まだ晩秋には程遠いけれど、山のほうではちらちらと紅葉が見え隠れするようになった。
 秋の京都というのは、空気が不思議なほどに落ち着いていて、地元とは違う空気の気がする。修学旅行で京都にやってきた私たちは、地図を見ながら歩いていた。

「ここの電車で降りて……大丈夫?」
「……テレビとか本とかでは、京都ってもっと平べったい印象があったんだけど」
「平べったい?」
「うん、祇園祭とか葵祭とかのニュースでは、そういうところばっかり映ってたから。でも、ここ結構坂が多くない?」

 まだお世辞にも秋の涼やかな風とは言わない、全然優しくない日差しの下、制服が汗で貼り付き動きにくい中で坂をひいこらひいこら登るのは、だんだん息が苦しくなって汗もどっと噴き出てくる。そのたびに、私は一生懸命ペットボトルのお茶を飲んでいたものの、そろそろ空になりそうだ。
 一方の榎本くんは、日頃から家庭菜園の片付けや世話をしているせいなのか、あまり長い坂でも動じることなく歩いていた。私のペットボトルが空になりつつあるのに気付いたのか、辺りを見回した。

「ちょっと待って。もう歩いたら自販機あると思うけど。お茶はそれまで我慢できる?」
「なんとか……」
「うん。それまで頑張れ」

 私たちが長い坂を必死に歩いているのは、今は自由時間で、その間に学業祈願の神社にお参りに行こうと私が言い出したからだった。
 修学旅行のしおりで紹介されてるくらいだから、大した距離はないんだろうと高を括っていたものの、どこの場所もしおりに書いていた時間よりもよっぽど長いこと歩かないと駄目だったし、坂がつらいというのはどこにも書いてなかった。詐欺を働かれたような気分になりながら、私たちは歩いていた。
 京都は外見に気を遣っているのか、コンビニすらもなんとはなしに落ち着いた雰囲気がする。看板や表札をテカテカさせてはいけないというのが働いているのかもしれない。
 ひいこらひいこら言いながら歩いていたら、だんだん鳥居が見えてきた。朱色に塗られたものではなく、大きな石の鳥居だ。
 神社の境内には甘酒屋さんが出ており、他の飲み物も買えそうだった。

「あそこで飲んでおく? 座れるし」
「う……うん……」

 ヘロヘロと榎本くんについていこうとしたら、榎本くんは黙って自分の手をズボンのお尻で拭くと、私に手を差し出してきた。

「手を引いて歩こうか?」
「ええっと」
「東上さん、ものすごく疲れてるみたいだから、目を離したら境内でこけそう。砂利が敷いてあるから痛いよ?」
「う……うん。お願いします」

 私は手を大人しく引かれることにした。大きくって分厚い手だ。おばあさまを介護していたからだろうか。同年代の男子の手はどんなものか、フォークダンスをしていてもあまり思い出せないものの、同年代の人間からしてみるとかなり荒れているようだと思う。
 私は手を引かれたまま尋ねる。

「榎本くん、ハンドクリームいる?」
「えっ? 手、汚かった?」
「というよりも、手が荒れてたら、手が切れやすくなって痛いから。私も家事をたくさんやってたら、勝手に皮膚が弱くなって、勝手に切れたりするから。料理中に血を付けたもの出す訳にはいかないから、ハンドクリーム塗って、手荒れを抑えておくの。多分これ、たくさん介護をしたり、庭の手入れをしたりして荒れたんでしょう?」

 私の説明に納得したのか、榎本くんは振り返った。少しだけ気まずそうな、照れくさがっているような顔をしていた。

「……うん。でもハンドクリームってなにを買えばいいのか」
「匂いがあんまりないのだって売ってるよ。京都だったら有名メーカーあるし、お土産屋さんにも入ってるんじゃないかな」

 そうこう言い合っている内に、甘酒屋さんに辿り着いた。
 私たちが手を繋いで歩いてきたのに、店の人は微笑ましそうに目を細めた。それに私たちは勝手に居たたまれなくなる。

「いらっしゃいませ。なにになさりますか?」
「麦茶をふたつください」
「かしこまりました」

 ふたりでやっと座れる場所に到着しつつ、届いた麦茶を飲んだ。
 この辺りは自由時間でも、あんまりうちの学校の修学旅行生は来ていない。知らない派手なグループが、鳥居の前でパシャパシャ記念撮影をしているのを見かけたけれど、それだけだ。
 学問祈願のせいなのか、大学生らしきグループや学者らしきグループが参拝しようとしているのはチラチラ見える。京都は年がら年中観光シーズンのはずなのに、人がまばらなのはラッキーなのか、今日がたまたまこうなのか。
 喉を麦茶で湿らせたら、少し元気が沸いた。私たちは「ごちそうさまです」と店の人に言い残してから、参拝しに拝殿に向かった。
 ここは観光対策か、電子マネーでも参拝可能になっていたし、【五円以下の賽銭はご遠慮願います】と書いてあるのが目に入った。最近は神社もなにかと大変らしい。
 私たちは百円玉を取り出して、それを賽銭箱にぽいっと入れると、鈴を鳴らして手を叩いた。

「……終わった?」
「うん」

 最後にお守りを買いに行く際、私は学業祈願のお守りをふたつ買い、ひとつを榎本くんに渡した。それに榎本くんは慌てたように首を振った。

「お金返すよ」
「いいよ。これは私が好きで渡してるから」
「いや、悪いよ」
「だって。同じ大学に行きたいから」

 私の言葉に、榎本くんはボッと顔を赤く火照らせたあと、小さく掠れた声で「はい……」と答えて、やっと受け取ってくれた。
 こうして私たちは、集合場所へと歩きはじめた。先は登るのはしんどかったものの、下るのは楽だ。

「東上さん、栄養学勉強したいんだね」
「うん。榎本くんの大学にあったから、ちょうどいいかなと思って。すごく大変みたいだけどね、理系の勉強はあんまり得意じゃないから、勉強しないと」
「そっかあ。俺も頑張らないとなあ」

 お父さんと話をして、そのあとお母さんとも話をして、私の進路は決まった。
 栄養士の資格を取ったら、就職にも有利だろうということで、ふたり揃ってふたつ返事で了承してくれた。了承してくれたのはいいものの、栄養士の資格の勉強ができて、うちの予算で通えそうな大学が本当に公立大学に集中しているのが痛かった。
 公立大学に通いたいとなったら、本当だったら予備校に通いながら勉強しないといけないけれど、当然ながらうちにそんな予算はなく、「頑張らなきゃ」と言いながら頑張るしかなかった。
 それは榎本くんも同じらしい。おばあさまの入った施設のお金がかなりつらいらしく、彼の場合も専門学校や私立大は最初から学費の都合で無理だった。公立大だって本当はそこまで安くはないものの、専門学校や私立大よりはマシということで、こうして私と一緒に学業祈願の参拝をしていたのだ。
 ふいに風が吹いた。日差しは夏とどこが違うのかがわからないものの、風だけは間違いなく秋で、京都の風は私たちの住む町よりも滑らかで心地いい。

「……私、榎本くんに会わなかったら、多分自分は不幸なんだって、不幸自慢をしていたと思う」
「そうなの?」

 榎本くんに聞かれて、私は頷いた。

「うん。お父さんもお母さんも、おばあちゃんやおじいちゃんも、お姉ちゃんが取っちゃったんだって、そう思い込んでたから。たしかにそうなのかもしれないけれど、それだけじゃなかったなって、榎本くんがいなかったらわからなかった」
「そっか」

 たしかにいいことばかりじゃなかった。でも、悪いことばかりじゃなかった。
 叔母さんや徹くん、満美ちゃんたちみたいに、心配してくれている人の声が届かなかった。中学時代の友達も心配はしてくれてたんだろう。ただ、今も昔も残念ながら、それは余計なお世話だと思う気持ちに代わりはない。
 だから私に似たような境遇の榎本くんに会わなかったら、やっぱり自分を肯定できなかったんだ。
 成人できない余命わずかな姉の妹。そんなもの、アイデンティティになんてならないのに、姉が死んで悲しくてやりきれなくなったとき、榎本くんのことを思い出さなかったら、それに気付くことができなかった。
 榎本くんはどうだったんだろう。私は私の話しかしていない。
 彼の家のこと。彼のおばあさまのこと。彼の家庭菜園のこと。いろいろ知っているはずなのに、彼の感情までは言ってくれないとわからない。
 榎本くんはふいに私の手を取った。ザラザラしているから、どこかのお土産屋さんでハンドクリームを買わないといけない。

「俺も東上さんに会えてよかった。誰だっていつかはそうなるのかもしれないのに、自分の身に降りかからないと、不幸ってある日突然やってくるなんて、誰もわからないもんなあ」
「うん。そうだね」
「俺たち、多分運がよかったんだよ。どこかで消費されて消耗されてポイ捨てされなくってさ」
「うん……本当にそうだ」

 人の不幸は蜜の味で、私たちの話は、誰かに語ったらたちまち「可哀想」だと言われてしまうだろう。それが嫌だからこそ、私たちは息を潜めてじっとしていた。
 嵐が過ぎ去るのを、ずっと待っていた。
 でも、人生ってそれだけで終わらせるにはあまりにももったいないんだ。
 私たちの不幸が終わったあとも、私たちの人生は終わらないのに、どうして誰かに可哀想だからって同情されて、同情心を持てた人たちを満足させないといけないのか。

「ハンドクリーム買いに行こうか。榎本くんはアレルギーとかなかったよね?」
「ええ? なにか痒くなるとか、花粉症とかも特にねえけど」
「よかった。多分京都のお土産屋さんだったら、京都の老舗メーカーのハンドクリームが売ってると思うから、それを探そうよ」
「そういうのって、皆詳しいものなの?」
「単純にそのメーカーにお世話になってる人が多いって話だよ」

 私たちは、手を繋いで駅に向かいながら、お土産屋さんをチェックすることに励むことにした。

 たったひとりだったら、嵐の前に折れていたかもしれない。でも、私は榎本くんに会えたし、榎本くんは私を見つけた。
 手を繋ぐ温度はまだこそばゆいけれど、それを繋いでいけたら。きっともう怖いものはない。
 人生はまだまだ続く。私たちの人生は、余生なんかじゃない。

<了>