいだけでボケちゃいないから、比較的楽なほうなんだと思う。でもトイレまで連れて行かないとトイレできねえし、食事だって誰かが運ばないと食べられない。でも中には暴力を振るわれたり、暴言を吐かれたりする人だっているから、まだマシ」
「でも……トイレの世話も食事も、やっぱり大変で……」
「だから、俺は東上さんの大変をあんまり知らないけど。それって比べるものじゃなくない? たとえば広告でよく、アフリカ難民に支援をっていうのあるけど、アフリカ難民といきなり比べられたって、誰だって困ると思う。俺だって困る」
「……なんというか、大変のスケールが違い過ぎて」
「うん。だから相手のほうが大変そうだからって、我慢しなくていいと思う」

 そう言い切ったあと、榎本くんはおにぎりをむしゃむしゃと食べた。
 私はポカンとしてしまった。榎本くんは、学校に来るたびに眠そうにしていた。それはきっと、介護疲れだろう。たしかにまだおばあさんと意思疎通ができるんだから、よく聞く介護に関するトラブルと比べればかなり軽度なほうなんだけれど。それでも学校を休まないといけないくらいに介護を続けてるんだったら、やっぱり大変なはずだ。
 でも彼は、寡黙なだけでいろんなことを考えている人だった。それを知ったら、なんだか安心した。
 私はご飯をひと口食べてから言ってみた。

「お姉ちゃん、成人できないんだって」
「……そんなに長いこと、闘病生活を?」
「うん。お母さんなんかは奇跡を信じて、有名なお医者さんや治療法、病院にしょっちゅう行ったけど、どうにもならなかった。免疫不全で、予防接種をしても、全然免疫ができない体質なんだってさ」
「だったら、大変だったんじゃない?」
「うん。流行病が蔓延しているときなんか、どこもかしこも手洗いうがいアルコール消毒だけれど、私は小さい頃から徹底していた。それのせいで、結構外出制限もかかってた」
「……お姉さんが病気なんだよね? 東上さんじゃなく?」
「うん。私が。どれだけうがいして手洗いしてアルコール消毒して、空気清浄機をがんがんに回してみても、それでもお姉ちゃんはどこからもらってきてしまうから、友達の家に行くのも、繁華街に行くのも禁止されてた。解禁されるようになったのは、私が家事全般を任されるようになってから」
「そっかあ……」

 榎本くんは淡々と言うのに、私はだんだん不安になってくる。自分では普通のことのつもりだったけれど、引かせてしまったかもしれない。私はおずおずと尋ねる。

「ごめん……引いた?」
「引いてないけど、東上さん家も大変だなと思って。風邪とかインフルエンザだって、予防接種しててもかかるときはかかるし、かからないときはかからないから」
「……私、そういう生活送ってたら、友達に聞かれたから答えたら、『虐待』とか『姉妹格差』とか言われちゃって。そのせいで、他の人の家族の話させにくい空気になっちゃってさ。だから逃げちゃったの」
「それは、逃げてよかったと思うけど」
「そうなの?」
「うん」

 榎本くんはやっぱり淡々と言う。そして、ときどき自分のにおいを嗅ぐ。

「……臭いって、よく言われてたから」
「え?」
「介護してたら、どうしてもその……においがつくから」

 榎本くんは言いにくそうにする。それに私は慌てる。

「私、病院通い慣れてるし、介護自体はしたことないけど、においには慣れてるから。ただ、大変なんだなと思うだけだから」
「気を遣ってる?」
「むしろ、私は榎本くんに助かってる! こういう話、すると大概嫌がられるから……同情とか、されちゃうから」
「……たしかに、同情されたり、無意味やたらと優しくされると、気持ち悪いもんね」
「うん」

 普段、クラスメイトとしゃべるとき、どことなくよそよそしく感じる。
 自業自得だとわかってはいるけれど、家の事情は言いにくい。その上家事に追われていたら、尚のこと人間関係が億劫だった。
 そこで可哀想がられても、こちらだって困ってしまう。だって、どれだけ可哀想がられても、なんの足しにもならないんだもの。ただ私の居心地が悪くなるだけで、もしかして私を追い出したいだけなのではと、疑心暗鬼に駆られる。
 その点、榎本くんとしゃべっているのは楽だった。私と彼はそれぞれの事情を全部理解できる訳ではないけれど、ただ触りの部分だけは理解できたから、大変なんだなと理解ができたから、いい加減な憐憫も同情もいらないから「大変だよね」の世間話だけを突き通すことができた。
 昼休みが終わるギリギリまで美術室で適当にしゃべり、放課後にノートを貸すことにした。

「さすがに明日は学校来れないと思うから、図書室でコピーしていい?」
「いいよ。それかスマホで写真撮る?」
「んー……本当はそれが一番だけど」

 榎本くんはむずむずしていた。

「ええっと……?」
「……俺、スマホだとすぐ割れるから持ってない。ガラケー。ガラケー出すのは、ちょっと……」
「あー……」

 そういえばどこかで言っていた。スマホだと走り回る際に割れたりするから嫌がられ、走り回る現場では未だにガラケーが現役なんだと。介護で力仕事もするだろう榎本くんからしてみれば、たしかに割れやすいスマホなんて持ってられないんだろう。

「放課後、図書室行こうか」
「東上さんは平気? 家事やってるって言ってたけど」
「今日は買い物自体はないから平気。お姉ちゃんの病院にお見舞いに行く必要もないし」
「そう……なら」

 こうして私たちは、教室へと戻っていった。
 放課後に約束をするのって、いつ振りだろう。公園だけで事足りた小学生時代だったらいざ知らず、中学時代からは放課後に遊びに行くときに挙げられる場所は専ら繁華街やコンビニ、ショッピングモールで、お母さんが金切り声を上げて怒る場所ばかりが提案されたため、断るしかなかった。
 その点図書室だったら、学校の中だから、少し居残りくらいで事足りる。おまけに学校の吸収合併のせいで比較的新しくて立派な図書室になったにもかかわらず、人があまり入らなくて寂しそうだから、うるさくない程度に寄るのだったら迷惑にならないだろう。
 放課後、私たちが歩いて図書室に向かっても、誰もなにも言わなかった。そのことがなんだか私には嬉しかった。
 当たり前なことをして、当たり前な反応をされて、当たり前なやり取りができる。
 それって、実は当たり前じゃないことを、私たちだけはよく理解している。コピー機の音を聞きながら、私たちは少しだけ中間テストの話をした。
 そろそろゴールデンウィークが差し迫り、日が照りそうな空色だった。